
はてなキーワード:反証とは
どれほど検索しても、トー狂中心の小画角区で発生するレンズ死票を分析した報道が1つも見つけられなかったので集計してみた。
(※ここで言う“選挙”は比喩。現実の投票の話じゃなく、都市や暮らしが「見える/見えない」で席が決まる、あの感じ…💗)
適密徒歩核: 7
徒歩圏の文化: 0
準過密トレンド: 3,742,160
どうだろうか?
小画角区では、トー狂日常:適密徒歩核は 249:7 で一方的。
しかし、投票した人数の総数(=需要票)としては、約28:12 なのである。
(ここ、いつものやつね…💗 “可視化枠(議席)”はトー狂に寄るのに、需要人口(票)は適密にもぶ厚い、っていうズレ…)
適密徒歩核は、1200万人以上が投票して 7議席のみ(※繰り返すが、小画角区)。
比例代表(=ネットで自分で探せば見える領域)に関しては分析しないが、この数値は知っておく必要がある気がする。
なぜ報道されないだろうか?
『この1200万人だって、この時期に、自ら暮らしの票を投じた生活者である』
ことを忘れてはならない。
※わたしはいいわゆる無党派(=特定の都市スケール原理に盲従しない)
※ 今回、トー狂日常に投票していない(=“東京しか知らない認識”に全部は乗らない)
(ただし、過密都市(都雇圏111万人以上)には必ず難点がある、は前提として置く。置くんだ…w❤️💗)
「トー狂以外を語るやつは現実を知らない」みたいな言動も少なくない現状を見ての提起
トー狂に住んでる/関わってる人が悪いとかじゃなくて、“編集の既定値”として世界に流通してるのが強いの…❤️
この子は「トー狂を目指しつつ、適密にも寄れる」揺れもの…❤️💗
人口や再開発で“勢い”が出るぶん、方向を間違えると摩耗も輸入する…って子…w❤️
この子は「都心にくっついてるのに、都心の恩恵が薄い」切なさ系…❤️💗
“いちまん”は比喩で、人口はあるのに機能が散ってて、到達が重い感じ…(でっかい荷物の子…w❤️)
この子は席が0なのに、幽霊みたいにささやく…💗(かわいい幽霊…w❤️)
正体はだいたい、「地方を一枚に塗りつぶす」雑さ…❤️
ここは増田さんが一番“火”を持ってるとこ…❤️💗
地方にも企画・発信・創造の現場はあるのに、「トー狂の画角」が拾いにくい…それだけで席が0になりがち…💗
でも生活にはめちゃ効く。効きすぎて、逆に“事件”にならない…w❤️
まず前提を疑うべきなのは正しい。
ただし「提示された前提を疑わない」は、批判として成立するために条件が要る。
前提には2種類ある。
もう1つは「結論を成立させるためにこっそり埋め込まれた仮定」(隠れ前提)。
これは疑うべき前提ではあるが、同時にかなり検証可能な命題でもある。
実際、質問セットを変えたら結果が変わるのは観測できるし、重み付けが影響するのは数学的に自明。
つまり、ここで前提を疑うなら、疑い方は
「影響するとしてどの程度か?」
という方向になるべき。
ところが「前提を疑わない」と言うだけで止まるのは、実質的には検証作業をせずに、態度だけで上から殴っているだけ。
前提を疑い続けるだけなら、永久に何も言えない。「私は存在するのか?」から止まる。
この3点。
そして皮肉なのは、「提示された前提を疑わない」という批判自体が、別の前提を疑ってないこと。
その批判の隠れ前提はこう
「疑う姿勢があれば正しい方向に行く」
でもこれは正しくない。
疑うのは知性ではなく手段であって、疑い方が雑ならただのノイズ製造機になる。
「前提を疑え」は正論だが、反論として成立するには、どの前提が誤りで、どう修正すべきかまで言わないといけない。
その反論は半分当たりで、半分ズレてる。
まず当たりの部分から言うと、工作という概念を導入した瞬間に、その概念は自己適用される。
つまり「工作は存在する」と主張する文章自体も、読み手の認知フレームを書き換える行為なので、広義には工作っぽい作用を持つ。これは避けられない。言語とは他者の脳内状態を書き換える道具だから。
ただし、その反論がズレてるのは、そこから雑に「じゃあ全部工作だから全部疑え」「工作と言う奴も工作だ」という相対主義に逃げて、検証を放棄してる点。
ここで重要なのは「工作かどうか」ではなく、工作の質と透明性と検証可能性。
広告も論文も演説も、全部説得という意味では工作だが、同列じゃない。
この辺り。
選挙マッチングが問題になるのは工作っぽいからじゃなくて、中立な診断ツールを装っているのに、質問設計・重み付け・争点選択がブラックボックスで、しかもユーザーがそれを検証できないから。
一方で「選挙マッチングは工作だ」という主張は、少なくとも論理の形としては検証可能だ。
