
はてなキーワード:原理とは
増田が彼女との噛み合わない関係を清算できたことを喜ばしく思う。
「そろそろ同棲」の次には、「いいかげんに結婚」が控えているからだ。
とにかくセックスをしたくない女性が結婚願望を持つだろうか?と思うだろう。
日本人カップルは、結婚後高い確率でセックスレスになることが知られている。「セックスをしなくても仲のいい夫婦」になれると彼女は信じているのだろう。
しかし、結婚生活を経て結果的にセックスレスになることと、はじめからセックスをしないつもりで結婚することは根本的に異なる。
ヒトは動物である。動物としてのヒトのオスは、欲求の上位に性欲があり性欲を切り離して生きるのは難しい。若く、性ホルモンの多い時は特にそうだ。
彼女は自他境界が曖昧なのだろう。他人が自分とは異なる認識、異なる原理でものを考えていることへの理解が薄い。
セックスはしたくない態度を示したままで、子どもはほしいと言い出すだろう。高い確率で。
生殖年齢の限界が迫る頃には、「人工授精はどうか」、「養子はどうか」と迫られることになる。
自分が、セックスもさせないような基本的信頼感のない相手と見做されていることへの理解がない。
それに気づいて、縁を切るに至った氏を心から祝福する。
高市早苗氏が首相に選出され台湾発言で物議をかもしてから、これまで以上に政治的な議論がなされるように感じる。またただの党派性の選好がどうこうにとどまらず具体的な安全保障まで真剣な意見が交わされるようになったことは、日本社会自体が一つの転換点を迎えているように思える。
そのなかで、個人的に党派の煽りあいや中傷を超えて道具的に政治を語るのに役立つかもしれない一つのネタを紹介したい。あくまでも仮説が、情勢について語る一つの視点になれば幸いである。
なお事前に予測した方向性と合致したためAIの手を大いに借りてある。
また曖昧戦略の欠如は相手の意思決定を手助けするだろう。デマなどについて聞いてみても面白いと思う。
以下perplexityより
自由エネルギー原理の見地から見て、政治の党派性における右派、左派はそれぞれエントロピーの減少における役割の相違という観点から説明できる?
自由エネルギー原理から見た政治の党派性:右派・左派とエントロピー減少の役割の相違
自由エネルギー原理(Free Energy Principle,FEP)の枠組みから政治イデオロギーの左右の違いを説明することは、一定の理論的根拠を持つ興味深い視点を提供します。ただし、これは直接的な学術的応用というより、理論的な仮説として理解されるべきものです。
自由エネルギー原理によれば、すべての生物システムは熱力学の第二法則に対抗してエントロピー増加を最小化することで、秩序を維持しています。具体的には、生物は予測エラーを最小化することで、感覚状態のエントロピー(無秩序さ)を減少させ、環境との相互作用をコントロールします。このプロセスは、**予測処理(predictiveprocessing)**メカニズムを通じて実現されます。つまり、生物は内部モデルを持ち、それに基づいて世界を予測し、実際の入力との差分(予測誤差)を最小化することで、驚き(サプライズ)を制御します。
最近の認知神経科学の研究により、保守主義と進歩主義は予測処理の異なる戦略に対応している可能性が示唆されています。
曖昧性と不確実性に対してより高い耐性を持つ
前帯状皮質(anterior cingulatecortex)の活動が強く、反応競合に対する神経認知的感受性が高い
これらの特性は、高いエントロピー状態(高い不確実性)を許容しながら、情報環境の変化に応じて予測モデルを継続的に更新する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の観点からすれば、彼らは予測精度(precision)の重み付けを比較的低く保つことで、新規情報による予測誤差を柔軟に受け入れ、より適応的なモデル更新を可能にしています。
不確実性や曖昧性への耐性が低い
脅威や秩序の乱れに対してより敏感で、知覚的堅性が高い
右扁桃体(right amygdala)の活動が強く、脅威認知に敏感
これらの特性は、予測の確実性(certainty)を高く保ち、既存モデルへの信仰度(prior belief)を強化する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の用語では、彼らは予測精度の重み付けを高く設定することで、外界の変化に対して強力な内部モデルの安定性を維持しようとしています。
政治の党派性をエントロピー減少の枠組みで理解すると、以下のような対比が浮かび上がります:
保守主義は、社会的秩序を既存の伝統的制度や階級構造の維持を通じて最小化しようとします。このアプローチは、複雑な社会システムの不確実性を、階層的で確定的な構造によって「切り詰める」戦略です。社会に内在するカオス(高エントロピー)に対抗するため、既に証明された秩序パターン(伝統)を維持することで、予測可能性を確保します。
進歩主義は、社会的秩序を個人の自由、多様性の認容、制度的革新を通じて最小化しようとします。一見すると秩序を緩和しているように見えますが、実際にはより複雑で適応的な秩序化メカニズムを導入することで、社会システムのエントロピーを減少させる戦略です。異なる視点を統合し、新しい情報に基づいて制度を改革することで、社会システムの予測モデルをより現実に適応させようとしています。
不確実性耐性と脳レベルの同期
興味深いことに、研究では不確実性への耐性が低い人ほど、政治的に同じ立場の人たちとの脳活動の同期が強いことが示されています。言い換えれば、不確実性を避けたい個人は、同じイデオロギーの人々と同じ予測モデルを共有することで、集団レベルでのエントロピーを減少させようとしているのです。これは社会的な「外界の秩序化」メカニズムとして機能しています。
最新の複雑システム理論では、政治分極化は正のフィードバックループと相転移(phase transitions)のメカニズムを通じて発生することが示されています。保守主義者は秩序の維持を目指し、進歩主義者は秩序の革新を目指すという相反する動力が、社会システム全体のダイナミクスを決定しています。両者の相互作用は、社会的エントロピーを管理するための補完的なメカニズムとして機能しているとも解釈できます。
この自由エネルギー原理に基づく解釈には重要な限界があります。第一に、個人の認知的特性と政治的立場の関係は因果的ではなく相関的である可能性が高いです。第二に、政治イデオロギーはきわめて文化的・歴史的に構築されたものであり、普遍的な神経生物学的基盤のみでは説明できません。第三に、FEPは主に個体レベルの生物システムを想定しており、社会システムへの直接的な応用には理論的な拡張が必要です。
