
はてなキーワード:出水とは
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2.「民主党政権が悪夢だったのは円高だったからだ!」真実=単にリーマンショックのラグで経済持ち直しが難しかっただけ
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5.「インフレになると実質賃金が下がり労働者が苦しむ!」真実=実質賃金は下がるが、失業率も下がるので、労働者の中にも得している人がいる
6.「日本は経済衰退している!」真実=1人あたりGDPは人口が多いほど不利だが、日本以上の人口でこの値が日本より多いのはアメリカだけ
[研究] 謎の薩摩弁「ちぇすと」はどのように生まれたか――鹿児島谷山方言とロシア語が結びついて流行語になり、誤解から「興奮とくやしさを表す雄たけび」に変化|mitimasu
(1)本来、「ちぇすと」は**鹿児島谷山町の方言で、「よっこいしょ」の意味**の言葉
(2)明治時代の中頃に鹿児島谷山方言の「ちぇすと」と**ロシア語の「че́сть(名誉)」が結びついて称賛としての「ちぇすと」が鹿児島の知識人の流行語になった**
(3)島津義弘の関ヶ原正面退却や宝暦治水を**称賛する言葉として**「ちぇすと関ヶ原」「ちぇすと松原」(※宝暦治水の千本松原のこと)が生まれた
(4)しかしロシア語の意味がわからない人が、(3)の使われ方から(2)を**悲しいとき・くやしいときに発する言葉だと誤解した**と思われる
(5) これらを踏まえて明治30年ごろに「ちぇすと」が**東京の学生や青年のあいだで「気合を入れる言葉」として流行し**、広く世間に知られるようになった
(6)流行がしずまり現実では(2)と(5)を使う人は減り、**フィクションの中の薩摩人ばかりが使う言葉になった**
(7)鹿児島県出身の作家である**海音寺潮五郎が(4)の意味でさかんに使用**(海音寺氏は谷山から遠く離れた現・伊佐市の生まれ)
(8) これが鹿児島県に逆輸入され「ちぇすと」が「くやしいときや気合を入れる時に薩摩人が発する言葉」だと**鹿児島県人が認めてお墨付きを与えてしまう**
(9)司馬遼太郎をはじめ**多くの作家が(4)の意味で使用し、(3)の意味は失われていった**
(10) 結果として「気合を入れるときの雄たけび」と「くやしいときに発する言葉」という**異なる意味が「ちぇすと」の中に共存し、よくわからない**ことになってしまった
(11)そもそも「ちぇすと」は「よっこいしょ」という意味でしかない江戸~明治期の谷山町の方言なので、**多くの現代鹿児島県人にとっても使わないよくわからない言葉**である
しかし、このnote記事では1936年の辞書の「露語から来たといわれる」という一つの記述を、そのまま鵜呑みにしてしまっている。
また全体として推測が多すぎるため、いくつかの情報を提示するとともに研究を補強したい。
「ちぇすと」の初出としては、1898年内田魯庵『くれの廿八日』が挙げられているが、これよりも早い用例はいくつかある。
まず、1888年の『青年之進路』。著者は鹿児島県士族の佐藤良之助とある。
これは相手を馬鹿にして煽っているシーンであり、この「ちぇすと」は少なくとも称賛の意ではあるまい。
ただ、ステッキを振るための掛け声なのか、相手を威圧するための掛け声なのかはわからない。
「さうダワ」「なくつてよ」のあどけない令嬢のみならんや「チエスト」と罵るこわからしき九州男児も「オオしんど」と言ふ裊娜(たほやか)なる西京佳人も以て一対の主人公となすに足らん
句読点がないからどこからどこまでが一文かわからないが、ともあれ「ちぇすと」は「罵り」だという認識があったことが窺える。
「ドウモ奇絶ジャ…」「エライ人が駈をるナ…コレどふする…」
田舎者が上京してきて呆然としているところに箪笥をかついだ男に突き飛ばされて「ちぇすと」と扼腕する、といった場面。
「ちくしょう」「なんてこった」などと同じような、思わず出てしまった言葉という感じがする。
1892年『罪と罰』。ドストエフスキーの訳書だが、訳者が『くれの廿八日』の内田魯庵である。
真向に鉈振上げて、婆アの頭脳を打砕き、腥血淋漓たる中に生血の滴る得物を手にし、錠を破し、金を盗んで、隠れやうとする自己だ。ちェすと!こんな事が出来るか?有るもんか?
英文からすると「ちぇすと」はかなり意訳っぽいが、やはり「なんてこった」という感じだろうか。
1893年『称好塾報』。称好塾は滋賀出身の杉浦重剛という人が東京に作った私塾である。
此頃より陰雲未た開けずと雖も細雨は既に跡を収め皆チエストと絶叫せり
其佳なる所に至れば「チエスト」と絶叫せしむ
前者は川船を漕いでいるときに雨が上がったところ、後者は薩摩琵琶の演奏についての記述で、いずれにしても快哉を叫んでいるようである。
薩摩琵琶はともかく、雨上がりに「ちぇすと」と叫ぶのは、すでに鹿児島出身ではない学生たちのあいだでも「ちぇすと」が定着していたのだろうか。
此愉快なる、此呑気なる、此無責任なる、此無頓着なる生活の写生に向って毛奴を奔らす、予輩も亦自らチエストー一声の下に案を叩いて四辺を一睨せさるを得さるなり
下宿暮らしの書生はあまりに自由気ままだという話のオチの部分だが、よく意味がわからない。
とりあえず、気合を入れるための一声、という感じか?
「左様か教師が左様云ッたか……自分でさへ左様思ふもの……」と言つつ両眼に涙を湛へ「チエストッ鹿児島男児が」と一声高く叫びたり
自分が情けなくなってちぇすと。
溝口は下足番の招き声に風(ふ)と心注(こころづ)きて立止り「チエストー、貴様(おはん)は偽言と云ひ馬鹿なッ」と言捨しまま元来し道へ駈戻らんとせり
怒りのちぇすと。
彼が情厚の男子と己(おい)どんを今日まで思ッチヨルとは何たる事か夢か誠か、イヤ誠……此文……チエストー、アア愉快愉快ト喜び勇むも実に尤もなり
喜びのちぇすと。
薩摩人の「溝口」が女義太夫の「紋清」に惚れ込んで事件に巻き込まれていく話らしく、全体的に良くも悪くも感情が高ぶると「ちぇすと」と言う描写になっているようだ。
ただ著者は匿名だが、実は高谷爲之という刑事上がりの新聞記者で、東京の出身らしい。
チェストー、這は是れ感情鋭烈なる薩摩隼人が何事にか其の心を刺撃せられ感泉俄に湧て抑ゆるに由なく、一條の熱気思はば口端より迸出するの声なり、此感声の発する時、是れ彼れ等が掌を握り肉を震はすの時なり、ステキヲ揮ひ路草を薙ぐるの時なり、実に薩人の感情は激烈なり
ステッキで草を薙ぐというのは『青年之進路』の場面そのままだが、そんなに典型的な行動だったのか?
と気付いたが、note記事でも紹介されていた『薩摩見聞記』にもほぼ同じ文章が出てくるので、この「薩摩新風土記」を本にしたものが『薩摩見聞記』なのだろう。
この『薩摩見聞記』の著者は本富安四郎といい、新潟(長岡藩)出身だが鹿児島に数年ほど滞在したという。
1897年、江見水蔭『海の秘密』。江見水蔭は先ほど出てきた「称好塾」の出身らしい。
「ちえッすと!」
謎の集団が、その企みが失敗したのか「ちぇすと」と叫んで去っていった、というような場面。
と、こうしたあたりが1898年の内田魯庵『くれの廿八日』以前の用例である。
明治中期からしか用例がないということに変わりはないが、当初から明らかに「称賛」ではない例が多く見られる。
これは冒頭でリンクしたnote記事の説明に反する事実である。
「薩摩新風土記」に書かれているように「何らかの感情が高ぶったときに出る声」というような説明が適当ではないか。
ちぇすと てすとに同ジ
元は「てすと」なのか?
元は「ちぇ+すとう」なのか?
