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はてなキーワード:吉田健一とは

2025-01-02

理系池澤夏樹世界文学全集をほぼ全部読んだから五段階評価する②

【前】anond:20250102171528

1-07「ハワーズ・エンド」E・M・フォースター吉田健一訳★★★★

人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたししまいには、どこかの場所わたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする。

続く三冊は二〇二一年頃の別のエントリで一度褒めている(anond:20210301080105 とか)。

この本は場所への執着や記憶をもとに二つの家族の話を物語っている。一時期なぜか「インドへの道」や「眺めのいい部屋」、それから天使も踏むを恐れるところ」を立て続けに読んだのだが、今になって振り返ると、なぜそんなに良いと感じたのかが、記憶からすっかり抜け落ちている。土地や家に対する執着やそれにまつわる因縁がどぎつくはないがちゃん表現されていたからかもしれない。漱石っぽいと日記に書いていたのだが、では漱石っぽさとは何なのかがよくわかっておらず、逆に漱石英文学っぽいのかもしれない(関係ないけど、夏目漱石を久し振りに読もうと思ってパラパラとめくっていたら、当時の知識人のひけらかしが今の大学生っぽくてなんだか恥ずかしくなってきた。あと、漱石長編って貨幣経済というか金の話ばっかりだけど、その萌芽って「坊ちゃん」で山嵐と金を受け取るか受け取らないかで意地の張り合いをしているところにある気がする)。

このエントリにしたって、自分過去の好みや性癖について書いてはいものの、ではなぜそんなに当時は好きだったのかが、いま一つ理解できなくなっていて、過去日記を読み返しても想起できないことが多々ある。もっときちんと日記感想文を記しておけばよかったかしかし、ある時期はまるで依存するかのように活字に触れていた。落ち着いて感想を書きとめる間もなく、浴びるように濫読していた。現実から目を背けるかのように書物に埋没していた。フィクションだったら何でもよかったのだろうか。そう思うと少し悲しいが、その濫読が今の感受性を作っているのかもしれない。

1-08「アフリカの日々/やし酒飲み」イサク・ディネセン横山貞子訳/エイモス・チュツオーラ土屋哲訳★★★★★/★★★★

イサク・ディネセン「アフリカの日々」は最高だった。とかく植民地としてのアフリカ収奪貧困という文脈から語られやすく、確かにそうなのだけれど、でも場所によってはコンゴ自由国ほど滅茶苦茶ではなかったし、では具体的にはどんな感じだったのかをこの本は見せてくれる。中にはこの著者のように、当時の人種的偏見という制約はあるにせよ、相手文化を知ろう、誠実であろうとしている人もいたのだろう。「ライ麦畑」でホールデン少年が褒めていたのもうなずける。

からと言って歴史正当化できるわけではないのだが、感情だけで歴史議論をしてはいけないし、知識がないのに印象だけで語るのはきっと同じくらい罪深い。当時生きてきた人たちの存在無視するわけだからね。黒人白人って軸も実はけっこう解像度が荒く、事物単純化を含んでおり、特定の側面はアメリカ合衆国特有だ。この著者はデンマーク人で直接の宗主国人間ではないし、アフリカにはインド系など様々な人々が暮らしている。

エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」は神話なのでツッコミ不要だしツッコミ不在だ。

世界神話を読んでいると、なぜか人類創造前なのにその辺におじいさんとおばあさんが住むんでいたりするし、天地開闢以前なのに山や川があるし、神様人間の違いがいい加減だったり、普通に変身能力があったりするし、この小説にも日本神話にもそうした側面がある。とはいえ神話ゴリゴリしたロジックを求めてもしょうがないのであり、「こうして今ある通りの世界社会が成り立っているのです」と語ることに意味があるのだろう。なお、アフリカ文学と聞くと個人的アチェベが最初に出てくるんだが、それとは別に祖父本棚から貰って来たアレックスヘイリールーツ」はまだ積んである

