
はてなキーワード:加虐性とは
よりイカれた砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけないみたいなサイコシスターフッドサスペンス映画だった、63点。
ガタイが良くてイカつい顔をした主人公は小柄でかわいいイズミとひょんなことから仲良くなる。二人でキャッキャウフフしてるまになんかいい感じになるんだけど、そこからイズミがヤンデレ化しどんどん様子がおかしくなっていく。そしてそれがマックス高まったとき、地獄のふたが開く。
みたいな感じの映画。
増田の民として作中に✋(👁👅👁)🤚 シーンがあることについてまず述べておく必要があるだろう。
守護と拘束、自己と他己みたいなアンビバレンツさを扱った作品だと思ったかな。
冒頭、幼き日の主人公がリードもつけずに犬の散歩をしていると犬がいなくなってしまうシーンから始まり、後に車に轢かれて死んだことがわかる。その後も、鳥籠に閉じ込められたインコを飼い、学校ではたった一人の生物部員として水槽に閉じ込められた金魚を飼っている。
彼女は弱きものを拘束して守護することで自分を確立していて、そこにイズミという拘束癖のあるヤンデレ小動物が入ってくる。
印象的なシーンとして生理痛に苦しむ主人公にイズミが三陰交圧痛をかけ、列海王が悶絶するシーン(混線する記憶)。しかしその後、生理痛が治まることとなるわけで、イズミが主人公に対して「痛みを与えて」「安らぎをくれる」存在なんだろうなって百合スキーとしてちょっとキュンとした。
また小道具から照明に至るまで、主人公が青でイズミが赤と明確に描き分けられている。しかしイズミからの主人個の生活への侵略が進んだ際には主人公のペディキュアが赤に塗られて、最後にイズミの呪縛から逃れてからは今度は青いペディキュアが塗られるなど芸も細かい。
また主人公は金魚には金次郎(金太郎だったかも)、インコにはチュン太と男の名前を付けており、イズミはそのことに異常な嫉妬心を抱いている描写が多い。イズミが明日一緒に帰れる?と主人公に問い、主人公が金次郎の世話があるからと断ると、翌日には水槽を破壊し金次郎を殺害してしまう。これ砂糖菓子で見たやつや~ってなった。
その後、チュン太まで強請り取られた主人公は精神の状態がおかしくなっていく。
で、まぁその後、イズミが担任教師の弱みを握って付き合ってたり、イズミが行方不明になってたいじめっ子のクラスメイトを拉致監禁していたりしたことがわかって、最終的にイズミは担任教師を殺害しいじめっ子も殺害、そこに居合わせた主人公に襲い掛かってくる。
ところで急に冒頭にちょっと出てた全然知らん女と、また別の全然知らん男が現れこれまでの話が殺人罪で起訴された主人公の接見中の供述であったことが分かり、主人公はその後、イズミを返り討ちに合わせていたことがわかり、弁護士が頑張って主人公は無罪に。日常に戻るのであった。
と思いきや、前半での印象的なシーン。鏡を見ていたイズミが目が赤くなっているのを見かけて動揺し鏡をぶち割り「自分を守るための嘘、あんたの武器でしょ」と語り掛ける場面が、裁判後に今度は主人公がまったく同じシーンを繰り返しその後「自分を守るのは自分だけ」と付け加える。
こうなると裁判前までのイズミと主人公のあれこれがすべて主人公の供述だったことで、どこまでが本当でどこまでが嘘か急に分からなくなってくる。主人公の裁判も「イズミ」「教師」の死亡だけで「いじめっ子」については新聞記事にも載っていない。死んだと語られていたチュン太も籠の外でどうやら生きているようだ。
さて、ここからは俺の解釈になるんだけど、教師と付き合っていたのはイズミではなく主人公だと思う。これは「男」を拘束して守護する(弱みをバラさない)ことに執着していたのは主人公だから。教師を呼び込んでからのシーンでイズミは煙草をふかしているが、作中で喫煙癖があるのは主人公の方だし。
