
はてなキーワード:危険とは
糖分が高いとは聞いてたけど毎日飲むと肝硬変とか糖尿病の危険があると知って落ち込んでいる
そこまでだったか甘く見てたわ
https://www.brush.bio/verdepredadortierrassalvajes
https://www.brush.bio/depredadortierrassalvajesenespanol
https://www.brush.bio/verjujutsukaisenejecucion
https://www.brush.bio/jujutsukaisenejecucionenespanol
国会での答弁、中国の抗議、アメリカの発言、ニュース記事等を見ても、「アメリカが参戦」を条件にしてるとしているものはない。
もし米軍前提の話なら、アメリカがもっと発言して絡んでくるはずだけど、そういうことは現在起こってない。
「中国が台湾に対して武力行使して、米軍が参戦して攻撃を受けたら日本も集団的自衛権を発動する」
引用すると、
「存立危機事態 我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう」
https://laws.e-gov.go.jp/law/415AC0000000079
ここでの「我が国と密接な関係にある他国」は一般的にはアメリカとされている。
と答えた。
つまり、「我が国と密接な関係にある他国」を「台湾」と解釈して答弁していると、「解釈可能」な答弁をしてしまったんだ。
ここで高市が
「アメリカが参戦して、アメリカが攻撃を受けた時、集団的自衛権を行使して日本も参戦する」
答弁をそのまま読み取れば、「我が国と密接な関係にある他国」を「台湾」と捉えている、と解釈可能な状態になっている。
だから「我が国と密接な関係にある他国」を「台湾」と捉えてる、と解釈されるような発言はしてはいけない
「台湾有事だと日本参戦するってことだろ、どうなの?撤回しろ」と言えるスキを与えてしまった
ここで高市が
「いや、アメリカが参戦してアメリカが攻撃された時だけ、日本も参戦します」
と明言してしまうのもまずい。
逆に「アメリカ関係なく、中国が台湾攻撃したら日本も参戦するよ」
と明言するのもまずい。
一応日中共同声明で日本は中国の立場を理解すると言っちゃってて、形式上は台湾は中国の一部というロジックを貫いてる
「台湾有事は、アメリカ関係なく日本参戦するよ」は確かに一見自然な解釈のように見えるが、
これまではここをあやふやにすることで中国を牽制していたし、中国も抗議できなかった
今回高市首相が「なり得る」と踏み込んでしまったので、中国は抗議してきた
火をつけないことが首相の役目だった
ただ、今の日本国民の大半は、火をつけても良かった、燃やしてよかったと言ってるんだよね
ただもし中国と戦争になったら、日本は勝ったとしても大きな損害を被るよ
高市支持者がそれをわかっているのか、疑問だ
寧ろ不利になったんじゃねぇかな
中国は気にせんだろうけど
具体的な**ICJ判例の引用箇所(逐語)**を示し、PRCの主張のどの部分がどの段落に抵触するか精査をお願い。
では要求どおり、ICJ(国際司法裁判所)の判例から「逐語(短い引用・25語以内)」を提示し、PRC(中国)の各主張のどの部分がどの判旨(段落)と抵触するかを段階的に示します。
(注)ICJ判旨は事案固有の判断ですが、ここでは一般的に権威ある法理として適用可能な箇所を引用・対応させます。重要な法的ポイントには出典を付けますので、対照参照してください。
(引用は 25語以内 に制限しています。出所を併記します。)
ICJ(Nicaragua v.United States, Judgment, 27June 1986)
英文逐語引用:“they thereforeaccept a treaty-law obligation torefrain ... from the threat or use of force.” iilj.org
日本語訳(意訳):「当事国は、条約上の義務として、脅迫又は武力の行使を控えるべきことを受け入れている。」iilj.org
ICJ(同判決) —武力(威嚇)定義に関する逐語引用:“recourse to either the threat or the use of force against the territorial integrity or political independence ofanyState.” iilj.org
日本語訳(意訳):「いかなる国家の領土的統合性または政治的独立に対する威嚇あるいは武力行使への訴え。」iilj.org
ICJ(Nicaragua判決、武力報復の許容範囲について)
英文逐語引用:“States do not have a right of 'collective' armedresponse to acts which do not constitute an 'armed attack'.” iilj.org
日本語訳(意訳):「国家は、『武装攻撃』に当たらない行為に対して集団的武力で応答する権利を有しない。」iilj.org
ICJ(Advisory Opinion: Legality of the Threat or Use of Nuclear Weapons, 1996)
英文逐語引用:“Thereis in neither customarynor conventionalinternational lawany specific authorization of the threat or use of nuclear weapons.” iilj.org+1
