
はてなキーワード:合唱曲とは
全部谷川俊太郎という演奏会を数年前にやりまして、その時の曲も絡めつつの三善晃「空」の話です。
演奏会は「木とともに人とともに」全曲、「祝婚歌」、「ハウルの動く城」主題歌の「世界の約束」、ほかにも盛りだくさんで、その頃書いた日記を元に雑感をダラダラ書きます。
私の中では、「空」と「祝婚歌」と「世界の約束」はセットなのです。
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「世界の約束」は、喪の歌なのですよね、配偶者を亡くした人の歌。
https://www.uta-net.com/song/20914/
もうパートナーは亡くなってて、「涙の後」「別れの後」なんですが、「思い出のうちに/あなたはいない/せせらぎの歌に/この空の色に/花の香りに/いつまでも生きて」
と、思い出の過去に閉じ込められずに今現在も未来も生きている。
一方、「空」はまだ死んでないパートナーの死を日常の中に見出して、「未来はあとどこまで続くのだろうか」って不穏なのよね
で、曲調は、不穏な和音で引っ張って揺れてるんだけどフレーズの結びはわかりやすい和音に落ち着いてホッとする…かと思ったらまたすぐ不安定な和音になる。ゆったりしたテンポなのに予期不安のように繰り返し繰り返し焦燥感が訪れるの。当時の日記では「あああ〜怖い怖い怖い怖い」って書いてます。おしゃれな和音なんだけど怖い。怖おしゃれ。
繰り返しの予期不安は「あなたを喪う」不安で、「広げたまんまの朝刊」みたいな日常にも、何度も何度も喪失が影をさす。
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この曲を歌った演奏会の前年、私は身内の高齢者を亡くしたのだけど、突然のことでお家が直前まで暮らしていたそのままだったのね。片付けに入ったら留守宅にお邪魔してるみたいで。もうこの世にいないかのようなのは嘘で、お留守にしてるだけみたいで、でもほんとにほんとにはもう亡くなっているわけで……(ちょっと文章へたくそで伝わる気がしない、すみません)
そう思うと、今のこの日常も、否、全ての日常は、死とウラオモテでくっついているように思えてくる。
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私が生と死の密着を見たのは実際の高齢身内の死によるけれど、「空」の語り手は生と死の密着を生きてるパートナーに見る。
でもパートナー?「天国じゃなくてあなたとは地獄で会いたい」だよ地獄だよ〜
もう、地獄に行く未来がふさわしい罪を犯しているわけ?えっ不倫なのかな?どう読めばいいの………
いや、不倫でも不倫でなくてもいいのかも。だって「は〜や〜く〜かえって〜〜き〜て〜〜」の凄まじい不安と執着は清廉な天国のイメージじゃないもの。美しい和音だけどゆらゆらと安定せず、細く軋むような、声にならない悲鳴のような執着にふさわしいのは、やはり天国じゃなくて地獄ですよね。
不倫だろうと夫婦だろうと、この執着、渇望はすごいエネルギーだと思う。
(話ズレるけど、帰ってきて〜の最後のアルトで和音が変わるの気持ちいい!ここだけアルトになりたい…)
悲鳴なんだけど、同時に甘い。
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そして「祝婚歌」。
(短いので全文)
あなたがいる
私のかたわらに
いま
私がいる
あなたのかたわらに
花々にかこまれ
人々にかこまれ
星々にかこまれ
私はいる
あなたのかたわらに
私のかたわらに
1連で「あなたがいる」「私がいる」と事実を述べ、3連では「わたしはいる」「あなたはいる」と確定した真理か、あるいは信仰告白のように述べる。お互いの存在理由がお互いであるかのように、しかも「いつまでも」。
3つの詩を比べると、生と死は表裏一体だけれども、死は2人をわかつことなくいつまでも2人は共にある、と思って歌えばいいのかしら…
と、思うじゃないですか?
