
はてなキーワード:南無阿弥陀仏とは
せっかく年末年始はお休みでのんびり出来るのに、人混みで溢れかえる有名な寺社仏閣に出かけるのは実に馬鹿げている。
正月はテレビで駅伝を観るのが最高の楽しみだ。1日はニューイヤー駅伝、2日、3日は箱根駅伝がある。
駅伝が終わったら散歩などに出かける。地元の小さな神社の前を通ったりする。まあ神社の前を通るときは多少厳かな気持ちにはなるが、鳥居を潜って参拝する気にはならない。横目に神社を見て通り過ぎるだけだ。
神社に本当に「神」がいるとは思えないし、仮に居たとしても、「あいつはこの辺に住んでいるくせに鳥居の前を通り過ぎるだけで参拝に来ないから不幸な目に合わせてやろう」とか考えるなら邪神でしかない。神社に仮に神様がいるとしても、そんな邪神とは思えないので素通りしても害はない。
もっと分からないのは、神社で願い事をすることだ。俺がまだ初詣をしていた頃、一緒に初詣にいった彼女は「何をお願いしたの?」と俺に尋ねた。
お願い?上にも書いたように神社に実際に神様がいる可能性はゼロに等しいし、仮に居たとしても、それはその地域の霊的安定を保っている存在であり、個々人の「商売繁盛」「試験に合格」「女にモテますよように」「病気が治りますように」「借金地獄から抜け出せますように」とかいった現世利益を硬貨数枚程度のお賽銭で叶えてくれるはずがないのである。だから俺はその時はただ「神様」に御挨拶として「参拝」しただけで何の「願い事」もしていなかった。だから「別に何もお願いはしてないよ」と言ったら彼女は「何それ?意味ないじゃん馬鹿じゃないの」とか言ってゲラゲラ笑い出した。心からは愛せない女だったので2月頃に別れた。
じゃあお寺で願い事をすればいいのか?というと、それはもっと違うだろう。
仏教は煩悩を捨てて悟りに至れと教えるのだから、「商売繁盛」「試験に合格」「女にモテますよように」「病気が治りますように」などという現世利益=煩悩をお願いするのは仏教の教えと根本から反している。寺院に参拝して願うことといえば「煩悩がなくなりますように」とか「極楽往生」になるはずだ。
そもそも仏教の根本的な精神を考えたら、自力本願ならば座禅や瞑想などの修行に励めば良く、他力本願ならば「南無阿弥陀仏」と念仏すれば良いのだから、寺院に参拝する必要がない。
隴西(ろうせい)の李徴(りちょう)は博学才穎、若くして名を知られたが、性、狷介(けんかい)にして自ら恃(たの)むところすこぶる厚く、ついに科挙に失敗し、官を退いて詩作にふける日々を送っていた。
然るに彼の詩は、思いのほか世に容れられず、やがて生活に困窮し、妻子のために地方の小役人に身を落とすこととなった。
或る日、官命を受けて他郡へ赴く途中、旅の一行の馬車が森に差しかかったとき、怪しい咆哮が樹々の合間から響いた。供の者が騒然となる中、李徴の姿が忽然と消える。
「李徴さま!李徴さまァ〜ッ!」
皆が慌てふためく中、ひとり静かにその場に現れたのは、白衣に身を包んだ男であった。額には清めの護符、腰には数珠を携え、眼光は鋭いが、どこか慈悲深い。
「……これは妖の気配。俗にいう“虎変”ですね……」
(以下、中盤では「虎となった李徴」が己の悲哀を友人に語ろうとするが、Tさんの「お経攻撃」によりどんどん浄化されていく)
李徴の咆哮は次第に細くなり、やがて人語に戻っていく。
「わ、わたしは……李徴……かつては詩を……」
「南無阿弥陀仏……この者、未練と執着に囚われし霊獣なり」
札が宙を舞い、李徴の額にぴたりと貼られたその瞬間、天を衝くような虎の咆哮があたりを震わせ、森が静まり返る。李徴の姿は、詩を一篇書き残して、ふわりと風に溶けた。
「……やはり寺生まれは違うな……」
霧の中に消えた李徴が、最後に残した詩の断片を、Tさんはそっと拾い上げた。
筆跡は荒れ、紙は湿り、されどそこには、かつての彼の魂が確かに宿っていた。
月下、山は影をひき、
声は虎にして、心は人に残る。
詩の道に死すとも、
我が言のひとひらは、
誰かに届かん。
