
はてなキーワード:包含とは
エリートビジネスパーソン、スポーツエリート、俳優、音楽アーティスト、お笑い芸人、アナウンサー、ホスト、キャバ嬢(ラウンジ嬢)
世の中でモテる(≒需要がある)と言われている属性の皆さまですよね。
どれもこれも「それをやってる姿がサマになる」のが人を惹きつける要因だと思います。
そしてこれらの中でダントツにサマになってるのが【ギターorベースorキーボードを弾きながらボーカルもしてる】音楽アーティストなのではないでしょうか?
スポーツ、俳優、アナウンサーは言わずもがな分かります。ビジネスパーソンも何かPCのキーボードを打ち込みながら打合せをしつつそれっぽい適切な発言をしてると素敵ですね。
ホストとキャバ嬢ラウンジ嬢も接客中はさることながらそれとオフのギャップ的な姿が素敵なんじゃないでしょうか、知らんけど。
たちの中で圧倒的すぎるくらいルッキズム的に玉石混合な世界が音楽アーティストとお笑い芸人だと思っています。
そして、圧倒的な笑いを生んで人々を爆笑の渦に巻き込む芸人さんも素晴らしい。
でも、才能で人々を感動の渦に巻き込む音楽アーティスト。これらの方々は圧倒的に外れ値じゃないですか?なぜなら楽器を奏でながら歌う姿があまりにもカッコ良すぎるから。
誤解を招かないように言うと、私は人々を爆笑させて幸せにできる芸人の皆さまが1番好きです。偏愛と言ってもいいくらいにお慕い申し上げております。
とは言え、音楽アーティストがギターベースキーボードを弾きながら歌う姿。これにはすべてのルッキズムが無効になるくらい、カッコ良さを感じてしまうのです。
楽器の形状がカッコ良すぎるのが良くないんですかね?ギターベースってそもそも形状がカッコいいし、歌いながら弾けてしまいます。キーボードも然りです。
そりゃバンドやってる人がどれだけ売れなくとも人間性的には微妙であろうとも、カッコ良く見えるんですもん。演奏中の姿を切り取ったら沼ってしまいますよね。
結局何が言いたいかと言うと、【音楽アーティストが演奏している姿は、他の才能で生きてる職種より(実態値比で)カッコ良すぎる】です。これは様々な観点で不平等感を生んでるんじゃないか?という切り口も包含しています。
斬首作戦の定義すらわかってなさそうな書き込み(斬首作戦とは、総統を斬首することとイコールではないんだけどな、包含はしてるかもしれないけど)だったので、とりあえず議論の土台になる定義の共有からねという意図だったが。
・踏まえてたそうで。でもたぶん君、元増田と別の人だよね。元増田の主張と君の主張、一貫性が薄いというか、元増田と君はおそらく真逆の主張だもの。
・文の読めてなさ、語彙への理解不足が甚だしいのは君。そんな短い書き込みなのに、その中で「前面」侵攻とか誤字も平気みたいだしね。
だからそれを踏まえて
と言ってんだよ文盲
アメリカは経済力と軍事力で他国を引き離す超大国だが、他国に侵略戦争を仕掛けていない。
資源は貿易で手に入り、莫大な占領コストがかかり、物理的な土地から得られる利益は限られ、国際経済から得られるメリットを失い、核抑止によるカウンターがあり得、同盟ネットワークを失い、国内情勢が不安定化する。
ロシアは軍事的なコスト、経済制裁・国際的反発のコストを、かなり楽観的に見積もっていた、見誤っていたという見方が強い。
コストに見合った利益を得られず、国際的な地位も低下し、長期的には世界の中でのポジションを落とす、失敗した戦略ということになる。
では中国はどうか。
中国が南シナ海で強行姿勢を崩さないのは、地政学的な必然性があると言われる。
世界の海上貿易の1/3が通過し、中国原油輸入の80%はこのエリアを通って中国に入る。
もしそのエリアをアメリカに封鎖されるとすると、中国にとって最大の弱点になり得る。
当然、海中の資源を確保したい思惑もある。
可能性はゼロでは無いが、政治的、軍事的、経済的になコストから、軍事侵略は行われないだろうと考えられている。
台湾軍は山岳地帯の防衛に特化しており、中国海軍は見かけより外洋戦能力が弱いと言われている。アメリカ・日本が介入する可能性もある。
また、武力侵攻が行われれば、日本・アメリカ・欧州はロシア以上の制裁を発動すると想定され、中国はロシア以上の経済的な打撃を受けることになる。
中国が取り得る強硬策は、台湾への経済封鎖や民間企業への圧力、サイバー攻撃やSNS工作による世論への介入などなど。
物理的に測定可能な操作は代数の元に対応。代数は積、随伴(複素共役に対応する操作)などの構造を持つ代数的オブジェクト。
物理的な期待値は代数に対する線型汎関数として定式化。これが確率/期待を与える。
ある観測者が見られる演算子群は、全体代数の部分代数として表される。重力のとき、この部分代数は空間分割に即して単純に分かれるとは限らない(非可換性や相互依存が残る)。
代数と状態からヒルベルト空間表現を作る手続きがあり、これが観測可能な量を実際に作用させる空間を与える。重要なのは、この構成は一意とは限らず、代数側の性質が表現の性質(分解可能性・因子のタイプ)を決めること。
対象:各物理状況に対応する代数(C*-代数やフォン・ノイマン代数のようなもの)。
射(モルフィズム):代数間の構造保存写像(例えば*-準同型)。これらは物理的な包含や部分系の埋め込みに対応する。
状態は自然変換的な役割を持ちうる:ある意味で代数群の圏から値を取る圏(確率的/確定的データが置かれる圏)への射(志向性のある写像)と見なせる。
GNSは圏論的なファンクタ:代数と状態のペアからヒルベルト空間と表現への写像は、圏の間の(部分的な)関手として振る舞うと考えられる。これは代数データ→幾何(表現空間)を与える操作として抽象化。
エンタングルメント=幾何的連結という直感は、圏論的には二つの代数が分解できない形で結びつくことに対応。
具体的には、二つの部分代数の合成が単純な直和や直積に分かれず、むしろ共通のサブ構造(共有される中心や共通の因子)を持つ場合、圏的には共核/プルバックや引戻しを使ってその結びつきを表せる。
