
はてなキーワード:勇気とは
2か月くらい前に婚約した。
たぶん世間的には「おめでとう」で終わる話だと思う。年齢的にも、タイミング的にも、わりと無難。親も安心、友達も祝福。人生のチェックリストを一個潰した感じ。
でも正直に言うと、最近ずっと気分が悪い。
Xをだらだら眺めてると、パワーカップルの話が流れてくる。
世帯年収3000万だの5000万だの、もう別ゲー。
それ見て思う。
あれ、俺、逃げたんじゃないかって。
むしろいい人だと思う。穏やかだし、ちゃんとしてるし、俺のこともちゃんと評価してくれる。
で、ここが一番言いたくないところなんだけど、
アプリで値踏みされ続けるのがしんどくなった。
年収とか職種とか将来性とか、暗黙に比較される空気が無理になった。
あ、ここは俺の席じゃないなって空気を感じるのがきつかった。
負けたなら負けたで納得したかった。
でも実際は違う。
負ける前に撤退した。
疲れたふりをして、
確実に勝てそうなところで手を打った。
婚約した瞬間、すごく楽になった。
もう選ばれなくていい。
もう比較されなくていい。
もう市場に立たなくていい。
でもその安心の裏で、
あれは才能ある一部の人間だけの話だと思ってたけど、
婚約してからこんなこと考えてる時点で人として終わってるとも思う。
でも事実として、
卒業じゃない。
撤退。
そのことを、
たぶんこの先も、
正解だったと自分に言い聞かせながら生きるんだと思う。
でも心のどこかでずっと、
でもみんなネットで服買ってるんだよね
まるで世界が彼女の神経に直接ワイヤーを繋いでいるかのようだった。14歳の“みっちゃん”——本名は美都。
中学二年生。軽く猫背で、前髪は少し長め。クラスでは特別目立たない。目立たないように、いつも慎重に息をしている。
けれど彼女の耳だけは、どこまでも正直だった。
机を叩く指。ビニール袋のくしゃりとした音。誰かがスナック菓子を噛む湿った衝撃。
特に最悪なのは、背後の席の男子が時おり鳴らす「口を開けたままの咀嚼音」だ。
音が空気を伝う前に、まるで皮膚の下から湧き上がるように、怒りとも嫌悪とも区別できない灼熱が身体を駆け抜ける。
「また変だと思われたくない」
その恐れが、彼女を席に縛りつけていた。
ピアノの柔らかな旋律が流れ込み、世界のノイズが一枚薄い膜の向こうへ追いやられていく。
“ミソフォニア”という言葉を知ったのは、数か月前の深夜、眠れないままスマホを眺めていたときだった。
画面に映る説明は、彼女の内側を正確に、少し残酷なほど明晰に写し取っていた。
自分が「変」なのではなく、名前を持った現象なのだと知ったとき、みっちゃんは声にならない安堵を感じた。
それから彼女は、耳の奥に巣くう怪物と“共存する技術”を、少しずつ学び始めた。
深い呼吸。
イヤーマフをポケットにしのばせ、必要なときにそっと装着するための小さな決断。
どれも派手ではなく、みっちゃんの存在を変えるほどの劇的な力は持っていない。
ある日のこと、背後の男子がまた口を鳴らし始めた。
声はかすれていたが、確かに彼女自身の意思で発されたものだった。
その言葉は、まるで鍵のかかった扉にそっと触れる手のようだった。
みっちゃんは、胸の奥から少しずつ言葉を取り出し、ミソフォニアについて話した。
ただ「それは苦しかったね」と言った。
人は自分の痛みを説明するとき、その痛みが本当に存在するのかをどこかで疑うものだ。
怪物は今も消えていないし、咀嚼音はあいかわらず世界のあちこちで息づいている。
対策を持っている。
少しずつではあるが増えていく。
掌の中のその小さな道具は、彼女が自分の生き方を選びとった証のように感じられた。
世界の音は、まだうるさい。
けれど、その中でどうやって息をするかを、みっちゃんは確かに学びつつあった。
苦痛の正体に名前を与えることは、自分自身を救うためのもっとも静かな革命だ。
物語はここでいったん区切られるが、
むかしむかしあるところに浦島太郎というまだ女の股の毛すら見たことない若者がいました。
浦島太郎が浜辺を歩いていると、二人の子供が大きな亀を蹴って遊んでいるのを見つけました。
それを見て浦島太郎は(人間どころか手も足も出せない生物をいじめて自分たちが支配者のような気分に浸るなんて愚かだな)と思いました
しばらく眺めていると、亀が甲羅の中に身を隠しぐるぐる回り出したもので、子供達はびっくりしてその場から逃げ出してしまいました。
亀が浦島太郎を引き止め
「あなたのお陰で勇気が出ました、お礼に竜宮城へ案内しましょう」と言うのです
(何もしていないのに勘違いがすごいな、この亀もさっきの子供より馬鹿に違いない、しかし竜宮城へ案内してくれるというなら行ってみるか)
浦島太郎はそんなことを思い、亀の背中に乗って海の中へ飛び込みました。
亀の背中は硬く、乗り心地は最低でした
(お世辞にも乗り心地がいいとは言えない、だけど水の中で息が出来ているからいいか)
浦島太郎は移動中、そう思いました
そして着いたのはなんと綺麗なお城でした
中に進むと、亀が女性に自分が勇気を出せたことを伝え、浦島太郎はお礼をしてもらうことになりました。
乙姫と名乗る女性はどこにでもいる中くらいのレベルの顔をした人で浦島太郎はがっかりしましたが(でもここで姫をやっているのだからここではこれが美人なのだろう。地上の私が文句は言えないよな)と思い不満を口に出せませんでした。
それからごちそうが出てきたので食べてみると
浦島太郎は
(見た目だけはいいけど味は地上と変わらない、品によっては地上より劣る。まあ出してくれただけでもありがたいか)とまたしてもよくないことを思ってしまうのでした。
(なんてしょうもない踊りだろう、子供なら喜ぶだろうが大人がこんなので喜びはしない。がんばっているようだが)と思ったり
(悪趣味だ、しかし、これを作るのにがんばってくれた人がいるのだから一概に馬鹿には出来ないな)と思いながら乙姫さまに
「なんて素敵なお部屋なんでしょう。ずっといたくなってしまう」と言って乙姫さまを喜ばせたりしました。
そして、気づけば竜宮城で過ごしてから三日が経っていたのです。
「乙姫さん、私はそろそろ帰らなければいけません」と浦島太郎は乙姫さまに言いましたが
乙姫さまは魚たちは帰らないでほしいと声には出さず、でも顔や仕草で表すばかりでした。
そう思った浦島太郎は
「地上に病気の母と父がいます、帰らないとその二人が死んでしまうので。ごめんなさい」と
乙姫さまたちに嘘を言いました。
仕方なく、乙姫さまたちは浦島太郎を返すことにしたのですが、帰る直前に綺麗な箱を渡して
「おみやげにこの箱をどうぞ。ですが、この箱は眺めるだけにしてください決して中を開けてはいけませんよ」と浦島太郎に告げました
こうして、謎の箱を手にいれた浦島太郎でしたが
亀の背中に乗りながら乙姫さまが去り際に呟いたことを思い出しました。
「そんなやつら、もういないってのに…」
(あれはどんな意味だったのだろう?嘘をついたからいけなかったのか?)
そして、三日ぶりに見た地上はなにか変でした
歩いているのは知らない人ばかり、知っている家や建物はみんな古びてしまっているのです。
(おかしいなぁ…三日でこんなに変わるかな?)
