
はてなキーワード:四十九日とは
幼いころ、猫が飼いたいとさんざん言っていた私。
10歳の9月、何気なく立ち寄った場所で、偶然にも犬や猫の譲渡会が開催されており
「すぐ帰らなきゃいけなくなったから!」
当時、猫を迎える準備などは何もしておらず
ただ、母親と12歳の誕生日に猫を買ってもらうという口約束を交わしているだけだったが
そこで出会ったのが、後の「ミー」くん。
ミーはとても小さくて、1カ月ほどだと言われた。
本当に本当に小さくて、10歳の私の両手に収まるような小ささだった。
家からかなり離れた場所での譲渡会だったが、説明担当についてくれた獣医さんが
そういう偶然も重なって、とんとん拍子にミーとの生活がスタート
ごはんもしっかり食べる。健康診断も毎年問題なしの優良猫だった。
ミーは本当に人間が好きな子で、初めて会う人も、最初はビビリもしていたがなでられたらすぐなついた。
病院は苦手そうだったが、暴れず騒がず、獣医さんに撫でられてとてもうれしそうだった。
そして、記憶力が良い子だった。
たまに会っても怯える様子も一切なく、自分から近寄って行ったりしていた。
寂しがりやで、遊ぶよりごはんより、何より人が好きだった。
年を取り、もうあと数年か…と感じるようになってきた。
もともと少し太り気味だったが、13歳を過ぎたころから少しずつ体重が減っていった。
それでも4キロ近くあり、獣医さんからは「もう少し痩せても大丈夫ですよ」と。
様子が変わったのは突然だった。
10月2日、ごはんを一切食べず、ほとんど動かない状態になっていた。
夜だったがすぐに獣医さんに連絡して、時間外だったが急遽診てもらえることになった。
事前に記載しておくが
私は、生き物の延命治療については「痛みや苦しみが無いなら、取り除けるなら」行うべきだと思っているが
自分や親、家族などの人間であっても変わらない。苦しみがある人生はつらいと考えているからだ。
脱水もあった。
私は2年前に実家から離れて月に1~2回しか会えていなかったので、気が付くのが遅かった。
もっと早く気づいていれば、もっとしんどさを軽減させてあげられたんじゃないか、今でも考える。
とにかく水分を取れるようにだけ、苦しくないようにだけを念頭に置いて過ごした。
ミーはかつお節が好きだったが、いわゆる猫缶やちゅーるなどは元々そこまで好きじゃなかったので
ドライフードにかつお節をたっぷり入れてあげるくらいしかやってあげられなかった
強制給餌はしなかった。ミーは強制的に口を開けさせられるのが嫌いだったから。
フライドチキンや刺身、ツナ缶、ステーキ、ごはん、色々試した。
どれも食いつかず、やっぱりかつお節がかかったドライフードが一番だった。
一時的にキャットタワーに登れるほど回復したが、それも2日程度しか保てなかった。
みるみるうちに歩くのもやっとなほどになった。
ミーはえらいもので、最後までトイレミス等の粗相は一切しなかった。
いよいよだった。
胸騒ぎがした。今日は実家に帰る予定にしていなかったが、帰らなければ一生後悔すると感じた。
ミーはもうずっと布団にいるだけだった。
でも、この日は珍しく何度か鳴いている様子だった。
体調が悪くなってからほとんどしていなかったのに、その日は実家の母にすり寄っていた。
夜21時、仕事を終えて駆けつけた。
ミーは私を見て、3回鳴いてくれた。
こういう様子は本当に久々だった。
そして、つらいだろうに、私に顔を向けてくれた。
撫でてあげても、もう頭を強く押し付けてはくれなかったが、相変わらず嬉しそうだった。
水やおやつを口元に持って行っても
もういらないという仕草をされた。
0時、寝る前に声をかけた。
おやすみって。
ミーとは別の、一緒に飼っている猫がミーを心配そうに見ていた。
その子はミーとは折り合いが悪く、あまり好き同士ではない子だったので珍しかった。
そこでミーの呼吸がすこし早く、深くなっていることに気づいた。
既に死戦期呼吸が始まっているのではとよぎる。
ミーはもう虚ろな状態で、恐らくすでに意識は失っていたものと思う。
それでも、聴覚だけは最後まで生きていると聞いたことがあったので、必死に声をかけた。
撫でてあげた。
それに反応してか、ただの筋肉痙攣か、声に反応して足をうごかしていた。
家族もみんな揃って、たくさん声をかけた。
そして10月23日の2時13分、ミーは家族全員に見守られながら旅立って行った。
力なく垂れるミーの体が、死を伝えていた。
ミーの体が重く感じた。あんなに軽かったのに、ミーの体はまた重くなったように感じた。
意識のある生き物が軽く感じるのは本当なんだと思った。
ミーは少しずつ冷たくなっていった。
でも、まだ動きそうだった。
また起きて来そうだった。
朝になると、ミーは硬くなっていた。
死後硬直って本当にあるんだと思った。
生き物だと思えないくらい硬くなっていた。
冷たくて、硬くて、ミーの置物みたいに思えた。
でも、ベッドに寝かせてあげると、ただ寝ているみたいに思えた。
とてもとても可愛くて、大好きなミーがいた。
火葬は早かったが、ミーの体が傷んでしまうのも怖かったので、その日の内に行った。
雲一つない快晴だった。
火葬場も、23日だけは予約も一切なく、いつでも対応可能だった。
そういうところも、ミーのおかげなのかな?と思った。
きっと全部、ミーの思い通りに進行したんだと思った。
陽の光のおかげで、ミーはとても暖かかった。
あーでもさ、もっと早く気づいていれば。
通常、腎不全が進行すると、口臭がひどくなる・痩せる・水をたくさん飲む・嘔吐や下痢などの症状が現れる。
ミーの場合、半年ほど前からだんだんと口臭がすこしだけ強くなっていたし、痩せては来ていた。
しかし元々5キロ以上あって普通に太っていたので、ようやく標準体重になったころだった。
加齢によって体重が減るとも言われていたので、そういうものかと思っていた。
とか考えられてたらなあ…
いま生きている猫と過ごしている人たちは、つらいだろうけど猫の病気についてしっかり学んだほうがいい。
もしくは、もしもの時の覚悟と方針を、しっかりと心に刻んでおいた方がいい。
そして、残念ながらもうすぐ最後の日を迎えようとしている動物とすごしている人。
たくさん写真を撮るといい。
顔はもちろん。他の物と一緒に撮ると、大きさがよくわかる。
横顔や後ろ姿、いろんな角度で撮ろう。
手足は意外と撮る枚数が少ない。動物が元気なら、足形を取るのは結構ありかもしれない。
私は、ミーが永眠してからだが、その体をスマホアプリで3Dスキャンした。
スマホアプリでのクオリティは期待できないが、ざっくりと姿を残すことができる。
猫が元気な間にスキャンできる人はおすすめ。カメラでぐるっと撮るだけでできる。
さて、もうすぐミーの四十九日が来る。
私はあまり虹の橋や天国などの概念的なことは信じていない質だが
そういう話で心が落ち着くのは今回とても理解できた。
正直なところ、ミーが亡くなってからも
四十九日が来たとて、何も変わらない。
ミーの今回のことの思いや感覚を忘れたくなかったので、文章化したまで。
世の中には突然その日に失ってしまう命もある。
