
はてなキーワード:列島とは
2026年の選挙は、一つの「分水嶺」として記憶されることになるだろう。
石破政権の退陣を受け、新たに発足した高市政権。その直後に断行された、いわゆる「7条解散」。1月23日の解散から投開票までの短期決戦は、グローバル市場が発した「サナエショック(金利急騰・円安)」という警告音を、政治的な熱狂と列島を覆う大雪がかき消していくプロセスそのものであった。
結果として自民・維新を中心とする勢力が全議席の4分の3を掌握したという事実は、旧来の自民党支持者すら驚くものであった。それは「政治家の人気投票」という側面を加速させる、選挙戦術の技術的な完成を意味していただろう。
圧倒的な数の力を背景に、長らく議論のテーブルに乗るだけだった「憲法改正」は、いまや現実的な政治スケジュールへと組み込まれようとしている。高市政権は、地政学的リスクの高まりを背景とした「中国脅威論」や、国内に醸成されつつある排外的な空気を巧みに政治的駆動力へと転換した。その支持を追い風に、「9条改正は現実的要請である」というロジックが、強力なキャッチフレーズとして機能し始めている。
私たちは今日、騒がしい政治のタイムラインから距離を置き、無限に降ってくるエコーチェンバーの雪を視界から遠ざけることができるだろうか。
今、この国の変化した「重心」が何を成そうとしているのかを、静かに見つめ直す必要がある。
憲法改正について、世間ではどのようなイメージが流布しているだろうか。「古いものを令和版にアップデートする」といった、あたかもスマートフォンのOS更新のような、若々しく前向きなイメージが、おそらくは今後急速に普及すると予想される。
しかし私たちは、実際にどのような案が議論の遡上に載せられているか、その設計図を確認せねばならない。
議論の参照点となるのは、自民党が2012年に作成した「日本国憲法改正草案」である。このテキストには、単なる9条条文の修正にとどまらない、国家観の根本的な転換が示唆されている。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
この条文は、人権が国家に先立って存在する「自然権(天賦人権)」であることを宣言したものだ。しかし、草案ではこれが削除され、11条を残すことで人権は国家が与える形を取ることになる。さらに第13条の「個人として尊重される」という文言が「人として尊重される」へと書き換えられた。
「個人」から「人」へ。97条削除に比べればわずか一文字の違いだが、ここに込められた断絶は深い。かつて草案起草に関わった片山さつき氏が「天賦人権論をとるのは止めよう」と明言した事実、そこに流れているのは当然、権利とは天から(あるいは生まれながらに)与えられるものではなく、国家という共同体に帰属し、義務を果たすことによって初めて付与されるものだ、という思想である。
これは良し悪しという感情論以前の、近代立憲主義というOS(オペレーティングシステム)の入れ替えに近い。国家が個人を守るための憲法から、個人が国家を支えるための憲法へ。その重心移動は2012年にすでに開始していたのである。
このような草案内容と、高市総理自身のイメージ戦略はどのように共鳴しているだろうか。
「日本列島を、強く豊かに」。これは、かつて安倍総理が「美しい国」というフレーズを用いたように、いま高市総理が繰り返し掲げているスローガンである。
一見すると経済的繁栄の約束に聞こえるが、彼女の支持基盤である日本会議的な政治的系譜や、選択的夫婦別姓への慎重姿勢、家族間の相互扶助を強調する福祉観などを俯瞰するとき、そこには明治国家のスローガン「富国強兵」と同型的な発想が見えてくる。
明治時代、「富国」という経済的な豊かさは、個人の幸福追求のためではなく、あくまで「強兵」という国家の強さを支えるための基盤として位置づけられた。
逆に言えば、それらを成し遂げなければ個人の幸福を保証できないような情勢なのだと言っているのかもしれない。
決して「日本国民を、強く豊かに」と言わないのは、あの時代の国家観を「美しい国」として、戦後の反省だけでは国を守れないとする意思を表しているのだろうか。