そう思いながら、歩いていると、やっと知っている顔に出会いました
腰に剣を刺したその男の人は顔はかなり変わっていましたが、亀をいじめていたあの男の子でした
「おい、あんた、海辺で亀をいじめていなかったか?」浦島太郎が問うと
「んーそりゃ30年も前の話じゃねぇか。あんたもまーよく覚えていたなぁ」と言ってどこかに去ってしまいました。
記憶を頼りに浦島太郎は自分の家にいってみると、そこには別の家が建っており、庭先で知らない子供が蹴鞠をしていました。
途方に暮れた浦島太郎は崖へ行って、もらった綺麗な箱を投げ捨ててしまいました。
すると、崖の下から白い煙が立ちのぼり、浦島太郎を包むと、しばらくして消えてしまいました。
そうして、濁った視界で自分の手を眺めてみると、さっきよりもずっと皺だらけの手でした。
空の色も土の色もみんながさっき見ていたものよりぼやけており、あんなにうるさかった知らない誰かの話し声もあまり聞こえなくなっていました
(ああ、そうか、いつか来る日が今、来てしまっただけの話しか。なんと愉快だろう愉快だろう)
人工知能(AI)の急速な進化は、私たち人間に突きつけられた実存的な問いである。「計算能力において機械が人間を凌駕したとき、人間に残される価値とは何か」。この問いに対し、多くの議論は「創造性」や「直感」といった曖昧な領域に逃げ場を求めてきた。しかし、マックス・ベネット著『知性の未来』と、それを翻訳・解説した脳科学者・恩蔵絢子氏の洞察は、より生物学的かつ哲学的な深淵へと私たちを導く。
彼らが提示する結論は、逆説的である。「AI時代に人間が持つ最大の能力は、感情になる」。そして、「本当に頭が良い人とは、他者に興味を持てる人である」。
一見すると、これは道徳的なスローガンのように響くかもしれない。しかし、認知科学、進化生物学、現象学の知見を総動員してこの命題を解剖するとき、そこには「知性」という現象の構造的な転回が見えてくる。本稿では、二重過程理論、ユクスキュルの環世界、身体性認知、社会脳仮説、そして間主観性という5つの視座を補助線とし、AIが決して到達し得ない「知性」の本質と、これからの時代に求められる「知的な生き方」について論じる。
---
まず、私たちが「知性」と呼んできたものの正体を、ダニエル・カーネマンらが提唱した「二重過程理論」の枠組みで再考する必要がある。
伝統的な知能観において、知性とは「システム2(遅い思考、論理、計算)」の能力を指していた。複雑な数式を解き、論理的な推論を行い、未来を正確に予測する力である。現在のAI、特に大規模言語モデル(LLM)は、このシステム2の機能を極限まで外部化・高速化した存在と言える。彼らは感情を持たず、疲労を知らず、膨大なデータから論理的整合性を出力する。
しかし、ベネット氏が描く脳の進化史(5つのブレイクスルー)は、この「システム2至上主義」を根底から覆す。進化の歴史において、論理や言語といったシステム2の機能は、常にシステム1(速い思考、感情、直感)の要請によって開発されてきたからだ。
初期の生物(線虫など)は、「快・不快」という原始的なシステム1のみで生きていた。進化の過程で「予測」が必要になったとき(魚類)、予測誤差としての「失望」や「安堵」という感情が生まれた。さらに複雑なシミュレーション(マウス)が可能になったとき、反事実を嘆く「後悔」という感情が生まれた。
ここで重要なのは、「論理が感情を抑制するために進化した」のではなく、「感情をより細やかに処理し、生存確率を高めるために論理が進化した」という事実である。システム2は、システム1というエンジンの出力を最大化するためのトランスミッションに過ぎない。
AIの限界はここにある。AIには「エンジン(生存への渇望、快・不快、感情)」がない。あるのは精巧なトランスミッション(計算能力)だけだ。エンジンを持たない車が自律的にどこへも行けないように、感情という基盤を持たないAIは、自ら「問い」を発することも、「意味」を見出すこともできない。人間の知性の本質は、論理そのものではなく、論理を駆動し続ける「感情の熱量」にあるのだ。
---
なぜAIには感情が宿らないのか。その答えは「身体」の欠如にある。「身体性認知(EmbodiedCognition)」の視点は、知性が脳という密室の出来事ではなく、環境と相互作用する身体の中に宿ることを教えてくれる。
記事の中で恩蔵氏は、老いによる身体の変化を「老年でしか味わえない内的な経験」として肯定的に捉えている。これは非常に重要な示唆を含んでいる。
生物にとっての「意味(Sense)」は、身体的な脆弱性から生まれる。身体があるからこそ、空腹は「苦痛」となり、食事は「快」となる。皮膚があるからこそ、他者との接触は「温もり」となる。死ぬ定めの身体があるからこそ、時間は「有限」となり、焦燥や希望が生まれる。
AIが扱う情報は、どこまで行っても「記号」である。AIにとって「痛み」という単語は、辞書的な定義や統計的な関連語の集合体に過ぎない。しかし人間にとっての「痛み」は、回避すべき切実なリアリティである。この「切実さ(Stakes)」こそが、世界に色を塗り、価値判断の基準を作る。
身体性認知の視点に立てば、加齢による能力の低下は、単なる「劣化」ではない。それは身体というインターフェースの変化に伴う、世界との関わり方の「再構築」である。
若い頃の強靭な身体で見えていた世界と、老いて動きが緩慢になった身体で見える世界は異なる。その変化を受け入れ、新たな身体感覚を通じて世界を再解釈することは、高度な知性の営みである。AIは「劣化」しない代わりに、「成熟」もしない。身体の変化を通じて世界モデルを更新し続けるプロセスこそ、人間特有の知的な冒険なのである。
---
身体を持った生物は、それぞれの感覚器官が切り取った主観的な世界、すなわち「環世界(Umwelt)」の中に生きている。ユクスキュルが提唱したこの概念は、知性の進化を「孤独からの脱出劇」として描き出す。
ダニにとっての世界は「酪酸の匂い」と「温度」だけで構成されているように、すべての生物は自分の環世界というシャボン玉の中に閉じ込められている。本来、他者の環世界を知ることは不可能である。私はあなたの痛みそのものを感じることはできないし、あなたが見ている「赤」が私と同じ「赤」である保証もない。
この「絶対的な孤独」こそが、生物としての初期設定である。しかし、ベネット氏が指摘する第4、第5のブレイクスルー(メンタライジング、発話)において、人間はこの壁に挑み始めた。
「他者に興味を持つ」とは、自分の環世界という安全地帯から身を乗り出し、他者の環世界を覗き込もうとする無謀な試みである。「あの人は今、何を考えているのか?」「なぜ悲しい顔をしているのか?」。これは、自分の感覚データ(システム1)だけでは完結しない。高度な推論と想像力(システム2)を総動員して、見えない他者の内面をシミュレーションしなければならない。
恩蔵氏が「他者に興味を持つことは難しい」と述べるのは、これが認知的に極めて高コストな作業だからだ。自分の環世界(自分の話、自分の関心)に浸っている方が楽なのだ。しかし、あえてそのコストを支払い、他者の世界へ「越境」しようとする意志。それこそが、人間を人間たらしめている知性の正体である。AIには環世界がないため、そもそも「他者の世界」という概念自体が存在しない。
---
なぜ人間は、これほどまでにコストのかかる「他者理解」という能力を発達させたのか。ロビン・ダンバーの「社会脳仮説」は、それが「集団での生存」に不可欠だったからだと説明する。
