
はてなキーワード:反ファシズムとは
トランプ米大統領、「アンティファ」をテロ組織に指定へ 反ファシズムの左派運動
てタイトルあって思い出したんだけど、タイトルの最後に前文かその単語の補足解説みたいな言葉を入れるタイトル、ちょっとなんか、引っかかるのよね。自分だけか?
そういやデイリーポータルでも最近似たようなことやってるじゃん、たとえば
美大生なら誰しもが使ったことがある「ジェッソ」とはなにか 何にでも色が塗れて、発色も良くなる下地材
↑これなんかひどくて、文の後半でネタバレしてしまってる。リンク踏んで飛んでいくとサイトのタイトルは前半しか書いてない。どゆこと、これって逆じゃないの?なんで訪問前にネタバレ書いて訪問すると消えてるの。PVアップ施策だろうとは思うけど。
https://edition.cnn.com/2025/09/12/us/tyler-robinson-charlie-kirk-shooting-suspect-invs
ユタ州の郊外で育ったタイラー・ロビンソン(22)は、かつて成績優秀で、ユタ州立大学から4年間の奨学金を受けるほど将来を嘱望されていた。しかし入学から1学期で退学し、その後は地元の技術専門校に通い電気工事士見習いとして働いていた。
そんな彼が、保守系活動家チャーリー・カークを銃撃・殺害した容疑者として逮捕された。
今週、ユタ・バレー大学で講演中のカーク氏が射殺され、ロビンソンが容疑者とされた。
銃にはオンラインゲームの操作コード、ネットミームが刻まれた弾丸が使われており、動機には政治的要素とネット文化の影響が疑われている。
FBIが公開した写真を見た父親が本人と気づき、説得の末に警察へ引き渡された。
高校時代は家族と共にトランプ支持の保守派だったが、近年は政治的に変化し、特にカーク氏への批判を強めていたと家族が証言。
ゲームやデザインに熱中し、友人からは「シャイでおとなしい」「一緒にいると楽しい」と評されていた。
近隣住民や元同僚も「普通の人だった」「政治的な主張はあまり聞かなかった」と驚きを隠せない。
容疑者逮捕まで33時間の大規模な捜索が行われ、米国では近年相次ぐ政治家・活動家への襲撃の一つとして大きな衝撃を与えている。
弾丸に刻まれていた「ベラ・チャオ」の歌詞(反ファシズム歌だが近年はゲームやNetflix作品でも流行)や「おちょくり文句」は、政治的動機と同時にネット文化的な影響の混在を示している。
その逮捕者数こそ多かったが、それは公文書偽造(幽霊連署)など全て野党党員の不正が問題であり、手続きも全て裁判所令状を経ており適法である。
それに対しヒトラーのようだとか言ってる台湾人さえいる。ドイツ人なら噴飯ものだろう。
また、亜亜という台湾在住の中国人インフルエンサーに出国命令が出たこともあった。しかしそれは中国による武力侵略を煽っていた事が理由であり当然の話である。外患罪にもならず国外退去で住んでるので寛大とさえ言える。
なぜ頼清徳がファシストと言われるかというと、中国共産党が世界反ファシズム戦勝というのを自らの正統性シンボルにしているからだ。
特に今年は反ファシズム(第二次大戦)勝利80周年と言って大々的に広報し、台湾独立派=ファシストという単純図式を好んでアピールしているのだ。
その為、台湾の与党をファシストと呼んでいる者がいれば、発言者は中共の工作員かその工作に感化されてしまっていると考えて良いだろう。
だいたいフリーダム・ハウスにおける台湾の自由度スコアは100点中94点を誇り、国境なき記者団における報道自由度も東アジア最高を維持するなど、国際NGOから依然として高い評価を受けている。
中国の脅威に対抗するあまり制度疲労が起きる危惧はされているが、それでも現状は危惧だけである。
この事からもファシズムとは程遠い状況であることが客観的に明らかである。
国民が兵庫県民化し、ネットの情報を鵜呑みにしてしまう国民性へと変貌してしまったから。
中国の政治工作によって翻弄され、国全体が兵庫県となった台湾に明日はない。
ジジェクの韓国語コラムが微妙なのは英語版を改変してるからだと言ってる人がいたけど、英語版も微妙やんね
単に賞味期限切れだろこの人…
https://english.hani.co.kr/arti/english_edition/english_editorials/1149192.html
