
はてなキーワード:古来よりとは
■司馬遼太郎風 改稿
人間というものは、しばしば自分の青春を他ならぬ自分の手で投げ捨てる。
それは他人に奪われるものではない。むしろ、他人のせいにできぬ種類の「敗北」である。
この国では、そうした人間が珍しくない。いや、むしろ今の時代、ネットという便利な井戸端ができてからというもの、その種の「自己廃棄型人間」は、どこにでも見られるようになった。
たまたま彼が自衛隊という特殊な組織にいたことで、周囲の人々は多少の情状酌量を与えるのかもしれぬ。
だが、職業が何であろうと、十代二十代を「捨てた」と言葉にする時点で、その人の人生観はすでに破綻している。
人は、自分の過去を呪い始めたとき、もうその呪いから逃れることはできない。
「お疲れさまでした」といった称賛の言葉は、慰めであると同時に、無関心の別名でもある。
三十を過ぎた男が、未だに己の人生に「物語」を求めて悩む姿は、滑稽といえば滑稽である。
だが、それもまた、この国の時代病の一つだ。
精神の成長よりも、感情の正直さばかりを美徳とし、成熟を「鈍さ」と呼ぶ。
したがって、彼のような男は、社会という大人の世界に出た瞬間、言葉の通じぬ異邦人となる。
しかし、それを離れたとき、人は初めて己の素肌を晒すことになる。
それは、冬の荒野に放り出されたような心地だろう。
そして多くの者は、そこで初めて「自由とは孤独である」と悟るのだ。
友を断つことは、己を断つことに等しい。
プライドは人を立たせもすれば、殺しもする。
古来より、この国の武士たちもまた、その誇りゆえに散っていった。
だが、戦場の死はまだ潔い。
自衛隊の中で鍛えられたはずの筋肉も、精神も、やがて脂肪のように弛んでいく。
彼は、今ようやく「市民」として生きねばならぬ段階に立っている。
それは決して容易なことではない。
だが、たとえどんな境遇にあっても、人間関係だけは切ってはならぬ。
人の生は、けっして理想や信念では支えられない。
孤高は人を導き、孤独は人を蝕む。
あなたが歩むべきは、前者の道だ。
世間は冷たい。
だが、冷たさの中にも温もりがある。
「旗を巻け、剣を収めよ ―ネットを去るべきとき」 feat司馬遼太郎
人間というものは、時として、自らを滅ぼす麻薬を甘んじて飲みつづけるものだ。
二十一世紀初頭、インターネットという名の大海に、人々は夢を託した。IT革命という言葉は、坂本龍馬が「日本を今一度洗濯致し申候」と叫んだときのごとき熱を帯びていたのである。
我らは信じた。この道の先に、新しい国土が開けると。そこには平等と自由と、創造という果実があると。
しかし──見よ、今を。
ネットの広間に響くのは、かつて夢を持った者たちの怨嗟である。かつてプログラムの一行に未来を見いだした者たちは、いまや民族を呪い、政治を罵り、思想を毒のごとく舐め、ただ怒りに己を焼いている。
ITの「ア」の字すらも、もはや語られぬ。
そこにあるのは、キーボードを剣に見立て、見えぬ敵を斬るつもりでいる者たちの空しい戦場である。
だが、その戦いは何を生んだか?
