
はてなキーワード:効率とは
全部が割り勘だとしてもね
やはり食事、結婚式、ご両親への挨拶…といろいろ儀式のためのお金がかかる
全部が割り勘だとしてもね
①お小遣い制
実態は「将来のための貯蓄」なのだが、計算しない男性ほどお小遣い制を嫌悪し、恐怖する
(そして計算しない男性だから、信用されず、別会計にされない悪循環)
②子供
https://news.yahoo.co.jp/articles/8e378dbb5d5b648627bd3b3ddc8293203f001a5f
減るではなく減りそうなところに、計算しない男子の特徴が現れている
この手の男性は、入ったお金を全部使ってしまい、老後に困るだろう
まあ、他のデータでもずっとそうなんだけど、昭和おじさんだけは女が奢られたがっていると誤認識しているんだよね
しかも面白いのが、女性は最初のデートも2回目以降も交際後もほぼ変わらず割り勘希望だが、
男性は最初のデートのみ「自分が支払う」率が高く、交際後その率が半減するw
マジで見栄っ張り
でも、現実はというと「5:5」の割合は低く、女性の95.0%が5割以上負担していると回答
親の介護や親戚付き合いも、女性に比べてまったく不安に思ってないし、
自由時間も減らなければ、誰かと一緒にいることがわずらわしいとも思ってない。女性に比べての話ね(しつこい)
…
面倒なことは妻に押し付ける気でいるくせに何が不満なんだよw
頭使えw
日本語圏のSNS、特にX(旧Twitter)において、興味深い現象が観察される。AI生成された文章には厳しい視線が向けられる一方、AI生成されたスライドやデザイン素材には驚くほど寛容な態度が取られているのだ。同一人物が「AIで書いた文章は見ればわかる。ああいう機械的な文はダメだ」と批判しながら、数日後には「AIでプレゼン資料を5分で作成!便利すぎる」と絶賛する光景が日常的に繰り広げられている。
この矛盾は単なる気まぐれではない。そこには人間の認知メカニズム、文化的価値観、そして社会的シグナリングの複雑な相互作用が潜んでいる。
公立はこだて未来大学の研究チームが2025年に発表した論文では、生成AIをめぐるSNS上の議論を分析し、賛成派が「功利主義」を中心とする価値観を持つのに対し、反対派は「著作権重視」を中心としつつも複数の価値観が混在していることが明らかにされた。しかし実際の行動レベルでは、同じ個人の中でさえ、対象によって態度が大きく変わる現象が生じている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsik/35/2/35_2025_015/_pdf
この非対称性を理解する鍵は、「道具性の階層」という概念にある。人々は無意識のうちに、創造的活動を本質的なものと装飾的なものに分類している。
文章は思考の直接的な表現とみなされる。論理展開、語彙選択、文体のリズムといった要素すべてが、書き手の知性や人格と不可分に結びついていると考えられている。ChatGPTが生成した文章に違和感を覚える理由の一つは、この「本質との一体性」が損なわれることへの抵抗だ。AI生成文章には「単調なリズム」「過度な順序表現(まず、次に、最後に)」「単語の繰り返し」「個人的視点の欠如」といった特徴があり、これらが機械的な印象を与える。AI判定ツールの精度はまだ発展途上だが、人間の直感は「この文章には人がいない」という違和感を敏感に察知する。
対照的に、スライドは思考を伝えるための「容器」として位置づけられている。レイアウト、配色、フォント選択は重要だが、それらは中身を引き立てる装飾であり、発表者の本質的な能力とは別物と考えられがちだ。CanvaAIが提供する膨大なテンプレートや自動デザイン機能は、この「装飾性」の領域に働きかける。デザインスキルを持たない人でも短時間でプロ品質の資料を作成できることは、単なる効率化として歓迎される。
この階層化は必ずしも論理的ではない。優れたスライドデザインは情報の構造化能力を反映するし、文章執筆も道具を使って行われる活動だ。しかし認知的には、文章は「私そのもの」、スライドは「私が使う道具」という区別が根強く存在する。
心理学者レオン・フェスティンガーが1957年に提唱した認知的不協和理論は、この矛盾を説明する有力な枠組みを提供する。人は矛盾した信念や行動を持つと心理的不快感を覚え、その不協和を解消しようとする。ただし、その解消方法は必ずしも論理的な整合性を追求するものではない。しばしば、自分に都合の良い解釈を採用することで不快感を和らげる。