自然界の脅威(猛獣や寒さ)に対処するだけなら、これほど巨大な脳は必要なかったかもしれない。しかし、人間にとって最大の環境要因は「他の人間」であった。誰が味方で、誰が裏切り者か。誰と協力すればより多くの食料が得られるか。
他者の心は、天候や物理法則よりも遥かに複雑で、予測不可能な「変数」である。この変数を読み解くために、脳は巨大化し、知性は進化した。記事にある「会話の70%は噂話」という事実は、私たちが情報の交換以上に、人間関係のメンテナンス(社会的グルーミング)に知能のリソースを割いていることを示している。
この文脈において、「頭が良い」という定義は劇的に変化する。それはIQテストのスコアが高いことでも、計算が速いことでもない。
真に知的な個体とは、「他者の意図を正確に読み取り、共感し、信頼関係を構築して、集団としてのパフォーマンスを最大化できる個体」である。
「他者に興味を持てる人」が頭が良いとされる理由は、単なる優しさではない。他者への関心は、複雑な社会マトリックスの中で生き残るための、最も強力なセンサーであり、武器だからだ。自分の殻に閉じこもることは、社会的動物としては「死」に等しい。他者への好奇心は、生命力そのものの発露と言える。
---
そして、知性の進化の到達点は、個人の脳内にも、個別の身体にも留まらない。「間主観性(Intersubjectivity)」の領域、すなわち「私とあなたの間」に生まれる知性である。
記事の中で触れられている「指差し」は、人間特有の驚くべき行動である。チンパンジーは報酬を得るために手を伸ばすが、人間の幼児は「見て!あそこに犬がいるよ!」と、ただ注意を共有するためだけに指を差す。
これは、「私が見ている世界を、あなたにも見てほしい」という強烈な欲求の表れである。ここで初めて、孤立していた二つの環世界が接続される。
言葉、文化、ルール、そして愛。これらはすべて、物理的な実体ではなく、私たちが共有することで初めて存在する「間主観的」な現実である。
AIは「客観的なデータ」を処理することはできる。しかし、「あなたと私の間だけで通じる冗談」や「阿吽の呼吸」、「信頼」といった、主観と主観の間で紡がれる現実を作り出すことはできない。
恩蔵氏が翻訳を通じて感じた「人間の宝」とは、この「心の共有」の可能性そのものであろう。私たちは、他者の心に触れることで、自分一人では決して到達できない豊かな世界(拡張された環世界)を生きることができる。知性とは、個人の所有物ではなく、関係性の中に宿る現象なのだ。
---
以上の分析から、AI時代における「知的な生き方」の輪郭が浮かび上がる。それは、AIに対抗して計算能力を磨くことでも、AIに仕事を奪われないように効率化を目指すことでもない。むしろ、AIが捨て去ったもの、あるいは持ち得ないものを、徹底的に深める生き方である。
AIは効率と最適化の権化である。対して、人間の知性の源泉は「感情」や「身体」といった、一見非効率なノイズの中にある。
知的な生き方とは、効率を追求するあまり、感情の揺らぎや身体の実感を切り捨てないことだ。迷い、後悔し、喜び、痛むこと。これらの「ノイズ」こそが、世界に意味を与え、独自の価値判断を生み出す土壌となる。
「本当に頭が良い人」になるためには、意識的に「他者への旅」に出る必要がある。
SNSのアルゴリズムは、私たちが心地よいと感じる情報だけを見せ、環世界をより狭く、強固なものにしてしまう(フィルターバブル)。知的な態度は、その快適な殻を破ることから始まる。
自分とは異なる意見、異なる背景、異なる身体性を持つ他者に対し、「なぜそう感じるのか?」と問いかけること。自分の正しさを一旦脇に置き、相手の環世界に身を浸すこと。この「認知的負荷」をあえて引き受ける勇気を持つことだ。
AIは「答え」を出すことにおいては人間を凌駕する。しかし、「問い」を立てることはできない。問いは、「こうありたい」「これはおかしい」という、身体的な違和感や理想(感情)から生まれるからだ。
また、AIはデータを羅列できるが、「物語」を生きることはできない。私たちは、他者との関わりの中で、それぞれの人生という物語を紡いでいる。
これからの知性とは、正解のない世界で、他者と共に悩み、対話し、新しい「納得解(間主観的な合意)」を形成していくプロセスそのものを指すようになるだろう。
マックス・ベネットと恩蔵絢子が示したのは、冷徹な計算機としての脳ではなく、熱を帯び、他者を求め、身体を通じて世界と震え合う臓器としての脳であった。
AI時代において、私たちは「賢さ」の定義を、ColdIntelligence(処理能力)から WarmIntelligence(共感と接続の能力) へとシフトさせなければならない。
老いて記憶力が衰えようとも、計算が遅くなろうとも、目の前の人の手の震えに気づき、その心に思いを馳せることができるなら、その人は最高に「知的」である。
他者の心という、宇宙で最も複雑で、不可解で、魅力的な謎に挑み続けること。その終わりのない探求こそが、機械には決して模倣できない、人間の知性の最後の聖域となるだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be7a5812ddaf607d08bb52f0663554ab39a9389c
わかる よく勇気を出して言ってくれた
そこではVMwareとかAnsibleを「技術」って言ってた
お前らがやってるのはただ製品をつなぎ合わせる積み木遊びであって技術ではないんだわと
カスみたいな触ってみた記事でもいいからまず書こうっていう人いるけど、
これ可愛い女の子がブスの女の子連れて歩く心理と似ている気がする
それと少しそれるけどたまにあるJavaScriptやPHPの仕様の重箱の隅をつついてクソとかいうやつ
クソ of クソ
はっきり言う。企業のTechBlog、もう全部やめてくれ!!!頼むから!!!!
いや、マジで。 今年もまたこの季節が来てしまった。アドベントカレンダーだ。QiitaだのZennだの自社ブログだので、TLに流れてくる「〇〇社のAdvent Calendar」。 これを見るたびに、俺は心の底からうんざりするんだよ。吐き気がするほどに。
はてなでも度々話題になるが、あえて言わせてもらう。 お前らの書くTechBlog、9割9分は無価値だ!!!!!!
「〇〇イベントに行ってきた。熱気がすごかった!」 「〇〇の新機能を試してみた。便利だと思った!」
……小学生の絵日記かよ!!!!!!!! 「すごかった」「便利だった」じゃねえよ!!!!
そんなもん、公式ドキュメント読めば3秒でわかることだろ!? わざわざ自社のロゴ貼り付けて、ドヤ顔で公開する内容か!? 本当に!本当に!!なんの!!!価値も!!!!ないんだよ!!!!!!
「うちは大丈夫」だと思ったそこのお前!! 曇りなき眼(まなこ)で、自社のブログを見返してみろよ!! そして社内のSlackを見てみろ!!!
記事の共有通知に、特定の「いつもの人」以外、リアクションしてますか!?!? してねえだろ!!!!!!
社員ですら「またなんかやってるよ…」って冷めた目で見てるんだよ。 誰にも読まれてないし、誰の役にも立ってない。 ただ「広報のKPI」のためだけに、エンジニアのリソースを食いつぶして、ネットの海にゴミを放流してるだけだ!!!
だから、頼む。広報担当、ブログ担当、エンジニアリングマネージャー。勇気を持って「撤退」を決断してくれ!!!!