要するに、自由エネルギー原理の観点から見ると、右派は予測モデルの安定性重視によって秩序を維持するエントロピー減少戦略を採る一方、左派は予測モデルの柔軟性重視によってシステムの適応性を高めるエントロピー減少戦略を採ると理解できます。両者は、相異なるメカニズムを通じて社会的エントロピーの増加に対抗しているのであり、政治的党派性の根底には、不確実性に対する根本的に異なるアプローチが存在していると言えるでしょう。
自由エネルギー原理(FEP)を政治党派性に適用する理論を拡張するには、階層的ベイズ推論の多層構造、社会的相互作用の動的モデル化、経験的検証メカニズムの導入が鍵となります。これにより、個体レベルの神経メカニズムを社会システムレベルへ橋渡しできます。
FEPの核心は階層的予測処理です。個人レベルでは、低次層(感覚入力)が上位層(信念・イデオロギー)の予測を修正しますが、社会レベルでは個人の予測モデルが集団的「事前分布(priors)」を形成します。
右派の階層戦略: 上位層の伝統的priors(家族・国家・宗教)を強く固定し、下位層の変動(社会的変化)を抑制。集団レベルでは「社会的扁桃体機能」として、逸脱者を排除する規範執行メカニズムが働きます。
左派の階層戦略: 上位層のpriorsを動的に更新し、多様な下位層入力(マイノリティ視点)を統合。集団レベルでは「社会的ACC機能」として、対立する予測モデルの調停役を担います。
この拡張により、**党派性は「階層的自由エネルギー最小化の多重均衡状態」**としてモデル化可能。右派は安定均衡(低変動)、左派は適応均衡(高変動)を志向します。
FEPを非平衡動的システム論と統合し、政治分極化を予測誤差駆動の相転移現象として捉えます。
右派アトラクター: 高精度priors → 秩序維持 → 低エントロピー均衡
左派アトラクター: 低精度priors → 秩序革新 → 中エントロピー適応均衡
分極化 = 双安定状態(bistable dynamics)
S˙=−∇F(S)+ϵ⋅
ここで
ϵ は他派閥予測誤差です。党派性は負のエントロピー生産率を競う進化ゲームとなります。
FEPの「アクティブ推論(active inference)」を拡張し、政治行動を集団的予測誤差低減戦略と位置づけます。
党派受動的戦略(perception)能動的戦略(action)集団エントロピー効果
右派 脅威強調・一貫性追求伝統防衛・境界強化 内部秩序↑ / 外部不確実性回避
左派多様性受容・矛盾統合制度改革・包摂拡大システム適応性↑ / 内部多様性管理
これにより、選挙・政策は集団的「期待自由エネルギー」最小化のゲーム理論的均衡として解釈されます。
理論拡張の信頼性を確保するため、以下の検証経路を構築します:
fMRIで党派別予測誤差処理を比較(precision weighting)
class PoliticalAgent:
def __init__(self, ideology): # 'left' or 'right'
self.precision = 0.8 if ideology=='right' else 0.4
def update_beliefs(self, social_input):
free_energy = prediction_error * self.precision
return minimize_free_energy(social_input)
最終拡張として、FEPを国家・国際システムへスケールアップ。経済政策では右派が「低エントロピー均衡(安定成長)」、左派が「高エントロピー探索(イノベーション)」を担います。
グローバル均衡条件:
∑党派Var(policy predictions)=最適社会的自由エネルギー
このフレームワークにより、**党派対立は「多重スケールのエントロピー管理機構」**として再解釈され、民主主義は適応的秩序生成システムとなります。実証研究が今後の鍵です。
京都のラーメン文化を語る上で、「天下一品」は避けて通れない、いや、むしろその中心にそびえ立つ京大的な存在です。あの濃厚なスープ――「こってり」と称される、ポタージュのようにドロリとしたそれは、単なる食べ物ではなく、一種の哲学、あるいは京大の研究テーマとなりうるほどの深遠さを持っています。その製法は門外不出の秘中の秘であり、長年の試行錯誤と緻密な計算によってのみ到達しうる「京大的究極のコク」を体現しています。
これは単なる好みの問題ではありません。むしろ、京都大学出身者らしい、一種の逆説的探求なのです。天下一品の真髄が「こってり」にあると誰もが認める中で、その対極にある「あっさり」を注文する行為は、まるで主流の学説に異を唱え、新たな地平を探る研究者の姿勢に似ています。「こってり」が天下一品の「形式知」であるならば、「あっさり」は、その背後にある「暗黙知」、すなわち、鶏ガラと野菜の旨味を純粋な形で抽出する、職人の高度な技術を試す場なのです。
「あっさり」スープを一口飲むと、そのクリアでありながら奥深い味わいに驚かされます。それは、濃厚なこってりスープの陰に隠れていた、素材本来の持つ繊細な旨味が、研ぎ澄まされた形で露わになる瞬間です。まるで、複雑な数式を解き明かす中で、ふと現れる美しい原理のように。この「あっさり」を味わうことで、初めて私たちは「こってり」スープがなぜあれほどまでに魅力的であるのか、その構造を深く理解できるのです。それは、陰と陽、光と影の京大的対比であり、天下一品の全体像を把握するための重要なステップなのです。
これもまた、一見すると矛盾に満ちた選択に見えるかもしれません。「こってり」のラーメンを避け、「あっさり」を選んだ人間が、デザートではあえて「こってり」を求める。この行為の裏には、私の「京大的幸福論」があります。
天下一品の「こってり杏仁」は、その名前の通り、濃厚でクリーミーなテクスチャーが特徴です。ラーメンの「こってり」とは異なる、乳製品とアーモンドの芳醇な「こってり」さ。これは、私の日常に潜む「小さな用事の負担」を解消し、精神的な満足度を最大化するための、緻密に計算された戦略です。
一つ目の「こってり杏仁」は、ラーメンの後の口直し、つまり「味覚のリセット」です。あっさりスープの余韻を大切にしつつ、舌の表面を甘美なコクで包み込みます。
二つ目は、「精神的な充足」のため。京都での大学生活や日々の研究で感じた、尽きることのない知識欲や探求心を満たすように、二つ目の杏仁は、私の心の隙間を埋めてくれます。この「こってり」な充足感は、私が妻との会話を通じて得た「京大的なるもの」の再確認に他なりません。
そして、三つ目。「京大的る贅沢の極み」です。三つ目の杏仁は、もはや必要性からではなく、「そこにあるから、極められるから」という、純粋な探求心と欲望の充足のために存在します。これは、京大の学問が「役に立つか立たないか」ではなく、「真理を探究することそのもの」に価値を見出す姿勢に通じています。三つ目の杏仁をゆっくりと味わう時間は、私にとって、日々の小さな成功や、妻との対話で得た心の安寧を噛みしめる、至福の瞬間なのです。