現在の右翼ポピュリズムの再興について最も重要な点は、この再興がその支持者によってどのように認識されているかということです。異なるバリエーションで繰り返し現れる単一の修辞的な図式が見られます。新しいポピュリストは、企業メディアや極左による暴力的な強制に対抗して穏健な正常性を擁護しています。「LGBT+イデオロギー」の絶え間ない圧力により、自分がただの普通の「シスジェンダー」の女性または男性であるだけで、何かしら罪悪感を感じるようにさせられ、「バイナリー」であること自体が抑圧の行為であるかのように感じること。過去の発言や行動が急に禁止され、どのルールが自分を責め立てるか事前にはっきりと示されないため、何か行動や発言をする際に「キャンセル」されるという絶え間ない脅威。人種差別や性差別がただの自分の特性ではなく、自分の存在そのものに刻まれているかのように絶えず自己卑下を強いられる衝動。これらすべてが、多くの周縁的で「破壊的」とされるアイデンティティを十分に享受するように促されるのとは対照的に、停滞して息苦しい雰囲気を効果的に生み出しているように見えるのです。
「目の覚めるような新鮮な空気が、窒息するようなウォーク主義の圧力に一時的に流れ込んだ極端な事例は、アメリカのハイデガー主義者であり、アレクサンドル・ドゥーギンに共感するマイケル・ミラーマンによって最近提供されました。彼は最近、YouTubeで『なぜ普通のものすべてがファシストと呼ばれるのか?』というタイトルのポッドキャストエピソードを公開しました。彼自身の立場の要約は以下の通りです。
『「私が嫌いな人はみんなヒトラー」という現象はどうしたのか?奇妙ですが、理解できないわけではありません。戦後のリベラルな熱狂(左翼の反ファシズムと結びついて)により、多くのことが「極右」としてコード化され、禁忌となりました。しかし、それらの中には、政治と人間の生活をよく理解するために必要な重要なことも含まれています。』
また、ミラーマンのポッドキャストに対する多数の反応にも注目すべきです。これらは文脈を明確にしています。『彼らが私をファシストと呼ぶなら、それは私が正しいことをしている証拠だ。』『私の友人は多様性と包摂の原則に基づいて外科医を選びました。彼女は亡くなりました。』『WW2前のすべての普通の人は「ファシスト」だった。血と土、自分のものへの愛、他者への警戒心は私たちに組み込まれたものであり、完全に健康的なものだ。』『イスラム教を公然と批判してイスラム教徒をやめたためにファシストと呼ばれた。』『すべての普通のものがファシストなら、ファシズムは...』『「極右」の最良の定義は、間違っていないものすべてだ。』
マリーヌ・ルペンや彼女の周囲の人々は、この論理に大いに依存していますが、彼らは自分たちがネオファシストであることを断固として否定します。彼らは、健全な常識をファシズムと混同しているのは左翼リベラルだと主張します。しかし、この論理を徹底的に追求する人もいます。『すべての普通のものがファシストなら、ファシズムは普通だ。』
7月4日の選挙で労働党が圧勝し、保守党をほぼ壊滅させたとき、多くのリベラルは、英国がこの傾向に対する明るい例外を示したと考えました。しかし、ナイジェル・ファラージのリフォームUK党が400万票以上を獲得したことを過小評価すべきではありません(ただし、英国の投票制度のため、これが議会議員5人に翻訳されました)。保守党が事実上弱体化する場合、その位置を占めるのは、より公然とした人種差別的でポピュリスト的な新しい右翼運動である可能性があります。
新しいポピュリズムの広範な魅力をイデオロギーのミスティフィケーションと操作に帰するのはあまりにも簡単です。事態はもっと微妙です。新しいポピュリストの台頭は、私たちリベラルな「啓蒙された」者たちが無視している不満の層が存在することを示しています。この層は、深く埋め込まれた伝統的な人種差別に還元されるものではありません。
したがって、新しいファシズムを「非自然化」または非正常化する必要がありますが、そのテーマをただ拒絶するだけではいけません。愛国心や自分自身の特定の生活様式への愛着には本質的に虚偽や「ファシスト」なものはありません。ジョージ・オーウェルの英国のパブの称賛を思い出してみてください。これは労働者階級の生活様式の具現化です。新しい右翼ポピュリズムが行っているのは、愛国心に偏執的なねじれを与えることです。自分自身のコミュニティを自信を持って楽しむのではなく、外部の脅威(外国人や「逸脱した」性的習慣)に対する嫉妬と憤りに焦点を当てています。
いわゆるTERF(トランス排除ラディカルフェミニスト)の問題は、彼らがこの多様な流動的なアイデンティティに反対する方法が、アイデンティティ政治の枠内にしっかりと根付いていることです。彼らのターゲットは、トランス女性であると主張する男性であり、TERFの見解では、女性としての密接な物質的プロセスに実際に参加することなく、女性であると主張する男性です。要するに、TERFは女性のアイデンティティを望まない侵入者から守ろうと必死になっています。
