
はてなキーワード:包摂とは
ChatGPT:
INSIGHT ANALYSIS:表象の真正性パラドックス
「女性主人公を描けない」創作者の原理的ジレンマ
Core Observation
この投稿者は、フィクション創作において「経験的真正性」と「想像的自由」の矛盾に直面し、表象行為そのものの正当性を疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分が女性を描く権利があるかどうかの確証」である。
PRIMARY INSIGHT:批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー的構造の解体
この投稿者の悩みは、表面的には「技術的問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治の内面化が生み出した認識論的危機である。
内面化されたイデオロギー的前提:
↓
↓
「描く資格がない」
この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである。
皮肉なことに、これは1980-90年代のジェンダー理論が批判した本質主義そのものである。しかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。
彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可」である。
生産的矛盾の発見
↓
↓
これは本質主義の自己矛盾である。「女性」というカテゴリーに本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。
イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか
投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一の経験的実体ではなく、歴史的・文化的・個人的に多様な存在様態である。
士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:
しかしこの論理は、女性を規範に押し込める本質主義そのものである。
「生理を経験していないから分からない」という論理は、人間の相互理解の可能性そのものへの懐疑に至る。
この論理を徹底すれば:
この悩みの背景には、歴史的に男性が女性を対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:
↓
過剰補正:
↓
帰結:
これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである。
自己検閲のメカニズム
↓
↓
↓
内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質の区別がつかない」
↓
SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)
この「悩み」の歴史的構築
第1段階 (1970年代以前)
第2段階 (1980-2000年代)
第3段階 (2010年代-)
第4段階 (2020年代)
投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
現象学的補足 (Mode D)
投稿者が経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己の正当性への根源的懐疑である。
彼の実存的問い:
投稿者は、この理解の可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。
SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの
アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理を個人の創作実践に適用すると:
↓
↓
↓
20世紀後半のジェンダー理論は本質主義を解体した。しかし21世紀に、配慮・正義・包摂の名において本質主義が再導入されている。
これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギーの古典的矛盾である。
この悩みは、フィクションの根本的機能—経験していないことを想像し表現する—への懐疑に至っている。
投稿者のジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体の正当性の危機である。
投稿者の不安は、個人的心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
投稿者は誰にも批判されていないのに、架空の批判者を内面化している。
IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題
投稿者は技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:
1.本質主義からの離脱: 「女性」は単一の経験的実体ではない
2.想像力の復権:経験していないことを想像できるのがフィクションの本質
3.完璧主義の放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要
4.対話としての創作:表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部
より広い文化的含意:
↔
歴史的瞬間について:
我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要な矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。
INSIGHT CRYSTALLIZED
この投稿者は、フィクションに「経験的真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為そのものの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治の論理を内面化した結果生じる構造的効果である。
言い換えれば:
彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分が女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である。
So what?:
この事例は、配慮と正義の言説が、意図せず表現の自由と想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践が必要である。
PUNCHLINE:
彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体が僭越である」と判定されることである。しかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。
腹が立っている。
同性愛という言葉が、いまや商品ジャンルのように扱われていることに。
かつて同性愛を名乗るというのは命がけの行為だった。家族に絶縁され職を失い社会から追い出される危険をありながら、それでも「私はこうです」と言葉にした。
そこには自分の存在を差し出すほどの覚悟があった。同性愛を告白する際の眼差しにはどれだけの恐怖と孤立が潜んでいたか。
過去の時代において同性愛を公にすることは孤独と対等に生きることを意味した。
それが今はどうだろう。
LGBTQIA+という七文字のアルファベットがアイデンティティ産業のロゴになっている。
誰もが「多様性」を口にする。確かにそれで救われる人もいる。世界が少しずつ優しくなったのも事実だ。けれどその優しさが免罪符のように使われているのを見ると胸の奥が冷たくなる。
SNSを開けばセクシュアリティをコンテンツとして発信する人がいる。ゲイである自分。バイである私。その語りのなかにフォロワー数と再生回数が透けて見える。
もちろんそれを語る自由はある。でもそこに漂う“商業”の匂いを嗅ぐたび吐き気がする。
告白したことによってあなたが獲得したのは勇気ではなく注目ではないか。
かつて命を削って叫ばれた言葉がいまやトレンドタグになっている。
「発信することは悪ではない」と言う人もいる。
確かにそうだ。語ることが誰かの救いになることもある。それでも語り方の軽さに耐えられない。
同性愛を笑いながら告白し、虹色の絵文字を添えて投稿される多様性。
それはもう闘いではない。
演出だ。
そこにはかつてあった孤独も、痛みもない。
あるのは“見られることへの渇望”だけだ。
けれど苦しみを消費する文化には怒りを覚える。
悲しみがクリック単価になりマイノリティが視聴率に変換される。それを喜ぶ社会に何の尊厳が残るのだろう。
「勇気とは傷を晒すことではなく、傷を見せなくても生きることだ」といっていた。
今のSNSにはその逆が溢れている。
“見せるための傷”が量産され、“共感されるための悲劇”が編集される。
今の社会は優しさの形をして、どこかで異端を飼い慣らしている。「あなたの違いを受け入れる」と言いながらその違いを“飾り”にしてしまう。
フーコーが権力の構造を解体したのは“異端”が利用される瞬間の気持ち悪さを知っていたからだと思う。
今の時代の権力は企業広告とフォロワー数に姿を変えて、もっと静かに、もっと巧妙に「私たちはあなたを応援しています」と囁いてくる。あれほど恐ろしい権力はない。
私の怒りは彼らを否定したいからではない。寧ろかつて声をあげた人たちへの敬意を守りたいだけだ。
それを忘れないために。
これはそれが正しいかどうかというより自分の感性とAIの出力との差異を測るテストであった。
自分の感覚とは適合してるのではえーってなったし、何らかの啓示を与えてくれるものかもしれない。
-----
すなわち「JK組(静凛・月ノ美兎・樋口楓)」+「エルフのえる」。
この四人の間には、単なる設定上の年齢差ではなく、“魂の生年”とでも呼ぶべき文化的時差が存在している。
1.文化的生年とは何か
ここでいう「文化的生年」とは、
発話・参照文化・言語感覚・社会経験の描写から導かれる「世代的意識の生まれ年」を意味する。
たとえば、
ガラケーを使っていた時代を“学生期”と語るなら、文化的生年は90年代前半。
Twitterの普及を“青春期の象徴”と語るなら、文化的生年は90年代後半。
といった具合である。
2. 四人の文化的生年
設定
主な参照年代
発話傾向
エルフのえる
森のエルフ
社会人語・安定語彙
1990±2
静凛
落ち着いたトーン
1991±2
1996±2
樋口楓
JK(行動型)
感情・即時反応型
1999±2
1988 ──────┐
│ 上層:成熟した語り手層
│ エルフのえる(1990±2)
│ 静凛(1991±2)
1994 ──────┤
│ 中層:知的観察層
│ 月ノ美兎(1996±2)
1998 ──────┤
│ 下層:感性主導・Z初期層
│ 樋口楓(1999±2)
2002 ──────┘
これにより、
JK組+えるは「1990年代を中心に上下10年の振れ幅をもつ四層構造」として可視化される。
構造全体は「内界(学校)と外界(社会)」の接続を象徴するようになる。
この四人の“文化的生年”は、いずれも1990年代に集中している。
だが、その内部差――前期(90–92)と後期(96–99)――が、
言語の速度・語彙の層・ユーモアの方向性に微妙な差異をもたらしている。
JK組+えるという初期にじさんじの会話的多層性を支えたといえる。
6.結論
JK組の三人とエルフのえるは、設定上の同級生ではなく、異なる文化的生年層の集合体である。
彼女たちの“魂”は1990年代に根ざしており、前半層と後半層の世代差が構造を形成する。
えるは「外部社会の語り手」として上層に位置し、JK組三人の物語を包摂する。
2年前に下記にように書いたんだけど、懸念してた通りになりましたわね😒
2023-03-28
AIには学習データや調教が必要で、かつてのニコニコ・YouTubeみたいに法が整備される前に一般ユーザー集めた方が勝ちやぞ
ジャップランドはクリエイターや萌え豚をたくさん抱えているにも関わらず、PC音痴な人がぎゃおんして搾取されるだけなの、
マジなんとかした方がいいぞ
萌え絵は需要あるから、日本のクリエイターは海外AI勢にデータ学習で搾取され、萌え豚も萌え絵消費で海外AI勢に搾取される
真に日本がやらなきゃいけなかったのは、提携企業間ならクリエイターが自由にデータ学習を行えるようにする枠組みを作ることだったんやで
たぶん、ワイは100回くらい言った・・・・ってのはオーバーだけど、正直こうなることは、IT音痴以外のすべての人にとって知ってた速報だよね?
