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2025-12-07

真逆(まぎゃく)」はいから使われだしたか

前提


1927年アルス写真大講座 第二巻』

記念したい被写体を取り入れたいために時には真逆の方向(カメラ太陽に向ふ)に向ふ場合もあるでせうが、このとき直射日光レンズに当らないやうに注意をして頂きます

フリガナがないので「まぎゃく」と読むかはわからないが、意味的には「正反対」の意味で使われていそうだ。

いまのところ「正反対」の意味で使われている最古の用例である

追記1937年写真月報』

只逆光線で太陽を前景のカメラもつている人でシエードした事が、レンズ太陽の直射を避けて雲海にあたつた真逆の光線をうまく捉へる事が出来ました。

写真関連で検索してみたが、なるほど。

写真用語では太陽光の当たり方を「順光線(順光)」「斜光線(斜光)」「逆光線(逆光)」などと分類するが。

逆光をさらに「半逆光線(半逆光)」と「真逆光線(真逆光)」に分けることもあるというわけか。

検索してみるかぎり、用例としては「真逆光」が圧倒的に多いが、「真逆の光線」「光を真逆に受ける」のような例もわずかに見られる。

1959年富士岡田紅陽

太陽富士山頂の上に輝やき、眼前の雲海の表面を真逆に照しつけていた。

一気に時代が飛ぶが、こちらは「まぎゃく」とフリガナがあるので間違いない。

ネット検索できるかぎりでは、いまのところ最も古い「真逆(まぎゃく)」であろう。

ここまでは用例が少ないので、もちろん「真逆(まぎゃく)」が広まっていたとは言えないだろう。

しかすると、文章にならないような口語俗語として使われていた可能性はあるが、それはわからない。

さて、1970年代に入ると一人の男が颯爽と登場する。映画評論家松田政男である

この人物が「正反対」の意味の「真逆」を広めたと言っても過言ではないのではないか

彼はそのくらい「真逆」を多用しているのである

1971年風景死滅松田政男

コスタガブラスが『Z』にひきつづいてつくった第三作『告白』は、いわば、日本の喪名の永久革命家の理念とは真逆視点から革命反革命弁証法をとらえようとした政治的茶番劇である


1972年キネマ旬報』「映画批評 わが緑の大地」松田政男

往年の安部公房テーゼ"猛獣の心に計算器の手を"とまさに真逆に、ポール・ニューマンは"ハトの心にタカの爪を"と、後行する世代叱咤しているのである


1973年不可能性のメディア松田政男

自動車から飛行機への発明ベクトルがひたすら上昇の方角にのみ向けられているのとまさに真逆に、グーテンベルグ以降におけるエレクトロニクスメディアの発達は、ひたすら私たちの<内部世界>の深部に向って下降するベクトルをもっているのではないか

エンツェンスベルガーは、エレンブルグの「作家ならば、ドゥルティの生涯のものがたりを書いてみようとは、けっして思うまい。それはあまりにも冒険小説そっくりだった」というしたり顔とはまさに真逆に、そういった意味合いでの「物語作者は、自己否定しなければならない」が故に「集団的フィクションとしての歴史」――正確には「反歴史」を書くべく試みたのだ。

チャップリンが、常に、可哀想ヒロインのために献身するのに対し、キートンはまさに真逆禁欲的にまで非情に、アクション共同体映画のなかへ制度化すべきことを他者に向って要求するのである

そしてエイゼンシュタインは「人に秀でた人間」として、しかトロツキーとは真逆に、スターニスト・レジームへの自己批判を倦むことなくつづけることによって生き延びて行ったのだ。


1973年キネマ旬報』「キネ旬試写室化石の森」松田松男

この点いかに苦悩の色を露わにしつつ純文学を志そうと、できあがった作品が常に一つの社会現象として、つまりエンターテインメントとして消費されてしま石原慎太郎と、篠田正浩はまさに真逆であると言っていい。


1974年キネマ旬報』「今号の問題作キャロル斎藤正治松田政男

私たちは「スティング」のあの不愉快なだまされ方とまさに真逆に、龍村らが「キャロル」に仕掛けたさわやかな詐術を愉しんでおけばいいのだから······


1974年朝日ジャーナル』「密室国家難民キャンプ なぜ、いま、パレスチナ革命なのか』松田政男

レーニン以前に、もとよりレーニン以上に楽観的に「生産者たちの自由平等な協力関係の基礎のうえに新たに組織する社会は、全国家機関を、そのばあいしかるべき場所へ移しかえる、すなわち、紡ぎ車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」と断定したエンゲルス理想とはまさに真逆に、いま紡ぎ車や青銅の斧と共に博物館へ並べられているのは、彼らエンゲルスレーニンや、その他もろもろの革命理想である


1975年現代の眼』「シネマ・マンスリー

この密林の猟師年齢不詳だがむろん年老いており、したがって初めキャステイングされていた三船敏郎のような精悍さとは真逆の、むしろ志村喬だとか千秋実だとか黒沢一家長老ふうな中央アジア出身の老優が起用されていて、これがかえって野生の賢者という風格をかもし出してなかなかにいい。

これは匿名記事だが文体からして松田政男か?