それが、新しいポピュリスト右派が一様な形成ではない理由です。彼らの愛国心は偽物であり、自信がありません。ここで最初のパラドックスに出会います。新しいポピュリスト右派は、愛国心が強すぎるのではなく、愛国心が足りないのです。これは、グローバル資本主義への抵抗の神秘化された形態であり、経済的にもイデオロギー的にも、いわゆる普通の人々の大多数がエスタブリッシュメント(国家、大企業、メディア、教育)から圧力を受けているという事実に反応しています。新しいポピュリストは、エスタブリッシュメントに対して普通の労働者の声として、自分たちを明瞭かつ卑猥に介入させています。新しいポピュリスト右派は確立された秩序に対する急進的な抵抗を装っていますが、トランプのイデオロジストであるスティーブ・バノンでさえ自分をレーニン主義者と呼んでいますが、実際にはそれには程遠いのです。多くの億万長者によって支持されているため、資本主義の基本的な構造は手つかずのままです。
しかし、新しいポピュリスト右派に抵抗する人々は、まず自分たち自身を批判的に見つめる必要があります。彼らも同様のパラドックスに陥っているからです。ウォーク主義的な左派は、実質的には支配エリートによる操作として正しく経験される、破壊的な超自我体制を押し付けています。彼らは(性的、人種的、経済的に)排除され、周縁化された人々の保護者として自分たちを提示しますが、その活動の形態自体が深く抑圧的であり、したがって彼らの公式の目標を損なっています。「キャンセル文化」に浸透しているのは「議論なしの立場」です。人や立場が排除されるだけでなく、その議論自体が排除され、排除に対する賛否両論の対立が排除されます。
ヘーゲルはここで、ラカンが呼んだ、述べられた内容と発話の基盤となる姿勢の間のギャップを動員するでしょう。多様性と包摂を主張しますが、自分たちの定義する多様性と包摂に完全に同意しないすべての人を排除することで、それを行います。結果として、常に人々や立場を排除し続けるだけです。このようにして、包摂と多様性のための闘争は、いつあなたのプライベートな発言が公の場からの排除につながるか分からないような、スタージのような疑惑と告発の雰囲気を生み出します。
ここで、最後のカニバルを食べるというジョークの極端なバージョンを見ているのではないでしょうか?「我々のグループには多様性と包摂の反対者はいません――最後の一人を除外したばかりです...」このようにして、唯一の楽しみは、自分の超自我の抑圧者に同一化することです。他の誰よりも厳しくなり、超自我の規則に従おうとすればするほど、ますます罪悪感を感じることに耐えるしかありません。「ついにやり遂げた、今はリラックスして自分らしくいられる」という瞬間は決して訪れません。
新しいポピュリスト右派の基本的な動きは、「リラックスして、自分が何者であるかに誇りを持て」と言うことです。これをはっきりと言うことで、膠着状態を打破し、状況に新鮮な空気をもたらすように見えます。しかし、ポピュリストたちは支配的な既存の生活様式を維持したいと考えていますが、今日の現実である動的な世界に対しては、強引に介入せざるを得ません。一方で、ウォーク主義的な左派は急進的な変化を提唱しますが、彼らが想定する変化は「何も実際に変わらないように、常に物事を変える」という古い知恵に完全に適合しています。
したがって、二重のパラドックスで結論を出しましょう。新しいポピュリスト右派は愛国心が足りず、ウォーク主義的な左派は急進的ではありません。新しいポピュリスト右派は公然とユーロセントリックですが、ウォーク主義的な左派もその形態自体がユーロセントリックです。彼らは特権的な層のように振る舞い、周縁化され排除された人々を保護しています。彼らは後見的な方法で行動し、被抑圧者にとって何が利益になるのかを被抑圧者よりもよく知っているふりをし、被抑圧者があるべき行動を取らないときには何の制約もなく叱責します。要するに、「政治的に正しい」ウォークの言説は、最終的には被抑圧者に対して彼らが真に何者であるかを伝え、彼らをイデオロギー的宇宙の中の適切な場所に配置することです(たとえその場所が無場所として提示されていても)。そのため、被抑圧者はヒステリックな反応を起こします。「なぜ私はあなたが言っているような人間なのか?」
このようにして、新しいポピュリスト右派とウォーク主義的な左派を結びつける深い共謀があります。彼らは同じコインの表裏であり、今日我々が直面している巨大な問題を回避する二つの方法なのです。どちらも、今日のグローバル資本主義の核心に刻まれた対立を無視しています。
どんなに疑いようのない正義の名のもとにいても、そこの人間が正しいかどうかというのは全く別の問題だ。
ANTIFA運動の掲げる反差別、反ファシズムというのは、現在疑いようのない正義ではあるが、だからといってアメリカで起きている暴動は正しいものだろうか?
