
はてなキーワード:合鍵とは
親戚に会うたびに、別居婚を責められる。
26歳で結婚。
互いの家から職場が遠く、程よい場所の賃貸もなかったため、とりあえず別居婚。
4年後、俺は海外赴任、妻は大型プロジェクトのサブリーダーになったため退職や海外転居不可。
一時帰国は何度かあったものの海外勤務が続いたが、去年の10月から日本勤務のため帰国。
同居も考えたが、俺サービス業、妻は夜勤があるSEと、生活リズムが合わないため断念。
同じアパート内に部屋を借りられたら良かったのだが、現実は6駅隣り。
みなさんはおそらく、探偵にマークされたことはないだろう。稀代の悪党モリアティ教授ならいざ知らず、庶民の接点といえばせいぜい、パートナーの浮気調査か結婚相手の身代調査くらいのはず。私は某国で貴重な経験をした。探偵の博物館は存在するが、その体験アトラクションを提供してくれるところはない。
断っておくが、私に疾しいところがあったわけではまったくない。実は、本社のやつらがとんでもないバカをやってくれたせいで、このような目にあったのだ。もちろん、やつらは「私の意を汲んだ償い」をするものと信じている。
さて、以下の話は、世紀の名探偵シャーロックホームズに敬意を表して、「イギリスの首都ロンドン」で起きたと仮定する。
物価がやたらと高く、専用シャワートイレつきの1Kを借りるとなると、当時のレートで月20万円からだった(社宅だと半額)。共用だと月15万円前後だったろうか。私がそこに決めたのは、他に選択肢がなかったこともあるが、木の茂った庭がついていたことだ。扉と塀で、外から中は見えない。前の居住者が植物を植えていたらしく、雑草と共に花が咲く。ただし、蜂も山のように群がる。とうとう庭木が繁茂しすぎて屈まないと外に出られなくなったので、生まれて初めて剪定をした。これが意外と楽しく、やめられない。鋭い刃で、サクッと切れて、いい。音と手ごたえが快いし、景色も開けるのだ。
日が長い夏場は椅子にもたれ、酔眼で木を眺めて句を読む。俳句を少々嗜むのだ。ただ、携帯の電波はそこ一帯のみはじめから「なぜか」つながりが悪かった。携帯会社に文句を言っても、クーポンをくれただけで、一向に対応してくれない。
と言うことで、3年間何事もなく過ごしていた。
話し声がするのでしぶしぶ起きると、外に2人人がいるではないか。
「植木屋です。家主さんからあんたの植木の剪定を頼まれたんですよ」
と、のっぽとちびの二人組。残念だが庭師には見えない。どこか軍人らしい機敏さがある。家の前に、いかにも庭師ですといった風情の社名入りヴァンが止まっていた。ナンバープレートを覚えておく。
「その話は聞いてないんで今度にしてください」
とその日は追い返した。確かにこの前の日曜日、これまで一度も来たことのない家主がうちにやってきて、庭木の剪定が必要だなとは言っていたが。
しばらくすると、家主が暖房の動作確認をするといってきた。やって来たのは別の2人で、1人が暖房を開けてなにかしている間に(私は、あとで分解して、なにか仕込まれてないか確認した)、もう1人が家の正面写真を撮る。一介の技師にしてはあからさまに怪しいではないか。確かに、Googleマップでは道路と屋根しか見えない。私道を入った所に家の入り口があるので、ストリートビューも無効なのだ。「風呂場も改装する必要がありますね」などといってきたが、そこに何か仕掛けられても困るので、嫌だといっておいた。このとき、彼らは「道具」の一つを「忘れて」帰った。
コロナワクチンの案内が何度もきた。24/7で在宅なので、私を外出させてその隙に…
私は週に1, 2回買い出しに行く。その際、合鍵か七つ道具を持った誰かが空き巣に入っても困る。知り合いの警察官に教わった方法を試すことにした。玄関のドアの上部の隙間に、小さな小石を挟んでおくのだ。来客があると、小石はそこから落ちるので、後で分かる。買い物ルートは、歩くのが面倒で最短で往復したいので、ワンパターンだ。看板を持って立つ人、立ち止まって携帯でこちらを見ながら話す人、タバコを吸いますという顔でさりげなく店から出て来た人、路駐の車内で外を見ている人。怪しいといえば怪しい。
この時は、帰り道に二度、私が近づくと急発進もしくはその後にUターンする車を見つけた。もちろんナンバープレートは暗記する。家に帰ると、携帯に「XXXはあなたをフォローしました」とSNSの通知が入る。さすがにユーモアに手抜かりがない。これは、見せるための尾行、つまり標的に気づかせるための示威的な尾行だ。気にしなくていい。
あるとき、買い物途中の歩道で、隣人が時間潰しの顔つきで突っ立っているのを見つけた。彼が在宅だと、ドアをこじ開けるのに音が聞こえてまずいのかもしれない。
またある時は、この3年間一度もひと気のあったことのない医院の庭に、革ジャンを着て禿げた中年男が、通りに出る時必ず通る私道を見下ろしながら電話をしていた。
リモートワークが退屈なので、車通り側、つまり自宅の裏まで出てみると、運転席側の窓を開けた黒のBMWの車内に人がいて、サイドミラーで私が近づくのを見て急発進した。彼らは金があり趣味がいいのだ。テンペスト傍受という語がある。電子機器から出る微細な電波を専用機器で拾うことで、インターネットの通信を盗聴できるらしいのだ。これも知人に聞いた話だが、レーザー光を窓に当てその振動で室内の音を拾うことができるので、この場合は窓の外にブラインドをおろしておくのが有効だ。さて、こういう時は嫌がらせをするに限るので、早速警察に車のプレート番号を電話した。残念ながら、のちに警察署を訪ねた時知ったのだが、これらの記録、および緊急通報の記録は、署のコンピュータから「抹消」されていた。
自宅の裏、つまり表通りの路肩に駐車している車には、住人以外と思われるものもあった。たとえば、運送会社のヴァンがトランクを開けてずっと荷下ろしをしていたり、車の故障修理を装った人がいたり、このタイミングでやるのかと疑われる草刈りの人がいたり。また、以後は探偵の車はSUVに変わった。自宅と背を接している家(家主が同じ)はしばらく無人で、その後一度入居した家族も3日で「引越し」、おそらくその無人の家に交代で誰か潜んでいるらしい。あるとき壁越しに、トイレだろうが水を流す音がした。また、右隣の家の人も空き家になった。
気晴らしに飲みに行くことにした。歩いて10分。実は、iPhoneの最も左端のホーム画面の一角で地図を表示しているのだが、そこに日替わりで行きつけの店が「表示」されていたので、急に「思い出した」のだ。ここは、ビールの他に料理も美味しい、グルメ砂漠のこの島では貴重な店だ。カウンターで飲んでいたのだが、背中から誰かに見つめられていることに気づいた。いかにもオックスブリッジ卒業生でございますという知的な顔の若い女が、真後ろのテーブルでパソコンを広げていた。このような顔の人をここでみることはないし、そもそも女性客1人で、しかもパソコンを開いている人なんて、設定からして嘘すぎる。帰りにはいなくなっていたか、私が泥酔していたかのどちらかだ(店内を一周して確かめたので、前者です)。
ある夜、家の庭に、招かれない来客があった。というのも、私の庭の出入り口の木の扉は、重く、かつ傾いて接面が歪んでいたので、強く押さないと開かず、開けると地面を擦り、必ず音がする。
探偵であれば、例えば出口付近の木に対人センサーか録画機器を仕掛けたのかもしれない。
また、前面の塀(建て付けは古く甘いので隙間は簡単に作れる)に覗き穴と思われるものがあったので塞いだ。
これ以後、外出する時は、小石をドアの上、二箇所におくことにした。
ついに、庭師がやって来た。この前とは別人で、家主が契約している古馴染みだというので、監視して仕事させることにした。見ていると、どんどん植物を引っこ抜いて、木の枝を切っていく。枝というより、幹だ。剪定というより、丸坊主だ。あまりにも極端なので、家主に電話したところ、いう通りにさせろと言われたので、仕方なくそうした。
結局、短くしますといって坊主になったも同然で、木は葉が一枚もなく、幹も短く刈り上げられたか切り株だ。家主に写真を送ると、これは聞いてないということだったが、今更遅い。これまで植木のため外が見えなかったが、これではすかすかだ。
庭師のボスというのが夕方やって来て、満足そうに眺める。庭師は、「楽しい夜を(いかにも侵入を招きそうな庭の状態を指して)」と言って帰って行った。みんなグルなのだろう。ちなみに、出入りの修繕屋もみなヘッドホンをつけていて、指令をリアルタイムで聞いていたのだろう。