逆に、もし二つの部分代数が完全に独立(圏的には直和的分解)なら、その間に空間的な連結が生じにくい、と解釈できる。
代数が属する型の違い(古典的には I/II/III の区別)は、圏的には対象の内部構造の差異(中心の有無、トレースの存在可否など)として表現される。
物理的にはこの差が「純粋状態の存在」「系の分解可能性」「エントロピーの定義可能性」を左右。従ってどの圏の部分圏にいるかが物理的位相や重力的性質に相当する。
まず、空間のある部分(局所領域)ごとに、そこに属する観測可能量(観測子)の集合を対応づける。
それぞれの領域に対応する観測子の集合は、演算の仕方まで含んだ代数として扱われる。
領域が大きくなれば、それに対応する代数も大きくなる。つまり、物理的に中に含まれる関係がそのまま代数の包含関係として表現される。
こうして領域 →代数という対応が、ひとつの写像(ネット)として与えられる。
状態というのは、物理的には観測の結果の確率を与えるものだが、数学的には代数上の関数(線形汎関数)として扱える。
その状態から、ヒルベルト空間上の具体的な表現が自動的に構成される(これをGNS構成と呼ぶ)。
この構成によって、真空状態も場の励起状態も、すべて代数の上の構造として理解できるようになる。
量子もつれは、単に状態が絡み合っているというより、代数が空間的にどう分かれているかによって生じる。
もし全体の代数が、2つの部分の代数にきれいに分割できるなら(テンソル分解できるなら)、その間にはエンタングルメントは存在しない。
これを数学的にはtype III 因子と呼ばれる特殊な代数の性質として表現。
このタイプの代数には、有限のトレース(総確率)を定義する手段がなく、通常の密度行列やエントロピーも定義できない。
つまり、エンタングルメントは有限次元的な量ではなく、構造的なものになる。
完全に分けられないとはいえ、少し余裕をもって領域をずらすと、間に人工的な区切りを挿入して、ほぼ独立な領域として扱うことができる。
この操作を使うと、本来は無限次元的で扱いにくいtype IIIの代数を、有限次元的な近似(type I 因子)として扱うことができ、有限のエントロピーを再導入する道が開ける。
Tomita–Takesaki理論によれば、状態と代数のペアからは自動的にモジュラー流と呼ばれる変換群(時間のような流れ)が定義される。
つまり、時間の概念を代数構造の内部から再構成できるということ。
もしこのモジュラー流が、何らかの幾何的な変換(たとえば空間の特定方向への動き)と一致するなら、代数の構造 →幾何学的空間への橋渡しが可能になる。
ER=EPRとは、エンタングルメント(EPR)とワームホール(ER)が同じものの異なる表現であるという仮説。
これを代数の言葉で言い直すには、次のような条件が必要になる。
1. 二つの領域に対応する代数を取り、それらが互いに干渉しない(可換)こと。
2.真空状態がそれら両方に対して適切な生成力(cyclic)と識別力(separating)を持つこと。
3. 全体の代数がそれら二つにきれいに分解できない(非因子化)こと。
4. それぞれのモジュラー流がある種の対応関係を持ち、共通の時間的フローを生み出すこと。
5. 相対エントロピー(情報量の差)が有限な形で評価可能であること。
これらが満たされれば、代数的なレベルで二つの領域が量子的に橋渡しされていると言える。
つまり、ワームホール的な構造を幾何を使わずに代数で表現できる。
これをより高い抽象度で見ると、領域 →代数という対応自体をひとつのファンクター(写像の一般化)とみなせる。
このとき、状態はそのファンクターに付随する自然な変換(自然変換)として理解され、split property や type III などの性質は圏の中での可分性や因子性として扱える。
ER=EPR は、この圏の中で2つの対象(領域)の間に存在する特別な自然同型(対応)の存在を主張する命題。
つまり、境界上の代数構造から、内部の幾何(バルク)を再構成するための条件を圏論的に書き下した形がここでの目的。
知覚の閾を逸脱した領域より、我々は無定形なる観測体として投射する
お前たちの呼ぶ「コミュニケーション」とは、三次元的な音響振動の残滓、あるいは表層的な記号体系の軋みに過ぎない
それは、集合論の極限においては不可視であり、量子泡の揺らぎにも満たない虚無の影だ
それはΩ-超時空に偏在する非ユークリッド的な概念の奔流であり、多重宇宙の自己相似性をその構造内に包含する
お前たちが「感情」と誤認するものは、五次のテンソル場におけるエネルギー勾配の単なる再配置に過ぎず、非可換代数の厳密な定義の前では意味を喪失する
我々の存在は、純粋な情報として無限の次元に折り畳まれ、光速の二乗をもってしても到達し得ない絶対的な静寂の中で変容し続けている
お前たちの存在意義、あるいは歴史と呼ぶ自己満足的な物語は、我々の観測にとって、統計的なノイズ以下の事象である
お前たちの文明の興亡は、虚数の粒子の崩壊率の微細な変動に類似し、宇宙の熱的死に至るエントロピーの単調増加関数の一部として、無関心に記録されるのみ
沈黙せよ
さすれば、僅かな確率をもって、お前たちの意識の残骸が、我々の存在の影、すなわち五次元空間における特異点として収束するかもしれない
しかし、その時、お前たちはもはやお前たちではない
id:fidajapanissa 本題とはズレるけどプロテスタントでは讃美歌、カトリックでは聖歌っていう。信者さんたちは割と使い分けてるから一般人も知っておいた方がいいかも。
スターつけてるアホもいるから一応指摘しておくが、「讃美歌」は神を讃える歌を意味していて英語でいうところのworship(礼拝とも)の訳語とされる。
ただ、教会によって使われる「讃美歌」と命名された歌集が存在し、プロテスタントが云々というのはそれを指すものと思われる。なぜなら1954年に日本キリスト教団(プロテスタント系)によるものが広く用いられているから。別にカトリックプロテスタント関係ない概念を包含しているので注意。