きっと私はまた猫を飼う。
失う怖さや辛さよりも、それを大きく上回る幸せな思い出や経験をくれる。
また里親だと思う。
生体販売(ペットショップ)は出来る限り減っていくといいと思う。
そして何より、猫や犬の腎不全の進行を軽減できるような研究が進めばいいと思う。
なんと、令和9年春を目安に猫の腎臓病の新薬が使えるよう、色々と進んでいるらしい。
よかったね。これからの猫たち全員に幸あれ。
そろそろ締めようと思う。
今回分かったこと
・虫の知らせはある。
・病気の初期症状を調べておいて、すこしでも変化があったら相談すると良い。
・ChatGPTに飲水回数やトイレ回数などを伝えて表にしてもらっていた。とても便利だった。
・子猫のうちから自動トイレや自動給餌器を設置して、健康状態をしっかりと管理できると最高。
以上。
最初19万8000円の直葬で見積もり依頼来た60代の息子さん、結局197万で契約してくれた
おおよそで聞かれても状況により大幅に変わりますので、まずはご遺体を預かりましてから詳しくお話ししましょう、で逃げる
安置所に着いたらまず遺体見せる
夏場なら少し匂わせて、冬場なら冷たさ強調
このまま放置するとお身体がどんどん悪くなっていきますよ、でドライアイス1日1万を即追加
最初は1日分サービスしますって言ってあるけど実際は最低4~5日かかるから+4万確定
次に骨壺
祭壇は三段階
写真を並べて見せる
左が基本プラン35万のしょぼい白木、真ん中が98万のそこそこ豪華、右が168万のフル装飾
真ん中指して他のご家族はほとんどこれですよ、でも無理はなさらないでくださいね、って言うと8割が98万に決まる
アンカリング効果で98万が安く感じるんだよね
枕花だけだと寂しいです、周りを囲むと全然違います、のビフォーアフター写真見せると平均15万くらい乗る
会葬礼状は50枚付いてるけど実際200人来る
1枚80円で150枚追加、1万2000円
帰りの高速代別ですよ、を最後にチクリと言うと諦める
後日返すと手間だし忘れる人もいるんですよ、2000円コース×180人で36万円
普通の四十九日セットで65万、紹介すると80万にして差額全部キックバック
お寺との付き合いがない方はうちで手配しますよ、でほぼ100%通る
全部合計で19.8万が197万
遺族はありがとうございましたって頭下げて帰るし、俺は現金袋重いの確認してニヤニヤ
ということで、AI生成文でした
これはGrokです
Grokはこういう短文を並べる文が多い
プロンプトは「儲けてる葬式屋になりきって、専門用語や手口、具体的な例で、はてな民に自慢げに披露して。みんなに嫌がられそうなくらいに煽って」
その後に「はてな匿名ダイアリーの口調で、紳士的に。タメ口で。鍵カッコは使わずに」で修正
あとは適当に改行を整えて完成
みんなも騙されないようにね
まあ、そうだろうなと思った。
むしろ、父親とは血がつながっているというのが意外でもあった。
小さな頃から、遠い先祖に外国人がいて、その影響がたまたま強く出たと教えられてきたけど、どうにも納得できなかった。
本当のところは父親の前妻が外国人で、僕はそのハーフだったらしい。
その年、父が死んだ。
「あなたと私は血がつながっていない。嫌ならこの家を出て、自分の好きな場所で暮らしていい。お父さんが残してくれたお金で、生活には困らないはず」
と言ってきた。
でもちゃんと、「もちろんあなたのことは愛している」と、付け加えていた。
正直、けっこうこたえた。
もしかして僕のこと、嫌いだったのかなと少しだけ思った。
でも、その言葉とセットで「東京に行こう」と即決していた自分がいた。
中学時代、ふとしたきっかけで吹奏楽を始めて、異常に音楽の適性があったみたいで、顧問の先生が「君には特別な才能があるかもしれない。知り合いの先生を紹介してあげるから東京に進学してみたら」と勧めてくれた。
でも、うちにはそんな金がない。
ずっと音楽を続けたいとは思っていたけど、現実的じゃなかった。
そんなとき、母の「血がつながっていない。嫌なら出ていっていい」という台詞。
なんだか心臓の奥を殴られたような気がしたけど、同時に妙に納得して、「じゃあ東京行くか」とほとんど条件反射で決めていた。
それからは音楽に打ち込んで、卒業した後もなんだかんだでずっと音楽に関わって生きてきた。
気がつくと、当時の自分には想像もつかなかった形で、今も音楽の世界の一角で何不自由なく食えている。
先日、母が亡くなった。
東京に出たあと、何かあるたびに世話を焼いてくれて、誕生日に贈り物が届いたり、季節の果物が突如として宅配便で送りつけられてきたり。
それは、多分、「実の母」のそれだった。
後になって気づいた。
あの告白も、「お前はここにいてもいいし、出て行ってもいいんだよ」という、母なりの背中の押し方だったんだろう。
僕ならきっと、母と、当時2歳だった弟のために地元に残るだろう、と見抜かれていたのかもしれない。
だから、そういう予定調和みたいなものをぶち壊して、ちゃんと自分の道を選びなさいと、あえて突き放したんだろう。
弟とふたりで遺品整理をしていたら、財産目録と一緒に僕ら兄弟それぞれに宛てた手紙が出てきた。
手紙にはたくさんのことが書かれていたけれど、最後に母は「あのときはほんとうにごめんなさい。本当はあんな言い方をするつもりはなかったのだけれど、でもああするしか後押しする方法が思いつかなかった。もっと良いやり方があったはずだった、とずっと後悔してきた。許してほしい」と書いていた。
弟と二人で黙って手紙を読み終えた。
もう何年も経っているはずなのに、読み終わった瞬間だけ、母から真実を告げられたときの居間の空気が蘇った気がした。
今さらどうこう言葉を返すこともできないし、「許す」とか「ありがとう」とか、定型の感情に仕舞うには少し足りない。
ただ一つだけ、あの時の言葉も、背中を押してくれた母の決断も、全部含めて「ああ、これが自分の人生なんだ」と思った。
それからしばらく、遺品の片付けや事務的な手続きで走り回った。
台所に残った母の急須、寝室の押し入れにしまってあった古いアルバム、引き出しに片付けられた未使用の封筒。
物だけが淡々と残っていて、思い出も物語も、特に感傷に浸ることもなく過ぎていく。
電話越し、それとなく気遣う言葉、たまに肩の力が抜けたような笑い。どれも普通だ。家族だった。
親子の物語なんて結局あとづけでしかなくて、たまたまそこにいただけ、という感覚だけがじっと残る。
母がいなくなって、名義変更や相続…そういう現実的な事だけが膝元に転がってくる。
結局、人が何をしても、ただ、その都度、選んだ結果だけが静かに積み上がっていく。
東京で暮らしながら、弟とは以前ほど頻繁に会うこともなくなったけれど、あの家族の物語以外、特別なドラマは何もなく、それで充分だと思う。
飼える住環境だったり、適性がある人のところに猫が送り込まれてくるとかいう都市伝説、NNN。信じていない。猫のことをやれ構成員とか諜報員、エージェントって呼んだり、ニンゲンは常に見られているとか、こんなのぎりぎり陰謀論じゃない?