1976年キネマ旬報』「自主映画の新作その(3)」松田政男

この静謐な、余りにも静謐な〈自然〉は、ゴダールとは真逆の"観念論的記録の試行なのか?


1978年シナリオ』「77から78へ日本映画の秋冬アイデア燃えあがる日」松田政男

そこへ行くと、日活ポルノ裁判被告として四年間の沈黙余儀なくされていた山口清一郎が、初めてATG提携製作した新作『北村透谷・わが冬の歌』は、『原子力戦争』とまさに真逆に、開かれた映像空間の造型に、一定程度の成功を収めえている。


1979年『日付のある映画論』松田政男

高橋明庄司三郎ら日活独特のポルノ男優たちが、画面のなかでいかにタフに振舞おうとも、私たち観客に対しては常に控え目な存在であるのとまさに真逆に、ここにおけるホストどもは、私たちの目の保養を邪魔立てする文字通りに目ざわりな夾雑物なのだ

しかし、『25時の舞踏派』『貘をぶっ殺せ』『造花の枯れる季節』と一九七五年に三連作された8ミリ長編劇映画とは真逆に、このうまさは、なぜか上すべりするうまさなである


1979年現代の眼』「和製B級映画現在形」松田政男

亀和田武は、そこで、私とはまさに真逆に、自らの石井隆論を全面展開しながら辛辣きわまりない反撃を重ねて行くのだが、先述したように、私がヨリ関心を惹かれるのは、個別作家論というよりも、その大前提たるべき情勢論なのだ


1979年現代の眼』「松田政男映画戦線への斬り込み」松田政男

そして、面白いのは、西欧的な父性原理依拠する『くるみ割り人形』とはまさに真逆に、信州フォークロアに原型をもつ物語真相には、東洋的な阿闍世コンプレックスに由来する母性原理が、不十分ながら貫徹していることだろう。


といった具合に、松田政男は「真逆」を使いまくっている。

いずれもフリガナは振られていないので、本人は「まさか」の読みで使っていた可能性もあるが、少なくとも意味的には「正反対」で間違いなかろう。

1970年代から1980年代にかけて、この「正反対」の意味の「真逆用法は、特に映画系のライターあいだで広まっていったようである

たとえば田原総一朗もその一人である

1975年大統領を知らない人たちアメリカで見たしたたか生き方田原総一朗

もっと地獄絵は、その猥褻さ、はなはだ幽玄的でない表現に寄って、裸や性器露出がいやらしいこと、不自然なこと、いわば忌み嫌うべきこと、非人間的なことであることを強調しているわけで、これは、古代ギリシャをはじめヨーロッパ絵画彫像が裸の美を強調し、裸こそ人間自然の姿だといわんばかりに表現しているのとはちょうど真逆である


1978年穀物マフィア戦争田原総一朗

「当然でしょ。”緑の革命“とは、発展途上国にとっては、自立とは真逆の、アメリカへの依存度をより高めさせ、アメリカ政府と、多国籍企業世界支配システムにより深く組み込まれることでしかなかったのですからね」


1979年『潮』「二都物語1新潟VS山口総理大臣をうんだ街」田原総一朗

松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。だが、岸信介には、狂はない。むしろ吉田松陰とは、真逆のように思える。


仮に、このあたりの記述が「まさか」という読みを意図していたとしても、フリガナがないので「まぎゃく」と読む人は多かっただろう。

よって「真逆(まぎゃく)」が広まったのは1970年代ではないか、というところで結論としたい。

Permalink |記事への反応(0) | 23:57

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2025-12-03

映画】潔白を見た

二転三転する法廷劇映画の良作。75点。

 

村の嫌われ者葬式で毒入りマッコリによる殺人事件が発生。認知症の妻が犯行を自供するも証拠は薄く何かおかしい。ソウル弁護士をする娘が緊急帰国し弁護を開始するも閉鎖的な村民市長警察、輩の妨害に合い、事件の裏の巨大カジノ建設に関わる陰謀に近づいていく。