ここで詩が書かれた時期を検索。
かたわらにいないとあなたはもうこの世にいないかのよう、な「空」2006
別れの後、あなたはいない、いつまでも生きて、の「世界の約束」2002
私のかたわらにあなたはいる、いつまでも…の「祝婚歌」1981
おやおや…あとになるほど死が近くなってくる感じ?いつまでもかたわらにいるといい切ってたのは谷川俊太郎も若かったらそう感じたけどってこと?
まあこれは、私が年齢を重ねて死を近く感じるようになったから、そのように(年を取ると死を近く感じるものだ、自分がそうだから谷川俊太郎もそうかも、という少々安易な同一視)読んでしまうのだとは思う。
谷川俊太郎はインタビューで「注文に応じて何でも書く」的なことを言っているので、その時々で切り口が異なるだけなのかもしれない。
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「空」の終盤、「さびしさはふたりで生きてるあかし」は、死がとても近い日常でそれでも生を実感するアンカーが「さびしさ」なのかなと思わせる。
ふたりが生きていれば、日常生活では朝刊を広げたまんま離れたりする(♪見出し〜あたりの和音と旋律の不穏さ!さび、さび!)。でも離れてる時間のさびしさ、あなたへの渇望は、あなたが生きてるからこそなんですよ。
だって、「世界の約束」を踏まえると「あなた」が死んじゃったらもう、永遠にあなたは生きててそばにいるんですよ、もう「未来はあといつまで?」って失う幻影に怯えることはない。
だからこそ、「さびしさはふたりが生きてるあかし」なのかな、と。
失う不安は、まだ存在することの証明。なので曲も「さびしい」と歌うところはホッとする和音で落ち着く。さびしいんだけどあなたが生きてる幸せ。ふたりで生きてるあかし。
まるで「不安じゃろ?いつか死で分かたれるのが怖いじゃろ?仕方ないぞよそれがふたりで生きるっちゅうことじゃ、『わたしはいる、あなたのかたわらに』を選んだのじゃ、痛みを抱えてゆけ!」と言われてるみたいな…
幸せで終わるんじゃなく、幸せと不安、生と死は一体で同一なのよ、みたいな…。
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あちこち矛盾があるな〜、詩と曲とごっちゃに語っているし…論のテイを成してないけどまあ、感想なので…
異論は有り有りの有りです。
理由あって色んな中学校の合唱コンクールを30回以上見てきたがもういい加減ウンザリしている。合唱する前にクラスの代表者がクラス紹介するやん。そんとき9割以上の生徒がまったく同じことを言うんだよ。
「最初はバラバラだったけど毎日練習したらまとまるようになりました」
もうマジで9割以上の生徒がまったく同じようなことを言うからね。嘘だと思うなら是非見に来てほしい。これって学校側からそう言えって強制されてんのか。もし強制されてるなら「何の意味があるの」って思うし、強制されてないならそれはそれで大問題だ。なぜかっていうと、もしこれが自分で考えた文章なら型にはまったことしか考えられない量産型社畜予備軍が見事に出来上がってるってことだからな。
そもそも合唱曲ってことごとく歌詞がクソやんか。J-POPのしぼりカスみたいな「君はひとりじゃない」とか「つながっているよ」とか薄っぺらいクソみたいな歌詞のオンパレード。今年のうちの息子のクラスの曲もそんな上辺だけとりつくろったような、安っぽくて耳障りがいいだけの言葉が並べられてるだけのクソみたいな曲で何も響かなかったわ。せっかく仕事休んでまで見に行ったのに、泣。韻を踏んでないなど当たり前。メロディへの乗せかたも稚拙極まりなく、日本語のイントネーションなどまるで無視。まさに中学生がつくったような低レベルなクソ曲だった。
中学校って義務教育だから残念ながら99%くらいの日本人はこんなくだらない合唱コンクールを経験してるわけやん。ということは日本人の価値観とか人生観とかの形成に合唱コンクールはかなり影響を与えてる可能性があるよね。そう考えると因果が逆で、合唱曲がJ-POPのしぼりカスなのではなく、J-POPが合唱曲のしぼりカス(+恋愛要素)なんだよな。そりゃあくだらない曲が流行るわけだ。まあ、小室系やAKB系が流行ってたころに比べると最近はだいぶマシになったが。
ともかくクラス紹介が9割以上、同じことしか言えないような教育は終わってるし、合唱曲云々以前の問題として、クラス紹介がクソなんだから合唱曲もクソだしJ-POPもクソなんだよ。そりゃあ闇バイトも流行るわけだ。価値観や人生観がクソなんだから。ひたすらバカのひとつ憶えみたいに「明日」だの「希望」だの歌って現実を見てこなかったんだから。地に足をつけて子どもと向き合おうなんてまったくして来なかったんだから、そりゃあ醤油ぺろぺろするわなあ!
