
はてなキーワード:収容所とは
インドネシアのスマトラ島アガムでは、土曜日に天候が回復したことにより、救助隊はこれまで困難を極めていた複数の遺体収容所へのアクセスが可能となり、より多くの遺体を安全に収容することができました。過去数日間の悪天候により、被災地への到達は困難を伴い、救助活動や復旧作業は遅れを余儀なくされていました。しかし、天候の回復により、救助隊は現場での作業を本格的に再開し、遺体の収容や捜索活動を効率的に進めています。
現地当局は、救助活動の進展に伴い、被災者の家族への連絡や避難者の支援も並行して行っています。遺体収容に加え、避難所の整備や医療支援、食料供給なども急ピッチで進められ、被災地域の安定化を図っています。
スマトラ島での救助活動は、地域のインフラや地形の影響を受ける中で行われていますが、救助隊の努力により少しずつ前進しています。現地の状況は依然厳しいものの、天候回復によって多くの生命を尊重するための活動が確実に進展していることが報告されています。
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インドネシアのスマトラ島アガムでは、土曜日に天候が回復したことにより、救助隊はこれまで困難を極めていた複数の遺体収容所へのアクセスが可能となり、より多くの遺体を安全に収容することができました。過去数日間の悪天候により、被災地への到達は困難を伴い、救助活動や復旧作業は遅れを余儀なくされていました。しかし、天候の回復により、救助隊は現場での作業を本格的に再開し、遺体の収容や捜索活動を効率的に進めています。
現地当局は、救助活動の進展に伴い、被災者の家族への連絡や避難者の支援も並行して行っています。遺体収容に加え、避難所の整備や医療支援、食料供給なども急ピッチで進められ、被災地域の安定化を図っています。
スマトラ島での救助活動は、地域のインフラや地形の影響を受ける中で行われていますが、救助隊の努力により少しずつ前進しています。現地の状況は依然厳しいものの、天候回復によって多くの生命を尊重するための活動が確実に進展していることが報告されています。
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インドネシアのスマトラ島アガムでは、土曜日に天候が回復したことにより、救助隊はこれまで困難を極めていた複数の遺体収容所へのアクセスが可能となり、より多くの遺体を安全に収容することができました。過去数日間の悪天候により、被災地への到達は困難を伴い、救助活動や復旧作業は遅れを余儀なくされていました。しかし、天候の回復により、救助隊は現場での作業を本格的に再開し、遺体の収容や捜索活動を効率的に進めています。
現地当局は、救助活動の進展に伴い、被災者の家族への連絡や避難者の支援も並行して行っています。遺体収容に加え、避難所の整備や医療支援、食料供給なども急ピッチで進められ、被災地域の安定化を図っています。
スマトラ島での救助活動は、地域のインフラや地形の影響を受ける中で行われていますが、救助隊の努力により少しずつ前進しています。現地の状況は依然厳しいものの、天候回復によって多くの生命を尊重するための活動が確実に進展していることが報告されています。
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インドネシアのスマトラ島アガムでは、土曜日に天候が回復したことにより、救助隊はこれまで困難を極めていた複数の遺体収容所へのアクセスが可能となり、より多くの遺体を安全に収容することができました。過去数日間の悪天候により、被災地への到達は困難を伴い、救助活動や復旧作業は遅れを余儀なくされていました。しかし、天候の回復により、救助隊は現場での作業を本格的に再開し、遺体の収容や捜索活動を効率的に進めています。
現地当局は、救助活動の進展に伴い、被災者の家族への連絡や避難者の支援も並行して行っています。遺体収容に加え、避難所の整備や医療支援、食料供給なども急ピッチで進められ、被災地域の安定化を図っています。
スマトラ島での救助活動は、地域のインフラや地形の影響を受ける中で行われていますが、救助隊の努力により少しずつ前進しています。現地の状況は依然厳しいものの、天候回復によって多くの生命を尊重するための活動が確実に進展していることが報告されています。