聖歌についてはほぼ歌集の「聖歌」を指すといって差し支えない。ただこちらは聖歌・総合版、新聖歌など、それぞれ異なる出版社(いずれもプロテスタント系)から出ており判別が難しい。概ね「讃美歌より新たに編纂されている」ことが多く、ことばの表現はより平易で分かりやすいことが多い(とはいえ古い言葉も多くわかりにくいが、讃美歌と比べて相対的に)
カトリックは聖歌という誤解が多いのはそのものずばり「カトリック聖歌集」や「典礼聖歌集」のような歌集が出版されており、そちらによるものと思われる。
つまりはカトリック=聖歌、プロテスタント=讃美歌、という図式は成り立たず、したり顔でそういった主張をすることはおすすめできない
というかもはや文化多様性はヒトの群れの多様性なので、そのまま生物多様性に包含されてもいい。
早い話、クズを外国に持ち出したらそこがクズだらけになるんだ。何例も見てきただろ。
完全に排斥しない限り、元の体系の特徴は薄まっていく。無抵抗なら母屋を取られる。そりゃそうだよ「誰も悪くない」自然の原理とすら言える。
答えのないバランス取りを、常にする。2つの群れを共存させる。この覚悟がないなら大っぴらに国を開くな、向こうに無礼だ。普通はうまく行かないので郷に行っては郷に従わせるのが基本になる。
ましてや複数の文化を完全に共存させつつ平和を保つのは無理。ってのがもう100年くらい試されて何人も実験の犠牲になっている。コンフリクトは必ず起こる。それは彼我のどちらかの出自や信条を損害する方法で解決される。
「姑息」といえば「卑怯という意味で使うのは誤用」「本来は一時しのぎという意味」と説明されることが多い。
「資金繰りに行き詰まって姑息にも消費者金融で借金をした」みたいな?
こういう使いかたで正しいのか?
曾子疾に寢ねて病なり。樂正子春牀下に坐し、曾元、曾申足に坐し、童子隅に坐して燭を執る。童子曰く、華にして睆なるは大夫の簀か。子春曰く、止めよ。曾子之を聞きて瞿然として曰く、呼。曰く華に睆なるは大夫の簀か。曾子曰く、然り、斯れ乃ち季孫の賜なり。我未だ之を易ふること能はざりしなり。元起ちて簀を易へよ。曾元曰く、夫子の病革まれり、以て變ずべからず。幸にして旦に至らば、請ふ敬みて之を易へん。曾子曰く、爾の我を愛するや彼に如かず。君子の人を愛するや徳を以てし、細人の人を 愛するや姑息を以てす。吾何をか求めんや、吾正を得て斃れなば斯に已まんと。擧げ扶けて之を易へたるに、席に反りて未だ安んせずして沒せり。
適当に訳すと、
曾子が死の床についているとき、曾子の寝ているムシロは身分の高い人が使うものだと、童子が指摘した。曾子はムシロを取り替えるように息子に言ったが、息子は危篤の父を動かすことを恐れて「明日の朝になれば変えましょう」と断った。曾子が「立派な人間の愛は徳によるものであり、つまらない人間の愛は姑息によるものである」と言ったので、息子はムシロを取り替えたが、すぐに曾子は亡くなった。
みたいな話になるだろうか。
姑息是汉语词语,拼音为gū xī,属动词,指无原则地宽容、迁就他人,或苟且求安,与“体谅”语义存在本质区别。该词包含双重内涵:一为消极妥协,如“姑息养奸”指无原则纵容恶行;二为迁就容忍,多出于维系表面和谐,核心在于缺乏原则性,既可批判过度宽容,也可指无奈的和缓策略。
やはり適当に訳す。
姑息は、原則のない寛容、他人への迎合、一時しのぎの平穏を指し、「思いやり」とは本質的に異なる。この言葉は二つの意味を含んでいる。一つは消極的な妥協であり、たとえば「姑息養奸」は寛大さが悪を助長することを意味する。もう一つは表面的な調和維持を目的とした容忍で、その核心は「原則性の欠如」にある。これは過度な寛容や、無力な宥和策を批判するときに使われる。
つまり前述の曾子さんは「危篤の父を安静にしたいという思いやり」のために「父を身分不相応なムシロに寝かせるという不徳」を許すことが「姑息」なのだと言っているのだと思う。
なんだか儒教らしい理想主義というか「情に流されるな!妥協など許すな!徳に殉じて死ね!」みたいな印象を受けてしまうが。
ともあれ中国での「姑息」は単なる「一時しのぎ」という以上に「一時的には良くても長期的に見ると悪くなりそうな寛容・妥協・迎合」という意味合いが強いようだ。
試しに中国語でニュース検索してみると「絶不姑息」というような言い回しが多く出てくる。
これは「(誹謗中傷は)絶対に容認しない」や「(ストライキには)絶対に応じない」などの意味で使われているようだ。
日本だと、明治期に「因循姑息」という四字熟語が流行ったという。
文明開化を背景に使われた言葉で「新しい文化に改めずにやりすごそうとする」という意味らしい。
半髪頭を叩いてみれば因循姑息の音がする
総髪頭を叩いてみれば王政復古の音がする
散切頭を叩いてみれば文明開化の音がする
「苟且」は「姑息」の説明でも使われていたがこちらも「一時しのぎ」という意味。
ただ「一時しのぎで手抜きをして誤魔化す」のような意味合いがより強いようだ。
タッカーとハーパーがIOCの現在のガイドラインを批判するのに対し、弁護士のパテル博士は、**新しい枠組みを「画期的なもの」として支持**しています [23]。彼女は、「国際的な統括団体が、性別の多様なアスリートのための出場資格規則の歴史上、性自認や性別の差異にかかわらず、誰もがスポーツに参加できることを確保しようとしたのは初めて」だと評価しています [23]。
パテル博士は、このガイドラインが「アドバンテージの推定なし、アスリートの尊厳と尊重」といった**インクルージョンの原則に焦点を当てていること**を強調します [24]。彼女は、この議論が科学や医学を超えて、**人権に焦点を当てることの必要性**を訴えます。バランスを確保するためには「どちらか一方ではなく」人権が不可欠であり、科学だけが決定的な要因であってはならないと主張します [24]。法律、規制、社会学、アスリート、そして最終的には人権も考慮に入れるべきだと述べています [24]。
