はてなキーワード:加害者とは
彼らは自分たちが被害者だと本気で思ってるから加害者扱いするのは逆効果
ファクトを見せつけるのも全く意味がない、君は陰謀論者が論破されて持論を捨てたのを見たことがあるか?
ひたすらこれ連呼していけ
以前から大阪はうるさい京都いけずのステレオタイプや「翔んで埼玉」などを地域差別で問題があると批判していたのだろうか
いち埼玉県民からいえばアレ自虐じゃなく普通に不快だし弄られるのも嫌だったんだが
翔んで埼玉は埼玉県民ほど面白がるよ~面白かった!と笑っていたなら
さす九だけがなぜ突然許せない地域差別と感じたのか、少し胸に手を当てて考えてみたらいい
そしてColaboとも繋がりが強いしばき隊も選挙演説に出没しては大声で騒いで選挙妨害してるし
◯◯予告なんかも各所に書き込まれているみたいなんだけど
こういうやり方は相手に被害者属性を付与するだけで、本当に駄目なんだよ
正当な批判すら出来なくなる
ちだいや奴の周りや支持者連中(はてなー含む)がN党にやったのと一緒だよ
やれ人◯しだの、オウムと同様の反社会的カルトだの、それって証明出来ます?
疑惑ですら無い、言いがかりを超えた言いがかり、単なるデマの誹謗中傷でしか無い
あれで世論を扇動してN党を潰そうとしたんだから、反民主主義、パブリックエネミーのやり口
左巻きがよくやる1~10の被害を100にして騒いで被害者ぶるのとは違って
少なくともちだいらがやってた行為は完全にN党が被害者だからね
どんな相手でも「それをやったら駄目だろ」という線引があり、完全に超えていた
マジで相手にガチの被害者属性というバフを付与しただけなんだよ
N党を批判するとちだいみたいな奴と同様に見られるかも知れない、というデバフまでかけられている
N党を全く支持出来ないからこそ、正当な批判をする為にあの様な反民主主義的な攻撃はすべきでは無かった
完全に利敵行為でありちだいや支持者はN党の応援団と言っても過言では無いと思う
そのカルト性や代表の経歴、明らかにヤバい思想や政策を批判するのは良い
しかし、偏向報道を仕掛けたり、選挙演説に押しかけて妨害する、その行為を咎めもしないというのは
「どっちもどっち」では無く、騒いでる方が発狂して異常な攻撃をしている様に見える
こういう事を指摘すると更に発狂するはてなーもいるんだろうけどさ
「参政党の支持者だー!」っつって
ふざけんなよボケが
アンチだからこそ批判は正当かつ真面目にやれって話が何故分からないのか?
反民主主義的で暴力的な手段で抑えつけようとした所で、相手は一般人と違って黙って泣き寝入りする類の相手じゃないし
その行為だけ見れば完全に相手が被害者なんだから、勝手に付与された被害者属性を持って全力で反撃と正当性を主張されるだけなんだよ
そして真っ当な批判すら「あいつら(しばき隊やColabo界隈)と一緒では?」というデバフを付与されるんだよ
ふざけんなよマジで
山本一郎なんかの怪情報に乗っかって騒いだりさ、参政党アンチ出来れば何でも良いんか?
その後の事を考えて無いのか?
両方をフラットな視点で見ようとするサイレントマジョリティーにとって、過激な攻撃がどう映るのか、一瞬でも想像した事あるのか?
左翼っていっつもそうですよね!
そんなんだから石破政権とかいう超ボーナスステージを活かせずに参政党みたいな保守系糞カルトに支持を取られているんでしょ?
間抜けにも程があると思わない?