そうなるといじめっ子を監禁したのは誰かという話になるがもしかしたらこっちはイズミの仕業かもしれない。女性に対して加虐性と拘束性を発揮しているのはイズミなので。そして2人のサイコパスが揃った結果、教師がいじめっ子に性的に襲い掛かりそれを発見した主人公が教師を殺害、それを見られていじめっ子も殺害しチュン太の代わりに埋めて、イズミも殺害した。とするのが一番俺の中ではしっくり来たかな。
もしくはもう一歩踏み込んで、"イズミ"はそもそも存在しなかった。新聞に出ていた死んだクラスメイトと教師というのは「いじめっ子」と「教師」だった可能性。だがだとしたら最後のシーンでまだいじめっ子の捜索願のポスターが残っているのはややおかしいか。
そしてすべて終わって「あたしを守れるのはあたしだけ」と付け加えたときには主人公の目は青くなっていて電線に止まるチュン太が映し出される。イズミという拘束してくるけど安らぎをくれる飼い主様を自分の中に取り込んで自由になった主人公は、エンドロール後に元々の自分の席に座る女の子をじっと見つめている。その女の子の形態にはかつて自分がイズミからもらってつけていた南京錠のストラップがついている。
ここも「元々主人公がイズミだった」としてもある程度成立するように作られているようにも思える。
そんな感じで常に2つのモチーフを対比しながらもいかにも考察がはかどるように考えて作られていて、この人なかなか腕があるなと感心してしまった。とはいえ、やりすぎてふわふわしてて具体的に結局どういう話やったん?っておさまりの悪いところもあるので個人的にはもっとちゃんとわかるほうが好み。
インディーズ作品らしいけど、前に見た傀儡よりはちゃんとエンタメに振って作られていたかなって印象。
主人公とイズミのコンビは役者の妙もあって見ていて飽きないし、それぞれリアリティをもって演じられていてこの2人のキャイキャイを見るためだけに百合スキーは見てもいいと思う。まぁ最後にはおかしなことになるんやけど。そんなこんなでインディーズ好きと百合スキーにはわりとオススメ。
どれだけの人が実際に歌舞伎を見て、映画「国宝」について話してるのかは寡聞にして知りませんが、
歌舞伎座で歌舞伎を見ているいち庶民からすると、あれは大衆芸能であって、才能があるわけでもない「家の長男」やその周囲がそれらしく演じるための「型・様式」が存在し、さらにその「型・様式」も決してレベルが高いものではなく、だからこそ演じられるものです。
元々、女性が行っていた芸能を、男性が女性演者へ行き過ぎた性的な興味をもったことで「風紀を乱す」として男性が行うようになりました。
中国でも男性が女性を演じる女形はありますが、女性は他家へ嫁ぐので芸の流出を防ぐため男子が女子を演じるのが理由でした。
比較すると、結果は同じでも原因が男性の民度の低さによってであり、成立からそもそも歌舞伎は品格が高いものではありません。
そこで芸を高める努力があることは素晴らしいことではありますが、大衆芸能だからこそ多くの人に「わかりやすい」美です。
日本芸能でより格式が高いのは能であり、それは歴史だけではなく、鑑賞すると体感できます。
これは時間に圧倒的な余裕がありそれを美意識で磨ける層にしか堪能できないもので、セカセカした生活に追われる大衆には心身から理解するのが難しいものだ、と。
歌舞伎が現代の日本人に受け入れられ、伝統とされあたかも格式高い芸能として扱われる理由は
・男尊女卑を旧来の形で内包しており、男尊女卑を心身に染み付かせた大衆の欲求に合致している
・才能ではなく「家」で職種が限定され「男性のみが」評価され女性をサポートという名の下働き奴隷に押しやっている点が、ある種の層の加虐性と非加虐性、支配願望を満足させる
・なんとなく伝統や格式があるようで観客も自意識を満たせるが、内容は然程の品格も知性もなく楽しめる