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インドネシアのスマトラ島アガムでは、土曜日に天候が回復したことにより、救助隊はこれまで困難を極めていた複数の遺体収容所へのアクセスが可能となり、より多くの遺体を安全に収容することができました。過去数日間の悪天候により、被災地への到達は困難を伴い、救助活動や復旧作業は遅れを余儀なくされていました。しかし、天候の回復により、救助隊は現場での作業を本格的に再開し、遺体の収容や捜索活動を効率的に進めています。
現地当局は、救助活動の進展に伴い、被災者の家族への連絡や避難者の支援も並行して行っています。遺体収容に加え、避難所の整備や医療支援、食料供給なども急ピッチで進められ、被災地域の安定化を図っています。
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一体俺は何を見せられたんや……27点。
ランボーじゃない映画として見るなら57点くらいつけられるかもしれないけどさ。
ランボーってこういう映画だったっけッて感じでめちゃくちゃ微妙な映画だった。
まずあいかわらずスタローンはよかった。前作のヒットを受けて作られた作品だからしょうがないけど、ランボーをやってるランボーみたいなカリカチュアされた感じが気にはなったけど、悲哀と怒りを顔で表現できるアクション俳優ってやっぱ貴重やなと思った。これがシュワちゃんとの違いだよね。あと身体全体が明らかにバルクアップしてて草。収容所で肉体改造に励んだのだろう。
次にアクションは……派手でよかったんじゃないかな、うん。サイレントキル、ド派手な銃撃戦、船、ヘリとレパートリーが豊富だし火薬マシマシで見てて楽しくはあった。でも今基準で見たら「昔のアクションってこんな感じだよね~」くらいの印象だったので特に加点対象にはならない感じ。
収容所で強制労働してるランボーがトラウトマンとCIAにそそのかされてまたベトナムに戻って捕虜の写真を撮るミッションにアサインされる。輸送機から降下する際にうっかり弓矢とナイフ以外の装備を失ったランボーは美人情報員と協力しながらいろいろあって写真撮らずに捕虜を救出。それを知ったCIAはランボーの救出を中止。敵地に取り残されたランボーはソ連率いるベトナム軍に捉えられるもなんだかんだあって捕虜と一緒に脱出。美人はうっかり死ぬも頑張ってアメリカ軍基地に戻ってM60を乱射するのだった。
ストーリー、見せ場のための強引な設定が多すぎる。
CIAはランボーに最新鋭の装備を渡すんだけど降下の際にベルトが機体に引っかかる。機体に引っかかってぶらぶらして「うわあああたいへんだぁ!」ってなってランボーはナイフで装備を切り離す。そしてランボーは弓矢とナイフだけ持って戦場を駆け巡るのだった。
そうはならんやろ。
超高度で飛行機に引っかかってブラブラする危機的状況!ドキドキしまっしゃろ!って言われてもバカなの?としか思わんよ。素人かよ。
無能なランボーとCIAのおかげで不規則降下したランボーに対してCIAの偉い人が死んだと判断して、作戦中止終わり終わりって言い出す。トラウトマンは当然認めないがCIAは「生きてたら連絡来るやろ。来なかったら死んでるってことで」と救出を打ち切ろうとする。
一方その頃ランボーは現地の美人情報員と接触し、捕虜収容キャンプへ向かっているのだった。
情報員は連絡手段持ってないんか?おそらくCIAが仕込んだ情報員だと思うんだが、まず降下成功、合流成功したら一報入れるやろ。軍隊、CIAって報連相とかない世界なんか?
その後、ランボーが捕虜を救出して脱出。救助に向かっていたヘリがそれを発見し基地に伝えるとCIAは沸き立つ軍人を指令室から締め出し極秘指令として彼らの救出の打ち切りを指示し、トラウトマンを除く軍人2名がそれに従いランボーは取り残される。
さっきまで必死にランボー救出しようとしてた軍人がCIAに命令されたら急にスンってなるのも意味不明だし、基地にいた捕虜が生きてることを知ってる軍人がランボーも捕虜も乗ってないヘリが帰投したら不審に思うだろ。
その後、基地でトラウトマンとCIAが大声で口論してるけど誰にも聞こえんかったんか?
