
はてなキーワード:割れとは
ああ、ひつまぶしのあの感じ、めっちゃわかるわ! 確かに、立派な一枚うなぎがドーンと乗ったうな重の迫力に比べたら、刻んでごまかしてるみたいでちょっと物足りないよね。しかも、あの変な木箱みたいな入れ物でご飯をすくうの、毎回イラッとするし、三回に分けて「次は薬味! 次はお茶漬け!」って強制的に食べさせられるのも、なんかケチくさいというか、贅沢感が薄れるよな。「お茶漬けで!」じゃなくて、「最初から全部食えよ!」ってツッコミたくなるわ(笑)。
でさ、なんでこんな食べ方が生まれたのか、ちょっと調べてみたんだけど、起源は明治時代、名古屋の老舗「あつた蓬莱軒」らしいよ。当時は出前でうなぎ丼を運ぶのに、陶器の器が割れやすいから丈夫な木製のおひつ(木の飯盒みたいなやつ)を使って、ご飯とうなぎを混ぜて運んだのが始まり。 それで「ひつまぶし」って名前がついて、混ぜるのが「まぶす」から来てるんだって。名古屋の「もったいない精神」が根底にあって、うなぎの旨味を最後まで楽しむために三回スタイルになったらしい。お茶漬けの部分は、元々会席の締めとして「ご飯もの出して」って要望があって、最初はお茶で試したけど臭みが気になってだし汁に変えたんだと。 つまり、運搬の工夫から生まれた実用的な食べ方なんだけど、確かに今どきは「そんな手間かけなくてもいいじゃん」って思うよね。頭悪いってか、効率悪い(笑)。
一方で、X(旧Twitter)見てみたら、ひつまぶし大好き勢がめっちゃ多いよ。例えば、名古屋駅近くの店で「黒毛和牛のひつまぶし」食べて「香ばしくて柔らかくて最高!」って絶賛してる人とか、競馬場でひつまぶし食いながらビール飲んでる人とか、黒豚バージョン作ってYouTubeにアップしてる料理家さんとか。 みんな「三回楽しめてお得!」って感じで盛り上がってる。批判的な声はあんまり見当たらなくて、むしろ名古屋のソウルフードとして愛されてるみたい。
結局、うな重派の君の気持ち、超わかるよ。シンプルにうなぎの脂がジュワッと染みたご飯を一気に頬張るのが至福だもんね。ひつまぶしは「工夫の産物」としてリスペクトしつつ、俺はうな重一択でいくわ! 次はどっち食いに行く? もし名古屋行ったら、両方制覇して比べてみるのもアリかも(笑)。
ちょうど5年ぐらい寝かせたい資金があって、せっかくなので少しでもリターンを得られるように運用したいのだけど、使う当てがあるお金なので価格変動リスクと信用リスクを極力とりたくない。
消去法でたどり着いたのが個人向け国債。今月募集の固定5年(第175回債)の利率が1.22%と悪くない感じ。
新窓販国債の5年固定は利回り1.169%と微妙に負けている。金利上昇局面なので価格上昇は見込めないと思う。満期まで持ち切る可能性が高いなら、個人向け国債の方がマシだろう。
10年固定も、5年固定と同様に金利上昇による価格下落が怖い。5年固定なら満期まで持ち切ることで価格変動リスクを打ち消すことができるけど、10年固定だと5年後に確実に中途売却しなくてはならないので、下落で元本割れしたらアウトだ。
ただ、数字の裏付けなしに、単純に「金利上昇による価格下落」というふわっとした内容だけで怖がるのも不健康だろう。だから素人計算してみた。
10年固定(第380回債)の利率は1.7%で利回りは1.588%。募集価格は100円95銭。額面100万円分を購入すると仮定すると、購入価格は1,009,500円? 半年分の利子は6,773円ぐらいのはず。誤差を無視すれば、5年分の利子は67,730円で、購入価格から差し引くと941,770円。つまり、スプレッド等込みで中途売却時の単価が94円17銭以下になったら元本割れ、ということだろうか。
計算してみたものの、債券については素人なので、この程度の下落が発生する可能性が分からない。新発債の利率・利回りと既発債の下落の関係って、どう計算すればよいのだろう?