歌舞伎とその芸能に携わる人の努力、その「よさ」を否定するつもりではありませんが、問題点や批判点を認識しないままいたずらに持ち上げるのは非常に日本らしい汚点だと考えます。
『弱い人はずるい』
そのような感覚を一生涯拗らせて生きていくような気がする。
まぁ片親ではあるんだけど、シンプルにこのような人になりたいと素直に吐ける位には母親のこと尊敬してるし好きだし、祖父母も若いから幼い頃はしょっちゅう送り迎えだのしてもらったし、現在進行形で実家であったかい世話を受けながらぬくぬくと生活している。
友人もいるし、なんだったら恋人までいる。めちゃくちゃ順風満帆な生活してるし、仕事もまぁブラック寄りではあるけど世を嘆くほどじゃない。いや世の中はメチャクチャなんだけど、私には、なとりとキタニタツヤと米津玄師がついてるし。
なのに、弱い人は常々ずるいなぁと思ってしまうのだ。
私は恵まれてる。あったかい家の中で、優しさに包まれて生きてきた。
弱い人は、悲惨だ。
寒空の下とまでは行かなくても、親同士が仲が悪いとか、徹底的な監視下の元の教育とか、さぞかし生きづらくて生きづらくて生きづらくてしょうがないような家庭環境で生き抜いてきたんだろう。私には想像もつかない。だって、私は不幸で哀れな人間だなんて口が裂けても言えないくらいには恵まれてるから。
ないものねだりなのはわかってる。私のこの強さとズルさが恵まれて生きてきた幸福な人間の暴力なんだってわかってる。わかってても。
弱いからって他人に甘えて他人を食い物にするその姿が羨ましい。
弱いから特別に配慮してもらうのを当然の顔して受け取るその態度が羨ましい。
弱いから、守ってもらえるのが、すごく羨ましい。
他人の助けを借りなくても1人でなんとかしようとしてなんとかなったりするし、眠剤に頼らなくても夜は眠れるし、精神安定剤なんてなくても仕事に行けるし、働けるし、頑張れる。
だから、弱い人が守ってもらってる姿を見ると許せなくなってしまう。なんで、私は頑張ってるのにお前は頑張らないんだって思ってしまう。口には出さない。だって私とお前は違う人間だから。それぞれに違うものを抱えて生きてきて、お前の方が大変なんだろうことは目に見えてるから。
思ってしまうのが嫌だ。
それで、弱いのはずるいって思考になって行ってしまう自分の幼稚さと暴力性が嫌だ。
弱い人間が溢れかえるこの世の中で、自分の加虐性を抑えながら生きていくの、しんどいよ。
みんな強くなってよ。弱いところばっかり見せないで。言いがかりをつけて、追い詰めて、快感に酔いしれて、悪びれもなく開き直っていたい。
ここからは懺悔なんだけど、実際、友達に自分の中の暴力性を大いに奮ってしまって10年来の友人を3人ほど無くした。それに寂しがってしまう自分がいるのがとんでもなく悍ましい人間であることの証左すぎてマジでつらい。
いじめの加害者なんて人生ぶっ壊れて当たり前って論調の世の中で、私が生きていける余地なんてない。
弱い人間は、ずるい。
どんどんと数を増やして、マイノリティになっていく。多数派の暴力で殴っていることに気づかないままずっと不幸せそうな顔して人生を謳歌するんだろう。
早く、それになりたい。
でも、それだと被害を受ける人がいるから、ヘイトスピーチ解消法とか侮辱罪厳罰化など別の切り口で規制するんだ。表現の自由の範囲を狭めるわけではない。
表現自体を止めさせる権限は恣意的に運用されやすくものすごく危険な権力で、めちゃくちゃ慎重に運用して適用範囲も最小限にすべきなんだ。
たとえば、ヒトラーのナチズム満載の「我が闘争」の出版を禁止すべきか、というと現代では注釈をつけて攻撃的で偏った思想だということを明確にして出版すべきというスタンスの国が多い。加虐性を無害化して記録としては残す。「我が闘争」が悪書だとしても悪書の出版を禁止した前例を作ると、お前のこの本も悪書だから禁止という恣意的な判断を防げない。