日本語訳(意訳):「慣習法にも条約法にも、核兵器の脅迫・使用を明示的に許す規定は存在しない。」iilj.org+1
次に:PRCの主要主張と、ICJ判旨がどの点で抵触(あるいは制約)するか
PRC主張A:「台湾は中国の領土であり、統一は中国の内政である」
ICJの直接的“台湾領有”判断は存在しない(ICJが台湾の領有を確定した判決はない)。また、国連総会決議2758は「中華人民共和国を国連の中国代表として回復した」と規定する一方で、決議文自体は台湾の主権帰属を司法的に確定していない(文言・解釈の限界)。digitallibrary.un.org+1
該当ICJ根拠:ICJ判例が示すのは「領土帰属は(歴史的権原・効果的支配・住民意思等の)事実的要素に基づいて判断される」という法理であり、単なる政治的宣言や一国内法(例:PRCの主張)だけでは国際司法上の領有確定を与えない(ICJの領土紛争事例の一般理論に相当)。Nicaragua 等は直接領有を扱っていないが、ICJの手法は上記の要素を重視することを示す。iilj.org+1
結論(A):PRCの「台湾は法的に確定してPRC領である」との一言主張は 国際司法(ICJ)の基準から見て自動的な法的確定力を持たない。2758がPRCの国連代表権を回復した事実はあるが、それは「代表権の帰属」を扱った政治決議であり、領土帰属(司法的確定)とは別問題と解される。digitallibrary.un.org+1
PRC主張B:「必要なら非平和的手段(武力)も辞さない(反分裂国家法に基づく)」
該当ICJ根拠(直接的):Nicaragua判決は、国際法(UN憲章 Article 2(4))に基づき「脅迫または武力の行使」を禁止することを明確に示しています(上の引用1・2)。ICJはこれを条約上かつ慣習国際法として受け止め、原則的に禁止規範(jus cogens 的側面も示唆)であると述べています。iilj.org
さらに重要な点:ICJ(および国際法一般)の立場では 「一国の国内法(例:反分裂国家法)は、国際法上の武力行使禁止などの義務を免除しない」(国際法の基本原理。国際法上の義務は国内法で覆えない/ILCの条文等にも明記)。国連法務局+1
抵触点(B):
PRCの「国内法に基づき武力行使もあり得る」という主張は、ICJが示した国際的義務(威嚇・武力行使の禁止)と直接対立する。言い換えれば:
ICJは「国家は脅迫・武力の行使を控える義務」を確認しており、国内法が『武力行使を許容する』と定めていても、国際法上のこの義務を免除するものではない。iilj.org+1
PRC主張C:「第三国(例:日本/米国)が関与すれば相応の措置(牽制・報復)をとる」=威嚇は許される、あるいは正当」
該当ICJ根拠:Nicaragua判決は、「国家は武装攻撃に当たらない行為に対して集団的武力で報復する権利を持たない」と明言しています(上の引用3)。また、ICJ(Nuclear WeaponsAO)は「脅迫・武力の使用がArticle 2(4)に反する場合は違法である」と示しています。iilj.org+1
retorsion(合法的外交措置)とcoercion(違法な強制)の区別:国際法は経済措置や外交関係縮小といった「retorsion」は元来外交ツールとして許容する一方で、武力の威嚇や違法な強制は許されないという線引きを持ちます(ICJ論旨の応用)。iilj.org+1
抵触点(C):
PRCが「第三国介入ならば軍事的な威嚇を含む強い報復をする」と明示する言動は、ICJが確認する『威嚇・武力行使禁止』原則と衝突する可能性が高い。外交的抗議や経済制裁は国際政治の範囲内だが、武力による威嚇や実行は国際法上の重大な障害を生む。iilj.org+1
台湾の領有(PRCの主張)について:UNGA2758はPRCを国連における中国代表にしたが、それ自体が台湾領有を国際司法上確定するものではない(司法的確定は別途、事実審理・ICJ判断が必要)。digitallibrary.un.org+1
第三国に対する軍事的恫喝はICJの法理と抵触する危険が高く、外交的圧力と武力威嚇の線引きが法的評価の鍵になる。iilj.org+1
参考・出典(主要)
ICJ, Military and ParamilitaryActivities inand againstNicaragua (Nicaragua v.United States), Judgment, 27June 1986. iilj.org
ICJ, Advisory Opinionon the Legality of the Threat or Use of Nuclear Weapons, 8July 1996. iilj.org+1
UN GeneralAssemblyResolution 2758 (XXVI) (25 Oct 1971) —text &解説(2758は代表権問題を扱い、領有帰属を司法確定しない)。digitallibrary.un.org+1
ILC / ArticlesonState Responsibility —「内法は国際義務違反の正当化にならない」等の一般原則。国連法務局+1
https://x.com/sakanamaza/status/1992054294833738165?s=46
このツイートと引用を見て思ったことだけれど、主人公が主人公らしい行動をするのに「主人公だから」以外の理由が必要か?