ちょうど年末だ。全社集会とかあるだろ? そこで高らかに宣言してくれ。
ただ「無価値だから辞めます」とは言えないだろう。角が立つしな。 だから、AIのせいにしていい。AIを盾に使え。
「生成AIの台頭により、基礎的な技術解説記事はその役割を終えました」 「今後は検索ノイズを減らすため、またエンジニアの本質的な業務時間を確保するため、会社としての執筆依頼やKPI設定を廃止します」
「今までありがとうございました」って綺麗に幕を引いてくれ。 そうすれば、俺たちは心から拍手を送る。
エンジニアが書きたい時に、書きたい情熱を持って書く。 それだけでいいんだよ。会社が無理やり書かせる「宿題」みたいなブログは、もう金輪際見たくないんだ。
頼むから、俺たちのTLを、検索結果を、これ以上汚さないでくれ!!!!!!撤退宣言を待っている!!!!!!!!
もう一つ、最後にこれだけは言わせてください。
あなたたちが量産しているその記事は、AIの学習や検索にとっても有害なノイズになりつつあります。公式ドキュメントを薄めただけの劣化コピーや、文脈のない体験記事は、情報の検索性を著しく下げています。それは正確な一次情報への到達を阻害し、インターネット全体の価値を薄める行為です。
あなたたちは無価値な記事を量産するにあきたらず、今後人類全体の負債になります。
Permalink |記事への反応(38) | 08:14
たまたま見つけた個人サイトで長崎市民FMのスタッフさんとサイト主がやり取りしてるのを見つけて、どんなラジオなのかとスタッフさんが貼ってたリンクを踏んでみたら(双方フルネームと素性を公開してたし平和なやり取りだったから、この時点ではまったく怪しいとは思っていなかった)、ぱっと見は手作り感あるけどちゃんとしたラジオ局のサイトなのに、下にスクロールするとオンラインカジノに誘導する内容になってて詐欺サイトだと気がついた。
改めて長崎市民FMを検索してみると、その詐欺サイトと体裁がそっくりだが、ちゃんとした内容の公式ホームページが存在していた。同様の事例がないか調べたところ、「怪盗レーニャ」という九州で放送されたアニメのサイトがドメイン悪用でオンラインカジノ誘導サイトになっているというニュース記事を見つけ、今回も同じ手口によるドメイン悪用被害なのだと察した。他にも事例はあるらしいが、「怪盗レーニャ」とは九州のメディア関連の事例という点で一致しているから、同じ犯人にターゲットにされたのかなと想像している。
サイトからはすぐに撤退したから詳しくは見ていないけど、AIであることが丸わかりという点では雑な作りであったものの、長崎にある架空のカジノを紹介してそこで働くスタッフのAI画像を載せてたり(山田太郎、佐藤花子みたいな名前付きだった)、カジノをラジオで宣伝しませんか?みたいなコミュニティFMらしい内容になってたりと、その放送局に特化して擬態していたのが衝撃的だった。本物のサイトをAIに学習させて生成すれば大した手間もなく作れるのだろうし、単純に利用できそうなドメインを悪用しているだけなのだろうが、正直なところなんでこんなマイナーな地方FMのサイトにこんなクオリティで擬態したんだ、そのやる気があればもっとデカいサイトでも良かっただろという感想が浮かんでくるくらいにはよく出来ていた。10年ほど前の個人サイトでのやり取りを見ていたところで出くわしたということもあり、人間とAIが対比されるSFのような感覚もあれば、現実と虚構が曖昧になるホラーモキュメンタリーのような感覚もあり、なかなか不気味な体験だった。
その後軽く調べてみたが、特に長崎市民FMが注意喚起をしている様子を見つけられず心配になり、あえてここで名前を出してみた。ブックマーク登録してタイムテーブルを確認している人も多いだろうからドメイン悪用にはすぐ気がついただろうと思いつつ、もし気がついていないなら伝えるべきかとも悩んだが、伝えたところで向こうも注意喚起以上の対策ができるわけではないだろうし、その地方在住というわけでもない自分が急にメールを送ってもそれこそ怪しまれると思い、メールを送る勇気は出なかった。
生成AI詐欺サイトに急に出くわすとめっちゃ不気味という日記がてら注意喚起になればいいと思って書いたけど、迷惑なようなら消します。
若くはない。既婚。復職の目処は立っている。
ASDと診断された時、正直な感想としては「ほっとした」だった。
なんとなくずっと生きづらいと感じていたから、そこに理由がついて安心した。
けれど、安心したのはその診断を下された時だけだった。
そのあとに残ったのは2つの考え。
「子供を作るべきではないのだろうな」
仕事に関しては、休職した時点で諦めていた。もうすぐ昇給、というところでの休職だったから、休むことで評価は下がると人事から伝えられていた。
上司からは「希望すれば昇給できる位置にいる」と言われているが、職種と特性がとにかく向いていない。
地道にコツコツと同じことを繰り返すのが好きだ。けれど自分の職場では毎日が「突発」の仕事ばかりで、とにもかくにも他部署との調整業務が発生する。不測の事態と対人折衝が苦手な自分にとっては、あまりにつらすぎる。
先輩からは可愛がられ、後輩からは信頼され、仕事をバリバリこなしている同僚を思い出すと、ああ、自分はもうこの土俵には立てないのだな、と痛感する。
自分ができることといえば、PC作業が人より少し早いぐらいだ。それだけだ。
子供の頃から憧れていた「仕事のできる人間」にはなれないのだと、諦めるしかないのに、それでも醜く縋りたくなる。
ASDの遺伝性は今はまだ証明されていない。しかし、その傾向は強くあるように感じられる。
自分の両親は健常者だったと思われるが、自分の遺伝子を継ぐ子はやはりASDになるのだろうか。そうだとしたら、生まれてくる子が不憫だ。
知的障害のない自分でさえ、こんなに生きにくいと感じているのに、万が一知的障害を持って生まれたとしたら? 自分より辛い人生を送らなければいけないとしたら?