もちろんアメリカ社会に黒人差別があり、彼らが覆し難い理不尽を受けていることは疑いようがなく、主張の正しさ自体を否定することはできない。
大事なのは、「正しいか正しくないか」というオール・オア・ナッシングの話ではなく、「どの部分が正しく、どの部分が正しくないか」という細分化だ。
トーンポリーシングをして議論自体を回避したり、理不尽から逃れたいわけではない。認めるべき正義と、認められない暴力が同居しており、その暴力を認めることはファシズムや独裁に繋がる。
だからこそ、その暴力に必要性、必然性を感じているかを確認する必要があり、それを容認することはそもそも罷りならないのだ。
こういう話の時によく取り上げられる小説として『1984』があるが、あの小説では全体主義に反抗するレジスタンスもまた、全体主義的な組織であることが明示されている。
それと似たように、リベラリズムが浸透すればするほど、人間はどんどんオール・オア・ナッシングになっていって、まったく矛盾していることだが、忌むべき全体主義への加速を促しているのが実情だ。
これはリベラリズムがおかしいとかそういう話ではない。「全ての人間には勘定があり、かつまったく不完全である」という、基本的な前提が抜け落ちているという話だ。
これは共産主義にも見られたことであり、共産主義が徹底して実行できるなら腐敗があろうはずはないが、人間はそれができるほど無感情ではないし、完璧ではない。
共産主義国が次々と失敗したのは共産主義の不備と言うよりは、人間側の問題だ。理想が高潔すぎて実行できる人間が誰もいない。
window95に最新の3Dゲームをいれるようなものだ。まともに機能するはずがない。
理論の美しさに目を取られて、それを行う人間の信念、信仰、不完全、理想など…つまり個人というものがまったく無視されるというのは、理想を掲げる時に必ず発生しうる問題だ。
「人は自分が正しいと思ったことをしたい」「人は自分が正しいと思ったことに反する事実を受け入れられない」「悪人を人間として見るのが困難になる」「正しさを否定する人間はとりあえず悪人に見える」・・・
こういった矛盾した複数の要素を人間はバランス良く孕んでいる。これを持たぬ人間などいないというほどの大前提だ。
しかし、この矛盾と向き合えるのは他社とのつながりが容易になり、個人が尊重され、異なる存在と交わる機会が増えた現代だからこそだと言える。
もう一度言うが、トーンポリーシング的な意図があるわけではない。
全体主義や差別への反抗をすればするほど、別種の全体主義や差別を生み出すという矛盾を人間は抱えているという自覚を持たざるを得ない段階に来てしまったので、持ちましょうという話だ。
「ANTIFA」とは、「反ファシズム」という名の「ファシズム」の信奉者であるという自己紹介だよ
自分たちの気に入らないものに「ファシズム的」とレッテルを張って自己批判を要求する集団だ。
『ファシズム』という言葉を辞書の記述程度にしか理解していないが。ファシズムに反対するというメッセージが、何を訴えているのかまったく伝わらないのだけれど。このメッセージをどういう意図で使っているんだろうか?そのメッセージが広く伝わると思っているんだろうか?
