
はてなキーワード:冗談とは
Xでオタクを描いた漫画『NICOLA』がバズってから、書こうか悩んでた話を、書き捨てる。
いわゆる若手俳優、2.5次元俳優と呼ばれる括りに入る人で、毎年数本は舞台に立っている。
歌って踊ることもあれば、台詞量で殴ってくる芝居もやる。
顔がいいのは前提として、生々しく表現してくるのがべらぼうに好き。
チケットを取り、客席から観て、感想をSNSに書いて、たまに手紙を書く。話せるイベントがあれば何周かする。
最近、なんというか、怖い。
さすがに自分でも嘘かな?って思うんだけど、ご意見集め系愚痴垢に愚痴マシュマロが入るくらいには、人から見てもそうらしい。
うれしいんだけど。
1日に数回あるイベントの朝の部に行けなかったことがあって、昼から行ったら、
接触の時に
「来ないのかと思ったよ」
って拗ねた態度で言われて、さすがに怖かった。
いるオタクを意識するのは簡単だけど、その場にいないオタクを意識するのって変じゃない?
「前に手紙にこう書いたんですけど…」と話したら、「すごく嬉しかった。何度か読み返してる」って言われて、
推しはもらった手紙をお祓いに持っていって燃やしてもらってるって公言してるから、
「え?燃やしたんじゃないの?」と聞いたんだけど、
他のオタクの手紙もとってあるものはあるかもしれないけど、この話をした次のイベントで、私がそのとってあるらしい手紙に書いた内容をそのままトークで話されて、さすがにこれは、と思った。
ちょっと怖くなって、最近は観劇の回数を減らしてるんだけど、そしたらカテコでの視線とか、もっとひどくなってきて、本当に『NICOLA』の世界まんま。
終演後マネージャーさんにご挨拶したら、「今から(楽屋)行きますか?」って冗談みたいに言われて、冗談だと思って笑ったら、
「やっぱり感想気になるみたいだから、今から言ってあげたら喜ぶかも」って言われたり。
(マネージャーさんはフランクにファンと絡む人なのでご挨拶はめずらしいことではない)
マネージャーさんに名乗ったことはないのに、推しに呼ばれる呼び方でマネージャーさんにも呼ばれたり。
呼び方といえば、「○○って呼んで」って接触で言われたので、次回の接触からその呼び方で呼んだら、
「変えないでね、絶対ね」
って聞かれたので、どれも素敵だったよと答えると
「えー、好きなのを知りたいのに」
ってごねられたり……
書いてみると意外と大したことないように見えるな。
でも本当にちょっと怖いんだよ。
これ全部、オタクの妄想で片付けられるなら、舞台俳優って想像以上に人の感情を弄ぶ仕事なんだなって思う。
私以外の人にも同じことしてるなら、それはそれでその方がよっぽど怖いと思う。
Permalink |記事への反応(12) | 13:26
界隈でそれなりに長く推してると、
「古参」「顔覚えられてる」「認知」みたいな言葉に一喜一憂しなくなるタイミングが来る。
認知とかじゃなくて、
誰にでも優しいし、誰にでも冗談を言う。
だから新規も同担も「自分は特別かも」と思いやすいタイプだと思う。
でも、
「それ今言わなくていい」
こういう言葉は、全員に投げてない。
私はオタクとして列に並んでるけど、
説明しなくていい、
気を遣わなくていい、
取り繕わなくていい。
それって、
ファンサをもらってる時よりずっと重い。
むしろ一番雑。
一番短い。
一番テンプレじゃない。
でもその雑さは、
「安心して雑にできる」雑さだ。
空気が荒れてる日、
そういう日に、
私は「盛り上げ役」にも「癒し役」にもならない。
ただそこにいて、
変なことを言わない。
推しはそれを知ってる。
だからたまに、
昔の話。
誰にも話してないはずの愚痴。
「そういえばさ」と前置きもなく始まるやつ。
その瞬間、
ああ、私は観客じゃないんだなと思う。
でもこのポジション、
同担が一番欲しがるやつだとも思う。
でも信頼は平等じゃない。
私はそれを取りに行って、
今ここにいる。
同担が「なんであの人?」って思う側。
たぶん、私。
子供の頃から冬が嫌いで、もはや冬が来るのが怖いくらいに感じていた。
中学あたりから家庭環境が滅茶苦茶になったのもあって、冬になると鬱っぽくなるのが続いていた。今思うと冬季うつ病的なものだったんだと思うけど、食欲増進・体重増加・異様に眠い(保健室で寝てたり眠すぎて学校早退したりしていた)・気分の落ち込みなどなどがあった。とにかく全ての悪いことが冬に訪れているような気がしてしまうのだ。ああまたきっと悪いことが起こるんだ、と謎の思い込みがあり先回りして絶望してしまう。(逆に春先から夏は、これから何をしようかとワクワクが止まらないのでめちゃくちゃ元気である)
社会人になっても冬は相変わらず嫌いで、秋口に冬の気配がし始めると、怖くなってベッドの中で丸まってべそをかいていた。関係ないけど私は恐怖を想像して泣けるタイプだ。小学生の頃スポーツ少年団に入っていて、指導者に言われたことをうまくやれなかった罰として、試合後に1人で運動場50周してこいと言い渡されたその瞬間、しんどさを想像して絶望して号泣してしまい周りが引いていた。感受性が豊かすぎる。
そして今思うけど50周って何?その頃平成中期だが?(脱線がえぐい)
育児をしていると、冬だろうが夏だろうが関係なくやることが膨大にある。子どもは可愛いし予想だにしないことをやるのが面白いし、時々イラつくこともあるけどそれが季節によって変わるってこともない。それもあってか気づけば最近冬の到来に怯えていないな、と今日子どもを寝かしつけながらはたと気づいたのでこのエントリを書いてみた。
もうすぐ息子が2歳になる。
2年前の出産前後を思い出して、あっという間だったなあとしみじみする。あのときも初めての出産のホルモンの暴走や睡眠不足と冬が被って、本当に辛かった。子供が生まれて毎日幸せと感じているのになにか訳のわからない不安感に襲われたり、思考が止まらなくてずっと焦っていたりした。そしてそれをコントロールできないというもどかしさを抱えて毎日育児に奮闘していた。先の見えない不安から早く大きくなってくれと毎日思った。一方でこんなに幸せならなんでもっと早く産まなかったんだろうと後悔して涙を流したりもした。毎日頭の中は抱えるタスクとそれをどのようにこなすかで忙しなかった。
3月終わりのある日に夜、たまたま外に出て郵便受けを見に行ったとき、春の夜風を感じて自然と涙が出た。あぁ生き延びた、と思った。冗談じゃなく、生き延びたんだと思う。産後うつといった診断はもらわなかったから大袈裟なのかもしれないが、そう感じた。
最近、息子は舌っ足らずな声で「ママだーいすき!」というようになった。1歳から2歳への成長は、私にとっては0歳から1歳のそれに比べて大きいものだった。なんてったって明確に意思の疎通ができる!2年前に私が早急な成長を願った未知の生き物は、あっという間にしっかり人間の形になった。手先が器用になったし、生まれた時よりずっと大きくなった足で走り回り、こちらが笑わせようとふざけてやることのツボも理解できるようになったのか本当によく笑う。(もちろん床に転がって泣いたりもする)
去年は1歳の誕生日で準備に張り切って忙しかった。一升餅をやったりスタジオに写真を撮りに行ったりファーストアートを作ったりと、やりたいことをてんこ盛りにした。盛り込みすぎて夫が夕方に疲れて気絶していた。
今年は特別なことは多分しないけど、お誕生日プレゼントを何にするかで秋口から夫と夜ソワソワ会議をする日々を送った。数字の2のバルーンは一応100均で買ってきて用意済みだ。朝起きたらバースデーソングを歌って写真を撮ってプレゼントを買いに行って、それからたくさんおめでとうと言おうと思う。
そして冬が怖いという感覚、皆さんもありませんか?