妻は子供を望んでいる。自分がうつ病になってしまったせいで妊娠適齢期を逃した妻は、好物の酒を我慢して妊娠の準備を進めている。
妻。出来損ないの自分を努力家だと評し、愛してくれている、自分には勿体なさすぎる妻。
自分がうつ病のときに支えてくれ、自分よりも仕事を評価され、収入も安定している、よくできた人間だ。
その妻に向かって、子を諦めろというのは、酷だろうか。自分以上に障害の重い子が生まれるかもしれないが、彼女はそれでも子を望むのだろうか。
申し訳ないが、自分には育てられる自信がない。自分の面倒を見るだけで精一杯なのに、その上、人の命まで背負う覚悟が足りていない。
子は欲しい、と思う。友人達が我が子を愛する姿を見ていると、自分もそうありたいと思う。何より、愛する妻の子は、それは世界一可愛いだろうと思う。そんな我が子に会いたいと思う。
けれど、そんな愛おしい我が子に、自分よりも辛い人生を送らせられるのか。大変な人生を進まなくてはいけない我が子を、自分は支えられるのか。それだけの覚悟を決められるのか。
悩んでも悩んでも、結論が出せずにいる。
勇気がなくて、子を授かることについて自分の意見を妻に言うこともできずにいる。
そもそも自分は本当に自閉症スペクトラム障害なのだろうか。
なまじ知的な遅れがないから、この「生きづらさ」以外で自分の特性を実感することがほぼない。
確かに、こだわりは強い方だろう。仕事はなる早よりも納得がいくまでやりぬきたいし、趣味のプラモデルも自分が良いと思えるまで時間をかけたい。
少し潔癖気味かもしれない。濡れたものはなんとなく汚く感じるから、一度使ったハンカチはあまり使いたくない。ウォッシュレットも清潔に思えないし、そもそも他人が座った便座に座りたくないから和式の方が好きだ。
食べ物は味の苦手さよりも食感の苦手さの方が強い。あんかけかた焼きそばの、柔らかさと固さが混ざった歯触りが嫌いだ。数の子を噛み砕く時の、ぎゅむぎゅむという歯触りがつらい。
人との会話についていけない。1対1ならば落ち着いて話せるが、複数人となるとどのタイミングで口を挟めば良いのか見当もつかない。コミュニケーションではなく、タイミングよく相槌を打つだけのリズムゲームになる。
そもそも、人の声を聞き分けられない。お立ち台に上がった部長がマイクを使って話していても、周りのざわめきの声が大きく感じられて、部長が何を話しているのか全然聞き取れない。食堂で同僚の話を聞きたくても、高速道路で運転手が何か話していても、周囲の音にピントが合ってしまって何もわからない。
何より、会話の塩梅がわからない。相手に不快な思いをさせたくないから下手に出れば「何を言いたいのかわからない、お前の意見はないのか」と言われ、それを踏まえて自分なりの見解を伝えようとすると「こちらの考えを無視して強引に事を進めようとしている」と言われる。上司は「練習すれば治る」と言うが、子供の頃からそうだったのに今更治るのだろうか。
カウンセラーが自分をASDと判断したのは、上記の内容が理由だ。
正直、自分はグレーゾーンだと思っていた。けれど、中度のASDと診断された。自分は、そんなに社会に溶け込めていないのだろうか。
将来のことを考えると、不安が重なって波のように押し寄せてくる。そうして、漠然と死にたくなる。
復職に向けて準備をしていると、元に戻れるのか怖くてたまらない。
わかっている。ただ、うつ病が治っていないだけだ。ただのうつ症状だ。そうして頓服薬を飲んで、不安を紛らわせている。
自分がASDでなければ、こんな思いをしなくて済んだのだろうか。いや、自分が弱いだけだろうな。
それでも、弱音を吐き出したくてたまらない。
早くうつ病を治して元の生活に戻りたい。いや、元の生活に戻るとしたら、またあの残業地獄に戻らなきゃいけないのか。それも嫌だ。何がサブロク協定だ。
けれど、妻を置いていくのは嫌だ。
ああ、なんて儘ならない人生なんだ。
私は兄が嫌いだ。
幼少期、母に言ったことがある。
「私は兄が恥ずかしい」
母は私にこう言って泣いた。
「なんでそんなこと言うの」
私はその日以来、家で本音を話すことをやめた。
私はよく「悩みなさそう」だとか、「恵まれてるよね」だとか言われる。
実際、恵まれていると思う。
小中高大と私立に通わせてもらい、望んだ習い事は全てやらせてもらった。
大体のことにおいて成功してきたし、容姿も恵まれている方だとは思う。
性格もとんでもなく前向きで、嫌なことはすぐに忘れられる。幸せに生きることに適性がある。
何より私自身も「幸せそう」だと思われるように振る舞ってきた。
が、「悩みなさそう」「恵まれてるよね」と言われるたびに、
「悩みのない人間なんているわけがないのに、想像力のない奴だな」と思ってしまうのである。
私の兄は知的障害者だ。
兄に対してそこまでの興味関心がない。
しかし、一目見て「障がい者だ」とわかるくらいには障がい者だ。
昨今ADHDだとかASDだとかHSPだとかを自認するのが流行っている。
私の周りの人間も9割ADHDを自認している。これは盛っていない。
そういう人間を見るたび私は、
「本当の障害者でもないくせに、ファッションで障害者を名乗るな」とイライラしてしまう。
本当にそういった障害を抱えて本気で悩んでいる人には申し訳なく思う。
しかし、本当にADHDやらを自認している人間全員が、心から自分は発達障害だと声高らかに言えるのか?
何と言っても血のつながった兄が本物の障害者なのだから、私にも何らかの障害があってもおかしくはない。
が、兄を見ていると「私なんかが障害者を名乗ってはいけないな」と思ってしまう。
人並みの社会生活を送れて、人並みに友達がいて、そんな人間が障害者を名乗ってはいけない。
ここで言う人並みの人間とは、一見して“普通の人間”として社会に溶け込める人間のことである。
常ににやにやした笑顔を浮かべ、爪を噛み、くたくたのシャツを着るような、一目で障がい者とわかる人間ではない、“普通の人間”に擬態できる人間のことである。
ただの生きづらさを抱えた人間を、私は障がい者として認識はできない。
小さい頃から兄が嫌いだった。
勇気を出して、母親に「私は兄のことが恥ずかしい」と笑いながら吐露したことがある。
しかしそんな私に母は泣きながら「何でそんなこと言うの」と繰り返し繰り返し言い聞かせた。
涙を流す母を前に、私は何も言えなかった。
潔癖だった私は、爪を噛むことが癖の兄が触った場所を触るのが嫌だった。
私にとって家は、不潔な場所だった。
しかし、どうしても私は兄のことが好きになれなかった。
どうしても生理的に受け付けなかった。
何度も好きになろうとしたが、どうしても無理だった。
同じ空間にいるだけで不快感が腹の底から湧き上がってくるのだ。
両親は本当に立派な人だ。
まともなコミュニケーションが取れない兄を立派に育て上げ、兄はきちんと働いている。
この両親でなかったら、兄はここまでしっかりと育たなかっただろう。
兄がいなかったら、と。
私の反抗期はなかなか凄まじかった。
私立の学校に通っていたおかげで、所謂“グレる”ようなことはなかったが、
家の窓を割り、車を傷つけ、ヒステリックに泣き喚いていた。
今思うと、私にとって家は「安心できる場所」ではなかったのである。
兄が同じ空間にいるだけで不快感が押し寄せ、両親はそんな私の気持ちを汲み取らず、反抗期もない兄の味方をする。
まあ当たり前の話である。
私にとっては恥ずかしい兄でも、両親にとっては愛すべき一人息子なのだ。
しかし、兄がいなければ私は、もっと両親と仲良く本音を話せる仲になれたのではないか。
そう思わずにいられない。
両親は常に朗らかで、良い家庭を築こうとしている。
私だけが馴染めていないのだ。
兄がいるからだ。
兄の隣に立つのは恥ずかしい。
周りから変な目で見られている気がする。
私は子供を産むつもりがない。
兄が障害を持っているならば、私が産む子供も障害を持っている可能性が高いだろう。
無邪気に結婚し、子供が生まれたら〜と話す友人を見るたび、黒い気持ちが湧き上がる。
本当にあなたは、そこまでの覚悟を持って子供のことを考えているの?と。
両親は、私に「結婚は?」だとか、「良い人はいないの?」だとか聞いてくる。
何度「兄のせいで結婚する気になれない、両家顔合わせでどんな顔して兄を紹介すれば良いんだ」と言おうとしたかわからない。
しかし諦めている。
どうせまた「なんでそんなこと言うの」と泣かれるに決まっている。
まあありがたいことに、あまりにも幸せに生きる適性がありすぎて、結婚せずとも一人で幸せに生きていけそうである。
なんだかんだ言ったが、私は兄に不幸になって欲しくない。
幸せになってほしい。
いままで上がったり下がったりあった人生だったけれど、いまが人生のピークかもなって感じている
浪人と称して引きこもっていた時期もあった
人より遅く日東駒専レベルの大学に入って学歴コンプレックスを感じていたこともあった
でもいまいろんな努力が実ってきて人生のピークにきたかもしれない
ブラック気味のベンチャーからフルリモートの会社に転職して年収600万
仕事量はほどほどで毎日サボったり昼寝したりできて実質の労働時間は2時間ぐらい
友達以上恋人未満の相手が2人いて月1ペースでごはん食べてセックスしてる
ひとりは3歳下で、もうひとりは1歳上でタイプが違ってどっちといても楽しい
ふたりとも仕事関係で知り合ったけど勇気出してごはんに誘っていまの関係になった
どちらかが妊娠したら結婚するんだろうなーって思ってるぐらい真剣に好き
それとは別にセフレほしいなーって頑張っていま人妻3人とセフレ関係になれた
前からセックスレスを愚痴ってたからサシ飲みに誘って口説いてホテルに連れ込んだ
向こうは主婦でこっちはフルリモートだから平日の昼間に家にきてもらって一緒にお風呂入ったりしてる
人妻Bは会社の先輩で最初はランチに行ったりして仲良くなってそれから一緒に美術館めぐりするようになった
子どもができてから夫とは業務連絡しかしなくなった、と愚痴ってきたので、セカンドパートナーの話題を振ったら盛り上がってそのまま付き合うことになった
初対面から"くん付け"で馴れ馴れしいのでこっちもぐいぐい行って仲良くなった
この3人に加えて、人妻Aに「ほかにもセックスレスな友達いたら紹介して」と頼んで人妻Dを最近ブッキングしてもらった
フルリモートだからさっそく翌日の昼間に会って口説いてホテルへ行った
こっちはただセックスしているだけなのに、夫をディスりながらめちゃくちゃ感謝されて、めちゃくちゃ脳汁出た
あーこんなに楽しいことっていまだけだよな、いまが人生のピークだなって感じてる
40過ぎたら性欲も体力も落ちてくるだろうし、おっさんになって単純に男として魅力がなくなっていくだろう
いまはまだ人妻たちに「セックスしてくれる年下くん」として需要があるだろうけど、あと少ししたらただのおっさんになる
ほかの幸せを見つけられているのだろうか?