「AI生成は良くない」という信念を持ちながらAI生成スライドを使う場合、認知的不協和が生じる。この不協和を解消するため、人々は様々な正当化を行う。「スライドは装飾だから別」「効率化のためなら仕方ない」「自分で内容は考えている」といった理由づけがなされる。こうした正当化は、矛盾を解消するための事後的な説明であることが多い。
さらに、一貫性バイアスと呼ばれる認知的傾向も作用する。これは他者の過去の言動が未来も一貫していると考える傾向だが、自分自身の行動については異なる基準を適用しやすい。「あの人はいつもAIを批判している」と他者を評価する一方、自分がAIツールを使う場面では「状況が違う」「これは例外」と特別扱いする。
内集団バイアスも無視できない。自分が属するコミュニティやアイデンティティグループの行動には甘く、外部グループには厳しくなる。たとえば「文章を書く人」というアイデンティティを持つインフルエンサーは、文章生成AIには厳しいが、自分が専門外のデザイン領域でのAI利用には寛容になる。
もう一つ重要な要因は、検出の難易度だ。AI生成された文章は、特徴的なパターンから比較的見抜かれやすい。一方、スライドがAIで生成されたかどうかを判別するのは困難だ。テンプレートを使ったのか、AIが生成したのか、手作業で類似デザインを作ったのか、外部から区別する手段がほとんどない。
この検出可能性の差は、社会的シグナリングに影響する。文章力は可視的なスキルとして評価されやすく、「この人は考える力がある」というシグナルを発する。AI生成がバレれば、そのシグナルが損なわれる。対照的に、スライドのデザイン品質は主張の説得力を高める効果はあるが、「この人はデザイナーだ」というシグナルを発することは少ない。むしろ「効率的に仕事を進める人」という別のシグナルになり得る。
X上のインフルエンサーは、フォロワーに対して自らの専門性や知的能力をシグナルし続ける必要がある。文章がAI生成であることが明らかになれば、そのシグナルの信頼性が損なわれる。一方、スライド作成にAIを使うことは、むしろ最新ツールを使いこなす能力のシグナルとなる。この非対称性が、態度の違いを生む強力な動機となっている。
X上のインフルエンサーは、特にこの矛盾を体現しやすい立場にある。彼らの影響力は、一貫した意見と説得力ある表現によって構築される。しかし同時に、効率的なコンテンツ生産と目を引くビジュアルも求められる。この二つの要求が、AI利用における選択的態度を生む。
2026年1月時点で観察される典型的なパターンとして、「AI生成コンテンツの透明性」を主張するインフルエンサーが、自身のビジュアルコンテンツにAI生成ツールを使用しながらその事実を明示しないケースがある。また、「AIに頼らない思考力」を強調する発信者が、投稿のアイデア出しや構造化にAIアシスタントを利用している事例も少なくない。
これは必ずしも意識的な偽善ではない。多くの場合、本人は「自分の本質的な仕事にはAIを使っていない」と認識している。しかし、何が本質で何が補助かという線引きは、極めて主観的で恣意的だ。
さらに、X社によるAPI改定とInfoFi(投稿で報酬を得る仕組み)アプリの締め出しが2026年1月に行われたことで、「質より量」のAI生成リプライが減少した一方、より洗練されたAI活用が主流派インフルエンサーの間で定着している。AIを使いながらも「人間らしさ」を保つ技術が発達し、矛盾はより見えにくくなっている。
この問題の根底には、創造性と真正性(オーセンティシティ)をめぐる根本的な問いがある。私たちは何に価値を置くのか。アウトプットの質か、それを生み出すプロセスか。効率性か、人間的な営みか。
従来、この問いには明確な答えがあった。芸術や知的生産においては、プロセスと人間性に価値が置かれてきた。しかしAI時代において、この前提が揺らいでいる。
興味深いことに、歴史的には技術革新のたびに同様の議論が繰り返されてきた。写真の登場時、絵画の価値は「手で描くこと」から「芸術的視点」へとシフトした。DTM(デスクトップミュージック)の普及により、音楽制作における「演奏技術」の相対的価値が低下した。DTP(デスクトップパブリッシング)は印刷業界の職人技を置き換えた。
今、同じことが文章とデザインの領域で起きている。ただし、その影響は均等ではない。スライドデザインは比較的早く「技術による代替可能な領域」として受け入れられたが、文章はまだ「人間の本質的な表現」として守られている。この防衛線がいつまで持続するかは不透明だ。