前面の塀は隙間だらけなので、古いシーツを巻きつけて塞いだ。
その夜、庭でライトがチカチカ瞬いた。右側の塀に設置してある、対人センサーで反応して点くライトだ。右隣の家の庭に、裏の空き家に潜んでいた人物が入り込み、センサーを反応させているのだ。
警察に泥棒の電話をしたが、「この日に限って」電波が途切れてなかなかつながらない。
裏の空き家に潜んでいる人物がいることは分かっていた。実は、私宛の郵便はいつも、なぜか裏の家のポストに届くので、家主に頼んで裏の空き家の鍵を借りている。そこで、「合鍵で裏の家に入ることにした」と呟いた。昼になると、荷物をまとめ、家を出た(会社支給のパソコンは冷凍庫に入れておいた)。出た途端、どこかに潜んでいた例の男(予想通り裏の家から炙り出されて来たわけだ)が現れ、走っていき、表通りに停めてあった車でどこかに消えた。無意味と思ったが、ナンバープレートは報告しておいた。
町で一番安い携帯とSIMを買い(SNSで「挨拶」があった)、ロンドンに向かう。
着いた駅で、ビールを飲みに店に入る。しばらくすると、目の前のテーブルに、チューリップグラスに入ったビール(オーダーできる最小容量で、会社がケチなのだろう)を手に中年の男が座り、SNSを見始めた。探偵だ。早く出ろ、という訳で。
何日かロンドンで過ごした。お付きの者はレストランでは外で待ち、バーでは視界に入る位置に腰掛け、ホテルでは外で待ち(一階で朝食をとりゆっくりしていたら、早く出ろと言わんばかりに、横断歩道の前から窓越しに写真を撮られた)、行く先々で車の見張りがいた。私が地図アプリで道順を調べるからだ。
問題は航空券購入で、やはり当地のカードでは決済が妨害され、日本のカードで買った。空港の駐車場でも、「送迎車」が何台も見送ってくれた。ナンバープレートは控えてある。
探偵には、相手のやり方が気にいらないときは、相手の嫌がることをする。これに尽きる。ただし、正面切ってやると相手がヒートアップするので、そこはうまくやる。
身内の死比較漫画(1日限定公開全編公開)https://x.com/tokitadesu/status/1964290371191787825 が流れてきたのをきっかけに(今日コミティアだから公開なのですね)。
昨年夏に母方叔母(母の妹)の孤独死がありました。本人80歳過ぎ、夫逝去済み、子なし、認知症入り始めてたと思うが診断降りておらず、ケアマネ等地域医療にもつながっておらずで死後1か月未満で発見。
・発覚=悪臭がたちこめ、管理会社が警察に連絡。マンション(持ち家)の鍵が開かず、最終的にはしご車でベランダから立ち入り。一夜経ち、本人居住の警察署から親族経由で自分が警察署に電話を折り返す。土曜日。※この時の消防車の請求はきてません
・1時間後に警察署到着。本人確認できる状態ではないため、室内にあった写真で「あの住居に住んでいたのはこの人ですね?」と誰何され、まぁ確定
・「検死に回すので9万円必要になります、葬儀会社が当座払うので後で精算してください(神奈川県なので)。葬儀会社には『警察案件なので』と伝えてください」と言われる
・「小さなお葬式」に電話して「警察案件なので、よろしくお願いします」と伝える。斎場が決まり一報。「検死の終わりがわからず、そちらへの到着が月曜以降になるかも」と前振り
・兄と合流して管理会社に向かう。ここではしご車の話、半年分滞納していた管理費の話(いまどき手渡しで、未納を指摘されても対応できなかったらしい)をされる。特殊清掃会社も紹介してもらう
・特殊清掃会社の担当者が1時間後に来てくれて内見。1KD50㎡の見積もりが2日間作業で133万円。相みつを取る余裕もなく(ご遺体はもうないがニオイがすごいので。虫もすごかったはず)、言い値で承諾、鍵を預ける。一連の費用は母が払うことに
・自分とのやりとりで「匿名にしますので会社の宣伝で作業の様子をYOUTUBEにアップするのOKしてくれたら3万円値引きします」と言われ、一瞬迷ったが断る。兄にバレたら面倒だったので
・土曜中に検死が終わりましたと日曜午前に警察から一報あり。時間を合わせ、母、兄と共に斎場にかけつけたが叔母は専用の袋に密封された状態で納棺され、棺自体も蓋をしたまま。顔を見てお別れどころの騒ぎじゃない。泣き崩れる母。たしかここで死亡診断書をもらったような。
・命日は推定。死因は持病(がん)由来の炎症。この記述があって、がん保険が満額出た
・いわゆる「葬儀」はできません、「直葬」です、と斎場から念を押される。3日後の火葬までの間に、駆け付けられる親族を一堂に集めて、平服でお別れの会を20分設ける。線香をあげられるタイミングはここしかなかった
・火葬の際にお坊さんに念仏を唱えてもらうことに決定。「小さなお葬式」に宗派をつたえて戒名をオーダー。位牌を作るつもりはなかったがプランの中に含まれていたのを見逃しており、後日突然宅急便で届いて慌てた(返品もできず)
・火葬日当日、我が家は斎場に向かい霊柩車に伴走する形で火葬場入り、他親族&僧侶は直接火葬場集合。火葬炉に入る直前、お棺に花を入れさせてもらえることになったが、蓋を開けたら白い布団がかけてあり、ご遺体の様子はまったく見えず
・待つ間に通夜ぶるまい(のランチ)。食後、骨上げ。叔母の私物は、特殊清掃会社担当者が内見の際にピックアップしてくれたスマホと、使っていない財布しかなかったので、自分が持っていた祖父の形見(竹尺)を骨壺に入れる。
・使っていた財布やマイナンバーカードは見つからなかった。警察に「亡くなった時に着用していた衣服は処分しますね」と言われたが。いや本人が外で落としたやもしれず、いずれにしろ口座は早くに止めたので特に問題なし
・親族はここで解散。我が家は、叔父が眠っている合葬墓に向かい、その足で納骨。葬儀関連はここで終了
・室内のものは衣服・家具等すべて処分(くどいようだがニオイがすごいので)。作業終了後の立ち合い&鍵を引き取るために叔母宅へ。後日・通帳、保険証書、公正証書等財産関連書類 ・アルバム、手紙 ・アクセサリー が宅急便で送られてきた。段ボール2つ分
・都市銀行、地方銀行各1行ずつと、ゆうちょ銀行の通帳が見つかった。また、投資信託をしていることは聞いていたし、この世代の人なので生命保険にも入っているだろうとは思っていた。で、最終的に追加で都市銀行2行、金投資1社、生命保険2社が見つかった
・通帳があるものはHPで専用連絡先(相続窓口)を調べ、封書が残っているものは「お客様番号」的なナンバーを探しつつ本人死亡を伝え、口座ストップ or 死亡保障受取の手配を行う。「すべての財産は姉(自分の母)に」と、生前に公正証書を残してくれていたのが大変ありがたかった
・とはいえ「その公正証書、最新のものですか?」を証明するために公証役場に行き、必要書類を提出した(手続き人である自分と叔母とのつながりを証明するため、祖父母までさかのぼった戸籍を取り寄せた)。公正証書のコピー提出を求めた企業は多かったが、「公正証書の証明書」の提出まで必要だったのは金投資だけだった(確か。記憶曖昧)。
・母も80歳オーバーで自力で解約手続きができず、「お電話は相続人ご本人様から承ります」という企業がほとんどだったため、有休を取って実家に戻り、スピーカーにして電話連絡をする×手続き件数分。母はインターネッツをやっていないのでそもそも実家に回線はなく、リモート云々は無理筋だった
・銀行、生命保険は書類が残っていても問い合わせたら解約済みというケースが複数回あり。逆に書類が残っていなかったのに「マイナンバーのご提出をお願いします」「支店が移転します」の通知で初めて存在を知ったパターンがあった。この連絡が来なければ、叔母が口座を持っていたこと自体知らないままだった。仮に取りこぼしがあっても借金と異なり、調べる手段がない(と思っている)。叔母の財政上、無借金はほぼ確なのでそこは心配していないがマイナンバーで管理が簡単になるとよいと思う
・郵便物が残っていない各所引き落とし先を探すため、残高証明書と同時に過去3年分の出金記録を取り寄せて、片っ端から潰していった
・相続税算出に当たり、命日時点の残高が必要だったが最新の残高を調べてしまったので、残高証明書については二度手間になった