そうだとしても、こんなに毎週のように楽しみでしょうがない日があるなんてことはない気がする
今週の土曜には年上のイラストレーターと会って、来週の月曜には人妻Aが家に来る
人妻Dも呼んで3Pしたいな、もっとほかの子も紹介してほしいな
発達障害、自律神経ゴミ、こう生まれたくてこう産まれた訳じゃないんだけどな。
毎日自殺したいな、死にたいな、死にたいな、死にたいな、死にたいな、死にたいな、死にたいなって言い続ける理性を別の理性で押さえつけて、動かない本能の代わりに薬で睡眠して、これ美味しいな、好きだなって言って何とか楽しみを見いだしてるフリして、そのフリがたまにほんとにそう感じられて、それでやっと良かった生きてて、って思おうとしてる感じ。
仕事もろくにできない、体力も着いてかない、いくら気をつけてても急に気絶する自律神経のざこ。でも別に大病ではないからこれに病名がついて労働できなくても仕方ないね、って言われる訳でもない。
発達障害もそう、いやしくも年金を頂いているけれどその年金だけで飯を食える額ではない。家賃すら払えないよ。月5万くらい。
いや、5万は安くは無いよ。5万なんて大金だよ。でも生存するには少なすぎる。
けれど働くには無能すぎる。
死にたい気持ちを押さえつけて、忘れっぽくてきがそれまくる頭でなんとかスケジュールを管理して、でも忘れ物や無くし物を多発してしまうからどうしても山ほどミスが発生して呆れられたり怒られたりを繰り返し、でも悪いのはミスした私なのでそうとしか言えず。
鬱病発症しても死ぬのは迷惑だし治さなくてはならないから治そうとするけど、鬱病は治る病ではないとか、発達障害起因だからどうしようもないとかいわれ。
私が悪いんだけどなー、死にたいな、死にたいな、勇気が足りないのが悪いんだろうな。
死んでも迷惑なの面白いな。なるべく迷惑をかけずに死ぬ方法を探す人達の気持ちがよくわかるようになった。
子供部屋おじさんおばさんとして生きていくしかないのに、その親に迷惑しかかけられない。
かけないように頑張っても、その頑張の成果は普通の人にとって「できて当たり前」ラインのその以下で。
なのに一人暮らしできるほどのお金は手に入らない。仕事がまともに出来ないから。
親に迷惑かけたくない。親の正しさがつらい、親の正しさはなんも言い返せないから、毎日それで辛くなるし。でも正しさが辛いんだから悪いのは私で。
強いて親をせめるなら、言うなら、障害持ちの子供を産んだのがわるい。産んでなんて頼んでない。
でもこれってただのわがままで。わがままだけど、精一杯やってきたことは平均以下のけっかしかうまないせかいで、生かされ続けてることが辛い。
生きてる以上、痛いのは嫌だし、苦しいのも嫌だし、怒られるのだって嫌だし、楽しく、美味しく、幸せに、笑える日が欲しいけど、実際はうつ病になる程度には幸福が感じににくい。
アンパンマンの歌がにくいよ、なんのために生まれて、何をして生きるのか、に答えられないよー。
そんなのは嫌なんだけど、何して生きるの?何してというか、何ならできるの?簡単なバイトですら突然貧血起こして倒れてシフトに穴を開ける人間なんだけど。
何もしてなくても、スケジュールのことを考えてるだけですごく、疲れる、テスト勉強してるみたい。むしろテスト勉強の方が楽まである。
ADHDもASDも望んでなった訳じゃないのに、それを言い訳にするなと言われる。
でもじゃあどうしたらいいんだ、毎日生きてるだけで疲れるのに、普通の人になれないのに、この疲れてフラフラするからだと頭抱えて普通になれないで生きるくらいなら、眠るように死ぬくらいの選択肢は欲しかった。もしくは産まないで欲しかった、産んだやつが悪いと憎むのはダメなのか。それもダメか?