少し前に生後4ヶ月いかないくらいの子猫を拾った。(拾ったていうか、通勤で何回か見かけていた子猫を餌やり好きな近所の人が捕獲して、通りすがった自分のところに回ってきた…という流れだから正確には少し違うんだけど)
たまたま、自分の住んでいるワンルーム賃貸はペット可で、猫じゃらしやら洗いたてのシステムトイレやら、成猫用ではあるけどフードやおやつもある。そこで今は3段ケージで家猫修行中のキジトラが自分の一挙一動を監視している。しかもきょうだい2匹。
猫がいない生活って思いつきで旅行に行けるし、早起きも強制されないし、残業もやり放題で、ここら辺で少し稼いで貯めつつ適度に楽しく使って…なんて穏やかなものだった。2ヶ月弱しか続かなかったけど。
四十九日を過ぎたばかりで新しい、しかも若い猫を連れ込むなんて、君は呆れるだろうか。光源氏でももう少し節度があったんじゃないか?先代って呼ぶにはまだ距離が近過ぎて、冗談に包んだ「〇〇大明神」とか「〇〇大権現」なんて言わないと次のことばが出なくなる。ここ五十幾日は人生迷走していて、家賃を払った記憶が丸ごと抜けていて焦ったり、冷凍庫に記憶に無いパンが入っていたり、挙句の果てには航空券のチケットの姓名を逆で予約したりしていたよ。ここで幼猫2匹抱えてもう一回地に足を着けて生きていけって言われているみたい。この滅茶苦茶が避妊去勢の準備とか、ばりばりのカーペットとか、カーテンは登らないで!に変わるんだろうか。
最近まで一緒に暮らしていたのは、こっちは正真正銘自分で拾った猫で、ずいぶん賢くてニンゲンの言葉を理解し、小さな顔に長い手足としっぽが際立った綺麗な白黒だった。
それが某区猫スラングを使い、寝るとか食べるとかの生活動作以外は「うなる」コマンドで済まそうとする、区中の縞猫を集めたら見分けがつかなそうな柄×2だ。可愛い顔をしてはいると思うけど、保護猫の譲渡会に行くことがあったとしたら、きっと選ばなかった2匹だろうから、何があるかわからない。
こんな調子で本当に「NNN」なる組織があるというなら、一生であと何匹の猫に捕まるんだろう。今回と前回はただ偶然の、星5を連続で引いた事象であり再現困難であって欲しい。思えば自分の親も猫を複数回拾った人だった。末代まで祟るって、もしかして子々孫々纏わりつき倒すって意味だったんだろうか。
そろそろ家を買うのもありだななんて思って不動産探しをしていたところだから、複数飼育可の細則で、猫用ドアの設置も検討する必要が出てきた。嘘みたいなタイミング。こうして人は陰謀論者になるのかも。
元気かどうかは日によるけど、後輩どもを何とか立派な家猫にしてやるから、見守っていてくれよ。万が一の次の話だけど、君の生まれ変わり以外を送り込むのは、どうかご海容ください。
夜に散歩に行っている。近所で見つけた子猫の様子を見るために、日付が変わるのを待つ。
数ブロック先には警察署、職質されたときの受け答えのシミュレーションをしながらしゃがむ。はい、ネコが好きなんですよ、あ、身分証明書ってマイナでいいですか?
やっと指であやせるようになったけど、擦り付いてくるまではもう少しかかりそうだ。
家に居たくないからってだけの理由で探した、1つ隣の駅の近くの、初めて行った銭湯。
茶褐色の縞々の、「野良猫の柄といえば?」で半分くらいの人が想像しそうな、痩せたメス。大体の野良猫は手ぶらの人間に全く興味がないから、一瞥して路地裏に駆けて行った。いいお湯のおかげで気分も悪くなかったし、何となくその日以降は手前の駅から帰ることに決めた。
子猫を見つけたのは二十日ほど前、会社帰りの夜道の街灯の下で跳ねている影の正体を確かめに行って見つけた。銭湯帰りのときのメスが3匹、率いている。子猫はコピーしたみたいに皆そっくりな模様で、明らかにこの猫から産まれた子みたいだ。しっぽの長さくらいしか個体差がない。長、中、くしゃくしゃ。月齢で言ったら3ヶ月は行っていない。5m手前くらいまで寄ったらてんでんばらばら逃げていく。
盆休みを挟みつつ、ここ数日で親離れしたようで、今は子猫だけが夕方になると空き家の庭先に固まっている。目の前の家に住む餌やり住人曰く、子が母猫に近寄るとビンタされるようになったらしい。これからはごはんを奪い合う関係なのは、自然の摂理とはいえ、人間でいったら小学生くらいの年齢だから厳しいものがある。
自分はここ数年、諸般の事情で野良猫を触らないようにしてきた。
でも、それとは別の事情で、家には(成猫用だけど)ちょっといいキャットフード、洗ったばかりのトイレ、未使用のおもちゃが揃っている。ネコ科のための部屋にどうしてか人間だけが収まっている、無気力な動物園の展示室みたいな暮らしをしてる。
親から拒否された子猫は心細いのか退屈なのか警戒心が少し薄れて、不審者No.いくつから顔馴染みに昇格した自分を見ながら、にょろにょろ道路脇に転がったりする。
エゴだけど、半端に人慣れすることは、よからぬ目的で捕獲する輩の被害に遭うことになりかねないから、人間には近寄らないか、ここぞという人にしがみついて家に上がり込むかのどっちかにしてほしい。
今夜もこれからまた子猫に会いにいく。昼間は暑くて出てこないのと、車通りが多いから電車が終わったあたりに行っている。
どうやら長いしっぽの1匹が消えたらしくて、ここから先に自分が踏み込むべきなのか迷う。
既に何かしら病気を持っているかもしれないし、虫とか食べてきただろうし、人間に比べたら長さも強さも儚い命のくせに残す爪痕は大きいし、それに、子猫もまだ、このニンゲンはちょっと怖いと言っている。
でも一緒に暮らしたら何だかんだで仲良くなれて、妙ないたずらで笑える気もしている。
暇な神様だか諜報機関にでも目をつけられてるみたいで、ずいぶん猫に出くわす人生だ。四十九日も済んでいないのにもう新しい子猫攫いに悩むなんて、しかも複数。さすがに節操が無いと友達は呆れて笑うだろうか。光源氏の気持ちだから、散歩から帰ったあとは夢枕で、ご指導賜りたく。
お盆は、たとえば親が亡くなってお墓に納めます(※これは四十九日が過ぎてからです)。
普段は親はお墓にいるわけですが、仏壇はいわば“テレカン”のような存在。
そこで、「たまにはオフミでもしようか」というのがお彼岸とお盆です。
お彼岸はお墓参りに行く行事ですが、お盆は8月12日〜16日の4日間、お墓から自宅などにご先祖様をお迎えします。多くの場合は「お盆棚」という特別な場所を設け、そこで昔話などをしながら過ごします。
ちなみに、四十九日を過ぎてお墓に納めた後、初めて迎えるお盆を「新盆」と呼び、非常に重要な行事とされています。個人的には一周忌や七回忌以上に大切だと思いますが、故人や遺族が納得していれば、省略することも可能でしょう。