・郵便受けの鍵が見つからず、鍵屋を読んで錠前を壊してもらう。現場で「身分証明書と、故人とのつながりがわかるものを見せて」と言われ焦る(叔母あての郵便物をたまたま持っていたのでギリセーフ)。鍵は後日、初期のうちに確認した印鑑群の中から見つかった
・昔の人らしく「通帳ごとに印鑑を変える」で印鑑は複数あったが、手元に残っていたどの通帳とも合致するものがなかった。まぁもう印鑑なくても手続き進められましたが…
・長年通っていたカルチャーセンターに挨拶に行き、同窓会に差し入れのお菓子を持参し、8通ほど届いていた年賀状に訃報を返信。これでひととおり周知は終了(スマホは個人情報で開けられず退会のみ。紙の連絡帳は残っていなかった)
・靴のかかとを踏んだまま歩き、加齢臭が漂っていて、身だしなみが整えられなくなっており、認知症の前段として「ものわすれ外来」へ誘導するなどしてみた。が、CTスキャンで異常が出ず長谷川式もクリア。そうなると「私はまだ大丈夫」とケアマネ等の地域医療に繋がってくれなかった。もし繋がっていれば「死後しばらくしてからの発見」にはならなかったのでは
・母と叔母、姉妹で同じ養護老人ホームに入るべく下見をスタートした2週間後の急逝だった。何度も何度も入居を勧めたため、一度「私の友達で、そんなとこ入っている人ひとりもいない!」と返された。「その人たちもひとり暮らしなんですか?」と喉まで出かかってやめたが、今となっては言っておいた方が自分の気は済んだと思う。何かあった時のために管理人の連絡先を教えてくれ、合鍵をくれetc.、何を頼んでも一顧だにされなかった。靴は一緒に買いに行った
・半年ほど前から「スマホがみつからない、どこかで落とした」。しかし実際は家の中の目につくところにあったらしく、特殊清掃の人が内見後に「とりあえずお手元にあった方がいいと思って」と渡してくれた。既にスマホが認識できなくなっていたのだ
・もう1人の兄弟と不仲だったせいで、公正証書を作成していた(兄弟は遺留分を請求できないので、そのガードのため)。これがあって、もろもろの手続きを我が家で一手に引き受けられたのは幸いだったし、なければ「相続人全員の同意」が必要だったため、ものすごく時間がかかったと思われる(代襲相続含め、対象者はあと4人いた)
・銀行、年金、生命保険etc.の書類はすべてまとめて1つのカバンに入れる。エンディングノートも書いた。サブスク関連もまとめて記入
・銀行口座は2つに、生命保険は1つに絞った。印鑑も1つに。解約した銀行や保険の書類は捨てた
・家に入ってすぐの引き出しに現金10万円を入れた封筒を準備。家の鍵の予備、宅配ロッカーの共通キーも封入し、封筒には郵便受けの開け方(右に2回、左に1回まわす的なやつ)を書いた
・独身の自分もこうなる可能性があるので、後に残る人が困らないようにせねばと強く思った。以上、お読みいただきありがとうございました。
週末、70代の父親のLINEアプリの設定で質問されて技術知識の偏り方について感じることがあった。
要はLINEアプリに写真アプリへのアクセス権を与えていなかったので写真が送れないってことだったんだけど、その時のやりとり。
父「LINEで写真を送ろうとしたら、写真選ぶときに手間がかかるようになったので、どうにかならんか?」
見てみると、写真選択の時に「LINE は選択した写真動画のみアクセスできます」ってなってたので、おそらく最近機種変したときに設定が変わったのだろう。
私「LINEに写真を見る権限を与えてあげないと写真が見れないんだよ。」
父「写真を見るのは僕なのにか?現に『写真』を開くと全部見られる状態なのに?」
ここで、少し意味を図りかねたが、あぁ、「主体がこのスマホを使っている自分」という視点なのかと気付いた。
私「なるほど。でも、LINE はあくまで第3者でiPhone にある写真とか大事な情報にアクセスするために合鍵を渡してあげないとLINEは写真を見られないんだよ。」
とりあえず、写真への権限をフルアクセスに設定するように教えて解決した.。
父は初代PC-8801 の頃からPC に触れてきたが、いかんせん起動したらログイン無しで
使える環境で通してきた(※)ので、権限というか他にこのシステムを使うユーザーやアプリケーションが
いるということに意識が向かないままここまで来ちゃったんだろうなぁ……と、初めて気付いた。
何ならWebサービスですら、そういう意識で使ってる節がある。
今はLinuxデスクトップを常用しているが、自分以外使わないからLinux のログインすら煩わしく感じているようだ。
続き
そもそも増田は裁判所やメディアに嫌われてるらしいが、第〇生命や〇村不動産の顧客らに容疑がかかりそうな殺人を追及しているためだろう
尼では身に覚えのない定期便が追加されており(注文時刻のブラウジング履歴もなかったが)、回収業者に来てもらって玄関で応対したら、靴箱の上に置いたスマホが消えた、という事件が発生した。
回収業者が不審な動きをしたことはなかったように思うが、スマホにコールしても電源入ってないし、すっぱり姿を消して気味悪い。
野村證券でパス盗難が発覚とか、大本営発表のいうセキュリティがどう信じられるというのだ。誰が狙われてるやらだ。
鍵穴レントゲンでも取れば、合鍵だって作れるだろうし。福島原発を爆発させて、ガイガーカウンターの値を高くしておけば、放射線使ってもバレないよな。
<追記>
スマホは床にあった書類箱の中で、メモリいっぱいの状態で発見された。留守電が動かなかったということである。
書類箱は常に棚に置かねばならないことが分かった
ぼんやりつらいなーと、人格否定されたり不幸が続いて思ったので人生をまとめて現状を言語化してみた
まだ記憶が曖昧な頃ですが、保育士に備品に傷を付けた件で猛烈に叱られたことを覚えており、今でも思い出して身体が固まります。
「死」という概念を知りどうしょうもない恐怖に苛まれ、家族も自分もいずれ何もかも死ぬんだ、どうせ苦しんで死ぬのに勝手に生み出すなんて酷いと両親を呪い始めたのがこの頃からだと思います。
母親が育児ノイローゼになり、仕事を辞め、家賃が安いエリアに引っ越し幼稚園へ行くことになりました。
特にイジメなどは自分の主観ではありませんでしたが、遅刻癖とぼんやりとした不快感不安感を抱えて過ごしていました。
区域が近い女子生徒3人と登校することになりました。ウマが合わないのか失言をしたのか(1人が父親不在家庭だったためそれを聞いたのが引き金かな?と思いますが幼少期なので理由はわかりません)ハブられを受けました。登校時は親の目があるので特になにもしませんが帰宅時は先に進んでニヤニヤしながらこっちを見てきて自分が近付いてきたらまた遠ざかってうわ来たwみたいなことを言ってくるタイプのハブられでした。ある日限界になって泣いたら収まりましたが、当時の自分はまた友達に戻れたと馬鹿正直に思っていました。
休み時間に遊ぶ仲良しグループでハブられました。態度が偉そうだからクビとリーダー格の女子に言われ、行く場所がないので毎日休み時間は下駄箱の前で泣いていました。
高学年になるとそれまでよりも上手く立ち回れるようになり、中学受験組が内申を気にし始めたのか目立った奇行をする子供も減りなんとか他人と談笑したり図書室や階段の踊り場に避難したりするようになりました。それでも学校にいるのはつらかったので定期的にトイレで泣いていました。
しかしこの頃から父親がアルコール中毒の片鱗を見せ、母と常に深夜まで喧嘩していました。DSで見れるインターネットのアニメ・マンガの二次創作サイトだけが心の拠り所でしたが、定期的に没収されたり壊されたりしました。居場所はありませんでした。
親がうるさくて気が滅入る、なんだかめんどくさいという抑鬱症状であまり風呂に入れなくなり担任に度々注意されました。
地域の繰り上がり中学校に入学。制服は買ってもらえましたが入学して校章のピンズ500円かかることが判明しました。祖父母のお年玉以外のお小遣いをもらったことがないので買えませんでした。校章をつけてない自分は担任に指導室に呼び出されました。結果的に教師からピンズを貰ったのですが、それから発達かボーダー?で1日1回は歩き回ったり暴れたりして授業がおじゃんになるような生徒が何回席替えしても近くに配置されました。この中学校には支援級のようなものはなかったです。
このストレスで過敏性腸症候群を発症し学校にいる間はおならが止まらなくなるようになりました。病院には行かせてもらえなかったです、金が無いらしいので