1-09「アブサロム、アブサロム!ウィリアム・フォークナー篠田一士訳★★★★★

これは別の友人が薦めてくれた本。彼は「おっさんになると文学が読めなくなり、生物学歴史の本ばかり読むようになる」と言っていたが、本当にそう思う。和訳で二十巻くらいある「ファーブル昆虫記」とか数年前に読んだし。なお、熱量ヤバいのでこれ以外のフォークナーの本は読めていない。

語り手が複数おり、時系列バラバラなので(クンデラも星を五つ付けてた。自覚してなかったけど、僕ってこういう時系列シャッフルが好きなのかね?)、一見とっつきにくいのだが、情報を整理しながら読んでいくうちに、これはサトペンという男の一代記であるとわかる。肉体を鍛えてひたすらタフになり、若いころの屈辱に対して復讐するかのように、妄念によって偉大なる一族の祖になろうとした男だ。ひがみ、妬み、怒り、そうした感情を持った物語に僕はついつい引き込まれしまう。最初の妻に黒人の血が混じっていたと言って離縁し、別の妻と結婚した結果、それぞれの家系に不幸な子孫が生まれ続けていき、とうとう滅んでしまうのだが、それはサトペン貧困ゆえに受けた一つの屈辱からまれたのだと思うと、まったく救いがない。しかし、この熱量に負けて読んでしまった。

ただタフになりたいと言っている人間は、どこかで涙を流さないとマシーンになってしまう。村上春樹海辺のカフカ」を読むとわかる。

ところで、フォークナー日本を訪れて「私も敗戦国人間です」と言ったそうだ。胸を張って祖国を自慢するのにためらうような、この南部アイデンティティのことを、BLM運動燃え盛っている時に、思い出していた。

世代にわたる大河小説と言えば、最近学生時代から積んでいた北杜夫「楡家の人びと」を読み終えた。今になって読むと、これは経済的には恵まれているが機能不全を起こした家庭が崩壊していく話で、北杜夫尊敬していたトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」とはまた別の嫌な没落ものだった。どちらも、最後世代の一番情けのない甘えん坊で覇気のないやつに自分を重ねて読んだのである

全くの余談ではあるが、どうも自分は影響を受けやすいらしく、明治から昭和舞台にした小説を読むと、いつの間にか米国憎しみたいな気持ちがうっすらと育っていくので、無意識に影響を与える点ではSNSの悪意を持ったアルゴリズムは同じくらい怖い。

1-10アデンアラビア/名誉戦場ポール・ニザン小野正嗣訳/ジャン・ルオー 北代美和子訳★★/★★

実はどちらも内容をほとんど覚えていない。

とはいえポール・ニザンアデンアラビアのように若い人間が、抽象的な何かを抱えて異国をさまよう話というのはそれだけでいいものだ。そこからしか得られない心の栄養がある。自分が何者になるかがまだわからない頃にしか書けない/読めないものがある。池澤夏樹のこの全集にもそういう話がいくつか納められている。

ジャン・ルオー名誉戦場過去大戦の傷跡がうっすらと書き込まれているらしいのだが、当時の僕にはまだ読み取れなかった。おじいちゃんヌーディストビーチのぞき散歩しに行ったエピソードしか覚えていない。

手に取った小説がとても長かったり、プロットが入り組んでいたり、暗喩がわかりづらかったりと、読むのに訓練がいるものだったりして、結局理解しきれないことがあるけれども、そうした文学を読む力(あらすじや登場人物やその関係性を記憶する力)を養うには、結局そういう本を気合で読み進めなければいけなんじゃないか文学案内や文学の読み解き方を勉強せず、裸一貫でドン・キホーテよろしく風車突撃していった僕なんかは、そう思うのである

1-11「鉄の時代J・M・クッツェー くぼたのぞみ訳★★

アパルトヘイト真っ盛りの南アフリカで、一人暮らしのおばあちゃんが(調べたらがん患者だった。記憶からすっかり抜け落ちていた)、黒人スラム街に紛れ込み、こうなったのは誰のせいだ、お前らのせいじゃないかイエスかノーかで答えろ、みたいに言われる話だ。大体クッツェーはこういう政治的な話が多い。