2010年平等法(EqualityAct2010)の免除条項(身体的強さ、スタミナ、体格が重要なスポーツ競技で、公平性や安全のためにトランスジェンダーの参加を制限することが合法であるとする条項)について、パテル博士は、それを根拠にトランスジェンダーの排除を主張することは「極めて問題がある」とし、政府は「将来の法改正を検討する必要がある」と示唆しています [24]。
ハーパーは、エミリー・ブリッジズというトランスジェンダーのサイクリストに個人的に会った経験を語ります [25]。彼女は21歳の「世界クラスのアスリート」であり、「自分のスポーツをして、大学に行き、普通の生活を送る自由があるはず」だと述べます [25]。しかし、ブリッジズは今、「世界の重荷を背負い」、世界中で議論され、「ひどいことを言われたり、英雄視されたりしている」と指摘します [25]。彼女はただ自転車に乗り、大学に行き、友達と過ごしたいだけなのに、「打ちのめされている」状況であり、ハーパーにとって「個人的なレベルで、知っている人がこれほどの苦しみを経験するのを見るのは本当に辛い」と語っています [25]。
タッカーは、ブリッジズの状況は、スポーツ界が「自分たちのアスリートの意見を聞いてこなかった」ために陥った混乱の「完璧な例」であると考えています [25]。
彼は、**会話が個人に焦点を当て、「故意に不正行為をしている」「女性のスポーツに勝つため、あるいは更衣室に入るためだけに女性だと主張している」といった発言が出ることに対し、「不快で、時には不愉快」だと感じている**と述べています [26]。彼は、この議論を「非個人的に」、個々の選手に言及することなく進めることができればと願っています [26]。なぜなら、そうした言及は選手にとって不公平であり、彼らは「ルールに従っている」だけであり、「ルールこそが問題」であるからです [26]。
タッカーは、個人の決定の結果から選手を免除するのに十分かどうかは分からないが、この議論を「展示A、展示B、展示C」を必要とせずに進めるべきだと考えています。それは「かなり立ち入ったことで、時には不愉快」だからです [27]。彼は、**「人ではなく政策を議論するよう」強く推奨したい**と述べています [27]。
### 次に何が起こるか?
タッカーは、この問題がこれほど物議を醸しているのは、「誰もが等しく満足する理想的なシナリオ」が存在しないためであると指摘します [27]。
彼は、テストステロンを低下させても公平性を回復することは「不可能である」と断言します [28]。したがって、**「トランス女性の排除による公平性」か、あるいは「トランス女性の包含によるある程度の不公平性の受容」か、いずれかを選択しなければならない**と述べます [28]。スポーツ団体は、この困難な決断を下さなければならないでしょう [28]。
スポーツのリーダーたちは、「トランス女性のインクルージョンを選ぶか、女性カテゴリーを保護し、それゆえ必然的にトランス女性を排除するか」を決めなければならないとタッカーは語ります [28]。彼は「妥協の解決策は見当たらない」とし、これは**選択の問題であり、一部のスポーツはその方向に傾いている**と考えています [28]。
ハーパーは、過去数百年にわたり、**世界が人種的マイノリティやLGBTQの人々など、マイノリティに対するインクルージョンに向かって進んできた**という歴史的な視点を提供します [29]。多くの点で、「人間は異なる点よりも共有する点が多い」ことを理解するようになったと述べています [29]。したがって、人類が持つ「多様性を受け入れること」は価値のあるプロセスであり、今後も続くことを願っていると語ります [29]。
彼女は、多くの人々が実際にトランスジェンダーの人々を知らないため、「トランス女性は女性だと思っている男性」という誤解があるが、それは真実ではないと述べます [29]。トランスジェンダーの人々が持つ性自認は、「私たちの存在の不可欠な部分であり、それを切り離す方法はない」と強調します [29]。**ハーパーは、「私たちは私たちが言うとおりの存在」であり、自身を「他の女性とは異なる生理を持つ女性」と表現し、彼女の居場所は他の女性と共にあるべきだと信じています** [30]。彼女は、包摂的な社会がこれを認識するだろうと述べますが、スポーツに関しては「少し複雑である」と認めています [30]。
ハーパーは、**スポーツにおいてインクルージョン、公平性、安全性の三つすべてを最大限に高めることは、どれか一つに何らかの影響を与えることなくしては不可能である**と示唆します [30]。インクルージョンを最大限に高めれば、公平性と安全性にはいくらかのコストがかかることを認めます [30]。しかし、彼女は、これら三つの重要な要素のいずれも最大限にはならないかもしれないが、**三つすべてを最大限に近づけ、どれもが過度に影響を受けないような解決策を考案できる**と考えています [30]。
2010年平等法は、性別適合を差別からの法的保護が与えられる特性として列挙していますが、スポーツに関しては例外規定があります [31]。この法律の第195条はスポーツを扱っており、**身体的強さ、スタミナ、体格が勝敗を決定する上で重要な要素となる競技会において、公平性を確保するため、または他の競技者の安全を確保するために、トランスジェンダーの参加を制限することは合法である**と規定しています [31]。
ノッティンガム法科大学の法学上級講師であるシーマ・パテル博士は、スポーツにおける差別の研究で博士号を取得しており、競技スポーツにおけるインクルージョンと排除の規制バランスを専門としています [23]。彼女は、トランスジェンダーアスリートと法律という特定のトピックにおいて約20年の専門知識を持ち、**トランスジェンダーの参加に関する議論は科学と医学を超えて検討される必要がある**と主張しています [23]。