チエスト よいしょ(掛声)
note記事では「ちぇすと」と「ちぇっそ」は無関係であろう、としていたが、
1977年『かごしまの民俗探求』の久保けんお「薩摩の方言と民謡」では、
チェストはおそらくエイクソの転化であろう。エイヨは薩摩ではチェイヨとなる。母音エに子音Tをかぶせてチェとするのである。エイクソがチェイクソとなり、促音化してチェックソ、クを省いてチェッソ…。チェッソを遠くへぶつけるには当然「チェスト」となるはずである。
1979年、井島六助『出水方言 カゴシマ語の一特異分野』では、
ちぇっそ 感動詞。一般に知られているカゴシマ語としては「ちぇすと行け」など言って激励の語とされ、または、思わず感嘆する時の語とされているが、ここでは元来、「ちょいちょい」と同様、「ざま見ろ」という気持ちを現わす感動詞で、これに類する用例は、「ちぇすと行け」多用のずっと南にもあるようである。チェッソ、ユゴトセンモンジャッデ(ざま見ろ、言うようにせんもんだから)。語源については、英語zestからとか、露語yectbからとかいうのがある。
と説明されており、これらは「ちぇすと」と「ちぇっそ」には関係がある、としている。
これらの説明が正しいかどうかはともかく、多くの異論があるということであり、そのなかで一つの説を支持するならば、何らかの根拠が必要になりそうである。
ついに七英雄と雌雄を決する時が来た。これまでのすべての皇帝の記憶と力を引き継いだ最終皇帝は、すべてを終わらせるために、今立ち上がった
最終皇帝の時代は色々とあったので適宜振り返りを行う。なお選んだ最終皇帝は男。決め手は外見の防御力。女の方は諸肌の防御力が低めだった。
皇帝は手始めに蘇ったクインジーを倒すことにした。既にジェラール帝の時代から奴の手の内は明らかになっており、腕慣らしちょうどよいと考えたためだ。そして実際その予測は事実となった。
軍師がフラッシュファイアを使えるので、クインジーの前座が本当に前座だった。ソウルスティール見切りも全員に装備させていたので負ける要素なし。
皇帝らしく皆を導く役割として前線に立って片手剣と両手剣を振るっていたのだけど、そもそもハイスペックの皇帝が殴ったほうがいいなと気がついた。クインジー戦で突然前触れもなく不動剣を閃いたのには笑った。そんなに剣レベル高くなかったんだけどなあ。やる気がある。
パーティーのタンク。帝国の武器庫を支え続けたファブリ家の長年に渡る帝国への貢献を鑑みて最終皇帝のお供に抜擢……とみせかけて普通に趣味採用枠。うん、声も見た目も性格もめっちゃ好きなんや。性能については最終パーティー紹介で。
アタッカー枠として採用。皇帝だった頃から斧と拳でバカバカ殴っていたので、皇帝が盾役をやる代わりに殴りをしてもらうことに。ただ、強いんだけどクラスアビリティが連携ゲージの上昇率アップという補助向けの性能だったので、後にアタッカー枠を皇帝に譲り渡すことに。
術士枠。性能枠で採用。炎と風と天が使えてかつ魔力が高いとなると軍師しかいなかったのだ。詳しくは最終パーティー紹介で。
クラスアビリティを取っていなかったので採用。術士として無難に強かったけど、天の役割がコウキンとかぶるので交代することに。
クインジーを倒した皇帝は、最後に残ったスービエの姿を求めて氷海へと漕ぎ出した。氷山の影に隠れて皇帝を待っていたスービエは、海の主を吸収して強くなったと言い、皇帝に挑みかかってきた。残された記録によると、皇帝はなんなく彼を退けたと伝わる。
帝国記には猛き武人スービエの名が記されると思いきや、記録に刻まれた彼の肩書きは武人ではなかった。よく知られている通り、彼は今では七英雄が一のホラ吹きとされている。これはスービエ討伐後に彼に追われていた海の主たちが無事に逃げ切っていたことが判明したためだ。すなわち武人スービエは、本当は海の主を吸収していないのに皇帝に見栄を張ってホラを吹いたと解釈されたからだ。
スービエ戦も楽勝だった。炎の壁でメイルシュトロームは完封できていたし、毎ターン光の壁を張る余裕すらあった。ここで活殺獣神衝を見切ったのだけど、これがのちのち効いてきた。
ストーリーとはなんにも関係しないのだけど、海の主のイベントを中途半端に進めてしまっていたせいで、フラグがめちゃめちゃになって?、スービエが海の主を捕まえられてないのに捕まえたことになってた。スービエと会う前にレオンブリッジの事件を起こしたのに、進め方が分からずに放置しちゃって、スービエを倒した後にようやく完遂できた。レオン橋が壊された後に特定の場所に立たないとイベントが進まないとかわかんないじゃんよ……。
氷海でスービエを討伐した皇帝の顔はさらに南──サイゴ族さえも未踏である南の大地へと向けられていた。モンスターの大群が移動する地。そこに七英雄の本拠地がある
一度アバロンに戻った皇帝は最終決戦に挑む側近を(リアル)数日かけて選り抜いた。敵の本拠地という死地に赴く仲間だ。帝国にこのまま残る仲間たちとの別れも近いと思われた。──だが、それは全く違う形で現れることとなる。
選抜した精鋭側近たちとラストダンジョンにカチコミをかけた皇帝を待ち構えていたのは、七英雄の唯一の生き残りノエルであった。妹を倒された怒りに燃える彼だったが、勢いに乗る皇帝達には力及ばず、同胞への謝罪を辞世の言葉として散っていった。
ノエル戦はイージーゲームだった。ソードバリアあったし、幻影も楽勝で1ターン破壊できるだけの火力があったので。むしろさっさと倒さないように調整して戦っていた。サガシリーズにおいて敵レベルの高い強敵との戦闘は、乗り越えねばならない壁であると同時に強い術技を閃くチャンスだからね。なんか閃くかもしれないとおもったけど、何もなかった。
ここから最終パーティーは固定だった。選んだ陣形は稲妻で、役割はタンク二枚とヒーラーとアタッカー二枚。稲妻を採用した理由は以下の二点である。
一点目は行動順が固定なところだ。これにより先頭に補助役かつ後ろの方に(連携)攻撃役という役割分担が可能となり、一ターン目から金剛力やかめごうらによるバフ・デバフを入れて攻撃役に順番を回すことや、前のターンで攻撃役が被弾した際に次のターン開始時に即座に回復を入れてファインアタックを維持できる点などを評価した。装備品で行動速度を調整して同じこともできたとは思うが、初見プレイであり七英雄の素早さなど内部パラメータに熟知しておらず、また乱数による順番の変動についても未知であるため、安定して行動順を固定できることを優先した。
二点目は稲妻は行動順の末尾に大きな攻撃補正が乗ることだ。一点目と合わせて効率的にダメージを与えることが可能となる。特にこの陣形は行動順の先頭二人が攻撃を一心に引き受けることとなるため、末尾のキャラクターは攻撃に専念することとなり、連携などで高いDPSが期待できる。
以上の二点を評価して稲妻を選択した。また副次的な効果として、(他の行動順固定陣形は知らないが)全員の行動速度が先頭のキャラと共通になるため、鈍足のキャラでも大きく行動順が引き上げられるメリットがあった。高難易度では最遅ヒールや最遅地相破壊などが必要になってくると思うが、難易度ノーマルにおいてはボクオーンのマリオネットを回避するなど最速行動が基本的にメリットとなった。
考え抜いて選んだ最終パーティーは次の通り。順番は稲妻の行動順に従う。
あいかわらず皇帝のお供として文字通り稲妻の前線を引っ張っていく我らがメインタンク。メインウェポンは杖と斧。装備品の性能を10%向上させるというクラススキルにより、ゲーム後半になって強い装備が出てくれば出てくるほどカッチカチになって輝いた(ちなみに追加ダンジョンクリア後は物防169術防214でパラメータとしてはぶっちぎりだった)。
バトルにおける役割はバッファー兼デバッファーのタンク。雑魚戦では高速ナブラをキメてたりしたけど、ボス戦においては基本的に杖と術を使っていた。かめごうら、祝福(リバティスタッフ改)、光の壁、金剛力、アースヒールLv2での状態異常解除、リヴァイヴァで保険かけておくなどのやること多すぎ過労枠。状態異常耐性は完璧にしてあったので、後半組が魅了されたり混乱しても即座にアースヒールで治療することも役目の一つだった。
重装鈍足のクラスではあるものの素の速度はそこまで低くないため、ウェイトパージを装備させることでクイックシルバー程度でも行動速度18を確保でき、たいがいの敵に先制可能だった。ノーマルだからか七英雄戦でもほぼ先制できていた。
二枚目のタンク。皇帝自らが攻撃役(ルビ:大剣ぶんぶん丸)になったことで、片手剣枠および前衛タンクが必要となり採用された。採用理由は、クラスアビリティが優秀かつ素の力がめっちゃ高かったから。素早さは壊滅的だが、戦闘においては陣形効果でブロックの行動速度と同等になるため問題なし。ブロックと同じく状態異常はガチガチだったので、エリクサーで状態異常解除も担当していた。
特筆すべき特徴はアビリティによる生存能力の高さ。ブロックがパラメータによる数値盾ならばユノーはアビリティによる回避盾。メインアビリティのダメージカットに加えて自動パリィも持たせていたので、盾・自動パリィ・カットと防御性能が極めて高かった。