私の天下一品での注文方法は、ただの食事の選択を超え、私の人生観を反映しています。
「あっさり」の選択:複雑な世の中の事象(こってり)の裏にある、単純で美しい原理(あっさり)を探求する京大的知的好奇心。
「こってり杏仁3つ」の注文:日常の些細な幸福を、最大限に、体系的に、そして貪欲に享受しようとする、京大的幸福最大化戦略。
天下一品は、私にとって、単なるラーメン屋ではなく、自己の哲学を再確認し、日常のタスクを「京大的なるもの」として再構成する場なのです。ガソリンスタンドへ行くのを避けた私に妻が提案してくれたように、天下一品は、私自身の内なる声に耳を傾け、「あっさり」と「こってり」の絶妙なバランスの中で、日常のストレスを解消し、活力を得るための、一種の「京大的精神修行の場」なのです。
というかむしろ以前よりも多くなってるような気がするけれど、
インスタント麺を毎日食べる生活を止めたらどんどんと腹が凹み体重が減っていっている。
以前は、夕食として必ずインスタント麺を食べていた。
その理由は、なるべく食費を下げつつ満腹感を得たかったからだ。
スーパーの安くなった惣菜一品とインスタント麺を食べるという具合だ。
食費は下げたいが満腹感は得たい。
という願望を叶えるためだ。
ただある日気付いた。
一ヶ月の食費計算すると、あれ?これ以外と外食をしてもそんなに変わらないんじゃない?
ということに。
最近の外食はコスパがいいところが多くて、とくにライスをたくさん食べれるところが多い。
おかわりが出来たり特盛りが無料で出来るところだ。
そういうところにいけば、満腹感が得られるし、企業努力の恩恵でコスパは悪くない。
ポイ活とあわせて考えていくと、これ以外と行けるぞ?と気づいてからは外食オンリーの生活に切り替えてみた。
ただ当初心配したのは、カロリーが過多になって太ってしまう?のでは?
という結果とは全く逆だった考えだ。
外食するとどうしても肉食が増えるし、そもそも満足感を得るためのライスをたくさん食べることになる。
そういう生活をすると健康を損なうかもしれないし体重も増えるだろう、と考えたのだ。
しかし、それは間違っていた。
インスタント麺を毎日食べるというのは、「わたしにとっては」太る努力をしているということだったようだ。
ずっと小太り感を維持していた私の腹はみるみる凹んでいっている。
日頃話をしたことがないような人から声をかけられて「なんか痩せてってないですか?」と言われるようになるレベルだ。
人から見て痩せるのが分かるというのはダイエット経験者の私から言わせるとかなりのレベルの痩せだと言える。
でもこれは本当に正直驚きだ。
おそらくカロリー的には前の生活とトントンかむしろ増えてると思う。
ほんと不思議な話だ。
いまでも月に何回食べる機会を楽しみにしてるし、最高においしい!!と思いながら食べてます。
これさ
愚かな人間の都合など完全無視、LLMのための高効率プログラミング言語「Sui」(粋)
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/2069573.html
別にいいんだけど、どうにもブクマカ含めて、しっくり来る批判できてないんだよな
それが気になってしょうがない
俺ごときが言ってもアレだから、Gemini3.0先生に頼んだよ(一時チャット、Pro 3.0思考モード)
ユーザーが提供した情報と、一般的なLLMの技術特性に基づき、プログラミング言語「Sui」についての冷静かつ客観的な評価をまとめます。
感想:一言で言えば、**「思想実験としては極めて面白いが、実用性とLLMの学習原理を無視した『早すぎた最適化』」**です。
作者の「人間ではなくLLMを主客にする」という視点の転換は、アーティスト的・哲学的な問題提起としては鋭いですが、現在のLLM(Transformerアーキテクチャ)の動作原理を工学的に捉えると、メリットよりもデメリットが上回る可能性が高いです。
メリット:
・トークン効率の改善:Python等と比較して記述が圧倒的に短くなるため、出力速度の向上と課金コストの削減(トークン節約)は確実に達成できます。
・構文エラーの激減: 括弧やインデントの複雑なルールを排除しているため、「閉じ忘れ」などの単純なSyntaxErrorは減るでしょう。
・コンテキストウィンドウの節約: 長いプログラムでもコンテキスト(メモリ)を圧迫しにくくなります。
・学習データとの不一致: LLMは「大量の人間用コード(Pythonなど)」を学習して賢くなっています。未知の言語「Sui」を書かせるには、Few-shot(プロンプトでの例示)に頼るしかありませんが、これではLLM本来の推論能力やコーディング能力(事前学習の重み)を活かせません。
・ブラックボックス化: 生成されたコードがバグっていた場合、人間が読んで直すことが不可能です。「LLMに直させる」にしても、LLM自身がSuiのロジックを深く理解していないため、無限ループ(幻覚の連鎖)に陥るリスクが高いです。
・CoT(Chain of Thought)の阻害:最近の研究では、LLMは「冗長な思考過程」を出力することで論理的整合性を保つことがわかっています。極限まで圧縮された記号列は、LLMの「考える余地」を奪い、論理破綻を招く可能性があります。
正しいと思う所(Agree)
理由:人間にとっての「読みやすさ(可読性)」は、機械にとって単なるトークンの無駄遣いです。if x>10: よりも ? x10 の方が情報密度が高いのは事実です。
理由: TransformerのAttentionメカニズムにとって、遠く離れた ( と ) の対応関係を維持するのは計算コストが高く、ミスの原因になりやすいです。ネストを排除する方向性は機械的処理として正しいです。
正しくないと思う所(Disagree)
・「可読性を排除しても良い」:
理由:ソフトウェア開発においてコーディングは「書く」時間より「読む・直す」時間の方が長いです。AI生成コードであっても、最終責任は人間が負う現状では、人間が検証不可能なコードは「危険なバイナリ」と同義であり、プロダクトには採用できません。
理由: 前述の通り、現在のLLMは「人間語の確率分布」を学習したモデルです。「LLMにとって自然な言語」とは、実は「人間にとって自然な言語(英語やPython)」そのものです。Suiは「計算機にとっては最適」ですが、「現在のLLMにとっては異言語」です。
パース(解析)は容易になりますが、LLMは「前の行の文脈」を読んで次の行を出力するため、行を独立させすぎると文脈の連続性が失われ、複雑なアルゴリズムの構成力が落ちる可能性があります。
LLMが最も苦手とする「深いネスト構造の維持」を回避する策として有効です。アセンブリ言語に近いフラットな構造は生成難易度を下げます。