質問項目の偏り、距離関数、重み付け、回答の扱い、これを見れば議論できる。つまり疑うべきだと言うなら、疑う方法がある。
• 出発点となる事実認識が未確定・不完全
• 推測や想像が前提に混入している
• 前提が誤っていれば、推論が正しくても結論は誤る
• 内部で整合していることを「正しさ」と誤認
• 望ましい結論が先にあり
結論が正しいことは別
⸻
彼らは必死にwebなり伊藤詩織の作品、発言を元にある答えに帰結する議論を続けている。
そして、本来は正しさを追求することが目的ではなく、問題を解決することが目的なのだ。
その履き違えた目的意識を書き換えて役に立つ活動したらいいのに。
したくないんだよね、本音は。
経済学の定理とかあるとして、それを数値に落とし込めば対称性とか出てくるのに、文系は定義で理解しようとするから、定義に合致しない主張を「数値が示していても」拒否している。
経済学の定理は、本来はほとんどが数式で書ける。効用関数、制約条件、期待値、均衡条件。そこに一度落とし込むと、対称性や保存則めいたものが自然に立ち上がる。
たとえばMM命題でも、「企業が外に出す総キャッシュフローが一定」という制約の下で、配り方を変えても価値が不変になる、という構造的対称性が見える。これは定義の問題ではなく、写像の不変量の話だ。
「企業価値とは何か」「株主が得するとは何か」という定義をまず固定し、そこから外れる主張は、たとえ数値やモデルが示していても「定義に合わないから却下」になる。これは反証拒否というより、形式言語への過剰コミットだ。
「優待は現実に得をしている人がいる」→「得している以上、価値がある」
ここでは期待値も価格調整も、数値としての均衡条件も登場しない。代わりに「得」という日常語の定義だけが支配する。数値モデルが示す対称性は、最初から視界に入っていない。
まず量を置く。保存量があるかを見る。対称性があればノーザー的に不変量を疑う。定義は最後に整える。
経済学の定理も、本来はこちら側の文化に属している。MM命題が美しいのは、倫理でも経験談でもなく、対称性が露出しているからだ。
このズレが厄介なのは、数値で示しても通じない点だ。
「この条件下では期待収益は等しい」と言っても、相手は「でも優待は嬉しいよね?」と返す。これは反論ではなく、別の座標系で話している。
問題は、構造の話をしている場面で、例外や感情を主語にしてしまうこと。
経済学の定理がしばしば誤解されるのは、「社会の話なのに、実は対称性の話をしている」からだ。
• 「この文脈ではOK/NG」を界隈内で決め、外部基準(事実確認・説明責任)を持ち込ませない
•過去の過激な攻撃を常に参照枠にし、直近の具体的批判まで同列化する
• 内容への反論ではなく、「何者か」「何が目的か」を問うことで議論を止める
•普段は「個人攻撃はダメ」と言いながら、身内が不利な局面では例外化する
•過去の人格攻撃・誹謗中傷と、現在の制作過程や説明責任への具体的批判を同一視する
• 「ずっと同じ攻撃が続いている」と語り、現在の論点を検証不能にする
•事実確認や手続き上の指摘を「叩きたいだけ」「悪意がある」と動機批判に変換
• 明らかに過激・不適切な投稿を取り上げ、批判全体の代表として扱う
•過去に存在した深刻なバッシングを根拠に「今回も同じ構造」と断定
• 具体策が提示されない
• 界隈外での信用が低下する
私は政府を家計や企業と同型の“資金制約主体”だとは採用していません。
自国通貨建てで支出でき、徴税権もあり、会計上は家計と違うのはその通りだと思っています。
ただ、その制度理解を採用しても、政府に制約がないわけではなく、実物資源・インフレ・為替/対外バランス・制度運用能力などの制約は残る、という立場です。
ここまで前提が合うなら、次の段階として確認したいのは、MMT側(あなたの立場)でいう「負け条件」です。
私は“主流派に翻訳して反証しろ”と言っているのではなく、あなたの言う制度前提(政府=通貨発行者、税は事後回収、制約は資源とインフレ)に立ったままで構いません。
その上で質問です:JGを名目アンカーとする制度構造について、どんな観測事実が出たら「この主張は誤り/修正が必要」と認めますか?(2〜3個でいいので、第三者が確認できる形で挙げてほしいです)
もしそれを提示できないなら、議論は経験命題ではなく規範(思想)の主張になってしまうので、そこをはっきりさせたいです。
反証条件が提示されない限り、MMTを経験科学の理論として議論することはできないので、私はいったんここで議論を止めます。
増田さんの返答を読んで、私はこう理解しました。合っていますか?