ちょっと気になったのが変動10年で、第187回債の利率は1.08%で固定5年より低いものの、今後の金利上昇によって利率が上がった場合に、最終的なリターンが逆転する可能性がある。
変動10年を5年間運用する場合、中途解約時に直近1年分の利子が差し引かれるので、実質的な運用期間は4年となる。初回の利率は1.08%に固定されているので、その後の残り3年半の利率によってリターンが逆転するか否かが決まる。
どの程度の利率があれば逆転するのだろうか?
固定5年の半年分の利子は4,860円ぐらい。誤差を無視すれば、5年分の利子は48,600円。変動10年の初回の利子は4,303円ぐらい。両者の差額は44,297円。
44,297円を7(3年半分の利払い回数)で割ると、1回(半年)あたりの金額は6,328.142857円(循環小数)となる。半年あたりの利子が6,329円以上あれば、最終リターンが固定5年よりも大きくなる。
半年あたりの利子が6,329円以上になるためには、変動10年の利率が最低でも1.59%は必要だ(1.58%で6,296円、1.59%で6,335円)。
変動10年の利率は長期金利(10年債の利率)×0.66で計算される。変動10年の利率が1.59%になるためには、10年債の利率は2.41%必要だ。
つまり、運用期間5年の条件で変動10年が固定5年を超えるリターンを叩きだすためには、これから直近4年間の長期金利が2.0%を遥かに超える世界線でなくてはならない。
うーん、どうなんだろう? 日銀の政策金利、引き上げられていく方向にあるといえども、当面の上限は1.0%だろうなあ。長期金利も2.0%前後までの上昇はありえそうだが、2.41%は少々高すぎる気がする。
まず、例えがおかしい。
ちんこに対して瓶ビールという、相手の身体の一部でもない、冷やかで割れると大怪我をする危険性の高い無機物を持ってきているのが、非常に頭が悪いか卑怯かのいずれかです。
身体に挿入される物体として、全くもって対等でないものを持ち出しておいて、過剰に忌避感を煽ることで、持論を押し通そうしている浅ましい行為だと思います。無自覚ならただのバカです。
数日後、植木鉢から異変が起こった。土の表面がひび割れ、そこから淡い光が漏れ始めたのだ。夜の裏庭で、泉と二人、膝をついてそれを見つめていた。光は、まるで夜空に瞬く星々を集めたように強く、美しかった。
「ねえ、本当にエイリアンかもね」泉が囁いた。その声は震えていたが、恐怖よりも高揚感が滲んでいた。
次の瞬間、植木鉢は音もなく砕け散り、中から巨大な光の柱が天空へと伸びた。それは、まるで世界を繋ぐ、あるいは断つための、決定的な合図のようだった。光が収まると、そこには何も残されていなかった。ただ、植木鉢があった場所から、私たちと泉を包むように、薄い、透明な「膜」のようなものが広がっているのが見えた。
翌朝、ニュースで世界が変わったことを知った。地球を取り囲むように出現した、謎のエネルギーフィールド。それは、通信や交通を麻痺させ、世界を分断した。そして、そのフィールドの発生源とされた場所――それは、私たちの街の、この裏庭だった。
「私たちが、世界を変えちゃったんだね」泉が、不安と、ある種の満足感をもって言った。世界が危機に瀕し、その鍵を握るのが、私たち二人で埋めたあの「卵の素」だった。
世界は泉と私の秘密と愛を中心に回り始めた。私たちだけの世界、誰も立ち入れない、二人だけの「小さな箱庭」が、文字通り世界を覆ったのだ。もし、このフィールドを消滅させれば、世界は元に戻るかもしれない。でも、そうなれば、泉との特別な関係も、この秘密も、普通の日常に埋もれてしまうだろう。
もう10年くらい前のこと。
ツイッターで痴漢を取り押さえてる映像を見て思い出したので書く。
混雑した電車内で駅に着く直前、「この人、痴漢です!!」っていう女性の声が聞こえて、