ある時休み時間に走り回る他害くんが近付いてきたので怖くて反射で突き飛ばしました 暴力沙汰として指導室に呼び出されました。一方的に詰められあの生徒に配慮をしろと言われしんどくなって泣きました。
多分そこで明確に学校側からの監視対象になったんだと思います。
父親のアル中が悪化し家庭内は荒れに荒れました。なんかずっと物が飛び交ってた気がします。同時に母親も現在ネットでよく見るような陰謀論、統合失調症のような言動が増えました(盗聴器、車が追いかけてくる、創価の集団ストーカー、盗撮されてる、喋った言葉が迷惑メールに反映されてるなど)かなり社交的な人でしたが段々と塞ぎ込んでいきました。
あの頃からずっと離婚したい離婚したいと叫んでいる母親の姿を鮮明に思い出せます。死ぬ間際まで同じことを言っていたので。私の存在のせいで離婚に踏み切れなかったのか、経済的に不可能で諦めていたのか、もう死んでいるので聞けません。
最終的に小便を撒き散らしながら外で暴れた父は警察を呼ばれ閉鎖病棟行きになりました。
この時期は精神が限界だったので正直仔細をよく覚えていません。
同時期に自分は軟式テニス部で先輩と同級生とコーチに虐められてました。仲良しグループと一緒に入部したので抜けられなかったです。(今思えば自分にだけ強い球を出しからかわれ雑用にこき使い物を隠されたりしてたのを静観してただけのあの人たちは仲良しでもなんでもないな)でも当時はその人たちしか人間関係がなかった。3年になってやっと登校を共にしていた人と一緒に部活を抜けられました。その人と一緒に美術部に入りましたがその人は先に男女グループに入り、自分は既存グループや後輩グループにも入れず一人で下手な漫画絵をカリカリ描いてるだけの時間を過ごしてました、結構つらかったです、自分にだけ男女グループで付き合ってるとか遊びに行ったとかの情報回ってこなかったし、校外部活動は一人だったし
同級生と話を合わせるために好きな人がいる設定を作ったり流行りの漫画を履修するためにブックオフに通ったりの努力をしましたが居場所はなかったです
常に疲れており、死にたかったです。
両親に生活保護の申請を打診しましたが謎のプライド発揮して申請してなかったですね。自営で年収300万に届いていなかったし世帯主は閉鎖病棟ぶち込まれたし入れ違いに働き始めた母親もそんなに貰ってなかっただろうし貯金も聞く限りなさそうだったし通りそうでは?とは思うんですけど今でも。
頑張って揃えた漫画を全て売られていた時はもうそういう星の下に生まれたんだなと何も感じませんでした。
3年になって受験のために塾に通う必要が出てきましたがそんな金はないため、市の「志望校に受かったら助成金返済不要」制度を使って通いました。同級生がいそうな地元の塾に行くのはいじめられそうで怖かったので2駅先の塾に自転車で通いました。落ちたら終わりなので退路がなくてつらかったです。塾は進学校コースに女子4人クラスになりましたが自分だけ明らかに浮いてて会話についていけてませんでした。担当の若い男性教師にはオタク趣味を開示してないのに「◯◯さんって腐女子?(笑)」と言われました(その時代の腐女子は汚い芋女オタクみたいな意味が強くあった)他クラスも混じっての談笑の場でも会話に入れず浮いてましたね。
受験の時期に謎に担任に呼び出されて素行不良で内申を下げると言われました。意味が分からなかったしこのままでは中卒になると絶望して号泣発狂しました。後から聞きましたが担任は自分の周りの生徒にあいつは危険だから関わるなと触れ回っていたらしいです。高校は受かったから内申はなんとかなったんですかね
そういえば中学時代学校以外で誰かと遊びに行ったとか1回もないな〜
結果的に都内で偏差値60程度の平均よりちょっとマシくらいの公立高校に進学しました。これも自転車で20分だったのでまた私立高生や電車通学生より圧倒的に「金がかからない」人間になれました。学費は出してもらえることになりました。お小遣いはないのにバイトは禁止されました。
周囲は"つまらない学校"と自虐する風潮がありましたが自分にとっては義務教育動物園より治安が圧倒的に良く陽キャが褒めそやされるわけでもなく陰キャがイジメられるわけでもない"そこそこの知能と常識を持つ者のつまらなさ"が集う場所は今までで2番目にマシでありがたかったです(1番は現状、年単位で人と会話しなくてもいい引きこもりのこの現状です)自分のようなつまらない人間がいてもいい場所でした。陰キャなりにオタクっぽいグループにも属せて、美術部に入ってオタクの話をして、ただ会話してくれる人間はいましたが1番の友達になってくれる人はいませんでした。みんなそれぞれ楽しくて面白くて魅力のある人間関係を既に築いており、自分のような低能の入る隙はどこにもなかったです。
同時に入学頃からもう発達が炸裂し始め、(入学前の必須勉強をしない、遅刻、傾眠、易疲労、無断欠席)帰宅後即疲労で寝る生活を繰り返し全く勉強も出来なくなりました。 無事呼び出しをくらいまくる劣等生と化しました。3年の単位は本当は赤点だし追試や追加レポートも出してないのに何故か卒業したので謎の慈悲をかけられたのだと思います。職員室の前であいつはもうどうしようもないと言っているのが聴こえました。
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受験は入学金を期日までに払い忘れ(そもそも私立に行く金はないと言われ国公立に行く学力もあのありさまなので無く)他県の公立を受験しに行き遅刻して当然落ち、浪人し、バイトして金を溜めましたが毎日疲れて寝ていたので勉強は全くせず見かねた父親が通信制大学(学費が30万くらいで安い)を勧めてきたので仕方なくそれにしてまた「金のかからない」人間になりました なんで子供にせめて大卒資格は取れと言うのに大学の金出さないんだろうとは思いましたがどうせ元アル中の他責の未診断ASDで話が通じない相手だし暴れられてもダルいしどうでもよかったです 自分は私立の大学に親金で行ったくせに。
キラキラ大学生活を見るのが苦しくて数少ない高校の知り合いのいるリア垢からログアウトし、誰とも連絡を取らなかったのでその後10年ほど誰とも会いませんでした。特に声をかけられるわけでもなかったのでつまらない人間性を強く実感しました。
清掃バイト先でもふんわりとイジメというか嫌味を言われることが多かったです。寡黙でキョドキョドしているので「昔いじめられてたんじゃない笑」「空気悪くなる」「顔可愛いよね(お世辞でも言わないレベルで奇形です)」優しいおばあちゃんが場を仕切っていたので業務に差し支えはありませんでしたが。
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自由な時間と金ができたこのタイミングでスプラトゥーンに出会いました。はじめてつらい現実を忘れ熱中出来るものに出会いました。1000時間くらいやりました。実況配信も見始めました。好きなものを楽しそうにやっているコミュニティは煌めいて見えました。勉強はしませんでした。
オーバーウォッチに出会いました。5000時間以上やりました。1日10時間以上やってました。
エーペックスに出会いました。その後上に同じくです。
ヒプマイの流行経由でハイローを観ました。数年ぶりにバイト以外で外出し映画を見に行きました。5年ほどROMだったツイッターを作り二次創作をはじめました。
その後熱が冷めてきた頃に母の様子がおかしいことに気づきはじめました。
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3年前母親が腹水の溜まった状態でみつかり余命一ヶ月と言われ、介護が始まりました。
妊婦のように膨れた奇形の姿はフラバする都度目眩がし視界が暗くなります。
自分は同じ部屋で暮らしながら何となく気付いていながら何もしなかったので、自分が殺したようなものです。
その頃自分はずっと寝続けて週一でバイトしてゲームで現実逃避する生活だったのでトイレ飯風呂以外で部屋から出ずエンカウント頻度はあまりありませんでした。
母の部屋は壁や家具が糞便に濡れゴミ屋敷だったと掃除した父親が言っていました。自分の部屋もゴミ屋敷なので認知が歪んでいて良く分からなかったです。
救急車で運ばれ余命宣告された日に凄まじい感情の波に襲われ(今思うとあれが人生で1番の発狂だったと思う)次の日はじめて精神科へ行き抗鬱剤と抗不安剤を出されました。