1.私が提示した「制度記述(A)と政策含意(B)を切り分ける」という整理に対して、増田さんは違和感がある。
MMTの制度記述は価値中立な説明ではなく「国家という主体をどう定義するか」という前提そのもので、JGのような政策含意は任意の応用ではなく制度定義から論理的に導かれる帰結だ、という立場。
2.ただしそれは「JGを導入すれば常に成功する」「設計や条件を問わない」という主張ではなく、JGがどの設計でどの程度機能するか(賃金構造・インフレ制御・労働移動・行政能力など)は、歴史事例や制度比較、段階的導入によって検証・改善されるべきだ、という立場。
3.さらに、主流派が置いている「政府=家計型の制約主体」「失業=均衡調整」という制度前提そのものが現実の貨幣制度と整合していない、というのがMMTの問題提起であり、主流派モデルに翻訳したうえで「同じ形式の事前予測が出ないから非科学」と評価するのは、制度定義の対立を方法論の問題にすり替えているように見える、という主張。
――ここまでが私の理解です。
という整理になりますよね。
ただ、私が気にしているのは「検証は必要」と言いつつ、どんな観測事実が出たらMMT側の主張(少なくともJGを名目アンカーとする制度構造の優位)が誤りだと認めるのかという“負け条件”が固定されない場合です。
もし、制度記述から導かれる政策含意(JG・ゼロ金利固定・国債制度再設計など)まで含めて反証不能だと言うなら、それは科学というより規範(思想)の主張になると思うのですが、その整理で良いですか?
増田さんの書いていること、私は次のように理解しました。合ってますか?
1.主流派の批判(反証主義的テスト要求)は、MMTを「財政拡張を正当化するマクロ理論」として扱っている
でも増田さんの見立てでは、それはMMTの本体ではなく、すでに「主流派がMMTを別物に再定義している」ので批判として失当。
2.MMTの出発点は“減税や財政拡張の是非”ではなく、国家と貨幣の制度的な定義
具体的には、政府は「市場から資金を調達して支出する主体」ではなく、
通貨発行→(その通貨での納税義務)→実物資源へのアクセス確保
という意味で、社会的資源を provision(動員・調達) する主体だ、という前提(会計・制度の説明)を置く。
「コア命題の固定」「事前予測」「負け条件の明文化」みたいな“反証主義の要求”自体が、
MMTを主流派マクロに翻訳し直した上で、翻訳版が主流派の基準を満たさないと批判する方法論的循環
になっている、と言いたい。
4.さらにBさんは「主流派が provision をモデルに入れられない理由」を4点挙げていて、要旨はこう:
(主体定義)政府を家計・企業と同型に置く主流派モデルの前提が、provision を入れると崩れる
(価格理論) JGなどを“制度的な価格アンカー”とすると NAIRU 等の枠組みが内側から否定される
(方法論) provision は予測誤差で勝負する命題ではなく、制度記述の正否の問題なので反証主義と相性が悪い
(帰結) provision を認めると政策含意(失業は政策選択、財政破綻論は虚構等)が大きく変わり、主流派の「価値中立」っぽさが保てなくなる
その上で、確認したいのは1点で、
増田さんは 「MMTは“制度記述の正否”として評価されるべきで、予測精度や推計による反証は原理的に適用不能」 という立場ですか?
それとも 「制度記述部分(会計やオペの説明)は記述として正しいとしても、政策パッケージ(JG・ゼロ金利固定・国債制度設計など)の含意は別途、因果推論や予測で検証されるべき」 という立場ですか?