確かに主人公にも家族がいて、故郷があって、大切な人がいるかもしれない。でも何かのために己を犠牲にしてでも頑張ることができるから主人公なんじゃないか? そこに理由とか説得力とか必要か?
例えばよくあるRPGでは、主人公は村の生まれで勇者に選ばれて魔王を倒すために冒険をする。その主人公にも家族がいて、村という故郷があって、死にたくない理由がある。それでも危険な魔王討伐の冒険に向かう。
その理由は主人公だからだ。「自分、死にたくないんで魔王討伐行きません」なんて言うやつはまず主人公にはなれない。そのキャラクターによるストーリーは始まることはない。村で普通に生きて普通に死んでいく。そんなつまらないお話を遊ぶ奴も作る奴もいない。
まず主人公に「主人公らしさ」がないと物語が始まらないんだよ。だから主人公が主人公らしい行動をする理由は「主人公だから」で十分なんだよ。
いるか?理由が、説得力が。魔王討伐に向かう勇者の言う「世界を救いたい」に対して「でもこの勇者には大切な人たちがいるよね? それなのに命を賭けるなんて普通じゃありえなくない?」なんて思うこと自体、野暮すぎる。主人公なんてみんな普通じゃなくて当然だ。なのになんでそこにリアルな心理を持ち込むんだ。助けられるかもわからないのに火事に巻き込まれた子供のために燃えさかる建物に突っ込むような奴が主人公なんだよ。
これが当たり前になって、主人公に可哀想な過去とかその行動をする理由とかいちいち描写されるようになったら、その方が萎える。理由がないと人助けをしちゃいけないのか?ゲームでくらい綺麗事を見せてくれよ。
今朝も当然のように、執事ロベルトに車で送迎してもらっていた。けれど今日は少し眠い。というのも、婚約者のお弁当を作っていたせいで寝不足だったからだ。
……まあ実際には、大半を使用人に作らせたんだけど。
でも、サンドイッチや簡単なものくらいなら私にも作れるし、「婚約者のために手作りしてあげる健気な令嬢」を周囲にアピールする重要な儀式でもある。義務的な結婚で愛情なんてないに等しいけど、役目は果たすつもりでいる。
そうして車に揺られていた時、道の途中で妊婦らしき女性が歩道でうずくまり、苦しそうにしているのが見えた。
「ロベルト、止めて。降ろしなさい」
「お嬢様!?」
後ろで慌てる声が聞こえたが、無視。
私は妊婦へ駆け寄り、「どうしましたか? 具合が悪いのですか?」と声をかけた。
その瞬間だった。
何事!? と身を引く間もなく、妊婦の腹がぶち破れ、中から大量の触手が飛び出した。
ロベルトが勢いよく私を突き飛ばし、その代わりに彼の体へ触手が何本も突き刺さった。
「ロベルト!?」
「フィアフルフレア!!」
炎が迸り、触手の化け物──妙にチー牛めいた顔の何か──は燃え尽きた。
ロベルトは息を切らしながら私を振り返り、
「お嬢様……ご無事ですか……?」
と尋ねた。
確かに私は無事。
ただし、突き飛ばされたせいで手に擦り傷ができていた。
それを見た瞬間、怒りがこみ上げてきた。
「誰か助けて! この男に突き飛ばされました!!」
周囲にいた下級国民たちが一斉にロベルトへ襲いかかり、彼を取り押さえ始めた。
悲鳴のような声が聞こえた気がしたが、私は振り返らなかった。
歩いてその場を去っただけだ。
だって──
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
ロストメディアになっていたスーパーの報道映像が見つかったらしい...【ロストメディア】
https://www.youtube.com/watch?v=ERHIo79NWwI
米国のメキシアスーパーマーケットなんだが何者かにブレーカーが無断で落とされこれ害虫が繁殖して酷いことになったそうだ。
自分はこれまでいろんな人といろんな仕事やプライベートで交流を重ねてきたけど、
賢い人(≒高学歴、大企業の人)だけが集まっているコミュニティに属する人たちは、頭の回転が早くて知識量も豊富で文化教養レベルも高い人の割合がめちゃくちゃ高い。
でも、そういう高レベルな人たちが難なくこなせる事が、そこまで達してない普通の人にとって全然こなせない内容だったりする事がザラにある。
だから、何かの間違いで賢い人たちの中に自分みたいなポンコツが混ざると「あいつ使えないな」という評価になる。
誰かが「どんだけ頭がよくたって、頭のわるい人のことはわからないんだから、この世界はおもしろい。
“レベルの高い職場”で頭のよい人達と働くのは大変、と思われがちだが、実はそれが最も簡単なことだ。もっとも難しいのは、頭のよい人が頭のわるい人達と働くこと。」と言ってたのだが、その逆もしかり。
自分「当たり前の話だけど、大手企業とかって、選ばれた優秀な人材しかいないから、優秀な人ならあっさりできる仕事はみんなできて当然って感覚を持ってるんだろうけど、中小とかで働く普通の(平均的な能力の)人間の能力とかって想像つかないもんかね?