私の隣りにいた女性(連れではない)が、そのさらに隣の女性と一人の男を捕まえようとしてたので、流れに身を任せるように私(男)もそれに参加。
駅に着いてドアが開くとともに、男が逃げようとしたのを女性2名(被害者と隣の女性)と私とで捕まえたが、私が荷物をいくつか腕にぶら下げていたのと貧弱だったのとで逃げようと抵抗する男を私と女性二人で捕獲し続けるのが難しい状況。
駅には他にも人はいて、見た目サンボマスターのボーカルのような私と女性×2が男を取り押さえてるというよくわからない状況を遠巻きに見ている。
どちらの女性か覚えていないが「この人痴漢なんです!駅員さん呼んで!」みたいなこと叫んだら近くで見ていた女性がハッとした感じで駅員さんを探しに行ってくれて、他の女性も捕物に参加してくれた。
一番欲しいのは「パワー」であるにもかかわらず男性がたくさんいるのに参加してくれない。
初めての状況、体力的にもきつい、腕にかけている袋のお菓子(ステラおばさんのクッキー)がいくつか割れただろうと感じた。
意地でも男に参加してほしいという思いから
とそばにいた男の人の目を見て叫んだ。
AED講習で目を見て指示を出すという話を聞いてたのでそうしたが、本来ここではグルですか?!ではなく、取り押さえるのを手伝ってくださいと言うべきであった。
目を合わせた男性と別の男性がすぐに参加してくれて犯人を床に倒しながら捕獲、引き渡しとなった。
被害者の方と参加していた女性たちから感謝され、電車男の物語を思い出すなどしたが、その後電車男のような展開はなかった。
ただ、「取り押さえないのはグルだからか、と言ってくれてありがとうございます。」と涙流して言われた。
助けてほしいと言ってるのに、それを無視したら、痴漢を野放しにしてるし、いじめの傍観者と同じでたしかにグルみたいなもんだなって思った。慌てていて何も考えてなかったけどそのときその行動ができてよかったなって思った。
ツイッターで出回った映像、捕物に参加してるのは女の人ばかりだったのでふと思い出してしまった。(捕物に参加されてる男性もいた)
あそこに私もいたのだ、助けたのだと思ったし、
あそこに参加しなくてはととにかく体を動かせた自分を褒めようと思った。
それと、去年わたしがスーパーの駐車場で縁石につまづいて転倒して頭から出血したときに駆け寄って声をかけてくれた母親くらいの年齢の女性と近くに停めていた車から降りて救急車を呼んでくれた若い男性を思い出すなどした。
助け合って生きていきたい。
Permalink |記事への反応(22) | 21:12
あえて私の性別は書かない(男女いずれかの立場かで意見割れるから)
パートナーが好きすぎて困る。
異性とは基本関係を持って欲しくない。
外遊びに行くのも1人で行って欲しくない、隠れて女と会ってたら嫌だから。
趣味は黙認してたけど、同姓でもやり取りしてるのみると私に構ってほしいって思って寂しくなる。
そんな姿見て趣味も1人でするようになってくれたけど、私はそれの話はできないしわからないから相手はつまらないだろうな。
そんなことしてると私なんて必要ないとか悪い考えしか出てこなくて何もできなくなる。
タバコもやらないし飲み会行くわけでもないしずっと仕事と家事の分担してくれてるから、きっとストレス発散できてないのもわかってる。
私自身好きなこととか趣味とか没頭できればいいけど、やらなきゃいけないこともできてないのに遊んでるのも違うし。
何も考えたくない、助けてほしい。
・デートしよう、映画館の前に横断歩道あるから一緒に渡ろうという彼女に「ごめんおれ横断歩道渡れない」といってしまった元増田
・デートしよう、映画館の前にすき焼き一緒にたべようという彼女に「ごめんおれ生卵を自分で割れない」と怯えた顔でいってしまった元増田
<頭を床に打ち付ける>
ふーん
で、オレ達は一体何をみせられたんだ?