二分法はそもそもきじゃない。もともと自分は口下手で、話をしっかり聞いてもらいたい方であり、こちらの話を聞かずに一方的に話をされるのが嫌いだ(その場でうまく言い返せないからこうして延々と文章を書き綴っている癖がついてしまっている。とにかく僕は延々と気が済むまで言い訳を聞いてほしいし同情してほしい)。

正義である我々に味方しなければ、お前は悪に加担したことになる。似たようなことを米国SF大会で述べた人がいたね。個人的には、社会正義理屈としては正しいと思うけれども、好きか嫌いかと言われれば嫌いだ。この二つは全く異なる軸だ。お前は明日死ぬかもしれないというのは論理的には正しいが好きではない、というのにちょっとだけ似ている。まったく別の評価軸で、両者は重ならない。

うっすらした類似でいえば戦争責任にも似ている。「なぜ生まれる前のことに取りようがない責任を取らねばいかんのか?」ということでもある。あるいは、メンタルが弱っているのに、「あなた人生あなたしか責任が取れない」と言われ、ますますしんどくなるのにも似ている。どちらも「責任」が絡んでくる。誠意ってなんだろうね?

やっと納得できたのは、アイヌ民族議員である萱野茂がある本で書いていた「こうなったのはあなたのせいではないが、この状況をただす力をあなたは持っている」という趣旨言葉で、これは「責任」を「重荷」や「義務」や「罰」ではなく、「現状を少しでも良くするためのパワー」という肯定的言葉で語りなおしている。責任という言葉は、人によって使い方に若干のずれがあり、だから違和感があったのかもしれない。

とはいえ、そこまで考えている人は少なく、九割の人は自分立場の都合しか主張しないし(ただし、そのパワーバランス民主主義機能している可能性はある)、それどころか自分とは違う属性を平気で差別している例も多々ある。被差別民女性を、女性障害者を、障害者外国人を、自己正当化する理屈と共に平気で見くだし、差別する例をすべて見て来たし、アラフォーになってしまった今でも、サリンジャーライ麦畑で捕まえて/キャッチャー・イン・ザ・ライ」のホールデン少年みたいに、多くの活動家安易SNSで「いいね」を押す人々を「あいつらはインチキだ!」と独善的糾弾してやりたい思いは消えない。他人言葉は信じられない。納得できるまで自分で考えるしかない。とはいえ、あらゆる憎悪も究極的には自分や身内が安全でいたいという素朴な願いから来ているので、相手批判しても全然解決しないんだろうな。

1-12アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 」エルサ・モラン中山エツコ訳/ナタリア・ギンズブルグ須賀敦子訳★★★/★★★★★

この作品も一度褒めた。

エルサ・モランテ「アルトゥーロの島」は息子を放置して放浪を続ける主人公の父が、同じくらいの年頃の義母を連れて帰ってくるんだけど、主人公がその義母に対して屈折した気持ちを持ち続ける話だった。確か恋愛感情にはならなかった気がする。完全にネグレクトだし、主人公愛情というか思慕は義母ではなく実の父に向かっている。この父親のように感情表現できない、義務だけで動く男性キャラにひかれていた時期があったのだけれども(1/12追記:この父親義務で動いているわけじゃなくて、一般的義務で動くキャラって意味感情表現しないという部分だけが共通)、それは何でだったかはよくわからない。当時の自分がやらねばならないことで動いていたからかもしれないが、その結果として案の定心身の調子を崩した。父に対する巨大感情という意味ではエヴァンゲリオンじゃんという気もしないではない。あれにも同い年の「母」が出てくるし。シン・エヴァンゲリオンではちゃん父親内面が出てきたけど、この作品では記憶にある限りでは出てこない(何となくだが庵野秀明といい村上春樹といい、多くのクリエイターは親が世を去る頃になってやっと親を直接扱うようになる気がする)。

閑話休題、大体、やらなければならない義務を果たすのだけが行動原理になると、晩年に「この人生は一体何だったんだ」とカズオ・イシグロ日の名残り」のように嘆くことになる。カズオ・イシグロは長篇を全部読んで、「この作家別にそこまで好きじゃないな」って気づいたんだが、「日の名残り」は別格だ。