ただ、そんな過去の合唱コンクールのなかでもひとつだけ思わず唸らされたクラスがあったっけ。そのクラスは天然パーマに眼鏡の男子が指揮棒を振るってたんだけど、なんと、歌っている曲の作詞作曲をすべてその子がしたという話だった。正直言って歌詞の内容はあまり憶えてないが、笑、少なくともJ-POPのしぼりカスみたいな曲ではなかったよ。当然、クラス紹介もその子がしてたんだけど、もう一言目から「あ、こいつ天才だな」とわかるくらい堂々としてたな。あれは最高だったよ。こういう才能を活かせるような日本であってほしいと素直に思った。でも残念ながら合唱コンクールのクラス紹介が定型文である以上、そんな社会はまだ遠いだろう。。。
Permalink |記事への反応(28) | 12:51
https://www.youtube.com/watch?v=OHOaEAZ_T8w
去年のはなしなんだけど急に思い出したの書く。
まず歌詞ね。この、なにか言ってるようでなにも言ってない歌詞。
そういうば昔、キロロの曲を聞いて「中学生が書いたような歌詞だなあ」と思ったら
本当に中学生のときにつくった曲という話を聞いて「合ってたんかい!」てなったことあったけど
「走り出す」とか「燃えるおもい」とか前向きなワードを散りばめただけの
若者に媚びた歌、慰められて浮かぶ魂、安上がりでそいつは結構だ
みたいなこと歌ってるんだけどまさにソレ。逆に中学生にはお似合いなのかもしれん。
あと歌詞の乗せ方もひどいんだよなあ。
メロディに無理やり乗せてるから初聴では本当に何も伝わってこない。
阿久悠とかそのへんの時代の歌はイントネーションも考慮してたって話、有名だよね。
昔はよかったなんて言うつもりはないし、現代曲のトレンドかもしれないけど
もうちょいうまくやれるやろって話。Bling-Bang-Bang-Bornの歌詞とか入ってくるし。
ようはやりようなんだよ。でもこの曲はただただすっぺらい前向きな言葉が断片的に聞こえてくるだけ。
みたいなことこどもに言ったら嫁さんに「そういうこと言わないで」と怒られたけどw
こどもも「あたしもそう思った」って言ってたよ。違う曲に投票したけどこれになっちゃったらしい。
で、ピアノ弾けるのうちの子しかいないから仕方なく弾いてるってさ。
ドラマ『1リットルの涙』の挿入歌(勘違いされやすいが主題歌ではなく挿入歌である)として話題となり、ヒット。2005年・2006年と年をまたいで年間シングルチャートの上位にランクインし、レミオロメンの代表作となる。
NHK全国学校音楽コンクール(高等学校の部)のステージ演奏曲に選ばれた他、合唱曲として歌われることも多い。
YouTubeに投稿されていた本曲のPVが、ニコニコ動画(仮)では弾幕ソングとして流行した。