 

最初何となく日本でいうところの「刑法第39条」的な認知症人間の罪をどう裁くべきなのかとか、無実の認知症の人に自供させた場合その真実をどうやって確かめることができるのか的な社会的作品かと思って見てたけど実際にはそんなことは別になく、韓国特有文化である「恨(ハン)」の映画だった。

 

主人公は死んだ父親(母親再婚した継父)から虐待を受けておりそれが原因で自殺未遂→村を捨ててソウルへというバックボーンがあり、ソウルでは正義感の強い敏腕弁護士として鳴らしている。村を捨てた人間として村の人間からはうっすらと疎まれており、また村八分にされていた人間の残った一分の葬式に行ったらその嫁に毒殺されるという悲劇からほとんど協力が得られないという村ホラー的な展開が良い。

その被害者の中で一命をとりとめた市長は何やらこの事件を早々にクローズドしたいらしく、無能弁護士をよこしたり警察圧力をかけたり部長検事を引っ張り出してきたり地元チンピラを雇ったりとあらゆる手段を講じてくる。そして死亡した人たちは彼が推進していたカジノ計画に何らかのかかわりがあることが分かり、こいつがやったのでは?という疑念が立ち上る。だったらしょうもないなぁとちょっとこの辺で不安になってくる。

しかしその後、証人喚問に呼ばれた自閉症の弟が検事に「お前以外は誰もマッコリが入ったヤカンに触ってないんだな」と詰問され弟は「はい」と答え、それを見た母親が半狂乱になり「私がやりました!!!」と絶叫しだす。弟は常々検事のことを悪い人だ!と言っていたので、エッ、悪人を罰するために自閉症の弟がやったのを認知症ながら母の愛で庇ってたっていう一番おもんないパターン!?となるもそのまま話は進む。

巨大カジノ建設の闇がこの事件に関わっているのではと追う中で、知事父親被害者たちを含めた仲良しチンピラーズが大昔に仲間割れを起こしてうち1人を事故に見せかけて殺害したことが発覚する。そしてそれは主人公母親の元夫だった。悲しみに暮れて自殺を図った母親を死んだ父親が救い、妊娠していた子供のためもあって彼と結婚した母。

しかしその後、仲違いした知事父親の会話から真実を知ってしまう。

ブチ切れた母親父親食事農薬散布を開始、父親殺害。そして父親葬式にのこのこやってきたチンピラーズに毒を盛ったマッコリを飲ませて復讐を果たしたのであった。いや、このストーリーで実際に母親犯人なことありえる!?

真実を知った主人公は「知事を恨んでいた父親自分の死を悟って死後強まる念を使った、もとい葬式で使われるであろうマッコリ農薬を仕込んでいた。実際に死亡時に来ていた服に農薬が付着していた(農薬母親父親に食わせていた者の残滓)」と陳述し自閉症の弟、認知症母親を操り法廷支配無罪を勝ち取る。

 

ロジックがしっかりしているのが良い。

冒頭、水に沈んでいく謎の男が映し出され、これが死亡する父親なのかなと思ったら違って誰やねんと思っていたら公判で元夫(やっぱり死亡した父親ではあった)であることがわかると、あぁ冒頭のあのシーンはこういう意味だったのかというのがわかるし、同じく冒頭にある父親による虐待シーンも「自分が殺した元夫の子だったからか」と判明するのも「母親の元夫を殺したところからすべてが始まっていた」と理解できる構成が美しい。

また母親?→知事?→弟?→母親!→父親へという犯人が二転三転する法廷サスペンスを頼ませてくれたうえで、市長ガッツリ警察に影響力があって汚職まみれで暴力も辞さないというイヤ村展開も見せてくれるのも、あと幼馴染のデブは善き警官として登場しコメディリーフとして主人公に手を貸してくれる展開もエンタメとして強度が高い。

当初正義感が強く「悪の弁護はしたくない」と当初述べていた主人公が、弟が撮影していた母が父を殺害した状況証拠を握りつぶし、敏腕弁護士ぶりを発揮し「冤罪でっち上げて」自身母親と本当の父親復讐を果たし無罪を勝ち取るという展開はこの作品タイトルが「결백(潔白)」ということを顧みても趣があってよい。

主人公冤罪に手を染め、母親は元夫の仇である父親含めたチンピラーズを殺害し、自閉症の弟は父殺しを黙認し、父親市長被害者たちも元夫殺しの犯人で、無能弁護士警察検事汚職にまみれている。潔白などないという作品なのかなと思った。

 