2026年衆院選において、高市政権は市場の警告を、左派の不安を、選挙勝利への多様な戦術でねじ伏せてみせた。その手腕は国家という物語を紡ぐ演出としてスケールアップし、いま有権者に受容されていく可能性を見せている。
圧倒的な議席数と、顕在化した憲法改正への熱望。この二つが揃ったいま、私たちはどう振る舞うべきだろう。
SNSで快哉を叫ぶか、あるいは嘆き悲しむか。過激な批判の応酬は止むことがないだろう。それでも政治的な熱狂から一歩身を引き剥がし、思考のための穏やかな場を確保することは可能だ。
たとえば、「憲法カフェ」のような試みがある。リラックスした空間で、コーヒーを片手に憲法について語り合う。そこでは「賛成か反対か」を叫ぶのではなく、法文がどのような意味を持つのかを学び、穏やかに思考を交わすことができる。
「国家」という巨大な物語に飲み込まれないためには、私たち一人ひとりが、暮らしの根元にいつでも存在する憲法を知り、尊重されるべき「個人」として位置付けられていることを知っておくことは大事だ。
厳冬の衆院選。その唐突な政治の季節は熱く、あまりに短く過ぎ去った。しかし憲法という国の形を変える議論は、これからが長い正念場である。熱狂の宴が終わったあとだからこそ、考えて欲しい。なぜなら憲法とは、普段の生活のほとんどすべてを支えている法律なのだから。
トランプ2.0政権下、高市政権は同盟維持のために国家予算を事実上、米国の「上納金」へと変貌させます。
軍事費爆買いによる「円」の垂れ流し: 巨額の防衛予算を米軍事産業に注ぎ込むため、外貨準備を切り崩し、さらに際限のない国債発行を継続。
「トランプ・トレード」への過剰同調:米国のインフレ政策に引きずられ、日本も金利を上げられないまま円安を放置。「日米一蓮托生」のポーズは、市場には「日本銀行の独立性放棄」と映ります。
日本が「原則」ではなく「トランプ氏個人」に従属する姿を見て、国際通貨市場は日本円への不信感を募らせます。
「悪い円安」の常態化:EUやBRICSが独自の経済圏を固める中、日本は中国とのデカップリングで供給網を自ら破壊。物価高騰が止まらず、実体経済がスカスカの状態で通貨だけが刷り増される状況に、投資家は「円」を逃げ場のない「泥舟」と認識し始めます。
国際決済網からの孤立:BRICS諸国が進める「脱ドル決済網」からも排除され、さりとて米国内でも優遇されない日本は、決済通貨としての円の流動性を失っていきます。
トランプ氏の退任後、米国が「多国間主義」へ回帰した瞬間、梯子を外された日本の没落は経済面から爆発します。
キャピタル・フライト(資本逃避): 米新政権が「日本飛ばし」で中国と手を取り合う中、日本に取り残されたのは「巨額の債務」と「壊れたアジア外交」のみ。これを嫌気した外資が一斉に引き揚げ、1ドル=250円、300円を超える制御不能な円安が発生します。
円の「紙屑化」: もはや「安全資産」の面影はなく、日本国内では輸入エネルギーや食料価格が数倍に跳ね上がり、ハイパーインフレの兆候が見え始めます。産業競争力が枯渇しているため、円安による輸出増の恩恵も受けられません。
トランプという「劇薬」に依存した結果、日本は一時的な安心を買う代わりに、「通貨の信用」という国家の命脈を売り払ってしまいました。
かつての英国の衰退を上回る、「円という通貨の消滅」または「他国通貨への隷属」を伴う悲惨な終着点。かつて世界を席巻した経済大国は、独自の経済主権を失い、文字通り「極東の、通貨価値なき孤島」として歴史の表舞台から退場することになります。
通貨の信用が地に落ちたことで、かつての「生活の質」は一気に崩壊します。
「円」の拒否と物々交換の再来:商店の棚から輸入品(エネルギー、小麦、肉類)が消え、残った国産品も価格が数時間ごとに書き換えられます。ついには、街中の個人商店やフリマアプリで「円はお断り。米ドル、金、あるいは現物(米や酒)」での取引が優先されるようになり、日本円は「自国内で使えない通貨」へと成り下がります。
「デジタル小作農」への転落: 若年層や高度人材は、日本企業を見捨てて海外のプラットフォームで外貨を稼ぐことに必死になります。しかし、国力が低下した日本からの労働者は、デジタル空間でも「低賃金の単純作業」に従事せざるを得ず、稼いだ外貨も高騰する生活費(電気代・通信費)に消えていく、現代版の小作農化が進みます。