サビの始まりで「粉雪」という歌詞を叫びながら歌う所で「こなああああああゆきいいいいいい※」の弾幕が張られる事にとなり、これがニコニコ動画で最初の弾幕であるとされている。
そのためニコニコ動画における認知度も高く、MADなど派生動画も多く制作されている。
また、そのせつない曲調と独特の余韻を残す歌い方から、オフコースの「言葉にできない」と同様にシュール系MADのBGMに採用されることも多い。
簡単な足し算引き算ができない、仕事の都合で童謡や合唱曲を歌うのだが歌詞が全く覚えられない、いろんな場所にいろんなものを置きっぱなしにして紛失する…
とにかく仕事が出来る、出来ないのレベルではない人がやってきてここ数ヶ月問題になっている
他人の感情を読むのも苦手なようで他のスタッフを怒らせることはしょっちゅう、自分の感情も処理できず突然パニックになりキレたり逃げ出したりもある
都合が悪くなると「アタシ、馬鹿だからわかりませぇえん!!!!」と大声で叫び出すなど常識では考えられない行動をとってくる為、その人が仕事に入る日はみんな嫌々出勤している状態
部長が上層部に報告しているものの、人権侵害だ法律だと色々言われて何ともならないからとりあえず様子見て!がずーっと続いている
本人も「アタシはどこに行ってもみんなに嫌われる」など嫌われていることは理解している様子があり気の毒でもあるが、事故につながることでも注意すると逆上したり嘘をついてきて手がつけられないので会話するのも苦痛
アイドルにまつわる諸々、なんで世の中のあんなにたくさんの人が夢中になっているのかわからん。
付き合えるわけでもない、セックスどころか一緒に食事もできない、というか一人の人間として認識されることすら難しい相手になんでそんなに夢中になれるんだ?
頑張ってる姿を応援したい、っていう人いるけどさ、もうすでに大体のファンより稼いでるでしょ。余裕で成功してるじゃん。お前が頑張った方がいいって絶対。
パフォーマンスとか歌が好きなんだっていう人いるけどマジで?耳に入ってくるアイドルソング、歌詞は詩というより作文だし、歌唱というより下手な合唱じゃん。
マジであれにそんな金を払うほど感動してるの?今までどういう文化圏で生活してたらそんな感性になるの?
世の中のアイドルの顔とか見た目がいいのは分かるよ。見た目良いな~って思うもん。でも、だからって別にファンにならなくない?
他人の見た目が良いことと自分に何の関係があるんだ?まして金を払ってもいいってどういうこと?
テレビの向こう側にどんだけ美味そうな料理があっても「美味そうだな~」って思うだけで「もっと見たい!」って課金する奴いないじゃん。
料理は金払えば食べれるけどアイドルに金払って得られるものって中途半端な踊りと合唱曲とあとなに?握手とかでしょ?