不審すぎる。
3.強引な死亡フラグと回収
美人情報員が「私アメリカ行きたいんすわ!」とランボーに話しランボーも行けるさ!って言った直後、気を抜いてぼーっと立ってた美人情報員はちょっとランボーが目を離した隙にベトナム兵に射殺されてしまう。
ナニコレ。
その後、ランボーの手の中で「アメリカに行きたかった」とさっき聞いたなぁみたいなことを言いながら息を引きとる美人情報員。さすがにこれで泣けないだろ。戦場で気を抜くなよアホたれ。
なんだかんだあってロシア軍とベトナム軍を蹴散らし帰投したランボーはM60を手に司令部に戻り、司令部に並べられたコンピューターに向けて乱射する。ランボー特有の口を歪ませながら叫ぶ。ウオオオオオオ!
いや、なんでだよ。
今回の件はCIAのおっさんが世間が捕虜救出捕虜救出うるせーから「捕虜いなかったよ」っていうアリバイ作りのために捕虜がいないキャンプにランボーを送り込んだら、たまたま1年間の強制労働を経て捕虜が帰ってきちゃってたので逆に面倒だなと思ってランボーもろとも捕虜殺しちゃお☆ってしたのが全部悪いって話であって、別にコンピューターは悪くねぇだろ。
仮にランボーや捕虜を見捨てる判断を「コンピューターによると生存率は×%、割に合わない」とか判断して「戦場はコンピューターじゃ測れねえんだよ!」みたいな展開があったんなら、人間のあるべき姿VS冷徹なコンピューターって図式が成り立つけど、今回悪いのは全部CIAのおっさんじゃんねぇ!
おっさんに全弾ぶち込めよ。
5.殺されるためだけの敵
今作の本筋は「金がかかるから捕虜を見捨てたいCIAのおっさん」VS「捕虜を助けたい正義の軍人ランボー」の構図なんだけど、実際に戦うのは捕虜を捕まえてるベトナム軍&なんかいてるソ連軍&金で動く船員でランボーは彼ら相手に無双する。
ランボー1であんだけ銃撃たれまくってもなんとか殺しだけは避けていたランボーとは思えない容赦のなさである。金で動く船員なんかランボーをソ連軍に売ろうとしただけなのに(いや、ダメだけど)ショットガンでぐちょぐちょに殺される。お前そんな奴だっけ?
ベトナム軍とソ連軍も「捕虜収容してる奴ら」ということ以外のバックボーンが一切描かれないので本当に銃撃ちカカシみたいに撃たれて死ぬためだけに大量に投入され実際に殺される。
あとどうでもいいけど、領空とか領土とかそういうものがない世界線なんだろうか。ベトナム(タイだったかな?)でベトナム兵やソ連兵をぶち殺しまくったら普通に国際問題になると思うんだけど。強いアメリカプロパガンダシコりファンタジーアクション映画と化しててランボーってそういう話だっけ?ってげんなりしちゃった。
こんな一人でほぼ1日で100人以上殺すスーパー殺人兵器奴が何人もいたであろうグリーンベレーがいたのにベトナム戦争で負けたってマジ?アメリカ無能すぎない?という皮肉は置いておいても「ベトナム戦争の悲惨さ」をむしろ矮小化する存在に堕してると思う。
ロシアのウクライナ侵攻で「もしかして映画みたいなスーパーソルジャーって存在しない?」みたいなくだらないジョークがバズったりもしたけど、明らかにそれの先駆けだよね。1は存在しないから苦しんでるって話だったのに。
そんなこんなでランボー1見てから2見たら頭おかしくなると思う。
当時の基準ですごいアクションしてることは時代性を考慮すれば加点すべきなんだろうけど、ランボー1を前日に見た俺が期待したランボーのよさをむしろアクションがかき消してる部分が多すぎるのでプラマイでゼロ、ややマイナスくらいにせざるを得ない。
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井までSSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