戦闘では槍によるデバフアタッカーおよび術でのサポート。片手剣はお守り。槍技の活殺獣神衝が敵の腕力と素早さを同時に下げるスゴ技なので、そればっか使ってた。それ以外の部分では光の壁、エリクサー、金剛力が多かった。力の高さをメインに採用したけれど、あまりアタッカーとしては使わなかった。
3.スカイア:イーリス
一番趣味枠に見られそうだけど、実はガチ性能枠である(なお本パーティーの唯一の趣味枠はブロック)。
ブロック(杖斧盾)、コウキン(術)、ユノー(槍剣盾)と順当に枠が決まったところで最後の一人に求められていたのがヒーラー・小剣/弓・サブ術アタッカーであった。宮廷魔術士や海女などが一部条件を満たすものの、全部を満たすのは高い魔力を持つスカイアしか存在しなかった。特にコウキンのカバーしない属性の水・風に適正があるのも強みだった。クラスアビリティの風神の恩寵が死にアビリティになることが懸念点ではあったが、結果的にロックブーケの召雷をピンポイントで吸いまくってくれるという輝きを見せた。
戦闘においては基本生命の水Lv3でヒーラー、たまに召雷や落凰破で攻撃だった。エリクサーは風と干渉するために採用できなかったが、魔力の高さで回復量は十分だった(一応大地の剣量産したらできるんだけどそこまで必要なかった)。いざというときに全体回復を使うかと思って、一応赤水晶のロッドをもたせて火龍出水を使う準備はしていたが、単体回復とリヴァイヴァで足りたので使う機会はなかった。……天風の全体回復があったと知ったのは全クリア後だった。ほら、サガでの全体回復ってリスキーな生命の雨(キャラ固有技でLPを使うサガフロとか発動まで数ターンかかるサガスカ)しか知らなかったからさぁ。連携ゲージアップのアビリティも付けていたけどそれが必要になるまで長引くことはなかった。
なおイーリスの中では見た目は一番好き。特に翼のグラデーション(翠色から桃色)がキレイ。
めっちゃ高い魔力と術レベルから繰り出される超火力術法のいつもの軍師。外す理由が特になかった。
主な使用術はクリムゾンフレア、フラッシュファイア、ファイアストーム。補助術としてリヴァイヴァと光の壁は持っていたが、基本は攻撃に専念。防御と状態異常耐性を投げ捨てた魔力モリモリ装備にしていたので雑魚戦などはその超火力で焼き払っていた。特に後半多かったアンデット系はひたすらはコウキンのフラッシュファイアでワンパンされていた。
ボス戦での役割は実はファイアストームだったりする。敵が地相を貼っても即座にファイアストームで解除。ただ、これを実現するために地属性の術を入れられず、バフなどには手が回らなかった。とは言っても大地の剣を持っていたのでエリクサーのみは使えた。
大剣ぶんぶん丸。腕力36(力帯、パワーリング)から繰り出される一撃はあらゆる敵を薙ぎ払っていった。
付けていたアビリティはジャイアントキラー、ウィークヒッター、クリティカルと火力ガン積み構成(ファインアタックが入ってたかも)。ベルセルクとかめごうら割りが入っていれば笑っちゃうダメージが出た。その状態で連携ダメージの倍率を乗せると約8万ダメージが出た。クリア後の話になるけど、クリア後ダンジョンのアレコレで倍率を更に乗せると、ベルセルクを使わなくてもカンストダメージに達するようになった。
戦闘で主に使っていたのは乱れ雪月花と無明剣、そしてベルセルク。基本コレ。ひたすら稲妻の補正を乗せて大剣をぶんぶんしていた。アンデット以外の面倒な雑魚戦は活人剣で一掃。
男を選んだのが見た目の防御力だったと書いたが、声がめっちゃ格好良くて結果的にすごく好きになれる最終皇帝だった。若くまた威厳のあるいい声だった。
ノエルを下し、意気揚々と七英雄本体が待つ深部へと脚を踏み入れた皇帝一行。もしかして楽勝じゃね?うちら強くね?絶対かてるやん!と慢心した皇帝達に突き付けられたのは、ボクオーン戦以来の全滅という結果だった。
途中までは皇帝達の方に歩があったのには間違いはない。足回りを強化したブロックを起点に、皇帝と近衛達はマリオネットやテンプテーションといった危険な技を避けながら、七英雄本体へ順調に攻撃を重ねていっていた。だが、七英雄の猛撃は時間を重ねる毎に次第に苛烈を極めていった。ついには最後のワグナスの姿が出現し、アビスゲートが開いた。
それは一瞬の油断だった。「サイコくしテンプポセイドンマリオスティール」七英雄による怒涛の6連撃。身を守ることを許されないの連携の前に、臣下たちが次々に倒れ、魅了され、操られていく。そして最後の一撃は皇帝を貫いた。奇しくもレオン皇帝を討ったソウルスティールが再び皇帝の命を奪ったのだ。
皇帝は力尽きた…………
正直舐めてた。ソウルスティールは入れていたものの、耐性や他の見切りを厳選してなかったし、即死技とか状態異常術とかいらない術技を整理していなかった。ということで、一度撤退して全術技、装備、見切りを見直してきた。術などについては最終パーティーの欄に記載した通り。回復チャンスが少ないと考えて、リヴァイヴァでゾンビ戦法を取ることにした。見切りはソウルスティール、テンプテーション、活殺獣神衝、流し斬り、くし刺しなどを適宜装備。見敵必殺をしていたので、見切りはなんかもともとあった。
埼玉県八潮で道路が大きく陥没して3トントラックが転落する事故が発生した。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250128/k10014705621000.html
現場はここ。
https://maps.app.goo.gl/eCE2cJhPJ3T2BFMS6
実はここ、結構新しい道路なのだ。この交差点の西側は1970年代末に開通、東側は1990年代末の開通だ。
という事は地下埋設物もそれくらいなのでそこまで古くない。
まず最初に、穴が垂直である事。土が垂直に崩壊するなんてあり得ない。
そしてよく見ると横に線が見える。そして灰色。これってコンクリートではないか。
もう一つは穴が丸いだけじゃなくて、一か所直線になっている。ダイエーロゴを楕円にしたみたいな形だ。不自然である。
舗装は中央線で区切って半分ずつ工事することが多いから切れ目が出来る。その為に直線部分が出来た、と考える事はできる。でも不自然な点でもある。
なんか構造物があるのでは?
そこで古い航空写真を調べてみた。すると1979年に撮影された写真に注目すべき箇所がある。
真ん中が今回の事故現場だ。交差点は工事中で道路は西側だけしか出来ていない。
拡大するとなにか構造物があるのが判るだろうか?
そして現在の地図と比べてみると、トラックが転落した穴と重なるのだ。
構造物北辺の直線は穴の中に見える垂直壁と重なる。あの壁はこの構造物の壁だ。
ではこれは何か。恐らく地下貯水池ではないかと思われる。この辺りは元は水郷で、江戸時代に整備されるまで川はいくつにも分かれて出鱈目に流れぐっちゃぐちゃだった所だ。因みに整備される前は利根川と入間川の水が流れていた。今から考えると意味不明な川の流れだ。
要するにかなり出水しやすい地域だ。もとは辺り一帯田んぼだった。田んぼ幾らかの貯水力がある。そこが開発されたら洪水リスクが上がってしまう。
だから調節池を交差点地下に置いて豪雨時のバッファにしたんじゃないかと。
そういう訳で、どうやら今回の事故はこの調節池の天蓋板が割れてしまったのではないかと考える。
一般的には陥没穴は地下水路の破損で地下の砂が流されて重さに耐えきれなくなった上の部分が落ちるという形で出来る事が多いが、今回の場合はイレギュラーだと思われるよ。
Permalink |記事への反応(14) | 18:47
産経新聞が報じているクルド人ヤードで大騒ぎ問題に関して。因みに本稿では記事や事件そのものには触れない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankei.com/article/20240818-Q7DJ43L7IVGBVIXACY4JX5FRBY/
産経の記事では冒頭に「過積載の(解体業)トラック」の写真が掲載されている。Xでもよく同じような写真が「クルド人解体屋の過積載トラック」として掲示され「何故か警察が検挙しない!」と指弾されている。
道交法は近年改正され、車両からのはみ出しの制限が緩和された。
後方については車両長の20%以下となった(はみ出しが後方だけの場合)。これはいすゞエルフ2t積みの場合、全長が4.7mなのではみ出しの最大は940cmとなる。写真のトラックはそんなにでっぱっていない。
側方については片方10%づつの両方で20%までが可能になった。
産経の写真のトラックは上の方が広い積み方がされている。一番上に畳が2枚並んであるのでこれを基準に幅を考えてみる。
畳は地方により寸法が違うが関東で使われる江戸間だと短辺は88cmだ。これが2枚で176㎝。真ん中に間隙があり、柱も一本挟まっている。また少し斜めになっている。それらを修正すると188cmくらいか。