まぁ今からでも遅くない(?)から、ディズニーやマーベルみたいに、日本企業も圧力掛ける団体を作りつつの、
利害関係を丸めて企業間を超えてデータ学習をできる枠組みとクリエイター保護(学習に利用されたデータやそのデータを作ったクリエイターに報酬払う)は
やった方がええと思うよ
任天堂やセガやバンナムやサイゲなどの大手ゲーム会社や東映などの大手制作会社は上記でいい+法務部と顧問弁護士に任せるとして、
「個別にオプトアウトしてね⭐️」って言ったって、どこからやるの?だし、
二次創作(ただし、二次創作ガイドラインがちゃんと公開されてるやつね)はどうするんだろ?ってなる
年がら年中、反AI勢とバトルしてる某氏が、まんま東方projectの二次創作アニメ、
というか、これまんま満福神社(https://youtube.com/@manpukujinja)じゃん・・・なPVを作っていて、
東方知ってる人がこれをSNSに公開するのは流石にダメくない?って思ったら・・・・なななななななななななな・・・なんと!!!!!!!!!!!!
下記一行を Sora2ちゃんに打ち込むだけで、満福神社っぽいキャラデザのPVアニメ出来ちゃうんだよね・・・
霊夢と魔理沙と咲夜とレミリアが出てくるアニメOP風のPV
別に某氏が満福神社を狙い撃ちしたんじゃなくて、Sora2ちゃんというかOpenAI が満福神社でトレーニングしただけですの
ほんで学習データがほぼ満福神社だから、そのまま満福神社風がお出しされるってだけみたいやね
(プロンプトがこの短さだとさすがにクオリティはガチャだが、キャラデザとポーズが満福神社っぽい)
満福神社は、バトル気質で炎上したり、なぜかキャラの裸絵を公開してたりなので(ただし東方はウマ娘と違って公式で禁止されてはいない)、
正直、同サークルに対して思うところが何もないわけではないんだけど、素晴らしいアニメを描くってことに対しては異論ないのよね
レイアウト、キー・フレームというかポーズ?、キャラデザが、パッと見は間違い探しレベルでそっくりで、
明らかに違うのは中割りだけみたいなアニメを単純なプロンプトでポン出しされるのは、流石に気の毒では?感
『嫌ならオプトアウトしろ、訴えろ』は、さすがに無法者が過ぎるので、
日本政府も制作会社もIPホルダーも『自分の縦割りのことしか考えない』はやめて、大連合して黒船に立ち向かって欲しいところですわね
そして黒船に立ち向かって欲しいって書いたところで、日立がOpenAI と提携とかいう、ほげぇぇぇぇってなるニュースな?
データセンター&電気周りだけなら、ふんふん、日立の強みを活かせる分野だ🧐なんだけど、
どうも生成AI分野やAIエージェント分野でも協業するみたいな書かれ方してんのよね・・・
えっ・・・日立の Lumadaちゃんはどうしたの?MS とOpenAI のソリューションを導入するSI屋(黒船代理店)になることにしたの?みたいな・・・
今こそ日立のやってること紹介にリリース出すタイミングじゃないの?
https://www.hitachi.co.jp/New/cnews/month/2024/08/0828c.html
あと日立は公共事業部持ってて、公共インフラの構築も請け負ってるわけだけど、
えっ・・・日本政府も公共事業請け負ってる大大大企業も国産AIどうした?ってなる
『なんちゃってプライベートクラウド 〜謎の東京DC集中&DR/BCP消滅を添えて〜』とかをかますくらいなら、素直にAWS やAzure 使えやとはなるし、
ゼロトラスト実現しよ?データ主権とかデータドリブンとかいう前にまずデータしっかり置こう?フルスクラッチで約束された失敗をかますくらいなら、
とりあえず、MSソリューションでいいよ(旧Google App/G Suite、現GoogleWorkspaceで通った道)ってなるけどさぁ、
インフラを請け負う大企業こそ、国と連携してデータ主権を守る姿勢を見せないと、国民のデータまで海外勢に握られることになりかねないやで
日本政府も大企業もスイスの国産AIくらいの頑張りは見せて欲しい
2024年7月、EPFL(スイス連邦工科大学ローザンヌ校)、ETHチューリッヒ(チューリッヒ工科大学)、スイス国立スーパーコンピューティングセンター(CSCS)は、大規模言語モデル(LLM)開発に関する共同プロジェクトを発表。
そして今、その成果が現実に:**スイス初の大規模・多言語・オープンなLLM「Apertus」**が公開された。
このモデルは、AIチャットボット、翻訳システム、教育ツールなど、あらゆるアプリケーションの基盤として開発者や組織に活用されることを想定している。
「Apertus(アペルトゥス)」とはラテン語で「開かれた」という意味。
この名前が示す通り、このモデルは以下すべてが完全公開・ドキュメント化済み:
ApertusはApache2.0ライセンスで提供されており:
• 商用利用もOK
•モデルサイズは**8B(80億)と70B(700億)**の2種類(小さい方は個人利用向き)
•ダウンロードはHugging Face経由、もしくはSwisscomプラットフォーム経由で利用可能
Swisscomや他のパートナー経由で、プロジェクトに組み込むこともできる。
「一部だけ公開」な他モデルと異なり、Apertusは“完全オープン”がモットー。
「信頼できる、主権を持った、包摂的なAI開発のリファレンスモデルを提供したい」
このプロジェクトは「研究→産業への技術移転」ではなく、イノベーションとAIスキル強化の起点として位置づけられている。
Thomas Schulthess(CSCS所長)はこう述べている:
「Apertusは新たなAIスキルと応用力を生み出す“触媒”になる」
Apertusは15兆トークン、1,000以上の言語で学習。
データの40%が非英語で構成され、スイスドイツ語やロマンシュ語など、他LLMで無視されがちな言語も多数含まれる。
「Apertusは“公益のためのAI”として設計された数少ないモデルの一つ」
— Imanol Schlag(ETHチューリッヒ上級研究員・プロジェクト技術責任者)
SwisscomはApertusを自社の「スイス主権AIプラットフォーム」でホスト。
Swiss {ai} Weeks では、開発者が実際にモデルを試し、フィードバックを提供する初の実験機会が設けられる。
「Apertusは公共の利益とスイスのデジタル主権のためのモデルです」
—Daniel Dobos(Swisscomリサーチ責任者)
スイス国外のユーザー向けには、PublicAI Inference Utility(PAIU)を通じてApertusが利用可能に。
「これは道路、水道、電気と同じく、“公共インフラとしてのAI”を示す証明だ」
Apertusはトレーニング全工程を再現可能な形で完全公開。
そして何より、以下の法的・倫理的ガイドラインを尊重して開発されている:
•著作権法
•パブリックデータのみ使用、機械判読可能な除外リクエストに対応
「Apertusは“パワフルかつオープンな生成AI”の実現可能性を証明した」
— Antoine Bosselut(EPFLNLP研究室長・SwissAI共同責任者)
これは完成形ではなく、始まり。
今後のバージョンでは:
https://actu.epfl.ch/news/apertus-un-modele-de-langage-multilingue-ouvert-et/#
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
香港の民主派は、かつての理想と勇気の象徴として称賛された。しかし、2014年以降の運動、特に2019年の大規模デモの展開を振り返ると、その戦略的・倫理的欠陥が明白であり、結果的に香港社会に深い分断と喪失をもたらした責任は免れない。
第一に、運動の主要な訴求が「民主」「自由」「普選」であったとはいえ、それらを掲げるだけで現実的に何を達成できるのかという計算が甘かった。スローガンは大衆の共感を掴むための強力な道具だが、政治的成果をもたらすためには、法制度や行政の細部にわたる実務的戦略、交渉力、持続的な市民基盤の維持が不可欠である。2019年の抗議は街頭での熱狂を生んだが、同時に組織的な意思決定と長期戦略の欠如を露呈した。区議選での勝利や一時的な国際的関心は得たものの、それを生かして構造的変化を引き出すための冷徹な政治的駆け引きやバックチャンネル交渉が十分であったとは言い難い。
第二に、運動内部の倫理観と表現方法に問題があった。市民の不満の矛先を大陸出身者や観光客など「外的」な存在に向けるような言説や行動は、短期的には連帯を生むことがあっても、長期的には社会の分断を深める。経済や社会制度の問題を外部の「他者」に転嫁することは、根本原因の解決を遠ざけるだけでなく、運動自体の正当性を傷つける。マナーや越境出産、観光客の振る舞いへの怒りは理解できるが、それをヘイトや排斥にまで発展させた一部の言説は、民主的な主張の正当性を弱める愚行である。
第三に、指導部の責任感の欠如が繰り返された。政治運動において真の指導とは、常にストリートの熱狂を冷静に管理し、交渉の場で最大限の利得を引き出すことを意味する。だが、抗議行動はしばしば過激化し、象徴的勝利を追うあまり現実的な妥協点を見逃した。対話の場を軽視し、敵対的な態度を堅持した結果、北京と香港政府は強硬手段で応じる口実を得た。政治は相手との力関係の交渉であり、市場価値や支持率が高まった時にこそ最も効果的に要求を通すチャンスがある。民主派はその「売り時」を逃し、ストリートでの優位を政治的成果に変換できなかった。
第四に、運動が掲げた価値と現実の行動との乖離だ。自由や人権を訴える運動が、同時に排他的な言動や選民意識を育んでは説得力を失う。自由を求める者は、異なる意見や出自を持つ同胞とも共に生きる術を示すべきであり、対話と包摂を拒むことは自らの主張を脆弱にする。民主派の一部に見られたナルシシズムやイデオロギー的硬直性は、運動の幅を狭め、支持層の拡大を阻んだ。
第五に、外部へのアピール戦略の未熟さも目立つ。国際社会の同情は短期的な注目をもたらすが、実効的な支援や圧力に結びつくとは限らない。民主派が国際的な関心を最大限に政策転換へ結びつけるためには、国内の制度的弱点を突き、継続的に外圧を誘導する繊細な外交戦術が必要だ。だが現実は、メッセージが断片化し、海外での同情もやがて疲弊していった。結果として北京は「内政問題」として一方的に行動する余地を得た。