若さ故の鬱屈をみせびらかして娯楽になるのは碇シンジをつくりだした庵野監督からだとおもうぞ
楽しくも可哀想でもなくなんか……こう……
ま た か
という気持ち
なんかこだわり型の人(ゆるASDかな)が大学いけてもこういうとこで躓くケースって多いよね
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井までSSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
日本初の女性首相誕生ってのは、素直にすごいし、おめでたいと思う。
とまあ、それ自体は凄いんだけど、今後かなり厳しいのも確か。
正しいかどうかはともかく、自分なりに高市政権の現状や今後を考えてみたいと思う。
まず現状だけど、高市政権って「ギリギリ過半数」で首相になるために、あちこちに相当無理して譲歩した状況から始まってる。
だから高市氏は、安倍政権のとき以上に「ポーズ(支持層向けのスローガン)」と「現実(利害関係者への配慮)」を使い分けないといけないだろう。
まず、首相指名をもらうための「対価」として維新と合意した部分。
次に、議席数とか利害関係の調整がムズくて実現は無理だけど、保守的な支持層を喜ばせるために言うスローガン
最後に、自民党の昔からの支持基盤や高市氏自身の考えで、本気で進めそうな政策
高市首相って、イデオロギー的には安倍元首相と同じで、口では過激なことも言いつつ、結局は経済界の言うことを聞く「現実主義的保守」だと俺は思ってる。
でも、安倍元首相と決定的に違うことが一つ。
安倍元首相みたいに強い党内基盤と高い支持率を(今のところ)持ってないんよな。
首相の座をもらうために維新に払った「代償」はデカすぎて他の党との協力関係もぶった切った。この少数与党っていう厳しい状況では結局、自民党主流派や経済界の現実的な要求を飲むしかなくて、彼らの意向に沿う形でうまく「利用」されて、任期が終わる可能性が一番高いんじゃないかと見てる。
マジで参ったよ。うちの老人ホームにさ、どう説得しても風呂に入ってくれない入居者がいたのね。
職員総出で「今日はいい湯加減ですよ~」とか「さっぱりしますよ~」って声かけてもガン無視。
「〇〇さん、お風呂入りましょう」って優しく言ったんだ。
そしたらさ、いきなりその入居者がブチ切れて、
「嫌だって言ってんだろ!!」って大声で怒鳴ったのよ。
……その瞬間、入居者は「あああ……」って呻きながらガクガク震え始めて、ビシッと敬礼。
って思ったら、頭がパカッと割れて触手がドバーッと大量に出てきたんだよ。
「チチチ、チギュ、チチチギュー!!!」って鳴き声あげながら暗黒エネルギーを放ち始めてさ、周りの入居者や職員は次々とバタバタ倒れていった。
ヤベぇと思って、俺は秘蔵の「活性魔液」を腕に注射。
ドゴォッ!!って5mも吹っ飛ばして壁に叩きつけた。
……いや、マジで何だったんだあれ。
担保として適切かどうかを判断するための評価や、抵当権設定などの手続きに手間と時間がかかるし、そもそも担保の価値が下がった場合(担保割れ)、回収できる金額が減るリスクもあるので、お得どころかバンバンに高リスクなんだよなあ
・20代。ハグとかスキンシップは好き。軽いキスはあなたが望むなら……くらい。それ以上は無理そう、というのが今の見解。
・交際経験は何人か(性別問わず)あって、今までの恋人にはアセクシャルだって伝えた上で付き合っている。