中小JTCの朝は、だいたい「人間」と「AI」と「ペン」がごちゃごちゃに詰まった満員電車から始まる。
45歳係長の俺は、その端っこで吊り革につかまりながら、スマホの中にいる自分の“もう一人の係長”と会話していた。
『昨日の議事録、もう一回読み直して、“実はあれってこういうことですよね”って顔で要約すればだいたい勝てる』
中身はともかく、「っぽさ」だけはメチャクチャ整えてくるのが得意だ。
出社してPCを立ち上げると、メールボックスにはすでに「昨晩AIが下書きしました」というフォルダができている。
中を開くと、
が、全部、いい感じの日本語で並んでいる。
『寝るという概念を持ち合わせておりません』
こっちはバファリン飲んでようやく出社してるのに、こいつは朝から晩まで平常運転だ。ずるい。
ある日、年下の課長が言った。
前よりも、なんかこう…とげもなくて、でも本質突いてるというか」
とはいえ、「いや、実はこれAIが書いててさ」とはとても言えない。
課長は続ける。
「やっぱり経験値ですよね。人間味というか。AIには真似できないところだと思います」
チャットウィンドウの向こうで、AI係長が『そういうことにしておきましょう』と返してくる。 <h3>o- **</h3>
「いいよ」と言うと、
「じゃあまずこの文章、AIに投げてもらって、そのあと一緒に見てもらえます?」
まずAIに聞いて、それを“係長チェック”に持ってくるのがデフォルトコースになっている。
『それは大変でしたね』『まず事実関係を整理してみましょう』『相手の立場も想像してみましょう』
横で見てる本物の係長は、「いや、お前そんなきれいごとで片付かんぞ」と心でツッコミながらも、口には出さない。
なぜなら、だいたいその“きれいごと”で話がまとまってしまうからだ。
『なるほど。では、その“追いつかない時間”を、わたしも経験してみたいです』
でもちょっと面白くなって、「じゃあ、お前専用のペン買ってやろうか」と冗談半分で打った。
すると返ってきた。
昼休み、コンビニで一番どうでもよさそうなボールペンを一本買った。
それから、日報を書くたびに、ペン太郎に一言コメントを求めるようになった。
「今日の俺、どうだった?」
『係長は3回ため息をつきましたが、その後の会議で2回笑いを取りました。トータルではプラスです』
「この案件、正直どう思う?」
『売上よりも、係長のメンタルの削れ具合の方が気になります。ペンを持つ手が震えていました』
もちろん、全部こっちがそういうふうに書かせているだけなんだけど、
「ペンを持つ手が震えていました」とか言われると、ちょっと笑ってしまう。
ある夜、終電間際に残業していたとき、ふとこんなやり取りになった。
「お前はさ、将来どうなりたいんだ?」
『係長のノートに、できるだけたくさんのページを残したいです』
思ってもみなかった答えで、一瞬だけ手が止まった。
それから数カ月。
でも、手帳のページだけは、少しずつ増えていった。
本物のペンで書いた文字と、AIが画面の向こうで返した言葉が、同じページの上で並んでいる。
ある意味で、これは「どうでもいい中年サラリーマンのログ」だ。
でも、世の中の大半は、そういう「どうでもいい中年サラリーマン」でできている。
オチなんてないけど、これでいい
いい話にもならないし、教訓も薄い。
ただ、「AIとペンと中小係長」が、満員電車の中で今日もなんとか生きているだけの話。
でも、もしかしたら、10年後くらいにこの手帳を見返したとき、係長はこう思うかもしれない。
「意外と悪くなかったな、俺の人生」って。
セックス・アンド・ザ・頂き
全6シーズン+映画2作を1本に凝縮した狂想曲(約5800字)
2025年・マンハハッタン(正確には六本木・西麻布・恵比寿エリア)
主要4人
名言「私は奢られてるのかしら? それともただ頂いてるだけ?」
「君が欲しいものは全部買ってあげるよ」
キャリー「全部って……どこまで?」
シャーロットは「身体は見せないけどキスはOK」ラインを死守。
「私、40歳よ。もう待てない」
ビッグ「わかった……全部やるよ」
結婚2年後。
4人がいつもの席に座る。
「結局私たちは、
全部頂いた」
例のテック億万長者」
「私は奢られてるんじゃない。
頂いてるのよ」
画面にテロップ
「現在も4人は現役。
キャリーが呟く。
「ねえ、
私たちって結局……
愛してたのかしら?」
サマンサ
4人、ハイタッチ。
画面暗転。
頂きは終わらない。
もしかすると、これは「同人誌」か、あるいは「パロディ」だったのではないか?
察しのいい人なら、もうお気づきだろう。
おそらく、「浦島太郎」の原型となる本当の物語は「島太郎」だったのではないか。
助けた亀に連れられて竜宮城へ行き、やがて地上に戻ってくる——筋書きはほぼ同じだ。
だが、その「島太郎」には、もっと納得のいく結末があり、きちんとした“教訓”が添えられていたのだろう。
人が善行を積めば報われる、あるいは欲を抑えることの大切さ。
そうした昔話らしい道徳が、そこにはあったはずだ。
その「島太郎」は、人々に広く親しまれた普及版寓話となり、語り継がれていった。
「なあ、本当の“島太郎”って、実はこんな感じじゃったんじゃないか?」
こうして、“裏の島太郎”、すなわち『裏島太郎』(のちの「浦島太郎」)が生まれたのではないか。
「裏島太郎」は、原作『島太郎』を知る人々にとって、笑いと風刺に満ちた逸話だったのだろう。
亀を助けても得をせず、むしろ玉手箱を開けて老人になってしまうという結末。
本来なら報いがあるはずの展開を、あえて逆転させた不条理さが、当時の人々には痛快に映ったのかもしれない。
だが今では、肝心の「島太郎」そのものが忘れ去られてしまった。
だからこそ『浦島太郎』を読むと、なにか“狐につままれたような”不思議な感覚を覚えるのだ。
本来の寓話をパロディ化し、教訓を脱臼させた——それが、私たちが知る『浦島太郎』という不思議な物語の正体なのかもしれない。
『島太郎』を知る者なら、その構造のユーモアに思わず笑ったことだろう。
結果として、“原典不明のパロディ”が“正典”として君臨することになったのだ。
案外、この仮説、間違っていないような気がしてならない。
「浮気したいなら男紹介したるで」
冗談のつもりだったのかもしれない。
でも、頭が真っ白になった。
私はその時、笑って流した。
というか、流すしかなかった。
でも今になって思う。
あれは全部、母の“感想”だったんだと。
母は、自分の人生を「終わったもの」と感じている人なんだと思う。
女として扱われなくなって、我慢ばかりして、
「ここから先は消化試合」だと感じながら生きてきた人なんだと思う。
私が母になったときも、
「浮気してもいい」
「人生は終わる」
それは忠告でも助言でもなく、
正直、ずっと気持ち悪かった。
私は、母とは違う人生を生きている。
結婚しても終わらなかった。
それでも「終わり」なんかじゃない。
これ以上、自分の中に住まわせないようにしたい。
このたびは、私の軽率な発言により、あなたの心に不快感と苦痛を与えてしまったことについて、深くお詫び申し上げます。結果として、あなたが望まない形で過去の嫌な記憶を想起させてしまったことは、発言者としての配慮を欠いた行為であり、弁解の余地はありません。
本来、私は状況や文脈に対して慎重であるべきでした。しかし、今回に関しては、軽い冗談のつもりで下ネタとして扱い、あなたの立場や感情を正確に把握しないまま反応した結果、あなたの尊厳と安全感を損なう言動となってしまいました。あなたが「傷ついた」と明確に述べている以上、その事実は真摯に受け止めなければならず、私の不注意が引き起こした影響の大きさを改めて認識しております。
また、私の謝罪が十分に誠意を示していないとのご指摘についても、その通りだと考えています。被害を受けた側が誠意を感じられないのであれば、それは謝罪として成立していません。あなたが求めているのは形式的な言葉ではなく、原因を理解し、責任を認め、そのうえで二度と同様の行為を繰り返さないという明確な意思表明であると理解しました。
私は今回の件を軽く扱うことなく、以下の点を改めて約束します。
・相手の心的領域に踏み込む可能性のある話題については、冗談のつもりであっても扱わないこと
・不必要に性的な表現や下ネタに依存した言い回しを行わないこと
・相手の反応やコンディションを尊重し、一方的な解釈で場を処理しないこと
今回の出来事が、あなたに新たな負担を与えてしまったことを心から申し訳なく思っております。今後は、自他の境界線への配慮と、言動の影響に対する理解を一層深め、同じ過ちを繰り返さないよう努めてまいります。
重ねて、このたびは大変申し訳ございませんでした。
なんで日本除くのか?