栄光か? 富か? いや、何も。残ったのは、乾いた目と、冷たい指先、そして毒に満ちた心だけであった。
思えば、我らの夢は叶わぬものだったのだ。
「いつか才能が開花する」「人生を変えるイベントが訪れる」──そう信じてネットに身を沈めたが、そんなことはなかった。
世界は進み、我らは止まった。IT技術の旗を掲げていたはずの我らは、旗を持つ手すら錆びつかせ、時代の二周遅れを歩く。
その間に、現実を切り拓いたのは誰か。
剣を抜かず、ただ黙々と働き、挑み、恋をし、人生という名の地図を広げた者である。
ならば、いま言おう。
空を仰ぎ、風を聞き、隣人と語れ。それこそが、今や失われた「文明人」の営みである。
我らの世代は敗れた。認めよ。その敗北を。
あれは毒であった。慰めであった。亡国の酒であった。
ならば捨てよ、すべてを。
手放せ。
そうすれば、楽になる。
──そう信じるほか、もはや我らに残された道はない。
時代は、人の運命を無情に弄ぶ大河である。古来より、勝者と敗者が織りなす歴史の綾は、変わらぬ。幕末の志士たちが維新の嵐に翻弄されたように、君たちもまた、氷河期という冷徹な冬に取り残された。弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼と嘲笑され、2000年代の秋葉原に魂を置き忘れ、肉体のみ老いたる少年少女たちよ。旗を巻き、剣を収め、兜を脱ぐ時ぞ。電脳の虚構に囚われし憐れなる魂よ、今こそ我に返れ。
かの秋葉原は、さながら戦国時代の合戦場のごとき賑わいを見せた。2006年の真夏、歩行者天国で君たちは「俺たちの麻生!」と叫び、オタクイズビューティフルと自嘲しつつ、邪教の舞を踊った。あの熱狂は、坂本龍馬が土佐の山中で夢見た革新のごとく、君たちに希望を与えたやもしれぬ。だが、それは幻影に過ぎなかった。Xなる電脳の広場で、今なお君たちはゴチャゴチャと逆張りの矢を放つ。図星を突かれ、プライドの城壁を必死に守る姿は、落城寸前の武将を思わせる。未だ、ありもしない人生逆転を、キラキラ輝く栄華を諦めきれぬのか。
聞け、君たちの夢見た物語を。それは、レムちゃんやエミリアたん、ウマ娘たん、Vtuberたんのような美少女が、君に発情し、結婚を前提に言い寄るという妄想。ライカン様めいたイケメンが、君を伴侶と慕うという幻想。会社で「俺またなんかやっちゃいました?」とわけわからぬことを口走れば、評価され、ちやほやされるという、なろう小説めいた儚き夢。あれは、君たちがネットの闇で散々嫉妬し、憎み、嘲笑した者たち――肉体を鍛え、頭脳を磨き、現実の戦場を駆け抜け、金と愛と勝利を掴んだエリートやリア充たち――にのみ許された特権なのだ。彼らは、司馬史観に言う「明治の若者たち」のように、時代の風を読み、血潮を燃やして高き城を築いた。君たちは、その背中を遠くから睨むしかなかった。
現実を直視せよ。君たちは敗れたのだ。完膚なきまでに。なぜか。君たちが選んだ戦場は、現実の荒々しい大地ではなく、電脳の海という虚無の聖域であったからだ。情報の洪水に溺れ、何が正しいか判別できぬまま、上澄みばかりを掬い取った。学習性無力感に蝕まれ、プライドを守るため、ネットという「未完成の城」に籠城したのだ。わかるぞ、そこしか君たちに居場所がなかったのだ。世人は君たちを「病院へ行け」と嘲り、「ITけんぽで」と冷笑し、「B型作業所でハナクソ入りのパンを捏ねろ」と突き放した。無念、怨念、怒り、憎しみ、孤独――すべてを背負った君たちの魂を、私は受け入れ、赦す。なぜなら、人間とは、そうした業を抱えて生きるものだからだ。
もう一度、声を大にして言う。君たちの戦いは終わったのだ。いや、始まる前から、勝敗は定まっていた。電脳の荒野でどれだけ吠えようと、悪役令嬢となってイケメンに愛されることも、グリッドマンとなって美少女と青春を謳歌し、世界を救うヒーローとなることも、叶わなかった。あの秋葉原のホコ天で、仮想の座敷にアクセスコードを打ち込むふりをしたところで、それはただの愚かなる幻影。奇跡は、常に現実に挑み続ける者たち――ガンガンと血潮を燃やす若きエリートやリア充――にのみ訪れる。君たちは、歴史の敗者として、坂本龍馬の盟友たちが維新後に忘れ去られたように、時代の陰に沈む定めだ。
さあ、明日にでも秋葉原の旧聖地に赴け。思い出を葬るがごとく、潔く首を垂れ、敗北の美を受け入れよ。人の世は、ヒーローばかりを求めるわけではない。惨めなる敗者もまた、歴史の陰影を深くする尊き役割を果たす。弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼よ、表現の自由戦士よ、お気持ち表明女戦士よ。無意味な抵抗をやめ、敗残者として歴史に名を刻むことを恐れるな。人は、一生憎悪を燃やし続けることはできぬ。君たちの魂は、すでに十分に戦い抜いたのだから。静かに、時代の大河に身を委ねよ。