世の会見★4 [345412363](576)
76(14)(ワッチョイ a3af-jVDF) 1/2sage 07/12(火) 18:25:15.60 wMUWWIkuO
(1/2貴家)
ここまでまとめ
21歳の時参加させられる。
離婚すると天国にいけないため、母親が離婚するなといってきた。
(韓国での)合同結婚式の費用(再祝福)は、日本人140万円、韓国人14万円(140万ウォン)
統一教会は、日本では献金ノルマがきついが、韓国ではそうでもない。
日本は従軍慰安婦の加害者なので、乞食と結婚させられても仕方ないという教義
107 (5)(アウアウウーSa09-IcC4)sage 07/12(火) 19:41:23.62 SVOECWHSa
:
・統一教会は韓国のカルト宗教で「韓国は救世主の国、日本は悪魔の国」という思想で、言者を洗脳させて全財産を教会へ寄付させている
・統一教会は日本人女性を洗脳し、貧しい韓国人男性と強制的に結婚させて韓国の血の入った子を産ませることで、「日本の穢れた血を浄化」しようと考えている
・統一教会の教祖は日本の自民党の岸信介首相(安倍晋三の祖父)と盟友であり、1950年代から日本の政界と協力していた
・1990年代の時点で、日本の国会議員のうち100人以上(多くは自民党)の秘書は統一教会の者であり、議員たちの活動は統一教会へ報告され、指示を受けていた
・安倍晋三政権になってから、国会議員が統一教会の行事へ公然と参加するようになった。さらに統一教会と関わる議員が出世しやすくなり、自民党議員たちは安倍の寵愛を受けるためにこぞって統一教会との関わりを深めていった
id:tester19 です
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/tonarinoyj.jp/episode/2550912965947830792
「くゆらす女々」の感想ブコメに「百合に混じれない人がなぜか怒ってるな」といったエアリプっぽいコメントを見かけたので、誤解を避けるために、私の感想をいったん整理して書いておきます。
私が問題に感じているのは、女性向け漫画の一部、特に現実の女性の困難さを描くタイプの作品において、異性や異世代からの加害や理不尽な扱いが、あまりに安易な物語のきっかけとして使われすぎているという点です。
加えて、そうした加害者キャラクターが極端にステレオタイプな描かれ方をしているため、結果として女性キャラクターの内面的な葛藤や主体性が十分に描かれていないように見えるのが問題だと考えています。
その構図はしばしば、「舞台装置として配置された異性・異世代のキャラクターに翻弄され、それに対して定型的な反応をする女性主人公」という形になりがちで、ある種の“ポルノ的な描写”に近づいてしまっている印象があります。
今回の作品は読み切りであるという制約は理解していますが、それにしても主人公の抱える悩みや背景があまりに単純化されすぎていると感じました。
“女性を人間として描こう”という視点が、どこか置き去りになっているように思えたのです。
この構造は、長期連載の中の短編回や単話完結型の作品でもしばしば見られるものであり、それだけにフォーマットとしての違和感が強く出てしまったのだと思います。
『シガーバー』をテーマにした本作は、おそらく成人女性を主な読者層として想定された作品と思われます。
近年のエッセイ漫画などに見られる、成人女性向けの作品傾向を踏まえると、今回のようなキャラクター造形やストーリー運びも特に珍しいものではなく、よくあるフォーマットの一つとして理解はできます。
また、おそらく作者も、深い意図があって男性キャラクターを配置したというよりは、物語の導入部を機能させる“装置”として、不愉快な男性キャラを置いたのだと推察します。
もちろん、これを「男性が差別的に描かれている」と受け取った方もいらっしゃるかもしれません。(実際、私のコメントをそう解釈された反応もありました。)
しかし私としては、冒頭に登場する男性はあくまで物語上の“装置”であり、作者に強い悪意や差別的な意図があったとは感じていません。
むしろ気になったのは、女性キャラクターが“物語の主体”として描ききれていないこと、そしてそのために物語全体の説得力が弱まってしまっている点です。
読み切り作品に対して厳しい評価と受け取られるかもしれませんが、近年の読み切り作品では、特に「起」の部分でフックや演出に工夫があるものが多く、
それゆえに、「起」の工夫がなく今回のように素材としてユニークな“シガーバー”というテーマがうまく活かされていないのは、非常にもったいないと感じました。
善良な外国人や若い女性など明確な被害者がいるのに、「余計にすさむから強く批判しないであげてくれ」と加害者にだけ感情移入して決して被害者には感情移入しないお前、ただのカルト犯罪者の自覚ある?