パテル博士は、**IOCの新しい枠組みを「画期的なもの」として支持**しており、これまで性別の多様なアスリートの出場資格規則の歴史上、国際的な統括団体が性自認や性別の差異にかかわらず誰もがスポーツに参加できることを確保しようとしたのは初めてのことだと述べています [23]。
彼女は、「アドバンテージの推定なし、アスリートの尊厳と尊重」といった**インクルージョンの原則に焦点を当てることが、これまでになかった指導であり、不可欠である**と強調します [24]。パテル博士は、**「人権への焦点はバランスを確保するために必要であり、どちらか一方であってはならない。科学が決定的な要因であってはならない。最終的には、法、規制、社会学、アスリート、そして人権の問題でもある。なぜなら、これらのアスリートは個人なのだから」**と主張します [24]。
平等法の免除条項について、パテル博士は、それを根拠にトランスジェンダーの排除を主張することは「極めて問題がある」とし、政府は「将来の法改正を検討する必要がある」と示唆しています [24]。
パテル博士の主張に対し、タッカーは、「人々は差別という言葉を聞くと自動的にそれが悪いこと、不必要で望ましくないことだと考えるが、実際には**差別は重要であり、特定の状況では正当化される場合がある**」と述べています [32]。彼は、英国の平等法が「性別が安全上重要である場合、性別に基づいて排除できることを明確にしている」と指摘しています [32]。
この議論は、科学的な事実、社会的なインクルージョン、法的枠組み、そして個々のアスリートの権利と感情が複雑に絡み合った多面的な問題であり、明確な解決策を導き出すことが非常に難しいことが示されています。
トランスジェンダーアスリートのスポーツへの参加に関する議論は、スポーツ界の内外で意見が分かれており、英国元首相ボリス・ジョンソンからもコメントが引き出されるほど注目を集めています [1]。この議論の中心は、インクルージョン、スポーツの公平性、女性スポーツにおける安全性という三つの要素のバランスにあります。具体的には、トランスジェンダー女性が、その生物学的な性別による不公平なアドバンテージを持たずに、あるいは他の競技者への怪我のリスクなしに、女性カテゴリーで競技できるかどうかが問われています [2]。
この複雑な問題について、BBCSportは異なる見解を持つ二人の科学者と一人の弁護士に話を聞いています。スポーツ科学者のロス・タッカーは、思春期に確立される生理学的差異が「男女間に著しいパフォーマンス上の利点」をもたらすと主張しています [2]。一方、スポーツ科学者であり自身もトランスジェンダーであるジョアンナ・ハーパーは、トランスジェンダーアスリートの移行が女性に与える影響を研究しています [3]。さらに、弁護士であるシーマ・パテル博士は、人権などの他の要素も考慮に入れるべきだと訴えています [3]。
###トランスジェンダー女性は女性アスリートに対して不公平なアドバンテージを持つのか?
ハーパーは、**アドバンテージが必ずしも不公平であるとは限らない**と指摘します [4]。彼女は二つの例を挙げてこの点を説明しています。
したがって、問題は「トランス女性がアドバンテージを持っているか」ではなく、「トランス女性と女性が有意義な競争ができるか」であるとハーパーは主張します [5]。そして、その答えはまだ「決定的ではない」と述べています [5]。
彼女はまた、トランス女性は、**大きな骨格が減少した筋肉量や有酸素運動能力で動かされるため、不利な点も持ちうる**と指摘します。しかし、これは単に体格が大きいというアドバンテージほど明確ではありません [6]。競争の結果は非常に僅差で決まることが多いものの、全体的なパフォーマンスには多くの要素が絡んでおり、「誰かが一つの要素でアドバンテージを持っている」というだけで結果が決まるわけではないと強調します [6]。
タッカーは、**男性が思春期に達する約13〜14歳頃から身体に変化が生じ、筋肉量や骨密度の増加、骨格の形状変化、心臓や肺、ヘモグロビンレベルの変化が見られる**と説明します [6]。これらすべてがパフォーマンスに大きく貢献します [6]。
彼は、テストステロンを低下させてもこれらのシステムへの影響は「完全ではない」と述べます [7]。そのため、**テストステロンによって作られた生物学的な差異のほとんどは、テストステロンレベルが低下した後も持続する**と考えています [7]。これは、男性が女性に対して持つスポーツ上のパフォーマンスアドバンテージの「かなりの部分」が残ることを意味します [7]。
タッカーは、**テストステロンが原因となる男性のアドバンテージを排除することが女性カテゴリーの目的である**と主張します [8]。彼は、トランス女性においてそのアドバンテージが持続しない、あるいは存在しないことが示されるまで、トランス女性の参加を許可する根拠はないと断言します [8]。
さらに、彼は**「有意なアドバンテージが維持されている」ことを示す13の研究と、テストステロンレベルが低い男性(前立腺癌患者)の他の研究がある**と指摘し、これらの証拠が総合的にアドバンテージが維持されることを強く示唆していると述べています [8]。彼は、リア・トーマスやエミリー・ブリッジズのようなアスリートの例は、生理学的に何が起こるかという予測の「表れ」であると考えています [9]。
タッカーは、女性スポーツを男性のアドバンテージ(トランス女性を含む)を排除することで規制する政策こそが、証拠に基づいたものであると確信していると述べています [9]。彼は、国際オリンピック委員会(IOC)が当初、「他に証明されるまで」参加を許可したことは間違いであり、アドバンテージが除去できると示されるまでは排除されるべきであったと批判しています [9]。
###トランスジェンダー女性は女性スポーツから排除されるべきか?