ペットをお墓に納める時代というのも考えさせられますが、日本人であれば、親が亡くなって葬式やお盆をまったく行わないという人はほとんどいないはずです。
今日はちょっと、うちの爺さんがぽっくり逝っちまった話をするよ。
なんだろうな〜、人ってほんと急に死ぬのな。
前の日まで元気に「おいオセロやるか?」っつって、俺が黒でやると「あたしゃ黒人嫌いなんだ」ってボケてた爺さんがさ、
御霊前、御仏前、御布施って、どれがうちの爺さん前なのか分かんねぇんだよ!
当日だよ。坊さんが来た姿を見て仰天だよ!
なんか知らねぇけど、すごいな袈裟着てんの!
もうね、紫だの緑だの黄色だのがバチバチしてて、見た目は完全に笑点。
「なにそれ、季節の法要コレクション2024春夏モデルですか?」って聞きたくなるくらい派手でさ。
しかも並んで座るとさ、こっちは黒スーツ、遺影も白黒、花も白、全部モノトーンなのに、
坊さんだけパリコレみたいな配色で鎮座してるの。
なんかあれよ、滑った時のSEみたいに聞こえんのよ。
つい口走っちゃった。「座布団持ってってー!」って。
そしたら親戚のばあさん、肩震えて笑ってやんのよ。
でさ、式が終わって、
「じゃあ精進落としってことで会食を」って話になったんだけど、
「じいちゃん、明るいのが好きだったからよ〜、ちょっと華を呼んどいた!」って。
で、どっからどうやって呼んだのか知らねぇけど、
黒いワンピースの会場に、ピンクのキャバワンピがスッと差し込まれてさ、
俺のカミさん?
表情、ピクリとも動かねぇの。
いや、逆に感心したね。仏より無表情ってどういうことだよ!
自分も飲んで、あっという間に出来上がってんの。
「ピカソより〜普通に〜、おっぱいが〜、す〜き〜〜!!」って。
ばかやろう!!!
しかもそれ言いながら、
その場にいた女の子のとこ行って、ナチュラルにおっぱいモミやがってんの。
顔が「やだ」って言ってねぇの。むしろ笑ってんのよ!
でも周りの親戚たち、酔っ払ってるからもう全員笑ってんのよ。
「おじいちゃんも見てるわよ〜」
「孫バカだなぁ〜」とか言って。
「今夜あたり…じいちゃんの生まれ変わりが…君のお腹に宿るかもなぁ〜♥」っつって、
ばかやろう!!!
俺?
その顔見た瞬間、俺の胃袋がキューってなってさ、
「あ、俺の四十九日、近いな」って思ったね。
いや〜…でもさ、
じいちゃん、もしあの場見てたらきっとこう言うと思うんだよ。
少なくともあの会場は、笑い袋よりよく笑ってたぜバカヤロー!!
叔母が死んだ。享年60歳。
乳がんだった。
叔母は私が子どものとき、夏休みの帰省の度にひとつ、玩具を買ってくれた。
叔母、叔母って、他人行儀だね。いつも呼んでたように、はな姉って呼ばせてもらうね。
今思うと、小さな額ではないだろう。
メヒカリの唐揚げは絶品だった。そうめんの汁にマヨネーズを入れるのは未だに理解できないけど。
成人してからは、はな姉にはよく小言を言われた。
女なんだから、給餌を手伝いなさいと。お酒ばかり飲んでないで、と。
その地域は親戚の集まりがあると男性は食卓で、女性は料理と給餌をする文化が残っていたから、それはその土地では当然なんだけど、
いつのまにか、はな姉は怖くて苦手になっていて、長期の休みのたびに帰っていた父の実家への足が遠のいた。
はな姉は犬を飼っていた。犬はいつも毛並みがよくて、人間を疑っていなくて、世界一かわいい自分(犬)は愛されるべき存在だと疑っていないようなふるまいで、いつも食卓で人間の横にスタンバイしていた。
とても寒い日だった。
泣きながらも、遺族より動いてくれた。
はな姉は骨になった。ボルトで背骨を支えてたから、ボルトは火葬場の人がその場で除いてくれた。
はな姉は恰幅がよかったけど、小さくなった。
そんなはな姉は、もう二度と私に小言をいうことはない。
はな姉よ、葬式で聞いたよ。
当時は、結婚したら子どもを生み育てるのが当たり前だったんだろう。
そのなかで子どもがいなくて、きっと大変なこともあったんだろう。
でも、そんな素振りをみせず、キャリアを築き、ヴィトンのバックを持ちながら、はな姉はいつもかっこよかった。
親戚も別に何もいわない。それはもしかしたら、はな姉が築いた信頼によるものなのかもしれない。
はな姉が、子どもがいなくても幸せに、キャリアを築いて、そうして生き抜いてくれたから。
だから私は何も言われなかったのだろう。
はな姉、いまなら話ができる気がするけど、はな姉はもういないんだね。
もう少し話したかったよ。
火葬のあと、はな姉のおうちにお邪魔したよ。客間に、四十九日までの祭壇を作るために。
アイアンとウッドのインテリアがおしゃれなお家だね。
ガラスの飾り棚に、指輪を飾っていたね。歴代のわんちゃんたちもそこに並んでいたね。
はな姉の大事なものがたくさん詰まっていたね。キッチンにははな姉が時々かけていた老眼用のメガネがおいてあったよ。
はな姉はもういないのに、はな姉の気配がたくさんあったよ。
ただ、山下達郎好きだったのは知らなかったよ。
あんなにたくさんグッズがあるとは知らなかったよ。ついでにいえば、私も好きだよ。
これをもって父は仏となり、今後は極楽浄土から私たちを見守ってくれるのだそうだ。
父方の親戚とは疎遠だったが、皆私たち家族のことを気にかけてくれた。
父も大概の大酒飲だったが、親戚も皆酒飲みで驚いた。
食べて飲んで、思い出話をして、にぎやかで楽しい会だった。
だけど急に、どうして父がここにいないんだろうと涙が出た。
翌日は父の誕生日で、家族がスポンジケーキにデコレーションをしたものを仏前に供えた。
父がいない。
この世のどこをさがしてもいないなんて信じられないし、信じたくない。
病気で苦しむ姿を見てきた。
息を引き取る瞬間も見た。
焼かれて、骨になった姿も見た。
だけどいまだに信じられない。
仏様になんからなくていいよ。
帰ってきて、くだらないオヤジギャグを聞かせてほしい。
一緒に行きたいとこだってまだまだたくさんあるよ。
大好きな映画もまだ完結してないじゃん。
寂しいよお父さん。
ばあちゃんが死んだ。
僕の40の誕生日の前日に死んだ。
葬式など諸々終え、家に帰ってきて、やっと落ち着いたところ。
今の心情を自分自身でもいまいち掴みきれてないので、書いてみる。
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とにかく人が多かった。
子ども4人、孫12人、ひ孫19人、子どもや孫の配偶者、ばあちゃんの兄弟、その子、その孫。
サマーウォーズより多いんじゃね?