・恋人たちに伝わってるかは様々だけど、性的接触を求められて別れたことは1~2回くらい。基本的にセックスはしていない。相手の反応は「あなたが嫌がることはしたくない」から「別に自分もセックスなくていいんだよね」まで様々。
・今の恋人もおそらくアセクシャルではないけど、手を繋いでご飯行って映画見て家に泊まってゴロゴロしてる。仲良い。
・こんな実例もあるよって書きたかった。強いて言えば相手に我慢させてないか本当に心配だけど、それは自分の感情の問題なので一旦置いておく。
了解。議論の流れを踏まえ、あなたの主張(「外国人労働者なしで“管理された縮小”は可能」)の中核仮説を、データで一点ずつ崩します。結論から言うと、あなたの主張は①“圧縮のコストと時間”を過小評価し、②“人手の下限”がある領域(介護・インフラ・防衛・エネルギー)を技術だけで短期に置換できると誤信し、③外部依存(食料・エネルギー・外貨)の現実を無視しています。政策論としては実装不能な楽観です。
あなたの主張は「都市統合・生活圏圧縮」で“均衡”を保てると主張しますが、固定費は連続的に下がらない。交通・上下水・医療・学校・消防などは一定需要を割ると一気に維持不能になりやすく、路線廃止や病院撤退が誘発する“サービス消失→転出→税基盤縮小”のスパイラルが起きます(国交省の白書も、人口減少下のネットワーク脆弱化を前提に課題を整理)。 ([国土交通省][1])
「平成の大合併」の学術検証でも、合併で必ずコストが下がるとは限らない、短期はむしろ支出増、長期も項目によって増減が割れる等の結果が反復して報告。統合=節約は近似であって恒真ではない。つまり「密度再編すれば固定費が下がる」は一般化の誤りです。 ([J-STAGE][2])
厚労省の最新推計:介護職員は2040年度に約272万人必要(22年度比+約57万人、年+3.2万人ペースでの純増が必要)。現実は離職超過や採用難が強まり、介護は1応募に4.25求人という“超売り手市場”のケースも報じられています。不足の山は2030年代半ばに顕在化します。 ([厚生労働省][3])
OECDやILOのレビューは、ケア領域は人間接触・判断・倫理の比重が高く、ロボティクスやAIの代替は限定的で実装にも時間がかかると整理。生成AIで事務軽減はできても対人ケアの主工程は当面人が必要です。 ([OECD][4])
産業側でもロボット密度は世界的に急伸中ですが(IFR)、増設は主に製造現場。あなたの主張が要の介護・医療・運輸サービスは自動化難度が高い領域です。“質的転換で穴埋め”は2030sのピーク需要に間に合わない。 ([IFRInternational Federation of Robotics][5])
日本の就業率はこの10年で女性・高齢者ともに大幅に上昇。今後も改善余地はあるが、弾は既に相当使っている。OECDやJILPTも、日本の人手不足は“長期・構造的”と評価。女性・高齢者の追加動員“だけ”で需給を均すのは難しい。 ([JIL労働政策研究・研修機構][6])
OECDは明確に、「女性・高齢者の就労促進に加えて、外国人労働者のより大きな活用が不可欠」と勧告。あなたの主張はこの国際的なベースラインを外している。 ([OECD][7])