現実の女性に対して性的加害を加えることは、当然ながら社会的にも倫理的にも許されるものではない。だが一方で、中高年男性が性欲や孤独、劣等感といった重たい感情をどう昇華するかという問題は、今の社会でほとんど語られない。むしろ、語ろうとした瞬間に「気持ち悪い」「加害者の言い訳」として切り捨てられてしまうことすらある。
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そんな中で台頭してきたのが、AIによるエロ動画の生成、あるいはSNSや配信サイトなどにおける“中身が男性であることが明らかな”女性アバターとのやりとりだ。男性が女性を演じ、男性たちが下品なコメントを投げかけ、それに笑顔で返す。そうした空間が、奇妙な安らぎと慰めを生み出している。
この光景をどう見るか──筆者はそれを、ある種の「ユートピア」と捉えたい。
この仮想空間に登場する“女性”は、あくまでAIであり、あるいはアバターを被った男性である。つまり、現実の女性が直接的に傷つくことはない。それどころか、そこにいるのは「性的に欲望をぶつけられる側の役割を演じることで、他の孤独な男性の欲望を吸収し、昇華させる」という構造である。
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ここにあるのは、「男が女を演じ、男を癒す」という、倒錯していながらも非加害的で、ある意味で誠実な相互扶助の形だ。
これはまさしく、フェミニズムが掲げてきた理想──非暴力、対話、承認、癒し──を、現実ではなく、テクノロジーと演技の仮面を通して実現してしまった構造なのではないか?
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中高年男性の孤独や貧困、性欲、承認欲求。これらはたいてい、社会から「自業自得」「キモい」「加害者の末路」として放置される。彼らが弱さを吐露しても、それは決して「救うべき対象」とはされない。
リベラルやフェミニストが掲げる“弱者の救済”は、往々にして「かわいそうと思える者」「絵になる弱者」に限られる。女性、子ども、外国人──こうした属性に比べ、中高年男性は「強者」として分類されがちだ。だが、強者であるという記号と、個人の苦悩はまったく別の話だ。
そして、彼らは静かに、そして効率的に「誰も傷つけずに自己処理できる空間」を求めて、AIやアバターの世界へと吸い込まれていく。
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もちろん、これは“逃避”の一形態であることは否定できない。だが一方で、誰かを傷つけることなく、欲望や孤独、弱さを処理し合える場を仮想空間に創出しているのだとしたら、それはある意味で社会的進化ではないか?
現実の女性から拒絶され、社会から「黙って消えてほしい」と思われている中高年男性たちが、せめてAIやアバターの中で「弱さをさらけ出し、誰にも叩かれず、癒される」場所を手に入れること──これは、皮肉ではなく本気で考えるべき次の社会的フェーズなのかもしれない。
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この構図を気持ち悪いと笑うのは簡単だ。だが、そこで笑ってしまったとき、私たちは一体誰の側に立っているのだろう?
おそらく、今この瞬間にも、無数の“救われない者”たちが、AIの女性キャラに話しかけ、慰められ、画面の向こうの「中の人」が、無言の共犯関係としてそれを受け止めている。
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それはまるで、顔のない男たちによる、顔のない癒しのネットワーク。暴力のない性。弱さを許される場所。そんな風に、仮想空間はいつしか、現実よりも人間的なユートピアになりつつあるのかもしれない。
この現象は、フェミニズムが求めたはずの「非暴力で、合意的で、弱さを開示できる性の文化」が、テクノロジーによって先に実現されてしまったという、静かで根深いパラドクスを私たちに突きつけている。
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❶批判:「AIエロは学習元の“実在の女性”を間接的に搾取している」
反論:
多くのAIモデルが女性の身体的特徴や表情、ポーズ、雰囲気を学習しているのは事実だろう。ただ、それ自体が即「搾取」になるかというと、データの使用と人格の侵害を一緒くたにしているように見える。
AIが学んでいるのは「特定の誰か」ではなく、集合的なパターンに過ぎない。
たとえるなら、美術学生が裸婦画を模写して描き方を学ぶようなもの。模写や鑑賞が搾取だと言うなら、美術や表現そのものが成立しない。