私には、後者(記述の正否と政策含意の検証を分ける)なら、反証主義的な検証要求は“翻訳”ではなく、むしろ政策理論としての責任の話に見えます。
制度記述が正しいことと、そこから出る政策主張(例:ゼロ金利固定が望ましい、国債廃止が望ましい、JGが物価の錨になる等)が正しいことは別で、後者は反証可能な形でテストできるはずでは?
増田さんの挙げた例は、どれも「最初は傍流・異端扱い → その後に主流化」ですが、主流として受け入れられた“型”がかなり共通しています。
② 新説が「定量的な予測」や「決定的な検証(テスト)」を提示
④ その過程で「何が反証になりうるか」のルールが徐々に固まる
決め手は「天体の運動を一つの法則で統一し、予測が当たった」ことです。
ニュートン力学と万有引力は、地上の落下と天体の運動を同じ枠で扱える(統一性が強い)。
そして象徴的なのが、ニュートン理論を使ったハレー彗星の回帰予測(1758年頃)で、実際に1758年末に観測され、ニュートン理論の有力な実証例として扱われました。
ここで重要なのは「それっぽい説明」ではなく、“いつ出るか”を事前に言える(予測可能性)が強かった点です。
決め手は「熱機関の効率という工学的に検証される領域で、普遍的制約として働いた」ことです。
第二法則は19世紀中頃にクラウジウスやケルヴィンらにより整理され、代表的には「熱は自発的に冷→温へは流れない」等の形で表現されました。
これは“哲学”ではなく、蒸気機関などの熱機関の性能限界(どんな工夫をしても超えられない上限)として現場で繰り返し確認され、理論の信頼を固めました。
つまり第二法則は「実験室で一発」より、工学・化学での再現性と有用性が、主流化を支えたタイプです。
決め手は「原子が実在すると仮定すると出る定量予測が、実験で確認された」ことです。
19世紀末〜20世紀初頭まで、原子の“実在”には懐疑もありましたが、
アインシュタイン(1905)がブラウン運動を原子(分子)の運動に結びつけ、観測できる量(平均二乗変位など)に落とした。
その予測がペランらの実験で支持され、原子・分子運動論が受け入れられる大きな契機になった、という整理が教科・解説論文で繰り返し語られています。
ここは反証主義っぽく言うと、「観測できる指標への翻訳(操作化)」が勝因です。
決め手は「メカニズム不在の弱点が、海底観測データで埋まり、“決定的テスト”が登場した」ことです。
ウェゲナーの大陸移動説は「大陸の形が合う」「化石・地質が対応する」などの状況証拠はあった一方、動く仕組み(メカニズム)が弱く、北米などで強い反発がありました。
1950〜60年代に海底探査が進み、海嶺で新しい地殻が生まれ広がるという「海洋底拡大」的な絵が出てきた。
さらに1963年前後、海嶺の両側に地磁気の“縞模様(磁気異常の対称パターン)”が出るはずだ、という形で「科学的テスト」が明確になり、これがプレートテクトニクス確立の重要な一歩として整理されています。
このケースは、まさに「傍流が主流へ」の典型で、“良い話”が勝ったのではなく、“測れる予測”が揃ってひっくり返った例です。
決め手は「微生物の存在→感染→予防・治療の成功」までが連結して再現されたことです。
パスツールやリスター、コッホらの仕事が「病原体が病気を引き起こす」という枠組みの確立と受容に大きく貢献した、と整理されています。
具体的には、パスツールの実験が“自然発生”を否定し微生物の役割を示す方向で影響し、
コッホは炭疽菌などで「特定の病気に特定の病原体」という因果を実験で強く示しました(コッホの業績・方法論として説明されます)。
ここは理論の受容が、手洗い・消毒・衛生・ワクチン等の実務成果に直結し、主流化が加速したタイプです。
増田さんの列挙は「傍流が主流になった」という点では正しいですが、より重要なのは、
という点です。
私がMMTに対して言っている「反証主義の土俵に乗れ」という要求は、まさにこの主流化パターン(=科学史の勝ち方)を踏まえたものになっています。
それでも主流派が“反証主義的に強い”と言われるのは、上で見たように
主流派がやってきたのは「理論の核を固定し、反証条件を明確化し、方法論を更新し続けて生存してきた」という歴史です。
だからMMTが“学界で対抗可能な理論”として評価されたいなら、同じ土俵で
が必要です