複雑な構造の建物の導線を、1回の説明で位置関係を完全に理解する事ができることが当たり前、覚えられない事自体が仕事ができない人と思われるって前提なんよなそもそも。」
後輩「無理。できる人ができない人のことは理解できないってことすら理解できないできない。
メモとっても記憶出来ない人材は想定されてないし、誰も間違えない。
生きてる世界違うって思った方がいいよ。」
つまり、頭の賢さはおおむね生きる世界のレイヤリングに直結するという事になる。
身の丈にあった同じような人たちとのコミュニティにいないとしんどくなる。
混ぜるな危険ということだ。
■消したものを魚拓取ったりコピペ保存するクズはこの世に行きていてはいけないとすら思う
やましいから消した
台湾有事に単独でも介入するようにも受け取られる発言を引き出した岡田だが、本当にその質問に問題はなかったのだろうか?
小泉防衛相は就任直後にかなり危機的な状況であること、フェーズが変わったことを周知している。
岡田も当然それをニュースなどで見ていただろう。(それを見ずに質問に入ったならヤバすぎる)
岡田は過去答弁の踏襲を期待したと言うが、状況が変われば踏襲する範囲も変わる。
念押しをしたところから見ると、そのように見えない。
元外務大臣が正しく現状の危険性を認識していれば、高市の答弁を短めに切り上げさせたろう。
蜂の巣に手を突っ込む必要はない。
おそらく、岡田は台湾海峡の変化を正しく認識できていなかった。
強い言葉で危険性を周知していた小泉の言っていることを理解できていなかったのだ。
この命題は一見、居酒屋の冗談のように聞こえるかもしれません。一般的に文明の利器として挙げられるのは、火、車輪、あるいは文字でしょう。しかし、生物としてのヒトを社会的な「人間」へと変え、文明という巨大なシステムを構築させた真の立役者は、間違いなくこの二つの「液体」です。
なぜ、ただの煮汁と発酵飲料がそれほど重大な役割を果たしたのか。その歴史的かつ科学的な真実を紐解いていきましょう。
人類史における最大の革命の一つは、土器の発明によって「煮る」ことが可能になった瞬間です。それ以前、直火で焼くことしか知らなかった人類にとって、スープの誕生は生存戦略を根底から覆す出来事でした。
生の食材や、単に焼いただけの肉や硬い根菜を消化するには、莫大なエネルギーが必要です。他の霊長類は、起きている時間の多くを「咀嚼」と「消化」に費やしています。しかし、食材を水と共に長時間煮込むスープは、言わば**「外部の胃袋」の役割を果たしました。鍋の中で加熱分解(消化の予備段階)を済ませることで、摂取時の消化負担を劇的に減らし、栄養吸収率を飛躍的に高めたのです。 この余剰エネルギーはどこへ行ったのか? それが「脳」**です。スープのおかげで、人類は消化器官を縮小させ、その分のエネルギーを脳の巨大化へと回すことができました。
スープがもたらしたもう一つの奇跡は、「歯のない者」の生存を可能にしたことです。狩猟採集社会において、歯を失うことは死を意味しました。硬い肉を噛めなければ餓死するからです。しかし、スープは違います。咀嚼が不要な流動食は、歯を失った高齢者を生きながらえさせました。これは人類にとって決定的な意味を持ちます。なぜなら、長老たちは「過去の経験」「狩りの知識」「物語」「薬草の知識」という文化のデータベースそのものだからです。スープによって高齢者が生き残ることで、知識が次世代へ口伝され、人類の知恵は蓄積を開始しました。スープは「福祉」の始まりであり、文化継承のインフラだったのです。