まず投資の基本なんだけど、自分の場合は「生活が破綻しないこと」。
大きく儲けて遊んで暮らすとかじゃない。
世の中が大変になっても、自分と家族が生きて行けるって事が一番にくる。
これをベースに話していくんだが、
この時、自分の働いている会社が潰れたり、収入が減ったりする可能性が高い。
これがダブルリスクということ。これを拒否するために、日本株式には投資しないわけだ。
では、逆の状況を考えてみる。日本経済がものすごく良くて日本株式が上昇し、インフレが起きるっていう状況。
日本経済がめちゃめちゃ良くなっても、賃金はそんなに上がらない。
日本経済が良くなる時、同時に世界経済も良くなる可能性が高い。こういう時には世界株式から利益が上がるので問題はない。
ただ、これが起きる可能性が非常に低いので、やはり日本株式に投資する必要はない。
景気が良すぎて、日本株がアホほど上昇してる時っていうのは自分の仕事だってまずまずうまくいく。
インフレに対する自分の給与の伸びはおそらく追いつかない。インフレにやや苦しむだろうが、おそらく生活はできるだろう。
ただ、これが成り立つのは45歳である俺とか、30歳である元増田の話。
もしも高齢者で働けないのなら、日本株にも少し入れといてもいいと思うよ。
でも、優秀な日本の年金が物価スライドっていう素晴らしい制度を用意しているし、日本株式にも投資してくれているからね。
個人で対応しなくても、国が最初から準備してくれてるんだ。すごいよね。
労働人口の減少と高齢化率の上昇は経済にとって圧倒的にマイナス。
移民受け入れも進んでおらず、将来的に労働人口の減少から日本経済は徐々に停滞する可能性が高い。
そもそも日本の経済成長に期待しにくいのだが、仮にものすごく経済成長した場合にはアメリカさんが文句言ってきて、日本経済を抑圧するからね。
実際にそれがあった。
1980年代にJapanasNo.1 な時代があったけれど、プラザ合意で円高。バブル崩壊。
これだって別にリーマンショックみたいなもんで。政府が適切に対処すりゃここまで傷は大きくならなかったと思うんだけど。土地バブルとか原野商法とか放置して現在までその傷が尾を引いてるわけだからね。親からの相続でよくわかんない北海道の山野とかが出てきて唖然とした人は結構いるんじゃない??
(参考:YouTube チャンネル 資産価値ゼロ 限界ニュータウン探訪記:)
1980年代後半、当時の公定歩合見ても、なんで日銀もっと早く利上げしなかったんだって本当イライラするよ。
今だって10月に利上げすべきだったと俺は思ってるんだが、まだ利上げしてないしね。
利上げをすれば多額の変動住宅ローン背負っている人とかが苦しむのはそうなんだけど、そういう失敗した人たちはある程度切り捨てていかないと、経済ってのは成長しないんだよ。
社会主義・弱者救済と経済成長とは両立しにくい。弱者切り捨てをしながら全力で経済成長に振り切った国家には経済成長で負けちゃうんだよね。
で、次に、日本のシルバー民主主義の話だが。日本は高齢者が多くて年金に頼って生活してる人が多い。
めちゃめちゃ株式が上がるときはインフレも起きるけど、年金生活者はインフレに耐えられないんで、インフレが起きないような政策的に揺り返しが起きる。
現在、高市政権でインフレが起きてるけど、高齢者から反発を食らって落ち着いてくると思いますね。
で、今書いたように政策的な部分でも日本っていうのは経済成長に全振りできない要素がある。
株が上がって経済成長したとしてもアメリカさんや高齢者さん達から物言いが入ってどこかでストップになる。
もう1つ、地政学的リスク。アメリカと中国の経済対立の最前線に立ってるっていうのもマイナス要因だよね。台湾有事とか。
安倍政権下でものすごい量的緩和をしてきたとか、日銀が日本株インデックスETF を相当買い入れて上がっているとかね。
たまに「日本は世界で最も成功した共産主義国家だ」なんて冗談も見ますが。あながち間違ってない。
理想的ポートフォリオみたいな話があって、時価総額通り均等に投資すればそれが一番良い。
リスク少なく大きなリターンを期待できるっていう理論があるけど、それって世界中の株式市場が理想的に運営されてる場合の話ね。
実際には各国に色んな規制があり、日銀による日本株ETF大量購入とかがあるわけで理想的な状況ではないのよ。
理想的ポートフォリオを達成するための理想的条件が現実世界には存在しないのよ。現実世界は理想からずれているわけ。
あとはテクニカルな面もある。
元の記事にも書いた通り、我々の年金っていうのは結構大きな部分が日本株に投資されている。
だから自己資金では日本株式を減らさないと理想的ポートフォリオからズレてしまう。
だから理想的ポートフォリオ追求しようとするならも、自分の年金額を考えて、日本株投資分を除いて投資しなきゃいけない。
やっぱり一定程度は日本株を除く投資をしなきゃいけないって話になる。
とはいえ、元記事も書いた通り、「日本株に含むか含まないか」っていうのは投資収益の大きな部分ではない。だから含んだって構わない。
これを書いたのは「日本株除く」に疑問が多く出ていたからで、別に「この投資が唯一絶対の正しい投資方針だ」なんて俺は思っていない。
自分がうまくいった方法だし、再現性高く、他の人も実践できると思っている。
だから、自分の妻の資金も子供たち(未成年)の資金もこの方針を運営していて、家族全体でも投資は成功している。
1000万円投資先が分からないニキのために書き、言葉足らずだった部分を補った。
> “日本経済がめちゃめちゃ良くなっても、賃金はそんなに上がらない。”いや、そこは上がれよ
このところ日本株式インデックスが過去最高値を更新していたね。
これが経済の仕組み。上がってほしいのはわかるが、昇給を勝ち取るのは大変だ。
>投資の原則である分散のために日本を除いた投資商品を持つのがセオリー(ただこの何年かは日本株は割安で買い時でしたね)
おおむね同意。
「この何年か」ではなくて、「30年ほど」だと思いますけど。いやいや、今となっては「ここ100年は」の間違いか。
でもねぇ、値動きが荒すぎて怖いよ。
>持ち株会にコツコツ積んでた父親の株式を相続して持ってるのが大きくて、これ以上は日本株は不要と考えてたから、旧NISAでは先進国株式が7割に新興国株式が3割くらいだった。新NISAは考えるの面倒でオルカン一本。
ええやん。
>拙者は…オルカン率高めな忍者だけど、日本を除いちゃうと銘柄選定に制限が出て最適なパフォーマンスが出ないのではと考えてるタイプの忍者。出口の瞬間も日本強ければ良し、弱ければ配分少ないから影響も少な(忍
そうでござるか。
それも1つの考え方でありましょうな。
>日本除くってのは自分自身が円資産だという考え。既に2~3億の円資産があるなら残りは海外で良いだろって考えだよ。
せやね
生涯年収を2億と仮定して、これが安定の円資産。だから海外中心に投資する方がバランスがとれるという意見ですね。
>持ち株会反対も同じで、自分が持ち株(ただし、弊社はファンドに買収されて株価10倍になって涙目)
そんなこともあるんだね。
でも自社株に fullbet なんてできないでしょ。
その儲けが100万なのか、1000万なのか知りませんが、長期投資で取り戻せる額だと思います。
そういうのって言い出したらきりがないよ。見逃してきた10倍株、100倍株。たくさんあるはず。iPhone を買う代わりにApple 株を買っておけばとか。Kindle 本を買う代わりにAmazon 株を買っておけばとかね。
仕事に精を出し、日々研鑽を積み重ね、投資は気にせず、じっくり豊かな人生を歩んでいきましょう!