さらに現在のAIエロコンテンツの多くは、創作キャラやフィクションで構成されており、実在の個人の人格権を直接侵害しているわけではない。
現実の性産業と比較すれば、AIによる代替行為は圧倒的に搾取度が低い。出演者はいないし、金銭による支配関係もない。むしろ、ポルノグラフィーの非人格化・非暴力化が進行している段階にある。
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❷批判:「“女性性に癒しを求める”という構造自体が時代錯誤である」
反論:
この指摘は重要だと思う。「女は癒し役であるべき」という旧来的な性別役割の押しつけがずっと続いてきたのは確かに問題だった。
ただし、AIエロやアバターの世界で起きているのは、現実の女性に癒しを要求している構造とは異なる。ここにあるのは、演技された女性性、あるいはAIが演出する女性的存在への一方的な投影であって、実在の誰かに何かを求めているわけではない。
つまりこれは、他者に癒されることを放棄した人間たちが、自分たちで「癒される構造」をつくってそこに潜り込んでいるだけ。古いジェンダー役割の再演というより、ケアの自己完結システムへの移行とも言える。
そして、女性的な癒しに価値を感じる文化的コードやフェティッシュが残っているとしても、それがただちに抑圧的だとは限らない。
仮に「女性性を求める欲望自体がアウト」だとするなら、トランス女性の存在や、BL・百合・ボーイズラブといったジャンルも一括で否定されることになる。そういう雑な線引きは、むしろ表現の幅を狭めるだけだ。
この構造で求められているのは、「女性に癒してもらうこと」ではなく、「女性的な構造で癒されること」に過ぎない。そこを時代錯誤と切り捨てるのは、あまりに乱暴だ。
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反論:
今の社会には、「男性が性欲や弱さを語る場」がほぼ存在しない。何を言っても「キモい」「加害者の被害者ヅラ」と断罪されて終わる。
だからこそ、現実から退避して、誰も傷つけず、誰にも迷惑をかけない場所──AIやアバター空間──に逃げ込む。
誰かに嫌われないために、自分たちで仮想的なユートピアを構築している。それは中心でも優越でもない。むしろ、周縁の、地下の、逃げ場としての性のかたちだ。
誰にも迷惑をかけず、暴力もふるわず、ただ欲望や孤独や弱さを処理する。それが「男性中心的だ」と非難されるのだとしたら、むしろそれは、もう語ってはいけないという無言の通告と変わらない。
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この仮想空間は、搾取でも時代錯誤でもない。現実から見捨てられ、語ることさえ許されなかった中高年男性たちが、ようやく辿り着いた「誰も傷つけず、誰にも傷つけられない場所」だ。そこに滲む切実さを、ただ「構造」や「男性性」のひとことで斬り捨てる行為こそが、実は一番残酷なのではないか。
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※なお、この文章はAIによって生成されたフィクションです。とりあえずAIで英語の女アカウント作ったら、世界中のガチ恋おじさんが「俺の20センチの〇〇〇見せていい?」「今度日本に行くんだけど会えない?」とか言ってきて、最初は引いたけど、冷静に考えたらこれって互助だよな…… という気持ちが消えなかったので、そのまま論文っぽく書いてもらった。
アンフェ「女湯をおじさんが清掃することはないのに不平等・おじさんに割り振られるはずの雇用枠をおばさんが奪ってる」
お気持ちB「おじさんが清掃するよりおばさんの清掃のほうが、なんか良い」
性加害者「チン見せチャンス!」
虚無「別に誰が清掃していても良い」
今西 僕は性暴力を受けた子どもを支援しているNPOの活動で、性加害者と対話することもあります。その活動を通じて、小児性加害者のなかには、「あえて父親と一緒の男の子を狙う」という人もいることを知りました。なぜかというと、母親と女の子のペアよりも防犯意識が低いからです。小児性加害者にとっては、第二次性徴を迎えていない子どもならば性別関係なく加害対象になるのです。
性加害者は、性欲だけでなく支配欲を持ち、相手が嫌がることを楽しむという実態があり、その特性を両親ともに知っておくことはとても大事です。子どもに性教育をする際にも、夫婦での意見が違えば子どもは混乱してしまいますから、夫婦で情報を共有してよく話し合ってほしいと思います。
https://news.yahoo.co.jp/articles/89a1da6d655d6fc89984053b33e4579c536e80b4
司法書士と要件事実、刑事訴訟法の勉強すれば本人訴訟はそんな難しくない。