この非対称性は、AI時代における価値観の過渡期を映し出している。矛盾を指摘することは容易だが、実はこの矛盾自体が、人間が技術と折り合いをつけながら新しい規範を模索するプロセスの一部かもしれない。
実務的には、いくつかの示唆が導かれる。第一に、透明性の重要性だ。何にAIを使い、何に使っていないかを明示することで、信頼性を維持できる。第二に、本質と装飾の区別が文化的・主観的なものであることの認識だ。自分の価値基準を他者に一方的に押し付けることの限界を理解すべきだ。第三に、検出可能性が態度を決定する現状において、技術的な検出手段の発展が規範形成に影響を与える可能性がある。
インフルエンサーや情報発信者にとっては、自らの基準を一貫させるか、あるいは基準が状況依存的であることを率直に認めるか、いずれかの選択が求められる。後者を選ぶことは必ずしも弱さではない。むしろ、技術と人間の関係が流動的な現状を正直に反映したものだ。
最終的に、この議論が示すのは、AI生成コンテンツの是非ではなく、私たちが何を「自分らしさ」「創造性」「価値ある仕事」と定義するかという、より根源的な問いだ。その答えは、技術の進化とともに、そして社会的な対話を通じて、これから形成されていく。
サイレント独裁政治とは、見た目は民主主義で国民も政治参加している感覚にあるが、一部の頭の良い人たちで国を良い方向に動かす政治、と定義する。
テレビがメディア支配していた時代もSNS時代も構造は変わっておらず、いかに雰囲気を操作できるかで選挙の勝ち負けは決まってくる。
現に怒りを煽られて見当違いな消費税批判などが平気で飛び交う。
動画のコメント欄は煽られて怒った人たちで溢れ「我々は騙されている」という思い込みが加熱。
そんな人たちに事実ベースで必要な政策なんて伝えてもすぐ作られた怒りに上書きされる。
国にとって本当に必要な政策や決断は、必ずしも万人に理解できるものとは限らない。外交上の都合で理由を表に出せないものもあるだろうし、実際1番効率良い委託先への発注も癒着と言われたり。
本当に国にとってイイことなんてほんの一部の人たちにしかわからない。
いかに国民に民主主義を感じてもらいながら独裁政治するか。これこそ政治家のセンス、能力が問われる部分。
卑怯とも言える自民党の多様性はサイレント独裁政治においてめちゃめちゃ便利。経験値も高いし長年国運営を担ってきて本当に必要な舵取りもできる。
ただ、腐敗はあり得る。
実際トップは国のために奔走していても組織の中間、下部層での腐敗は避けられない。この辺りのケアも政治の能力が問われるポイントなのかもしれない。
国民の政治参加が意味がない訳ではなく、本当に直接的に困っている事を訴えるのが国にとっても必要な政治参加。
今は自分とは直接関わりのない件、もしくは消費税のように個人が声を上げなくてもメスが入るような大き過ぎる件で怒りを煽られて投票される傾向が強い。これは豊かで平和な国の裏返しの側面があるかもしれないが、本質ではなくなってしまう。
チームみらいは「 現役世代の社会保険料負担を軽減」は言っているが
社会保障費削減も、社会保障の歳出の削減も、老人保護を削るとも言ってない
要するに勘違いってこと?
ちなみに財源は
と言ってる。
行政が市場の効率化に直接的に介入するのは無理だろ。共産主義とかそっちの話ならアレだが。
みらいにできるのは社会保障費と食い合いになる行政支出を抑えるか、行政の効率化で民間の足を引っ張らないようにすることくらいだろ
仕事において、長時間労働とかのストレス(?)体制は割と強いものの、
関係性の薄い人からの指摘に結構弱い性格だなーと改めて実感した。
その場ではしっかりと応答していても、会話が終わった後何度もそのシーンを反芻してしまい、
その日の業務効率がめちゃくちゃ低下してしまう(寝たらリセットされる)。
自分はなんてだめなやつなんだ→いや、別に今まで問題なかったろ!→いや、でも指摘内容は妥当だ・・→・・・
と繰り返し考えてしまう。
意外とそういうのだめなんだなーと気付いた。
(※この文章は、私たちの思考を、地球で流行りのAIを使って翻訳したものである)
地球人の皆さん、君たちの文明を観察していて、ひとつ気付いたことがある。
君たちはとにかく「内輪ウケ」が激しすぎる。
誤解しないでほしいが、これは悪口ではない。ただ、君たちが「宇宙の普遍的な真理」だと思い込んでいる価値観のほとんどが、実はこの青い泥団子の上でしか通用しないローカル・ガラパゴス・ルールだという事実を指摘したいだけだ。