個人的に好きだったシーンは主人公が集めた証拠から母親真実を追求にしに行く接見シーン。

互いに向かい合って話すんだけどカメラを互いを一人一人しかさないのだが、ガラス越しに反射した相手の顔を同じ向きに重なり合うように映す。そして主人公最後真実を明らかにするシーンで「主人公」と「反射する母親」のそれぞれの顔が輪郭レベル完全に一致する。

最初象徴的な絵面だなと思ったけどその告白母親によるマッコリ混入だったのでこの母親主人公を同一化する意味って何だろうと思って見続けていたらその後、主人公は死んだ父親犯行だったことにするという戦略をとり「夫・父親復讐を遂げる人間」になったんだなということが分かり、いい演出だなーって思った。

母親父親チンピラーズの多くを物理的に殺害し、主人公は彼らを法的に再度殺害した。

 

役者さんもよかったし何よりプロットがしっかりしていて法廷劇映画必要な要素はたぶん全部入ってた。

まぁ後の知事も含めたチンピラーズの犯行がずさんすぎる問題はあるんだけど、でもこれってトリック重要本格ミステリ(Howdunit)じゃなくて人情ミステリ(Whydunit )なのでこんなもんじゃない?少なくとも明確に矛盾してるなぁって部分はなかった。

しっかり作られた良作。オススメ

Permalink |記事への反応(0) | 10:02

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2025-01-15

anond:20250115114344

劇場版

劇映画

Permalink |記事への反応(0) | 11:53

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劇映画 孤独のグルメ

「ここ絶対にみんなで食事するシチュエーションだろう」っていうところでも一人だけで飯を食べているというシーンがあった

タイトルテーマに沿わせるためにやむを得ないとはいえ自然であった

Permalink |記事への反応(2) | 11:43

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2024-04-26

anond:20240426182224

うゆが好きなのは悪魔の手鞠唄(1977)』

市川金田一耕助シリーズ第二作目…

手鞠唄に沿って殺される田舎殺人劇映画にして究極の失恋映画

ロケーション完璧さも相まって独特な雰囲気が満ち溢れてるミステリー映画となりました…

Permalink |記事への反応(0) | 20:37

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2021-05-26

考察という言葉が嫌いだ。

https://twitter.com/nanai_komusai/status/1397122109319483393


なぜなら、バカの使うことばに成り果ててしまたから。


優れた映画ってのは作品自体の中に設定で決めたことが分かるように入れ込んであるんであって分厚い設定資料集作ったのに作品中にそれが反映されてないのは駄作なんよ、だから考察に耐えうる作品ってだけで最近じゃ少ないんですよ。書を捨て本編を観よ!

https://twitter.com/nanai_komusai/status/1397497351514726407


公式本に書かれていあることは答えなんですよ、ああ正しいさ正しいだろうよ、けど答え書いてある本読んだあとで何を考察しろって言うの?公式本は考察をできなくする本だよ。第一アニメ本編見ても絶対に分からないことはいくら外部資料にあったって”採用されたか疑わしい”じゃないか

https://twitter.com/nanai_komusai/status/1397496162140114945


さんざん本編部分の誤読を突かれたあげく、「優れた映画ってのは作品自体の中に設定で決めたことが分かるように入れ込んでいるもんだ。そうじゃないのは駄作!」と叫ぶ。その言でいくとおまえ的には『もののけ姫』は「考察に耐えない駄作」ってことになるのだが? と思ってしまうがここではいじめないでおいてあげましょう。きっと何も考えてない人なんですよ。

とはいえ、上ふたつのツイートで言われていることは理念的にはさして間違っていない。

もっともラジカルなテクスト論では書かれてあることがすべてであり、作品の外部に「正解」などない。

実際的問題としても、インタビュー開発者製作者が「この作品は○○について書きました」と明言しようが、作品を見たら全然そう受け取れないことはよくある。

単に制作側が事実や題材について勘違いしているケースもあるだろうし、制作者がインタビューでテキトーなことしかいわない高田純次野郎だという可能性もある。そもそも作者が自分の作ったものについて2000%知悉しているなんてファンタジーである。作者はクリエイターという点では神に擬せられるかもしれないが、全知全能であるかどうかいう点についてはとても神とはいえない。

なので、「作品のなかで描かれていることのみを受け取って解釈すべき」というスタンスはおおいにあり得る。「インタビュー設定資料などの外部の資料にもあたるべきだ」というスタンスとおなじくらいには。