最後に、結果として香港社会が被った損害は甚大である。運動は短期的に香港の公共空間とコミュニティの結束を傷つけ、国内外の投資や信頼にダメージを与えた。長期的には法的な締め付けや経済・教育の変化をもたらし、多くの若者が海外へと道を求める原因ともなった。もし運動の目的が真に香港のより良い将来であったなら、ストリートの正義感を現実政治の中で如何に制度化するかにもっと注力すべきだった。
批判は運動を完全否定するものではない。香港の若者たちが不公正に声を上げたこと、政治参加を求めたことには尊重が必要だ。しかし、尊敬と同情は免罪符ではない。運動のリーダーと支持者は、過去の過ちと戦術的失敗を冷徹に検証すべきだ。感情の高まりを正当化材料にして無計画な行動に走るのではなく、具体的な政策提言、制度改革案、現実的な交渉戦術を整えることが、次に類似の課題に直面したときに初めて意味を持つ。
要するに、香港の民主派は理念だけで道を切り開けると誤認した。理想は重要だが、政治は血肉のある力学である。情熱に溺れる者は、しばしば長期的な勝利を失う。香港の将来を真に案じるなら、まず自らを律し、社会全体の信頼を再構築する責務を負うべきである。
「死んだ」サケに様々な写真を見せて”fMRI”測定を行ったところ、死後魚類脳のいくつかの部位で、写真に反応した「神経活動」が統計的に有意に検出されました。これは、死後魚類の驚くべき認知活動を意味するのでしようか?もちろんできません。
これは単に、データ分析における「多重比較補正」を怠った結果現れた、偽陽性であることがわかりました。
結論:fMRIデータの閾値設定時に「適切な多重比較**補正**」を標準的な慣行として利用すべきです。
#
この論文は、「人々を笑わせ、そのあとで考えさせた」功績により、イグノーベル賞を受賞しました。
#
この研究の主要なテーマは、**fMRIデータ分析における多重比較補正の重要性**と、その補正を怠った場合に生じる**偽陽性の危険性**を強調することです [1-3]。
*典型的なfMRIデータは非常に多くのボクセル(約130,000個)を含むため、コントラストごとに数万回の統計テストが行われるのが一般的です [1, 2]。
* この極端な次元性により、**少なくとも1つの偽陽性が出る確率はほぼ確実**になります [1-3]。
* 適切な多重比較補正が行われないと、誤った結果(偽陽性)が報告される可能性が高まります [1, 2, 4]。
* 多くの研究者が未補正の統計量を使用しており、p値の閾値を厳しくしたり(例: p < 0.001)、最小クラスターサイズを設定したりする方法に頼っていますが、これは多重比較問題への不適切な対処法であり、原理に基づかないアプローチだとされています [5, 6]。
* **目的**: この研究は、多重比較補正を無視することの危険性を示すために、**死んだタイセイヨウサケを被験者としてfMRIスキャンを実施**しました [1, 3, 6, 7]。
* **方法**:
サケは、人間が社会的な状況にいる写真のシリーズを提示されるという、**開かれた精神化課題**を与えられました [18]。これらの写真は、社会的に包摂的または排他的な、特定の感情的価数を持っていました [18]。サケは、写真の中の人物がどのような感情を経験しているかを判断するように「求められました」 [18]。これは、後に人間の被験者グループにも実施されたのと同じ**社会的視点取得タスク**でした [2]。
刺激はブロックデザインで提示され、各ブロックは4枚の写真がそれぞれ2.5秒間(合計10秒間)提示され、その後12秒間の休憩が続きました [18]。合計12ブロックの写真提示が完了し、ラン中に48枚の写真が提示されました [18]。タスクの総スキャン時間は5.8分で、140の画像ボリュームが取得されました [18]。画像取得には1.5テスラGEシグナMRスキャナーが使用され、クアドラチャーバードケージヘッドコイルがRF送受信に用いられました [17]。サケの動きを制限するためにヘッドコイル内にフォームパッドが配置されましたが、被験体の動きが非常に少なかったため、ほとんど必要ありませんでした [17]。
* **結果**:
* **未補正の統計量(p < 0.001)では、サケの脳腔と脊柱に活動的なボクセルクラスターが観察されました** [1, 9-11]。そのクラスターサイズは81mm³で、クラスターレベルの有意性はp = 0.001でした [10]。
* **多重比較を補正した統計量(家族全体のエラー率 (FWER) と偽発見率 (FDR))では、緩和された統計的閾値(FDR = 0.25およびFWER = 0.25)であっても、活動的なボクセルは全く存在しないことが示されました** [1,10]。
* **結論**: このデータは、**EPI時系列のランダムなノイズが、多重テストが制御されない場合に誤った結果を生み出す可能性がある**ことを示唆しています [3]。
* **FWER(家族全体のエラー率)**:複数の有意性検定を行った後に、1つ以上の偽陽性を観察する確率を制御します。例えば、FWER = 0.05は、仮説テスト全体で1つ以上の偽陽性が出る可能性が5%であることを意味します [12]。Bonferroni補正が最もよく知られたFWER制御法ですが、fMRIデータには保守的すぎることがあり、真のシグナルを排除してしまう可能性があります [11-14]。fMRIではガウスランダム場理論や順列法が主に用いられます [12]。
* **FDR(偽発見率)**: 検出された結果のうち、偽陽性であると予想される割合を制御します。例えば、FDR = 0.05は、検出された結果の最大5%が偽陽性であると予想されることを意味します [10, 13]。FDRはFWERよりも保守的ではありませんが、統計的検出力と多重比較制御のより良いバランスを提供します [13, 15]。
* これらの補正方法は、主要な神経画像処理ソフトウェアパッケージ(SPM、AFNI、FSLなど)にすべて含まれており、**適用することは難しくありません** [4, 15, 16]。
*論文は、**fMRIデータの閾値設定時に適切な多重比較補正を標準的な慣行として利用すべき**であると主張しています [1, 4]。
*研究者は、統計的検出力の低下を懸念して補正を避ける傾向がありますが、**未補正の統計量を使用し続けるという選択肢はあってはならない**と述べています [4]。
* 多重比較問題は「非独立性エラー」(クラスター内のボクセルが同じ統計的尺度で選択された場合の統計的推定値のインフレ)や、時系列自己相関、低周波ドリフトといった他の統計的問題とは区別されるべきです [17]。
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S1053811909712029
タッカーとハーパーがIOCの現在のガイドラインを批判するのに対し、弁護士のパテル博士は、**新しい枠組みを「画期的なもの」として支持**しています [23]。彼女は、「国際的な統括団体が、性別の多様なアスリートのための出場資格規則の歴史上、性自認や性別の差異にかかわらず、誰もがスポーツに参加できることを確保しようとしたのは初めて」だと評価しています [23]。
パテル博士は、このガイドラインが「アドバンテージの推定なし、アスリートの尊厳と尊重」といった**インクルージョンの原則に焦点を当てていること**を強調します [24]。彼女は、この議論が科学や医学を超えて、**人権に焦点を当てることの必要性**を訴えます。バランスを確保するためには「どちらか一方ではなく」人権が不可欠であり、科学だけが決定的な要因であってはならないと主張します [24]。法律、規制、社会学、アスリート、そして最終的には人権も考慮に入れるべきだと述べています [24]。
2010年平等法(EqualityAct2010)の免除条項(身体的強さ、スタミナ、体格が重要なスポーツ競技で、公平性や安全のためにトランスジェンダーの参加を制限することが合法であるとする条項)について、パテル博士は、それを根拠にトランスジェンダーの排除を主張することは「極めて問題がある」とし、政府は「将来の法改正を検討する必要がある」と示唆しています [24]。
ハーパーは、エミリー・ブリッジズというトランスジェンダーのサイクリストに個人的に会った経験を語ります [25]。彼女は21歳の「世界クラスのアスリート」であり、「自分のスポーツをして、大学に行き、普通の生活を送る自由があるはず」だと述べます [25]。しかし、ブリッジズは今、「世界の重荷を背負い」、世界中で議論され、「ひどいことを言われたり、英雄視されたりしている」と指摘します [25]。彼女はただ自転車に乗り、大学に行き、友達と過ごしたいだけなのに、「打ちのめされている」状況であり、ハーパーにとって「個人的なレベルで、知っている人がこれほどの苦しみを経験するのを見るのは本当に辛い」と語っています [25]。
タッカーは、ブリッジズの状況は、スポーツ界が「自分たちのアスリートの意見を聞いてこなかった」ために陥った混乱の「完璧な例」であると考えています [25]。
彼は、**会話が個人に焦点を当て、「故意に不正行為をしている」「女性のスポーツに勝つため、あるいは更衣室に入るためだけに女性だと主張している」といった発言が出ることに対し、「不快で、時には不愉快」だと感じている**と述べています [26]。彼は、この議論を「非個人的に」、個々の選手に言及することなく進めることができればと願っています [26]。なぜなら、そうした言及は選手にとって不公平であり、彼らは「ルールに従っている」だけであり、「ルールこそが問題」であるからです [26]。
タッカーは、個人の決定の結果から選手を免除するのに十分かどうかは分からないが、この議論を「展示A、展示B、展示C」を必要とせずに進めるべきだと考えています。それは「かなり立ち入ったことで、時には不愉快」だからです [27]。彼は、**「人ではなく政策を議論するよう」強く推奨したい**と述べています [27]。