ナタリア・ギンズブルグ「モンテ・フェルモの丘の家」書簡体小説で、親しい友人のSNSでいうクラスタというか、友人の輪とその周辺のやり取りをずっと追い続けていて、近づいたり離れたりという感じが、人生のある側面を忠実に表現しているみたいで好きだった。ちょうど周囲で結婚ラッシュが起きたり、ちょっとした行き違いで不仲になる友人を見て来たころだったと記憶している。この人の作品は良くて、ずっと不機嫌なお父さんが出てくる「ある家族の会話」など何作か読んだ。

あと、須賀敦子いいよね。誠実な翻訳をする人の書く文章は、そもそも美しい。

続く。

Permalink |記事への反応(1) | 17:26

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2023-07-23

anond:20230721225327

この増田を読んでから

飛島塩辛を買うかどうかで悩んでいる…

ずっと昔本当に昔、吉田健一氏の食べ物の本に、山形飛島アワビ塩辛が美味しいと書いてあった。酒田に行った時も探したし、山形の知人にも聞いたし、でも手に入らなかった。そうだネットがあると今頃思いつく。

今またなぜ塩辛で悩むのかというと、

一に、高いのである……

イカ塩辛便1本2160円

さざえ塩辛あわび塩辛ともに、瓶1本6,500円である……

二に、高齢化による生産者の減少で年々手に入りづらくなっており、一昨年には県内スーパーでも入荷できなくなったそうだ

うーん…うーん……

多少無理をしなければ後悔するだろうか。

うーーーーーむ………

春~夏に採れたイカ塩漬けにし、熟成させておいた魚醤イカの内蔵を発酵させたもの)と合わせて作る独特の製法で作られており…サラサラ死ぬほどしょっぱく噛み応えもあるとの評判………

Permalink |記事への反応(5) | 08:46

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2022-06-17

吉田健一って別にジブリの最古参かいうわけでもないのにジブリキャラみたいな顔してるのが面白い

クロトワとかカリオストロ伯爵とかああいキャラそっくりなんだよ

顔が四角くて髭生えてて目がでかいからなんだろうけど

めちゃくちゃジブリ作品にいそうな顔してんだわ

Permalink |記事への反応(0) | 15:55

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2021-12-06

美少女」と「萌え絵」はちょっと別ではという走り書き

オタク文化の源流を辿る議論が始まってしまってるけど、シベールとかの話は「美少女」の発明の話で「萌え絵」の話とは違うよなと思った

そもそも萌え絵ってなんだよ、誰が定義したんだよという話なのだが(「美少女」のほうは議論がたくさんあるからさら新規の説は立てようがない)

まず現代萌え絵ってなんだろうというと、人目につくとこに掲示される絵で判断するのが一番で、「コンビニで売ってる雑誌の表紙」と「パチンコ屋の店頭看板のぼり旗」がもっと判断に適している気がする。これらはオタクオタクじゃない人も誰もが目にするからだ。

ということで、パチ屋店頭を眺めつつ私見で分類してみる

 

パチンコ海物語……昔に比べるとだいぶ寄せてる気はするが、まだ萌え絵には至ってない

北斗の拳……劇画判断する人のほうが多いだろう

せがわまさき……これは人によって判断が分かれる気がする。劇画認定する人がおそらく多数派だろうが、石川賢記憶がある人からすれば萌え絵認定されそう

まどかマギカ……萌え絵認定異論を唱える人はあまりいないと思われる。が、よくネット炎上槍玉に挙げられるタイプの「萌え絵」とはまるきり別系統でもある

エウレカ……たぶん萌え絵認定なんだろう。なんだろうけど吉田健一系統って萌え絵なのか?