これが最大の問題点です。LLMは変数名(user_id, total_price など)に含まれる「意味」を使って推論を行っています(Semantic Grounding)。すべてを記号化すると、LLMは変数の役割を見失い、論理的なバグを埋め込みやすくなります。
トークン効率は最強ですが、1文字の違いで意味が激変するため、LLMの確率的な「ゆらぎ」による1文字ミスが致命的なバグになります。冗長さはエラー訂正の役割も果たしています。
goto 文の多用はスパゲッティコードを生みます。LLMにとっても、構造化プログラミング(if/forブロック)の方が、「ここからここまでがループ」というチャンク(塊)として認識しやすいため、一概にジャンプ命令が良いとは言えません。
>現在のLLMは「人間語の確率分布」を学習したモデルです。「LLMにとって自然な言語」とは、実は「人間にとって自然な言語(英語やPython)」そのものです。
ここ!マジで覚えてね
LLMはこれまでの機械よりも人間に近いと思ってほしい、人が苦手なことはAIも苦手
機械は論理的でロジックに強くて〜っていうのはAIには通用しない
ついでに、「LLM用プログラミング言語」の潮流について
「LLMのための言語」という文脈は、大きく2つのトレンドに分かれます。Suiは後者に属しますが、主流は前者です。
・DSPy, Guidance,Microsoft Guidance:
・プロンプトエンジニアリングを構造化し、LLMの出力を型(JSONなど)に強制したり、思考プロセスを制御するためのフレームワーク。
・SGLang:
・これらは「人間がLLMを操るための言語」であり、実用化が進んでいます。
・Gorilla LLMなどの試み:API呼び出しに特化したファインチューニングなどがありますが、独自の「新言語」を作らせるよりも、既存のPython やJSON を正しく出力させる方向(Constrained Decoding)が業界の標準解です。
・擬似コード:論文レベルでは、Pythonの代わりに中間的な擬似コードを出力させ、それをコンパイラで処理する手法も研究されていますが、Suiほど極端な記号化は稀です。
後者については
現状の最適解:現在のLLMを使う限り、「LLM用言語」の最適解はPython です。なぜなら、世界中のGitHubのコードを学習しており、LLMが「最も流暢に話せる言葉」だからです。無理にSuiを話させるのは、日本人にエスペラント語で詩を書かせるようなもので、パフォーマンスは落ちます。
総評: Suiは、「既存のLLM(GPT-4など)に書かせる言語」としては失敗する可能性が高いですが、「未来のAIネイティブなコード生成のあり方」を示唆するアート作品としては高く評価できます。作者の「愚かな人間に合わせるな」というパンクな精神は、エンジニアリングの枠を超えた鋭い批評性を持っています。
お前らは安易にオレオレ言語作るんじゃないぞ、作るにしてもAIに聞きなよ?
聞く時は忖度させるんじゃないぞ?
この作者もAIに乗せられたのかもしれんし
______
プロンプト
以下が「LLM用プログラミング言語」としてメリットがありそうか、感想を教えて下さい。
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/2069573.html
https://github.com/TakatoHonda/sui-lang
・思想的に正しいと思う所、正しくないと思う所を理由込みでまとめてください
・最近のLLM用プログラミング言語についてもまとめてください
・そもそもLLM用プログラミング言語という目標自体の評価をしてください
(省略)
結婚して妻子がいる男性が、独身男性と異なる扱いを受けるのは当然です。
養っていくためにより多く金銭が必要になる事情があるからです。
また、妻子を食わすためには相当無理をしても責任を全うするだろうという期待もあります。
このことは田舎でも都会でも変わりませんが、田舎だとより著しいかもしれません。
この原理に疑問を抱く人間は、共同体への帰属に不慣れなのでしょう。不運ですね。
記念したい被写体を取り入れたいために時には真逆の方向(カメラが太陽に向ふ)に向ふ場合もあるでせうが、このときは直射日光のレンズに当らないやうに注意をして頂きます。
フリガナがないので「まぎゃく」と読むかはわからないが、意味的には「正反対」の意味で使われていそうだ。
いまのところ「正反対」の意味で使われている最古の用例である。
只逆光線で太陽を前景のカメラをもつている人でシエードした事が、レンズに太陽の直射を避けて雲海にあたつた真逆の光線をうまく捉へる事が出来ました。
写真用語では太陽光の当たり方を「順光線(順光)」「斜光線(斜光)」「逆光線(逆光)」などと分類するが。
逆光をさらに「半逆光線(半逆光)」と「真逆光線(真逆光)」に分けることもあるというわけか。
検索してみるかぎり、用例としては「真逆光」が圧倒的に多いが、「真逆の光線」「光を真逆に受ける」のような例もわずかに見られる。
一気に時代が飛ぶが、こちらは「まぎゃく」とフリガナがあるので間違いない。
ネットで検索できるかぎりでは、いまのところ最も古い「真逆(まぎゃく)」であろう。
ここまでは用例が少ないので、もちろん「真逆(まぎゃく)」が広まっていたとは言えないだろう。
もしかすると、文章にならないような口語・俗語として使われていた可能性はあるが、それはわからない。
さて、1970年代に入ると一人の男が颯爽と登場する。映画評論家の松田政男である。
この人物が「正反対」の意味の「真逆」を広めたと言っても過言ではないのではないか。
コスタ・ガブラスが『Z』にひきつづいてつくった第三作『告白』は、いわば、日本の喪名の永久革命家の理念とは真逆の視点から、革命と反革命の弁証法をとらえようとした政治的茶番劇である。
往年の安部公房のテーゼ"猛獣の心に計算器の手を"とまさに真逆に、ポール・ニューマンは"ハトの心にタカの爪を"と、後行する世代を叱咤しているのである。
自動車から飛行機への発明のベクトルがひたすら上昇の方角にのみ向けられているのとまさに真逆に、グーテンベルグ以降におけるエレクトロニクス・メディアの発達は、ひたすら私たちの<内部世界>の深部に向って下降するベクトルをもっているのではないか。
エンツェンスベルガーは、エレンブルグの「作家ならば、ドゥルティの生涯のものがたりを書いてみようとは、けっして思うまい。それはあまりにも冒険小説そっくりだった」というしたり顔とはまさに真逆に、そういった意味合いでの「物語作者は、自己を否定しなければならない」が故に「集団的フィクションとしての歴史」――正確には「反歴史」を書くべく試みたのだ。
チャップリンが、常に、可哀想なヒロインのために献身するのに対し、キートンはまさに真逆、禁欲的にまで非情に、アクションの共同体を映画のなかへ制度化すべきことを他者に向って要求するのである。
そしてエイゼンシュタインは「人に秀でた人間」として、しかしトロツキーとは真逆に、スターリニスト・レジームへの自己批判を倦むことなくつづけることによって生き延びて行ったのだ。