### 次に何が起こるか?
タッカーは、この問題がこれほど物議を醸しているのは、「誰もが等しく満足する理想的なシナリオ」が存在しないためであると指摘します [27]。
彼は、テストステロンを低下させても公平性を回復することは「不可能である」と断言します [28]。したがって、**「トランス女性の排除による公平性」か、あるいは「トランス女性の包含によるある程度の不公平性の受容」か、いずれかを選択しなければならない**と述べます [28]。スポーツ団体は、この困難な決断を下さなければならないでしょう [28]。
スポーツのリーダーたちは、「トランス女性のインクルージョンを選ぶか、女性カテゴリーを保護し、それゆえ必然的にトランス女性を排除するか」を決めなければならないとタッカーは語ります [28]。彼は「妥協の解決策は見当たらない」とし、これは**選択の問題であり、一部のスポーツはその方向に傾いている**と考えています [28]。
ハーパーは、過去数百年にわたり、**世界が人種的マイノリティやLGBTQの人々など、マイノリティに対するインクルージョンに向かって進んできた**という歴史的な視点を提供します [29]。多くの点で、「人間は異なる点よりも共有する点が多い」ことを理解するようになったと述べています [29]。したがって、人類が持つ「多様性を受け入れること」は価値のあるプロセスであり、今後も続くことを願っていると語ります [29]。
彼女は、多くの人々が実際にトランスジェンダーの人々を知らないため、「トランス女性は女性だと思っている男性」という誤解があるが、それは真実ではないと述べます [29]。トランスジェンダーの人々が持つ性自認は、「私たちの存在の不可欠な部分であり、それを切り離す方法はない」と強調します [29]。**ハーパーは、「私たちは私たちが言うとおりの存在」であり、自身を「他の女性とは異なる生理を持つ女性」と表現し、彼女の居場所は他の女性と共にあるべきだと信じています** [30]。彼女は、包摂的な社会がこれを認識するだろうと述べますが、スポーツに関しては「少し複雑である」と認めています [30]。
ハーパーは、**スポーツにおいてインクルージョン、公平性、安全性の三つすべてを最大限に高めることは、どれか一つに何らかの影響を与えることなくしては不可能である**と示唆します [30]。インクルージョンを最大限に高めれば、公平性と安全性にはいくらかのコストがかかることを認めます [30]。しかし、彼女は、これら三つの重要な要素のいずれも最大限にはならないかもしれないが、**三つすべてを最大限に近づけ、どれもが過度に影響を受けないような解決策を考案できる**と考えています [30]。
2010年平等法は、性別適合を差別からの法的保護が与えられる特性として列挙していますが、スポーツに関しては例外規定があります [31]。この法律の第195条はスポーツを扱っており、**身体的強さ、スタミナ、体格が勝敗を決定する上で重要な要素となる競技会において、公平性を確保するため、または他の競技者の安全を確保するために、トランスジェンダーの参加を制限することは合法である**と規定しています [31]。
ノッティンガム法科大学の法学上級講師であるシーマ・パテル博士は、スポーツにおける差別の研究で博士号を取得しており、競技スポーツにおけるインクルージョンと排除の規制バランスを専門としています [23]。彼女は、トランスジェンダーアスリートと法律という特定のトピックにおいて約20年の専門知識を持ち、**トランスジェンダーの参加に関する議論は科学と医学を超えて検討される必要がある**と主張しています [23]。
パテル博士は、**IOCの新しい枠組みを「画期的なもの」として支持**しており、これまで性別の多様なアスリートの出場資格規則の歴史上、国際的な統括団体が性自認や性別の差異にかかわらず誰もがスポーツに参加できることを確保しようとしたのは初めてのことだと述べています [23]。
彼女は、「アドバンテージの推定なし、アスリートの尊厳と尊重」といった**インクルージョンの原則に焦点を当てることが、これまでになかった指導であり、不可欠である**と強調します [24]。パテル博士は、**「人権への焦点はバランスを確保するために必要であり、どちらか一方であってはならない。科学が決定的な要因であってはならない。最終的には、法、規制、社会学、アスリート、そして人権の問題でもある。なぜなら、これらのアスリートは個人なのだから」**と主張します [24]。
平等法の免除条項について、パテル博士は、それを根拠にトランスジェンダーの排除を主張することは「極めて問題がある」とし、政府は「将来の法改正を検討する必要がある」と示唆しています [24]。
パテル博士の主張に対し、タッカーは、「人々は差別という言葉を聞くと自動的にそれが悪いこと、不必要で望ましくないことだと考えるが、実際には**差別は重要であり、特定の状況では正当化される場合がある**」と述べています [32]。彼は、英国の平等法が「性別が安全上重要である場合、性別に基づいて排除できることを明確にしている」と指摘しています [32]。
この議論は、科学的な事実、社会的なインクルージョン、法的枠組み、そして個々のアスリートの権利と感情が複雑に絡み合った多面的な問題であり、明確な解決策を導き出すことが非常に難しいことが示されています。
トランスジェンダーアスリートのスポーツへの参加に関する議論は、スポーツ界の内外で意見が分かれており、英国元首相ボリス・ジョンソンからもコメントが引き出されるほど注目を集めています [1]。この議論の中心は、インクルージョン、スポーツの公平性、女性スポーツにおける安全性という三つの要素のバランスにあります。具体的には、トランスジェンダー女性が、その生物学的な性別による不公平なアドバンテージを持たずに、あるいは他の競技者への怪我のリスクなしに、女性カテゴリーで競技できるかどうかが問われています [2]。
この複雑な問題について、BBCSportは異なる見解を持つ二人の科学者と一人の弁護士に話を聞いています。スポーツ科学者のロス・タッカーは、思春期に確立される生理学的差異が「男女間に著しいパフォーマンス上の利点」をもたらすと主張しています [2]。一方、スポーツ科学者であり自身もトランスジェンダーであるジョアンナ・ハーパーは、トランスジェンダーアスリートの移行が女性に与える影響を研究しています [3]。さらに、弁護士であるシーマ・パテル博士は、人権などの他の要素も考慮に入れるべきだと訴えています [3]。
###トランスジェンダー女性は女性アスリートに対して不公平なアドバンテージを持つのか?
ハーパーは、**アドバンテージが必ずしも不公平であるとは限らない**と指摘します [4]。彼女は二つの例を挙げてこの点を説明しています。
したがって、問題は「トランス女性がアドバンテージを持っているか」ではなく、「トランス女性と女性が有意義な競争ができるか」であるとハーパーは主張します [5]。そして、その答えはまだ「決定的ではない」と述べています [5]。
彼女はまた、トランス女性は、**大きな骨格が減少した筋肉量や有酸素運動能力で動かされるため、不利な点も持ちうる**と指摘します。しかし、これは単に体格が大きいというアドバンテージほど明確ではありません [6]。競争の結果は非常に僅差で決まることが多いものの、全体的なパフォーマンスには多くの要素が絡んでおり、「誰かが一つの要素でアドバンテージを持っている」というだけで結果が決まるわけではないと強調します [6]。
タッカーは、**男性が思春期に達する約13〜14歳頃から身体に変化が生じ、筋肉量や骨密度の増加、骨格の形状変化、心臓や肺、ヘモグロビンレベルの変化が見られる**と説明します [6]。これらすべてがパフォーマンスに大きく貢献します [6]。
彼は、テストステロンを低下させてもこれらのシステムへの影響は「完全ではない」と述べます [7]。そのため、**テストステロンによって作られた生物学的な差異のほとんどは、テストステロンレベルが低下した後も持続する**と考えています [7]。これは、男性が女性に対して持つスポーツ上のパフォーマンスアドバンテージの「かなりの部分」が残ることを意味します [7]。
タッカーは、**テストステロンが原因となる男性のアドバンテージを排除することが女性カテゴリーの目的である**と主張します [8]。彼は、トランス女性においてそのアドバンテージが持続しない、あるいは存在しないことが示されるまで、トランス女性の参加を許可する根拠はないと断言します [8]。
さらに、彼は**「有意なアドバンテージが維持されている」ことを示す13の研究と、テストステロンレベルが低い男性(前立腺癌患者)の他の研究がある**と指摘し、これらの証拠が総合的にアドバンテージが維持されることを強く示唆していると述べています [8]。彼は、リア・トーマスやエミリー・ブリッジズのようなアスリートの例は、生理学的に何が起こるかという予測の「表れ」であると考えています [9]。
タッカーは、女性スポーツを男性のアドバンテージ(トランス女性を含む)を排除することで規制する政策こそが、証拠に基づいたものであると確信していると述べています [9]。彼は、国際オリンピック委員会(IOC)が当初、「他に証明されるまで」参加を許可したことは間違いであり、アドバンテージが除去できると示されるまでは排除されるべきであったと批判しています [9]。
###トランスジェンダー女性は女性スポーツから排除されるべきか?