だが、それは批評レイヤーでの話である

考察」は違う。

考察」とはなにか。

わからん

ネットにおける「考察」の語義を定めるのは難しい。

そこでは「”正解”を探すための思索を伴う洞察」と「作品の幅を広げるための妄想二次創作」というふたつの意味あいがせめぎあっている。

答え探しであって答え探しではない。二次創作であって二次創作ではない。

この曖昧さがネットにおける「考察文化をたいへんブルシットなものにしている。

よく「考察」をのべるときオタクたちが前置きとして言うのが「これは個人的解釈です」だの「妄想として捉えてください」だのといったエクスキューズ

これがまあ卑怯だ。

だって、本当は「個人的解釈」や「妄想」として受け取ってほしいだなんて微塵も願っていない。

半分与太話として聞いてくださいよ〜〜〜という韜晦を装いつつ、腹の底では好きあらば自分の説を解釈ひとつなどではなく無二の真実として受け入れることを受け手要求する。

作品踏み台にして、自分世界にむりやり引きずり込み、その世界、すなわち自分を讃えろと強いる。

そういう態度が卑怯だと言っている。

批評二次創作はその形態自体が数ある解釈ひとつであるということを前提にしている。

劇映画を観るときに観客が誰もそれを現実だと受け取らないのと一緒だ。

考察」はその言葉自体答え探し的な性格を孕んでいるにも関わらず、実態としては全然そうではない。

考察」勢は、そのあいまいさの暴力自分たちの都合のいいように使う。


こうした手合は陰謀論者に似ている。

称賛する人々も陰謀論インフルエンサー信者に似ている。

政治的だったり差別的だったりするたぐいの陰謀論に比べると実害は少ないかもしれない。

だが、損なわれているものは確実にある。

世界を醜くしている。

から、私は「考察」が嫌いだ。

Permalink |記事への反応(6) | 20:30

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2019-02-01

30分しか録画できない問題

いま発売されている日本製のスチルカメラ写真撮影用のカメラ)というのは、写真だけではなく動画撮影に関しても非常に優秀で、わざわざビデオカメラ動画撮影専用のカメラ)を買わなくてもいいかなと思わせるものも多い。

でもスチルカメラ動画撮影に関して、ものすごく悩ましい点がひとつある。

それは、1回の撮影で30分以上動画を録画できないカメラほとんどだということ。

一眼だろうがコンデジだろうが、エントリーモデルだろうがハイエンドモデルだろうが、日本製スチルカメラほとんどは30分以上録画できないようになっている。

厳密にいうと29分59秒までしか録画できない。

念のために言っておくと、バッテリーストレージ発熱等の問題によって一定時間以上録画できない場合があるのは事実ではある。

でもこの30分録画制限っていうのは、技術的な問題というわけやなくて主に貿易上の問題やねんな。

EUカメラを輸出する際、1回の撮影で30分以上動画を録画できるカメラについてはスチルカメラであってもビデオカメラ扱いになってしまって(厳密にはもっとかい条件があるんやけど)、そのぶん関税が高くついてしまうってのが原因なんや

せやからメーカー側でわざわざ自主的機能制限しとんねんな。

パナソニックとかオリンパスみたいな一部のメーカーやと、特定の機種に関しては時間制限を設けず最初からビデオカメラ区分として輸出しとるなんてこともあるけども、それ以外はどのメーカーファームウェア時間制限かけとるのが現状なんよ。

ファームウェアをハックしてこの30分制限突破するという荒業をやってのけるカメラファンもおるけど、そのやり方が好ましいものではないのは言わずもがなやしな。

そもそもなんでEU事情でこっちまでしわ寄せ来とんねんふざけんなとかずーっと思い続けとったんやけども、昨日ついに朗報が飛び込んできたんよ。

それがこのEUとのEPA経済連携協定)。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190201/k10011798871000.html

まり何が言いたかたかというと、EUとの段階的な関税撤廃によって、このクソみたいな30分録画制限がなくなる可能性があるということ。

ついでに言うとライカ製品比較的安く買えるようになるかもしれんわけ。

返信

hungchang障壁がなくなるのは良いことだろうが、ビデオカメラではダメなんだろうかという念が拭えない。

スチルカメラビデオカメラどっちにも一長一短あって、どちらを買うかは用途や状況によって各自で決めればいいし、自分も一応使い分けてはいる。

そこら辺の詳しい話に関してはこの動画おすすめ

https://www.youtube.com/watch?v=Z2S5M7angds

ただ動画内でも言われとるけど、ビデオカメラというのはざっくり言うとお手軽なご家庭向けかプロ向けかの二極化がすごくて、ちょうどいい中間のものがほぼないわけ。

でも一眼スチルカメラはちょうどその中間はまっているものが数多くあって、選択肢豊富なんよ。

それに一眼スチルカメラのいいところっていうのは色々あって、例えばセンサー普通ビデオカメラより大きくて高画質だったり、暗所に強かったり、ダイナミックレンジが広かったり、なにより撮りたい画に応じて設定も細かくいじれるしレンズも変えられるしみたいな感じで、ご家庭向けビデオカメラより拡張性があってバッチリきれいな画作りができるのにそこそこのお値段で買えるっていう物が多いんよね。