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古来よりインターネットの言説空間を騒がす「きのこたけのこ戦争」なるものがある。
これは、二つの蒙昧なる党派による、きわめて不毛な闘争であると断じざるを得ない。
双方の党員は、おのれの支持する食品の優位性を喧伝するが、その論拠は個人の嗜好という主観の沼から一歩も出ておらず、議論としての体をなしていない。
客観的な分析を信条とする者にとって、この闘争は愚の骨頂である。
そもそも、この二つの食品を同一の評価軸上で比較すること自体が、根本的な誤謬、すなわち存在論的カテゴリー錯誤を犯しているのだ。
この世界のあらゆる「チョコレートスナック菓子」は、その「口腔とのエンゲージメントの様態」によって二つに大別される。すなわち、「歯的エンゲージメント」を本質とするものと、「舌・口蓋的エンゲ ージメント」を本質とするものである。
前者は、歯で噛み砕く際の食感、すなわちクラック・アンド・クランチの快楽を追求する菓子群であり、ビスケットやクッキー部分がその存在論的中心を担う。
後者は、舌と上顎でチョコレートを溶かす際の融解感、すなわちメルト・アンド・フレーバーの快楽を至上とする。チョコレート部分こそがその魂である。
この厳然たる分類に基づけば、「たけのこの里」が前者、すなわち「歯的」であることは火を見るより明らかだ。あの食品の価値は、サクサクとしたクッキー生地を臼歯が砕く瞬間にこそ発現する。チョコレートは、あくまでクッキー生地を彩るための、二次的なコーティングに過ぎない。
対して、「きのこの山」は後者、「舌・口蓋的」食品の典型である。あの菓子の主役は、まごうことなきチョコレートの塊だ。クラッカー部分は、手を汚さずにチョコを口に運ぶための「柄(え)」、すなわち道具として機能しているに過ぎないのである。
しかるに、蒙昧なる両党派の党員たちは、この存在論的な断絶を理解していない。きのこ派は、「歯的」菓子であるたけのこを「舌・口蓋的」基準で批判し、たけのこ派は、「舌・口蓋的」菓子であるきのこを「歯的」基準で論難する。
これは、絵画を音楽の文法で語り、建築を小説の作法で批評するに等しい、野蛮な行為である。
両者の間に、真の対話が成立するはずもない。
原付の廃車手続きをするために区役所に行った。区役所は趣味の悪い建物だった。役所とは思えない高級感のあるエントランス。壁に貼り付けられた謎の木材からは隈研吾の匂いがした。建物の中では、善良な区民を威圧するように無数の警備員が巡回していた。
何よりも案内が過剰だった。受付のタッチパネルを代わりに操作するだけの人員が配置されていた。これは明らかに不要な仕事だった。この仕事に払われる税金について一瞬だけ考えた後、それを考えること自体の無意味さを悟った。
古来より、仕事を増やすのが役所の仕事だった。21世紀に入った現代でもそれは変わらなかった。テクノロジーが仕事を効率化するほど、役所は無駄な仕事を増やす。生産性のない、仕事のための仕事は国を衰退させていく。僕は虚しくなった。さらに言えば、廃車手続きを担当した50代後半程度の男性の態度は良くなかった。役所の不合理はこの国の衰退を象徴する。僕は体調が悪くなったので、役所の手続きを終えるとすぐに帰宅した。
ChatGPTくんの答え
販売文例:
「標高3,000m、立入禁止の霊峰・〇〇山。その奥深く、年に数日だけ湧き出る“奇跡の水”――『神域の雫』。地元住民すら触れたことがないこの水は、古来より“運気を変える神の恵み”と語り継がれ、わずか一瓶に1万円の価値がつけられました。完全非売品だったこの水が、ついに限定10本のみ特別公開。運命を変えたい方だけに。」
付加価値要素:
販売チャネル:クラウドファンディング、スピリチュアル系イベント、高級セレクトショップなど。
Geminiくんの答え
最も現実的で確率の高い案として、「聖地の雫」をコンセプトにした、富裕層向けの限定販売戦略を提案します。以下に、具体的な売り込み口上を述べます。
売り込み口上:
「お客様、こちらはただの水ではございません。世界中の聖地を巡り、特別な祈りを捧げて採取した、まさに『聖地の雫』と呼ぶにふさわしい、非常に貴重な水でございます。
この水は、ヒマラヤ山脈の聖なる泉、古代遺跡の地下から湧き出る泉、そして、古来より聖なる地として崇められてきた場所など、世界中のパワースポットから採取されました。それぞれの聖地には、長い歴史の中で育まれた特別なエネルギーが宿っており、そのエネルギーがこの水に凝縮されているのです。