母が死ぬ、世話をせねばならないのに傾眠は治まりませんでした。近くで痛い助けてと叫ばれたり父に揺すられても起きれません。ケアマネの人には合鍵で入ってもらってました。
介護は主にオムツ替え、薬の処方、身体の清掃、食事提供、絶叫が聞こえたら医療用麻薬の貼り付けなどです。非力なので腹が膨れた人間の体勢を変えられず何度も本人から使えねえと言われ突っ張り棒か何かで叩かれました。
自力で介護用ベッドから這い出ようとして落ちた母親をどうしても持ち上げられず、そのまま放置した時は酷い罪悪感に苛まれました。
■
母が死にました
翌日喪服のまま同人誌即売会に行きました。その頃よすがにしていたカプのオンリーでした。絨毯買いしましたが今も大半は読んでません
多分ハマっていると思い込むことで全てから逃げていました 人生の己の選択全てがそうなので、そうなんだと思います
半年ほど寝たきり半絶食状態になり体重が33キロとかになって肋骨が浮いててウケました。常に悪夢を見るようになり寝るだけで疲れ、起きてもフラバが続き、全てが恐ろしくなり、不眠と過眠を同時発症しました。
眠剤が出され始めました。
母本人は骨は海に撒けと言いましたが娘が父方の親戚との縁を切らさないためにと骨は秋田の墓に入れることになってました。骨壺ごとではなく骨は他の人と纏めてザラザラと同じ墓に入れる風習だそうです。あんなに憎んでいた父といずれ一緒くたにされるのはあまりにも憐れだと思いました。
なので骨壺から全部骨を出して畳に並べて全てに紫のペンでマークをつけました。途中で帰宅を早めた父に見つかり死人を侮辱するなと怒鳴られました。生きてる間はなにもしなかったくせに。
その後誰もいない時また骨壺を開けて形のいい
納骨時に最後に入れるはずの喉仏の骨(あれ本当は喉仏じゃないらしいですね)が中にはいってないのに気づいたお坊さんの怪訝な顔は面白いので今でも思い出せます。
骨は硬いカルシウム剤の味がしました。しまってその後は開けてないので今見たらカビてるかもしれません。海に撒けと言っていたのに、憎んでいた父方の墓に入れられたのに今はタッパーに入れられてるなんて哀れであとちょっと胸のすく思いがします。
寝たきりのままですが1ヶ月ほどして少しずつ絵を再開しました。ゲームをすると親を見殺しにしたのにお前はのうのうと遊ぶんだという思考に飲まれドーパミンが出なくなったから仕方なくでした。手を動かしているとある程度の頻度で過集中しフラバが来づらくなり、あと絵を描くことは別に楽しいと思わないから、体力も消耗しづらいから、仕方なくです。本当に絵ってつまらないし出来上がったものもつまらない
waisを受けました。結果凹凸ありボーダーな感じでその時確定で発達とは言われませんでした。
その後機会があり診断書を書いてもらいました。鬱ASDADHDでした。過眠不眠が無いのが意外でした。
同時に提出用の自分の人生と症状を書き連ねる作業をしました。客観的に見る人生はあまりにも無価値で無様で半狂乱になり泣きました。
■
1年後祖母が死にました。元々北海道にいた徘徊認知症で、トラブルを起こす度に母が飛行機に乗って処理して手を焼いていたので東京に越させ母親と自分が自宅介護していましたが母が死んでから叔父のもとで施設入居していました。それ以前はかなり地域支援センターにお世話になりました。動ける認知症だったのでかなりハードな介護で母親はノイローゼ気味で、統失の症状も増えていたように思います。介護期の自分は抑鬱が酷く判断力も低下しておりあまり手伝えていませんでした(まだ鬱とかの自覚がなかった)自分の気力がわかず外に出れず母の葬式の時から一度も会えずに、死にました。後悔しています。
■
ここまで来てようやく己の弱者性と未来のなさを本当の意味で受け入れ始めました。
同時にもうどうでもいいやと非常に破滅的で反社会的な行動を繰り返すようになり、そういう自分を良心に苛まれながらも開きなおって肯定しようとしています(詳しくは書けません)
常にフラバに怯え、特発性傾眠に怯え、虚無感と希死念慮に怯えて覚醒時間を過ごしています。過眠症で10〜20時間寝るので生産的なことがまるでできません。眠剤が上手く作用しない時は悪夢が来るので寝るだけで疲れます。
特に何も楽しくないです。何かを楽しいと思ったこともないです。母親が死んでからゲームを人生から奪われたのでドーパミンもアドレナリンも意識して出せません。何かの虚構コンテンツに熱狂するふりをして生の苦痛と覚醒している時間を誤魔化しています。
"みんな"が楽しそうにしていることの中で一人で出来るものを真似して自分は今快楽を得ているんだと思い込もうとしています。
絶っていた人間関係を少し回復させて"交友関係のある健常者"になろうと努力するフリをしています。
■
みんなみたいに友達がほしい
核兵器になれないなら早く殺せよ。
生きたくないというより苦痛はもう要らない
お前たちは何が良くて生きてるの?気持ち悪いんだよ
己が裁かれますように。
ぼんやりつらいなーと、人格否定されたり不幸が続いて思ったので人生をまとめて現状を言語化してみた
まだ記憶が曖昧な頃ですが、保育士に備品に傷を付けた件で猛烈に叱られたことを覚えており、今でも思い出して身体が固まります。
「死」という概念を知りどうしょうもない恐怖に苛まれ、家族も自分もいずれ何もかも死ぬんだ、どうせ苦しんで死ぬのに勝手に生み出すなんて酷いと両親を呪い始めたのがこの頃からだと思います。
母親が育児ノイローゼになり、仕事を辞め、家賃が安いエリアに引っ越し幼稚園へ行くことになりました。
特にイジメなどは自分の主観ではありませんでしたが、遅刻癖とぼんやりとした不快感不安感を抱えて過ごしていました。
区域が近い女子生徒3人と登校することになりました。ウマが合わないのか失言をしたのか(1人が父親不在家庭だったためそれを聞いたのが引き金かな?と思いますが幼少期なので理由はわかりません)ハブられを受けました。登校時は親の目があるので特になにもしませんが帰宅時は先に進んでニヤニヤしながらこっちを見てきて自分が近付いてきたらまた遠ざかってうわ来たwみたいなことを言ってくるタイプのハブられでした。ある日限界になって泣いたら収まりましたが、当時の自分はまた友達に戻れたと馬鹿正直に思っていました。
休み時間に遊ぶ仲良しグループでハブられました。態度が偉そうだからクビとリーダー格の女子に言われ、行く場所がないので毎日休み時間は下駄箱の前で泣いていました。
高学年になるとそれまでよりも上手く立ち回れるようになり、中学受験組が内申を気にし始めたのか目立った奇行をする子供も減りなんとか他人と談笑したり図書室や階段の踊り場に避難したりするようになりました。それでも学校にいるのはつらかったので定期的にトイレで泣いていました。
しかしこの頃から父親がアルコール中毒の片鱗を見せ、母と常に深夜まで喧嘩していました。DSで見れるインターネットのアニメ・マンガの二次創作サイトだけが心の拠り所でしたが、定期的に没収されたり壊されたりしました。居場所はありませんでした。
親がうるさくて気が滅入る、なんだかめんどくさいという抑鬱症状であまり風呂に入れなくなり担任に度々注意されました。
地域の繰り上がり中学校に入学。制服は買ってもらえましたが入学して校章のピンズ500円かかることが判明しました。祖父母のお年玉以外のお小遣いをもらったことがないので買えませんでした。校章をつけてない自分は担任に指導室に呼び出されました。結果的に教師からピンズを貰ったのですが、それから発達かボーダー?で1日1回は歩き回ったり暴れたりして授業がおじゃんになるような生徒が何回席替えしても近くに配置されました。この中学校には支援級のようなものはなかったです。
このストレスで過敏性腸症候群を発症し学校にいる間はおならが止まらなくなるようになりました。病院には行かせてもらえなかったです、金が無いらしいので
ある時休み時間に走り回る他害くんが近付いてきたので怖くて反射で突き飛ばしました 暴力沙汰として指導室に呼び出されました。一方的に詰められあの生徒に配慮をしろと言われしんどくなって泣きました。
多分そこで明確に学校側からの監視対象になったんだと思います。
父親のアル中が悪化し家庭内は荒れに荒れました。なんかずっと物が飛び交ってた気がします。同時に母親も現在ネットでよく見るような陰謀論、統合失調症のような言動が増えました(盗聴器、車が追いかけてくる、創価の集団ストーカー、盗撮されてる、喋った言葉が迷惑メールに反映されてるなど)かなり社交的な人でしたが段々と塞ぎ込んでいきました。