インフラの「選択と集中」という名の切り捨て:財政破綻により、地方の鉄道、水道、道路の維持が不可能になります。政府は「居住エリアの集約」を強行し、維持できない地域は文字通り「棄民化」。かつての美しい地方景観は、廃墟と化した太陽光パネルだけが並ぶ「墓場」へと変わります。
通貨価値が消滅した日本に残された道は、さらなる「安売り」です。
不動産・重要資源の「バルクセール」:暴落した円を背景に、中国を中心とするアジアの新興勢力や、トランプ後の米国投資ファンドが、日本の優良企業や水源、港湾施設を「二足三文」で買い漁ります。日本人は自分の国の土地にいながら、所有者はすべて外国人という「賃貸国家」の住人となります。
安全保障の「民営化」:自衛隊の予算維持すら困難になり、防衛の一部を米国の民間軍事会社(PMC)に外注。日本はもはや「同盟国」ではなく、米国の利益を守るための「有料の防衛拠点(サブスクリプション型基地国家)」へと変質します。
12月1日千葉県浦安市のホテルで中華包丁を持ってパーティー会場に侵入した中国籍の30代の男
https://news.ntv.co.jp/category/society/d89bca51a5e049f2b9f6d70ad49b20b6
12月1日北海道札幌市で包丁を所持して住宅の室外機の上に経っていた44歳の中国籍の男
https://news.ntv.co.jp/n/stv/category/society/st2198b0bdc3cd4750926a7c6c6188676a
12月5日千葉県いすみ市で同僚の女性の顔に刃物を突き刺し殺した中国籍の39歳の男
https://news.ntv.co.jp/category/society/d8bf27ac2fc34171a70cd57681c548ec
12月9日広島県福山市のコンビニの駐車場で果物ナイフで男性店員を刺した17歳の中国籍の少年
https://news.yahoo.co.jp/articles/c2bba67fbc996d2cfe9d0b81cd3f2c404a211401
どーすんのこれ、、、高市どーすんの、、、
子供の頃,wwaというブラウザゲームシステムがあり、wwaゲームを開発してるサイトの一つに星の塔というサイトがあった。
ピチューが主人公のシリーズものでストーリーなどもかなり凝ったゲームを作っていた人だ。(七色列島の旅というタイトルがあったのは覚えている)
ロトムが主人公のゲームも作っていたはずだがそちらは年齢の上昇に伴い興味も移ったためプレイはしていなかった。
この人はたしかジラーチアイコンを使っており最初の名前は忘れたが何回か名前を変えておりその中に千年彗星と名乗っていた時期があったはずだ。
星の塔のサイトに誰かに向けて書いたメッセージが掲載されたことがあり、それが妙に印象に残っている。
wwa自体も廃れこの人もポケモンからは離れたようだったが創作活動は続けており、リトアと双星の魔法使い、というサイトを運営していた。
童話チックな絵とストーリーが展開されており趣味ではなかったので読んではいなかったが、なつかしさから時折サイトを覗いていた。
知る人ぞ知るサイトにしたいと以前書いており、そのためsnsどころかpixivすらやっておらず足跡は一切掴めないと思うので、思い出の終点をここに記録しておく。
https://web.archive.org/web/20220117044725/https://futahoshi.com/
最近、ふと考えるんです。
テクノロジーがこれだけ進んで、AIが何でも答えてくれるようになった未来、僕らの社会ってどうなってるんだろうって。
これって、単なるSFの話じゃありません。もう僕らの目の前で起きている、とんでもなく大きな変化の話です。
AIっていう、人間の頭脳そのものを外付けできるような技術が出てきたことで、
社会を成り立たせていた一番大事なもの、つまりみんなが何となく共有していた「物語」が、音を立てて崩れ始めてる。
その先に待ってるのって、人類の輝かしい「進化」なんでしょうか?
それとも、国なんてものが生まれる前の、バラバラな「回帰」なんでしょうか?