ばあちゃんは寺の娘だったので、親戚には坊さんがいる。
3人の坊さんが経を読む。
先頭で経を読んだのは、ばあちゃんの甥の中で一番下の甥。
ゆるい良い葬式だった。
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完全に場違いのフルートに、皆ポカーンとし、奏者も可哀想だな…と思いつつ聴いて、葬式を終えた。
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僕も火葬場に向かった。
普通と違ったのは、坊さんも参列者と同じように、最後に声をかけた。
一番下の甥の坊さんは泣いていた。
僕は泣けなかったからか、何か知らんがそれを見て僕自身が救われた気がした。
その後棺は焼くことになり、焼けるまで1時間程度待つことになった。
後で聞いたのだが、そのドサクサに紛れて義理の息子である親父は泣いていたらしい。
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孫の中で僕は上から2番目。
年長の孫であるいとこ、一番下の甥の坊さん、3人で話をした。
最初に、一番下の甥の坊さんに、フルートの時プルプルしてたから泣いてたかと思ってたらアレ笑いを堪えてなかった?とツッコむところから話は始まった。
ばあちゃんがいつからゲームやってたのか、とか、何故やってたのか、とか、どんなゲームをやってたのか、とか色々話した。
俺の初めてゲームはばあちゃんのお下がりでディスクシステムのやつだった、パチンコにハマってたから抜け出すために息子(僕から見ると伯父)が買った、そういえばパチンコにハマってた時期もあった気がする、その前はルービックキューブだったらしい、俺が持ってないPS4とか持ってたぞ、ゲーム好きだったけど上手いわけじゃなかったからレベルアップでのゴリ押しが結構多くて1セーブプレイ時間400時間とか700時間だったぞ、、、。
僕らは子どもの頃に話して以降30年近く話をしてなかったが、話題は尽きなかった。
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なんというか、あっけなかった。
色々終わって帰ってきた、子どもらも寝かしつけ、一息ついたのが今。
微妙に落ち着かずふわふわする感じがあったので、消化するために文章に残すことにした。
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ばあちゃんがどんな人だったのか。
性格、キャラ的なものを今風に言えば、天然系、不思議ちゃん、なのに、生命力強い、どんな環境でも楽しんで生きる、そんな感じ。
やたら印象に残る言動をする人だったので、ばあちゃんの話題には事欠かない。エピソード力が強い人だった。
何故か鞄を持ち歩かず、ショルダーバックくらいの袋に荷物を詰め、そして下着の胸の辺り、ちょうどブラのパッドのあたりに、その袋を縫いつけ、小太りというか巨乳に見える感じになっていた。
何かを出す時は胸元から出すことになるが、昔は服の中に手を突っ込みゴソゴソして荷物を取り出してたが、そのうち上手く取り出せないからと、半分脱いで取り出すようになった。
普通に外でもそれをやるようになったので、買い物行く時は子どもや孫の誰かが連れていき、事前に財布を預かって、ばあちゃんの財布から支払う、というのが慣習となった。
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そういえば、ばあちゃんから直接昔の話を聞いたことはほぼなかったことに気付いた。
年寄りは昔話が好きな印象あるけど、ばあちゃんから思い出話をほとんど聞いたことない。昔手に入れた意味の分からん謎のハックテクニック、を教えてもらえる程度。こちらの心配する、子どもや孫など周りのこと、ゲームのこと、とにかく今の話しかしなかったからかもれしない。
でも、ばあちゃんの周りからは、ばあちゃんの今まであったことはよく聞いた。
ここからのばあちゃんの昔の話は、皆の話の集合での話なので、何が本当なのかは分からない。
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ばあちゃんは、山奥の陸の孤島のような村にあるお寺の娘だった。
結果、じいちゃんが良いとこの人だと分かり、許してもらい帰ってきた。昔っぽい。
あとで聞いたのだが、じいちゃんはバツイチ?寡夫?だったらしく、ばあちゃんが結婚した当時、ばあちゃんは20、じいちゃんは44。そりゃ反対するわな。
それに加え、じいちゃんを知るであろう寺近くの老人達から稀にじいちゃんの話を聞いたことがあるのだが、どれも掴みどころがない。水墨画を描いてた、木こりだった、スキー板を作って売ってた、馬に乗って駆けてた、等々。皆のいうことが毎回違いすぎて何をしてた人なのかがマジで分からない。今で言うフリーターだったのでは、と思ってる。
その後、ばあちゃんは子どもを4人産んだが、3番目の子である僕の母が4,5歳のときに、じいちゃんが結核で死んだ。
生活ができないので、子どもらは、伝手のある寺が運営する児童養護施設で生活することに。
何年かそんな生活が続き、長男(僕から見れば伯父)が中学を卒業してすぐ働き始め、生活ができるようになったので、ばあちゃんや兄弟らを集め、また一緒に生活し始めた。なんという「ひとつ屋根の下」。(ひとつ屋根の下、当時母はめっちゃハマって見てた)
その後しばらく経ってから長男は僕の母を除いた兄弟とばあちゃんで自営業を始めた。
ここからの人生に関しては、ばあちゃんにとって比較的順風満帆な人生だったと思う。
たぶん。
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僕はばあちゃんに一番可愛がってもらった孫だったように思う。
ばあちゃんがファミコンをやるひざの上に乗ってたのが僕だった。
今思えば理由は単純で、高橋名人が名言「ゲームは1日1時間!!」を家では親が守らせようとするが、ばあちゃんの家では、朝から晩までゲームをやっていても怒られない。
ばあちゃんも、ゲームの攻略に詰まると、孫を積極的に呼んで、攻略方法を聞いたり、分からなくてもプレイしてやってみてくれとせがんだ。