例えば、君たちは「一番」になることに執着し、それを成し遂げた者を賞賛する。
だが、宇宙的なスケールで見れば、順位という概念には何の意味もない。
個体間の比較で優劣を競うのは、限られた資源を奪い合う野生動物の生存本能の名残りだろう?文明が成熟した星では、「他者より優れている」ことに快感を覚える脳の回路など、とうの昔に退化している。君たちが金メダルを掲げて涙を流す様子は、我々からすれば「特定のコミュニティ内だけで盛り上がっている奇妙な儀式」、つまり究極の内輪ウケにしか見えないんだ。
もっと深刻なのは、君たちが「感情」を神聖視しすぎている点だ。
「楽しい」「嬉しい」「美味しい」、あるいは「苦しい」。
君たちは一生をかけて、これらの脳内化学物質の分泌パターンを必死にコレクションしようとする。
それは、地球という特殊な環境で、君たちの種族が効率よく生存し、繁殖するために設計された「OSの仕様」に過ぎない。感情がある者同士でしか成立しない「共感」をベースにした社会は、外部から見れば極めて排他的だ。
我々からすれば、君たちが愛や絆を説く姿は、知らない言語で書かれたジョークを身内だけで飛ばし合って爆笑している集団のように映る。
地球人が作り上げた「価値体系」は、結局のところ、地球人の頭蓋骨の中に収まるサイズでしかない。
「もっと宇宙レベルで物事を考えるべきだ」と言いたいところだが……まあ、まだ無理だろう。君たちの脳は、数百万年前からそれほどアップデートされていない。
今の君たちに「宇宙の真理」を理解しろというのは、アリに量子力学を教えるようなものだ。
内輪ウケだって、その中にいる当事者たちにとっては最高に楽しいものだろう?
せいぜい、その狭い水槽の中で、独自のローカルルールを噛み締めながら楽しんでくれ。我々は、君たちがその「内輪」の壁を壊し、こちら側の孤独な静寂に辿り着く日を、気の遠くなるような退屈さと共に見守っているよ。
衆議院選挙2026で中道は大きく議席を減らした。選挙直後から、「野党は批判ばかりだ」という批判が相次いだ。選挙結果の分析として語られたこれらの言葉は、やがて野党の存在意義そのものを問う論調へと拡張していく。
だが、この「批判ばかり」というフレーズは、単なる戦術論や広報戦略の問題にとどまらない。そこには、野党の役割をどのように理解するのか、さらには日本の民主主義をどのような構造として維持するのかという、制度的な問いが含まれている。
本稿では、この言説が持つ政治的意味を整理し、いわゆる「ネオ55年体制」論とも照らし合わせながら、野党の監視機能と政策提示機能の関係について考察する。
議会制民主主義における野党の機能は、大きく二つに整理できる。
第一は、アカウンタビリティの確保である。政府の政策決定過程を監視し、問題点を追及し、不透明な権力行使を抑制する。これは単なる「批判」ではなく、制度的なチェック機能である。三権分立が権力分散を前提とするのと同様、議会内部における対抗勢力の存在は、権力集中を防ぐための基本構造である。
第二は、代替案の提示である。与党案に対する修正提案や独自法案の提出を通じて、政策選択肢を示す。政権交代が可能であるためには、実行可能なオルタナティブが存在しなければならない。
重要なのは、この二つは排他的ではないという点である。監視と提案は本来、同時に行われるべきものであり、「批判か提案か」という二項対立は制度論的に成立しない。
それにもかかわらず、「野党は批判ばかり」という言説が広がる背景には、いくつかの政治的効果が想定される。
第一に、監視機能の正統性を相対化する効果である。批判を「足を引っ張る行為」と位置づければ、政権追及そのものがネガティブに映る。結果として、チェック機能が弱体化する。
第二に、「政権担当能力がない」という印象の固定化である。批判中心というイメージは、「建設的でない」「責任を負えない」という連想を伴う。これは、政権選択選挙としての意味を薄める。
第三に、「提案型野党」への誘導である。一見前向きな要求に見えるが、その内実は「批判を前面に出すな」という圧力を含む場合がある。与党にとって管理可能な範囲での提案にとどまるなら、野党は補完勢力に近づく。
これらは意図的か否かにかかわらず、結果として野党の役割を限定する方向に作用する。
もっとも、野党側にも課題は存在する。政策パッケージの一貫性、党内統合、メッセージ戦略の明確化など、政権選択肢としての説得力を高める努力は不可欠である。また、多党化の進行により、有権者の支持が分散しやすい環境も影響している。