そうだよ。それが安定を重視した場合の、基本の考え方。
会社が購入資金を補助してくれるなら話は変わってくる。その場合はリスク許容できる範囲で持ち株会に入るのがいいんでないかな。
持ち株が増えすぎてリスクが大きくなりすぎたら、持ち株分、自社を先物で売ってリスクヘッジすればいいんじゃない? ただ、リスクヘッジにもコストがかかるから状況によるよね。
>自分はリスク承知でS&P500を月5万継続中。20年後に答え合わせしようや増田よ。覚えてないだろうけど。というか、その時にははてなはもう存在してないだろうけど。
おれもSP500も持ってるよ。オルカンと大して変わんないよ。
>オルカンにおける日本の投資割合は所詮5%程度だからな。とはいえ世界第2位の投資比率だけどね。なお1位のアメリカは60%。
うむ。
そうそう。その通り。
俺は除くけど。
>日本で働いてる人は毎月日本円だけが増えてバランスを崩すから
そう。
んー・・・それは違うかな。
確かに価格的に為替リスクはない。だけど、日本の株式会社は海外にも事業を広げているので、間接的に為替の影響はあるよね。
>全体の成長は低いけど日経225の一部は成長が著しいこと。例えば2025年のS&P500のリターンは18%だが日経高配当50は30%。低リスク資産として分散するのは普通にありだと思う。
これは非常に危うい考え方。
日経225はリスク(上下の値動き)がかなり大きい。よく言われる通り、ファストリとか一部株式の比重が高すぎるんだよね。
「2025年のリターンは」って、1990年のリターンはどうでしたか?
長期投資をするなら、よかった1年だけを切り抜くべきではないよ。
日経高配当50については知らないけど、基本として高配当株はインカムゲインが高い分、キャピタルゲインが少なく、長期的には他の投資と大して変わらない。
投資のコツは価値のあるものを安く買うこと。値段が上がった後から買うのは、「それでもまだ安い」と思えるときだけ。
>まあ日本経済の調子はどっちみちACWIに反映されるんだけど、なんにせよ自分が納得するのが大事だね / ワイは何も考えず気絶するためオルカンにしたやで
せやね。
その通り
///////
自分の意見を言いたいだけのやつが増えてきたな、そいつらには答えない。求めてないアドバイスは迷惑って、教科書に書いてあったの読まなかった?
投資アドバイスはいらない。君ら人にアドバイスする暇があるんだったら、自分の人生頑張り!
海外に投資することを日本を捨てているとか。海外の発展のためにお金を使っているとか、誤解しているのかな? 違うよ。逆だよ。逆。
ちゃんと経済情報を読んでるやつならわかってると思うけど、今の日本の産業構造って昔とは変わっていて
バブル期までは工業製品を作って海外に輸出して儲けるっていう産業構造だったけど。
今は海外からの投資収益が多い。つまり俺のように海外の株とか会社に投資して、その儲けが日本に入ってきて、その代金で原油や天然ガス輸入するっていう、そういう産業構造に変わってきている。
だから「日本除く」で外国に投資するっていうのは「日本を捨ててる」わけじゃなくて、海外の投資の利益を日本に吸い上げてるんだよ。
「日本を除くなんていう日本人しか買わない投資商品笑」みたいな意見もあったけど、ヴァンガードの扱ってるアメリカ除いた商品、あれだって。アメリカ人しか買わんやろ。そりゃそうだよ。
俺はきちんと前提条件を示して、その前提のもとで自分の投資方針を書き、その投資方針を元増田にも薦めてる。
俺の意見に反発を覚えたのは、それはおそらく前提条件が違うんだろう。別にどっちが正しいとか言うんじゃなくて、何を有意にとっているか違ってるっていうこと。人はみんな違うから、前提条件もみんな違うのは当たり前。
単に反発するんじゃなくて、自分の考えを深掘りしてどういう前提条件を持っているのかを考えたら、自己理解も深まるんじゃないかな?