ハフポストが書いたような『作品で起きているのは、女子高生への性的な虐待。男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのもの』(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_624f8d37e4b066ecde03f5b7)と言うのは完全に否定出来る内容だった。
つい胸に目がいってしまうとか意識してしまうような展開だとかそう言うのは描かれつつも、大人としてコンプライアンスを意識して絶対に女子高生に手を出してはいけないとか、社会人ヒロイン相手にも変に意識してると思われたら気持ち悪がられるとか、そう言うシチュエーションをギャグとして描き出してる一種のラブコメ的な作品だった。
またこの文言、そもそもは『作品で描かれているのは数々の痴漢行為』としていたのを『作品で起きているのは、女子高生への性的な虐待』と書き換えたもの(https://twitter.com/gerogeroR/status/1515599242773303296)だけど、法で定められる痴漢行為は無かったことから改めたものの、ある程度男性の加虐性があることにしないと自分達の言い分が通らないから『性的な虐待』と書いた程度のものだろうと思う。
次に、女子高生かくあるべしとしたステレオタイプを促す作品かどうかだけど、そんなもの皆無でしょ。
確かにこの作品は胸の大きな女性が好みな男性作者が理想の女子を描いてラブコメしてるけど、このミラーリングはせいぜいイケメン男子が好きな女性作者が理想の男子を描いてラブコメしてるくらいのレベルで、どちらにしても理想の異性を描くと言う行為は大前提として『こんな奴はいない』があると思う。だからこそ理想であり都合よく描けるのであって、ましやそれをステレオタイプだなんて対極にも程がある文句だなと思う。
ちなみに月曜日のたわわに所謂パンチラは一切出てこない。作者が興味ないらしい。私も興味ないけど。
対して胸が大きい女性は女子高生のみならずガッツリ会社員ヒロインも出てくる。何を描きたいかハッキリし過ぎてる。
むしろ個性のなさ(ステレオタイプ)で言えば男性描写の方に問題ありそう。顔がなくて髪型でしか見分けられないから、女子高生と電車に乗る男と会社員として働く男が別の男と認識するのに時間かかりました。
結局表現物は何を思ってどう描かれたかより、見た人がどう受け取ったかの方が圧倒的に重視されてる世の中だと思う。
描き手の0から100まで理解しましたなんてのは無理で、私はこう思ったと言う千差万別な感想で溢れてるから。
ましてや誰かの理想なんてカロリーの高いものが誰かにとってはキモいとも取れるのは当たり前で、それを楽しめる人は楽しんでると言うそれだけのこと。
以下、駄文
と言うか、着衣してても性的に表現してるからアウトなんて言うのは、あらゆる創作物を対象として考えた時、私はラインが引けない。
月曜日のたわわなら、大きな胸が男性からして性的な魅力を持って描かれたからアウト、とかなんだろうけど、じゃあイケメンが女性からして性的な魅力を持って描かれたからアウトも通る。
一々書かれたものに性的な意図を持ってるかどうか書いた人に確認しなきゃいけなかったり、それが性的なのかどうか男女平等に且つ曖昧なラインを誰の判定に任せるのか等、またそれだけコストかけてリターンはどれだけあるのか、色々と包括して私は今の規制派の意見じゃ全く割に合わないとしか思えない。
そんな必要はない、たわわは性犯罪を助長するからたわわは規制だなんてごり押しして特例の前例を作ってしまうと、後々誰がどうこの特例を悪用するか、一度でも特例の規制は作るべきではないと思う。ましてやたわわ程度のもので。
たわわも引っかかるラインでわかりやすいのは未成年描写はアウトだけど、創作物からあらゆる未成年描写を排他って、いかがですかね?