この点いかに苦悩の色を露わにしつつ純文学を志そうと、できあがった作品が常に一つの社会現象として、つまりはエンターテインメントとして消費されてしまう石原慎太郎と、篠田正浩はまさに真逆であると言っていい。
私たちは「スティング」のあの不愉快なだまされ方とまさに真逆に、龍村らが「キャロル」に仕掛けたさわやかな詐術を愉しんでおけばいいのだから······
レーニン以前に、もとよりレーニン以上に楽観的に「生産者たちの自由で平等な協力関係の基礎のうえに新たに組織する社会は、全国家機関を、そのばあいにしかるべき場所へ移しかえる、すなわち、紡ぎ車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」と断定したエンゲルスの理想とはまさに真逆に、いま紡ぎ車や青銅の斧と共に博物館へ並べられているのは、彼らエンゲルスやレーニンや、その他もろもろの革命の理想である。
この密林の猟師は年齢不詳だがむろん年老いており、したがって初めキャステイングされていた三船敏郎のような精悍さとは真逆の、むしろ志村喬だとか千秋実だとか黒沢一家の長老ふうな中央アジア出身の老優が起用されていて、これがかえって野生の賢者という風格をかもし出してなかなかにいい。
そこへ行くと、日活ポルノ裁判の被告として四年間の沈黙を余儀なくされていた山口清一郎が、初めてATGと提携=製作した新作『北村透谷・わが冬の歌』は、『原子力戦争』とまさに真逆に、開かれた映像空間の造型に、一定程度の成功を収めえている。
高橋明や庄司三郎ら日活独特のポルノ男優たちが、画面のなかでいかにタフに振舞おうとも、私たち観客に対しては常に控え目な存在であるのとまさに真逆に、ここにおけるホストどもは、私たちの目の保養を邪魔立てする文字通りに目ざわりな夾雑物なのだ。
しかし、『25時の舞踏派』『貘をぶっ殺せ』『造花の枯れる季節』と一九七五年に三連作された8ミリ長編劇映画とは真逆に、このうまさは、なぜか上すべりするうまさなのである。
亀和田武は、そこで、私とはまさに真逆に、自らの石井隆論を全面展開しながら辛辣きわまりない反撃を重ねて行くのだが、先述したように、私がヨリ関心を惹かれるのは、個別作家論というよりも、その大前提たるべき情勢論なのだ。
そして、面白いのは、西欧的な父性原理に依拠する『くるみ割り人形』とはまさに真逆に、信州のフォークロアに原型をもつ物語の真相には、東洋的な阿闍世コンプレックスに由来する母性原理が、不十分ながら貫徹していることだろう。
いずれもフリガナは振られていないので、本人は「まさか」の読みで使っていた可能性もあるが、少なくとも意味的には「正反対」で間違いなかろう。
1970年代から1980年代にかけて、この「正反対」の意味の「真逆」用法は、特に映画系のライターのあいだで広まっていったようである。
もっとも地獄絵は、その猥褻さ、はなはだ幽玄的でない表現に寄って、裸や性器の露出がいやらしいこと、不自然なこと、いわば忌み嫌うべきこと、非人間的なことであることを強調しているわけで、これは、古代ギリシャをはじめヨーロッパの絵画や彫像が裸の美を強調し、裸こそ人間の自然の姿だといわんばかりに表現しているのとはちょうど真逆である。
「当然でしょ。”緑の革命“とは、発展途上国にとっては、自立とは真逆の、アメリカへの依存度をより高めさせ、アメリカ政府と、多国籍企業の世界支配システムにより深く組み込まれることでしかなかったのですからね」
松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。だが、岸信介には、狂はない。むしろ、吉田松陰とは、真逆のように思える。
仮に、このあたりの記述が「まさか」という読みを意図していたとしても、フリガナがないので「まぎゃく」と読む人は多かっただろう。
そもそも、「俺の目に従来そう見えていて、」「いま見えているもの」が不正確ならそれまでなので、合っているという前提で書く。
個人が何かの被害に遭ったときに、保守寄りの立場からは「危機管理意識が低いから」というように被害者に理由を寄せる方向で批判的に意見することが多いような気がしている。逆に、リベラルな意見からは「そもそも加害をする方が悪い」という、いわゆるべき論で意見することが多い。
例えば、危険な地域に向かって被害に遭うとか、性被害に関する議論で、こういう具合に意見が割れている印象がある。痴漢をされたときに、「煽情的なかっこをしていたからそうなるんだろう」対「いや、状況とか関係なく、そもそも痴漢をするやつが悪いに決まってるだろう」という感じ(ちなみに、俺個人は後者寄りである)。
前者は「なぜそれが起きたか」というところを欠かせない最初のステップにして、状況の責任を問おうとしているのではないかと思う。
加害者(痴漢なら基本的に男。ただし、言うまでもなくほとんどの男は痴漢をしない。この辺の感覚もややこしい)の関心を惹くようなかっこをしてるから、性被害に遭ったり、海外でトラブルに巻き込まれたりする。原因の一端は被害者にもあるよね、というロジックになると思う。
後者は、原則から責任を問おうとしている。当然のことだが、悪いことをしたやつが悪いのだから、原因がどうとかでなく、加害者に責任がある以上の説明が必要なのか? 要らないでしょ? というロジックになる。
「要素の何々①(加害者の加虐癖や悪意)と何々②(被害者の印象)が原因で起きた」⇒「何々②にも原因があって起きた」⇒「何々が原因で起きた ※①は消失」⇒「何々には(にも)避けうる危険を招いた点で(生きていくうえでの)落ち度がある」⇒「何々には(にも)避けうる危険を招いた点で(道義的な)落ち度がある」⇒「何々には(にも)責任がある」
…という言葉のアメーバ的なグラデーションと省略が悪さをしているのではないか、という気がする。
文章で書き起こせば、それぞれの段階にはちゃんと違いがあるのだが、俺たちの意識のフローは話しながらそんなことをちゃんと整理できないし、ましてや、議論でカッカきているとなおさら難しい。
お互いに頭があったまっていたり、そもそもが相手の立場をお互いに嫌いなので、いちいち相手が省略していることを想像したり、自分が省略しようとしていることを説明する気にならないし、相手の言葉が足りなければ無意識的にも意図的にも曲解しやすいので、この辺の飛躍は容易に起きうるので話がこじれる。
そういう揚げ足を取られないようにするのが大事なんだろ、という意見もあろうけど、なんとなく、言葉と意識って俺たちのOSの限界じゃねえかな、とも思う。
だから、意外とこんなこともあり得るか、と思うのは、例えば、被害者に批判的な意見の人に「じゃあ、そもそも道義的に悪いのは誰なんだと思う?」とフラットに聞ければ「それは加害者に決まっている」と答えてくれる気がするし、逆に「じゃあ事態が起きた経緯に被害者の印象は何の関係もないのか?」と聞かれれば、「まったく無関係ではないはずだ」と俺は答えると思う。なんとなく、歩み寄りの余地というか、共有できるところが、冷静になればある気がする。