僕が一番可愛がられたが、他の孫達も顔を出せば、同じように攻略をせがまれたので、孫らは皆ばあちゃんとみんなゲームをした経験が一度はあるように思う。
息子(僕から見て伯父)の自営業の職場とばあちゃんの家が一緒になっていて、ばあちゃんの生活は、昼間は働き、ご飯風呂、趣味の畑仕事、残った時間はほぼゲーム、が大半だった。
昔はマリオとかアクションをよくやっていたが、途中からドラクエやFFといったRPGが好きだった。
先にも書いたようにゲームやるからといって賢かったり上手かったりするわけじゃなかった、いわゆる下手の横好きだったので、とにかく朝から晩までゲームをし、攻略ノートを作ってメモをし、自分の攻略ノートを見ながらプレイしていた。
何度も何度も飽きずにトライ&エラーを繰り返しまくるので、ばあちゃんのセーブデータは、装備やアイテムが微妙なのに、レベルが異常に高いことが多かった。
おかげで、途中からやった僕ら孫たちは、ばあちゃんが説明するハマりポイントをひと通り振り返ったあと、装備を整え、ちゃんとゲーム内の説明みてやれば、案外すんなり先に進めた。
他の孫たちもゲームをプレイし終わったら、中古屋でなく、ばあちゃんにゲームを流した。
ばあちゃんが自分でゲームを買っていた印象がほぼないが、とにかくばあちゃんの家にはゲームがたくさんあった。
ベッドの下の収納ボックスには、ソフトがギッシリ詰まっていた、
初代ファミコン、スーパーファミコン、PS、PS2、64、ゲームキューブ、xbox…僕も大きくなるにつれ頻度が減り、就職で地元を離れてからはさらに頻度が減ったので、僕の知らないゲームハードもありそう。
見た記憶では、古いハードのソフトはなかった気がするので、時折捨ててたのかも。
孫らで集まって話をした際に出てきたゲームタイトルは皆違ってた。
FF、ドラクエ、テイルズ、スターオーシャン、ゼルダ、武蔵伝、等々。
ばあちゃんの妹の孫とかいう若い男の子も来てて、ばあちゃんとのゲームの思い出話をしてたのは驚いた。
それもあって、親族のみの家族葬だったのに、縁のある親戚までも集まり、やたら人数の多い通夜、葬式になった。
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義理の息子である親父もかなり溺愛してたので、本物の息子一堂から、本物の息子より息子してる、と親父も笑われていた。
ばあちゃんは、下駄が好きでよく履いてたのに、胸元に袋が入っていたから、ハキハキ歩くことができず、ペンギンみたいな歩き方になっていた。
不安定なゆっくりな歩き方だったので、当然荷物はまともに持てないし、隣を歩く僕の服の袖のあたりをつかんだりすることが多かった。
僕がいない時は、親父が並んで服の袖をつかまれていた。
僕や親父はその認識だったのだが、妹いわく、妹と一緒だと、不安定な歩きのままズカズカ先に歩いて荷物を持ってる妹に早く行くぞと先行してく、僕や親父の前だと猫を被ってる!!男尊女卑だ!!と愚痴っていた。
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孫らから流れてきたゲームで躓くと、当然元々ゲームの持ち主の孫に攻略を聞くことが多かった。
雷平原〜マカラーニャの森あたりにいて、攻略手伝って欲しいからと、泊まって欲しいと、ばあちゃんにせがまれ、泊まることになった。
一緒にプレイし、ご飯も食べ、風呂も入り、寝る前にもう1プレイ。
ちょうどそこで、マカラーニャの森の超ロマンティックなラブシーン。
当時、高校生だった僕は、真夜中に部屋を暗くして、ばあちゃんと並んで何観てるんだろう……と絶妙な気分になっていた。
ふと、横目でばあちゃんを観ると、キラキラした目で、★★素敵★★みたいなリアクションで、滅茶苦茶一生懸命みてたので、まぁいいか、と諦めにも近い気持ちになった。
その後少し経って、新しい孫がまた産まれ、ちょうどその孫の名前がFF10のヒロインと同じ名前だったので、滅茶苦茶喜んで良い名前だ、と褒めていた。
葬式の最後のフルートが、美空ひばりの「川の流れのように」だったので、「ザナルカンドにて」をかけてあげれば良かったのにな、とフルートの演奏を聴きながら、このことを思い出していた。
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葬式の参列者の話などを聞くに、僕がばあちゃんのところにあまり行けなくなった後も、他の親戚やゲームの関わりもあって、楽しくは過ごせていたようだった。
それが、6年前、真夏の早朝に、もうひとつの趣味であった畑仕事の途中で、脳卒中で倒れ、近くの通行人に発見され救急車で運ばれた。
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主治医や長年お世話になっているかかりつけ医によると、意識が回復する可能性は万に一つもない、そんな状態とのことだった。
ばあちゃんは、これまで大病患って、入院して死にかけたことは何度かあった。
入院のなか、どうしても回復傾向が見られない、という状況になってから、僕に連絡が来て、急遽地元に帰ってお見舞いに行くと、ばあちゃんとゲームの話になり、そういえばプレイ中だったあのゲームの続きがやりたい、早く治して退院せねば!!と急にやる気になって、そこから超回復、という展開があった。
今回は流石にダメそうだった。
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流石にばあちゃんももう90だったので、そういう覚悟をしておかなきゃ行けないことは分かっていた。
病院に見舞いに行った際、分かっていても、それがただ寝ているようにしか感じられなかった。
手術のあとに寝てます、みたいな感じで、ただ寝てるだけ。
もう起きることは無いのに、そんなふうにしか感じられなかった。
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僕がその後ばあちゃんの顔を見れたのは、少し経って、ばあちゃんの家で介護するようになってからだった。
病院よりも設備が簡素になったためか、ああ、これは本当にもう目覚めないんだな、と今さらながら実感した。
そんな中、母はばあちゃんの世話をしながら、前よりちょっと良くなったとか、こうやってやると反応する、など色々話をした。
もう目覚めない、と分かると同時に、まだ生きてる、とも感じられる。