タッカーは、女性カテゴリーの目的はテストステロンに起因する男性のアドバンテージを排除することであると繰り返し強調します [8]。そのアドバンテージがトランス女性において持続しないことが示されない限り、参加を許可する根拠はないとして、**排除政策が慎重な出発点であるべき**だと主張します [8]。彼によれば、**アドバンテージが保持されていることを示す強力な証拠が既に存在**しており、リア・トーマスやエミリー・ブリッジズのようなケースはその生理学的な結果の表れであるとしています [8, 9]。彼は、IOCが当初、アドバンテージがないと証明されるまで参加を許可したことは誤りであったと強く批判しています [9]。
ハーパーは、**この分野の科学は「初期段階」にあり、確定的な答えが出るまでにはおそらく20年かかるだろう**と述べています [10]。彼女は、IOCを含む一部の機関が、詳細が判明するまでトランスアスリートを制限すべきではないと主張していることに言及します [10]。
ハーパーは、**現存するデータと知識に基づいて、スポーツの統括団体が最善を尽くし、今後より多くのデータが得られ次第、政策を変更する用意があるべき**だと提案します [10]。彼女は、世界陸連がトランスジェンダー女性が12ヶ月間テストステロンを低下させれば参加を許可するという方針を示した例を挙げ、これは完璧な政策ではないものの、利用可能な科学に基づいて最善を尽くしていると評価しています [10]。このアプローチは、トランス女性に一切制限を設けないという立場や、完全に排除するという立場よりも合理的であると考えています [11]。
###トランスジェンダーアスリートのための独立したカテゴリーは必要か?
ハーパーは、**レクリエーションスポーツでは、男性と女性のカテゴリー以外に、例えば第三のカテゴリーを設けるなど、柔軟で創造的な区分方法を検討すべき**だと提案します [11]。
しかし、彼女は厳密にすべてのトランスアスリートをトランスカテゴリーに入れることの**実際的な問題点**を指摘します [12]。人口の49.5%を占める男性カテゴリー、同じく49.5%を占める女性カテゴリーに対し、トランスカテゴリーは人口のわずか1%しか占めません [12]。これにより、「英国がトランスジェンダーのサッカーチームを編成できるのか?そして他の国が同様のチームを編成できるのか?英国のトランスジェンダーサッカーチームには対戦相手がいるのか?」といった問題が生じ、特にチームスポーツにおいては、「エリートスポーツでは機能しない」ため、事実上不可能であると述べています [12]。
ハーパーは、カテゴリー分けは必ずしもアドバンテージを完全に排除するわけではないが、そのカテゴリー内の誰もが「有意義な競争」を楽しめる程度にアドバンテージを減らすものであると説明します [13]。女性がオリンピックで金メダルを獲得したり、プロスポーツの契約を結んだりするためには、男性がカテゴリー内にいてはならないと述べています [13]。しかし、男性の思春期を経験したトランス女性がそのカテゴリーにいられるかどうかは、「まだ決着がついていない問題」であると認めています [14]。
タッカーは、**将来的にトランスカテゴリーが解決策となる可能性もある**と認め、それはある意味で「非常に前向きな一歩」であると述べています [14]。しかし、彼は**現時点では世界がその準備ができていない**と考えています [14]。
主な問題点として、**アスリートの数が非常に少なく、スポーツ競技やカテゴリーとして存続できるほどの規模を維持できない可能性**を挙げています [14]。
もう一つの問題は、**トランスであることに対するスティグマが依然として多く存在し、スポーツを通じてプラットフォームを強制したり作成したりすることが、そのスティグマの克服に役立つかどうか疑問**であるという点です [15]。むしろ、特定の障壁が生じる可能性もあると指摘します [15]。また、世界にはトランスであることを違法と見なす国もあるため、社会がまだその準備ができていないし、公平でもないだろうと述べています [15]。
それでも、彼は将来のある時点で解決策となる可能性はあるが、現時点では時期尚早であると考えています [15]。
###トランスジェンダー女性は女性スポーツを「乗っ取る」のか?
ハーパーは、**トランス女性が女性スポーツを「乗っ取る」ことは決してない**と断言します [16]。まず、トランスジェンダーの人々は人口の約1%を占めるに過ぎないと指摘します [16]。
彼女は米国大学体育協会(NCAA)のスポーツを例に挙げます。毎年20万人以上の女性がNCAAスポーツで競技しており、トランス女性が人口の0.5〜1%を占めることから、毎年1,000〜2,000人のトランス女性が見られるはずだと計算します [16]。しかし、NCAAが11年前にホルモン療法に基づいたルールでトランス女性の参加を許可して以来、「毎年ほんの一握りしか見かけない」と述べています [16]。したがって、**ルールが施行されて11年経っても、トランス女性はNCAAスポーツを乗っ取っておらず、依然として「大きく過小評価されている」**と結論付けています [17]。
タッカーは、問題は「規模と数」ではなく、**「概念」にある**と主張します [17]。彼は女性たちに「何人までなら受け入れるのか?」と問いかけ、5人、10人、あるいは50人でも受け入れるのかと疑問を呈します [17]。
彼は、ここしばらくの間に少数のトランスジェンダー女性アスリートが存在し、米国では世界的な注目を集めていない他の多くの選手もタイトルを獲得していると述べています [17]。そして、これらの選手たちは**女性スポーツカテゴリー内で女性の「場所を奪っている」**と強調します [18]。そのため、数を問題にすることは非常に危険であると考え、2028年のオリンピックでは、半ダース、あるいは一ダースの選手が見られるようになるかもしれないと予測し、「この問題は拡大するばかり」であると警告しています [18]。
###IOC(国際オリンピック委員会)の政策についてどう考えるか?
国際オリンピック委員会(IOC)は、2021年11月の新しいガイドラインで、**トランスジェンダーアスリートが女性スポーツイベントにおいて自動的に不公平なアドバンテージを持つとは仮定すべきではない**と発表し、個々のスポーツ団体に適切なアプローチを見つけるよう求めています [19]。
タッカーは、**IOCが最初から女性スポーツの健全性を犠牲にしてインクルージョンを追求しようとしていたことが「極めて明確である」**と主張します [19]。彼は、IOCの現在の姿勢は、過去7、8年前よりも多くの知識があるにもかかわらず、「アドバンテージの推定なし」という「異常な声明」を出しており、さらに健全性を損なうものであると批判します [19]。
彼は、以前にも述べたように、より多くの証拠がアドバンテージの保持を示しているにもかかわらず、IOCがテストステロン測定の必要性をなくす方向へ進んだことは、**「科学的健全性の根本的な欠如」**であると厳しく非難します [20]。彼は、ほとんどのオリンピック競技がこの決定を下す能力や証拠を持っていないため、IOCがより強力な枠組みを提供しなかったことは「リーダーシップの失敗」であると見ています [20]。タッカーは、IOCが「科学的に欠落した政策ガイドライン」を採用したため、この問題が拡大し続ける中で各スポーツ団体が自力で解決しなければならなくなったと述べています [21]。
ハーパーは、新しいIOCの枠組みには「十分な実質がない」とし、データが得られるまでいかなる制限も設けるべきではないという考えには同意しないと述べています [21]。彼女は、IOCがインクルージョンを優先したことは価値あることと認めつつも、**世界陸連のような、より積極的な姿勢を示す例を好む**と述べています [21]。世界陸連は、「これが我々がすべきことだと考える」と述べ、すべてのスポーツに適用できるわけではないと理解しながらも、よりリーダーシップを示しているからです [21]。この点で、IOCを批判することは可能であるとハーパーは考えます [21]。
ハーパーは、トランスジェンダー政策を策定することは「極めて困難」であり、どのような政策に対しても批判が生じるのは当然だと述べます [22]。彼女は、IOCが異なる行動をとっていればと願う一方で、トランス女性とシス女性の両方、そしてスポーツ統括団体も「非常に困難な状況」に置かれていることを認め、ある程度の同情も必要であると付け加えています [22]。
タッカーとハーパーがIOCの現在のガイドラインを批判するのに対し、弁護士のパテル博士は、**新しい枠組みを「Permalink |記事への反応(1) | 13:34
憎悪にどっぷり身を浸した汚らわしい人たちが、羽生や藤井の名前を出して男女論をやって
いかに相手陣営を傷つけるかに腐心しているようだった。羽生も藤井もそういう穢れから一番遠い人たちなのに。
ああいうの見てたなら、そりゃ竹部も変なスイッチが入っちゃうよ。
「あたし達女流棋士はただ美しく賢い()だけじゃないのよ。」」と。
「棋士に噛みつく牙だってあるし、いつだって戦闘態勢なのよ」と。
そんで将棋村は自分のような狂犬女も包摂する懐の深い組織なんだと主張したかったのかなあ?