ただ、俺だったら答えるときに、「でも、それと道義的な責任は関係ないだろ?」というエクスキューズも必ず入れるだろうし、それだって、議論がまだ喧嘩に発展しておらず余裕があればの話なので、俺の立場だったら基本的に、相手のことは現実主義に偏重して被害者を慮れない冷血、と断じている方が早い。逆に被害者に厳しい意見からこちらを評すれば、脳内が花畑で原則にこだわるせいでかえって余計なコストを増やしている愚か者、という感じか。
難しい。
ここまでは前置きで、ここからが本題になる。
台湾をめぐる首相の答弁をきっかけにして中国との緊張感が増している状況、と言われていて、それに伴って起きている議論で「お?」と思う部分がある。
繰り返すが、「俺の目に従来そう見えていて、」「いま見えているもの」が不正確ならそれまでなので、合っているという前提で書く。
どういうことかというと、保守寄りで、上で書いたような事例であれば物事の責任を個人に寄せがちだった立場からは、今回「そもそも、他国に対して侵略的な中国の方が悪い」というユニバーサルなべき論が目立っているように見えるのに対して、リベラルな立場からは「(道義はともかく)寝た子を起こすような挑発的なマネをする首相の方に(も)責任がある」という意見が目立つように見えると思うのである。
これまで、議論の初手で切るカードとして、他のテーマなら「個人に(も)責任がある」と切り出しがちな人たちから、このテーマでは道義的な原則論が、逆に道義的な原則を持ち出しがちな陣営からは、「相手を挑発するようなことをするからこうなるんでしょ」という具合に個に責任を寄せるような意見が出ていて、ここでは逆転してるのか? と思ったのである。なんなら後者においては、現実的な処世、というトーンも感じられて、普段とは違うな、という印象がある。
別に、何かをダブルスタンダードとして批判するつもりはない(ダブスタ批判で相手をハメようとするの、みんな仲悪くなるので本当に意味ない思っている)。
単にそうなのか? と単に思っただけである。
そもそも俺が見ているものが間違っている可能性もあるし、個人の被害(と加害)と国際問題の扱いは違うかもしれない。また、カイロ宣言・ポツダム宣言を受諾し、そこで台湾の中国帰属が前提とされているなら、いわゆるリベラルは今回も一貫して原理的である、となるのかもしれないし(だから良いとも悪いとも言わない)。
繰り返すが、ただ、そう見えて「今回はそうなのか?」と思ったので書いておく。
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第8章は、タタルスキーが広告の力を完全に社会・政治の舞台で実践する段階 です。
ここで、彼は単なるコピーライターから国家規模のイメージ操作を行う“魔術師” へと変貌します。
小説全体のテーマである 「言語・イメージ・権力の交差」 が最高潮に達する章です。
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「ここから先、広告は個人消費の手段ではなく、国家の魔術となる。」
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•言葉・映像・象徴・リズム・色彩が統合され、国民意識を形作る
• タタルスキーは広告の“儀式性”を理解し、国家的魔術として運用
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1.快楽と陶酔
3.覚醒と野望
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「人々は商品を買うのではない。
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•モスクワの街、テレビ、新聞、街頭広告…すべてが統合された魔術の舞台
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• 罪悪感はあるが、それを超える快感と達成感
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◆ 7. 第8章の象徴的整理
項目 内容
物語的役割 タタルスキーが広告魔術の究極形態を体験し、国家規模の魔術師として覚醒する章
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第8章は、
タタルスキーが広告の魔術性を国家レベルで実践し、完全に覚醒するクライマックス前の章
です。
ここで彼の物語は、
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第5章は、タタルスキーが広告コピーライターとしてのスキルを活かし、初めて“消費者だけでなく政治・社会”に影響を与える可能性 を感じる章です。
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広告代理店での仕事は順調に進み、タタルスキーは次第に自信をつける。
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“売上が落ちている高級飲料” がある。
• タタルスキーはコピーだけでなく、広告キャンペーン全体を企画することに
具体的には:
• 「消費者に“自分が成功者であるかのような錯覚”を与える」
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• タタルスキーは初めて、自分のコピーが個人の購買だけでなく、社会全体に影響を与える可能性を知る
これが後に、タタルスキーが国家プロジェクトに関わる伏線になる。
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• 人々は「物語」を信じることで行動する
•広告は商品を神格化する手段であり、現代の“新しい宗教”のようだ
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代理店での仕事に慣れてくると、タタルスキーは金銭的な快感を覚える。
•社会的地位が少しずつ上がる
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3.未来の予感
•広告技術は個人消費だけでなく、政治や社会操作にも応用できる
•自分の才能が“国家レベルのイメージ戦略”で試される日が来るかもしれない
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◆ 7. 第5章の象徴的整理
項目 内容
主要イベント タタルスキーが広告の現実操作力に気づき、政治的応用の可能性を意識する