あの頃からずっと離婚したい離婚したいと叫んでいる母親の姿を鮮明に思い出せます。死ぬ間際まで同じことを言っていたので。私の存在のせいで離婚に踏み切れなかったのか、経済的に不可能で諦めていたのか、もう死んでいるので聞けません。
最終的に小便を撒き散らしながら外で暴れた父は警察を呼ばれ閉鎖病棟行きになりました。
この時期は精神が限界だったので正直仔細をよく覚えていません。
同時期に自分は軟式テニス部で先輩と同級生に虐められてました。仲良しグループと一緒に入部したので抜けられなかったです。(今思えば自分にだけ強い球を出しからかわれ雑用にこき使い物を隠されたりしてたのを静観してただけのあの人たちは仲良しでもなんでもないな)でも当時はその人たちしか人間関係がなかった。3年になってやっと登校を共にしていた人と一緒に部活を抜けられました。その人と一緒に美術部に入りましたがその人は先に男女グループに入り、自分は既存グループや後輩グループにも入れず一人で下手な漫画絵をカリカリ描いてるだけの時間を過ごしてました、結構つらかったです、自分にだけ男女グループで付き合ってるとか遊びに行ったとかの情報回ってこなかったし、校外部活動は一人だったし
同級生と話を合わせるために好きな人がいる設定を作ったり流行りの漫画を履修するためにブックオフに通ったりの努力をしましたが居場所はなかったです
常に疲れており、死にたかったです。
両親に生活保護の申請を打診しましたが謎のプライド発揮して申請してなかったですね。自営で年収300万に届いていなかったし世帯主は閉鎖病棟ぶち込まれたし入れ違いに働き始めた母親もそんなに貰ってなかっただろうし通りそうでは?とは思うんですけど今でも。
頑張って揃えた漫画を全て売られていた時はもうそういう星の下にうまれたんだなと何も感じませんでした。
3年になって受験のために塾に通う必要が出てきましたがそんな金はないため、市の「志望校に受かったら助成金返済不要」制度を使って通いました。同級生がいそうな地元の塾に行くのはいじめられそうで怖かったので2駅先の塾に自転車で通いました。落ちたら終わりなので退路がなくてつらかったです。塾は進学校コースに女子4人クラスになりましたが自分だけ明らかに浮いてて会話についていけてませんでした。担当の若い男性教師にはオタク趣味を開示してないのに「◯◯さんって腐女子?(笑)」と言われました(その時代の腐女子は汚い芋女オタクみたいな意味が強くあった)他クラスも混じっての談笑の場でも会話に入れず浮いてましたね。
受験の時期に謎に担任に呼び出されて素行不良で内申を下げると言われました。意味が分からなかったしこのままでは中卒になると絶望して号泣発狂しました。後から聞きましたが担任は自分の周りの生徒にあいつは危険だから関わるなと触れ回っていたらしいです。高校は受かったから内申はなんとかなったんですかね
そういえば中学時代学校以外で誰かと遊びに行ったとか1回もないな〜
結果的に都内で偏差値60程度の平均よりちょっとマシくらいの公立高校に進学しました。これも自転車で20分だったのでまた私立高生や電車通学生より圧倒的に「金がかからない」人間になれました。学費は出してもらえることになりました。お小遣いはないのにバイトは禁止されました。
周囲は"つまらない学校"と自虐する風潮がありましたが自分にとっては義務教育動物園より治安が圧倒的に良く陽キャが褒めそやされるわけでもなく陰キャがイジメられるわけでもない"そこそこの知能と常識を持つ者のつまらなさ"が集う場所は今までで2番目にマシでありがたかったです(1番は現状、年単位で人と会話しなくてもいい引きこもりのこの現状です)自分のようなつまらない人間がいてもいい場所でした。陰キャなりにオタクっぽいグループにも属せて、美術部に入ってオタクの話をして、ただ会話してくれる人間はいましたが1番の友達になってくれる人はいませんでした。みんなそれぞれ楽しくて面白くて魅力のある人間関係を既に築いており、自分のような低能の入る隙はどこにもなかったです。
同時に入学頃からもう発達が炸裂し始め、(入学前の必須勉強をしない、遅刻、傾眠、易疲労、無断欠席)帰宅後即疲労で寝る生活を繰り返し全く勉強も出来なくなりました。 無事呼び出しをくらいまくる劣等生と化しました。3年の単位は本当は赤点だし追試や追加レポートも出してないのに何故か卒業したので謎の慈悲をかけられたのだと思います。職員室の前であいつはもうどうしようもないと言っているのが聴こえました。
受験は入学金を期日までに払い忘れ(そもそも私立に行く金はないと言われ国公立に行く学力もあのありさまなので無く)他県の公立を受験しに行き遅刻して当然落ち、浪人し、バイトして金を溜めましたが毎日疲れて寝ていたので勉強は全くせず見かねた父親が通信制大学(学費が30万くらいで安い)を勧めてきたので仕方なくそれにしてまた「金のかからない」人間になりました なんで子供にせめて大卒資格は取れと言うのに大学の金出さないんだろうとは思いましたがどうせ元アル中の他責の未診断ASDで話が通じない相手だし暴れられてもダルいしどうでもよかったです 自分は私立の大学に親金で行ったくせに。
キラキラ大学生活を見るのが苦しくて数少ない高校の知り合いのいるリア垢からログアウトし、誰とも連絡を取らなかったのでその後10年ほど誰とも会いませんでした。特に声をかけられるわけでもなかったのでつまらない人間性を強く実感しました。
自由な時間と金ができたこのタイミングでスプラトゥーンに出会いました。はじめてつらい現実を忘れ熱中出来るものに出会いました。1000時間くらいやりました。実況配信も見始めました。好きなものを楽しそうにやっているコミュニティは煌めいて見えました。勉強はしませんでした。
オーバーウォッチに出会いました。5000時間以上やりました。1日10時間以上やってました。
エーペックスに出会いました。その後上に同じくです。
ヒプマイの流行経由でハイローを観ました。数年ぶりにバイト以外で外出し映画を見に行きました。5年ほどROMだったツイッターを作り二次創作をはじめました。
その後熱が冷めてきた頃に母の様子がおかしいことに気づきはじめました。
3年前母親が腹水の溜まった状態でみつかり余命一ヶ月と言われ、介護が始まりました。
妊婦のように膨れた奇形の姿はフラバする都度目眩がし視界が暗くなります。
自分は同じ部屋で暮らしながら何となく気付いていながら何もしなかったので、自分が殺したようなものです。
その頃自分はずっと寝続けて週一でバイトしてゲームで現実逃避する生活だったのでトイレ飯風呂以外で部屋から出ずエンカウント頻度はあまりありませんでした。
母の部屋は壁や家具が糞便に濡れゴミ屋敷だったと掃除した父親が言っていました。自分の部屋もゴミ屋敷なので認知が歪んでいて良く分からなかったです。
救急車で運ばれ余命宣告された日に凄まじい感情の波に襲われ(今思うとあれが人生で1番の発狂だったと思う)次の日はじめて精神科へ行き抗鬱剤と抗不安剤を出されました。
母が死ぬ、世話をせねばならないのに傾眠は治まりませんでした。近くで痛い助けてと叫ばれたり父に揺すられても起きれません。ケアマネの人には合鍵で入ってもらってました。
介護は主にオムツ替え、薬の処方、身体の清掃、食事提供、絶叫が聞こえたら医療用麻薬の貼り付けなどです。非力なので腹が膨れた人間の体勢を変えられず何度も本人から使えねえと言われ突っ張り棒か何かで叩かれました。
自力で介護用ベッドから這い出ようとして落ちた母親をどうしても持ち上げられず、そのまま放置した時は酷い罪悪感に苛まれました。
母が死にました
翌日喪服のまま同人誌即売会に行きました。その頃よすがにしていたカプのオンリーでした。絨毯買いしましたが今も大半は読んでません
多分ハマっていると思い込むことで全てから逃げていました 人生の己の選択全てがそうなので、そうなんだと思います
半年ほど寝たきり半絶食状態になり体重が33キロとかになって肋骨が浮いててウケました。常に悪夢を見るようになり寝るだけで疲れ、起きてもフラバが続き、全てが恐ろしくなり、不眠と過眠を同時発症しました。
眠剤が出され始めました。