書き直し。
ダラダラと、曲への思いを書きました。谷川俊太郎の詩による合唱曲ふたつ…曲:三善晃「生きる」と曲:木下牧子「ネロ」についてのとても個人的な感慨。最初の方、書けなくて意図的に主語を拔いてるので読みにくくてすみません。ていうか、無駄に長いので読まなくていいですごめんなさい。
全部谷川俊太郎って演奏会を明日やるんだけど、中の2曲が自分の経験に強く結びついててちょっとだけ抱えるのがしんどい。
去年の夏、子供の誕生日にお祝いを頂いたのでお礼の電話をした。子供からもお礼を言って、その時に「また遊びに行くね、今家族で音取りしてる曲があるんだ、遊びに行ったらみんなで歌うから聴いてね」なんて言っていた。
数日後、会社で仕事をしていたら人事から電話があった。なんだろうと出てみたら配偶者から代表電話にかかったのを取り次いでくれたのだった。
数日前に電話したばかりなのに、亡くなったのだと聞かされた。家事支援のヘルパーさんが発見してくれたということだった。電話を切ってから自分の携帯を見ると配偶者からたくさん着信があったとわかった。
会社は早退して駆けつけた。
病院ではなく自宅でだったので、そのあと警察署で手続きやら葬儀社の互助会の書類探しやらで、気がついたらその日にあった合唱団の練習は無断欠席していた。
「生きる」だった。
ちゃんと予習してなかったのでぶっつけでの参加だったけど、タイトルからして親しい身内を亡くしたばかりの自分には重そうだなあ、そんなことを思いながら歌い始めた。
うちの団はパート練習はなくて、音取りは自力でできるのが前提なのだけど、実は私にはそこまでの力はない。♯や♭が多くなりリズムが複雑になるとキーボードを叩くのもたどたどしく実用性がない。その代わり楽譜を見ながらの耳コピは割と速いので、既に歌えている周囲を聴きながら声を出していった。
曲は「生きる」。まあ、三善晃だし、ソプラノはそんな難しくはない(難しいけど)。
……谷川俊太郎の詩によって、「生きているということ」がどんなことか、語られていく。
それはのどがかわくということ
木もれ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
孤独を感じる曲に影響されてか、詩の内容が全部亡くなった人を思い出させる。のどの渇きも、木漏れ日の眩しさと、くしゃみが出そうなムズムも、亡くなってしまった人は感じないことだ。だけどほんの少し前には感じていたのだ。あの人も。
くしゃみをすること、手をつなぐこと
と続く。
「くしゃみをすること」までは生きていること一般の話だったのが、急に、自分の手と存命中のあの人の手をつなぐイメージにおそわれて、───しかし私は一度も手をつないだことはなかった、これからも、もう決して手をつなぐことはないのだ……。
これから介護があるのだろうとぼんやり思っていた。長生きの家系だから、私の今後15年程は、あの家で、あの人と身体をふれあわせて暮らすのだろうと思っていた。
そうはならなかった。
寂しがりなところがある人だったから、一緒に住みたいとおそらく願っていたと思う。
そうはならなかった。
私が選ばなかったからだ。選ばないまま、亡くなってしまったからだ。
私は亡くなった人と手をつないだことがない。
曲はまた、「生きるということ」のいろいろな姿を歌っていく。自然や科学や芸術や…歌詩に出てくるミニスカートは何かな、生命力?若々しさ?を歌う。
あの人はもう、新しく美しいものに出会うことはできない。最後の電話で話した、子供たちの歌にも出会ってもらえないままになってしまった。
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこが揺れている、揺れているということ
いま、いまが過ぎてゆくこと
不穏な曲調で産声や兵士の傷が突きつけられ、それをぶらんこの往復運動が包み込み、ただ時間が過ぎる静けさに着地する。
生も死も同じ時間の中にある。
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
生き物の、自然の、あるがままの姿を歌った流れで「人は愛する」なんて、谷川俊太郎ずるいよね。あぁそうなんだと思わされる。
もちろん、愛さない人もいる。羽ばたかない鳥も轟かない海も這わないカタツムリも存在する。けれどできてない個体のことは今は措く。