そしてなによりスチルカメラ写真動画も両方キレイに撮れるわけで、やっぱりそこは大きい。だってご家庭向けビデオカメラってスチルカメラほどキレイに(ちゃんとした)写真って撮れんからね?

それに一台だけで済むならそれに越したことないしそのほうがコスパもええよねっていう。大体そんな感じやね。

type-100 なぜ途中から関西弁になった/日本製デジカメ世界でも圧倒的に強いので、販路が広がればよいことだと思う。

スチルカメラにおいては最強と言っていいね

ただしシネマカメラ(映画撮影専用のカメラ)においては全然強くない。

よかったらこ動画見てほしい。

https://www.youtube.com/watch?v=nzsfHGaHE6E

これ2019年アカデミー賞ノミネート作品ではどういうカメラが使われとるか確認してみたっちゅう動画なんやけど、ノミネート作品中で日本カメラが使われとるのはどうやら二作品だけらしいんよ。

ひとつナショナルジオグラフィックの”FREESOLO”っていうドキュメンタリー作品で、これはCANONの”EOS C300Mark II”が使われとるみたい。ちなみにこのカメラはさっき言うたプロ向けビデオカメラっちゅうやつで、Amazonなんかじゃ取り扱っとらんやつやね。

もうひとつ作品犬ヶ島で、これもCANONカメラが使われとるんやけど、こっちは”EOS-1DX”っていうスチルカメラなんよ。まあストップモーションアニメから当たり前なんやけどね。

結局、劇映画日本ビデオカメラ採用されとらんっちゅう現状なんよね。

じゃあ外国語映画賞ノミネートされとる万引き家族(Shoplifters)はどうなんかっちゅう話なんやけど、これはARRI社っていうドイツ会社シネマカメラ(デジタルフィルム)を使って撮られとる。ついでに言うとARRI社のカメラは今年のオスカーでも最も使われとるみたい。圧倒的王者やね。

いろいろ言うたけどSONYはじめとした日本会社も頑張ってシネマカメラ市場に切り込もうとしとるんで、この先が楽しみではある。

Permalink |記事への反応(1) | 12:57

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2019-01-17

[今日知った言葉]剣とサンダル

屈強な肉体を誇るギリシャ神話英雄や、古代ローマ剣闘士などを主役とし、

荒唐無稽ストーリーも許容される、ある種の古代劇映画のこと。

特にマカロニウエスタン流行する以前のイタリア映画において量産された。

ベン・ハー』『グラディエーター』『300(スリーハンドレッド)』などが有名。

Permalink |記事への反応(0) | 16:45

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2018-09-20

anond:20180920121033

団塊世代が読んだであろう本(吉本隆明高橋和巳三島由紀夫、等々)は読んだけど、団塊世代人生経験自体は書いてねえぞw

それよか、黒澤明とか野村芳太郎とかの1960年代現代劇映画観てると、当時の世相が反映されてる、劇中に汚い貧乏ごろごろ出てくるね

いっとくが、ウルトラマンとかはあえて未来的な風景を強調してるから

あと加山雄三植木等映画はわざとハッピーで明るい享楽的作風意識して作ってる

本を読めとか勉強しろとかうるさいけど、貴殿が言う、団塊世代は1人残らず苦労知らずでひたすらハッピー脳天気で夢見がちだったということを裏づける、具体的な作品名を挙げて欲しい

学生運動批判的に描いた作品(たとえば1960年代に書かれた倉橋由美子現代小説とか)では、全共闘学生いかにも脳天気甘ったれのように描かれている、その手の描写はよく見た

しかし、俺は最初から団塊の大多数は高卒中卒・農家とか工場労働者とか」と述べている

それら非大卒まで一切、苦労知らずでひたすらハッピー脳天気で夢見がちだったということを裏づける、具体的な資料作品名とか作家名とか挙げて欲しい

Permalink |記事への反応(1) | 16:37

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2016-09-18

映画聲の形」"私(達)の時代の話をしているんだ"