母本人は骨は海に撒けと言いましたが娘が父方の親戚との縁を切らさないためにと骨は秋田の墓に入れることになってました。骨壺ごとではなく骨は他の人と纏めてザラザラと同じ墓に入れる風習だそうです。あんなに憎んでいた父といずれ一緒くたにされるのはあまりにも憐れだと思いました。
なので骨壺から全部骨を出して畳に並べて全てに紫のペンでマークをつけました。途中で帰宅を早めた父に見つかり死人を侮辱するなと怒鳴られました。生きてる間はなにもしなかったくせに。
その後誰もいない時また骨壺を開けて形のいい
納骨時に最後に入れるはずの喉仏の骨(あれ本当は喉仏じゃないらしいですね)が中にはいってないのに気づいたお坊さんの怪訝な顔は面白いので今でも思い出せます。
骨は硬いカルシウム剤の味がしました。しまってその後は開けてないので今見たらカビてるかもしれません。海に撒けと言っていたのに、憎んでいた父方の墓に入れられたのに今はタッパーに入れられてるなんて哀れであとちょっと胸のすく思いがします。
寝たきりのままですが1ヶ月ほどして少しずつ絵を再開しました。ゲームをすると親を見殺しにしたのにお前はのうのうと遊ぶんだという思考に飲まれドーパミンが出なくなったから仕方なくでした。手を動かしているとある程度の頻度で過集中しフラバが来づらくなり、あと絵を描くことは別に楽しいと思わないから、体力も消耗しづらいから、仕方なくです。本当に絵ってつまらないし出来上がったものもつまらない
waisを受けました。結果凹凸ありボーダーな感じでその時確定で発達とは言われませんでした。
その後機会があり診断書を書いてもらいました。鬱ASDADHDでした。過眠不眠が無いのが意外でした。
同時に提出用の自分の人生と症状を書き連ねる作業をしました。客観的に見る人生はあまりにも無価値で無様で半狂乱になり泣きました。
1年後祖母が死にました。元々北海道にいた徘徊認知症で、トラブルを起こす度に母が飛行機に乗って処理して手を焼いていたので東京に越させ母親と自分が自宅介護していましたが母が死んでから叔父のもとで施設入居していました。それ以前はかなり地域支援センターにお世話になりました。自分の気力がわかず外に出れず母の葬式の時から一度も会えずに、死にました。後悔しています。
ここまで来てようやく己の弱者性と未来のなさを本当の意味で受け入れ始めました。
同時にもうどうでもいいやと非常に破滅的で反社会的な行動を繰り返すようになり、そういう自分を良心に苛まれながらも開きなおって肯定しようとしています(詳しくは書けません)
特に何も楽しくないです。何かを楽しいと思ったこともないです。母親が死んでからゲームを人生から奪われたのでドーパミンもアドレナリンも意識して出せません。何かの虚構コンテンツに熱狂するふりをして生の苦痛と覚醒している時間を誤魔化しています。
"みんな"が楽しそうにしていることの中で一人で出来るものを真似して自分は今快楽を得ているんだと思い込もうとしています。
絶っていた人間関係を少し回復させて"交友関係のある健常者"になろうと努力するフリをしています。
核兵器になれないなら早く殺せよ。
生きたくないというより苦痛はもう要らない
お前たちは何が良くて生きてるの?気持ち悪いんだよ
己が裁かれますように。
宮下は斎藤慶子と付き合っているとメールしてきたが、その9ヶ月後に、ステージ4の胃癌が発見されたのだし、手順よく国立癌センターに収容されたりしていた
宮下は毎週ゴロゴロと死体が出る場所に耐えられず、自宅療養に戻った
そのあと、斎藤から、宮下が死にそうだと携帯に伝言があったことがあった
長年の友人が死ぬところをどうしても見せつけてトラウマにしたかったらしい
お前が彼女だっただろ? 宮下が会いたくないっても大方テメエが言わせたんだろうが
どうせもう死んでんだろ?
斎藤は、その後半年ぐらいして米軍兵と結婚し報酬の米国籍とグリーンカードを得た
その後、パソコンからは宮下が齋藤と付き合っていると伝えてきたメールが消滅している
私はデータを消すことがほぼないにも関わらずだ
警察庁や米軍が合鍵泥棒を使っていることは知っているし、なんならPC遠隔操作も入ってるが
虎ノ門の金融弁護士団体も裁判所も絡んでいるから、司法動かざること難破船のごとしで腐った水死体が異臭を放っている
まるで八潮市の道路で沈没した大型トラックの運転手が陥った状況のように、忽然とデータが消えるわけだ
おおかたUSAIDもまたそういう団体で、あるいはグリーンカードで釣ってる団体そのものだっただろうよ
オウム真理教事件は、おおかた法曹絡みの事件だから、警察介入が遅れたり、無実の人が犯人扱いされたんだよなぁ
なぜなら、増田も無実を主張しているが、以下のとおり、法曹と郵便局員に付け狙われながら、有実と決めつけられるだろう判決を待っている
こういう蛇幽霊のやつらなら、オピオイドガスなど平気で使うだろうと思うわけである
どうしてくれるんだろうなぁ?
またニヤニヤ笑うんだろうなぁ
傷害事件隠蔽しているてめえらも傷害殺人罪の容疑者だぞ?と言っても、本人らが法曹だから事件隠蔽技術にも長けている
この蛇どもらが関係なくても、何かあったら、毎回苦情するぞ?
蛇どもなら、どうせ日本の投資で、新たなCIAを作らせたいんだろうな
私は真奈(まな)といいます。都内の小さな会社で事務員として働いており、平日は仕事と家の往復、週末は少しだけおしゃれなカフェを巡ったり友人と過ごしたりする、ごく普通の生活を送っていました。大学を卒業して数年、特別な趣味や特技もなく、かといって生活に不満があるわけでもない――そんな私でした。
ところが、ある出会いをきっかけに、それまでの平凡な日常が少しだけ色づき始めることになったのです。出会いの相手の名前は、川瀬(かわせ)さん。私が勤めている会社の取引先の男性で、営業担当として度々やり取りをするうちに、いつの間にか気になる存在になっていました。
彼は社交的で、仕事もきっちりこなすスマートなタイプ。穏やかだけれど芯が強く、誰に対しても丁寧で親切でした。最初は、そんな「仕事のできる大人の男性」に単純にあこがれを感じていただけだったのですが、徐々に彼自身の人柄にも惹かれ始めていたのです。
そしてある日、仕事上の用事で遅めの打ち合わせが終わったあと、「よかったら少しだけお茶でもどう?」と誘われました。もしかしたら、プライベートで話すのはこれが初めてかもしれない。私は胸の鼓動を抑えながら、喜んでうなずきました。
お互いに終業後だったので、近くのカフェに入ることに。打ち合わせのことや最近の仕事の近況など、他愛のない話をするうちに、ふとプライベートな話題になりました。大学時代のことや友人、家族のこと。私も彼も、お互いが初めて知る部分を少しずつ共有し合い、その時間はとても心地よかったのを覚えています。
その後、少し間があった後で彼が口を開きました。
「もし迷惑じゃなかったら、もうちょっと先のバーでもう一杯どうかな?」
本当なら終電の時間や翌日の仕事を考えなきゃいけないところだけれど、そのときは自然と「行きたいです」と口をついて出てしまったんです。大人の雰囲気漂う小さなバーで、彼は何度もこちらの都合を気遣ってくれましたが、私は「大丈夫です」と笑って応じました。ここまで連れ出されることに対して、まったく抵抗がなかったのです。それどころか、「一緒にいたい」という気持ちがどんどん膨らんでいきました。
お互いにお酒が進むにつれて、少しずつ打ち解け、距離感も縮まっていきます。ふとした瞬間に、彼の視線が私を真剣に見つめていることに気づき、胸が高鳴りました。その夜は、そのまま彼の家に誘われ――もちろん、自分の意思でついて行きました。
彼の家に足を踏み入れたとき、私は緊張でいっぱいでした。適度なお酒も手伝い、彼との距離が急に近づいたことで、どう振る舞えばいいのか頭が追いつかない。だけど不思議と怖さはなく、むしろ「この人になら身を任せてもいい」と思わせる安心感がありました。
部屋は整理されていて、淡い暖色のライトが落ち着いた雰囲気を作り出しています。ソファに座って向かい合うと、なんだか仕事で見せるきりっとした表情とは違う、少し素直で弱い部分をのぞかせてくれる気がして、私はさらに惹かれていきました。
最初はほんの少しのキス。彼がゆっくりと私を抱き寄せると、自然と体が彼のほうに傾いてしまう。胸の奥がドキドキして、どうしていいかわからない。でも、自分からも彼に触れたいという想いが募っていきます。