エルフの全幅は1.7mなので両側合わせて34㎝まではみ出し可能だ。幅は1.7+0.34=2040㎝まで積載okであるから、全然余裕である。違反ではない。
では高さは?というと、実は規制がないのだ。いくらでも積んでいい。
でも道交法では「道路を運行する車両の最大寸法」が決まっていて、3.8mとなっている。だから荷台の高さに拘らずに全車3.8mまで積める。
しかし3.8mというのは観光バスの屋根とか電車の2階建てグリーン車の屋根の高さで、とんでもない高さだ。だから平トラックでそこまで積むという事はあまり無い。で、写真のトラックもそこまで積んでいない。見たところ3.2~3.4mくらいだ。
重量は?というのは測らないと判らない。でも間隙が多い廃材なので重量はそこまでいかない。2tくらいではないだろうか?因みに木造住宅の重さは30坪2階建程度で30t強といったところ。検索すると1600kg/㎡という数字が出てくるだろうが、これは家の積載荷重と耐雪荷重を合わせた重さで、自重は半分程度になる。また壁材のモルタルや石膏ボード、漆喰を合わせた重さだから木材だけだと大した事ないのだ。
平トラックに積む場合、まずはあおりの内側にコンパネなどで壁を造る。その中で安定するようにテトリスみたいにぴっちり積んで、時にTスピンなんかも駆使して動かないようにする。
コンパネ壁の上に来たら安定する大物を外側に積んで真ん中の方に小物を積んで行く。これもテトリスっぽいな。
いい所まで来たらロープを掛けて思い切り絞り完成。コンパネと大物が押さえになって荷崩れを防止する。
多分、Xとかで騒いでいる人らは平トラックの積み方知らないのだろう。なので解体屋のトラックを見たら全てで「過積載」と騒ぐ。しかも慎重に情報を流すという動機がない。
しかも後ろからではドライバーが何人かなんて判る由もない。クルド人かどうかなんて聞かないと判らない。更に言うと撮影場所がどこかとかどこナンバーかというのも確認しないしその動機もない。
「警察はなぜ検挙しない!」ってそれは平トラックの定積載だからだ。アホやね。
ヤードっていうのは物流基地の屋根のない構内をいうのだが、特に自動車解体屋の車両置き場の事も指す。最近ではそこから建築業の資材置き場や金属スクラップ置き場なんかのことも指す。これは自動車解体屋のヤードの誤用っぽい転用だ。
で、この自動車解体ヤードは簡易な壁で仕切られて中が見えない、中で盗難車解体しているのではないか?と言われ、それもクルド人問題として語られる事がある。
だがこれは無体な論難だ。壁を建てるのは法規制に拠る。
昔の自動車解体屋はテキトーで、その辺に廃車を積み上げ、外して売り物にするエンジンやボディーパーツをその辺に積み上げていた。
だがこれだと廃油や廃冷却水がタレ流しになって土壌にしみ込んでしまう。廃冷却水は河川に流れると魚毒性が高い。
・1.廃車置き場と作業場はコンクリ打ちして排水路を作り、オイルトラップを設置せよ
・2.1が難しい場合は作業場だけコンクリ打ち+排水路+オイルトラップとしてそこで全液体を抜いてから廃車置き場に置け
・十分な高さのある塀で囲って部外者が入れないようにせよ
最後の塀は子供が入り込んでかくれんぼをしてたら転落したり、車ごとプレス機に突っ込まれてキックアスの悪役みたいな死に方するのを防ぐ為の規制だ。
増田は学生時代、金がないからマイカーは買えなかったが整備の腕は幾分あるのでバイト先の友人に駆り出されて工具箱持参で解体屋にフォークリフトで86の廃車を下ろしてもらいミッションを自分たちで外したり、シルビアのノンスリップデフを外したりして金払って帰り、それらを交換したりしていた。日産のL型エンジンは重かったな。
でも今はそういうのは出来なくなっていて、勝手にヤードの中歩いたりさせてくれないしそもそも外から見えないから在庫が判らない。つまらん。
こういう仕事は当然がっつり汚れて暖房も冷房も無いところで働くから人気が無く、外国人従業員が多くなっている。
それで色の黒いガイジン=ヤバいとなって、「中が見えない=犯罪?」と連想ゲームになるのだが、法規制ぐらい知っておけという話である。
「本稿では記事や事件そのものには触れない」って書いがあれは嘘だ。やっぱ記事の中身に触れたくなったわ。というのも地理的条件説明したいから。
記事中に「(川口)市東北部」とあるが、市の東北側には人家がまれな地域があるのだ。一つは旧見沼、もう一つが木曽呂という地区だ。
江戸時代まで川口から大宮にかけて見沼という巨大な沼があった。土木工事狂の三代家光になると、見沼の下の方に堤を造って、今の川口市~足立区を開拓する事になった。その直接指示官は利根川東遷事業や荒川西遷事業を為した治水と土木界のチャックノリス、かの伊奈忠治である。
そこで八町堤が築造され、見沼は巨大溜池となり、その南は広大な田圃となって幕府の石高を上げ、財政情況を改善したのである。
ところで荒川はそれまで元荒川を流れていたので、上尾より下流は入間川だけが流れていた。しかしこの入間川下流は今の荒川と相当に違う所を流れていた。
指扇付近からは今の荒川の西を蛇行して流れ、中浦和駅→武蔵浦和駅→南浦和駅と浦和シリーズ駅スランプラリーしてるみたいな流路を取ってから浦和競馬場に踵を返して川口市を横切り今の外環道をクロスして、川口オート→毛長川→八潮という風に流れていた。地方競馬からオートレースのはしごかよ。
で当時綾瀬駅を流れていた利根川に合流して自由に氾濫し辺りをぐちゃぐちゃにしていた。オケラオヤジの大暴れみたいな奴である。
この川も荒川西遷で廃川になったので広大な土地を開墾でき、その辺は川が無くなったから見沼の溜池で潤すって感じだ。
河川跡は出水しやすいので田んぼとし、その横に形成された微高地(自然堤防、曽根)に集落を築いていたので川跡がくっきり残ったのだな。
で享保の改革の吉宗の時代になると、見沼に泥が溜まって貯水力低下。そこで、見沼を全部干拓しちゃえという事になった。でもそのままじゃ水が足りないね。そこで見沼代用水という用水路を作るのだが、どこから取水してるというと羽生なのだ。見沼から60㎞以上あるのだ。
途中には当然沢山の川がある。そこでどうしたかというと、全部立体交差で通したのだ。江戸時代なのにちょっとイカれた工事だ。舎人ライナーに見沼代用水親水公園って駅があるが、この代用水とは見沼の代わりの用水って意味なのだな。
それ以来、旧見沼は田んぼ地帯となっていて、地盤も悪いし土地が低いから都市化した後もそこに家を建てたり開発行為をしてはならないという規制が敷かれている。
武蔵野線東浦和~東川口間、東武野田線大宮公園~大和田、七里~岩槻で突然住宅街が途切れて田園地帯や荒れ地が広がるのを見た事ないだろうか?あれが見沼なんである。
で、八丁堤の下にあたる川口市の方は開発一切禁止というんじゃなくて調整地域という形になっている。これは一般の都市計画で建築物を規制するやり方で、住宅や工場などは建ててはならない。でも例外が設けられていて、学校、病院、特養ホームなんかはokなので、家は無くそういう建物ばかりが閑散に建つという風景になっている。
建物規制なので駐車場など建物がない用途では規制されない。すると、中古車屋(事務所は移動可能なプレハブ)、解体屋ヤード、建築資材置き場などは規制されないのでそれらが集まってしまい、景色としてはあまり良くない地域になっている。
パート2→https://anond.hatelabo.jp/20240819185125
Permalink |記事への反応(15) | 18:49
その1はこちら https://anond.hatelabo.jp/20240612182609
昔の地名や字がアスファルトとコンクリで埋まってしまったその土地の成り立ちや危険性を示すというのは面白いのだが、関西だと部落差別の問題が出てくるのに注意が必要だろう。
また、字は面的に付けられる名前なのでピンポイントの危険個所からズレが生じる事がある。
例えばここは今の渋谷区広尾3丁目、旧名原宿村字羽根沢なんだが、
https://koaza.net/?zoom=15.99&lat=35.6539&lng=139.719
真ん中に細いひょろひょろ道が見えるだろうか?(広尾(@三)の@の部分を縦に通る)これはいもり川という川の暗渠で結構深い谷になっている。羽根沢の羽根というのは、埴輪の「はに」の事で粘土の事だ。粘土が露出しているという事で崖地形を表す(赤羽とかも同じ)。
ここは坂の上まで字羽根沢なのだが、危険なのは谷底なのだ。なので字だけではイマイチ判別がつかない。
https://maps.app.goo.gl/9A13navyJbp4qrcG8
いもり川の横に半地下の駐車場…。青学から始まりガーデンフォレスト、日赤の斜面、山種美術館の斜面、全ての水が集まる谷底に…。以前見たらベンツSLとかマセラッティとかが止まってたのだが…言うまい!