タッカーは、女性カテゴリーの目的はテストステロンに起因する男性のアドバンテージを排除することであると繰り返し強調します [8]。そのアドバンテージがトランス女性において持続しないことが示されない限り、参加を許可する根拠はないとして、**排除政策が慎重な出発点であるべき**だと主張します [8]。彼によれば、**アドバンテージが保持されていることを示す強力な証拠が既に存在**しており、リア・トーマスやエミリー・ブリッジズのようなケースはその生理学的な結果の表れであるとしています [8, 9]。彼は、IOCが当初、アドバンテージがないと証明されるまで参加を許可したことは誤りであったと強く批判しています [9]。
ハーパーは、**この分野の科学は「初期段階」にあり、確定的な答えが出るまでにはおそらく20年かかるだろう**と述べています [10]。彼女は、IOCを含む一部の機関が、詳細が判明するまでトランスアスリートを制限すべきではないと主張していることに言及します [10]。
ハーパーは、**現存するデータと知識に基づいて、スポーツの統括団体が最善を尽くし、今後より多くのデータが得られ次第、政策を変更する用意があるべき**だと提案します [10]。彼女は、世界陸連がトランスジェンダー女性が12ヶ月間テストステロンを低下させれば参加を許可するという方針を示した例を挙げ、これは完璧な政策ではないものの、利用可能な科学に基づいて最善を尽くしていると評価しています [10]。このアプローチは、トランス女性に一切制限を設けないという立場や、完全に排除するという立場よりも合理的であると考えています [11]。
###トランスジェンダーアスリートのための独立したカテゴリーは必要か?
ハーパーは、**レクリエーションスポーツでは、男性と女性のカテゴリー以外に、例えば第三のカテゴリーを設けるなど、柔軟で創造的な区分方法を検討すべき**だと提案します [11]。
しかし、彼女は厳密にすべてのトランスアスリートをトランスカテゴリーに入れることの**実際的な問題点**を指摘します [12]。人口の49.5%を占める男性カテゴリー、同じく49.5%を占める女性カテゴリーに対し、トランスカテゴリーは人口のわずか1%しか占めません [12]。これにより、「英国がトランスジェンダーのサッカーチームを編成できるのか?そして他の国が同様のチームを編成できるのか?英国のトランスジェンダーサッカーチームには対戦相手がいるのか?」といった問題が生じ、特にチームスポーツにおいては、「エリートスポーツでは機能しない」ため、事実上不可能であると述べています [12]。
ハーパーは、カテゴリー分けは必ずしもアドバンテージを完全に排除するわけではないが、そのカテゴリー内の誰もが「有意義な競争」を楽しめる程度にアドバンテージを減らすものであると説明します [13]。女性がオリンピックで金メダルを獲得したり、プロスポーツの契約を結んだりするためには、男性がカテゴリー内にいてはならないと述べています [13]。しかし、男性の思春期を経験したトランス女性がそのカテゴリーにいられるかどうかは、「まだ決着がついていない問題」であると認めています [14]。
タッカーは、**将来的にトランスカテゴリーが解決策となる可能性もある**と認め、それはある意味で「非常に前向きな一歩」であると述べています [14]。しかし、彼は**現時点では世界がその準備ができていない**と考えています [14]。
主な問題点として、**アスリートの数が非常に少なく、スポーツ競技やカテゴリーとして存続できるほどの規模を維持できない可能性**を挙げています [14]。
もう一つの問題は、**トランスであることに対するスティグマが依然として多く存在し、スポーツを通じてプラットフォームを強制したり作成したりすることが、そのスティグマの克服に役立つかどうか疑問**であるという点です [15]。むしろ、特定の障壁が生じる可能性もあると指摘します [15]。また、世界にはトランスであることを違法と見なす国もあるため、社会がまだその準備ができていないし、公平でもないだろうと述べています [15]。
それでも、彼は将来のある時点で解決策となる可能性はあるが、現時点では時期尚早であると考えています [15]。
###トランスジェンダー女性は女性スポーツを「乗っ取る」のか?
ハーパーは、**トランス女性が女性スポーツを「乗っ取る」ことは決してない**と断言します [16]。まず、トランスジェンダーの人々は人口の約1%を占めるに過ぎないと指摘します [16]。
彼女は米国大学体育協会(NCAA)のスポーツを例に挙げます。毎年20万人以上の女性がNCAAスポーツで競技しており、トランス女性が人口の0.5〜1%を占めることから、毎年1,000〜2,000人のトランス女性が見られるはずだと計算します [16]。しかし、NCAAが11年前にホルモン療法に基づいたルールでトランス女性の参加を許可して以来、「毎年ほんの一握りしか見かけない」と述べています [16]。したがって、**ルールが施行されて11年経っても、トランス女性はNCAAスポーツを乗っ取っておらず、依然として「大きく過小評価されている」**と結論付けています [17]。
タッカーは、問題は「規模と数」ではなく、**「概念」にある**と主張します [17]。彼は女性たちに「何人までなら受け入れるのか?」と問いかけ、5人、10人、あるいは50人でも受け入れるのかと疑問を呈します [17]。
彼は、ここしばらくの間に少数のトランスジェンダー女性アスリートが存在し、米国では世界的な注目を集めていない他の多くの選手もタイトルを獲得していると述べています [17]。そして、これらの選手たちは**女性スポーツカテゴリー内で女性の「場所を奪っている」**と強調します [18]。そのため、数を問題にすることは非常に危険であると考え、2028年のオリンピックでは、半ダース、あるいは一ダースの選手が見られるようになるかもしれないと予測し、「この問題は拡大するばかり」であると警告しています [18]。
###IOC(国際オリンピック委員会)の政策についてどう考えるか?