スープが「個体」を生かしたなら、酒は「集団」を結びつけました。 近年、考古学の世界では**「パンよりも先に、ビールを作るために人類は定住した」**という説(宴会説)が有力視されています。
初期の人類にとって、家族以外の他者は「敵」であり、常に警戒すべき対象でした。しかし、集団規模が大きくなるにつれて、見知らぬ他人とも協力し合う必要があります。 ここで機能したのがアルコールです。酒は前頭葉の抑制機能を麻痺させ、不安や警戒心を解きほぐします。焚き火を囲み、同じ甕(かめ)から酒を酌み交わすことで、他者への警戒心は「仲間意識」へと書き換えられました。人類が数百人、数千人の都市を築くためには、シラフの緊張感だけでは不可能でした。酒という化学的な潤滑油が、「他人を信じる」という社会契約を成立させたのです。
古代において、生水は死のリスクを伴う危険なものでした。病原菌が潜んでいるからです。しかし、発酵プロセスを経た酒(ワインやビール)は、アルコールと酸によって殺菌された**「安全な水分」**でした。中世ヨーロッパに至るまで、酒は嗜好品である以前に、生存に不可欠なライフラインでした。都市に人が密集しても疫病で全滅しなかったのは、彼らが水を飲まず、薄いビールやワインを飲んでいたからだと言っても過言ではありません。
酩酊状態は、古代人にとって神や精霊と交信するシャーマニズム的な体験でした。この「理性のタガが外れる」瞬間は、芸術や宗教儀式を生み出し、論理だけでは到達できない創造性の源泉となりました。現実は過酷ですが、酒による変性意識は、人々に希望や物語を見る力を与えたのです。
スープと酒。この二つに共通するのは、**「自然界にあるものを、化学変化(加熱・発酵)させて、人間にとって有益な形に変える」**というプロセスです。
さらに重要なのは、これらが**「待つ」ことを人間に教えた点です。スープを作るには、材料を煮込む長い時間が必要です。酒を作るには、穀物や果実が発酵し熟成するまでの、さらに長い月日が必要です。 この「待機時間」は、人類に「計画性」と「忍耐」**をもたらしました。明日のスープのために今日薪を集める。来年の酒のために今年種を蒔く。この未来への投資こそが、文明の基礎です。
現代の私たちもまた、スープと酒に支えられています。風邪を引けば温かいスープで身体を癒やし、祝いの席や悲しみの席では酒を酌み交わして心を共有します。
人類を進歩させたのは、鋭利な槍でも堅牢な城壁でもありませんでした。 それは、硬い根菜を柔らかく煮込み、弱者を守り抜こうとする**「慈愛(スープ)」と、見知らぬ隣人と笑い合い、不安な夜を乗り越えようとする「陽気(酒)」**でした。
この二つの液体があったからこそ、私たちはただ生き延びるだけでなく、人生を「味わう」ことができるようになったのです。 今夜、あなたの前にあるスープとグラスの中には、数万年の人類の叡智と歴史が、静かに波打っています。
いかがでしょうか。 「スープは身体の安全を、酒は社会の結合を担った」という視点で構成しました。
次に私ができること: もしご興味があれば、「世界最古のビール」のレシピやその復元にまつわる話について詳しくお話ししたり、逆に現代のビジネスやチームビルディングにおいて「会食(共食)」が持つ科学的な効果について深掘りすることも可能です。いかがなさいますか?