https://koaza.net/?zoom=15.99&lat=35.7252&lng=139.7206
東池袋なんだが、水久保という字が見える。都電(王子電車)の電停名も水久保という時期があった。
でもこの水久保の範囲というのは高台と緩い斜面で、明治大正だと畜産農家の牧場があって牛が飼われていた。
水久保の名の由来は、巣鴨村と雑司ヶ谷村の境界の巣鴨村字向原側に水窪川が流れていて現大塚6丁目に掛けて湿地帯になっていた。ここはやっぱりゲリラ豪雨で出水リスクがあるが、それは谷底で字水久保からはずれてるのだ。
各自治体が公開しているハザードマップだが、これも絶対という訳ではないし罠があると思う。
例えば二子玉川付近のハザードマップでは瀬田と二子の間は想定浸水域3~5mとして同じ色で塗りつぶされる。これは多摩川破堤時の危険だ。
でもこの時、駅周辺が堤外地だ、というイレギュラーな危険は覆い隠されてしまうのだ。台地以外は同じ色になっていれば、「そういう大災害の時なら仕方がないだろう」と譲歩してしまうかもしれない。でも駅の周りの堤外地は危険のレベルが全然違う。河原から溢れただけで洪水となる地域という事を逆に隠してしまう可能性がある。駅北側のマンション売ってる不動産屋なども使ってる手口かもしれない。
また危険箇所を取りこぼしている箇所も結構ある。増田が把握している過去の出水箇所で塗られていない箇所もある。誰も市役所や区役所に届けなかった、職員が見回りに行った時には水が引いていて確認疎漏になったなどだろうか?先に指摘した、いもり川の谷底も危険性を把握されていない。それで不動産屋が重説で「この物件の場所には色が付いていません」とか言われて半地下駐車場に契約してしまう、乃至は半地下の部屋に入ってしまう。
でもそこで見るべきは今は消えた川という水の流れであって、他の箇所に色が付いていたらその谷筋は全部危険なのだ。ハザードマップもアスファルトに隠れてしまった土地の記憶を見る能力が必要なのだ。今は隠れていても水はきっちりと重力に従って低きに向けて正確に流れるものなのだ。
二子玉川の堤外地に建つマンションが高値を付けてる事に嘆いて小字地図という面白いものを公開してくれた人がいる。
でもその事をまとめたtogetterではそれに対して間違ったり不適当なツイートばかり拾ってるので指摘するよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2381841
二子玉川には堤防の切れ目があった。陸閘ともいう。閘はパナマ運河などの閘門の閘で、板で締め切って水をブロックして水位を変化させるものだ。それが陸にあるから陸閘。
https://maps.app.goo.gl/DKKV4c1kefy3BVSE9
余談だがこの道は結構重要な道で、江戸時代の矢倉沢往還(青山通り大山道)だった。真っ直ぐ行って多摩川に出たところに渡船(二子の渡し)があったのだ。川を渡って崖を上ると二子の宿場に着く。
ここは瀬田村の一部で、スレッドで指摘されている通り、瀬田村の字堤外と呼ばれる無人地帯であった。
こんな辺鄙な所だったが、渋谷からほぼ路面電車の玉川電鉄が開通し、その終点の「玉川」という駅が出来た。この路線は溝の口を目指しており道路橋の二子橋を走る事になっていたのだが、その二子橋がまだ出来ないので暫定の終点である。
すると交通が便利になったので人が訪れるようになった。そして多摩川沿いに料亭が立ち並ぶようになった。当時の料亭は料理だけじゃなくて芸者遊びとかそういうの込みの業態である。
ここは瀬田村堤外とロクな地名ではなかったので、対岸の二子と駅名の玉川をとって「二子玉川」と呼ばれるようになった。
元々瀬田の崖の下には殆ど人が住んでいなかった。出水リスクがあるからである。堤防は基本無いか、霞提である程度の出水を前提としていた。そこに人が住み始めたら危ないに決まっている。また鉄道が次々開通すると他の低地にも人が住むようになる。
そして以前から洪水危険地に住んでいた住民と新住民が「堤防を作ってくれ」という陳情をするに至り、近代的な連続堤で多摩川を封じ込める、という工事がなされる事になった。二子橋の開通が遅れたのも堤防の工事を先行させる為である。
だがこれに反対をする者も居た。その一つが二子玉川の料亭業者達で、堤防で目隠しされたら商売上がったりだ、と言うのである。
そこでここの料亭地域ではこの地域を川の中に取り残す形で堤防が築かれる事になった。
しかしそれだと料亭群に行くのにいちいち堤防上りが必要だ。そこで堤防に切れ目を入れて先のリンクの陸閘を2つ作る事にした。一か所縦のスロットが見えるが、多摩川の水位が上がる時はここに板を入れる。それだと水圧で折れてしまうので、水防活動で後ろ側に土嚢を積みまくって抵抗力にする。これを角落しと言う。
料亭だけの場合は万が一の場合は逃げれば良いし、自分たちで了承した事だし建て直しすれば良い。だが昭和に入ると戦争があり料亭どころではなく全て潰れてしまった。そして戦後の復興と経済成長で宅地不足となり、この危ない土地は売られて住宅地として転用されてしまったのである。
長らくこのままだったがもういい加減何とかすべしという事になり、あいも変わらず新堤防に反対する住民も居たが話をまとめて、住宅と川の間に新堤防を作る事になった。2008頃から事業スタートし、数年で堤防は完成した。何しろ何もない河原に堤防を作るだけなので工事は早い。
ところがだ。2019年に台風19号が暴れ狂うと、新堤防は機能していたのに一体は浸水して泥まみれになってしまったのだ!何故だ!?
https://maps.app.goo.gl/uQur4hgpRZnac7tB7
左側に囲い板が立っているが、これは慌てて工事を開始した為で、但し堤防はまだ出来ていない。右を見るとタワマンがあるが野村不動産のプライドタワーだ。幾分土地嵩上げされていてこの土地の危険性は認知しているものと思われる。
こっちに堤防が無いので、ここで泥水が自由に溢れ出し、それが駅の下側を通って堤防工事完了地帯に入り込んで浸水被害を出してしまったのだ。なんでこうなったんだ?なんで駅の北側は工事しなかったんだ?
何故駅を挟んで片方は堤防工事完了、もう他方は手つかずとなったか?
多摩川は青梅から下流は国土交通省が管理し、この辺は京浜河川事務所が管轄する。
ところが、駅の北側で野川が合流しているのだが、この野川の管理をするのは東京都であり、建設局第二建設事務所が管轄なのだ。そしてこの堤外地帯の駅の北側は野川に接しているのだ。
つまり、長年の懸念だった堤外地問題を解決するために住民の合意を取りつけ、国の方は急いで事業化して堤防を完成させた。それから10年近くが経つのに、東京都の方はちゃんと連携せずにほけーーとしていて事業化していなかった。そこに巨大台風が来たので野川に逆流してこんな被害が出てしまったのである。
野川沿いには堤外地を避けた旧堤防と連続する堤防がある。新堤防を延長してこの国道246の下で堤防に接続する必要があるのだが、堤防合流地点付近にはスペースが足りず、家が建つ土地を買収する必要がある場所もある。また、二子橋の橋桁は低い場所があり、https://maps.app.goo.gl/MoH89VVFBWFW7jWBA
堤防高に支障する。これはこのままだと橋桁に当たった水が横に流れて堤防を削ってしまう。そういう事どうすんの?なのだが、どうせ何もやっておらん筈だ。
余談だが二子橋は架け替えられていないのでアスファルトの下に玉電のレールが残っていると思われるよ。
堤外と言う字が付けられていた場所に住むのにリスクを考えて居ないのはマズイ、というのは確かにそう。
だが字が堤外だから住んではならないと書いている人は昔と今の治水を混同している。
昔は河川が氾濫するのは云わば当たり前だった。だから堤防を築くのだが、今と違って霞提など、切れ目があってある程度の氾濫を許容する設計が多かった。また堤防を造る際も、今のように流路を封じ込めるものではなく、流路からかなり離れた場所に造る事が多かった。河川は蛇行するのが専らなので、その蛇行の外側という離れた場所に堤防を作った。その堤防で守られていない所は全て「堤外地」だ。そこでは洪水では家も田畑も沈んでしまう。
笹目村や戸田村などの埼玉側は堤防が流路から1km程離れているのが判るだろうか?
一方、東京側は堤防そのものがない。これは東京側は台地の崖から1~2km程の所を川が流れているから、狭い地域を堤防で守るのはコスパが悪いって事でそのままなのだ。
これら全ての土地が堤外地である。洪水では田畑も沈むし、集落もなるべく作らない。家を建てる場合は微低地を選んで嵩上げもする。でもそれでも浸水は免れないし死ぬ人も居た。
二子玉川付近だと霞提もこの辺は余りなく、低地には住まない、瀬田や溝の口の高台に住み耕作地には歩いて通う、という生活様式だった筈だ。すると「堤外」と名づけられた字以外も全て堤外地である。
今この地域が危険なのは、先に説明したように堤防工事で外されてその時に堤外地となった為だ。字が付けられた時分の事ではない。だからこの堤外地の字が「堤外」であるのは偶然でもあるわけだ。大正の治水が原因で堤外の字が付けられたわけではないから。
なので話の種や潤滑剤として字 堤外の事を言うのは良いのだが、それが決定要因であるかの様に語る人は、近代とそれ以前の治水の違いや、それによる堤外地の扱い、感覚を混同している。
~~~長くなったので続く その2 https://anond.hatelabo.jp/20240612183016
私は静岡市在住です。大井川まで車で30分くらいの場所に住んでる。
リニアが通ったところで、静岡市民が便利になる要素は1つもない。儲かる要素も1つも無い。
「JR東海と交渉してメリットを引き出せばいい」という意見も目にするが、それは無理だろうなと思ってる(後述)
新東名高速道建設中の1999年、掛川市の粟ケ岳トンネル工事中に出水が発生して、農業用水が枯れる事象が発生している。止水工事もしたけど効果は限定的で、代替の水路もうまく機能しなかったとか。
当たり前だけど上記の工事もちゃんと調査したうえで予想外にこうなった。大井川もこうなる可能性はあるし、そして実際になってしまったら、もう元の水路には戻らないんだろうな、とも思う(簡単に戻るんだったら補償問題であんなに揉めない)。
JR東海の静岡県に対する態度を一言でいえば「ビジネスライク」だと思う。
JR東海は自社の利益を最大化するために、「最も儲かる路線である東京-大阪間ののぞみの本数を最大化する」「儲からない路線をギリギリまで少なくする」という方針で運営しているように見える。
結果として、静岡県にのぞみの駅はなく、ひかりも1時間に1本だ。静岡県の在来線はギリギリまで本数が絞られていて、静岡市周辺だと、朝夕は山手線並みの混雑になっている区間もある。
そんな感じなので、静岡市民からすれば「自分たちの利益を度外視してJR東海に協力しよう」なんていう気は全く起こらない。
そしてJR東海も「静岡県民に譲歩してリニアへの支持を増やそう」みたいな気はない。
例えば、「リニアを通した暁には、ひかりの本数増やのぞみの停車を確約する」とJR東海が表明すれば支持も集まるだろうが、「増便を前向きに検討する」レベルの返答しかない。
水の補償問題についても「通常の公共工事の補償年数(30年)に縛られずに補償を検討する」と言うものの、よくよく聞くと「補償の受付期間を30年より伸ばすことは検討するが、補償の対象期間を受付期間と同様に伸ばすとは限らない」みたいな返答なのだ。