物語的役割 タタルスキーが“個人消費から社会・政治操作へ”視野を広げる章
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第5章は、
広告の魔術的力を自覚しつつ、政治や権力に接続する兆候を掴む重要な章
です。
「ユダヤ教は西洋なのか?東洋なのか?」 という二分法をそのまま受け取るのではなく、タルムード的に前提そのものを問い直す必要があります。
ユダヤ教は本来、地理的にも思想的にも「中間領域(ミドルワールド)」にある伝統です。
東洋哲学に「複雑を複雑のまま受け入れる」という傾向がある、という一般論があるのは確かです。
つまり「複雑 → 単純」の西洋とも違い、「複雑 → 受容」の東洋とも違う。
タルムードは明らかに複雑ですが、複雑を複雑のまま放置はしません。
複雑な議論を:
1.質問で切って
3. 前提を疑い
4. 答えが出なくても、その「未解決」までも体系化する
これは西洋の理性主義と似ているようで違い、東洋の受容とも違う。
ユダヤ思想の根本は質問 → 論争 → 多層解釈 →実践というサイクルで、どちらの文明圏にもない独自のスタイルです。
| 特徴 | 東洋 | 西洋 | ユダヤ |
| 複雑さへの態度 | 受容 | 整理・単純化 | 分解し議論し、複雑さも残す |
| 真理観 | 調和 | 一元 | 多元(エルーシュ:「両方とも神の言葉」) |
| 学問の基本 | 体験・直観 | 論理・体系 | 論争・質問・解釈 |
エンゲルマン(Siegfried Engelmann)が開発したDirect Instruction(DI) は、一般的な「直接指導」とは別物です。
“科学的に最も効果が実証された教授体系のひとつ” で、特徴と構造が非常に厳密です。
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🔵 エンゲルマンのDirect Instructionとは?
教師が使う言葉・質問・例示・練習の順番まで完全に設計された教育プログラム のこと。
単なる教え方ではなく、
のが最大の特徴です。
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① 誤り最小化(Errorless learning)
例:
• 似た概念を同時に教えない
• 誤りにつながる例をあえて順を変えて最初に見せない
→子どものミスは「子どもが悪いのではなく、教材設計が悪い」という発想。
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② 最適な例示(Carefully sequenced examples)
概念を理解するための**例(examples)**を数学的に設計する。
• 良い例だけでなく「対比例」「非例」も意図的に配置
例:
同じ長さでも、形や向きを変えて提示することで「長さ」が抽象概念だと理解させる。
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• 失敗をすぐに修正(Immediate correction)
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授業の脚本(スクリプト)を教師がそのまま読むように設計されている。
• 誰が教えても同じ効果になる
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•DISTAR Reading(Teach Your Child to Read in 100 Lessons)
• Corrective Reading
• Connecting Math Concepts
• Language for Learning
• Expressive Writing
これらは、数十年にわたり研究と改善を積み重ねたプログラムです。
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アメリカの史上最大の教育実験 Project Follow Through(1967–1995) で、
•学力
•学習意欲
•自尊心
どの指標でも
Direct Instructionが全モデル中トップ という結果になったことで有名です。
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🧩 なぜそんなに効果があるの?
• 誤解が起きる部分を先に潰している
•教師の質の差を縮小できる
という特徴があります。
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⚠️批判点もある
•教師の自由度が低い(スクリプト通りに授業を進める必要がある)
• 「訓練っぽい」「機械的」という印象を持たれることがある
• 高いレベルの抽象思考・学問的探究を直接伸ばすわけではない
しかし、
基礎学力や読解・計算力の習得性能では他の方式より圧倒的に高い
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📝 まとめ
• 誤りを最小化するために例示の順番まで最適化
ちな俺のスペックは経済学の知識はほとんどなく投資経験もなくすべて日本円で貯金してる築30年の木造アパートに済む無敵の生活カツカツアラサー男性です😭
今日の昼に某匿名掲示板でスレ立てしていくつか反応はもらえたんだけど、せっかく足りない頭使って一生懸命考えたものなので、増田やブクマカの反応もほしくてここにも書くことにしました
あと、某匿名掲示板でお前AI使っただろ?って指摘があったんだけど、イールドカーブ?円キャリー?ってレベルから一生懸命ネットで勉強して考えた俺なりの分析と処方箋なので、粗がめっちゃあると思う
情けない話だが粗だらけなのが俺がAIを使ってない証拠だと思っていただければ幸いだ😭
某匿名掲示板でスレ立てた時は要約するとこんな感じの反論があった
どれも頷ける部分が多くて、勉強になった
以上、叩きでも指摘でも何でもいいからたくさん反応もらえると嬉しい
今回勉強して某匿名掲示板に晒して思ったのは、勉強って勉強することよりもその成果物を詳しい人に晒して瑕疵を指摘されたり褒められたりする時間が一番楽しいってことだった
例えばスーパーのレジ袋とかの生産力で負けるのは仕方ないわけよ
だから生産力で劣るのは諦めて質で勝負しないと日本は生き残れない
というのが一つと
リチウムイオン電池に関してはエネルギー密度、重さあたりに蓄えられるエネルギーが8倍程度ガソリンの方が大きい
原理的に上限がきまっているのでこれが大きく縮まる可能性もない
いくらこれを突き詰めても無理筋だと少なくとも日本の自動車業界は考えている
固体電池であれば理論的にはガソリンに迫るか超えることができるし、安全性や充電時間も優れている