こんな体に産まれたことが憎い気持ちをどこに向けたらいいんだ?毎日誰かを害さなきゃいきてけない人間に生まれたくて生まれたい人なんかいないだろうに、
発達障害、自律神経ゴミ、こう生まれたくてこう産まれた訳じゃないんだけどな。
毎日自殺したいな、死にたいな、死にたいな、死にたいな、死にたいな、死にたいな、死にたいなって言い続ける理性を別の理性で押さえつけて、動かない本能の代わりに薬で睡眠して、これ美味しいな、好きだなって言って何とか楽しみを見いだしてるフリして、そのフリがたまにほんとにそう感じられて、それでやっと良かった生きてて、って思おうとしてる感じ。
仕事もろくにできない、体力も着いてかない、いくら気をつけてても急に気絶する自律神経のざこ。でも別に大病ではないからこれに病名がついて労働できなくても仕方ないね、って言われる訳でもない。
発達障害もそう、いやしくも年金を頂いているけれどその年金だけで飯を食える額ではない。家賃すら払えないよ。月5万くらい。
いや、5万は安くは無いよ。5万なんて大金だよ。でも生存するには少なすぎる。
けれど働くには無能すぎる。
死にたい気持ちを押さえつけて、忘れっぽくてきがそれまくる頭でなんとかスケジュールを管理して、でも忘れ物や無くし物を多発してしまうからどうしても山ほどミスが発生して呆れられたり怒られたりを繰り返し、でも悪いのはミスした私なのでそうとしか言えず。
鬱病発症しても死ぬのは迷惑だし治さなくてはならないから治そうとするけど、鬱病は治る病ではないとか、発達障害起因だからどうしようもないとかいわれ。
私が悪いんだけどなー、死にたいな、死にたいな、勇気が足りないのが悪いんだろうな。
死んでも迷惑なの面白いな。なるべく迷惑をかけずに死ぬ方法を探す人達の気持ちがよくわかるようになった。
子供部屋おじさんおばさんとして生きていくしかないのに、その親に迷惑しかかけられない。
かけないように頑張っても、その頑張の成果は普通の人にとって「できて当たり前」ラインのその以下で。
なのに一人暮らしできるほどのお金は手に入らない。仕事がまともに出来ないから。
親に迷惑かけたくない。親の正しさがつらい、親の正しさはなんも言い返せないから、毎日それで辛くなるし。でも正しさが辛いんだから悪いのは私で。
強いて親をせめるなら、言うなら、障害持ちの子供を産んだのがわるい。産んでなんて頼んでない。
でもこれってただのわがままで。わがままだけど、精一杯やってきたことは平均以下のけっかしかうまないせかいで、生かされ続けてることが辛い。
生きてる以上、痛いのは嫌だし、苦しいのも嫌だし、怒られるのだって嫌だし、楽しく、美味しく、幸せに、笑える日が欲しいけど、実際はうつ病になる程度には幸福が感じににくい。
アンパンマンの歌がにくいよ、なんのために生まれて、何をして生きるのか、に答えられないよー。
そんなのは嫌なんだけど、何して生きるの?何してというか、何ならできるの?簡単なバイトですら突然貧血起こして倒れてシフトに穴を開ける人間なんだけど。
何もしてなくても、スケジュールのことを考えてるだけですごく、疲れる、テスト勉強してるみたい。むしろテスト勉強の方が楽まである。
ADHDもASDも望んでなった訳じゃないのに、それを言い訳にするなと言われる。
でもじゃあどうしたらいいんだ、毎日生きてるだけで疲れるのに、普通の人になれないのに、この疲れてフラフラするからだと頭抱えて普通になれないで生きるくらいなら、眠るように死ぬくらいの選択肢は欲しかった。もしくは産まないで欲しかった、産んだやつが悪いと憎むのはダメなのか。それもダメか?
こんな体に産まれたことが憎い気持ちをどこに向けたらいいんだ?毎日誰かを害さなきゃいきてけない人間に生まれたくて生まれたい人なんかいないだろうに、
「なぜ100均のグッズに謎の英語が入っているのか」というのは、「なぜグッズデザインで『余白』は避けられるのか」という問題に置き換えられるかな。
入れなければいいものが入る。
なぜなのか。
人が余白を埋めたくなるのって、見た目が寂しいからというより、「ここどうするか」を自分で決めなきゃいけないのが怖いからなんだと思う。
脳って、意味のない空間とか未完成っぽい状態が本能的に苦手で、空いてると「まだ何か入れるべきじゃない?」って勝手に不安になる。
だから文字でもアイコンでも何か置くと、とたんに「完成した感じ」がして安心する。逆に言うと、余白をそのまま置いておくって、不完全さに耐える行為なんだよね。
それに、余白を残すって実はめちゃくちゃ判断がいる。
どこが主役で、重心はどこで、視線はどう流すか、全部自分の責任になる。これがしんどいから、とりあえず情報を置いてしまえば「判断しなくて済んだ気」になれる。
チラシがゴチャつくのも、大抵はここが原因で、空白が怖い、情報が多い方が親切、たくさん詰めた方が仕事した感が出る、みたいな感覚が重なっていく。
看板もPOPも文字だらけで、情報が多いほど価値があるっていう感覚で育ってるから、余白を見ると「スカスカ」「もったいない」「気まずい」って感じやすい。
さらに実務になると、余白って説明がすごく難しい。「ここ空いてますね、何か入れませんか?」って言われても、「ここは余白が必要なんです」ってちゃんと納得させるの、かなりコストが高い。面倒だから先に埋めてしまう、修正を避けるために埋める、って流れにもなりやすい。
しかも、多くの人は、余白が主役を引き立てたり、情報を整理したり、高級感や呼吸感をつくるっていう「機能」をちゃんと教わっていない。
ただの「空き」だと思っているから、「これは埋める対象だ」って判断になってしまう。
だから余白が耐えられないのって、センスがないとかじゃなくて、脳の性質と心理と文化と実務と教育が全部重なった結果なんだと思う。
余白は勇気。
ずっと使っていた古いAirPodsが充電できなくなった後、有線イヤホンでしばらく凌いでいたのだが、いよいよ今回のブラックフライデーでAirPods4を購入した。
届くまでワクワクして待ち、届いてからもノイズキャンセリングや空間オーディオなどの機能をニコニコ試し、良い買い物をしたと満足していたのだが、特別音質などにこだわりがある人間ではないため、AirPods4が当たり前になってしまうと、結局のところ音楽を聴くという本質自体は有線イヤホンと変わらないんだよな、別に買わなくても困りはしなかったよなという気持ちになってきた。
自分はAirPodsそのものにウキウキしてたわけじゃなくて、生活必需品ではないし衝動買いするには高いものを買うかどうか悩んで、勇気を出して買い、手元に実物が届いて、新機能を試すというプロセスにウキウキしてたんだなあ。通販中毒の人とかも買い物自体が楽しいんだろうな。未知が既知になると一気に興醒めしてしまった。もちろん買って後悔したというわけではないので、たまに有線イヤホンを使って、AirPodsの新鮮さを確かめることにしたいと思う。
✕アメリカ軍がでて
「存立危機事態(=限定的な集団的自衛権)」の3要件は、ざっくりこうです:
ここに当てはまりそうかどうかで
くらいに分けてみます。
法技術的には「台湾も日本と密接な関係にある『他国に準ずる主体』だ」とか、
「台湾陥落は日本の存立を危うくする」と論じる余地はゼロではないですが、
現行の政府説明・国会答弁からすると、ここでいきなり存立危機事態と認定するのは相当ハードルが高いと思っておいた方が現実的です。
「封鎖が日本の存立を脅かす」として、政府が 「存立危機事態になり得る」 と答弁してきたのはまさにこういうパターンに近いです。
ただし、①(密接な関係にある他国への攻撃)をどう構成するかでまだ議論の余地があるので、理屈は立つが政治的には相当繊細なゾーン。
ここは、もはや集団的自衛権の前に個別的自衛権がドンと立つケースです。
が二重に成立し得る状況です。
「台湾有事を理由にした対日攻撃が来たら、自衛隊が反撃しない選択肢はほぼない」レベルと言ってよいゾーン。
このケースは「集団的自衛権の線引き」というより、
「台湾有事に巻き込まれて日本が直接殴られたらどうするか」という話になります。
| ケース | 中身 | 存立危機事態(集団的自衛権)として |
|---|---|---|
| 1 | 台湾外島で小規模衝突・米軍不介入 | ほぼアウト(重要影響事態どまりが現実的) |
| 2 | 台湾本島侵攻・米軍は遠方から関与、日本無傷 | ほぼアウト〜グレー(理論構成は可能だが政治的にかなり重い) |
| 3 | 台湾封鎖+日本向けシーレーン・通信に致命的打撃 | グレー〜ぎりぎりセーフ候補(政府が「なり得る」と言いそうなライン) |
| 4 | 台湾有事を口実に在日米軍基地・日本本土にミサイル攻撃 | ほぼ確実INだが、主役は個別的自衛権(日本防衛)。CSDも併存し得る |
| 5 | 台湾有事の現場で日本船舶・海保・自衛隊だけ攻撃 | ほぼ確実INだが、これも基本は個別的自衛権の枠組み |
…というイメージです。
この12月になってというか年末になるとやんなくちゃ!って行けない事項の事柄が多くなるのよね。
私も夏に眼科行かなくちゃ行かなくちゃ行けたら行くから詐欺ではないけれど、
結局今の今まで行けてないじまいなのよ。
1つ1つずつ解決よ。
そんでさ、
私が持ってこよう持ってこようと思って待ち構えてずーっと買ってから家においたまんまで忘れちゃっている来年のスケジュールノート。
私手帳はつけない派とは言っていたけど
ウイークリー予定表のノートはあってさすがにそれでお仕事のこととかをやってる風な体裁に外側からの人が見たときに分かるように取り繕える感じでつけてはいるのよね。
それも、
いよいよ来年の予定も始まってきているので、
来年のページがもうないのよ!