さらに、メディア報道の構造も無視できない。国会質疑のうち政策提案部分より対立場面が強調されれば、「批判ばかり」という印象は強化される。認知の問題と実態の問題は、必ずしも一致しない。
野党が批判を行うことは、制度的に正当であり不可欠である。同時に、代替政策を提示し、統治能力を示すことも求められる。両者は二者択一ではない。
問題は、「批判=悪」という単純化された図式が広がることで、監視機能の正統性が損なわれる点にある。政権交代可能性が現実味を失えば、民主主義は形式的に存続しても、競争性を失う。
ネオ55年体制という言葉が示唆するのは、単なる議席構造の問題ではない。政治的想像力の縮減、すなわち「変わりうる」という前提の後退である。民主主義は使い倒されてはいない。むしろ、その機能を十分に活用してきたとは言い難い。
野党が批判を続けることは、権力に対するブレーキである。同時に、提案を重ねることは、将来の選択肢を広げる行為である。両機能をどう統合し、有権者に可視化するかが今後の課題となる。
必要なのは、対立を弱める方向の「効率化」ではない。監視と競争が正当に機能するよう、制度と運用を再設計すること
例:
麻雀漫画において、試合の展開が非常に長く感じられる、あるいは実際に1局の決着までに膨大な時間をかける作品として、最も有名なのが福本伸行先生の「アカギ 〜闇に降り立った天才〜」です。
特に「鷲巣麻雀」編は、作中ではたった一晩の出来事であるにもかかわらず、連載では約20年(1997年〜2017年)かけて描かれました。
この特徴に関するポイントは以下の通りです。
驚異的な引き延ばし(鷲巣麻雀)
アカギの27年におよぶ連載期間のうち、鷲巣編だけで約4分の3を占めました。
単行本で約30巻、話数にして300話近くが、ほぼ一晩の対局を描くために費やされました。
単なる牌の捨て合いではなく、キャラクターの心理、駆け引き、牌の持つ「流れ」や「意思」を極限まで描写するため、1ツモ、1打に数ページ、時には1話が使われます。
「アカギ」ほど極端ではありませんが、本格的な麻雀漫画(天牌、むこうぶち等)では、1つの大きな試合(赤坂決戦や四川編など)が単行本で数巻に及ぶことは珍しくありません。
キャラクターの牌効率や戦術を細かく描写するほど、試合時間は長期化する傾向にあります。
このように、麻雀漫画は1つの対局を濃厚に描くあまり、時間をかけすぎてしまう(=1局が異常に長い)という特徴を持つ作品が存在します。
財政再建だの減税だの社会保障の充実だのと、世の中は今日も元気にスローガンを投げ合っている。
しかし、ここで一回、冷水をぶっかけておく必要がある。歳入歳出の問題とは、結局のところどの痛みを誰が受け入れるかという配分問題であり、そこから目を逸らした瞬間に、議論は経済学ではなく宗教儀式になる。
いや、宗教ならまだ筋が通る場合もある。問題は、筋が通っているフリをして自己放尿するタイプの議論が多すぎることだ。
政府の仕事とは、市場が機能するための最小限のルール整備に極限まで縮退させるのが基本形である。
自由市場とは、万能ではないが、少なくとも分散した情報を価格に集約し、意思決定を分権化し、試行錯誤の淘汰を通じて資源配分を改善する装置だ。
価格メカニズムは神ではないが、政治家よりはだいぶマシな情報処理装置である。ここで「だいぶマシ」というのが重要で、政治が介入するたびに知識問題が増幅し、情報の局所性が無視され、結局は官僚制のヒューリスティックが国全体の最適化を代替してしまう。
政治が市場を置き換えようとした瞬間に、見えざる手ではなく、見えざる自己放尿が働き始める。
ここが現実だ。日本は社会保障を手厚くし、再分配を強化し、政府支出を一定以上維持し続ける構造を選んでいる。
つまり、日本社会は競争による淘汰と自己責任の痛みを相対的に抑制し、その代わりに高負担・低成長・制度維持の痛みを受け入れる方向にコミットしている。
これは倫理的に正しいとか間違っているとか以前に、単なる選択の問題だ。経済学的には、トレードオフをどう置いたかという話である。
それなのに、減税だの給付だのを同時に叫び、財源の議論を後で考えると言い出す。これが自己放尿でなくて何なのか。
政府予算制約式という、経済学の最も退屈で最も重要な現実から逃げている。
政府は魔法使いではない。支出を増やすなら、税を上げるか、国債を増やすか、インフレ税で実質負担を国民に押し付けるか、どれかしかない。