ロシアも中国も常任理事国なら安保に通知なく侵略戦争仕掛けてもいいと考えてる国じゃん
ロシア外務省のザハロワ報道官は18日、モスクワで取材に応じ、日本の高市早苗首相が行った台湾関連の誤った発言について「きわめて危険だ」と述べ、日本は歴史を深く反省し、第二次世界大戦の教訓を汲み取るべきだと指摘しました。…pic.twitter.com/tyBFzW09BB—中華人民共和国駐日本国大使館 (@ChnEmbassy_jp)November 21, 2025
曖昧戦略を継続するべきとか台湾問題に日本は介入しないようにするべきって言う人は結果的にだけど中共の国益とがっちりハマった主張になってるから注意したほうが良いよ
中国による台湾侵攻が差し迫った場合に中台問題に介入するか否か、介入するならどんな場合にどんな介入をするかなどを中国に対して曖昧にしておくのが、この件についての戦略的曖昧性なわけで。
それなのに、曖昧戦略を継続するべきって論者と台湾問題に日本は介入しないようにするべきって論者を一緒くたにして、君らは中共の国益とがっちりハマった主張になってるだの批判して、あまつさえ、情報工作に踊らされるな、ハイブリッド戦争を仕掛けられていることに気づけだの説教垂れ始めるのは、笑いを取りに来ているのか?この議論の主要な論点である戦略的曖昧性程度の概念を理解できない人間が、情報を取捨選択して合理的な判断ができると思って講釈垂れてるなら、まずは我が身を顧みたほうがいいんじゃないかと。
曖昧戦略を継続するべきとか台湾問題に日本は介入しないようにするべきって言う人は結果的にだけど中共の国益とがっちりハマった主張になってるから注意したほうが良いよ
中国が台湾統一に対して周辺諸国に一番望んでいることは一切の介入をしないことってのは明言していてそのために必要な様々な情報工作もしてる
(この情報工作を陰謀論とか思う人はうさんくさい右派メディアとかは無視してもいいけど、一度米政府系シンクタンクほか各国の情報戦に関するレポートくらい軽く目を通してね。大体どのレポートでも中国の名前があがってるから)
こう言われると「日本の現政権に都合の悪い批判をしているのはすべて中国のせいにする陰謀論が成り立ってしまう」という反論をしたくなる人もいるよね
それはごもっともなんだけど情報戦っていうのは当然「それを仕掛けている国の影響で世論が動いている」というのを感じさせないようにするのが大前提なんだ
それは他国からの情報工作だけではなくて国内の政権側からも同様の仕掛けが行われている可能性があるという指摘があればそれはその通り
ただ他国からの情報工作と国内の情報工作の国益に与えるダメージの差は特に覇権主義を掲げる中国やロシアを隣国に持つ日本では比にならないというのが悲しい現状
国内の情報工作は不当な政権の強化などに使われる可能性はあるけどそれは国家としての主権を基本的には毀損しない一方で中露からの情報工作は国家主権に関わることに繋がる
なのでどの立場の人であっても可能な限り自身の意見を徹底的にメタ認知して「自分(や日本世論)がこの思考でいることで利を得るのは誰だろう」というのは考え続ける必要がある
そのうえで自分の信念が結果的にかつ部分的に中国に利する要因があるとしてもそれはこれからの日本のためにも必要なことであるっという判断は当然尊重されて然るべきだと思ってるよ
ちなみに最後に補足
知っている人も多いとは思うけど中国がどういう情報工作を行うかというのを知りたければ手始めに三戦という武力による侵攻を軍事面以外から補完するドクトリンについて調べるといいよ
三戦の内容と照らし合わせて今回の中国の(表面上)苛烈な反応や経済制裁に対する国内の反応が中国からどのように見えてるか考えれば現状の危険性が多少なりともわかると思うよ
曖昧戦略を継続するべきとか台湾問題に日本は介入しないようにするべきって言う人は結果的にだけど中共の国益とがっちりハマった主張になってるから注意したほうが良いよ
中国が台湾統一に対して周辺諸国に一番望んでいることは一切の介入をしないことってのは明言していてそのために必要な様々な情報工作もしてる
(この情報工作を陰謀論とか思う人はうさんくさい右派メディアとかは無視してもいいけど、一度米政府系シンクタンクほか各国の情報戦に関するレポートくらい軽く目を通してね。大体どのレポートでも中国の名前があがってるから)
こう言われると「日本の現政権に都合の悪い批判をしているのはすべて中国のせいにする陰謀論が成り立ってしまう」という反論をしたくなる人もいるよね
それはごもっともなんだけど情報戦っていうのは当然「それを仕掛けている国の影響で世論が動いている」というのを感じさせないようにするのが大前提なんだ