人工知能(AI)の急速な進化は、私たち人間に突きつけられた実存的な問いである。「計算能力において機械が人間を凌駕したとき、人間に残される価値とは何か」。この問いに対し、多くの議論は「創造性」や「直感」といった曖昧な領域に逃げ場を求めてきた。しかし、マックス・ベネット著『知性の未来』と、それを翻訳・解説した脳科学者・恩蔵絢子氏の洞察は、より生物学的かつ哲学的な深淵へと私たちを導く。
彼らが提示する結論は、逆説的である。「AI時代に人間が持つ最大の能力は、感情になる」。そして、「本当に頭が良い人とは、他者に興味を持てる人である」。
一見すると、これは道徳的なスローガンのように響くかもしれない。しかし、認知科学、進化生物学、現象学の知見を総動員してこの命題を解剖するとき、そこには「知性」という現象の構造的な転回が見えてくる。本稿では、二重過程理論、ユクスキュルの環世界、身体性認知、社会脳仮説、そして間主観性という5つの視座を補助線とし、AIが決して到達し得ない「知性」の本質と、これからの時代に求められる「知的な生き方」について論じる。
---
まず、私たちが「知性」と呼んできたものの正体を、ダニエル・カーネマンらが提唱した「二重過程理論」の枠組みで再考する必要がある。
伝統的な知能観において、知性とは「システム2(遅い思考、論理、計算)」の能力を指していた。複雑な数式を解き、論理的な推論を行い、未来を正確に予測する力である。現在のAI、特に大規模言語モデル(LLM)は、このシステム2の機能を極限まで外部化・高速化した存在と言える。彼らは感情を持たず、疲労を知らず、膨大なデータから論理的整合性を出力する。
しかし、ベネット氏が描く脳の進化史(5つのブレイクスルー)は、この「システム2至上主義」を根底から覆す。進化の歴史において、論理や言語といったシステム2の機能は、常にシステム1(速い思考、感情、直感)の要請によって開発されてきたからだ。
初期の生物(線虫など)は、「快・不快」という原始的なシステム1のみで生きていた。進化の過程で「予測」が必要になったとき(魚類)、予測誤差としての「失望」や「安堵」という感情が生まれた。さらに複雑なシミュレーション(マウス)が可能になったとき、反事実を嘆く「後悔」という感情が生まれた。
ここで重要なのは、「論理が感情を抑制するために進化した」のではなく、「感情をより細やかに処理し、生存確率を高めるために論理が進化した」という事実である。システム2は、システム1というエンジンの出力を最大化するためのトランスミッションに過ぎない。
AIの限界はここにある。AIには「エンジン(生存への渇望、快・不快、感情)」がない。あるのは精巧なトランスミッション(計算能力)だけだ。エンジンを持たない車が自律的にどこへも行けないように、感情という基盤を持たないAIは、自ら「問い」を発することも、「意味」を見出すこともできない。人間の知性の本質は、論理そのものではなく、論理を駆動し続ける「感情の熱量」にあるのだ。
---
なぜAIには感情が宿らないのか。その答えは「身体」の欠如にある。「身体性認知(EmbodiedCognition)」の視点は、知性が脳という密室の出来事ではなく、環境と相互作用する身体の中に宿ることを教えてくれる。
記事の中で恩蔵氏は、老いによる身体の変化を「老年でしか味わえない内的な経験」として肯定的に捉えている。これは非常に重要な示唆を含んでいる。
生物にとっての「意味(Sense)」は、身体的な脆弱性から生まれる。身体があるからこそ、空腹は「苦痛」となり、食事は「快」となる。皮膚があるからこそ、他者との接触は「温もり」となる。死ぬ定めの身体があるからこそ、時間は「有限」となり、焦燥や希望が生まれる。
AIが扱う情報は、どこまで行っても「記号」である。AIにとって「痛み」という単語は、辞書的な定義や統計的な関連語の集合体に過ぎない。しかし人間にとっての「痛み」は、回避すべき切実なリアリティである。この「切実さ(Stakes)」こそが、世界に色を塗り、価値判断の基準を作る。
身体性認知の視点に立てば、加齢による能力の低下は、単なる「劣化」ではない。それは身体というインターフェースの変化に伴う、世界との関わり方の「再構築」である。
若い頃の強靭な身体で見えていた世界と、老いて動きが緩慢になった身体で見える世界は異なる。その変化を受け入れ、新たな身体感覚を通じて世界を再解釈することは、高度な知性の営みである。AIは「劣化」しない代わりに、「成熟」もしない。身体の変化を通じて世界モデルを更新し続けるプロセスこそ、人間特有の知的な冒険なのである。
---
身体を持った生物は、それぞれの感覚器官が切り取った主観的な世界、すなわち「環世界(Umwelt)」の中に生きている。ユクスキュルが提唱したこの概念は、知性の進化を「孤独からの脱出劇」として描き出す。
ダニにとっての世界は「酪酸の匂い」と「温度」だけで構成されているように、すべての生物は自分の環世界というシャボン玉の中に閉じ込められている。本来、他者の環世界を知ることは不可能である。私はあなたの痛みそのものを感じることはできないし、あなたが見ている「赤」が私と同じ「赤」である保証もない。
この「絶対的な孤独」こそが、生物としての初期設定である。しかし、ベネット氏が指摘する第4、第5のブレイクスルー(メンタライジング、発話)において、人間はこの壁に挑み始めた。
「他者に興味を持つ」とは、自分の環世界という安全地帯から身を乗り出し、他者の環世界を覗き込もうとする無謀な試みである。「あの人は今、何を考えているのか?」「なぜ悲しい顔をしているのか?」。これは、自分の感覚データ(システム1)だけでは完結しない。高度な推論と想像力(システム2)を総動員して、見えない他者の内面をシミュレーションしなければならない。
恩蔵氏が「他者に興味を持つことは難しい」と述べるのは、これが認知的に極めて高コストな作業だからだ。自分の環世界(自分の話、自分の関心)に浸っている方が楽なのだ。しかし、あえてそのコストを支払い、他者の世界へ「越境」しようとする意志。それこそが、人間を人間たらしめている知性の正体である。AIには環世界がないため、そもそも「他者の世界」という概念自体が存在しない。
---
なぜ人間は、これほどまでにコストのかかる「他者理解」という能力を発達させたのか。ロビン・ダンバーの「社会脳仮説」は、それが「集団での生存」に不可欠だったからだと説明する。
自然界の脅威(猛獣や寒さ)に対処するだけなら、これほど巨大な脳は必要なかったかもしれない。しかし、人間にとって最大の環境要因は「他の人間」であった。誰が味方で、誰が裏切り者か。誰と協力すればより多くの食料が得られるか。
他者の心は、天候や物理法則よりも遥かに複雑で、予測不可能な「変数」である。この変数を読み解くために、脳は巨大化し、知性は進化した。記事にある「会話の70%は噂話」という事実は、私たちが情報の交換以上に、人間関係のメンテナンス(社会的グルーミング)に知能のリソースを割いていることを示している。
この文脈において、「頭が良い」という定義は劇的に変化する。それはIQテストのスコアが高いことでも、計算が速いことでもない。
真に知的な個体とは、「他者の意図を正確に読み取り、共感し、信頼関係を構築して、集団としてのパフォーマンスを最大化できる個体」である。
「他者に興味を持てる人」が頭が良いとされる理由は、単なる優しさではない。他者への関心は、複雑な社会マトリックスの中で生き残るための、最も強力なセンサーであり、武器だからだ。自分の殻に閉じこもることは、社会的動物としては「死」に等しい。他者への好奇心は、生命力そのものの発露と言える。