そこで私が感じたのは、「この人を喜ばせたい」「彼のためにできることを、何でもしてあげたい」という気持ちでした。いわゆる“奉仕”といっても、服従のように無理やり従わされるのではなく、私自身が心から「こうしたい」と思った行動です。いま、私の感情のベクトルはすべて彼に向かっていました。
互いが満たされるための奉仕
身体が触れ合い、彼が私の耳元で甘く低い声で囁くたびに、何ともいえない心地よさが全身を巡ります。私から積極的に抱きしめた瞬間、彼は少し驚いたようでしたが、すぐに優しく笑って応えてくれました。
「無理しなくてもいいんだよ。疲れてるだろうし」
そう言われてみると、たしかに遅くまで仕事をして、そのまま深夜まで飲みに行ってしまった疲れはあるはずです。しかし私の気持ちは、疲労よりも「もっと近づきたい」という欲求のほうが勝っていました。自分でもこんなに素直に感情をさらけ出せるんだ、という驚きがありました。
奉仕といっても、彼を一方的に崇拝するようなことや、尽くしてへりくだるような行為ではなく、お互いに満たされるための優しさや思いやりの交換だったと思います。彼が疲れていそうなら肩をそっと揉んであげる。彼は私が寒そうにしていればブランケットをかけてくれる。ソファに座ったまま、そんな細やかなやり取りを繰り返しながら、ときどき熱いキスを交わす。私にとっては、それがとても幸せで、まさに「奉仕している」充足感がありました。
朝を迎えてからの変化
そのまま朝を迎え、私たちは少し遅めに起床しました。彼の部屋の静かな空気と、カーテン越しにやわらかく差し込む朝日。いつもなら出勤のために慌ただしい時刻ですが、今日は週末。お互い特に予定もなく、しばしソファでぼんやりとテレビをつけて過ごしていました。
冷蔵庫の中にあった材料で彼が簡単な朝食を作ってくれました。パンにハムとチーズをのせて焼き、サラダを添えるだけのシンプルなもの。それでも一緒に食べると格別の味がしました。そんな何気ない時間のなかで、「ああ、自分がずっと求めていたものはこういう安心感なんだな」と感じたのです。
前夜のような激しいドキドキは少し落ち着いたけれど、穏やかな愛情がそこにはありました。私の中の“奉仕”の感覚は、彼にとって必要なことをできる限りサポートしたいとか、彼を気持ちよくさせたいとか、そんなシンプルな思いだったんだと気づきました。
それから私たちは、恋人同士としての関係をゆっくり築いていくことになりました。最初はお互いの仕事の都合や生活リズムがあるため、無理せず週末や休みの前日に会う程度。たまには仕事終わりに食事に行ってそのまま泊まることもありました。
何度か会ううちに、自分でも驚くほど相手を大切に思う気持ちが増していきました。「今日は疲れていそうだな」「悩みがあるのかな」と思ったら、私のほうからそっと肩を抱きしめたり、マッサージをしてあげたりします。一方、私が残業続きで心身ともにくたびれているときには、彼は「今日は僕が全部やるから」と言って料理や洗い物、洗濯ものまで引き受けてくれることもありました。
もちろん、ときには衝突することもあります。最初は優しさだけがあふれていた関係に見えても、ずっと一緒に過ごしていれば言い争いだって起こります。それでも大切なのは、互いに「相手のことを思いやる心」を失わないこと。それこそが、私にとっての“奉仕”の本質ではないか、と最近は考えるようになりました。
私にとっての「奉仕」とは
「男性に奉仕した話」と一言で言うと、なんだか従属的なニュアンスが強く聞こえてしまうかもしれません。けれども私が体験した“奉仕”とは、「私はあなたを大切にしたい」「あなたと一緒にいるこの時間をもっと幸せなものにしたい」という素直な気持ちの延長線上にありました。
それは決して自分を犠牲にすることでもなければ、相手の言うとおりにすべてを受け入れることでもありません。むしろ、相手への想いを行動で示すことで、自分自身も幸せになる――そんな関係を築けるようになったと思います。
人によっては「それは奉仕なんて堅い言葉じゃなくて、ただの愛情表現だよ」と言うかもしれません。でも、私にとっては“奉仕”という言葉がぴったりでした。なぜなら、愛情を注ぐだけでなく、「支えたい」「力になりたい」「相手の心も身体も癒したい」という意識がそこにはあるからです。
もちろん相手も、私に奉仕してくれることがあります。むしろ今は、どちらかが一方的に与えるのではなく、お互いが相手を想い合う形になりつつあります。だからこそ、私はこの関係を大切にしたいし、彼と一緒にいるときに自然と「何かしてあげたい」と思う気持ちが湧き上がるのだと思います。
終わりに
振り返れば、その夜に彼の家を訪れたのは軽率だったかもしれません。けれど、あのとき私は彼に惹かれていて、「この人になら大丈夫」と思える安心感がありました。それ以降、お互いを思いやる関係のなかで、私が感じる“奉仕”とはただの自己犠牲ではなく、自分の幸せとも繋がっている――そう心から実感しています。
「男性に奉仕した話」というと、どうしても刺激的な響きがあるかもしれませんが、私の物語は意外と穏やかで、日常的な愛情表現の延長にあるものだったかもしれません。大切なのは、相手の気持ちや状況を考えて行動すること、そして自分の想いも素直に伝えること。そんな当たり前のことが、お互いを満たしていくためには大事なのだと、私は改めて学びました。
いまでは、彼の家の合鍵を渡されるくらいには、信頼し合う仲になりました。まだまだこれから先、どんなことが起こるか分かりませんが、私のなかでは「奉仕したい」「支えたい」と思わせてくれる相手がいて、その想いを受け止めてくれる関係がある――それだけで、毎日が少しだけ輝いて見えるのです。
これが、私が経験した「男性に奉仕した話」です。もしかしたら拍子抜けするくらい地味で、小さな幸せの積み重ねにすぎないかもしれません。でも、その積み重ねこそが、本当の意味での充足感をもたらしてくれるのだと、私は信じています。
マッチングアプリで知り合った男性にしてもらって嬉しかったこと(anond:20241215222347)という記事を書いた。
これを読んで受け身、テイカーといった言葉を投げたくなる人はよほど苦労されているんだろうと思うし(受け身に見えるとしたら普段から女性一般をそう見ていて、バイアスがかかっていると思う。してもらって嬉しかったことは自分もしていると冒頭に書いているし…)、その苦労は今後も続きそうだし(その人たちは誰かになにかをしてあげたいと思うことがあるんだろうか。あるとして、「嬉しい!私もお返しするね!他になにができるかな?」以上のどんなリアクションを求めているんだろう?)、逆に「気遣いに気づける人は自分も気遣いができる人」「参考にする」と言ってくださる方はきっと普段から人の気遣いに意識を向けて、人に優しくあろうとしていて、私の記事のようなものからでも役に立つ部分を拾ってくださったのだと思う。
同じ記事でこうも真逆の反応と効果が生じるとは、と、分断を感じた。周りにいる人が全然違うのかもしれない。
男性に向けたデートテク的な情報に対して女性向けのものは調べてもあまり出てこなかったので、男性が不服に思うのは当然なのかも。
で、だからこそ私は他の人にとっての「これをしてもらって嬉しかった!」「これをしたら喜ばれた!」を知りたいので、続きを書きます。
マッチングアプリで気を付けていたこと、男性に対してしていたこと
してもらって嬉しかったこと上級編(彼が付き合う前にしてくれたこと、惚気)
報道を見るにスペアキーの入った封筒に3人分の印鑑を計6か所押された状態の物をどうにかして使用したということだけど、どうやったのか?
①封筒の縦の線の真ん中をカッターで切ってカギを抜いたか。抜いた後は、真ん中から再度入れて糊か両面テープで貼る。これはバレそうだ。
②普通に手で破って、同じハンコを3個買ってきて封筒を再生したか。これは、封筒に再生不可能なQRコードなどの印刷がなければできそうだ。
60件の被害ということだけど、2支店でそれだけやるなら、1支店500の金庫数だったとして、1000個ひたすら空けたと思われる。
そうすると封筒の再生は、本店に注文するものではなくて、量販店などで入手可能であったのかも。
③顧客に貸し出す前に、スペアキーを持ち出して、合鍵を鍵屋で作成してもらう。これなら、封筒に触らず、開けられるけど、全部は空けられない。
④そもそも貸金庫と同じ金庫自体を自前で購入。付いてくる鍵を持って出勤する。何百万円かかるかもしれないし、合わない可能性もあるが、〇億盗るなら、リターンはある。
どれかな?