全部憶測です。ごめんなさい。
山崎九段もその場では怒ったろうけど、すぐに「竹部さんだしなー」で許しちゃいそう。
一年休みます、なんて言わないで。せいぜい半年くらい頭を冷やすだけでいいです。
* →評価・主張(事実断定ではない)。「不十分かどうか」は価値判断の領域。
https://anond.hatelabo.jp/20250807221532
◉「AIを使った結果、大事な論点(民主制の正統性)がスルーされた」
とおっしゃるなら、多数決を採用する中で少数者を「価値中立」の立場で掬い上げるのは如何なる手法ですか。代替案をお聞きしたい。
そしてその手法に問題があるという指摘は上記増田に書きました。
民主制の正統性自体は 現在の日本国憲法が採用する原理であり、一意見としてスルーされるのは本当に残念です。
* →一般的規範として妥当(AI活用の国際原則も人権・包摂を重視)。 ([oecd.ai][1], [unesco.org][2], [欧州議会][3])
で、チームみらいは価値中立だからこの考えには乗らないのですか?
◉「AIは価値中立のコピペだと『少数者を取り残さない』は難しい」
* →一般論として妥当(AIは設計に価値前提が必要)。 ([oecd.ai][1], [OECD法令][6])
その価値とは人権尊重ではないのですか?やはりそこは価値中立ですか?
あなたの論調は常に人権尊重から一歩距離を置いているように感じます。(「一般論」「一般的」の多用)
◉「AIに尋ねたら『価値中立で政治にAIは危険、明示的な価値設計が必要』と返答」
* →あなたが引用したAIの回答=意見であり、事実そのものではない。
で、チームみらいはそのような意見には乗らずあくまで価値中立ですか?
◉同一視は飛躍では?
参政党は排外主義的言説が国内外メディアで問題視されており、イデオロギー色が強い右派ポピュリズムとして報じられている。他方、チームみらいの一次資料は透明性・立法の“見える化”・資金のオープン化等のテック・ガバナンス寄り。“似ている”と断ずるなら、具体的にどの政策・言動が重なるのかの提示が必要。
透明性の確保だけでは中身が右派ポピュリズム化することは避けられません。結局多数決なので。
もちろん手続きが透明化されることは右派ポピュリズム化を抑制する働きはあるでしょう。しかし、結局どの価値観に拠るかが(前述の増田でも述べましたが)なければただの多数決です。
また、前述の増田でも述べましたが、そもそも反体制的な意見は投稿しづらいという問題があります。
同党は“しゃべれるマニフェスト”や参加型ツールを人手の審査と組み合わせる前提を謳っている。運用設計次第で、人権指針を埋め込む余地はある。まずは設計の具体(データ公開、監査、異議申立て)で評価すべき。 ([TibSocpjqvxxipszbwui][9])
確かに運用設計次第で人権指針を埋め込む余地はあると思います。そこにはとても期待しています。
ただまずjoinの参加のハードルが下がらないことには話が始まらないです。
そして参加者がそれなりに憲法のリテラシーがある人でないとAIに適切なスクリプトを投げることもできません。
憲法のリテラシーが高い層は主にリベラル側にいるので、政府に対しては批判的です。
なので運用にはその人たちの参加のハードルを下げる必要があると思います。
台湾のvTaiwan等は長年の市民ハッカー文化と制度接続の蓄積が土台。日本で同モデルを実装するには、同等の制度・文化的前提が必要で、単純比較で断じるのは不正確。 ([Democracy Technologies][4])
それはその通り。そもそも大統領制でvTaiwanは諮問機関にすぎない。
joinはチームみらいとの切り離しが困難。前述の増田にも書きました。
◉”人権の明示的フレーム(影響評価・アクセシビリティ・異議申立て・監査)をどこまで制度に埋め込むかは今後の検証点。”
◉まず「不十分だと思う具体箇所」を3つだけ挙げてもらえますか?
そんなわけで
https://anond.hatelabo.jp/20250807221532
色々批判していますが、第二の参政党が生まれてほしくないだけです。
何か誤解されているようですが、エリート臭が気に食わないわけでもありません。
白雪姫の譬え話も何をおっしゃりたいのか全くわかりません。
支持者の批判者に対する苛烈な反応が気になる(個人的なただの印象です)。
お忙しい中レスポンスありがとうございます。是非頑張っていただきたいです。
それ使い方が間違ってるんだよ。で、あなたのAIに対する誤解もそれが原因。
AIってのは「自分の持ってない視点を補う」ということでつかうの。あなたがやってるのは自分の欲しい答えを引き出すために質問してるから違うんだよ。白雪姫の悪役魔女みたいな使い方は違う。
そうやって書いた文章を投稿する前に、以下のようなプロンプトをつけて生成系AIに投げてみ?
以下はこれからはてな匿名ダイアリーに投稿しようとしている文章です。意図としては批判的な立場から、チームみらいについて述べています。
投稿する前に考えを整理したいので、以下の様な観点で分析して教えて下さい。
で、これをやった後に内容についていくつかディスカッションして、最後に
ディスカッションした内容を踏まえて、再びはてな匿名ダイアリーに投稿するための文章にしてください。その時には、はてな記法で記載してください
といってまとめて出させる。
そうしてその結果を貼れ。そうすることが貴方にとっても、誰にとっても有用。
今の貴方は自分で言ったこととファクトが区別ができてないし、AIをまるで白雪姫の鏡のようにつかってる。
「鏡よ鏡よかがみさん、最も美しいも人はだれ?」
「白雪姫です」
「許さんぞ!鏡は間違っている!役立たず!!(パリーン) 白雪姫はクソ!(毒りんご喰わせる)」
こんな使い方したところで自家中毒を起こすだけ。だから白雪姫に出てくる悪役の魔女みたいな感じで堕ちていくだけ。
これを機会に使い方を覚えてみて。AIは鏡として使える。まず自分がどういう姿をしているのかを見る為にAIを使ってみて。
自分の主張がどういう構造をしているのかを分析するためにAIを使う。貴方の主張は事実と意見が区別できないくらい混ざっていて自分でも区別できてないから、まずはそこを整えること。
以下にやってみたのを記載しておくので参考に。モデルはGPT-5 thinking
以下はこれからはてな匿名ダイアリーに投稿しようとしている文章です。意図としては批判的な立場から、チームみらいについて述べています。
投稿する前に考えを整理したいので、以下の様な観点で分析して教えて下さい。
いいね、投稿前に頭の中を一度フラットに整えましょ。以下、事実と意見の分離 →あなたの主張への賛否 →中立まとめの順でいきます。
必要なら、あなたの草稿をこの構成にリライトします。まず「不十分だと思う具体箇所」を3つだけ挙げてもらえますか?(例:参加の代表性、アルゴリズム監査、異議申立ての仕組み など)
少なくとも「民主制の正統性」を一政治理論としてスルーするのはあり得ないんだわ。
オードリータンはAIではなく自分の頭使って人権を勉強した人だと分かる。
だからゼロからの制度設計であれができた氏はすごい人だ。人権への配慮が行き届いている。
少なくともそこには「人権が大事だ」という価値判断が働いている。
価値中立、AIのコピペでは「少数者を取り残さない」は難しいとあなたのまとめからも分かった。
当たり前かもしれないけどAIを使う側の知性や教養が使い方で試されるね。
AIを活用する政治の大切さはよく分かるけど、使う人間の知性、教養に依存するような制度は危険すぎる。
アンサーを返してくれてとても勉強になりました。
今因みにAIに「価値中立の精神でAIを政治に活用することは危険ではありませんか」と質問したところ、
❌政治に不可欠な価値判断・倫理・人権・説明責任を空洞化させる危険があります。
したがって、
•AIを政治に使うのであれば、価値中立ではなく、むしろ「明示的な価値の設計」が必要
• それは例外なく、人権・包摂・民主性・透明性などの規範的な価値を土台にすべきです
との返答が返ってきました。
よく支持者が「なぜリベラル側の人たちがチームみらいを批判するか」と言う声を聞きますが、こういう危険を孕んでいるからです。参政党と変わらないから。
あと「党派性に流されずに」「1議席しかないのに批判すな」という擁護もよく見たけど、それこそ党派性を意識しすぎるのでは?