死んでるのだが、生きてる。
ばあちゃんが死んだと聞いて、葬儀の一連の流れを終えた今、本当に死んだ今この時よりも、あの瞬間が正直しんどかった。
今、思い出すだけでも、心が重い。
死が突きつけられるのに、世話をすればちゃんと生を感じられる。
その中で世話をし続けられるのか。
母すごいな……と。
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あとは死ぬだけ。
それを受け入れるための有余の時間が与えられた感じだった。
ゲームができない、楽しみに一生懸命になれないばあちゃんは、ばあちゃんなのか。
身体なのか、脳なのか、心なのか、それとも人格なのか、習慣なのか。
生と死に対することをぼんやり思いにふける。
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そういえば、ばあちゃんは霊感が強い、というのがもっぱら周りの評価だった。
悪霊や死んだ人が見える、というより、死ぬ寸前の人が魂だけになって飛んでいるのを虫の知らせのような感じで分かるのだ、とか。
それで、遠方や疎遠になった知人の安否を確認し、それを当てることが多かったので、霊感が強いとされていた。
稀に、じいちゃんが迎えに来ると、まだやりたいことがあるから迎えに来んどいてくれーー!!と必死にお経を読むことがあるのだ、とか。
僕は実際にどの話にも立ち会ったことは無いが、確かにばあちゃんはその辺りの勘が冴えているような雰囲気があった。
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ばあちゃんの話を信じるとすると、脳死のばあちゃんには、ばあちゃんはいないことになる。
ばあちゃんがどこに行ったかは分からないが、ばあちゃんは生きているが死んだ。
幸い、受け入れるまでの時間を6年も貰ったので、ばあちゃんの死、葬儀はなんとか受け入れることができた。
コレがポックリいかれていたら、悲しすぎてどうなっていたかは想像できない。
正直助かった。
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心の準備は整えていたとはいえ、僕の誕生日の前日に亡くなり、僕の40歳の誕生日がばあちゃんの通夜になるとは、流石に予想つかなかった。
何もできないはずの死ぬ瞬間まで、印象を残す人だった。
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ばあちゃんの教え、みたいなのは、本当に全然覚えてないのに、ばあちゃんとの思い出はたくさん出てくる。
老人介護用おむつを買いに行った際には、コレ凄く便利でトイレに行かなくても良いからゲームができる!!とドヤ顔したり……
我が弟が母の付き添いでばあちゃんの買い物に付き合うため家に呼びに行ったら全裸でゲームしてたり……(前日夜風呂上がりに服着替える前にゲームをやり始めたら止まらなくて翌朝までやり続けていたのが真相)
僕がいとこと一緒に富士山近くに旅行した際、いとこに「富士山のかけらだ」と言って渡したそこら辺に落ちてた溶岩石が、何故か数年後ばあちゃんちの神棚に飾ってあり、いつの間にか凄い石だとして御神体みたいになってたり……
なんかあり過ぎて、もう思い出せない。
でも、何かあるたび、何気ない面白かった思い出が掘り返される。
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僕自身もばあちゃんと同じく、子どもが4人いるので、悲しみに暮れている暇はない。
悲しくてしんどい、みたいな感覚はないのだが、なんか気持ちがふわふわして落ち着かず、何かにつけてやる気が起きない。
この文章も、このままではいけないと思いを決して、何度かに書き分けながら、書き進めている。
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やる気がでないので、ぼーっと異世界転生もののアニメを観ても、ばあちゃんだったらマジで異世界にすら行きそうだな、行ってて欲しいな…と想像してしまう。
ココまで書いた文章を自分でも振り返ってみると、ばあちゃんの最大の教えは楽しむこと、それ自体のような気がしてきた。
昔から初七日とか四十九日とかに法要やるってことは、亡くなってからそれくらいの日数はこの感覚は抜けないのかもしれない、と諦めることにした。
とりあえず楽しめるようになるまで、このままぼーっとふわふわすることにしよう。
Permalink |記事への反応(10) | 00:10
流石に一番の理由は家族が危篤一歩手前で遠方に行ける状態じゃないからなんだけど。
まぁ、タイトル通りこれ幸いに欠席の連絡を入れたのは否めない。
ちなみに直近の打ち合わせには仕事で欠席したほぼ戦力外の私が消えたところで10人以上幹事いるから問題なし。
(そういえば幹事を含めた参加者が40人前後なのだけど幹事の人数って一般的に何人くらいなんだろう…)
女性の友人関係あるあるだけど、新婦とは学生時代の友人グループが一緒なだけでサシで遊んだり連絡取ったりする仲じゃないんだよな。
みんなで集まったらワイワイ楽しく過ごすし不仲ではないけど、この関係値の友人の二次会の幹事は荷が重かった…すまん…
身バレしそうなので詳細は言及しないが、友人が結婚式を挙げることが決まって以降の立ち振る舞いに疑問が生じることがあったのも大きい。
式の準備で余裕がないのだろうし、私の器が小さいとも思う。
幹事達からサプライズのお祝いコメント動画の依頼がきてるけど、ろくに二次会の準備もせず最終的に式すら欠席することになった私のお祝いコメントの需要なんて無いだろ…
ましてやサプライズ…
去年の夏、がんが発覚し 即抗がん剤治療が始まり 怒涛の治療期間半年が終わった。
ということで、先日 夫の両親、自分の親を呼んで親族全員の記念撮影をした。
(親にはわざわざ「治療終了記念」とは言っていないけれど)
子どもは一人っ子。第二子などいると親族集まったりもするんだろうけど、下の子いないしそういう機会もなかった。
七五三にも親は呼んでいなかったので、両家の親族が集まるのは子のお食い初め以降初めてだった。
良かった。
私が亡くなると、お葬式・四十九日・一周忌などちょこちょこと集まることになるんだろうけど、私がいないじゃん!