それができている個体はなんと尊いことか。生きるということの意味を、「人は愛するということ」ととらえられる、かもしれない。もし私が愛さない人間でも、愛する可能性がある希望。
そして曲はまた、
あなたの手の
あなたの手のぬくみ
生きるという生きるということ
「あなたの手」に戻ってきて、命とはなにか、生きるとはなにか問いかけるように終わる。
私が繋がなかった手のぬくみ。
一人暮らしだった家は空き家になった。夏のことで、風を通したり、植木鉢やあとから頂いた供養の花に水やりをしなければならず数日おきに通った。
空き家にはピアノがあり、風通ししている間の時間で音取りをした。難しい音階を苦労して弾いた。
子供が小さい頃みんなで遊びに行くと、いつも初見でなんでも伴奏を弾いてくれたあの人がいたときのままの部屋で。ピアノには練習していたらしい楽譜が開きっぱなしだ。胸が苦しい。
亡くなった直後のショックや悲しみは今は薄れている。
でも練習で歌うたびに、空き家に風通しに行くたびに、拙く練習したのが思い出される。
去年の夏の、古い家特有の湿り気のある空気やあまりワット数の高くない蛍光灯の薄暗さ。
今日はリハーサルで明日が本番だから、終わったらしばらく歌うことはなくなる。
もう去年の夏を思い出すこともなくなるのか、いや曲を聴くたび一生思い出すのか…。
これはまた、ストレートな死の歌で、主人公の「ぼく」が子犬の「ネロ」を亡くした経験を歌っている。
しかも
もうじきまた夏がやってくる
(中略)
おまえはたった2回ほど夏を知っただけだった
と、「夏に親しい者を亡くす」という、私の経験ととてもリンクするシチュエーションなのだ。
主人公は「もう十八回の夏をしっている」とあるから、若者だ。それは私とは違うけれど、私の子供たちとはとても近い。
何でもかんでも自分と関係があるように捉えるのは無理筋ではあるけれど、私にはこの曲はうちの子たちが別れをどう受け止めたのか、の追体験のif…みたいに感じられる。
今、6月だ。もうすぐ本格的な夏が来る。
もうじき又夏がやってくる
しかしそれはお前のいた夏ではない
又別の夏
全く別の夏なのだ
去年の演奏会には来てくれた人が、今年はもういない。
お盆あたりには親戚が集まっていたあの家で、今年は新盆をどうしようか、コロナもまだ猛威をふるっているから集まるのは無理だろうか。
去年の夏、せっせと通って水やりをした植木鉢も、一年草はみんな枯れて、鉢から抜いてゴミに出して、鉢も片付けてしまった。
曲は、しかし喪失を嘆くものではない。疾走感とともに「新しい夏」の到来、「新しいいろいろのことを知ってゆく」ことを歌う。
たびたび出てくる「知る」という営為。
そして僕は質問する
いったい何だろう
いったい何故だろう
いったいどうするべきなのだろうと
主人公は何を知りたいのだろう?
なぜネロは死んだのかを?
私にはそんな凡庸な問いしか想像できないが、案外それも全くの的外れでもない気もしている。
詩のなかで飛び飛びに3連に渡って繰り返しネロを思い起こし、
それは死せるネロとともにあるようだけれど、決して停滞ではない。ネロを胸に抱いたまま、
もうじき又夏がやってくる
新しい無限に広い夏がやってくる
そして僕はやっぱり歩いてゆくだろう
新しい夏を迎え 秋を迎え 冬を迎え
春を迎え 更に新しい夏を期待して
そこには若さがある。喪失を抱えていても新しいものを貪欲に取り込む力強さ。
(願わくはうちの子たちもそうあれかしと思うけれどそれは親のエゴというもの、彼らには彼らの受け止めかた、歩みかたがあろう…)
私自身は、「全く別の夏」というところからまだ身動きできないでいる。
冬場からこちら空き家に通う頻度も減ったが、また雑草の伸びる季節になって、草を引くたびに「この家を高齢でよく維持していたものだ」と感慨にふける。
家の中はまだ手つかずで存命の頃と何も変わらない。カレンダーの書き込みもそのまま。去年、子供の誕生日のお祝いを送るためのメモ書きも、電話の横のメモ帳にそのままある。ただ留守を預かっているだけ、という感覚から動けない。
それなのに全く別の夏が来てしまう。記憶が上書きされてしまうのが切ない。感傷だ。感傷だが、血縁ではない私とあの人は、客観的に見ればけっこう長い年月、長い時間を一緒に過ごしていたわけだ。
まだもやもやと引きずってはいくけれど、そういうものなんだろう(ああ、しょうもないまとめになってしまった)。
(「あの人」と書いているのは配偶者の母ですが、普通に表記するとちょっと生々しくて書けなかったので…表記で距離を置かないと吐き出しにくい)