とりあえず、たわわ広告規制に反対する人へ表自戦士やらエロを守りたいだけやら馬鹿みたいな揶揄が飛んでますけど、上記を読んで貰えば分かる通り、反規制派なんてものじゃなくて、規制に然るべき理由とそのラインが腑に落ちるものであれば、大体の人は何が何でも規制に反対とかそんなんじゃないと思います。
まず、最初に彼の語ったいじめ(と言うより暴力行為)は決して許されるものでは無いと言う事を申しておく。その前提の上で、一個人の意見を述べたい。
この問題に関して調べていくと、90年代鬼畜カルチャーという文言をよく見かける。私は現在30歳で当時の空気感がわからないが、鬼畜カルチャーに関しての個人的感想を述べたい。
当時のお利口で軽薄でゴージャスな成金文化へのアンチテーゼみたいなものだったのだろうか。綺麗なメッキを剥がした下のグロテスクな現実を暴くという大義名文の下、弱者を痛めつける事をコンテンツ化し面白がり消費していたのだろう。消費する事が強者であるバブル文化の中で、それに乗り切れなかったものが、強くあろうとしてもがいた結果なのかとも感じた。
そんな時代の空気感の中で、メインのカルチャーに馴染めなく、自意識過剰な斜に構えた者たちへの娯楽として供給された文章が、例の案件だったのではないか。
小山田氏の語った行為は許さない事だが、当時の消費者が求めていた娯楽を提供したと言う点では、彼は仕事をこなしたと言えると私は思う。その内容はいいか悪いかを置いておいて。
何度も述べるが、私は小山田氏の語った行為に関して擁護はしないし、許されない事だと思っている。だが、当時の時代の空気を考えると加害者は彼や出版社で無く、鬼畜カルチャーを面白がってた人達にもある。当時の空気感を無視せず、そこを社会全体で追及し、反省するべきではないか。
現在の彼に対する私刑ともいえるネットリンチを見てて思う事がある。これは90年代悪趣味カルチャーと地続きではないかと。
意気揚々といじめはダメだと語り、彼に退任を求めてた姿は、次第に彼への攻撃をコンテンツ化し、エンターテイメントとして消費しているように感じた。集団いじめの本質は、誰かが理由を作りその理由を元にターゲットを決め、皆で面白おかしく攻撃する。現在の私刑リンチは、皆が非難している小山田氏の加虐行為と被らないかと私は思うのだ。
鬼畜カルチャーがメッキの下に隠された加虐性をコンテンツ化し供給するものだと仮定すれば、現在の私刑カルチャーは加虐性にメッキを塗りたくり正義感のラベルの下で楽しんでいるように思える。
上記の点を踏まえ、私は個人個人が自己の加虐性を認め、90年代鬼畜カルチャーを総括し、負の連鎖を断ち切る必要性を感じている。
日本、そして世界のネット掲示板及び書き込みサービス民の皆様、こんばんは
https://anond.hatelabo.jp/20210606173116
の続き
だいたい本田未央競馬辞めるネタ問題は現代社会が国民の加虐性を膨張させてきたのも原因だろ。
https://twitter.com/momotar35639597/status/1401011532478046208?s=19
https://twitter.com/red_autism/status/1399844698861105152?s=19
https://twitter.com/ishiijunpei/status/1399681471963570181?s=19
親ですらその経済戦争のコマでしか子供を見てないようなのが下地思想…
そこから外れれば
加虐思考に染まってしまうようなのに近い情勢を生んでしまったんだよ。
番外。
https://twitter.com/search?q=honryaku%20%20since%3A2021-05-06%20%20until%3A2021-05-08&s=09
振る舞いや言動が胸糞悪い漫画バナー広告に出てくる毒婦や毒親みたいじゃないですか。
コイツはきらら原作漫画から何を学んだんだよ…(´• _ •` )
ストーリー上で問題が起きた時にどのようにしてキャラを動かして着地させたほうが良かったのかと検証・分析してこそ真のオタクなんじゃねえのか?
デレマスであのとき本田未央は、クールでドライな反応でほか2人を支えてれば良かったのか?