2016年9月17日今日公開の映画聲の形」を観てきた。

写実的実存感に溢れる流麗な映像と共にかかるThe WHOのMy Generationに、山田尚子監督京都アニメーションの円熟と"私(達)の時代の話をしているんだ"という監督の高らかな宣言を感じた。

単行本7巻分の原作を2時間シェイプアップされた映像は、大胆な再構成説明要素の排除で進行される。

この映画は将也の物語だ。

原作で描かれた硝子の主観ほぼほぼ排除されている。硝子は聴覚障害があり、手話不明瞭な言葉しかコミュニケーションを取ることが出来ない。

それは劇中でもありのまま描かれ、我々健聴者は彼女が何を言っているのか正確に理解できない。

将也や、その他の登場人物の反応で保管できる部分はあるが、原作のように硝子の視点も用意されておらず、想像範疇を出ない。(なんとモノローグすらない)

まり観客は彼女同化することを構造上許されていないのだ。(これは字幕上映を観ることで考えが変わるかもしれない)

物言えぬ硝子を介して、将也はコミュニケーションを、人の間で生きていくことを学ぶ。

しか原作で大きく扱われていた周辺登場人物との関係欺瞞に満ちた映画作り〜かつて失くしたコミュニケーションの復活・その崩壊・硝子による再構築)も排除されている。

将也の成長物語のみに徹底的にフォーカスした結果、将也の成長を促す硝子を含むすべての周辺登場人物へのフォーカスを切り捨てたのだ。

それでは山田尚子監督及び京都アニメーションスタッフ陣はどのような物語演出方法を取ったのか?

それは徹底的なリアリズムと情感を託された映像密度と、そこにあるもの以外語らない、という選択だったのだと思う。

ノイジーでインダストリアル劇伴と静かに喋る将也と物言えぬ硝子。大きなカタルシスを用意するでもなく(物語上には存在するが、ここで挙げるのは演出上のカタルシス)、ただただ丁寧に心の機微は描く。

その役割言語化されたコミュニケーション大前提劇映画では異常なほど、人物(言語)ではなく映像に委ねられている。

象徴的に繰り返し映し出される様々な花のモチーフにも、それぞれ意味があり、雄弁に語る。しかしそこに言語はない。

とても静かな映画だった。

それは聴覚障害コミュニケーション少年の成長、という大きな主題映像化する上でベター選択だったし、原作モノを再解釈して色を付ける、しかあくま原作範疇から出ることはせず、映像化にあたっての最良の選択だった。

けいおん!」で見せた山田尚子監督バケモノ級の構成力がいままさに円熟しているのを感じずには居られなかった。

もちろんその演出選択できる体力としての京都アニメーションスタッフ技量があってのこの映画だったと思う。

響け!ユーフォニアム」で到達点を見せたと思われた、写実的被写体キャメラ存在を追求した京都アニメーションレイアウト撮影までの画作りの更なる進化があってこそ、将也の心情に寄り添った雄弁な映像は生まれたのだ。

先週観た「君の名は。」で新海誠が描いていた、印象だけで構成された陳腐空虚しかないセンスの欠片もない映像と退屈で死にそうなほど単純なボーイミーツガールポストエヴァ世代の終わりなき呪縛を今作は問題外と言わんばかりに完璧凌駕していた。比較対象雑魚すぎるきらいもあるが、あらゆる意味次元が違った。

新海誠代表されるセカイ系次世代として2000年代後半に登場した、近景に特化した所謂空気系旗手として君臨した「けいおん!」は物語歴史の中でノスタルジックかつアブストラクトエポック作品だったが、その監督である山田尚子京都アニメーションさらなる次世代を紡ぐ、体制側・システムとしての完成をみたのが今作だったと思う。

オルタナティブとしての物語自分ストーリーとして受け取る現世代のための物語装置を創りだすシステムとしての京都アニメーション

圧倒的なクオリティと確実なチョイスで、先陣を切りそれを体現していく山田尚子恐ろしいことに今回は萌え武器にもしていないのだ。

派手な爆発も、世界を救う大いなる力も、悩める個人と直結したセカイも、今作の持つ超弩級の冷静さの前では旧態依然とした使い古されたアイデアしか無かった。

それでも丁寧に丁寧に人の手で作られたアニメーションは、絵が動き、実写以上の実存感を持って我々の心に寄り添い訴えてくる。

時代に生きられることに感謝し、最大級の賛美を持って新時代の幕開けを向かい入れたいと思った。

必見。

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2016-09-17

レッドタートルとソング・オブ・ザ・シー、宣伝の仕方が逆問題

ソング・オブ・ザ・シーの宣伝

海外評価されたアートアニメ文化の薫り高い劇場で上質な映画体験!」

実態家族愛冒険テーマケルトファンタジー世界モチーフにしたファミリー層向け活劇映画(あざらしがかわいい)