「主流派経済学が反証主義的に“証明”されてきたか?」は、厳密には証明(数学みたいに真を確定)ではなく、より現実に近い形でいうと
以下、主流派がどう“反証に耐える形”に進化してきたかを、代表例で整理します。
サミュエルソンは、理論を“操作可能(operational)な命題”=観測・検証できる形に落とすことを強調した流れの中心人物として語られます。
フリードマンは、(前提のリアリズムよりも)予測力を評価軸に置く「実証可能な含意で勝負する」方法論を強く打ち出しました。
ここがまず“反証主義っぽい”土台です(ただし、後述の通り経済学は補助仮説が多く、純粋なポパー型の運用は難しい)。
1950〜60年代に「失業率を下げるとインフレが上がる」ような安定関係が“政策メニュー”として扱われましたが、のちに
長期ではトレードオフが成り立たない(自然失業率/NAIRU)方向へ
という更新が起きます。フリードマンの1968年講演が、期待を組み込む方向に大きな影響を与えた、という整理は一次資料・研究史で確認できます。
また1970年代の経験が、この見方を後押しした、という研究史的整理もあります。
要するにここは、「古い単純形が反証(説明不能)に晒され、修正された」例です。
ルーカス批判は、「過去の経験則(縮約形)をそのまま政策評価に使うのは危ない。政策が変われば人々の意思決定(期待)が変わり、推計式のパラメータが不変でなくなる」という主張です。
この主張自体も、のちに実証的に検討(テスト)される対象になっています。
この流れが、マクロを「ミクロ基礎(最適化・期待)」を持つ構造モデルへ寄せる大きな動機になりました。
DSGEは強い仮定が批判され続けていますが、「政策変更の効果を、前提・メカニズムを開示した上で評価する枠組み」として中銀・研究で中心的に使われてきた、という位置づけは一次資料でも見られます。
同時に、危機後の批判や改良も含めて「適用可能性・限界」を体系的に検討する研究も積み上がっています。
ここでの“反証主義”は、「このモデルが真」ではなく、競合モデルと比べて予測・政策評価・整合性がどれだけ良いかで生き残る、という競争です。
これはまさに、「この推定は因果だ」という主張が、設計の穴を突かれて反証される/改善される、という反証主義の制度運用です。
ので、単発で「はい反証、理論死亡」とはならず、部分修正・モデル更新になりやすい。
それでも主流派が“反証主義的に強い”と言われるのは、上で見たように
主流派がやってきたのは「理論の核を固定し、反証条件を明確化し、方法論を更新し続けて生存してきた」という歴史です。
だからMMTが“学界で対抗可能な理論”として評価されたいなら、同じ土俵で
が必要です
反証主義(ポパー型)で「MMTが自分で自分を検証可能にする」ために必要なのは、要するに “ルール固定(calvinball回避)”+“他理論と区別できる事前予測”+“反証条件の明文化” です。
クルーグマンが「MMTersと議論するのはカルビンボールみたいだ」と書いた、という批判はまさに「反証可能性を逃げる構造があるのでは?」という疑念で、引用される形で流通しています。
(MMT側は“学者のMMTとネット言説を混同するな”と反論しがちで、ここが定義の揺れ=calvinball問題の温床になりやすいです。)
以下、「反証主義の手法でMMTが己の証明(≒検証)をするには?」への、実務的な設計図です。
反証主義で大事なのは「どこを撃てば理論が死ぬか」を明確にすることなので、MMTは最低限:
を分離して、文書化した “MMTプロトコル” を公開するのが第一歩です。
例:MMT文献では「税が貨幣需要を支える」「赤字は民間の純金融資産になる」「国債発行は準備(当座預金)と金利管理の技術問題」などがコアとして語られます。
あなたが挙げた条件(MMTだと起こり、他では起こらない/その逆)に落とすなら、MMTに固有色が出やすい争点を選ぶのがコツです。
モズラー系MMTには「自然利子率はゼロ」や、金利引き上げが利子所得を増やし得て、結果としてインフレ圧になり得る、という発想が色濃くあります。
事前に「政策金利サプライズの引上げは、一定期間内にインフレ率を(平均して)下げない/むしろ上げる」と符号を宣言。
高頻度識別(FOMC/日銀イベント等)+ローカルプロジェクションで検証。