---
そして、知性の進化の到達点は、個人の脳内にも、個別の身体にも留まらない。「間主観性(Intersubjectivity)」の領域、すなわち「私とあなたの間」に生まれる知性である。
記事の中で触れられている「指差し」は、人間特有の驚くべき行動である。チンパンジーは報酬を得るために手を伸ばすが、人間の幼児は「見て!あそこに犬がいるよ!」と、ただ注意を共有するためだけに指を差す。
これは、「私が見ている世界を、あなたにも見てほしい」という強烈な欲求の表れである。ここで初めて、孤立していた二つの環世界が接続される。
言葉、文化、ルール、そして愛。これらはすべて、物理的な実体ではなく、私たちが共有することで初めて存在する「間主観的」な現実である。
AIは「客観的なデータ」を処理することはできる。しかし、「あなたと私の間だけで通じる冗談」や「阿吽の呼吸」、「信頼」といった、主観と主観の間で紡がれる現実を作り出すことはできない。
恩蔵氏が翻訳を通じて感じた「人間の宝」とは、この「心の共有」の可能性そのものであろう。私たちは、他者の心に触れることで、自分一人では決して到達できない豊かな世界(拡張された環世界)を生きることができる。知性とは、個人の所有物ではなく、関係性の中に宿る現象なのだ。
---
以上の分析から、AI時代における「知的な生き方」の輪郭が浮かび上がる。それは、AIに対抗して計算能力を磨くことでも、AIに仕事を奪われないように効率化を目指すことでもない。むしろ、AIが捨て去ったもの、あるいは持ち得ないものを、徹底的に深める生き方である。
AIは効率と最適化の権化である。対して、人間の知性の源泉は「感情」や「身体」といった、一見非効率なノイズの中にある。
知的な生き方とは、効率を追求するあまり、感情の揺らぎや身体の実感を切り捨てないことだ。迷い、後悔し、喜び、痛むこと。これらの「ノイズ」こそが、世界に意味を与え、独自の価値判断を生み出す土壌となる。
「本当に頭が良い人」になるためには、意識的に「他者への旅」に出る必要がある。
SNSのアルゴリズムは、私たちが心地よいと感じる情報だけを見せ、環世界をより狭く、強固なものにしてしまう(フィルターバブル)。知的な態度は、その快適な殻を破ることから始まる。
自分とは異なる意見、異なる背景、異なる身体性を持つ他者に対し、「なぜそう感じるのか?」と問いかけること。自分の正しさを一旦脇に置き、相手の環世界に身を浸すこと。この「認知的負荷」をあえて引き受ける勇気を持つことだ。
AIは「答え」を出すことにおいては人間を凌駕する。しかし、「問い」を立てることはできない。問いは、「こうありたい」「これはおかしい」という、身体的な違和感や理想(感情)から生まれるからだ。
また、AIはデータを羅列できるが、「物語」を生きることはできない。私たちは、他者との関わりの中で、それぞれの人生という物語を紡いでいる。
これからの知性とは、正解のない世界で、他者と共に悩み、対話し、新しい「納得解(間主観的な合意)」を形成していくプロセスそのものを指すようになるだろう。
マックス・ベネットと恩蔵絢子が示したのは、冷徹な計算機としての脳ではなく、熱を帯び、他者を求め、身体を通じて世界と震え合う臓器としての脳であった。
AI時代において、私たちは「賢さ」の定義を、ColdIntelligence(処理能力)から WarmIntelligence(共感と接続の能力) へとシフトさせなければならない。
老いて記憶力が衰えようとも、計算が遅くなろうとも、目の前の人の手の震えに気づき、その心に思いを馳せることができるなら、その人は最高に「知的」である。
他者の心という、宇宙で最も複雑で、不可解で、魅力的な謎に挑み続けること。その終わりのない探求こそが、機械には決して模倣できない、人間の知性の最後の聖域となるだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be7a5812ddaf607d08bb52f0663554ab39a9389c
50代のおっさんがふと思ったけど、マウントについて馬鹿にする気持ちがある一方で友人と率直に男同士のマウントについて、おもしろおかしく笑い合える状態にないなぁって。
つまり、俺自身も男友達の年収や地位、家族関係、嫁や女性関係などに執着していて、その本音を笑い話として話せない、という点で「人間ってマウントとかして愚かだよね」という、その馬鹿どもの真っ只中に自分が居るんだなって思った。
おまえらはどうよ?
例えばこんな話できる?
「最近マウントについて考えているんだけど、人間のマウントしたいという欲求についてどう思う?俺はおまえが一流企業の幹部になっている事には一切嫉妬とかしてないし、おまえも俺が失業中って事で優越感を感じたりしないわけじゃん?」
「おまえは嫁さんとは家庭内別居の代わりに20代の美人OLと不倫してて楽しいじゃん?俺は失職中だけど嫁と仲良いし、子供も俺になついている。でも俺はおまえの事をなんとも思わないし、おまえも俺の状況についてなんとも思わないでしょ?」
「でも、世の中には50代にもなって、まだこんなしょうもない事でマウントしてる奴らが居るんだって。なんか面白いよね」
みたいな。
なんでこういう話ができないか、というと自分が失業しているのに友人が仕事で成功しているのは、あまり良い気分はしないし、俺は嫁としかセックスできないのに、友人が15歳も年下の嫁が居るのに、更にもっと若い子ともセックスできているのも羨ましくて、どす黒い感情があるから。
あの可愛らしい奥さんにこっそりバラしてやろうかな、みたいな黒い冗談が頭を巡ったりするんよね。人として終わってるよね?もっとこう、老成したり達観したりしていたい。
女の人は、割とこういう話は平気で友達とできたりするもん?例えば自分の旦那の年収が300万円なのに親友の旦那の年収が2000万円とかだった場合など。
私は兄が嫌いだ。
幼少期、母に言ったことがある。
「私は兄が恥ずかしい」
母は私にこう言って泣いた。
「なんでそんなこと言うの」
私はその日以来、家で本音を話すことをやめた。
私はよく「悩みなさそう」だとか、「恵まれてるよね」だとか言われる。
実際、恵まれていると思う。
小中高大と私立に通わせてもらい、望んだ習い事は全てやらせてもらった。
大体のことにおいて成功してきたし、容姿も恵まれている方だとは思う。
性格もとんでもなく前向きで、嫌なことはすぐに忘れられる。幸せに生きることに適性がある。
何より私自身も「幸せそう」だと思われるように振る舞ってきた。
が、「悩みなさそう」「恵まれてるよね」と言われるたびに、
「悩みのない人間なんているわけがないのに、想像力のない奴だな」と思ってしまうのである。
私の兄は知的障害者だ。
兄に対してそこまでの興味関心がない。
しかし、一目見て「障がい者だ」とわかるくらいには障がい者だ。
昨今ADHDだとかASDだとかHSPだとかを自認するのが流行っている。
私の周りの人間も9割ADHDを自認している。これは盛っていない。
そういう人間を見るたび私は、
「本当の障害者でもないくせに、ファッションで障害者を名乗るな」とイライラしてしまう。
本当にそういった障害を抱えて本気で悩んでいる人には申し訳なく思う。
しかし、本当にADHDやらを自認している人間全員が、心から自分は発達障害だと声高らかに言えるのか?