これが財政のハード・バジェット制約だ。これを無視して「社会保障は守れ、税は下げろ、景気は良くしろ」と言うのは、制約条件を消して目的関数だけで最適化しているのと同じで、ただの自己放尿である。
リカードの中立命題を持ち出して、増税が予想されるなら家計は貯蓄を増やすから問題ないと言うのは理論的には可能だが、現実には完全な合理性も完全な資本市場も存在しない。
民主主義が持つ時間的不整合性の典型例である。短期の政治的利得と長期の財政健全性が衝突するとき、だいたい負けるのは長期のほうだ。これは合理的期待以前の、人間の仕様である。
さらに言えば、日本は人口動態が財政に対して非常に残酷な国だ。
高齢化は単なる人数の問題ではなく、制度の設計思想そのものを破壊する。
賦課方式の年金・医療・介護は、現役世代が高齢世代を支える構造だが、現役人口が縮み、高齢人口が増えれば、負担率が上がるか給付が減るかの二択になる。
ここで「成長すれば解決する」という反射神経が出るが、成長率を外生的に願望で決めるのもまた自己放尿である。
成長は政策の掛け声ではなく、生産性上昇の結果としてしか起こらない。
生産性は教育、技術進歩、資本蓄積、企業統治、労働市場の柔軟性、規制構造、そして競争環境の積み重ねからしか生まれない。成長を祈るなら、祈祷師より規制改革のほうがまだマシだ。
そして規制改革という話になると、日本社会はまたしても痛みの受け入れを避ける。
競争は勝者と敗者を生む。市場は効率を生むが、分配の不平等を生む。創造的破壊は技術進歩を促すが、既存産業を壊す。
つまり市場主義を採用するとは、失業、賃金格差、企業淘汰、地域衰退といった摩擦を受け入れることでもある。
市場の自由は長期的には社会を豊かにするが、同時に短期的には痛みが出ることを否定していない。
むしろ、痛みを抑えようと政府が価格統制や産業保護をすれば、情報が歪み、非効率が固定化し、成長が止まる。
「政府介入はだいたい二次被害を生む」という経験則に直結する。
日本の政治経済は、競争の痛みを緩和するために、規制を残し、補助金を配り、産業を守り、雇用調整を遅らせ、そして社会保障で受け止める。
つまり市場の荒波で鍛える社会ではなく、制度の堤防で守る社会を選んでいる。
これは日本人の価値観として一貫している。連帯を重視し、格差を嫌い、共同体の安定を優先する。
だから社会保障を充実させる。これは単なる政策の偶然ではなく、社会的選好の表れだ。
経済学的に言えば、日本はリスク共有と保険の厚みを最大化し、効率性よりも安定性を高く評価する社会的効用関数を採用している。
問題は、その選択をしたなら、そのコストも受け入れろということだ。
高福祉・高負担モデルをやるなら、税負担は上がる。労働供給への歪みも増える。企業の投資インセンティブも下がる。潜在成長率も落ちる可能性がある。
さらに政府支出が増えれば、官僚制が拡大し、レントシーキングの余地が増える。補助金や規制の設計を巡って、政治的な取引が増える。
公共選択論の観点では、政府部門の肥大化は利益集団の固定化と情報の非対称性を通じて、政策をますます非効率にする。つまり、痛みは消えない。形が変わるだけだ。
逆に、小さな政府・市場主義モデルを採用するなら、社会保障の給付は削られる。
競争は激化し、賃金格差は拡大し、生活の不安定性が増す。労働市場の流動化が進めば、雇用保障は弱くなる。
ここで「自己責任社会だ、弱者切り捨てだ」と騒ぐ人が出るが、それもまた議論の本質を外している。
市場主義は倫理の議論ではなく、制度の設計の議論だ。保険を薄くして競争を強め、効率を上げ、成長率を取りに行くという戦略であり、それは確かに痛い。
しかしその痛みを通じて、長期的な所得水準の上昇を狙うのが市場主義の論理である。
財政問題は痛みをゼロにする方法ではなく、どの痛みを採用するかの選択でしかない。
増税反対、給付維持、経済成長、財政健全化を全部同時に叫ぶのは、制約を無視して目的を盛り込んだだけの自己放尿である。
しかもその自己放尿は、選挙で票を取るための麻薬として機能する。
国民も政治家も、現実を直視するより麻薬を欲しがる。これは供給と需要が一致しているので、市場原理的には非常に美しい。悲しいことに。
日本が今選んでいるのは、市場主義の荒々しい競争ではなく、社会保障を厚くして安定を買う道だ。
つまり、競争の痛みを減らし、その代わりに税負担と成長鈍化と制度維持の痛みを引き受ける道である。
しかし現実には、政治もメディアも、選択を選択として語らない。
痛みの話をすると嫌われるからだ。だが、嫌われるから言わないというのは、政策論ではなく人気商売である。