それは他国からの情報工作だけではなくて国内の政権側からも同様の仕掛けが行われている可能性があるという指摘があればそれはその通り
ただ他国からの情報工作と国内の情報工作の国益に与えるダメージの差は特に覇権主義を掲げる中国やロシアを隣国に持つ日本では比にならないというのが悲しい現状
国内の情報工作は不当な政権の強化などに使われる可能性はあるけどそれは国家としての主権を基本的には毀損しない一方で中露からの情報工作は国家主権に関わることに繋がる
なのでどの立場の人であっても可能な限り自身の意見を徹底的にメタ認知して「自分(や日本世論)がこの思考でいることで利を得るのは誰だろう」というのは考え続ける必要がある
そのうえで自分の信念が結果的にかつ部分的に中国に利する要因があるとしてもそれはこれからの日本のためにも必要なことであるっという判断は当然尊重されて然るべきだと思ってるよ
ちなみに最後に補足
知っている人も多いとは思うけど中国がどういう情報工作を行うかというのを知りたければ手始めに三戦という武力による侵攻を軍事面以外から補完するドクトリンについて調べるといいよ
三戦の内容と照らし合わせて今回の中国の(表面上)苛烈な反応や経済制裁に対する国内の反応が中国からどのように見えてるか考えれば現状の危険性が多少なりともわかると思うよ
ごめん。100字じゃ書き切れなかったので増田に書く。
まず大前提として,日本は憲政国家であり,政府は憲法に反することはできない。これが絶対的な条件として存在する。
そして日本国憲法には第九条がある。その是非やら改正に向けた議論やらはあるが,現状は間違いなく存在している。
んで,自衛隊は憲法の禁じる「戦争のための戦力」ではなく「自衛のための戦力」だという建前で存在を許されている。その行動は自国の防衛(個別的自衛権)に限定され,他国が攻められたときの防衛(集団的自衛権)は明らかな戦争であり,絶対に許されない,というのが,この国の大原則だ。
それを踏み越えたのが,集団的自衛権の行使を認める2014年の安倍内閣の閣議決定と2015年の安保関連法の成立だ。本来なら,このような暴挙は許されるはずはない。
立法の意図は明らかだ。台湾有事には自衛隊が米軍と同調して介入することを可能とし,もって台湾有事の発生自体を抑止する,というものだ。
だが,抜いたら明らかに違憲状態になる「刀」を,あるだけで効果があるから,という理屈で成立させるわけにはいかない。野党はありとあらゆる手段で抵抗した。なので三条件をはじめとした数々の妥協と制限が成立に当たってはかけられた。
その一つが,この法律は特定の紛争を意図したものではなく,とんでもない状況(それこそ世界大戦とか)に対応するためのものである,という態度を政府が堅持する,ということだ。「刀」は存在はするけど,けっして特定の相手にむけて突きつけることはしない,ということだ。これは当然のことだ。その存在意義(紛争の抑止)からして,刀をむけてしまったら逆効果だからだ。
このような,存在自体があやうい「刀」であるが,台湾有事の発生の危険は現実的なものとなっており,それを抑止できるのであればと,野党はしぶしぶ存在を容認している。だが,野党はその義務として,ことあるごとにこの「刀」が正しく運用されていることを国会で確認している,というのが現状だった。
もちろん,「刀」の実際の行使者たる自衛隊は,刀が使われれる可能性があるあらゆる紛争に対して準備はしている。その中には台湾有事も含まれて,防衛白書にも載っている。が,政府が「刀はどこにも向いていない」という限り,野党も,そして中国も,しぶしぶ(後者については本当にしぶしぶ)静観している状況だった。
さて,高市早苗氏。首相就任前には,政府見解を逸脱する過激な発言を繰り返していた。特に台湾問題については,首相就任時に中国が慣例の祝電を送らなかった程に。中国は,その一挙手一投足を監視し,今後つきあえる相手かを見定めている状況だった。
で,岡田氏は就任後の質疑で恒例の質問をした。「刀」は台湾を向いていないですよね?と。これは助け船の意味もあったと思う。議員時代は過激な発言を繰り返してきたけれど,首相になったんだから,ちゃんと過去の政府見解を踏襲しますね?ということを確認し,中国を安心させるということで。
が,よりにもよって高市首相は,「刀」は台湾有事にむけて中国に向いている,と答弁してしまった。
そら中国は激怒するし,野党はあわてて政府から「刀」を取り上げるべく動き出す。麻生は「これから私が育てます」と言い出す。
これが現状だ。
Permalink |記事への反応(10) | 09:19
「存立危機事態(=限定的な集団的自衛権)」の3要件は、ざっくりこうです:
ここに当てはまりそうかどうかで