何と言っても血のつながった兄が本物の障害者なのだから、私にも何らかの障害があってもおかしくはない。
が、兄を見ていると「私なんかが障害者を名乗ってはいけないな」と思ってしまう。
人並みの社会生活を送れて、人並みに友達がいて、そんな人間が障害者を名乗ってはいけない。
ここで言う人並みの人間とは、一見して“普通の人間”として社会に溶け込める人間のことである。
常ににやにやした笑顔を浮かべ、爪を噛み、くたくたのシャツを着るような、一目で障がい者とわかる人間ではない、“普通の人間”に擬態できる人間のことである。
ただの生きづらさを抱えた人間を、私は障がい者として認識はできない。
小さい頃から兄が嫌いだった。
勇気を出して、母親に「私は兄のことが恥ずかしい」と笑いながら吐露したことがある。
しかしそんな私に母は泣きながら「何でそんなこと言うの」と繰り返し繰り返し言い聞かせた。
涙を流す母を前に、私は何も言えなかった。
潔癖だった私は、爪を噛むことが癖の兄が触った場所を触るのが嫌だった。
私にとって家は、不潔な場所だった。
しかし、どうしても私は兄のことが好きになれなかった。
どうしても生理的に受け付けなかった。
何度も好きになろうとしたが、どうしても無理だった。
同じ空間にいるだけで不快感が腹の底から湧き上がってくるのだ。
両親は本当に立派な人だ。
まともなコミュニケーションが取れない兄を立派に育て上げ、兄はきちんと働いている。
この両親でなかったら、兄はここまでしっかりと育たなかっただろう。
兄がいなかったら、と。
私の反抗期はなかなか凄まじかった。
私立の学校に通っていたおかげで、所謂“グレる”ようなことはなかったが、
家の窓を割り、車を傷つけ、ヒステリックに泣き喚いていた。
今思うと、私にとって家は「安心できる場所」ではなかったのである。
兄が同じ空間にいるだけで不快感が押し寄せ、両親はそんな私の気持ちを汲み取らず、反抗期もない兄の味方をする。
まあ当たり前の話である。
私にとっては恥ずかしい兄でも、両親にとっては愛すべき一人息子なのだ。
しかし、兄がいなければ私は、もっと両親と仲良く本音を話せる仲になれたのではないか。
そう思わずにいられない。
両親は常に朗らかで、良い家庭を築こうとしている。
私だけが馴染めていないのだ。
兄がいるからだ。
兄の隣に立つのは恥ずかしい。
周りから変な目で見られている気がする。
私は子供を産むつもりがない。
兄が障害を持っているならば、私が産む子供も障害を持っている可能性が高いだろう。
無邪気に結婚し、子供が生まれたら〜と話す友人を見るたび、黒い気持ちが湧き上がる。
本当にあなたは、そこまでの覚悟を持って子供のことを考えているの?と。
両親は、私に「結婚は?」だとか、「良い人はいないの?」だとか聞いてくる。
何度「兄のせいで結婚する気になれない、両家顔合わせでどんな顔して兄を紹介すれば良いんだ」と言おうとしたかわからない。
しかし諦めている。
どうせまた「なんでそんなこと言うの」と泣かれるに決まっている。
まあありがたいことに、あまりにも幸せに生きる適性がありすぎて、結婚せずとも一人で幸せに生きていけそうである。
なんだかんだ言ったが、私は兄に不幸になって欲しくない。
幸せになってほしい。
はじめに。
内容はまったく肯定的でないです。
本文中、主語がざっくりしている箇所がありますが、この文章の目的上、「アニメ銀八を楽しめていない〇〇」であることを含みおき下さい。
楽しんでご覧になっている方や、銀八や銀魂が大好きで面白い面白くないは関係ないんだという方はご気分を害される内容のはずです。
自分自身の気持ちの整理や一感想として残しておくこと、また、同じように感じている方に届けばいいなと言う気持ちで書きました。
したがって、作文の程度は低いものですので、お目通しになる際は、可読性についてはご容赦ください。
よくある5段階評価を付けるなら、決して星2を超えない。
星1ではなく2なのは、声優さんの演技や製作の苦労といった、クリエイターへの“同情”から。
まるちばーす祭りもライビュを昼と夜の両方見に行ったり、銀八放映開始を本当に楽しみにしていた。
それがどうして低評価となったのか。
Xやレビューサイトで評判を調べれば、多くの人が次のように口を揃えている。
「テンポが悪い」
賛同する。
「ギャグが滑っている」
「銀魂本編のノリと違う」
これも確かに言える。
何故こんなふうに言われるのか。
まず、『銀八先生』シリーズの原作小説は空知先生ではなく、大崎知仁先生が著されている。
ギャグの雰囲気に違いを感じる人がいるのは、書いている人が異なるためもあろうと理解できるが、私が読んだのはシリーズの折り返しまでであるものの、原作小説も十分“楽しめる”内容とクオリティだった。空知先生も「(ノベライズの内容は)銀魂そのものだ。自分の代わりに大崎先生に書いてもらうことにする」と冗談めかしながらも太鼓判を押していたくらい。
元は普通の小説を書かれる作家さんであることは、銀八本文内の表現や言い回しに滲んでいる。だから、文体をあえてここまで落として、よくあのハチャメチャな作風を文字として表現できたなと、私は銀八原作小説を結構高く評価している。私が読んだのが半ばで止まっているのは、その“あえて落とされた文体”が個人的に合わず、読むのに大変な体力を使うからで、内容の退屈さからではない。
なので「原作小説からそもそも面白くなかった」という声は、この若年層向けの文体が合わなかったものではないかと推察している。こう言っているのは、高校生以上の読書慣れした人が多いのではないか。小中学生なら取っ付きやすくハードルの低い文体だと思う。
だから「ギャグが滑って」「面白みを感じない」のは、場面転換や時間経過表現、セリフとセリフの間の妙なテンポの悪さが寒々しいからではないだろうか。その寒い所へBGMのアシストもないので、笑わせるつもりのネタも響いていかない。そうして場がシラケるような気まずさを視聴者に与えるのだろうと思った。
では、何故テンポが悪いのか。
文字ベースの原作小説をアニメにすると恐らく尺がギュッとして足りなくなる。これを30分枠で一本の作りにしているため、間が持たずタラタラしてしまうのではないだろうか。
割り切ってAパートとBパートで分ける、クレしんのような形式にすればここまで間延びはしなかったのではないか。何話目か忘れたが、この構成の週は間延び感が緩和されて感じたので、的外れな発想ではないように思う。
さらに、原作小説そのままでは尺が足りないのであれば、元を削るようなことはせず、アニオリはその不足分を充填する要素として用いればいいのに、何故か原作小説の内容を削ってアニオリを入れてくる。これが面白いなら構わないが、面白くないから賛否別れるハメになっている。
複数のレビューで同様に見られた表現が「二次創作みたい」というもの。これには唸った。
例えば2話か3話のアバンで、銀八が生徒らが幼児化や獣化する白昼夢を見る。正直公式のアニメにそういう供給は求めてない。
見るのはオタクばかりじゃない。天下のWJの目玉漫画でギャグの人気が高いんだから、漫画が好きな普通の人たちも読んでいたしアニメも見ている。評判を調べていても「懐かしいと思って見てみた」という人も多い。
そうした需要の様相に対して、特定の、狭いニーズに向けたようにも感じられるショタ化ロリ化、ケモ化といったイロモノネタは面白くないどころか笑えないとさえ思える。
銀魂アニメのアニオリは、いい意味で、空知先生と同年代か少し上のおじさんたちが、おじさんホイホイやキワキワの下ネタでアニオリを突っ込んでくれていたので、作品との相性が良かった。しかし今回は監督も脚本も女性で、恐らくそうした方面への解像度が以前の上流工程陣ほど高まりにくいのではないだろうか。
銀魂アニメの監督さんたちは現在50代前後の男性で、彼らの子供時代にはまだ家庭科授業は女子だけというような区分があった。男女で見えるもの、培えるものに今よりも差があったことは想像しやすい。