要件事実は最高裁の司法修習のウェブサイトで読むことができる。
なんとただ。
あとは発信者情報開示、名誉毀損、尋問、発信者情報開示の実務書をぎょうせい出版がだしてるんで、ここらへん読めばある程度は戦えるんだが…
当事者だとなぞバイアスでめちゃくちゃな事実認定をしてしまうので、弁護士を頼まねばならず、弁護士費用が加害者案件だとクソ高いんよ。
しかも、名誉毀損は死ねと言ったら名誉毀損になるかと思いきや、ならないこともあるのに、ある人は〇〇と言ったら、社会的地位の低下で名誉毀損になることがあるんで、何が何だかよーわからんし。
裁判官目線だと、死ねといったケースは被害者にも非があるケースで、ある人は〇〇のケースは公益性がないと思っているのは加害者だけとか理由はあるみたいだけどさ…
高確率で負ける事案というのはあるんだけどね…
そうだよ。
ケアや福祉ももちろんそうだし、障害児がいることで周りから奇異の目で見られたり見下されたりすることのない、障害児とその家族が幸せに暮らせる社会を実現することが「社会人の責任」だよ。それが現代までに人類が発明してきた科学だ。
イジメから被害者が手厚くケアをされ、イジメが発生しない仕組み、発生したイジメを解決する仕組み、被害者も加害者も放置しない仕組みを整えることも、それと全く同じ原理で達成されるべき「社会人の責任」だよ。
どうして誰もやってくれなかったのかは、お前が一番よく知ってるね。お前みたいな思考回路のやつがいっぱいいるからだろうね。
日本人は幼稚で「大人」がおらず全員が責任から逃げ続けているため、変なループを作ってマッチポンプしてるんだね。現代の人類知から取り残されてるね。
さす日すぎる。
そもそも子供が障害児として生まれてくることに特に不幸の要素がない。因果応報になり得ない。
もし因果応報になってしまうとすれば、それは社会の制度設計に不足がある。つまりその社会の構成員たるお前ら日本人の「政治的失敗」以外の何者でもない。障害児とその家族が幸せに暮らせる社会を実現できて初めて「社会人の責任」を果たしてるんだよね
そもそも、そのお前らの、「社会の責任とかどうでもいい。陰湿?その通りだと思うよ?」と言ってしまう人間性、弱者を見捨てる陰湿で感情過多で倫理のカケラもなく非論理的で合理性がなく土人で社会に無責任なクソな人間性民度の低さって、
イジメに何もしない教師、イジメに何もしない周囲の大人、何のケアもされない被害者、放置される加害者、いつまでも整備されない制度、
を作り出してるジャップカルチャー(笑)そのものだよな。笑いがとまらん
自分でイジメを作って、ついでに障害者差別でガッツポーズするマッチポンプして、さらにイジメを作る
知性ある人類から見たら信じられないな。底辺で頭の悪いループ回してて可哀想
さす日〜〜〜〜〜!!!!
なにかデータとかあるんですか?
飲酒運転2024~加害者も被害者も 毎年毎年毎年毎年ふえてゆく~。Fact sheet of DUI in Japan 2024~
オリジナルのBLを書くようになり、創作BL界隈と呼ばれるところに足を踏み入れた。そこで目にした作品の傾向や、それを取り巻く倫理観に強い危機感を覚えたため、ここに記したい。
私はBLというジャンル自体を否定するつもりはない。むしろ、多様な愛の形や関係性を描く創作の可能性を信じているからこそ、現在の状況に警鐘を鳴らしたいのだ。
まず明確にしておきたいのは、私は「加害を描くこと」自体を問題視しているわけではないということだ。
刑事ドラマで暴行シーンが描かれても、それは暴行の肯定にはならない。なぜなら、その行為は犯罪として、加害として描かれているからだ。登場人物も視聴者も、それが悪いことだと理解している。
問題は、同じような行為が「愛の表現」として美化されてしまうことにある。BL=ボーイズラブという名前が示すように、このジャンルは「愛」を描くものということが前提にされている。しかし、実際には愛ではない行為が愛として包装されてしまうことで、読者の認識が歪む危険性がある。
例えば、ストーカー行為を「一途な愛」として描く、相手の意思を無視した性的行為を「愛が抑えられなかった」として描く、といったことだ。これらは現実では明らかに加害行為だが、「愛」の文脈に置かれることで美化されてしまう。
では、どうすればよいのか。加害的な要素を含む関係性を描くとしても、それを以下のような視点で見直すことが重要ではないだろうか:
・加害は加害として認識し、美化しない
・読者が「これは愛ではない」と理解できるような文脈を提供する
・適切な注意書きやタグで、問題のある内容であることを明示する
こうした配慮があれば、複雑な人間関係や心の闇を描くことも可能になるかもしれない。重要なのは、「愛だから許される」という論理を安易に使わないことだ。