エヴァ……たぶん全員一致で萌え絵認定されるのはこれだけではってぐらい共通認識。ただ貞本義行の顔ってかなり古典的な部類であり、「量産される深夜アニメ」「量産されるエロ同人誌」とはまるきり別系統

シンフォギア……これはさすがに萌え絵でいいだろう

ツインエンジェル……シンフォギアとは別系統萌え絵分類の代表例か。いわゆる「アニメ絵美少女絵=萌え絵」という認識にピッタリとはまりそう

攻殻機動隊……押井守アニメの印象が強すぎてハードイメージがあるが、少佐劇画じゃなく萌え絵分類だと思う

……こんな感じだろうか。並べただけである

で。並べてて思ったのだが、初代マクロスの美樹本絵は「萌え絵」になるのだろうか

美樹本晴彦というと「美少女」の代名詞だが萌え絵と言われると違和感が強い。似たような例だと、あだち充も「美少女」の代名詞だが萌え絵とは言いづらい。

おそらく、美樹本・あだち系美少女が入ってこないのが、自分認定する萌え絵を、往年の美少女絵につながるものと考えにくい大きな理由だ。

じゃあ他には?

からなかった。

 

ということで別アプローチを考えてみる

日本国内で「萌え絵」が一般認知されたのは圧倒的にパチンコパワー(およびソシャゲのTVCM)だと思うが、マンガでいうと、ガンガン分水嶺という気がする

ガンガン以前は、すこしづ勢力を増していても、表にでてくる量としては意図的に抑えられていた感じがある。ジャンプでいうと本誌の「そういう枠」はウイングマンバスタード黒岩よしひろあたりという認識。なおオレンジロードは「美少女」ではあっても現代萌え絵系統とは別枠だと思う

週刊誌月刊誌でなんとなく棲み分けされてもいて、月刊誌枠は「そういう絵柄」が多少は許容されてるイメージ。増刊サンデーが当時のオタク少年御用達といった

で、「オタク少年向け」枠に少年キャプテンコミックコンプが参入して少しづつ売り場面積が増えていったが、「そっち系の絵柄」でメジャー制覇したのはガンガンだろう

ではガンガンは「美少女」で成功したのか? というと、それは違う感じがある

それまでロリコンブーム以降の同人誌の盛り上がりやマイナー誌での蓄積を整理、洗練された上で、「黒岩よしひろとかああいう感じの絵ばっかりの雑誌」が美少女じゃない路線成功したということだと思う

そうすると、「ガンガン」の時点で、いったん「美少女」は途切れてしまっている。実際、年齢層的にも、それまでのキャプテンや増刊サンデー世代より下の世代向けで成功したのだろうし

 

萌え絵」といって、世間的に「なんかオタクっぽい絵」というときガンガン代表される絵でしょ、というイメージが、自分の中にはある

そうなるとそれは「美少女」とはちょっと違う。世代がある程度まで一新した上で、改めて、既にある美少女概念が借り物として再導入されたと見るべきじゃないのか

その際には当然、以前からの「美少女」も参照にされているが、そこは一直線で見るべきではない気がする。たとえば、あだち充的な美少女はそこにはいなかったように

 

しかし、ガンガンと言い切ってしまうのも違う気がする

同人作家が既に年商千万とか億とかいわしてたのを背景に、そこから作家を連れてきて成立してたわけだし

だいぶ迷走してきた

うーん

 

///

 

2021/12/8追記

反応ありがとう。ちょこちょこ読んでるけど消化しきれてないので返事はごめん

読めばわかると思うけど、「萌え絵はいひとつ曖昧な使い方にしかならない気がするんだけど、しか自分でも漠然とはイメージがあるし、とりあえず自分内の定義を探してみっか」という話です

ひとつだけ反応すると

ガンガンの具体的にどれ?