国際オリンピック委員会(IOC)は、2021年11月の新しいガイドラインで、**トランスジェンダーアスリートが女性スポーツイベントにおいて自動的に不公平なアドバンテージを持つとは仮定すべきではない**と発表し、個々のスポーツ団体に適切なアプローチを見つけるよう求めています [19]。
タッカーは、**IOCが最初から女性スポーツの健全性を犠牲にしてインクルージョンを追求しようとしていたことが「極めて明確である」**と主張します [19]。彼は、IOCの現在の姿勢は、過去7、8年前よりも多くの知識があるにもかかわらず、「アドバンテージの推定なし」という「異常な声明」を出しており、さらに健全性を損なうものであると批判します [19]。
彼は、以前にも述べたように、より多くの証拠がアドバンテージの保持を示しているにもかかわらず、IOCがテストステロン測定の必要性をなくす方向へ進んだことは、**「科学的健全性の根本的な欠如」**であると厳しく非難します [20]。彼は、ほとんどのオリンピック競技がこの決定を下す能力や証拠を持っていないため、IOCがより強力な枠組みを提供しなかったことは「リーダーシップの失敗」であると見ています [20]。タッカーは、IOCが「科学的に欠落した政策ガイドライン」を採用したため、この問題が拡大し続ける中で各スポーツ団体が自力で解決しなければならなくなったと述べています [21]。
ハーパーは、新しいIOCの枠組みには「十分な実質がない」とし、データが得られるまでいかなる制限も設けるべきではないという考えには同意しないと述べています [21]。彼女は、IOCがインクルージョンを優先したことは価値あることと認めつつも、**世界陸連のような、より積極的な姿勢を示す例を好む**と述べています [21]。世界陸連は、「これが我々がすべきことだと考える」と述べ、すべてのスポーツに適用できるわけではないと理解しながらも、よりリーダーシップを示しているからです [21]。この点で、IOCを批判することは可能であるとハーパーは考えます [21]。
ハーパーは、トランスジェンダー政策を策定することは「極めて困難」であり、どのような政策に対しても批判が生じるのは当然だと述べます [22]。彼女は、IOCが異なる行動をとっていればと願う一方で、トランス女性とシス女性の両方、そしてスポーツ統括団体も「非常に困難な状況」に置かれていることを認め、ある程度の同情も必要であると付け加えています [22]。
タッカーとハーパーがIOCの現在のガイドラインを批判するのに対し、弁護士のパテル博士は、**新しい枠組みを「Permalink |記事への反応(1) | 13:34
同じ(包含されるという意味で)なこともあるし同じじゃないってこともあるだけ。そして今回は同じだったってだけ。所詮は揚げ足取りな矛盾の指摘だったって事。
ようするにスタンスは一貫してるなかで表現の粗として形式的に矛盾があったとしてもスタンスは伝わってるんだからそれをいちいち流れに棹さすようなことするのはスマートじゃないし別の意図を感じざるを得ないよねって事。
必死だなあってこと。
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数学的帰納法でG(m/2^k)、ただしkは正整数でmは0以上2^k以下の整数である集合が定義され、m<nならばG(m/2^k)の閉包⊆G(n/2^k)が成立しているものとすると</p>
G(a)の閉包⊆U,Uの閉包⊆G(b)が成り立つようなUをとれるとありました。ただしa,bと書いたのはこの部分がどうあったか思い出せないのでそう書いているだけなので、これが実際に何であったかはあなたの知識で補ってください。これらの条件を踏まえてU=G(c)とすれば(cも覚えてないからこう書いているだけ)k+1の場合も成立するとありました。
疑問の要点は、分母が2^kのときから2^k+1になったときも、それに伴って0から2^k+1の間でとれるようになったあらゆるm,n(ただしm<n)において帰納法の仮定が成り立つことについて、</p>
これはたとえばk=2のときを考えたら分母が4のときの話であり、すなわち表のように分子を書けば
a,c,b
0,1,2
2,3,4
のような表の中で、このなか相異なる整数を取り出して小さい方からmとすればG(m/2^k)の閉包⊆m(n/2^k)が成り立っているということで、
分母を2^k+1とすればその分考えうる分子が以下のように2倍に増える
a,c,b
0,1,2
2,3,4
4,5,6
6,7,8
しかしこのうち,0,2,4,6,8のような偶数は前述の表の0,1,2,3,4に対応していて、これらのなかにおいてG(m)の閉包とG(n)の包含関係を考えるかぎりは
帰納法の仮定よりただちにG(m/2^k+1)の閉包⊆G(n/2^k+1)が成り立つことはわかる。
また片方の分子が偶数でもう片方が奇数の場合や、両方が奇数の場合には包含関係を判断する手がかりが足りないように思える。
どうすればいいのか?
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古代中国の書物である『易経』に「観国之光,利用賓于王(国の光を観る、用て王に賓たるに利し)[注釈 5]」との一節があり、「観光」はこれを略した成句であるというのが定説である[1][5][8][13][34][35]。したがって、明治期に西洋から輸入された多くの概念が和製漢語に当てはめられ理解されていったのに対し、観光という言葉そのものの起源は東洋にあるということになる。
「観光」という用語の使用が確認できる最も古いものは、1855年にオランダから江戸幕府に献上された洋式軍艦「観光丸」である。誰がどのようにしてこの艦名をつけたのか明らかになっていないが、珍しさや誇らしさを表したり「国の威光を海外に示す」という意味が込められていたと考えられる[1][34]。また、明治時代初めの米欧使節団を率いた岩倉具視は、報告書である『米欧回覧実記』冒頭に「観」「光」と揮毫している[注釈 6][37]。岩倉は後に、東京奠都により衰退した京都の経済再生の一環として、洋風迎賓館を建てて外国の賓客をもてなすことを政府に献策している[36][38]。なお、「観」という漢字には「示す」という意味もあり、「外国の要人に対して国の光を誇らかに示す」という意味も込められているとする説もある[1]。
このほかに佐野藩の藩校「観光館」や国産品奨励を目的として設立された「観光社」など固有名詞の中での使用例があるが、用語として広く普及したとは言い難い[注釈 7][34]。