自分もこの問題がクリアできるのであればチームみらいを応援したいと思っているんだけど、現状の制度設計だと怖すぎる。
「政策は何か」くらいは支持者なら答えられるでしょ。
以下では、提示された文章に含まれる主張を ①公的情報などで裏付けがとれる「ファクト」 と ②筆者の感想・価値判断・推測 に分けて整理しました。
(※「ファクト」に分類したものでも *正誤* ではなく “確認可能な事実を含む” という意味です。逆に「感想等」に入れたものは、裏付けが取れないか価値判断を伴う部分です)
| # | 該当箇所(要約) | 確認根拠 |
|---|---|---|
| 1 | チームみらいは2025年7月参院選で比例区1議席を獲得し、得票率2%超で政党要件を満たした | 朝日新聞・毎日新聞などの選挙結果報道 ([朝日新聞][1], [毎日新聞][2], [TOKYO MX][3]) |
| 2 | 設立は2025年5月、党首はAIエンジニア安野貴博氏 | 同上選挙報道・公式サイトプロフィール ([朝日新聞][1], [TOKYO MX][3]) |
| 3 | 公約(マニフェスト)はGitHubリポジトリや独自サイトで公開し、Pull Requestで修正提案を受け付けている | GitHub `team-mirai/policy`リポジトリ ([GitHub][4], [GitHub][5]) |
| 4 | キャッチフレーズに「だれ一人取り残さない(包摂)」を掲げている | マニフェスト ver.1.0 ([policy.team-mir.ai][6]) |
| 5 | 堀江貴文(ホリエモン)氏がYouTube対談で応援姿勢を示し、ReHacQチャンネルでも幹事長らが出演している | YouTube動画 ([YouTube][7], [YouTube][8]) |
| 6 | 「はてなブックマーク」でチームみらい関連記事が一定数話題になっている(記事ランキング等で確認可能だが「多いか少ないか」は主観) | B!Kuma総合人気記事欄などで計測可(ただし数量評価は要統計) |
| 7 | (GitHub閉鎖疑惑)2024都知事選後に一時的にアーカイブ化→現在は再公開 | 技術チームによる経緯説明note ([note(ノート)][9]) |
---
| # | 主張の骨子 | 性質 |
|---|---|---|
| A | 「はてなーに支持者が多いので、世間は政策で投票していない」 | 個人的推測(母集団調査なし) |
| B | 「石丸との差は“雰囲気”だけ/お気持ち支持」 | 評価・印象論 |
| C | 「ポピュリズムど真ん中の危うい人たちが取り巻き」 | レッテル貼りを含む価値判断 |
| D | 「政策を持たない(議論しない)ことと包摂方針は矛盾」 | 論理的批判だが前提(政策ゼロ)が事実と異なる可能性 |
| E | 「熟議なき多数決は民主政の正統性と矛盾」 | 政治理論に基づく意見 |
| F | 「参政党より危険」 | 相対的評価/危険の基準は示されず |
| G | 「オードリー・タンは人権中心だが、チームみらいには担保がない」 | 懸念表明(保証要件の有無は定義次第) |
| H | 「少議席を隠れ蓑に党勢拡大しようとしていて気持ち悪い」 | 感情的評価 |
| I | 「GitHubを閉じて説明がない=白紙委任」 | 事実誤認の疑い/開閉の経緯説明が公開されている |
| J | 「AI関連以外の法案賛否の決め方が不透明」 | 問題提起だが現時点では検証困難 |
| K | 「批判を『いじめ』と称してスルー=民主主義を舐めている」 | 個別言動の一般化・価値判断 |
---
トランスジェンダー医療からのデトランジション(転換撤回)や後悔を告白する動画がバズったことが、昨今の急激な反トランス風潮の原因となった。
当事者の多くはトランス医療を継続するが、医療費が払えなくなったという経済的理由で断念したり、そもそも「トランス診断が誤診だった」という理由で撤回する場合がある。
以下の属性は誤診によるトランス治療の撤回が多いハイリスク群とされている。
あまり考えてない左派はデトランジション事例自体を知らない傾向にある。そうした知的怠惰さが、「トランスジェンダーなど存在しない」と言い張る、未だに聖書にすべての正解が書かれていると妄信する病的な宗教右派に利用されている。「トランスジェンダーなど存在しない」も「誤診など存在しない」も、両方愚かなのである。トランスジェンダー医療には誤診を防ぐためのASDスクリーニングや精神障害・パーソナリティ障害・被虐待経験のスクリーニングが非常に重要であり、不可逆的措置である外科手術などは18歳以降に行うなどの、不安定な未成年の保護こそ重要である。
女子スポーツでトランス選手が「片っ端から無双」し続けているかというと、水泳のリア・トーマス選手など世界で十数例程度でしかない。毎回大きく報道され、トランス選手の優位性が過大評価されている可能性がある。しかしトランス選手が優位というエビデンスのある種目もあり、治療期間による差もある。そうした個別要素が無視されて「男性が女性枠内で全面的に勝っている」とセンセーショナルに報道されがち。
多くの競技団体が近年テストステロン基準を厳格化(例:World Athleticsは5 nmol/L以下を24か月維持)し、女子カテゴリーでの継続的優位を構造的に得にくい方向へルールが動いている。ルールの改定がないとスポーツの価値にかかわるフェアネスが崩壊するため、競技団体は慎重に対応する必要がある。このテーマに対して、右派は「男性が女性枠内で全面的に勝っている」と元男体の優位性を過大に強調し、左派はスポーツにおけるフェアネスの重要性を軽視した。
シス女性のレズビアンがMtFレズビアンに対し「男性器がついている人をレズビアンである私は恋愛対象にできない」「レズビアンである私にとって顔や体格が男性的で好みでない」と拒否することを、MtFレズビアン側が「トランスフォビアである」「差別だ」と訴え、ずっと平行線を辿っているのがこの問題だ。LGBTのうちLとTで揉めているのである。
トランスの性についての問題は国内でも「すべてはパス度の問題である」と言われるように、容姿が良いMtF(佐藤かよ等)は蔑視されるどころか非常に歓迎されている。あまり容姿が良くないMtFについては男性トイレでも女性トイレでも排除的な目を向けられ、ホルモン治療による情緒不安定などもあって自殺率が高いなど深刻な問題がある。ただ、そもそもの話、容姿が良くない人間がマッチングにおいて排除されるのは「性的多数派」であっても同じである。「シスレズビアン限定パーティー」と「30歳以下女性と年収800万円以上男性限定の婚活パーティー」、何が違うのだろうか?そのため「マジョリティもセックス市場では苦しみを味わうものなのに、マイノリティだからと下駄を履こうとするな」という憎悪をもって語られやすいテーマである。
追記:ブコメで「こいつはTERFだ」と「こいつはTERFじゃなくミソジニストだ」と書かれてて笑った。それで、書き手がどういう差別主義者なのかを認定したら、何が解決すんの。そういう、差別者と認定するだけのお仕事を10年繰り返したから負けたんじゃないのか。その手法、「そうです私は差別者です」と返されたらお終いなんだよ。キリがない新差別の定義付けと差別者認定を繰り返し、その手法をまだ重ねようとしているから今後も負けるんだよ。参政党批判のアプローチもバカ丸出しだったな(参政党のことは当然批判的に見ている。左派は参政党支持者に対して馬鹿の一つ覚えのように「レイシストだ」と認定だけやり続けたのがとにかく馬鹿だと、認定以外なにもできない、プレゼン下手の、無能の、怠惰な馬鹿だから必ずまた負けるのだと言っている)。衆院選でも左派は負けるよ。
Permalink |記事への反応(17) | 19:23
「様々な工作活動を行って来た」北村晴男氏 《石破首相は工作員》投稿に批判殺到…本誌に答えた“根拠”
https://jisin.jp/domestic/2496218/
中国やらロシアやら領土拡大している状況で、頭お花畑なのは無理ありすぎやろ。なんでそんな必死すぎなん?