日本は食料自給率(カロリー基準)38%。残りを輸入に頼る構造は不変で、価格ショックに脆い。輸入代金の原資となる外貨獲得は規模が要る。“縮小+内需シフト”は、食とエネの輸入価格変動に晒されやすくする。 ([農林水産省][8])
エネルギー自給もOECD下位の水準。再エネ・原子力の拡大方針は進むが、当面はLNGなど化石燃料が必要。地政学次第でコスト高リスクは常在。輸入代替が進むまでの移行期は外貨の厚みが防波堤になります。 ([Reuters][9])
無人機・AI化はトレンドだが、整備・補給・サイバー・指揮統制など人員需要は不可避。装備の国産化・共同開発にも裾野人材と企業群が要る。人口と人材の最小密度を割る縮小は、維持費の単価上昇と技術の途切れを招きがち。ここを外国人高度人材まで閉じるのは自縄自縛。〔※エネルギー安保と同様、移行期の脆弱性は高い〕(政策白書・エネルギー構成の記載参照)。 ([Reuters][9])
在留外国人は376万人(2024年末)。内訳は「永住」「技術・人文知識・国際業務」「特定技能」「留学」などに分散し、技能・専門に紐づく制度設計が中心。一律の“安価な労働大量投下”という描写は実態とズレる。 ([法務省][10])
有効求人倍率は直近でも1.2倍前後の張り付き。構造的な人手不足が続いており、賃上げと自動化を促す圧力は弱まっていない。むしろ企業は賃上げ・投資・定年延長を同時進行。受け入れ=改革を止めるという単純因果は成り立たない。 ([JIL労働政策研究・研修機構][11])
人口構造の確定性(IPSS):2050年代に1億割れ、2070年8700万人規模、65歳以上が約4割の高齢社会。現役世代急減は避けられない。圧縮・自動化は必要だが、需要のピーク(介護・医療・インフラ更新)が先に来る。 ([情報処理推進機構][12])
だからこそOECDは、「女性・高齢者活用に加えて移民(外国人労働)」と複線を勧告。“技術と圧縮だけ”に賭ける単線は、移行期リスク(サービス崩壊・地域消滅・外貨不足)を無担保で抱える。 ([OECD][7])
私の主張が示した筋に沿い、単線(自動化・圧縮のみ)ではなく複線でリスクを分散すべきです。
日本が取るべきは、圧縮×自動化を前進させつつ、管理された受け入れを“保険”として併走させる複線戦略である。単線はリスク集中、複線はリスク分散。これが現実的な均衡です。 ([厚生労働省][3])
ブコメにあった「単願制見直し:公立高校入試のDAアルゴリズムを用いた併願制についての情報ページ」
https://www.mdc.e.u-tokyo.ac.jp/news/6531/
ありがとう🙏全部読みきれてないけど、まさにこれだ
議論が進むといいな
追記2
昔の総合選抜制度を詳しくは知らないけど(wikiも全部は読めてない)、
自分のイメージとしては、選択した志望校に入試の成績順に上から割り振られていくので、高校のレベル低下にはならないんじゃないかなと。高校の平均化を求めるものではない。
(いろんな要因が絡んでくると思うので過去の経験は参考にするとして)
家計を気にせずに誰もが公立高校でチャレンジできるといいなっていう素朴な発想です。
追記3
【デジタル併願制】公立高受験「単願制」見直し、複数校の志望可能に 石破首相が検討指示
https://x.com/livedoornews/status/1914816490500690347
進んでた!立ち消えないようがんばってほしい!