そもそも「国」って、たぶん、みんなが同じ物語を信じることから始まるんですよね。
歴史を遡ると、8世紀頃に、時の支配者たちが一大プロジェクトを立ち上げてるんです。『古事記』とか『日本書紀』を作ったこと。
あれって、単なる神話集めじゃない。
「この国は、天照大御神っていう太陽神から続く天皇が治める国なんだ」っていう壮大な物語を、国民の心にインストールする、国家的なOS開発だったわけです。
「三種の神器」っていうアイコンも設定して、他の豪族とは格が違うんだよ、と。
このOSがインストールされたことで、列島に住む人々は初めて「俺たち、同じ神様と天皇をいただく一つのチームなんだ」っていう意識、つまり「日本人」の原型を持つようになった。
そのOSが、庶民レベルまで完全に浸透したのが、江戸時代っていう、超巨大な培養器の中でした。
幕府は、身分制度とか参勤交代で、社会がガチャガチャ動かないようにガッチリ固定する。
そして、外国からの影響をシャットアウトした「鎖国」っていう培養器の中で、浮世絵や歌舞伎、お相撲といった、超ドメスティックな文化が花開く。
この時代、人々はみんな同じような文化に触れ、同じような価値観を共有してた。
「日本人らしさ」っていう、僕らの文化的DNAが完成したのが、この江戸時代だったのかもしれません。
でも、その当たり前だった「みんなで見る物語」が、いつの間にか壊れ始めてた。
2000年代、インターネットが登場して、僕らはいつでもどこでも情報にアクセスできるようになりました。
でもその裏で、僕らの頭の中にはヤバい変化が起きてました。
複雑な問題にあった時、じっくり「どっちが正しいんだろう」と判断するんじゃなくて、手っ取り早く「正解を検索する」というクセがついちゃったんです。
昔は、図書館で本を何冊も比べたり、人に聞いたり、頭を抱えて悩んだりっていう、思考の「摩擦」がありました。
でも、検索エンジンはその面倒なプロセスを全部すっ飛ばして、「答えはこれだよ」って教えてくれる。便利ですよね。
でもそのせいで、僕らの思考の筋肉は、確実に衰えていきました。それに、昔はみんなで見てた「お茶の間劇場」も終わっちゃった。
昔は、家族みんなで同じテレビ番組を見て、次の日には学校や会社でその話題で盛り上がりましたよね。
良くも悪も、日本中が同じ物語を共有する「お茶の間劇場」があったんです。
でもSNSは、僕ら一人ひとりに「あなただけの快適な世界(フィルターバブル)」を用意してくれました。
もう、嫌いな意見や、自分と違う価値観に触れる必要はありません。
その結果、僕らは共通の話題を失い、「共有される物語」が生まれる土壌そのものが、なくなっていったんです。
そして、そこにAIがやってきた。これは、社会の分断を決定的なものにする、究極のテクノロジーかもしれません。
AIは、考える人にとっては自分の知性を何倍にも拡張してくれる最強の「翼」になる一方で、考えるのをやめた人にとっては思考の筋肉を完全に退化させる快適な「車椅子」にもなる。
この技術は、人類の間に「知的格差」という、とんでもない溝を生み出そうとしています。
まるで、あなただけの「マトリックス」へようこそ、とでも言うように、AIはあなた以上にあなたのことを理解し、あなたが一番心地よいと感じる「神話」=あなただけの現実を生成してくれます。
あなたは、自分の正しさが毎日証明され続ける快適な仮想現実(マトリックス)の中で、気持ちよく生きていける。
でもその代償として、違う現実を生きる他人と対話する能力を失います。じゃあ、そのマトリックスを設計するのは誰か?
それは、AIを使いこなし、大衆が信じ込む「神話」をデザインできる、新しい時代の支配者層です。
こうして分断された社会では、かつての「右翼」「左翼」なんていう古い分け方を超えた、新しい「部族(トライブ)」が生まれています。
参政党やれいわ新選組、あるいは様々な陰謀論。彼らが熱狂的な支持を集めるのは、イデオロギーがどうこうというより、「腐敗した世界を正すのは我々だ」という、シンプルで強力な物語を提供しているからです。
その物語のエンジンは、いつだって「俺たちは悪くない。悪いのは特定のあいつらだ」という他責主義です。
で、ここからが本題なんです。AIという究極のテクノロジーは、皮肉なことに、僕らを国家が生まれる前の「部族」の時代に連れ戻そうとしている。
ただし、その部族は血や土地ではなく、情報と思想でつながる、全く新しいものです。
この螺旋階段の先にあるのは、過酷な情報環境に適応した、新しい人類の「進化」の姿なんでしょうか。