「どの程度、どの頻度で性暴力が起きていたのか」。
これは資料が限られていますが、警察記録・GHQの軍法会議記録・被害者証言からある程度のイメージはできます。
警察の統計(公表されず内部資料に残ったもの)によると、1945年8月〜1946年末で、全国で確認された強姦事件は1,000件強。
ただしこれは氷山の一角で、研究者の推計では実数は数千〜数万件規模 に上るとされています。
理由:届け出が難しかった(家族の名誉、報復への恐怖)、報道検閲があった、警察も対応をためらった。
進駐初期に事件が多発。
栃木県では「進駐直後、ほぼ毎夜どこかの村で被害が出た」という証言もある。
福島や山形など東北農村でも、進駐軍駐屯地の周辺で住民が恐怖の生活を送った記録が残っている。
「毎日必ず隣町で誰かが」というほど全国一律ではありません。
しかし進駐初期(1945年8〜9月頃)は、各地で“連日のように”事件が起きていた地域もあったことは証言されています。
たとえば:
栃木県足利では、1945年秋に「一夜に数件の強姦事件」が記録されている。
山形県の農村では「夜になると女たちが山に避難した」との証言。
東京や大阪では「暗くなると女性は一人で外を歩けなかった」と回想されています。
被害の恐怖から、女学生が頭を丸刈りにしたり、女性が男装したりするケースも報告されています。
家族や地域ぐるみで「女性を守る防衛体制」を敷いた村もありました。
しかし 進駐初期の特定の地域(特に地方)では、“ほぼ毎日のように事件が起きていた” と言える。
大都市ではRAA設置後に沈静化したが、地方・農村ではしばらく恐怖が続いた。
1945年9月:警視庁の記録によれば、東京23区内だけで 80件以上の強姦事件 が発生。
新宿・池袋・上野など繁華街では、夜間の路上や民家への侵入が多発。
当時の新聞記事(検閲前の内部版)には「夕暮れ以降、女性は一人で出歩けぬほど」と記録されている。
1945年9月〜12月:大阪府警は 120件以上の事件 を確認。
その後RAAが整備され、1946年以降は公式統計上の件数は減少したが、民間への散発的被害は続いた。
1945年10月:京都市内で米兵2名が民家に押し入り、主婦を暴行。住民が通報し、米軍憲兵が逮捕。
京都府警の報告によると、1945年秋〜冬に「数十件」の事件が確認されている。
市街地はRAAが早期に設置されたため、件数は東京・大阪より少ない。
1945年9月〜10月:足利市周辺で「連夜にわたって米兵が村に侵入し、女性が襲われる」事件が多発。
住民は夜になると女性を山へ避難させ、家には男だけが残る体制をとった。
1945年末:米兵が農家に侵入し、娘を暴行。父親が鎌で抵抗したが撃たれて死亡、という証言が残る。
こうした事件は報道されず、警察の非公開文書や戦後の聞き取りで判明。
1945年6月以降(戦闘終結直後):住民の証言によれば、村落単位で多数の女性が被害を受けた。
沖縄戦後の米軍統治下でも、性暴力は継続的に発生し、1950年代以降も基地周辺で問題化。
米軍は兵士の規律維持のため、重大事件については軍法会議にかけています。
1945〜1946年の記録には、強姦・殺人で有罪となり死刑に処された米兵も複数存在。
ただし、すべての事件が裁かれたわけではなく、軽微な場合は処罰が甘い傾向にありました。
東京・大阪など都市部:進駐直後に多発 →RAA設置後に減少。
地方農村:RAAがなく、むしろ被害が深刻 → 夜間避難や男装などで防衛。
沖縄:戦闘直後から大規模な被害 →占領後も長期にわたり続いた。
米軍の対応:一部の加害兵は軍法会議で処刑されたが、多くの事件は闇に葬られた。