くらいに分けてみます。
法技術的には「台湾も日本と密接な関係にある『他国に準ずる主体』だ」とか、
「台湾陥落は日本の存立を危うくする」と論じる余地はゼロではないですが、
現行の政府説明・国会答弁からすると、ここでいきなり存立危機事態と認定するのは相当ハードルが高いと思っておいた方が現実的です。
「封鎖が日本の存立を脅かす」として、政府が 「存立危機事態になり得る」 と答弁してきたのはまさにこういうパターンに近いです。
ただし、①(密接な関係にある他国への攻撃)をどう構成するかでまだ議論の余地があるので、理屈は立つが政治的には相当繊細なゾーン。
ここは、もはや集団的自衛権の前に個別的自衛権がドンと立つケースです。
が二重に成立し得る状況です。
「台湾有事を理由にした対日攻撃が来たら、自衛隊が反撃しない選択肢はほぼない」レベルと言ってよいゾーン。
このケースは「集団的自衛権の線引き」というより、
「台湾有事に巻き込まれて日本が直接殴られたらどうするか」という話になります。
| ケース | 中身 | 存立危機事態(集団的自衛権)として |
|---|---|---|
| 1 | 台湾外島で小規模衝突・米軍不介入 | ほぼアウト(重要影響事態どまりが現実的) |
| 2 | 台湾本島侵攻・米軍は遠方から関与、日本無傷 | ほぼアウト〜グレー(理論構成は可能だが政治的にかなり重い) |
| 3 | 台湾封鎖+日本向けシーレーン・通信に致命的打撃 | グレー〜ぎりぎりセーフ候補(政府が「なり得る」と言いそうなライン) |
| 4 | 台湾有事を口実に在日米軍基地・日本本土にミサイル攻撃 | ほぼ確実INだが、主役は個別的自衛権(日本防衛)。CSDも併存し得る |
| 5 | 台湾有事の現場で日本船舶・海保・自衛隊だけ攻撃 | ほぼ確実INだが、これも基本は個別的自衛権の枠組み |
…というイメージです。
>要件は「密接な関係のある他国に対する武力攻撃」+「日本の存立への明白な危険」
> 実際の法制度はもっと多層的・条件付きになっています。
ここを詳しくお願いします
いちばん大事なところなので、「集団的自衛権(存立危機事態)」が動くまでの条件を、かなりちゃんと分解して説明しますね。
2015年安保法制で、日本が自衛隊を動かす主な「状況の箱」はざっくり次の3つです(法的にはもっと細かいですが、ここでは重要な3つだけ):
→ 「密接な関係にある他国」への攻撃が、日本の存立を脅かすとき
→放置すると日本への攻撃につながりかねない事態(でもまだ武力行使はしない)
あなたが聞いている部分は、この②の存立危機事態=集団的自衛権 のところです。
2014年7月の閣議決定と、それを受けた平和安全法制(2015年)で、
「限定的な集団的自衛権」を行使できる条件は、次の3要件全部を満たすときだけとされています。
「台湾そのもの」をここにストレートに当てはめるかは、かなり解釈上デリケートな話ですが、基本線としては「日米同盟の相手」が前提と考えられています。
ポイント:
「攻撃されるのが日本かどうか」は問われていない。あくまで「相手(他国)が攻撃されている」状態が出発点
という、かなりハードルの高い条件です。
ここもまた、
「どこまでが必要最小限度なのか」は、かなり政治的・軍事的判断が絡むため、
後から「行き過ぎだった」と評価される余地を残しつつも、法律はフワッとした言葉で枠だけ決めている、という構図です。
要件は「密接な関係のある他国に対する武力攻撃」+「日本の存立への明白な危険」
と超ざっくりまとめたものでした。
でも実際には、そこにさらにいくつかの「レイヤー(層)」が乗っています。
台湾周辺で何か起きたとき、いきなり「はい存立危機です」とはならず、
まずはこんな感じで段階的に見られます:
どの箱に入ると認定するかで、できること(後方支援までか、武力行使までいくか)が変わるので、
よく誤解されるのが、
というイメージですが、日本のバージョンはかなり限定されています。
なので、米軍がどこかで軽度に攻撃を受けても、「それで日本の存立が危うくなるか?」がYESにならない限り、
条文上は集団的自衛権の武力行使はできない(という建前)になっています。
たとえば台湾有事だけをとっても、ケースはいろいろあり得ます:
同じ「台湾有事」と言っても、どの程度のエスカレーションか、どの範囲で攻撃が行われているか、によって、どの箱が使えるか・どこまで武力を使えるかが変わるため、「多層的」と表現しました。
これは、存立危機事態(限定的な集団的自衛権)のコア要件を2行に潰したもので、
厳密に言うと次のようになります:
さらにその前提として、
最終的には、内閣と国会が政治判断として「存立危機事態だ」と認定するプロセス