鬼気迫るこの年末感!
来年の各ページがないから早いところ可及的速やかに家においてあるウイークリーの予定帳をできるだけ早くそろそろ本気で持ってこなくちゃってことなの。
なんかやっぱり手帳コーナーって寄ったら欲しくなるから寄らないつもりなんだけど、
もしかしたら来年はバッチリみっちり1日1ページの手帳にしっかり書き込んで充実した1日になるかも!って思っていても
毎年もうお正月開けて3日以降は紙が真っ白のままで11月頃に気付くのよね。
ああ、
何も書いていないことを一番悔い入る季節でもあるのよね。
今年も真っ白か!って
手帳の白さに併せて12月にふる白い雪のように思いを重ねるの。
白いわね!って
そんで、
12月になったら急に来年からはまるで新しく自分が生まれ変わるかのように急にバッチリ手帳が書ける自分になるつもりの思考が走り巡るのよね。
私はこの自分自身に12月に特にやって来る手帳欲しい病からなんとかして、
手帳コーナーに寄りつかないようにしていることを気を付けているのよね。
対外的に私がお仕事をしていますよ!って感じを漂わせられるようにある程度の体裁を保ちつつ書くことはあるんだけど、
ものごとは上手く行かないわね。
かと言って、
いまさら手帳を書くやる気を継続して1年キープするためにはどうしたら良いの?ってAIたちに尋ねるのも尋ねたとて、
それは3日と持たないのよね。
とはいえさ、
気が付いたときにメモをメモることを忘れない限り書くんだけど、
そっちに書いているから、
本編の手帳に書くことがないのかしら?
あれはあれでいいんだけど
文字通りの紙片なので、
ちぎって風に飛ばせば飛んで行っちゃうのよね。
手帳となると一応は1年分まとまって存在して固まっているので、
窓辺に置いておいても風で飛ばされちゃうことが少ないと思うので、
そういったメリットもあるのよね。
私は来年こそは手帳付ける謎の自信に満ちあふれるこの12月に自分の気持ちを確かめるために、
手帳コーナーに出向いてみようかしら?って思うの。
でさ、
その風格って結構脅威じゃない!
こっちもきっちり気持ちを整えて書かなくちゃ!って構えちゃうというか、
ブロックメモなら真っ白いのでどこに適当に雑に書いても気にしない感じでどんどん書けるから、
そう言ったことがあるのよ。
あれ?
もしかして私っていまだ本格的な1日1ページの手帳に緊張しているのかしら?
格式高くそして丁寧な生き方をしなさい!どーん!って開いたらそう整った1日1ページの手帳の威圧感に襲われていたのよ!
今気付いたけど、
そう言うことだったかもしれないことはないかも知れないかもってことはないわよね?
そんで、
さらに気付いたけど
1つ2つ3つのことを書いたら、
紙面がぎっしりみっちりなんか書いた感が急に出てくるので、
中身はともかくメモ書くテクニックは上達してんじゃね?って錯覚に陥るのよね。
そんでその錯覚に陥ったままのバイブスで挑む手帳売り場に出向いて強敵の1日1ページの手帳を買って年明けの早々4日目には後悔の念をする羽目になるのよ。
あの小さな手のひらに収まるような紙片のブロックメモが私にぴったりあっていていいのかもしれない。
きっとそう考えると合点がいくわ!
でも勇気を出してこのブロックメモを書いてる感醸し出しているいま勢いの良いバイブスのまま
欲しい気持ちが本当なのかウソなのか自分自身に試す機会でもあるわ!
急須で淹れたようなお茶の美味しさのペットボトルお茶飲料の綾鷹を一回そのまま急須に入れてコップに入れて飲むのがさらに美味しくなる丁寧な生き方なのかしら?
シャンプーの詰め替えを
元からある容器に詰め替えるんじゃなくって、
お洒落な透明のシャンプー入れ容器に入れて結局シャンプーかトリートメントかどっちか分からなくなってワンプッシュして確かめることが丁寧な暮らしなのか?
ジャガイモを皮剥くのが面倒くさいからピーラーでさっと剥くんじゃなくって、
洋包丁じゃなくてちゃんとジャガイモ皮むき専用のペティナイフでジャガイモの皮を剥いて作るカレーが丁寧な暮らしなのか?
意外と丁寧な暮らしの丁寧って何よ?って思うわ。
スプラトゥーン3の塗りエリアの誰も塗らない雑になっている角っこを丁寧に塗るのが丁寧な暮らしなのかしら?
それはちゃんと隅っこまで私は塗ってるけれどね。
私がいくら考えても丁寧な暮らし大喜利に対する丁寧な答えが見付からないのよね。
とりあえず、
シャンプーとか詰め替えしても、
容器が満タンにならずに3分の2ぐらいの容量の量しか入っていない詰め替えようって本当にお得なの?って正直思っちゃうわ。
3分の2の量じゃ物足りないのよね。
100の容器に60ぐらいしかない量の詰め替えも下手したらない?
逆に、
こないだ塩コショウを詰め替えしたら、
それは100の量の容器に詰め替え用のは150ぐらいの量があって1回じゃ入りきれない本気の椀飯振舞を見たの!
うわ!
引き出しにしまったの。
ああ!
これが丁寧な暮らしなのね!って
でもそれすっかり忘れていて
この12月の年末を機に整理してたらキッチンの奥の引き出しから出てきたのよ!
忘れていた余った詰め替え用の塩コショウがラッキー発掘されたのと同時にまたもう1つ丁寧な暮らしをしてしまったわ!って
あまりの自分の塩コショウに対する丁寧な暮らしさ加減がマックスなことにビックリしてしまったわ。
きっと、
うふふ。
松山ケンイチさんのシーエムに誘われてメガ盛りやってるタマゴサンドを求めてコンビニに飛び込み前転で入店したんだけど
大盛りフェア終わってたの?
ハッキリしないけれど、
なんか終わってたっぽいわ。
せっかくそのタマゴサンドの実力を!って確かめてみたかったのに!
代わりにせっかくなので普通のそのお店にあったタマゴサンドにしてみました。
今度いつで会えることかしら?
このチャンスの機会を逃しちゃったから再登場に期待しちゃうわ。
朝電気ポットでタイマーで飲み頃温度70℃で沸いているホッツは
起きてすぐに飲めるので超助かるわ。
今朝方はまだ寒さマシだとはいえ、
これからどんどん寒くなるって言うじゃない?
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!