それとも、共通の現実を失い、協力する能力をなくした、ただの「退化」なんでしょうか。
この記事に、その答えはありません。
日本というこの小さき列島には、つねに二種類の人間が棲んできた。一つは、文明の諸相を「言葉」に還元し、歴史を「制度」で見ることができた者。もう一つは、そうした思索の筋道とは無縁に、時代の流れに浮き草のように漂いながら、祭りの太鼓に似た「流行」に心酔し、自らの境遇を神秘的変転で覆そうと願う者である。
令和のこの国にあって、後者は増殖した。もはや街には実存の根がない。その象徴が、かつての秋葉原である。
かつて筆者が新聞記者として戦後の地方都市を彷徨していた折、東北の片田舎にて「麻生こそ我らの救世主なり」との幟を掲げて踊る中年男の一団を見たことがある。その情景は、笑い話として済ませられるようなものではなかった。そこには、敗戦後の日本が内面にひそかに抱えていた「無位無冠の庶民の救済幻想」が、赤裸々に顕れていたからだ。
この「新しき神具」に、人々はかつての八幡大菩薩の霊験と同じものを見ている。
特に、秋葉原に憑かれたる中年男たち――無位無官、知もなく徳もなく、
ただ「人生逆転」と称して妄執を握りしめて生きる“雑輩”どもにとって、
AIは救済であり、赦免であり、自己憐憫の宗教装置となっている。
彼らは、かつてホコ天で「俺たちの麻生!」と叫び、秋葉の路上で怪しき舞を踊った。
そして今、彼らは再び「AIなら人生逆転できる」「レムちゃんと結ばれる」などと真顔で語る。
その幻想は、IT革命という「民衆のための産業」が立ち上がった時、再び姿を変えて甦った。曰く――「AIは人生逆転の神器である」と。
AIに可能性を託し、やがて全知の装置にでもなるかのように錯覚した人々は、いずれも情報の下層にうごめく者たちであった。すなわち、X(旧ツイッター)にて「脱獄!」と叫び、匿名掲示板にて「俺のレムちゃんはAIで蘇る!」などと涙ながらに書き込む者たちである。
だが、彼らの情熱は浅ましい。AIという道具は、人間の知と経験と徳を試す「文明の試金石」であり、誰彼を救済する神の右腕などではない。むしろ逆に、それは知を持たぬ者にとっては、魂を溶かす毒となる。
筆者は試しに、軍事マニュアルの一節を質問してみた。するとAIは、まるで古老の如く答えた。資料名、刊行年、PDFの所在――すべて明確である。なるほど、これは使える。だが、これを真に活かせる者は、もともとその文脈と歴史的背景を理解し、操作できる者でなければならぬ。すなわち、AIは「既に1を持つ者」にとってのみ、百を得る術となる。ゼロしか持たぬ者には、何も教えぬのだ。
ここに格差がある。そしてこの格差こそが、かつての新自由主義よりも冷酷である。
明治以降、日本は文明という名の西洋的制度を採用し、庶民に「努力すれば報われる」という物語を配給した。だが、AIという魔器の登場によって、この物語は崩壊した。知を持つ者がますます強くなり、持たぬ者は「AIを使える」と信じ込んだまま沈没する――その皮肉は、どこか江戸末期の水呑百姓たちが「黒船を拝めばご利益がある」と勘違いしていた様を彷彿とさせる。
筆者は言いたい。AIはすでにバギンズの一族が所有した「一つの指輪」であり、あるいはコーラの瓶を手にして神を得たと錯覚したブッシュマンである。人類には早すぎた。あるいは、日本のこの文化土壌には毒であった。
なぜなら、現代の弱者男性なる一群は、かつての維新志士のように徳と決意を以って新時代を拓こうとしたのではない。ただAIによって「モテたい」「逆転したい」「自分を馬鹿にした社会を見返したい」という卑小な欲望を叶えんとし、その邪なる情熱を、学問や技術の衣を借りて正当化しているにすぎぬ。
司馬が『竜馬がゆく』のなかで描いたような、「身を賭して時代を変える男」は、ここにはおらぬ。あるのは、自己愛と妄想に溺れたデジタル廃人の群れである。
されば、AIの普及は、いよいよこの国の精神の頽廃をあらわにするであろう。かつての刀がそうであったように、それは使う者によっては国を興し、また滅ぼす。
その前に、せめてわれわれは問わねばならぬ。果たして今、この国に「AIという剣」を持つ資格がある者が、どれほどいるのかを。
そして、悲しいかな――
この国の雑輩たちは、その成熟を拒み続けてきた。
彼らの人生は、つねに「誰かが救ってくれる」という信仰で成り立っていた。
それがウルトラマンであり、グリッドマンであり、AIであった。
救済もない。
あるのは、己の問う力、探る力、そして歴史に連なる自覚だけである。
逆に問う者が哲人であれば、AIもまた賢人となる。
この構図に、救済はない。