占領期直後の日本(特に1945~1946年)では、米軍による性暴力やレイプ事件は「数日に一度どころか、地域によってはほぼ毎日のように発生した」と言えるほどの高頻度でした。
話を端折りすぎた
「元・不法移民」だね
アメリカで選挙権を持っているのは市民権を持つ人のみ(のはず、ただし州による)
ただしこの市民権を持つ人にはれには「最初から法律に則ってアメリカに移住し市民権を取得した人」と「住み始めた当初は不法で後から市民権を取得した人」の両方がいる
そして所帯によっては「元・不法移民と現・不法移民」という構成の家族もいたりする
そして前回の選挙では
「元・不法移民で今市民権を持つ人」、特にヒスパニック系コミュニティが(彼らは民主党を好むという従来の通説を覆して)
大量にトランプに投票したことがトランプを大統領に押し上げた一因と言われている
民主党が金持ち優遇という印象を与えてしまい、彼らに不遇を受けるという不安を抱かせたこと、
それからトランプが「移民対策はやるが、国外追放するのは犯罪歴のある不法移民のみ」と公約したからだ
だが蓋を開けてみるとトランプは犯罪歴がない移民でもどしどし捕まえ、どしどし国外追放している
(ICEにはノルマがあると言われ、8歳の女の子を捕まえて強制送還しようとしたとか、人違いなのに深刻な人権侵害で知られる国外の収容所に強制送還したとかのトラブルが絶えない)
それで今、裏切られた!となってるのがヒスパニック系
この記事はけっこう刺さってしまったなあ。このおじいさん2010年当時95歳か。この世代の戦争体験を生の声で聞ける時代は、もう終ってしまったのだなあ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b0b23e248c99cadd393ab67a11a0a5ce4a6662d
「許してくれ、許してくれ」とガマで泣き崩れた 沖縄戦で母子を撃った90代の元日本兵が謝罪
6/19(木) 6:04配信
元兵士の照屋さん(仮名)が住民をあやめてしまったと告白した時に巡った壕。入り口に生える草は光がさす方に背を伸ばしていた=3月6日、沖縄本島(竹花徹朗撮影)
「私は銃の引き金を引いてしまった。今でも何度も夢に見る。苦しくて、苦しくて。このにおいは間違いなくあの親子のいた場所です」
2010年のある日、沖縄本島内のガマで、照屋さん(仮名)は泣き崩れた。90代半ばの元日本兵。言葉にならないような震えた声で「許してくれ、許してくれ」と何度も謝った。
臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)=那覇市=が沖縄戦体験者でつくるグループ「語り合いの場」を立ち上げて5年目だった。
参加の意思があるか、ないか。体験者に繰り返し確認するのが吉川さんの手法だ。
事前面談が21回に及んだ照屋さんは、吉川さんにだけ、自身の過去を打ち明けていた。「みんなの前では語らないけれど、場には参加したい」との相談に、吉川さんは「無理しないで、自分のペースとタイミングを大切にしましょう」と伝えた。
体験者は照屋さんを含め9人。グループは月1回、それぞれの戦争体験で関わりのある場所を巡ったり、公民館で集ったりした。
「私は兵士でした」。照屋さんはそう自己紹介した以外、ほとんど口を開かず、表情も変えずに部屋の隅でじっと座っていた。記憶が残る戦地をどう巡るか意見を出し合った時も、「私にはそういった所はないので、みんなに任せます」と仏頂面だった。
それでも、会を重ねるごとに表情は和らいでいった。吉川さんと出会って6年が過ぎた頃、「話がある」と切り出した。「いまさらで申し訳ない。皆さんがいい、って言ってくれたら、あのガマで手を合わせたい」。吉川さんは「ようやく照屋さんのタイミングが来たのだな」と受け止めた。