はっきり言って馬鹿げてる。
あんな奴は単細胞な感情持ってるただのシニカリストなコレクターだ、マジで。
番外2
事実上キュルルもカラカルも脚本の被害者であったことが証明され、けもフレ2コミカライズは「2」としてではなく
「けものフレンズエピソードキュルル」という独立した作品に該当されるのかも知れない。
https://twitter.com/Tamalilis/status/1394574555335708676?s=19
話を戻す。
とにかく残機ゼロ思考や子供を経済競走のコマでしか見てないような、金メダル的なのを過剰に要求する教育の結果が
ヤムチャやオルガ、2005年日本シリーズのときの阪神をおちょくり、
それに立川で19歳のガキが社会規範の大義名分を名目として1人の女性の未来を破壊した事件なんて
俺は俺が絶対正しいとは思ってないしエロマンガについて酷評することは初めてなくらいだけど…ぼくはこのマンガだけはアカンと思った。
タイトルにNTRってついてるんだけどさ。NTRについて解釈違いしてる。
解釈違いとかジャンル自体に欠陥がある作品ってやっぱ頭にくるね。
俺が絶対正しいとは思ってないけど、
「ちゃんとヒットした作品を勉強してたり、登場人物に愛情があったらもっと違う表現ができたよね?」
ぐらいのことは思います。
NTRってさ「悔しい…でも感じちゃう(抜いちゃう)」なのに、幻滅だけで終わっとるやん
別の作品を挙げて「これが正しいNTRじゃ」って説明するのもありだけど、それ以前の問題として「感情移入できないNTRで抜けるかボケ」ってなった。
僕がマンガ家やイラストレーターさんを尊敬してるのは絵がうまいだけじゃなくて、その解釈まで素晴らしいからだけど…これは相容れない。
NTRっていうのはさ…男のダメさと加虐性と向き合う性癖なんだよ。
もちろん、人間には独占欲があって「自分のものにしたい」って言う欲望もあるんだけど、そうならなかったら幻滅するっていうのはNTRじゃないんだよ。
幻滅よりも乱れてる女性を見た時の悦びとギャップで抜くから成り立つ。ヘタレが女の子を取られて幻滅して拗ねるだけのやつはNTRって言わないです。
幻滅するようなNTRがあっても結局抜いてしまって「俺ってダメなやつであると同時に、結局女の子をメチャクチャにしたかった&乱れてる時に助けにも入れないんだな」ってのがNTRです。もしくは間男になってでも汚したいか
NTRってDQNや絶倫男に女の子が股を開けば成り立つとかそういう性癖じゃないんですよ。
そういうのを目の当たりにしても止めに入る・糾弾するわけでもなく抜いたり、むしろそういう目に遭わせてでも自分のものにしたいとか…そういう人間の欲深さと向き合う性癖なんだよ…
自分の観測範囲だけかもしれないが、好きなキャラが苦しむ姿に(悪いとわかってはいるんだけど)興奮してしまうと言及する人が少なくない。
曇らせたいとかズタボロになってほしいとか、申し訳ないがさっぱり理解できない。オタクならみんなそう考えちゃうでしょというような言葉もちらほら見かけたりする。いやいやそんなことないですって。
傷つく姿に色気を感じたりするのだろうか。フィクションのキャラに対しては秘めた加虐性が発露されやすいのだろうか?
自分の推しキャラには幸せになってほしいと思っているけど、同じキャラを好きな人同士で話しているとわりとそういう話題になってしまいがちで、推しを何だと思ってるんだと怒りすら湧いてきてしまう。でもこんなことで怒るとただの危険人物なので黙るしかない。
女性向けジャンル(ここで言う「女性向け」は元増田が挙げたような男性キャラ率100%のソシャゲ等のことです)のはずなのに公式が顧客である女性への加虐性や性欲を満たすことを優先するのってわりとあるあるだよね
ドS男子が好きな女性向けにそういうキャラ付けをされているとかではなく女性読者をただただ不快にさせるような台詞を言わせたり
人気の男性キャラの作画は手を抜いて正直あまり人気がなく売り上げも見込めない男の娘や女装子キャラ、下手すると通行人Aレベルのモブキャラ女性の作画に力入れまくったり
女の子を描けないストレス・オカズにできない男キャラを描き続けるストレスが凄すぎてそうでもしないとモチベーションが上がらないんだと思う
お金儲けのために人気の男性キャラを露骨に優遇する等安易な人気取りに走るのもよくないけどそれすらも投げ捨てて優先される男の本能ってどんだけ強力なんだ
男性キャラ女性キャラどっちも出てくるような一般向けゲームや少年漫画・青年漫画の方が書き手の嫌な加害性を垣間見ることが少ないと思う