月は冴え冴えと照り、森の風が、詩を乗せてどこか遠くへと運んでいった。
信者には苦行を強いてガンガン献金させつつ、自分は高級車にのって大好きなマスクメロンをしょっちゅう食らっていたという、松本某。
ランプは、“アメリカは外国に搾取されてる”、“だから関税あげて、奪われた富を取り戻すのだ”というが、世界中からITサービスやら金融やら知財やらで搾取してるのはアメリカの方だろう。
でなきゃ、一人あたりGDP8000ドル超(日本の倍)にはならない。
そもそも関税あげたら、その分を負担するのはのアメリカ人なので、富を取り戻しことなど出来ないのでは?という素朴な疑問は、ここでは措いておく。
国としては豊かなのにラストベルトの労働者とかが豊かになれないのは、トランプ含む超富裕層ばかりが儲かる仕組みになっていて、格差がでかすぎるからだろう。
トランプはそこは徹底的に無視して、“外国のせいだ!”とあおる。
“一時的に株価が下がっても我慢が必要だ!”と、苦行を求めている。
不思議なもので、カルトの指導者とか予言者というのは、予言が外れても、大多数の信者はなかなか離れていかない。
“教えは正しいのに予言が実現されないのは、敵がそれだけ強大だからだ、ますますの信心が“必要だ“とかなんとか言われて、さらに結束してしまったりする。
この手のカルトは多くが、ある種の破滅を迎えるまで突っ走ってしまう。
その前に“トランプ真理教”から信者を救い出すのは、容易なことではない。
神でも仏でも構わないが、一人でも多く彼らを救い給え。アーメン、南無釈迦牟尼仏、南無阿弥陀仏、ラーイラーハイッラーッラー、二礼二拍手一礼。
環奈 環奈橋本環奈
環奈 環奈橋本環奈〜
神に選ばれし橋本環奈
1000年に1度の勝者
私は敗者
こぼれちゃいそうな大きなお目目と
いざ整形
貢げおっさん
あ〜生活のすべは
完全パパ活
完成ニート
はしかんいいな
なりたいな
私も主演になりたいな
鏡の前で南無阿弥陀仏
この世は環奈 🥺しか勝たん🥺
ははは はしもと環奈になりたい橋本 かんな! かんな!
はしもとかんなになりたい橋本環奈になれません🥺
可愛いはつくれるよ
こましになった可愛い私は
ねぇ誰か殺して
🥺(ぴえん)な私殺して
橋本環奈に似せた👁(お目目)は
2倍に膨らむダウンタウン
ははは はしもと環奈になりたい橋本 かんな! かんな!
はしもとかんなになりたい橋本環奈になれません🥺
はしもとかんなになりたい橋本環奈に勝てません🥺
いつかは誰かと幸せになりたい
いつかは私も幸せになる
はしもと環奈になりたい橋本 かんな! かんな!
はしもとかんなになりたい橋本環奈になれません🥺
はしもと環奈になりたい橋本 かんな! かんな!
はしもとかんなになりたい橋本環奈になれません🥺
「ナムアミダブツ」とは「阿弥陀仏に帰依します(信じ寄りすがります)」という意味だ。
なぜ信者は彼に帰依したがるかと言うと、金ピカボディに生まれ変わって必ず涅槃に至れる土地の地主が彼で、信者なら基本的に誰でも入居可能だからだ。
なのでもし彼がサービス提供を止めてしまえば当然彼に帰依する理由はなくなる。
しかし彼はインドの訳の分からんオッサンという泥から生まれた架空のキャラなので自我はなく、サービスは永遠に存在する。
一方で推し活は生身の人間、あるいはまだ続編の余地があるコンテンツに対しての信仰なので、自分の意にそぐわない考えに傾倒する可能性がいくらでもある。
必ず「最近こいつ信仰の価値無くね?」という気持ちがいつもどこかにあり安心して信じられない。
例えば阿弥陀仏が「やっぱ人間は愚かなので全員地獄に落とすね」とか言ってきたら絶対イヤだし、後で撤回してもそれ言った時点で自力で涅槃に至る釈迦ルートを選ぶよね。少なくとも同じ地獄に落ちるにしてもコイツには落とされたくはないと思う。
しかし現実には推しの変化への理解を脳が拒否し「確かに人類は滅ぶべき!アミダ様は正しかったんや!」と説得されてしまい、ゆでガエルになるまで推し続ける。