https://anond.hatelabo.jp/20250727144129
劉仲敬は理系思考(可否の証明・反証)を重視し、問題解決できないなら“問いの立て方”自体が誤っている可能性を指摘。
近代中国史は「日本はできたが中国はできなかった」「帝国主義やソ連のせいだ」といった恨み節に終始。各論は有効でも、全体像を説明できない点で枠組み自体を見直す必要がある。
英仏などの「地方性国家」は、一度ローマや神聖ローマ帝国を脱してから成立した。
中華帝国(大清/中華人民共和国)は「多民族・多文化の大帝国」で、帝国体制下で民主憲政は成立しない。
日本→明治維新で「東アジアのイングランド」として帝国体制を離脱
台湾・香港→中華民国という限定的枠組みの下で事実上の自治・民主化を経験
3. 「諸夏/諸亞」モデル
諸夏(Zhuxia)
周代以降、文化的に儒家文明を共有する諸侯国群を指す古典用語。「中華」「華夏」の原義に近い。
諸亞(Zhuya)=内亞(InnerAsia)
草原地帯(ウクライナ~満洲/モンゴル~新疆~中東)の遊牧文化圏。騎馬・商隊による技術・情報交流が活発。
春秋戦国期の分裂状況をモデルに、現代の東アジアも「諸夏の群雄割拠+諸亞の衝突」で捉え直し、宋明以降の大一統体制が「競争」を奪い、技術・市民社会発展を阻害したと論じる。
東西の大多民族帝国(大清/神聖ローマ帝国/オスマン帝国)を例に──
→成功例は「小民族主義」:帝国解体後に小さな民族国家が民主化を先行して実現。
5.台湾・香港──「植民地→文化民族主義→政治民族主義」の連鎖
「華独」(中華民国枠のまま台湾のみ統治)と「台独」(台湾共和國)を使い分けるが、後者は欧州型民族発明の典型。
冷戦下のサンフランシスコ条約体系(1952年「臺北条約」)を“盾”に、事実上の安全保障を獲得。法理的に「中華民国在台」を温存する方が有利。
粤語という文化的共通性が古くからあり、文化民族主義は既成事実。
返還交渉での「一国両制」失敗と梁振英政権の裏切り感から政治民族主義(港独)が急浮上。
「退出六四集会」など符号化された分断動員によって、反中・本土派が選挙で勢力を拡大。
公民民族主義(市民社会成熟度が基盤)は論理的には最も合理的だが、選挙や運動動員の「シンボル」としては文化言語的な分かりやすさに劣る。
香港・台湾でも「粤語」や「中華民国枠」といったシンプルな記号 πολιtics が大衆動員を左右。
劉仲敬自身も「思想が歴史を変えるのではなく、歴史の潮流が思想を求める」ことを強調。
東アジアの大一統体制から分権競争へ──「諸夏」モデルが東アジアに適用される時代が来る、という予見。
まとめ:
近代中国の「大一統・大中華」史観は、帝国─民主・民族─国家の歴史的段階論を見落としている。
民主憲政は「小さな、競争する民族国家」でしか成立せず、東アジアの再民主化は「春秋戦国的分権と競争」の再現から始まる──この視座が本インタビューの核心です
劉仲敬(リウ・ジョンジン)の著書《中國窪地:一部內亞主導東亞的簡史》は、漢族中心の「中国史観」を根底から問い直し、「中国」とは本来「窪地(デプレッション、Basin)」であり、その上に覇権を打ち立てたのは内陸アジア(內亞)の諸遊牧帝国だった――という挑戦的な視座から書かれた歴史解釈書です。
この書は、彼の「文明圏多元論」「諸夏主義」「脱中華」思想の根幹をなす理論的著作のひとつです。
書名の意味:
「中國窪地」とは、地政学的に見た「中国の盆地=中原」のことであり、東は山東半島と海、北は長城・蒙古高原、西は黄土高原、南は山岳地帯に囲まれた“低地”です。この地理的な「くぼみ(窪地)」が、周辺からやってくる外来の征服者(モンゴル、女真、満洲、契丹など)にとって統治しやすい空間だったという発想です。
基本構図:
従来の中国史は「漢族が外敵から文明を守った」という中華中心史観だが、実際には:
構成(簡略):
地理と文明の相互作用:なぜ中原は「文明の中心」ではなかったのか。
黄河流域は人口密度が高く農耕は発展していたが、防衛的には極めて脆弱で、常に外部勢力の侵入を受けやすかった。
「文明の重心」は周辺(北西のオルドス草原、モンゴル高原、満洲、チベット高原)にあったとする。
特に乾燥気候の遊牧民は、動員・軍事組織力に優れ、常に中原の静態的農耕社会を凌駕していた。
契丹(遼)
女真(金)
蒙古(元)
満洲(清)
これらの王朝は、内亞の軍事・遊牧構造を基盤に「中國窪地」を包摂し、自らの征服構造を正当化するために「中華文明」の装飾を用いただけ。
「中華」は本質的に「支配の飾り」や「便利なツール」に過ぎず、征服王朝の文化的正統性を演出するための道具だった。
清朝は史上最大の版図を築いたが、それは「大中華」ではなく、「大内亞帝国」として理解されるべき。
辛亥革命以後、漢民族ナショナリズムが清朝の多民族的帝国遺産を奪い、「中華民国」という名前で引き継いだが、実態としては「満洲帝国の皮をかぶったナショナルステート」だった。
民国も中共も「満清の版図」を正統と見なし、それを守ることが国家の使命であると信じたが、これは歴史的には極めて不自然。
中原(=窪地)は一貫して政治・軍事的に無力で、常に外来勢力の軍事力に従属していた。
その歴史を「一体的な文明発展史」として語るのは、近代以降に発明された「ナショナル・ヒストリー(国家史)」であり、虚構である。
項目 内容
主張の強さ 「中国」という国家概念が内亞の帝国的秩序によって形作られたという、極めて挑発的な歴史観
思想的貢献 「諸夏主義」「脱中華」「多文明的再編」論の土台を提供
国際的含意チベット・ウイグル・内モンゴル・満洲・雲南などの「非漢族地域」の分離独立を文明的に正当化できるという論理的土台
まとめ:なぜこの書が重要か?
劉仲敬は《中國窪地》を通じて、「中国の国家的正統性は幻想である」「中華文明の中心は常に“外”にあった」と論じ、現代中国のナショナリズムの基盤を根底から覆しています。
「なぜ中国は一つの国であり続けるのか?」という問いを根底から問い直したい人
という設問がもう間違ってんだよ
新たに受け入れるとかじゃない
なんて他責してる人もいるけどさ
簡単に染まっちゃう連中は動画なんて観なくても遅かれ早かれ差別に手を出すだろうさ
だから
俺らの国で排外主義者を囲ってました、すいません、と
外国の人たちにまず謝るべきだ
参政党の神谷代表が「高齢の女性は子供を産めない」という趣旨の発言をして、物議を醸している。これに対して、支持者や一部の人々からは「生物学的な事実を言っただけ」「何が問題なんだ」という擁護の声が上がっているらしい。
本当にそうだろうか。この発言の問題は、内容が「事実」かどうかという点にあるのではない。政治家が、公の場で、わざわざその言葉を選んで口にしたこと、そのものにある。
そもそも、少子化対策を真剣に語るのであれば、その本質は「これから子供を産み育てる世代が、安心して暮らせる社会を作ること」にあるはずだ。「若者が経済的に安定し、子育てに時間と費用をかけられる環境を整えよう」「若い女性がキャリアを諦めることなく、産み、育てられる社会にしよう」。話はこれで十分なはずだ。
ここに、なぜわざわざ「高齢の女性は産めないから」という言葉を付け加える必要があったのだろうか。言うまでもなく、高齢になれば妊娠・出産が難しくなることは、多くの人が知っている。それを改めて政治家が口にすることで、何か新しい政策的知見が生まれるわけでもない。
この一言が付け加えられることで、話の構造は「若者を支援しよう」というポジティブなものから、「高齢女性はもう役に立たないから、若者に投資すべきだ」という、誰かを切り捨てるネガティブなものに変質してしまう。ここに、この発言の持つ悪質さがある。特定の属性の人々を名指しし、「できない」とラベリングすることで、社会における価値の序列化を行っているのだ。
「事実を言っただけ」という反論がいかに空虚であるかは、少し考えればわかる。例えば、ある特定の属性の人々に対して「あなたたちは平均的に収入が低い」と公の場で言い放つ政治家がいたら、どうだろうか。たとえ統計上の「事実」だったとしても、それは明確な差別発言として非難されるだろう。なぜなら、その言葉は特定の集団に対する偏見を助長し、社会的な尊厳を傷つけるからだ。
今回の発言も全く同じ構造だ。女性を「子供を産むか産まないか」という機能だけで評価し、さらに年齢で区切って「産める/産めない」と断じる。これは、子供を望んでも授かれない人、産まない選択をした人、そしてもちろん、加齢によって出産が難しくなった女性、全ての人の心を踏みにじる行為に他ならない。
そして何より、この発言は社会に深刻な「分断」を生む。「若者」と「高齢者」、「産める女性」と「産めない女性」。本来、手を取り合って社会を構成すべき人々を対立させ、無用な亀裂を作り出す。参政党が掲げる「国民の団結」とは、一体何なのだろうか。自分たちの思想に合わない属性の人々を排除し、残った人々だけで「団結」しようというのであれば、それは極めて危険な思想だ。
参政党やその支持者は、こうした批判を「言葉狩りだ」「揚げ足取りだ」と切り捨てるかもしれない。しかし、政治家の言葉は重い。その一言が、誰かを勇気づけることもあれば、誰かの心を深く傷つけ、社会から疎外することもある。
少子化という国難に立ち向かうために必要なのは、「高齢の女性は産めない」といった、誰かを切り捨てる無神経な言葉ではない。世代や性別、個々の事情に関わらず、全ての人が尊重され、安心して自分の人生を歩んでいける社会を作るという、包摂的なビジョンを示す言葉であるはずだ。
わざわざ言わなくていいことを、わざわざ言って誰かを傷つける。その先に、明るい社会など決して訪れない。