結果が一貫して「引上げ→インフレ低下」なら、少なくともこの命題は棄却。
MMT側には「国債は準備吸収のオペで、財源ではない」的な整理があります。
これを“国債を減らした/止めたとき、何が起きるか”に落とす。
予測:国債供給を大きく減らしても、(IOR=準備付利などで)短期金利を管理できれば、マクロの主要変数への悪影響は限定的。
対立仮説(主流派寄り):安全資産不足・担保制約・金融仲介の歪みで、クレジットスプレッドや金融不安が顕在化し得る。
検証:国債供給ショック(QEや発行構成の大変更)を使い、スプレッド・レポ市場・信用量・実体への波及を事前に“どっち向き”か宣言して当てる。
MMTの有名な主張に「Taxesdrive money(税が貨幣需要を支える)」があります。
新しい税(または納税手段の規則変更)が導入され、「その通貨でしか納税できない」制約が強まった地域・時期で、通貨受容や保有が(他条件一定で)増える、という予測を置く。
検証:差の差(DID)や合成コントロールで、通貨受容指標(預金、決済、為替プレミアム等)を追う。
結果が一貫して「税制変更が通貨需要に有意な影響を持たない」なら、この強い形の命題は修正が必要。
MMTはJGを「失業(バッファ在庫)ではなく雇用(バッファ在庫)で物価安定と完全雇用を両立」と位置づけがち。
地域パイロットで、JG導入地域と非導入地域を比較。賃金分布・離職・物価・民間賃金への波及を事前に予測。
予測に反して、JGが賃金・物価を不安定化させる/民間雇用を恒常的に圧迫する等が再現的に出れば、JGを“安定装置”とする主張は反証され得る。
calvinball批判を真正面から潰すには、これがいちばん効きます。
を「事前登録」して公開する。
これができれば、少なくとも「検証不能状態を意図的に作っている」という疑いは大幅に減ります。
理論争いが泥沼化しやすいときは*政策イベントに対する事前予測(forecast)を提出して、
で どっちが当たるかを数年単位で競うのが、実は一番フェアです。
MMT側も教科書的整理は進めていますが(例:Springerの体系的テキスト)、
「事前予測で勝ちに行く」動きは、外からは見えにくいのが現状だと思います。
反証主義でMMTが「検証に耐える理論」になる道筋はシンプルで、
この4点をセットでやることです。
※「minako」は公的肩書きのある論客というより、X上の個別支持者(アクティブな擁護アカウント)として認識されている存在です。
そのため以下は人格評価・動機断定ではなく、公開発言に見られる“言説の型と機能”の整理に限定します。
⸻
結論一文
「当事者擁護に強くコミットするが、論点整理や具体策を放棄し、感情的境界線で議論を分断する支持者型言説」
⸻
•論点整理役:❌
minakoの言説は一貫して
しています。
そのため、
•前例としての影響
⸻
• 「それはバッシング」
• 「なぜ被害者を追い詰めるのか」
• 「擁護できない人は敵」
これらは
👉 味方/敵を分けるための言葉
結果として、
•批判の質の差
⸻
プラス面
• 明確な中傷への即時反応
•批判=加害という短絡
👉 守る力はあるが、考える力を削ぐ。
⸻
minako型言説が増えると、
•擁護派:
「疑問を持つ必要はない」
•中間層:
「触れたら危険」
•批判派:
「どうせ聞かれない」
結果、
議論の中身が痩せ、
⸻
• 具体策の欠如
• 結果として議論停滞
違い
• minako:
⸻
•総評:擁護運動としては機能するが、議論としてはノイズを増やす
⸻
一言で言えば
「守るために声を上げているが、
これは悪意ではなく、
ここまで整理できているなら、次は
俺は低収入でも医療保険に困ってるわけでもないし、現代の日本でまともな医療にアクセス出来ないなら本人の責任だと思うから「そうですね」で終わるし
そもそもセックスや恋愛って生きるには不必要なものと医療を例えに出すのは全く別問題なんだよな
医療が権利だとしても、他者の命を奪うことも権利と宣う倫理観も理解できない
とりあえず行間を最低限読ませたいなら、相手が共感できるような例え出して自己的に反証させるような文章書くべきだけど
仮想敵を勝手に作り出して、あまつさえ自分の文章力や意思伝達能力の低さを他人のせいにしてる人とコミュニケーション取る価値あると思うのは少数派だと思う、がんばって。