慰霊の日を終えた後の夏の日だった。照屋さんは仲間たちとあのガマを訪れた。
意を決したように入り口に近寄るが、すぐに立ち止まる。しばらくして再び歩を進めると、また止まった。
そんな動作を何度か繰り返すと、仲間の男性が照屋さんの手を取り、中へ入った。
「間違いない」。照屋さんはそうつぶやくと、ごつごつとした岩場に膝をつき、嗚咽(おえつ)を漏らした。
90代半ばの元日本兵、照屋さん(仮名)は一通り泣いた後、語り出した。
所属部隊のガマが米軍に見つかったこと。住民が避難していたガマを部隊が使うと決めたこと。ガマには住民がぎゅうぎゅう詰めで、上官が「ここは今から我々が使うから、一人残らず出て行け」と命じたこと。痩せ細って泣く赤ん坊を抱いた母親が照屋さんの足にすがり「お願いです。この子だけは生かして」と叫んだこと。そして照屋さんがその親子を銃で撃ったこと-。
告白の後、参加者全員で線香をたいて手を合わせた。メンバーの一人に「話してくれてありがとう」と声をかけられると、今度は声を上げ、子どものように涙を流した。
帰り際「一人では二度とあの場所に近づけないと思っていたが、みんなが背中を押してくれた」と頭を下げた。「戦争の時にしてしまったことは消えないけれど、供養になれば…」と言葉を継いだ。
照屋さんは1915年、沖縄本島中部で生まれた。厳しい父と優しい母に育てられ、かけっこが得意だった。25歳の時、五つ年下の女性と結婚。生まれた娘には豊かな子に育ってほしいという願いを込め、「トミ」と名付けた。
太平洋戦争で東南アジアの戦地に出兵。「家族を守るため自分の命をささげる」との決意だった。戦争が激しくなった44年、沖縄に配属された。日本軍と県は住民の県外疎開を促していた。照屋さんと入れ替わるように妻と子は船に乗った。
45年8月15日、日本の敗戦を伝える玉音放送を収容所で聞いてうなだれた。ようやく戦争が終わったと実感したが、県外に渡った妻子とは連絡が取れなかった。行き先は聞いていなかった。
2人が長崎に疎開し、原爆で命を落としたことを知ったのは数年後のこと。自分が殺してしまった親子への罪悪感と、心の拠(よ)り所だった家族を失い「生きている価値がない」との絶望感から沖縄を離れたが、仕事の関係で間もなく戻らざるを得なくなった。
それでも故郷の集落には足が向かなかった。手元に1枚だけ残った妻と子の写真は肌身離さず持ち歩き、なるべく人と接しないよう、ひっそり暮らした。
戦時の体験を明かすまで65年。照屋さんと対話を重ねてきた臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)は「話したからといって、罪悪感を払拭したいという思いがあったわけでも、自分の行為を正当化したかったわけでもないと思う」と胸の内を推察する。
「照屋さんにとってこの場なら大丈夫と安心して、自分で話せるようになるのに、それだけの時間が必要だった。私はただ待って、機が熟したと本人が感じた時にそっと背中を押すという距離感を保ってきた」と振り返った。(戦後80年取材班・吉田伸)
この記事、読んでいて本当につらかった。
なにより衝撃だったのは、泣き叫ぶ子どもだけでなく、その母親まで撃ったということ。あまりに酷すぎて、もし自分が家族だったら、このおじいさんを絶対に許せないと思った。久米島守備隊の住民虐殺事件など、日本軍の行動を思い出しても、本当にひどい。
きっと、当時の兵士にとって、住民は守るべき存在ではなく、戦闘の妨げになる「障害」と見なされていたのだろう。でも、もしそうだとしたら、一体何のために戦っていたのか?普通に考えれば疑問に思うはずだ。だが、その「普通に考える」という倫理観は、命の危機にさらされた極限状態では働かなくなってしまうものなのだろう。