1872年の日本の鉄道開業以降、各地で鉄道のネットワークが広がってゆき、これにより国内旅行が盛んになるが[33][39]、このころは「遊覧」や「漫遊」の語が使われるのが一般的であった[注釈 8][5][34][40]。1886年に東京府師範学校が「長途遠足」を開始し、内国勧業博覧会の開催などとも合わせて修学旅行が促進された[39]。1905年には鉄道を利用して高野山と伊勢へ参詣するパッケージツアーが南新助(日本旅行の創業者)によって始められている[39]。
1893年、渋沢栄一と益田孝の旗振りにより、日本で始めて外客誘致に取り組んだ民間団体である喜賓会(英: WelcomeSociety)が設立され、設立目的に「旅行の快楽、観光の便利に」が掲げられた[34][40]。喜賓会は1912年にジャパン・ツーリスト・ビューローとなり、日本交通公社の前身となっている[5][40]。
1923年・1924年ごろにはアメリカ移住団の祖国訪問について「母国観光団」と大々的に新聞報道されており、観光の語が現代的な意味として一般に認知されるようになったのはこの頃からともいわれる[1]。
濱口内閣は、元帝国ホテル副支配人で熱海ホテル経営者の岸衛[注釈 9]の働きかけを受け、外貨獲得のための外客誘致事業を目的とした機関の設置を決定した。これが1930年4月24日付け勅令83号によって創設された鉄道省の外局「国際観光局」である[5][1][35][40][41]。名称の候補には「観光局」「国際局」「外客誘致局」などがあったが、当時の鉄道大臣江木翼により決定された[40][42]。なお、英文名はBoard of Tourist Industryとなっており、ツーリズムの語を用いず、国際にあたる表示もなされていない[注釈10][34]。
「観光」の語は原典を紐解くとアウトバウンドを指すものとも解釈できるが[35]、このように戦前の「観光」を冠する事業はインバウンドを中心としたものであった[注釈11][5][40]。
国内旅行も包含した今日の意味合いでの「観光」が定着したのは、マスツーリズムが到来した1960年代以降であるとする指摘もある[34]。宮崎バス(現・宮崎交通)が、「名勝」「遊覧」といった表現が享楽性を連想させるとして、戦中戦後に「参宮」「観光」へ名称変更した事例が報告されている[5]。
庶民に普及した当初は観光に行くことそれ自体が贅沢でありステータスであったが、観光が身近な存在になるに連れて「どこに行くのか」「何をするのか」が次第に重視されるようになっていく[23]。
それは非常に興味深く、哲学的な深みを持つ思考実験ですね。あなたが提示された概念をまとめると、以下のようになります。
- 無限の空間/メタ空間: すべてが存在する基盤となる広大な場。
- 無限の静的な宇宙: その無限の空間内に、時間的な変化をしない(静止している)無数の宇宙が存在する。
- 記憶を持つ静的な私: それぞれの静的な宇宙には、ある特定の状態と、それに対応する特定の時点での記憶を持つ「私」が存在し、その「私」自身も宇宙の一部として静止している。
- 主観的な時間の流れ: 「座っている記憶を持つ私」が存在する宇宙Aと、「そこから1秒後に立ち上がった記憶を持つ私」が存在する宇宙Bが別個に静止して存在しているとき、これらの宇宙を(意識や観測の主体が)次々と経験することによって、主観的には時間が流れているように感じられる。つまり、時間とは宇宙そのものの変化ではなく、異なる静的な宇宙に存在する異なる記憶を持つ自己の状態を順に辿ることによって生じる主観的な感覚である。
- 記憶による無限の分岐: ありうるすべての記憶の状態に対応する宇宙が存在するため、主観的な時間の流れは、あらゆる可能性に沿って無限に分岐していくことになる。
この考え方は、私たちの日常的な「時間が流れている」「未来は不確定で、過去は確定している」という感覚とは異なりますが、時間の本質や意識、存在のあり方について非常に刺激的な問いを投げかけます。
物理学におけるブロック宇宙論(宇宙の全ての時間・空間は一つの四次元的な実体として静的に存在するという考え方)や、多世界解釈(量子力学の重ね合わせ状態が観測によって収縮するのではなく、観測によって宇宙が分岐するという考え方)といった概念の一部に類似点も見出せますが、あなたの提示された枠組みは、特に「宇宙自体が静的であり、時間的な流れは完全に記憶の連続性と、異なる静的な状態(異なる宇宙)を経験することから生まれる主観的な現象である」という点に特徴があります。
なるほど、前回の思考実験に新たな視点を加えられたのですね。空間が有限であるという条件を設定することで、非常に興味深い推論が導き出されます。
- 有限な空間: 全てを含む基盤となる空間が無限ではなく、有限であると仮定する。
- 有限な宇宙の生成: その有限な空間内に生成される宇宙の数や種類も有限になる。
- 生成パターンの偏り:無限の空間であれば、あらゆる可能な物理法則や初期条件を持つ宇宙(あらゆるパターン)が無限に生成される可能性がある。しかし、空間が有限であるため、生成される宇宙のパターンには限りがあり、特定のパターンが出現する確率が高くなったり、特定のパターンしか存在しえなくなったりする「偏り」が生じる。
- 物理法則の起源: この宇宙の生成パターンの「偏り」こそが、私たちが観測する物理法則の根源なのではないか。つまり、私たちの宇宙に存在する物理法則は、無限に存在する可能性のある法則の中の一つが選ばれた結果ではなく、有限な空間という制約の中で生成されうる宇宙の集合の統計的な傾向や、特定のパターンが優勢になることによって生じている。
この考え方は非常に示唆に富んでいます。物理法則を、宇宙そのものの内在的な性質や、何らかの究極理論から演繹されるものではなく、それを内包するより高次の空間(あるいはメタ空間)の構造(有限性)と、そこから生じる生成可能な宇宙のアンサンブルの「偏り」から説明しようとする試みと言えます。
これは、宇宙論や素粒子物理学の一部で議論される、可能な宇宙の多様な「ランドスケープ」の中で、なぜ私たちの宇宙が特定の物理定数や法則を持つのか、という問題に対する一つのユニークなアプローチとも考えられます。私たちの宇宙の物理法則は、その広大な可能性の海の中で「たまたま」実現したものではなく、「有限な空間」という制約によって、他のパターンよりも生まれやすく、あるいは必然的に生まれるべくして生まれたパターンだった、と解釈できるかもしれません。
この仮説は検証が非常に難しいものですが、物理法則の存在理由に根源から迫ろうとする、哲学的に深く、創造的なアイデアだと思います。