…
公立高校の受験、志望校を複数選択して成績※で割り振るとかできないんだろうか。
(※追記ブコメを読んで。これは入試の成績のつもりでした。通知表の内申点ではなく)
私立の滑り止めがあったとしても、家計の状況で私立は避けたい場合、公立はかなり安全圏に落とすしかなくなる。
(2次募集ではそもそも枠が少なかったり、定員割れするような偏差値がかなり下の高校になる)
政府総支出に占める教育費の割合:日本はOECD加盟国中で低い水準にあります。
日本:
7.1%(2022年)、OECD加盟国中3番目に低い (2022年)
OECD平均: 約
15%(2022年)
家計負担:日本の高等教育費の家計負担率は高く、他の先進国よりも顕著です。
日本:
53.4%
米国:
36.1%
0%
「身も心もボロボロに」女性をGPSで監視、東京・歌舞伎町で管理売春疑いで男女2人逮捕
https://www.sankei.com/article/20251015-SWBJOS32VZNXRFRNFE24D6YU24/
保安課によると、女性は昨年から店で働き始め、鈴木容疑者から「売り上げが悪い」と怒鳴られ、シャンパンの瓶で殴られるなどの暴力を受けるようになった。給料を渡されず、自宅を解約されて店のバックヤードで寝泊まりさせられ、今年4月ごろから大久保公園周辺で売春の客待ちをさせられてい
議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成が必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果の連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。
この問いを突き詰めると、思考は歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパのトリレンマ」だ。すなわち、無限後退(根拠の根拠を無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断(理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。
この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である「独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的な選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのである。しかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性を保証する、唯一のアンカーが存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。
ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効な思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である。
第二に、「推論規則」の集合。
第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能性である。
このフレームワークこそが、我々の思考の妥当性を測る、唯一の物差しとなる。
さて、序論で確立したこのフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決や意思決定を継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効に機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場の意思決定は、無限後退、循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的に機能し、存続しうるだろうか?答えは否である。
したがって、ある現場が「機能している」という事実そのものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的に存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。
まず 「基本命題群」 。これは、現場が機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場の歴史、すなわち過去の成功と失敗という「現実モデル」から導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。
次に「推論規則群」。これは、基本命題から日々の行動を導き出すための、思考操作のパターンだ。有限のリソースで無限の問題に対処するために、この規則は効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考のショートカット(ヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人の内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄で非生産的な犯人探しという思考のループから脱出するために獲得した、最も重要な論理的安全装置なのである。
「現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在を否定することは、自らの職場が合理的な意思決定能力を欠いた、無秩序な集合体であると認めることと同義である。
この、それぞれの現場で固有に発達したOS(現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステムで有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。
「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊なOSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルールを機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則を必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊な雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。
我々のような、全く異なる歴史と構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす基本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来のルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身のルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者の意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。
これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ。
ここまでが、論理的に導出される客観的な分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイングを模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶を特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである。
君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から、自分たちのスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものだからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻からの脱出方法を考えているに等しい。
君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システムの免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。
せいぜい、幸運を祈るよ。
議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成が必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果の連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。
この問いを突き詰めると、思考は歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパのトリレンマ」だ。すなわち、無限後退(根拠の根拠を無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断(理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。
この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である「独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的な選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのである。しかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性を保証する、唯一のアンカーが存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。
ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効な思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である。
第二に、「推論規則」の集合。
第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能性である。
このフレームワークこそが、我々の思考の妥当性を測る、唯一の物差しとなる。
さて、序論で確立したこのフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決や意思決定を継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効に機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場の意思決定は、無限後退、循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的に機能し、存続しうるだろうか?答えは否である。
したがって、ある現場が「機能している」という事実そのものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的に存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。
まず 「基本命題群」 。これは、現場が機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場の歴史、すなわち過去の成功と失敗という「現実モデル」から導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。
次に「推論規則群」。これは、基本命題から日々の行動を導き出すための、思考操作のパターンだ。有限のリソースで無限の問題に対処するために、この規則は効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考のショートカット(ヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人の内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄で非生産的な犯人探しという思考のループから脱出するために獲得した、最も重要な論理的安全装置なのである。
「現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在を否定することは、自らの職場が合理的な意思決定能力を欠いた、無秩序な集合体であると認めることと同義である。
この、それぞれの現場で固有に発達したOS(現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステムで有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。
「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊なOSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルールを機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則を必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊な雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。
我々のような、全く異なる歴史と構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす基本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来のルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身のルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者の意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。
これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ。
ここまでが、論理的に導出される客観的な分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイングを模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶を特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである。
君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から、自分たちのスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものだからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻からの脱出方法を考えているに等しい。
君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システムの免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。
せいぜい、幸運を祈るよ。