とにかく「できる限りJR東海が損する言質を与えたくない」という態度が透けて見える。そしてJR東海のビジネスライクな対応から鑑みると「前向きに検討したけど増便できない」みたいな回答になる確率は高い。
じゃあ「夢のリニアを実現しよう!」みたいな夢や情熱に訴えるアピールをしているかと言うとそれもまったくない。静岡駅にはリニアの掲示があるが、ホワイトボード2個分くらいのパネルがあるだけで、内容も5年くらい変わっていない。品川駅にはでっかいリニアの写真(記念撮影用)があるのに。
静岡市民から見ると「得はなく、損はありそうで、自分たちを説得しようという熱意も覚悟もないプロジェクト」がリニアだ。なので、これに反対する川勝(元)知事は選挙に勝つのも当たり前に思える。
これの逆バージョン https://anond.hatelabo.jp/20240313123638
巣鴨プリズン/東京拘置所跡にサンシャイン60ビルを建てるにあたり、池袋駅から地下道を通す計画があったが、地元商店が「人の流れが変わって駅前が廃れる」と反対し沙汰止みになった。
一番反対したのは洋菓子店のタカセ。ここは戦後に繁盛して地元の顔的な立場であった。
これに他の人は「タカセのヤツ、勝手に顔役ぶりやがって」と陰口を叩き、裏では総スカン。
地下道は都道反対側からだけに短縮されてそこまで利用者は歩くことになった。代わりに都バス乗り入れが行われたが利用者は伸びなかった。
しかし地下道入口に東急ハンズがオープンすると付近にカメラ量販店(後にゲーセン)、飲食ビル、映画館が誕生し、池袋駅東口~東急ハンズは若年向けの飲食サービス業が立ち並ぶ大商圏となった。
90年代にJRAは女性をターゲットとしたCMを打つなど競馬のイメージアップに努めてはいた。
だが池袋駅東口に場外馬券売り場を開設する計画が持ち上がるとイメージの悪化を恐れて地元商工会は大反対。JRAは土地も押さえていたが出店中止に。馬券売り場の上にサロンや飲食室などを設ける大規模な計画だった。
この土地を後にヤマダ電機が押さえて都市型店舗の第一号としてオープン。その後に近くの三越が閉店して建物が売りに出されるとヤマダ電機が取得して現在のLABIとなり、池袋の家電激戦区っぷりに火を注いだ。
米軍が接収した立川飛行場は手狭のためにジェット機用に滑走路を延長する計画があった。この為に滑走路延長先の砂川町の農地や家屋に収用が掛かった。
これに住民は大反対し、そこに学生運動等が乗っかり、デモ隊基地内侵入などの事件が起こり大騒動になった。
憲法問題などで出てくる「砂川事件/砂川判決」というのはこの事件。
この事件などがどの程度影響を与えたかは判らぬが、米軍は立川飛行場の拡大を諦め、瑞穂町の横田基地に集約する事を決定。立川飛行場は日本に返還される事になった。
箱根ヶ崎付近の八高線と国道16号がぐにゃっと曲がっているのは、横田基地の滑走路拡大をした為である。
返還された立川飛行場は学校や研究所、法務修習所、陸自基地などに転用されたが、一番広い面積を有するのは昭和記念公園で、電車で3駅分ほどもある巨大公園となった。
真ん中には広大な広場もあり、大コンサートもよく行われている。
なお、騒動の原因となった滑走路の残骸が未だ残っている。https://maps.app.goo.gl/ewECyedzGvD9p88t7
(よく見ると滑走路アプローチの>>>>のペイントがうっすら残る)
東海道新幹線が開通して暫くすると、騒音と振動が問題になり訴訟も提起されるようになった。成田新幹線のゴリ押しによる頓挫もあり、山陽新幹線以降の新幹線開通は困難が予想されるようになった。
そこで都市近郊での建設スキームを変更、新幹線に付随した在来線も同時に工事して迷惑施設というだけではなくて近隣住民の利益にもなるスキームにした。
この為に赤羽~大宮間では通勤新線(埼京線)、大宮駅北側には高架にまとわりつく、つる植物のような新交通線が出来た。
なお、東海道新幹線は通常の鉄道のように地面に砕石を敷いて線路を敷く工法なので高速運転では周囲に振動が伝わる。その後は平地でも鉄筋コンクリートの高架を走るのが一般化した。杭基礎で支持されるので振動は地下奥深くに吸収され、コンクリの高架は重いので振動自体が押さえられる。その為に公害は発生しにくくなっているが、交渉時には工法までははっきりしていなかったのでこういう形になった。
空襲焼失地区の戦後の復興は東京都などが管理して区画整理などを行ったが、計画的過ぎて無機質であるとの反対意見も多かった。
そこで都は神楽坂については住民同士の話し合いで区画整理を決める自律的な方法を試す事にした。
しかし優越な資本や有力な地元のまとめ役が居ない地区だったので、結局は路地などが沢山残る防災的にはアウトな形で復興する事になってしまった。
しかし建物の建て替えが進むと、街路側は多くが不燃建物、その路地の奥は不燃建物と古い料亭などが混在する形となって何だか防火と風流の両手取りみたいな地区になって、アンテナの高い外国人などにも好かれる町並みとなっている。
戦後の歌舞伎町は全域がゴールデン街のような闇市バラック状態であったが、再開発をする事になった。
しかし高田馬場を始発駅とする西武新宿線が新宿駅まで伸びる予定であり、歌舞伎町の付近に仮駅を設置された。
当時の西武鉄道経営陣としてはピストル堤と言われた堤康次郎も健在であり、堤は人を騙して土地を買収したり、ピストルの名の通りに暴力による脅迫で買収したり人の土地を勝手に占有して後に所有権移転したりと、要するにやり手実業家の皮を被ったヤクザであった。しかも権力とみっちりと癒着しているばかりかその後に代議士にもなっていた。
その為に歌舞伎町の地主たちは鉄道が来るのは歓迎だが堤が来るのはたまらねぇ、として西武の買収に対抗する策を練った。
そこで街路幅はきちんと確保しながらも、その所有区分を細分化、買収しにくくした。それが功を奏して西武も含め、大資本が入り難い地域となっている。道幅を確保しながらも細分化策が功を奏したのは主導的な町会長などが存在した為による。
ブクマページの米でそれは違うというのを幾つか。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240313123638
流山は常磐線忌避したという話は良く効くが、多分これは違う。というのも、地理的条件があるからだ。
田端を起点にして北千住を通り、土浦に至るというのは決まっていた。で、その途中には避けねばならぬ「水」があるわけよ。霞ヶ浦、牛久沼、手賀沼は避けねばならない。だから柏の先のルートはこれしかない。
問題は北千住から柏で、今の南回り松戸ルート、八潮→三郷→流山の北回りルート(TXコース)がある。
でも北ルートには難点があって、それは毛長川、大場川、古利根川の氾濫域の土壌ぐちゃぐちゃ地帯に入ってしまう。今でも越谷レイクタウンの南側は田んぼのままで、ここは乱開発すると土地の保水力が無くなり八潮の市街で出水してしまうので開発禁止の状態になっている。武蔵野線敷く時もまず水路の開削からやって平地なのに築堤築いている。そうしないと列車の振動で沈下して線路が狂ってしまう。それくらい地盤が悪い地域だ。
だから日本鉄道はここを通るのは避けたかったはずで、そうすると流山に行くのは無理って事なのだ。
日光御成街道の宿場町として栄えた名残が邪魔して鉄道忌避の街になり、ついに川口市に吸収合併された、元鳩ヶ谷市とか?東北本線って計画では、王子以北は今の埼玉高速鉄道をなぞってたって言うし
これも違うと言い切れる。地形で説明するよ。
日本鉄道熊谷線(現高崎線)は日本で2番目の鉄道なので工事量を減らす為に「ここしか無い」という厳選されたコースを通っているのだ。工事期間がやたらと短いのも特長で、コースを厳選した結果だ。
上野駅を出た京浜東北線(大宮までは中距離電車じゃなくてこっちが元のルートを通る)は赤羽までずっと急な崖の下を通る。この崖だが、真っすぐなのが特長だ。こういう真っすぐな崖というのは海食崖の特長だ。海の崖だね。
地球の海面は氷河期には氷河や南極に氷となって蓄積するので海面が下がる。一方、温暖な間氷期には海面は上がり、平野のずっと奥までが水没してしまう(海進)。
縄文時代などの間氷期の海進で、関東平野は海の底となり遠浅の海となっていた(奥東京湾)。間氷期の気温で海進の程度は変わり、最大で高崎あたり、縄文時代では大宮までが奥東京湾だった。(そういう訳で、尾久とか東三条には貝塚がある)
海には波がある。この波は真っすぐ進んでドンと当たって止まり、ではない。斜めに陸に当たった時は、陸に当たった後にその勢いは横に流れる。波が引く時はその横向きの流れのままに引く。沿岸流が出来るのである。
すると陸の出っ張っている所は削られて、やがて必ず真っすぐな海岸になるのである。
つまり、上野~赤羽の崖が真っすぐなのは海進時に波に削られたせいである。
波は崖を真っすぐに削っていくが、この時潮の干満により崖の下には平場が出来る。満ち潮では海面下に隠れているが引き潮では通れたりするアレだ。親不知子不知が引き潮の時だけ取れるというアレ。
上野~赤羽では小規模な波蝕台が連続し京浜東北線はこの上を通る。但し複々線化で判り難くなってはいるが。
この波蝕台跡は他の低地より少し高いから田んぼになっていないので用地買収がしやすい。更に少し高い故に大雨でも出水しにくいし、砂礫が多いので水捌けも良い。線路用地として優秀なんだな。
陸地の角があると波による沿岸流はその先に砂を置いていく(漂砂)ので、真っすぐの海岸線が延長された地形が出来る。砂嘴である。北海道標津の野付半島や京都の天橋立が有名だ。砂嘴で延長された浜により沿岸流と漂砂の働きも延長されるから砂嘴はどんどん伸びていき海底が深くなると砂嘴の延長はとまる。
この先で荒川を渡らねばならないので当然線路はこの砂嘴の上を走る。高さを稼ぐ為である。この砂嘴は江戸時代の荒川開削と田んぼ開発により削られているが、根元だけは残っている。赤羽の北で環八を跨ぐ時の橋台はこの砂嘴に乗っている。
当時蛇行していた荒川を真っすぐ渡る為に(鉄橋の距離が短くなるから)右に曲がり、荒川を渡る。川口方には堤防(曽根)があるのでそれを超えると熊谷に向けて左に曲がりながら築堤で地平に降りていく。地平に降りた所に川口町駅設置。川口宿からは離れているが駅は水平でないといけないのでここしか無い。
川口町駅からは当初の終点熊谷、その先の高崎までは殆ど直線なのだが、所々に緩いカーブがある。このカーブの全てには必然性があり、全て工事の最小化の為のものだ。
南浦和までは低地にあるが、この先で大宮台地に登る。そこで沢が削った斜面に入り、他の沢の斜面側面に取りついて高さを稼いでいく。
浦和駅からはもう芸術点が高く、沢山の小さな沢がある所を、最小限のカーブでその谷頭を両側でギリギリかすめるルートを取っている。ここはダッジボーナスが沢山入る所だろう。舞踏家みたいな避け方である。
大宮から先も小さいカーブで芸術点高いルートを通るが、中仙道に平行している。中仙道自体が芸術点高いルートを通っているのでこの区間はコピー忍者って感じだ。
このルートの良いところはもう一つあって、途中の蕨から中仙道が平行してくるので宿場町近くに駅を造れば集客と集荷が期待できる。更に当時は道が限定されているので、名のある街道に近くないと客や貨物が駅に来れないのだ。
文明開化したばかりの明治日本が、鉄道二本目でこんだけ緻密なルート選定出来たのは何故か?