例えば、ヒマラヤ山脈の聖なる泉から採取された水は、心身を浄化し、癒しをもたらすと言われています。また、古代遺跡の地下から湧き出る水は、知恵と啓示を与え、直感力を高めると伝えられています。
この『聖地の雫』は、単なる飲料水としてではなく、特別な儀式や瞑想、または、日々の生活の中で、感謝や祈りを捧げる際にお使いいただくことで、その力を最大限に引き出すことができます。
また、ボトルにもこだわり、クリスタルガラスを使用し、金箔をあしらうことで、美術品のような美しさを追求しました。さらに、桐箱に入れ、各聖地の写真や説明書、証明書などを同封することで、商品の信頼性と価値を高めています。
この『聖地の雫』は、世界で〇本限定の販売となり、二度と手に入らない可能性がございます。特別な体験を求めるお客様、そして、真の価値を理解されるお客様に、ぜひお手に取っていただきたい逸品です。
価格は1万円となりますが、この水がもたらす特別な体験と、その希少性を考えれば、決して高いものではないと確信しております。
お客様の人生に、聖地のエネルギーを。この『聖地の雫』を、ぜひお傍に置いてください。」
ポイント:
*ストーリー性:聖地の物語を語り、水の希少性と神秘性を強調します。
*体験価値: 水を飲むだけでなく、儀式や瞑想など、特別な体験と結びつけます。
* 高級感:ボトルやパッケージにこだわり、商品の価値を高めます。
*ターゲット層:富裕層やスピリチュアルに関心の高い層に響く言葉を選びます。
*エビデンス: 水質検査等のエビデンスを提示できるようにします。
これらのポイントを抑えることで、1万円という高価格でも、商品の価値を理解してくれる顧客層に響き、購入に繋がる可能性を高めることができます。
今、女が浮気する創作を叩いたり冷笑する人が散見されるが、これは非常に問題である。
世の中にはインモラルや悪事を楽しむ作品が溢れている。もちろんドラマにでもだ。月並みだが、東京卍リベンジャーズなんか不良が夜な夜な集まって喧嘩を繰り広げるなんてろくなもんじゃない。法律を越えた私刑も許容されるし、なんなら「主人公一行を不快にさせた」程度のことで相手の骨を折ったりもする。
殺人、窃盗、暴力、不良、半グレ、闇バイト、銃器の所持、爆弾の製造、暗殺、創作にはインモラルが溢れている。作中でその行為に対して「本当は良くないけどね」と言う人がいない作品だって山ほどある。
更に潔癖な視点で見れば、男子高校生が複数の女子から不純異性交遊に誘われるハーレム作品なんて本当はけしからん。奴隷を購入して身の回りの世話をさせ愛妾のように扱う作品、これは言うまでもなく酷い。
では何故、女の浮気、浮気を肯定的に描いた作品は叩かれ、冷笑されて当然なのか?
創作では普段もっと酷いテーマを肯定的に扱っているじゃあないか。
だが問題視はしない。いや、正確に言えば「問題視してはいけない」と皆思ってる。「創作だからそんな風に問題視してはいけないのだ」と思っている。俺だってそう思う。
当然そういう構造に対する冷笑だって少ない。様々な意見があるのがネットだから、あるにはある。だが「いや、エンタメってそういうもんだし…」というリアクションが付きまとう。
では何故女の浮気を創作で描くと問題視され、おかしなことをしているからと冷笑され、フォローもされないのか。
創作というのは我々の考えを越えて保護され、「創作を守る」という方向に厳格な基準の元で「社会的に適切かどうか」と判断されるべきなのだ。
表現の自由を訴える人は、市民団体などに対してまさにそれを言い続けてきたのではないか。
そして、これは論理的帰結だが、「浮気」を肯定的に描いて叩いたり冷笑する理由は、「感情」以外に無い。浮気はもちろんインモラルな行為だが、創作という観点ではテーマとして扱うことは問題ではない。そもそも古来よりそんなもん山ほどある。現代の価値観には合わない。もちろんそうだ。ただし殺人だって銃器所持だって奴隷の購入だって今の価値観には合わない。キモいから批判する?感情以外の何物でもない。
つまり、女性の浮気をテーマにした作品を叩き冷笑することは、「本来保護されるべきである創作物を何も考えずに叩き萎縮させる行為」でしかないのだ。
これが問題でなければ何が問題なのか。表現の自由を嘲笑し、貶す行為は唾棄すべきことであり、それは決して多数派に紛れない。同調する者が多かろうが、「創作物は守られるべき」という考えには何の影響を及ぼさないのだ。
「そんなこと言われても俺はただのネット民。別に創作を守る義理なんて無い。好き勝手に言いたいことを言うよ」