政府は善意で地獄を舗装する。善意で制度を守り、善意で給付を増やし、善意で規制を強め、善意で補助金を撒く。
しかし結果として、価格メカニズムは歪み、生産性は落ち、財政は硬直化し、未来の自由度は奪われる。
制度設計とは、人間が利己的であり、政治家が票を欲しがり、官僚が権限を欲しがり、企業が補助金を欲しがるという現実から出発しなければならない。
聖人が統治する世界を前提にした政策は、現実世界ではだいたい破綻する。
だから、歳入歳出の議論でまず必要なのは、幻想を捨てることだ。
合理性を掲げる彼らの実態は、既存の非効率なシステムの温存にほかならない。掲げる看板と中身が完全に矛盾しているからだ。
本来は簡素・公平・中立的であるべき税制において、事務負担が多大な現行消費税やインボイス制度を維持しようとしている。これは納税者に莫大な管理コストと労力を強いるだけでなく、消費行為に課されるペナルティ的なコストを上乗せする構造だ。景気の腰折れを招きやすい欠陥を抱えている。
ベーシックインカムに見られる徴収から給付というサイクルには、必然的に巨額の行政コストが発生する。まさにアーサー・オーキンの「漏れのあるバケツ」そのものだ。減税なら行政コストは省けるのに、あえてコストのかかる再分配ルートを選ぶ選択は非合理としか言いようがない。高コストな給付を選ぶ理由は、行政が市民の生殺与奪の権を握るためだろう。
結局のところ、目的は法人税減税の穴埋めに消費税を充てるという旧来の構造の維持である。デジタルやデータドリブンといった横文字を並べたところで、政治の本質は権力を巡るゼロサムゲームであり、それからは逃れられない。
彼らの言う合理性とは社会全体の最適化ではなく、特定の既得権益層にとって都合の良いポジショントークに過ぎない。今回の選挙で、消費税減税に反発する有権者が首都圏の一部地域に集中している事実が露呈してしまった。
まず普通にサボってしまう。ダラダラ夏休みの宿題のように頭の片隅にありながらサボって直前で焦るということを繰り返している。
無限の可能性とやらを消費しきり、今までの行いが成績表となって開示される頃。俺の人生は緩やかに閉じて行くのを悟った。20代のボーナスゾーンを効率という名の怠慢で過ごした俺は今やうだつの上がらない平社員として固定され、気の利いた嫁もいない。金を払えば何かになれると思って積み上がった借金が俺の進路を閉じる。死に逃げようにもそんな元気すらない。タオルで首を絞めては苦しくて手を緩めてはホッと一息をつく。こんな惨めな人生なのに手放すことすらままならない。頑張ればもっといい人生が歩めたのだろうか。もっと考えればまともな人生を歩めたのだろうか。当時の自分なりに考えて努力したはずだが世間ではないも同然だった。呼吸をするように勉強して、人とコミュニケーションが取れる人間がいる一方で、踏ん張ることすらできない怠惰な人間もいる。俺は後者だ。
友人にこんな姿を見せられないから、お金がないから、会うのすら躊躇われる。自分には勿体無いほどの良き友というなけなしの財産が消えていく。
平均寿命を考えるとあと50年近くあるのに、既にゲームの負けが見えている。
生きるとは誠に辛く険しい。
SNSではチームみらいのショート動画が得票の割に再生数少ないと指摘されているが、マーケティングの観点からは的外れ
なぜ彼らに支持が集まったのか。理由は極めてシンプル。みらいの提示した政策パッケージが、他党と比較して設計強度が圧倒的に高かったから。ただそれだけ。
得票分布のヒートマップを見れば一目瞭然だ。江戸川区や葛飾区では低調だが、中央区・港区・千代田区といった、いわゆるパワーカップルや高度専門職が集うエリアで支持がある。ここの支持層は日頃から膨大な文書を読みビジネスを動かしているホワイトカラー層だ。残酷なほどに、平均年収と支持率が正の相関を描いている。
そして彼らは、テキストを読むことに苦痛を感じない。むしろ15秒で消費されるだけのコンテンツに情報の欠落を感じ、不信感を抱くものだ。彼らはみらいのマニフェストを実際に読み、その持続可能な社会保障システムへの再設計案を自分で咀嚼し評価した。
一方で、ショート動画をバズらせていた他党の支持者は長文のテキストを読む習慣がなく、あるいは複雑な因果関係を理解できなかった。
誤解を恐れずに言えばショート動画というフォーマット自体が思考のリソースを節約したい層に向けた麻薬のようなものだ。それに脊髄反射して投票行動を決めてしまう層と、文章を読み込んでその実現可能性と自身の資産への影響を計算して投票する層の間には、富の格差以上に深い絶望的なまでの認識力の断絶が横たわっている。