お雇い外国人の英国人の力だけではない。江戸時代に新田開発と用水路開削をしまくっていた為なのだ。
台地上に水田を作る場合、もっと標高が高い場所から用水路を引いてくる必要がある。水は一度低いところに行ってしまったらもう高さが上がらないから、長距離の測量を正確にせねばならない。その技術が蓄積されていた。
やり方は結構単純だ。長い木箱を作り(水盛り箱という)、水を入れる。水面は必ず水平だ。両端の水面から10センチのところに糸を張ったらそれも水平だ(水糸という)。
更に両端の水面から10センチのところにライフルの照準的なものをセットする。その照準で200m先を見て、照準が合っている場所はやはり水平だ。200m先に助手が目盛りが付いた物差しを持って立つと、その地面はこっち側から何センチ下/上がっているかが判る。
これをずっと正確に繰り返す。だから両側の谷頭の直ぐ上を抜けるルートなんてお茶の子さいさいだったかもしれない。
という訳で、日本鉄道などが造った初期の鉄道路線は土木技術で地形無視って事を極力避けるルート選定をしているので、マクロ的にもミクロ的にも必然性の塊となっているのでありますよ。
来客がキッチンシンクを皿用スポンジで洗いやがった、清潔観念がおかしいもう絶縁だとか、旦那がそれやりやがった、もう離婚考えているとか、シンクをスポンジで洗う事で発生するトラブルは多い。
これは畢竟、ケガレの観念の問題だ。シンクは下(シモ)の範疇になっているのである。
実は日本人のこのシンク=シモの感覚というのは20~30年前に定着したもので結構新しい。それまではシンクは上(カミ)の範疇であり、1990~2000年頃はこれらが混じり合った状態だった。また、調理の現場ではまだシンク=カミだ。
ところで古い国鉄時代の特急などでレバーやボタンを放すと即座に水が止まってしまって手が洗えない洗面台に困惑した事はないだろうか?
シンクというのは元の意は「溜め」だ。水を溜めて使うのがシンク。これとは別に「流し」もあった。これは小学校のプール付属の長いのが判り易いね。
故にキッチンシンクも水を溜めて使う、流しとして使うの二つを兼ねる事が前提になっていた。これは洗面台も同じ。
だからキッチンシンクにも洗面台も水を溜める為の栓が必ず付属していた。
また、1990年代前半までのシステムキッチンのCMでは、シンクに水を張ってそこに野菜をまるごと投入して洗うというシーンがよく登場した。それは清涼感の演出のためであり、つまりはシンクはカミだったのだ。
洗面台ではゴム栓だけではなく、もっと機能的なレバーやノブ式の排水栓が一般化していた。洗面水栓の近くにあるノブなどを引っ張ると水がたまるのだ。
今では洗面台ボウルは手を洗った水受けや歯磨きうがいした後の水の吐き出し受けになってるから洗浄後でも水を張ってそこに顔を付けるという行為はしたくない人が多いだろう。つまりはシモである。
このシンクやボウルに水を張って使うというのは80年代後半~90年代に廃れ、キッチンでもシンクにボウルを入れてそこで洗うというのが一般的になった。
この為に2000年代前半から各調度品メーカーは水溜めの栓とか排水蓋を付属しなくなる。洗面台のレバー式排水栓も廃止された。
こうなると利用者の方のケガレ観念も完全にアップデートされてシンク、ボウルはシモのケガレあるものとなり「皿用スポンジでシンク洗いしやがった、信んじらんねぇ!」となるようになったのである。
一方、プロの調理場の方ではシンクは水溜めのままだ。シンクに水溜めて食材洗うし食器のすすぎもする。カミのままなのだ。
だから皿用スポンジでシンクを洗った人は調理場で働いている可能性もある。汚いという意識が発生しない(排水口の網などは別だ。ここは単純に不衛生だ)。
増田も「気まぐれクック」で金子がシンクに魚置いているのを見て「不潔だな」と思う口だったが、実際に自分でも魚捌きをやるようになると、シンクの中でやらないといけない作業が結構ある。
すると食材をシンクに置くなんてとんでもない!というケガレ意識はなくなった。
特急で多客期や臨時列車などで国鉄時代の電車が来ることがある。
トイレが和式なのも困るが、後に手を洗おうとするとすると、出水レバーやボタンから手を離した途端に水が止まってしまうので両手をすり合わせての手洗いが出来ない。一定時間で止まる装置が壊れちゃったのか?
しかもお湯と水の二つのボタン、レバーがあるが、お湯の方を押すと火傷する熱さで手洗い出来ない。なんだこれ!どうやって使うんだ!?
こういう体験した事ないだろうか?
また、昭和中期の古いホテルや旅館に泊まると、同じように水栓が湯水二つあり、こっちは普通の蛇口で出しっ放しには出来るものの、お湯の方はやはり熱くて使えない。
しかもメインのボウルの他に小さなボウルがある。これは一体どうやって使うんだ…。
これも説明しよう。
例を用意した。
これは戦後すぐに製造or改装された旧型客車の手洗いで、ボタンを押している時だけ湯水が出る、洗面ボウルの右にワンタッチ排水栓がある、メインのボウルの左手前に小さいボウルがあるというこの問題の全入り品だ。
https://twitter.com/ma_mere_loye/status/1642412578201800704/photo/1
小さいボウルがある。水栓は湯/水二つ式だったのを潰して後付け水道管に変更されている。
なんでこうなっているかというと、今の人は手も顔も水を出しっ放しにして手を洗い、流水を掌に受けて顔を洗うだろう。
だが昭和中期までの日本人は流水でそんな事をしなかったのである。ほぼ必ず洗面器のボウルに水を溜め、それを掌で掬い、顔を洗ったのだ。だからお湯と水を洗面台で混ぜて適温にしていた。
昔は冷房も無く窓を開けていたので蒸気機関車の煤煙で顔が汚れた。長時間の乗車も多い。夜行列車も多かった。だから洗面は必須だった。
そしたら歯磨きしたりうがいした吐き出しはどうすればいい?
それが手前の小さいボウルなのだ。ここは吐き出し専用で、痰が残ったりしたら手で水を掬って水で流すのだ。
つまりは洗面台=手を洗うところ、夜行なら歯磨きや洗顔の排水受け、または化粧直しの場という風になったのは昭和後期であり、それまでは洗面台はその名の通りに水を張って顔を洗う場所だったのだ。
因みに洗面器という名もその通りで、水を溜められない流しなどでは洗面器に水を張って手で掬って顔を洗う為の物であった。その洗い方では石鹸で水が汚れるが、そしたら水を交換して2回くらいで洗顔する。
ただ、この洗顔法は昭和後期には誰もやってなかった筈であり、感覚的にも大勢が痰や唾を吐いたり手洗いの排水受けた洗面ボウルに水張って顔洗えるかという感覚だった筈だ。国鉄は融通が利かずに規格化されたこのタイプの洗面台を発注していたが当時から手洗いしにくい不便なものという評価だったと思われる。
だからJRになると今のと同じ、自動水栓や時間水栓に交換されたりした。
そういう訳でシンクや洗面台に対する日本人の清潔感情、ケガレの意識がアップデートされ、それによって水を溜めるという構造の調度品が作られなくなり、それでまた更に清潔感情がアップデートされ、となって来た。
故にシンクを皿用スポンジで洗うと非常識に驚き、古い構造の洗面台は使い方すら判らない、という事になるに至ったのである。
だが調理場ではシンクは未だ水溜めて使うカミのものであるから、そういう従事者が他業種の人と交差するとトラブルになる。
またハードな料理をすると家庭でもどうしてもシンクで食材扱うようになるから感覚は変わる。
我々が最低の常識と思っているものは実は結構歴史が浅いものであるし、当人が子供時代には常識が違って居た事もあるのである。
我々は顔を洗うという事すら世代を超えると理解も出来ず、洗面台の使い方すら判らないのだ。
Permalink |記事への反応(25) | 18:10
単なるブコメへの雑感
雨で運動会が順延したら失敗かというブコメにスターが集まってるが、正しい設例は「安全配慮不足で運動会を延期して怪我人は出なかったら失敗か」で、普通は失敗だしこれ褒め称えるんだ?って思う人がいるのはわかる
違うな
安全配慮不足に至っては、なんだか分からない、怪我人は何に対比してるんだ?