一方で、彼は自分の妻子を県外に避難させようとした。冷静な倫理観を失っていなかったともいえる。しかし、妻子は長崎で原爆により命を落とすという皮肉な結果を迎える。「因果応報」という言葉が浮かぶが、亡くなった家族にとってはあまりに残酷すぎる結末だ。
このおじいさんは1915年生まれ。つまり、戦中派(特攻世代)より一回り上の世代にあたる。戦後80年、この世代の体験談を聞ける機会はもはや残されていない。「普通に考えればわかるはずの倫理」が破綻した時代を生きた世代だ。象徴的な人物としては大岡昇平や奥崎謙三、俳優では池辺良。池辺のエッセイには、部下に恨まれた将校が海に放り込まれたエピソードなどがさらっと描かれており、ユーモアを交えて将校時代の下克上が語られている。奥崎は、部下の処刑をめぐって上官を追及したドキュメンタリーで知られる。
第一に、1910年代以前の生まれの「戦争を指導した大人世代」。上官や責任ある立場で戦争に関与し、戦後は沈黙を保って生き延びた人々。戦場で人間性を喪失し、それでも帰ってきた。
第二に、大正末期から昭和一桁生まれの「特攻・戦中派世代」。三島由紀夫、鶴田浩二、吉田満らが代表で、国のためひとのために尽くし、「美しく死ぬこと」に倫理を見出し、ある種過剰に倫理的だった。岡本喜八の映画作品にみられるこうした倫理へのアンチテーゼもまた戦中派の主題となった。
第三に、終戦時に少年期だった「焼け跡世代」。彼ら子供に目には、戦争から帰って沈黙した親たちの世代と国家報恩を信じて裏切られた兄たちの世代間ギャップがみえていたはずだ。
このうち、戦後に戦争体験を最も語ったのは特攻世代だった。戦前派は血塗られた過去に沈黙を貫き、焼け跡派は語れるほどの戦地体験を持たなかった。
特攻世代の特徴は「死の意味」を内面化しようとしたこと。彼らにとっては、「美しく死ぬ」ことで自分の運命を受け入れるしかなかった。その純粋さが戦後の道徳観につながり、吉田満に代表される感性は現代の保守層に理想視されてもいる。
しかしその倫理観には、自己満足や欺瞞が含まれている可能性もある。過去の自分の非を、倫理的になった「現在の自分」が糾弾するかたちには、どこか自己満足と偽善が入り込んでいる。ご都合主義というやつだ。
そして、その倫理観は被害者に対しても危うい。「恨まれて当然のことをした」という構図を強化してしまいかねない。戦場での行為は謝って済む話ではないことがほとんどだ。怨恨は抽象化され、「慰安婦」や「ホロコースト」のように象徴的な言葉として拡散され、世代を超えて敵意の燃料となっていく。
脚本家・橋田壽賀子も戦中派世代。「おしん」に出てくる夫・竜三は、隣組組長として若者たちを戦場に送り出した責任をとって自決する。そこには戦中派の「死によってけじめをつける」という倫理観が濃く反映されている。
死によって責任を取るという倫理のあり方は、戦争中は自分も戦意を煽っておきながら戦後になると民主主義的な道徳を語り始めた知識人の自己批判にも似て、実は同根なのかもしれない。終戦直後、小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。
知識人たちのある種の自己嫌悪に対する小林の態度は考えさせられる。
岸田秀は「ものぐさ精神分析」のなかで、酒を飲んでやらかしてしまった失態を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも「自己嫌悪」とは何かを分析した。倫理的に覚醒した自分がコントロールを失って暴れた自分を自省し、本来の自分は倫理的で、酔って暴れた自分は本来の自分ではなかったという卑怯なポジショニングのもとで成り立っているからだと喝破した。