ネット上でアンチファシズムを名前に使っている人は、ほぼ略語の"ANTIFA"を使っていて、そんなに普及していない略語なんか使ってますます伝わらないと思うんだけれど。
ANTIFAを名乗っている人は見る限り、反自民党、反維新の党、反差別、親アジア諸国(日本を除く)、反米、反安倍首相、反橋本元市長…みたいな傾向があって、反ファシズムより適当な言葉があるような気がするんだけど、どうして彼らはあまり伝わらないANTIFAを名乗っているんだろう?
ネトウヨに始まり軍国主義、極右、排外主義、差別主義、歴史修正主義、ファシスト、ヘイトスピーチ、反知性主義。
いろんな言葉を持ってきては散々ネトウヨなる仮想敵に文句言ってるが、要約すると『お前ら頭悪すぎてマジでどうしようもねーな、何でこの程度のこともわからんの?』と苛立たれてるご様子。現にそう言う言葉をそのまま見かけることが日常茶飯事だ。
そしてそういう言葉を裏返して見ればつまりは自分達の事は平和主義で反差別で反ファシズムで人権を尊重していて頭が良くて正しい歴史を認識出来ていると自負していると言うことになる。
そして彼等自身の看板として実際にそういうプラカードも目にする。
一人の人間としてよくもそれだけ恥ずかしい自負を出来るもんだと素で思う。
特に歴史なんて簡単にひっくり返るものだ。歴史を疑わない歴史学者はいない。疑わないのはただ歴史を利用したいだけの政治家か宗教家だ。
また少なくとも前述の文句からすればとても彼等がネトウヨなる人達の人権を尊重出来てるとはとても思えない。
現にヘイトスピーチやらやってる人間に人権などないという意見も見たことがある。
ぶっちゃけそう言う自分の正義、その完璧さを疑わない人間性において彼らは石原慎太郎を始めとする自分を疑わない老害と大差ないと感じている。
要はただの選民思想で、自分と波長の合う人間を頭が良いと選んでるに過ぎない。
本当に頭が良いのならもっと上手く他人の説得に務めて欲しい。
少なくとも頭が悪いと苛立って当たり散らしているのでは敵を作るだけで何の得にもならない。
そんな手段、平和主義どころの話ではない。
とりあえずレッテル張り、と言うか言葉のイメージに頼るのは止めませんか?
ずっと思ってきたけれど、言葉に頼る人達はそのイメージばかり先行させて物事を語り過ぎていて、実態が伴っていないので信用も信頼も失い、仕舞いには言葉自体の質も落ち、その看板としていた言葉の威力が衰えると別の言葉を看板に挿げ替えて行くだけという節操のなさが見て取れて、ただただ愚かしく見えるので。
例えば中国が近年の日本を軍国主義の復活と煽ったり、それに乗っかって日本を批判してるのとか。
現在進行形で言論統制の上に領土侵犯してる国が70年近く不戦を貫いていてる国にそんなこと言ったところで説得力は国際的にも皆無。
また例えばネトウヨなるものに貼られてきたレッテルの変遷とか。
ブームかと思うくらい、次々と新しいレッテルが一定の時期に集中して貼られては変わって行く。
最近は歴史修正主義者が若干下火で、ファシスト、ヘイトスピーチ辺りが流行りだと思うが、どこをどう指してファシストなのか、そもそも反ファシストを掲げる人々が一人でも政治犯やらで捕まったり弾圧にあったということがあったのか。逆にファシズムや歴史修正主義と言うネガティブなイメージを与えて一部の主義主張を消し去ろうとする動向はよく見るが。
またヘイトスピーチと言うのも中国人、韓国人だからと罵声、罵倒を浴びせているならわかるが、とてもその限りとは言えない。
逆に平和団体やら人権団体と言う看板は胡散臭すぎて近寄り難かったり、そのグレードダウンした市民団体と言う言葉も今や普通に文字通り受け取って警戒心を緩める人は少ない。
もちろん中には本当にそういう志のある団体もあるのだろうけど。
まあともかく、現政権を批判するにしろ一部主義主張を批判するにしろ虎の威を借る狐とならず、もっと実態に基づいて批判したり説得力を重視して欲しいと思う。
実態を伴わないのに言葉だけで語るのは嘘も百回言えば何とやらで、事実、主義主張に反する人達をネトウヨと罵倒するだけで何の進展も説得もなく今日まで来た。