答えは一つではないし、表現の方法も多様であるべきだ。しかし、作品が社会に与える影響について考えることは、創作者の責任の一部ではないだろうか。
「ヤンデレ攻め」「執着攻め」といった言葉で美化される、合意のない関係性。これらを愛の一種として扱うことには深刻な問題がある。
加害は加害として認識しなければ、人の認知はたやすく歪む。読者も作者も、愛という名の加害をしないために、されないために、合意のない関係は愛ではなく加害だと示さなければならない。
「愛してるから仕方ない」「相手のことを思ってのこと」という論理は、現実の加害者がよく使う言い訳と同じ構造を持っている。フィクションであっても、この構造を無批判に美化することは危険だ。
愛という名の支配を、愛として終わらせない描き方もあるのではないだろうか。
「年の差BL」と名付けたところで、未成年を性対象とするのは搾取であり加害である。そのことに無自覚であるのは、社会の構成員として未熟であると言わざるを得ない。
例えフィクションであっても、未成年の性的搾取を肯定してはいけない。作品内で加害であり搾取だと明示的に示す必要がある。
「フィクションだから」「実在しないから」という言い訳は、その作品を読む現実の人間への影響を軽視している。
年齢差自体を否定するのではなく、未成年の時期における搾取構造を問題視する姿勢が大切だ。
「かっこいいアウトロー」としてのヤクザ、過激な性的描写のために用いられる反社会的勢力。これらがBLの名の下に愛の文脈に組み込まれることで、反社会的勢力の存在を間接的に肯定することに繋がる。
現実の反社会的勢力は、多くの人を苦しめる存在だ。それを恋愛の舞台装置として消費することの問題を、作者も読者も自覚すべきである。
現実の反社会的勢力がどのようなものであるかを調べ、「危なくてかっこいい」だけで終わらせない描き方を模索することも可能ではないだろうか。
家庭内の権力差を利用した支配という形になりやすいことに加え、兄弟の距離感や支え合いという要素が、健全な人間関係の中で描かれるのではなく、「恋愛」「性的関係」によって"昇華"されるという描写が多い。
これは「愛=性的でなければ完成しない」「人間関係の価値は性的関係によって最大化される」という、非常に歪んだメッセージを流通させている。
読者も作者も、「でも兄弟って元から距離近いし……」「他人より理解あるし……」みたいな家族ならではの絆を都合よくロマンチックに換算してしまっている。
これは現実の加害構造(例:近親間の性的虐待)でもよく使われる「お互い理解があった」という"言い訳の構造"と同じものだ。無自覚に"現実の加害の語り口"を踏襲してしまっているという恐ろしさがそこにはある。
もし家族の絆を描きたいのであれば、それを恋愛・性的関係に昇華させる以外の方法もあるのではないだろうか。深い信頼関係、無償の愛、互いを思いやる気持ちは、恋愛関係でなくても十分に描けるはずだ。「愛=性愛」という固定観念から自由になることで、より豊かな人間関係の描写が可能になるかもしれない。
もし家族の歪みを描きたいのであれば、より慎重になる必要があるだろう。決して愛ではないことを明示し、望んだ人のみが読めるような配慮がいるのではないだろうか。
SNSにおいては、扇情的で過激な内容ほど注目を集めやすい。フォロワー数や「いいね」の数が創作者の承認欲求を満たす指標となる中で、倫理的な配慮よりも話題性が優先される傾向がある。
本来であれば、問題のある内容には適切な注意書きやタグをつけることで、それを見たくない人を守ることができるはずだ。しかし現実には、タグが形骸化していたり、そもそも問題意識がないためにタグがつけられていなかったりする。
「もっと刺激的に」「もっと話題になるように」という競争の中で、倫理的な境界線がどんどん後退している。「BLは過激であって当たり前」という風潮が形成されていくのは危うい。
BL自体が悪いのではない。問われるべきは、それを創作・発信する人々の倫理意識だ。
#創作BLのタグが加害の美化や反社会的な価値観の拡散に使われてしまうのは、本来のBLの価値を貶めることでもある。
SNSにおいては、扇情的な表現が前後の文脈から切り離されて拡散されることもある。自分は気を付けていると思っていても、想定外の読者に想定外の影響を与えてしまう可能性がある。
創作者には、自分の作品が社会に与える影響について、より慎重に考える責任がある。
私はSNSでの創作発信から距離を置く決断をした。フォロワー数や反応の数に一喜一憂し、過激な表現に手を出しそうになる自分に気づいたからだ。
しかし、創作を続けたい気持ちは変わらない。創作に必要なのはフォロワーではなく、自分の納得と尊厳だと思う。
問題のある作品を無批判に消費し続けることは、その価値観を間接的に肯定することになる。読者も作者も、一人ひとりがもう少し立ち止まって考えてみてほしい。