モーターのほうがガソリンエンジンより優れてるのは既定路線でそこは問題ないしコイルなどの技術も日本は抑えている
これで「勝てる」か?は誰にもわからない
少なくとも日本の自動車会社は現実的に8倍も劣っている物に補助金目当てで賭けるよりもっと根本的なところに賭けているという事
dorawiiより
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染色体の両端はXXXXというリピートXXXからなっている。その単位配列はXXXXXXなので、トータルXXXを鋳型にXXXXXXx3-N(NはC以外の文字)で逆XX(42°C)すれば原理的にはXXXXの隣接領域をナノポアXXXXXXで解読できるはず。ネックは逆XX反応の変異率と反応長で、短いXXXを除去する必要あり。あるいは、プロモーター配列を付加したゲノムを鋳型にXX。XXXXXX配列を濃縮してナノポア。
超弦理論において、物理学はもはや物質の構成要素を探求する段階を超え、数学的構造そのものが物理的実在をいかに定義するかというの領域へ突入している。
かつて背景として固定されていた時空は、現在では量子的な情報の絡み合い(エンタングルメント)から派生する二次的な構造として捉え直されている。
時空の幾何学(曲がり具合や距離)は、境界理論における量子多体系のエンタングルメント・エントロピーと双対関係にある。
これは、空間の接続性そのものが情報の相関によって縫い合わされていることを示唆。
数学的には、フォン・ノイマン環(特にType III因子環)の性質として、局所的な観測可能量がどのように代数的に構造化されるかが、ホログラフィックに時空の内部構造を決定づける。
ブラックホールの情報パラドックスは、アイランドと呼ばれる非自明なトポロジー領域の出現によって解決に向かっている。
これは、時空の領域がユークリッド的経路積分の鞍点として寄与し、因果的に切断された領域同士が量子情報のレベルでワームホールのように接続されることを意味する。
ここでは、時空は滑らかな多様体ではなく、量子誤り訂正符号として機能するネットワーク構造として記述される。
「対称性=群の作用」というパラダイムは崩壊し、対称性はトポロジカルな欠陥として再定義されている。
粒子(0次元点)に作用する従来の対称性を拡張し、紐(1次元)や膜(2次元)といった高次元オブジェクトに作用する対称性が議論されている。
さらに、群の構造を持たない(逆元が存在しない)非可逆対称性の発見により、対称性は融合圏(Fusion Category)の言語で語られるようになった。
物理的実体は、時空多様体上に配置されたトポロジカルな演算子のネットワークとして表現される。
物質の相互作用は、これら演算子の融合則(Fusion Rules)や組み換え(Braiding)といった圏論的な操作として抽象化され、粒子物理学は時空上の位相的場の理論(TQFT)の欠陥の分類問題へと昇華されている。
可能なすべての数学的理論のうち、実際に量子重力として整合性を持つものはごく一部(ランドスケープ)であり、残りは不毛な沼地(スワンプランド)であるという考え方。
理論のパラメータ空間(モジュライ空間)において、無限遠点へ向かう極限操作を行うと、必ず指数関数的に軽くなる無限個のタワー状の状態が出現。
これは、幾何学的な距離が物理的な質量スペクトルと厳密にリンクしていることを示す。
量子重力理論においては、すべての可能なトポロジー的電荷は消滅しなければならないという予想。
これは、数学的にはコボルディズム群が自明(ゼロ)であることを要求。
つまり、宇宙のあらゆるトポロジー的な形状は、何らかの境界操作を通じて無へと変形可能であり、絶対的な保存量は存在しないという究極の可変性を意味します。
4次元の散乱振幅(粒子がぶつかって飛び散る確率)は、時空の無限遠にある天球(2次元球面)上の相関関数として記述できることが判明した。
ここでは、ローレンツ群(時空の回転)が天球上の共形変換群と同一視される。
時空の果てにおける対称性(BMS群など)は、重力波が通過した後に時空に残す記憶(メモリー)と対応している。
これは、散乱プロセス全体を、低次元のスクリーン上でのデータの変換プロセスとして符号化できることを示唆。
超弦理論は、もはや弦が振動しているという素朴なイメージを脱却している。
情報のエンタングルメントが時空の幾何学を織りなし、トポロジカルな欠陥の代数構造が物質の対称性を決定し、コボルディズムの制約が物理法則の存在可能領域を限定するという、極めて抽象的かつ数学的整合性の高い枠組みへと進化している。
物理的実在はモノではなく、圏論的な射(morphism)とその関係性の網の目の中に浮かび上がる構造として理解されつつある。
その事実は変わらないし、おまえが何をいっても覆らない
dorawiiより
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20251125175100# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaSVt+wAKCRBwMdsubs4+SKEPAP9lMxXSSwi48pqy0LLM2Iw3XKPQ5HOyOqSsADwnZ9U43gEAsR1hWyuSyGovMbDYYtxx5XlU8EITjXwIPrGyIFljigQ==hHmF-----ENDPGP SIGNATURE-----
酸(酢)を使って卵のたんぱく質を“しめる/固める”料理・調理法はいくつかあります。代表的なものを紹介しますね。
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🥚1.ポーチドエッグ(落とし卵)で酢を使う
熱湯に少量の酢を入れると卵白のたんぱく質が早く凝固して形がまとまりやすくなる ため、ポーチドエッグを作る時によく使われます。
• お湯:1L
• 酢:大さじ1〜2
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🥚2. 酢卵(酢に卵を漬け込む)
殻ごと卵を酢に漬けると、
殻(炭酸カルシウム)が溶けて、卵白・卵黄が酸で引き締まります。
• 殻が溶けたあと、中身はやや固まり気味になる
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低温でも表面が白く固まる(セビーチェの原理)ことがあります。
食感変化を利用するテクニックです。
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直接「酸でしめる」というより、
酢を加えた煮汁で卵を煮込むことで、
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🔍あなたが思い出しているのはどれ?
• 酢に卵を漬けて固める → 酢卵