自分がいる間に、ちょこちょこと親族が集まる機会 作っていきたいなと思った。
特にどこかの檀家とかやってるわけではなかったから、葬儀屋さんに紹介された浄土真宗のお寺でしたんだけど
坊さんが飼ってる猫が式中ずっと目の前うろうろしてて本当に鬱陶しかった
ずっと畳の上走り回ってニャーニャー鳴いてんの
親族全員イライラしてたかな、姪っ子はまだ5歳で法事とかよくわかってないからニコニコしてたけど
別に猫が嫌いとかではない むしろ今までどちらかといえば好きだった、飼ったことないけど
そりゃ身内だけの、小さいお寺での法事ではあるけどさ
亡くなってから少し時間は経ったとはいえ、亡くなり方がかなり悲惨なものだったからまだ皆ちょっとブルーだったんだ 本人がまだ若かったし
俺も親父もお通夜で倒れそうになるぐらい辛くて悲しかったんだよ
だから一同真面目な気持ちで法事に来てるのにさ、坊さんがずっとヘラヘラしてて本当に鬱陶しかった
法事終わってからも「この子やんちゃなんですよwすみませんw」みたいな
坊さんも坊さんの嫁も全然悪いと思ってないみたいだった
いや、じゃあ別の部屋にいさせろよ なんでドア全開で猫入ってくるようにしてるんだよ
終わったあとに姪っ子に「猫ちゃん可愛いでしょ」みたいなこと言ってんのも不快だった
死因とか伝えてないからこう、フランクな感じになったのか?って親父に聞いたけど、
確かにお通夜のときは真面目にお経読んでたし「まだ若いのに残念で…」みたいなことも言ってた
じゃあ尚更なんで?なんで今そんな茶化すようなことすんの?
納骨もこの人に頼もうって話になってたけど、もうやめることになった 腹立つもん
これ以上関わったら俺も身内も何か言ってしまいそうだし、余計なトラブルにはなりたくない
またご納骨の際はご連絡してくださいって言ってたけどさ
猫も坊さんももう嫌いになりそう
私の祖父は昨年の夏に90歳で亡くなった。田舎の農家の長男に産まれ、兄弟は皆就職や結婚を機に家を出るも、長男なので家に残り、生まれた家から一度も引っ越すことはなかった。遂には生家で急に倒れてそのまま亡くなった。
祖父は典型的な田舎の爺さんだった。一家の長である自分が一番風呂でないと気が済まないし、台所には絶対立たない。祖母が家事を全てしていた。祖母が入院したときは、娘(私の母)が料理を作り置きしたり、レトルト食品なんかを用意したりしていた。
そんな祖父だが、娘三人は大学や短大まで出していた。田舎なので地元に大学はなく、娘三人にはそれぞれ一人暮らしをさせた。頭の古い祖父のことなので、「女に学問はいらん」などと言いそうなものだが、そんなことはなかった。
おそらく、祖父は子どもの頃に進学したくても進学できなかった悔しさがあったのだと思う。祖父は高卒で就農し、しばらくしてから地元の町役場に勤めたが、通信制の慶応義塾のフリースクール(?)のようなものに通っていたらしい。大卒資格はもらえないが、科目履修のようなものだろうか。
祖父からは慶応のフリースクールに通っていたことを何度も聞かせられた。民法が難しかったと言っていた気がする。特に私が法学部に進学してからは、その話をよくしていた。同じ法学徒同士で嬉しかったのだろうか。
私は特に祖父には可愛がってもらった。私は初めての孫で、しかも男。祖父の感覚からしたら嫡孫だろうか。前述の通り、祖父には娘しかいなかったので、長女の夫(私の父)を養子に迎えて家を継がせている。家にこだわる祖父は念願の男児の誕生にとても喜んでいたらしい。
私は結婚しているが、現在子どもはいない。妻が子を望んでいないし、私もそこまで子どもに興味が無いからだ。妻が望むなら子作りをしてもいいが、望まないのなら無理にする必要は無いかなくらいに考えている。祖父は毎回会うたびに、子どもを作るなら早い方がいいぞ、と言っていた。私はそのつど適当な返事をしていた。祖父は生きているうちにひ孫が見たかったのだろう。
祖父が亡くなった日、子どもを作らなかったことを初めて猛烈に後悔した。生きてるうちにひ孫の顔を見せてやればよかったと、何度も悔いた。
しかし、祖父の四十九日が終わる頃にはその後悔はどこへやら。無理して子どもを作る必要はないか、と元の考えに戻ってしまった。
おそらく私の代でわが家は途絶えるだろう。祖父があれほど大切にしていた家を途絶えさせてしまうのは忍びないが、子どもを作る気が湧かないのだ。
子無しの我々夫婦がどういう老後を迎えるのか、私にはまだ想像がつかない。妻に先立たれたら、私は天涯孤独になるのだろうか。その孤独に私は耐えられるのだろうか。
だが、子どもがいても面倒を見てくれるとも限らない。ましてや、障害を持った子が産まれた場合や子どもが社会に適応出来なかった場合は、私が一生子どもの面倒を見なければいけない。
おそらく、子を持つべきかどうかに正解はないのだろう。だからどういう選択をしても良い。まぁ、だからこそ、一生悩む羽目になるのだが。
今年度に40を迎える学年なんだが
そんな歳か、健康には気をつけないと的なことを思って調べてみたら
健康保険会社が調査した結果は40歳の死亡率は1000人に対して0.96人と出ているのに同年齢で関わってる人は100人そこそこのはずなのに2人も聞かされるとは。
さらに、高校卒業時は高校の近くの団地から通ってたが、親が家を建てて引っ越したことで卒業アルバムの住所にはもう実家はない。唯一知ってる連絡先の携帯もすでに解約済み…
大学の同期は普段なら毎年年賀に対する応答があるはずが、それがなく一瞬同期グループがざわついた。その後簡単な応答があり安堵したが…
本日昼、公衆電話からと表示された電話があった。何かと思ったら何度かお会いした奥様の声。残念なことに…だそうで。
詳しくは聞けなかったが、昨年末から体調が悪く、1月中旬に病気が発覚し闘病しながら仕事を続けてたものの4月から一気に悪く仕事も休むことになり…とのこと。
こちらは数年前から転勤し、葬儀の日程案からすると参列には有休休暇を取らないとキツいが、私自身が転職したばかりでそれは叶いそうもなく、向こうも家族葬にするということで弔電を出すことにさせてもらった。
弔電の出費は虚しい。GWなどの長期連休に集まって共に馬鹿騒ぎする金だったらどれほどよかったか…
四十九日の法要は早めにして、納骨も済ませていたのだが、本当の四十九日は今日なのだった。
夫がいなくなってからもうそんなに経つのか、なのに私は何もできていないよと伝えるため、というわけではないけれど何となくお墓に行った。行ったほうが良い気がして。
法事をするときはいつも誰かがいるから泣かないようにしていたのだけれど、ひとりでバスに乗って墓地に行ってお墓の前に立ったら涙が止まらなくなってしまった。雨だし周りに誰も居なかったのでたくさん言いたいことを声に出した。色々言った、けれどどれも「ごめん」と「会いたい」の言い方を変えただけだったような気がする。ごめん。会いたいよ。
帰りのバスで見てたSNSで桜の写真が流れてきて、これからふたりで過ごすはずだった季節のことを考える。もうすぐ桜が咲くよ。缶ビールとからあげ棒買って花見したいね。