特定のどれかって感じじゃないですね

いかにもそれです、って探すというと夜麻みゆきとかがいかにもそれっぽいんだけど、そこに限った話でなく

それまでの少年マンガ誌ぽくなさの一方でやっぱ少年マンガ誌ぽさはある、という感覚

たぶんでいうと、既存の「劇画の気配」とか「少女マンガの気配」とかがないってことかなと

いかにも鳥山明フォロワーでござい、って感じなのに全く鳥山明じゃねえよっていう絶妙な表紙って大事だったのかも

Permalink |記事への反応(23) | 13:21

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2021-08-20

anond:20210404105223

https://febri.jp/febri_talk/yoshida_kenichi_4/

ガンダム第一話のすごさについてはこれを読んでほしい(2021 吉田健一

Permalink |記事への反応(0) | 15:38

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2021-06-22

anond:20210622150852

小説描写は正確なイメージ情報が読者に伝わるためにされなければならない、なんて俺は学校で習った覚えはないが。

吉田健一コリン・ウィルソン視覚イメージ移転にこだわってみっちり描写する作家を「小説ってそういうもんじゃねえだろ笑」と批判してたなあ。

手元にある純文学小説開いてみ。登場人物の外見的イメージを伝える情報ビックリするほど少ないと思うから

それでも上手い作家ならそうと気づかせず、読者の頭の中に各々勝手登場人物像をイメージさせることが出来る。

Permalink |記事への反応(1) | 15:15

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2013-03-21

http://anond.hatelabo.jp/20130321000145

交響詩篇エウレカセブン 2期OP少年ハート」より。

http://www.dailymotion.com/video/x2rqdu_eureka-seven-opening-2_fun

ラップ部分で人物紹介、クルーの大半は並べるだけ、ありがちな作中への伏線カットもガン無視、引きすぎ、人物とかストーリーとか最高にどうでもいいのが丸分かりな村木マジクー

「咲かそう咲かそう」で松田サーカスを空中に咲かせるという常人には出来ない発想

サビ頭でまさかマクロス壁撃ちパロを敬史に振るという村木以外には思いつくことすら不可能な神采配。

ちなみにブルージェンダーOPの時には鴨川に壁撃ちパロを描かせているので、よほどあのOP板野背動に思い入れがあるらしい

こだわりに満ちた柿田爆発。柿田と綿密な打ち合わせがあったらしい。溶解した部分と駆動部に分かれた爆発を必要以上にたっぷりと見せる

とどめの金子サーカス。これを金子に描かせるのが目的だった言わんばかりの神作画

安直粉塵から全員集合でキメ。作画豚もアクメ

コンテ・演出:村木靖

作画監督吉田健一 中田栄治

原画

橋本敬史   柿田英樹

金子秀一   大塚 健

松田宗一郎  中谷誠一

新井浩一   坂崎 忠

長谷部敦志  川元利浩

安藤真裕   齋藤恒徳

竹内志保   村木 靖

背景:小倉一男(KUSANAGI

Permalink |記事への反応(2) | 00:24

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2008-04-14

http://anond.hatelabo.jp/20080413172612

吉田健一曰く、

 本を読むことが勉強にはなつてゐても、それで大に得るところがあつたなどと真面目に考へられるのは、まだ何も与えられてゐない若いうちのことで、そこの所をひつくり返して言へば、まだそんなことが考へられるのは本を読む楽みの序の口にも過ぎないといふことになる。我々は音楽魅せられて大に得るところがあつたなどとは思はない。

(略)

 読んでゐれば時間がたつて行つて、倦きれば止め、後は何をしようと兎に角、それまで時間を潰すことが出来たことは確かなのである。

 さうすると、そんなのは贅沢ではないかといふことになる。勿論さうであって、贅沢が嫌ひで文学を愛するなどといふのは見当違ひも甚だしい。この世界には遊びしかないので、それを真剣な遊びだの、命懸けの遊びだのと称するのは、遊びといふことに対する後ろめたさから無駄口を叩いてゐるに過ぎない。

Permalink |記事への反応(1) | 02:16

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2007-10-24

影響

http://anond.hatelabo.jp/20071024050957

「影響というのはどういうことかに就て考える方が、独創的であろうとすることよりも遙かに大切である」

吉田健一って人が言ってた↑らしい。

誰でも何かから影響を受けてる。

その点では、人による差など無い。

だから、知能の差など無い。と言う事も可能。ではあるが・・

「影響というのはどういうことかに就て考える」力量の差が、知能の差だ、ということも可能なんだな、にんげんだもの

Permalink |記事への反応(1) | 05:32

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