現代のSNS社会では、こうした加害者の欺瞞的な贖罪を被害者がつけ込む形で、この構造がさらに先鋭化する。加害者には「反省し続ける姿勢」が求められ、被害者には「傷ついたままであること」が期待されてしまう。
ときに「病みアピ」とも呼ばれる行動は、関心を集めるための戦略になりがちだ。弱ったときは周囲が心配してくれ、攻撃されれば誰かが擁護してくれる──そんな「おいしい被害者」のポジションに依存してしまい、自分でも気づかぬうちに抜け出せなくなってしまう。
でも本当に必要なのは、「赦し」なのだと思う。贖罪は再生のきっかけにすぎない。
この記事に描かれた世代は、「死を美化する」戦中派とは違い、倫理的な生き方などできなかった。理不尽で泥臭い体験を抱え、時にはそれを笑いに変えてでも、ぶざまに生きてきた人たちだ。過去の行為を忘れたい、でも忘れられない──その葛藤とともに、不器用に、ぶざまに、しかし確かに生きてきた。
この世代の葛藤を描いだ作品に、山田洋次原作『少年寅次郎』(脚本・岡田惠和)がある。戦地から戻った父が罪悪感から娘の顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。魂が抜けたように無口な毎日を過ごす夫に対して、いつものちゃらんぽらんな性格にもどってほしい、とつぶやく妻のセリフは印象的だ。ひとたび戦場で倫理が破綻してしまった人間に対するまなざしとはそういうものだったのだろう。
これに対して戦中派の苦悩を描いだ作品として、山田太一のドラマ『男たちの旅路』も思い出す。特攻の記憶を引きずる鶴田浩二と、彼に恋する部下を演じた桃井かおり、上司役の池辺良の三者が見せたのは、世代間の倫理観の激突だった。上司役の池辺良が放った「筋を通すな」という一言は、戦中派の倫理観に対する戦前派からの強烈なカウンターだった。山田太一の、戦前派と戦中派の葛藤に対する繊細なまなざしがここに凝縮されている。
記事のおじいさんはまさに沈黙してきた世代だ。生きるために沖縄に戻らざるを得なかったこと、その土地で暮らしたこと、そして65年の沈黙。たった一度の涙より、その沈黙の重さにこそリアリティがある。
「贖罪でも正当化でもない」と吉川さんは言った。語らなかった時間のほうが、語られた言葉よりも重いのだと思う。
私たちは「贖罪の涙」や「被害者のトラウマ」ばかりに注目しがちだが、本当に大事なのは、「赦し」へ向かうゆっくりとしたプロセスだ。
「話してくれてありがとう」と言ってくれるグループの存在。「自分のペースとタイミング」で見守る吉川さんのような人の存在。そのほうがよほど重い。
被害者の側も、いつまでも「被害者であり続ける」ことはできない。
辺見庸の『もの食う人々』では、フィリピンの住民が「日本兵に家族をブタの丸焼きのように食べられた。でももう恨んでいない」と淡々と語った。その表情に、辺見は「悲しんでいる余裕もなく生きてきた強さ」を見たという。
人生って、つらい経験ほど上書き保存、楽しい記憶は名前をつけて保存──本来そうあるべきなのに、振り返ると逆になっていることが多い。
贖罪より、赦しの方がずっと尊く、強い。
人間、図太く生きていたいものだ。戦前派の多くはそうして沈黙を貫いてきた。自分もそうありたいし、あのおじいさんも赦されてほしい。
65年経って懺悔されても──という思いもあるが、戦争が人間性を狂わせるということは、後世の私たちが覚えておけばいい。
山田太一で思い出した「太一」つながりで、昨日は国分太一の番組降板が話題になっていた。あれがどんな問題だったかは知らないが、この記事のおじいさんのことを思えば、本当に取るに足らない騒ぎに思えてしまう。
もちろん、軽々しく比較するべきではないけれど、それでも、そう感じてしまう自分がいる。