おもしろいのは、この支持が都心部だけに留まらなかった点だ。これは陰謀論で言われているのとは異なり、東京ほどではないにせよ、一次情報に当たり政策を読み解くことができる層が関東以外にも残っていたという証左だ。場所がどこであれ、読む人は読むし、理解する人は理解する。動画しか見ない層を最初から相手にせずとも、文書を読める有権者だけを効率よく囲い込めばこれだけ戦えるということが証明されてしまった。
だが、ここからが大変だ。キャズムを超えマジョリティ層まで届かせるつもりなら、ショート動画でしか物事を判断できない層に向けて政策の解像度を極限まで下げたコンテンツを作らなければならない。論理を感情に翻訳し、正しさを削って分かりやすさを取る。 次の戦いはそこになるだろう。
#ママ戦争止めてくるわに感じる嫌悪感と、チームみらいに感じる嫌悪感って、自分の中で似てるんだよな。
偏差値と学歴こそ高いものの自分の頭で考えてそうな感がなく、マーケティングと市場原理で世間に受けそうなアイディアを効率良く提示するっていう。
無心にAI を使っているときの感覚は、ショート動画をただ指で流しているときに、よく似ている。
指は動くが、思考は止まっている。画面の向こうから答えは次々に落ちてくるのに、こちら側には何も堆積しない。
腐ってはいないが、深みも香りもない。ただの塩気だけが残り、「それっぽい意見」だけを量産する物体に成り下がる。
刺激は強いが、栄養はない。短く、甘く、すぐ忘れる。
現代人は、考えなくなる。
いや、正確には考える前に満足するようになった。
問いを立てる前に答えがあり、迷う前に要約があり、苦しむ前に結論がある。
思考はもはや筋トレではなく、自動ドアだ。立ち止まらなければ、勝手に開くと思い込んでいる。
だが、ここで一つ皮肉が起きる。
雑な問い、浅い指示、思考を放棄した投げっぱなしの入力が増えれば、出力もまた凡庸になる。
AI が鈍るのではない。人間側の思考密度が下がることで、AI まで巻き添えで劣化するのだ。
人が考えなくなることで、AI もまた「考えさせてもらえなくなる」。
考えることは非効率だ。遅く、苦しく、報われないことも多い。
だがそれは、無駄ではない。
座標がなければ、どんなに高性能なナビゲーションがあっても、目的地は設定できない。
どちらを選ぶかで、脳は腐るか、研がれるか、決まってしまう。
考えることをやめた瞬間、
そしてAI もまた、その浅瀬で足踏みを始める。
なんか政治の潮目が変わった気がする。旧来の日本型リベラリズムが完全に息切れして、代わりに新しい形のリベラリズムがポコッと顔を出してきた感じ。チームみらいみたいな新興政党が11議席取ったのが象徴的だけど、これって欧米型のリベラリズムの日本版じゃない? って思ったので、ちょっと書いてみる。間違ってたらごめん。
日本型リベラリズムって、立憲民主党とか共産党、れいわ新選組みたいな勢力が典型だよね。護憲・反原発・再分配重視で、生活苦を叫んで消費税減税を掲げて、弱者救済をアピールするスタイル。まあ、理想はわかるけど、今回の選挙で票がガクッと減った(または「消えた」って言われてる)のは、なぜか?
要するに、旧来型は「今を我慢せずに分配せよ」みたいな福祉優先で、長期視点が欠けてた。選挙結果見ると、これが崩壊したのは明らか。
ここでチームみらいが出てくる。平均年齢30台、IT・AI・コンサル出身者だらけで、「テクノロジーで政治を変える」ってスローガン。比例で11議席取ったの、すごい躍進だよ。政策見てると、欧米型のリベラリズム(特にシリコンバレーや欧州中道リベラル政党っぽい)を感じる。
チームみらいはイデオロギー色薄めて、「テクノロジーで誰も取り残さない日本」を掲げてる。左右超えた実務的アプローチで、若年層に刺さったみたい。欧米型リベラリズムって、個人中心・効率化・イノベーション重視で、日本型みたいに再分配偏重じゃないんだよね。シリコンバレー的なリバタリアン寄りや、欧州のALDE系政党(自由民主同盟)と重なる部分が多い。
今回の選挙で新型リベラリズムの芽が出たのは確か。旧来型が崩壊した隙間に、成長・技術・効率を軸にした新しいリベラル像が浮上してきた。でも、チームみらいはまだ組織基盤弱いし、地方浸透も課題。11議席はスタートラインで、政策実行力次第で本物になるか決まる。
日本政治、ようやく21世紀型にアップデートされそう?欧米みたいに、リベラリズムが「前向きで未来志向」になるなら、面白いかも。