レッドタートルの宣伝

スタジオジブリ最新作!金曜ロードショー!TVCM!全国上映!」

実態:人の一生、自然と命をテーマ象徴的な表現を巧みに使った最高峰アートアニメ(カニがかわいい)


どちらも素晴らしい作品だったので、宣伝の仕方だけが心残り

Permalink |記事への反応(0) | 20:32

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2016-08-06

日常シーンで3DCGが導入されない訳(一視聴者の私見)

日本の深夜に流れる萌えアニメ日常パートに使えるほど3DCG技術は高くない。

実行すればスクールガールストライカーズCMのようなものを見て萌え続けることを強いられるだろう。


日常シーンで3DCGが導入されない訳

カートゥーンレンダリング違和感が未だ拭い去れないからでは?

カートゥーンレンダリングというのは、モデルレンダリングする際に陰影を潰してフラットに仕上げることである

これにより3DCG特有の光沢感をなくし、旧来の2Dアニメの風合いにぐっと近づけることができる。

しかフィギュアを作る感覚モデリングをしてアニメ調にレンダリングしてしまえば、

普段アニメを見ている僕たちが違和感を持たないものができるわけではない。

ベルセルクgdgd妖精's、シドニアといった作品は素晴らしいが、

談笑している南ことり渋谷凛を眺めるような感覚を持って鑑賞することは難しい。

ダンス戦闘といった動きの激しいシーンならそこまで気にならなくても

些細なシーンが続くアニメではどこか違和感が残ってしまう。

なぜならカートゥーン日本アニメは立体物を写実的描写しているわけではなく、

平面的な動きの面白さの追求や漫画表現の導入の末に確立された表現スタイルに則っているからだ。

なので3D2Dに近いアニメを作ろうとするならば、

カートゥーンレンダリングを経て普通アニメに見えるような逆算が必要なのだが、

1話25分のアニメをフルで毎週1本量産できるほどノウハウ確立されていないのではないだろうか。

些細な人間仕草再現することはかなり困難だからでは?

いて座って話す。それだけでもかなり複雑なのだ

不気味の谷」という言葉があるが、それは3DCGアニメーションにも言えて、

機械的に肘を30度に曲げて・・・というようにモーションをつけたり、

シミュレーションを導入したりしても、なかなか手描きのアニメのようにはならない。

なんというかキビキビ&ヌルヌルしすぎた動きになってしまうのだ。

ピクサー白組が手がけるような、多大な予算を組んで年単位で作る劇映画ならば、

充分研究時間を割くこともできるだろうが、

千万単位で発案から放送開始まで1年もないようなテレビアニメではそんなことできない。

モーションキャプチャ採用するにしても設備はなかなかないし、アクターへのギャラやスタジオ代も馬鹿にならない上、

モーションキャプチャになれたアニメーターは少ない。

そうしたところで細やかな修正はやはり必要で手間がかかることには変わりない。

そこのところダンスシーンなら動きがある程度決まっているため、アニメーションもそこまで難しくないし

モーションキャプチャにもなんとか予算を割くことができる。






要は僕らが無邪気に「〇〇かわいい」っていっていられるようなアニメを量産できるレベルに今の3DCGアニメーションレベルは達していないということだ。

これは技術的なことではなくて経験値の問題だと思うので、時間をかけてフロンティア精神ある人々が失敗を恐れず挑戦していくしかないのかも。

そしてそこまで業界人がこぞって3DCGにかまけていられるほどの余裕はないし、

萌えアニメを本格的に作っていきたいという情熱ある3DCGスタジオの数は

数多あるアニメスタジオの数に比べたらとても少ない。

よほどの理由がなければフルで3DCGにしようなんて企画は通らないのだろう。


元増田の疑問から大きく外れた持論の垂れ流しで申し訳ない。

じゃあなんで最近アニメダンスシーンに3DCGを使うようになったのかといえば、

それは3DCGダンスを見せることは3DCG用いた他の描写より楽で、

逆に手描きでダンスシーンを手がけることは他よりもしんどいという合致があったからということと、

プリキュア諸々の女児アニメでの活用例やMMDの普及などにより

日本3DCG業界内でダンス描写が妙に洗練されていった結果だと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20160805221326

http://anond.hatelabo.jp/20160805222046

Permalink |記事への反応(0) | 03:24

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