ロケットと対比するなら、運動会の場合、問題なくすべての競技をする事が成功と「定義」し
順延しても、設定された予備日で賄えるなら「成功」だという視点に立てなければ
対比した考えなんてできない
(でも無理があるだろ?)
少しでも何かあったら「中止」だ
そして、予備日が沢山あるんだよ、打ち上げはな
今回わかった原因は、「ブースターへの着火信号が出ずブースターが機能しなかった」だ
着火信号が出なかったのはイレギュラーで、それを受けてブースターが動かなかったのはフェールセーフが発動したから
打ち上げて爆散させたわけじゃない
だから、中止して延期
ロケットも、衛星も失わずに打ち上げを中止できたのだから、失敗ではない
出水や崩落などの「想定外」が起こって遅滞したら「失敗」なのか?って話
運動会に当てはめるとなんだろうな?
パッと思いつかないが
怪我人なしってのを成功条件に含めるなら、神経質に中止を行って、結果けが人が出なかったのなら、それは「成功」だ
異常を発見して飛行機が飛ばなかったら、乗りたかった人は怒るだろうが、飛ばして墜落するより何倍もマシな「成功」だ
それを「止める事が出来る」というのがどれだけ素晴らしいか
文系()にはわかんねぇんだろうなぁ
そこら中で「止められなかった陰惨な事故」が多発しそうだよな
難読で珍妙な苗字は検索するとすぐ出てくるし創作キャラクターでよく見かける気がしてて
(四月一日、栗花落、小鳥遊、安心院、弥勒院、武者小路、etc)
でも誰でも読める漢字の組み合わせで珍しい苗字ってどれくらいあるのかなと思って
(読みに一癖あるやつは除きたい、日下部とか四方田とか四十九院とか)
実際に会ったことのある人で平易な文字列だけどいない苗字、こういうのあるよってあれば教えてください
私の人生の中では花宮(はなみや)さんが暫定一位、まじでいない、読めるけどいない
出会った人の中の珍しさでいったら闐闐(どんど)さんがやばいと思った、読めないしそもそも機種依存文字らしい
あとは殿垣内(とのがいと)さん、あだ名はもちろん「トノ」
保正(ほしょう)さんもすごいなと思った、芹生(せりう)さんはギリギリ読めた
源五郎丸(げんごろうまる)さん、次郎丸(じろうまる)さんの丸シリーズは多そう
伊古野(いこの)さんもいない気がする
釘宮(くぎみや)さんはメジャーだと思ってたらそうじゃなかった
肥前(ひぜん)さんは九州かと思ったら全然遠方の人だった、旧国名ネームだね
角(すみ)さんも衝撃だった、丸さんもいるのかな?
居倉(いくら)さん、諏訪(すわ)さん、椿(つばき)さん、伴(ばん)さん、菩薩崎(ぼさつざき)さん、万徳(ばんとく)さん
小茂田(こもだ)さん、行部(ぎょうぶ)さん、佛木(ほとぎ)さん、鬼頭(きとう)さん、下馬場(しもばば)さん、出水(でみず)さん
團塚(だんづか)さん、幾度(きど)さん、海鉾(かいほこ)さん、神酒(みき)さん、雅楽川(うたがわ)さん、歌丸(うたまる)さん
遠近(とおちか)さん、夏目(なつめ)さん、雨宮(あめみや)さん、大関(おおぜき)さん、三瓶(さんぺい)さん、八十川(やそかわ)さん
新型コロナウイルスの流行以降、しっかり手首までの手洗いが求められている。
が、出先でそれを励行しようとすると引っ掛かることがある。
より正確に言うとつっかえる、指先が。洗面台のボウルの壁面に。
スパウトが短いのだ。蛇口の取り付け位置から出水口までの距離が短いのだ。
何故なのか?
洗面台を文字通り洗面に用いるなら蛇口の出っ張りが大きいと邪魔だろう。
しかし洗面をしない場所、例えばトイレの洗面台のスパウトが短かったりする。なんで?
指先を洗面台奥方向ではなく下方に向ければ良いだろう?
それだとセンサーの感知範囲を外れ水が止まってしまうことが多いのだ。
仕方なく手首を横に捻って、ボウル壁面に指先が接触しないよう手洗いする。
新型コロナウイルスの流行以前、手洗いしましたよとエクスキューズの為に指先をちょっと濡らすだけなら短スパウトの蛇口で不都合なかったのだろう。
でも今は違う。
うちの母は「とこやま」と呼んでいた。出水唯一の夜景スポットか?展望台からの眺めが好き。帰省したら一回は行くくらい好き。
十五夜の夜、子どもがお供物(お菓子)を貰いに近所の家を訪ねて回る風習があった。食べきれないくらいのお菓子を集めた思い出がある。
部落という言葉を集落や地区という意味で使っていた。出水を出て、差別的な使われ方があることを知ったときはびっくりした。
正直、建て替え前の方が雰囲気あって好きだった。かき氷の白熊、黒熊(白熊のチョコレートバージョンみたいなの?)が好きだった。まだメニューにあるかな?
両親とも出水市生まれで、俺も出水市生まれで愛知県育ちとして嬉しい記事ダイアリだな!ありがてーな!!おい!
まず、出水市と言ったら鶴の渡来地で有名なところ何だから出水市ツル観察センターは確実に押さえておけよ!テストでるぞ!
ツルが近くに見れる以外何って無いけどそれがいいとこなんだよ!
ちなみにツル観察センターから1km程度に母方の実家があるんだけどよ!
以前に愛知育ちの嫁を実家に連れてって朝起きたら、カエルの声うるさいねって言われまたわ!バカ!!ありがたいツルも1万羽とあつまればウシガエルみたいな鳴き声に聞こえちゃうの!仕方ないの、ありがたいの!
昭和天皇も訪れた由緒正しい場所だから感謝してウシガエルみたいな鳴き声で目をさますの!!って、ダラダラ書いたけど出水市にいるなら一度はいこうか!
あと、せっかくだから出水酒造も挙げとくよ!ツル博物館の近くにあるんだけどよ。
工場見学とかもできたはずで、昔は坂井シェフとか広告に起用してた、新しい目の酒造メーカーな!
実はここ、元々俺の父方の実家の土地があって、借地で家とかもあったんだけどよ!工場建てたいから、潰して出水酒造に売却したんよ!でもうちの土地自体二束三文で建物建ててた人らは4桁万円貰ってるのに、うちはそんなことなかったぜ!!出水市の土地安くて泣ける。
でも土地売ったおかげか、当時の工場建てた新規雇用の枠で働くこともできたんよ!
先に書いた出水市出身の坂井シェフと女優の桜庭ななみみちゃんは押さておけ!
まだゲーセンあるのか知らんが、あれば行ってみてくれ、何って無いけど!
出張か転勤か、何で出水市みたいなとこにいるか知らんが何って無いけど楽しんでくれな!洋服はアベイルで買うのがオシャレだぞ!嘘だけど。
元々、水俣病地域だし、祖父母は軽いけど水俣病認定者だったよ!そのせいなのか、俺は軽い奇形持ってるよ!見えないとこだからえーけど!
ただ、出水市に4階建てってそんなあったっけ?こんだけ、特定できる情報書いた俺が言うのも何だけど、身バレせんように気をつけてな!
えええ、増田で出水の話題を見ることになるとは。俺も出水市民なんで何か書いてみる
〇出水駅
〇サンキュー、ニシムタ
トライアルは微妙に入りにくく出にくいのでいつもここを使う。総菜もうまいよ
〇ぬくもりの湯
温泉センター。けっこう新しくて大きい。中に食堂もある。味は普通
サウナが中々いいんで割と利用してる。だが水風呂のバチャバチャ落ちてくる水、あれどうにかならんのか。畳の休憩所があるのもグッド
もやしラーメン(大嘘)が有名なラーメン屋。かなりガッツリ系なとんこつ。昼時は若干並ぶ程度には客が入ってる。
出水でラーメンと言ったらここだと思う。たまに無性に食いたくなる
コスモスで有名な場所。今年も行ったが満開のコスモス畑は圧巻。山の上なんで空気もいい
道中には偏屈なオッサンがやってるあじさい園もあるが、俺は前行ったらなんか怒鳴られたのでそれ以来行ってない。妖怪かなんかかよ
〇かじか荘
恐らく出水では鶴飛来地の次に有名ではなかろうか。山の中にある温泉。出水駅からなら車で20分ぐらいかな?
車1台がやっとな道の先に突如として現れる温泉宿は異界っぽくて好き
お湯は美しい青色でぬるめ。かなり硫黄臭がする、好きな人にはたまらないタイプ
昔は宿泊もやってたが、施設老朽化のため今はやってないらしい。猫もいるよ!
ちなみに白木川内温泉というかなりダイハードな温泉もある。興味があるならググってみて。俺は好き
どのメニューも安定して美味い。おすすめはチキンカツ定食とチャンポン
ハンバーグが有名らしいが俺には柔らかすぎる
書いてて思ったが、俺出水は割と好きだな
娯楽は少ないけどほどほどに色々あって、交通の便もいい
一度はおいでよ