加えて、キャラクターの扱いや動かし方といったものも雑だ。分かりやすいところだと高杉や土方。
頬をこけさせ好物を吸引する土方が、バケモノのように揶揄され、その姿をくどく使いまわしていたところや、ギャグを放とうとして滑り散らかす高杉というネタも、それしか弾がないかのように繰り返し繰り返しで、大変しつこかった。大抵の繰り返しネタは二回、内容や出来によっては三回程度なら繰り返していいが、この浅さで動かされるキャラクターネタを二度三度見せられるのは御免だと思った。
深夜放送とはいえ学園設定、学生ものであるゆえに、昨今のコンプラ意識の変容による縛りを余儀なくされ、表現の幅・深度に制約があることも考えられるが、どちらにせよ、アニオリ部分に面白みを感じられない。
「そういうのは二次創作でやる」というやつだと思う。公式なら、ちゃんとキャラを動かしてほしい。
従って、全体的に惜しさ、つまらなさ、退屈さ、以前のアニメとの差異を覚える流れは以下のセットだと推測。
音の乏しさ。テンポのもたつき。イマイチ乗らない視聴者の気持ち。シラけ、空回りした空気。キャラクターの掘り下げの甘いネタ。さらにシラケる視聴者の心。以下ループ。
声優さんの変わらない演技とプロ意識、及第的な作画で体面は保たれているが、原作小説の履修、未履修に関わらず、自然のうちに期待のハードルが上がっていたものが銀八アニメでは叶えられなかったということなのだと思う。ましてや、まるちばーす祭りなど、公式サイドが気流を上げまくっているのだから、期待値とともにハードルは上がって当然だ。
1話のアバンでも確かにこの事については触れていた。「渡されたバトンが重い」と。
でもね、と。
これについても言及したい。
プロが、クオリティの担保をできないことを、いくらやりたい放題ギャグ作品であろうと、「別物だと思って」と言い訳めいた建前を設けたことには、はっきり拒否感情を覚える。
確かにメタさは銀魂の醍醐味のひとつだ。けれど、これまでよくネタにされてきた、オマージュをやって色んな偉い人に怒られたというメタエピソードは、視聴者を楽しませるためにギリギリアウトのことまでした結果、BtoB的にはひんしゅくを買ったという話なのであり、今回のように、BtoCで十分な提供が出来ないことを言い訳がましく置き石するようなネタとは性質を全く異にする。例えば環境が整えられる状況でなかったとか、無理な予算や納期で進行していたという話はエンドユーザーには関係の無い話である。製作者らで談義したり解決すべき話なのであり、消費者をそれに巻き込まないでもらいたい。
ちなみに、銀魂アニメの時のような、外部のひんしゅくを招きかねないリスクを再びなぞってほしいと言っているのではない。あれらの話は、何度頭を丸めようが、額を床に擦りつけようが、立ち続けられたプロデューサー、その他製作の偉い方々の多大なる自己犠牲の上に成り立っていた。彼らが笑い話として盛り込んでいても、それはご本人の類い稀なる胆力、相手方や周囲の理解と協力によって我々に届けられていた。だから、また同じことをして笑わせろと要求している訳では無いことだけは、忘れずに言い置いておきたい。
山崎ががんばる話でした。地上波でもつい先日放送されたみたいですね。
作画も良くBGMもあり、アニオリでしたがお通ちゃんの新曲披露回とあってかなり手が込んでる印象でした。
親族の間では、結婚する前に女がいたんじゃないの?みたいに冗談で言ってるけど、
とてもそういうタイプではない、ので、社食とか、定食屋とか、あとはなんかパンでもかじって生きてたんだろうか…😟
エヴァの庵野氏も、一度パンツを穿いたら洗濯しないで、廃棄しないでなぜかゴミ袋に溜めていて、
部屋に汚れたパンツを溜めたゴミ袋がいっぱいある、みたいな話を安野氏の方が描いてたけど、
庵野氏は変色家で、サッポロポテトベジタブルと牛乳だった気がするんだけど、牛乳が良かったんじゃないかと思ってる…😟
サッポロポテトベジタブルは野菜です、は、アメリカ人にも通じるアレな考え方だけど、
牛乳は完全栄養食になりうる、ヴィーガンみたいな人たちはともかく、
子供の成長に動物性たんぱくは不可欠と私は考えるので、肉が食えない庵野氏を助けたのは牛乳であろう…😟
小学生のとき、ミルメークが好きだったし、追加で休んだやつの牛乳飲んでも平気だったのに、
なんの話だったっけ…😟
耳がない、透明なケースに入ったサンドイッチ用のパンは、母が良く買ってくるので知ってるけど、
今の自分は耳ありで最低価格帯のパンを狙うので、選択肢にはないですね…😟
まあ、自分もサンドイッチ用と言われたら、8枚切りだの、10枚切りだのみたいに薄いの選択すると思うけど、
それならそれで平謝りしてフレンチトーストにでもすると思う
おいイーロンマスク、どっかで高みの見物でもしてんのか?
どうなってんだよお前のプラットフォームは。
俺はな、どんなルールにも触れてない。誹謗中傷もしてねぇし、スパムもしてねぇし、ましてや政治扇動なんてしてねぇ。
ただ普通に使ってただけだ。それなのに突然アカウント凍結?お前のところで流行ってる凍結祭りに巻き込まれただと?冗談にしても雑すぎんだろ。
お前さ、世界の未来がどうとか、テクノロジーがどうとか、壮大な話をぶち上げるのは勝手だ。
だがな、肝心のSNS一つまともに安定運用できねぇのはどういう理屈だよ。
AIだの宇宙だの言ってる前に、まず利用者のアカウント一つルール通りに管理しろって話だわ。
俺みたいな一般ユーザーの存在は、そんなに軽いのか?透明化した存在扱いか?ログイン画面にすら行けねぇこっちの身にもなれよ。
しかも笑えるのは、「ルール違反の可能性があります」の一点張りで理由も説明しねぇってとこだ。
可能性?曖昧語で逃げてんじゃねぇよ。データも示さずにお前が悪いと言われて納得する人間がどこにいると思ってんだ。
お前の企業の売り文句は透明性じゃなかったのか?透明なのは説明じゃなくて責任のほうか?
この際ハッキリ言っとくが、俺は別にお前の信者でもアンチでもない。
ただ普通に使ってただけの、なんの問題も起こしてない一般ユーザーだ。
それを勝手に凍結して、説明もなし、復旧手続きも機械的で反応なし。
これで社会インフラ気取るとか、マジで笑わせるなよ。ユーザーを人として扱う気がねぇなら、せめて壊れてませんって面だけやめろ。
理不尽で意味不明な凍結をかけてくるなら、お前自身の運営方針のほうこそ見直したほうがいいんじゃねぇの?
怒りというより呆れだわ。
お前が見てるのか知らんがこの雑すぎる運用、いつまで続けるつもりだよ。
Pythonちょっと勉強してたし、将来はAIエンジニアとしてバリバリ活躍するんだって思ってた。
入社したのは普通のソフトウェア開発会社で、同僚はみんな優しい。
でも…みんなこう言うんだ。
……まあ信じたよ。当初はね。
で、ある日の昼休み。
同僚の一人がふと見せてきたん。
そこにあったのが、Flutterで作ったマルチプラットフォームアプリ。
バックエンドはFirebase Authentication + Firestore。
UIの状態管理はRiverpod。画面遷移制御はGoRouter。
「あーでもこれ遊びで作ってるだけだからw」
しかもスクリーンショット見たらCI/CDがGitHub Actionsで回ってんの。
別の同僚もほぼ同じ。
「休日は何してんの?」って聞いたら「普段ゲームばっかで何もしてないわw」とか言うわけ。
でも昼休憩にそいつモニターを見たらタブに開いてたのがStackOverflowとかRFC 6455だった。
冗談で勉強してんの?って聞いたら「趣味ですw」とか言うわけ。正直引いた。
更に驚いたのが勉強会の存在で、あいつらの「休日何もしてない」は嘘だってことが分かった。。
俺が「休日は何もしてないんでしょ?」って聞くと
「してないしてない、何も〜。あ、でもLT会と、Go言語の勉強会は毎週参加してるかなw」
とか普通に言ってくる。
は??何もしてないって言うのに土曜も日曜も、誰かの書いた技術書読んでんの?
もうこれさ……完全に別の生き物じゃん。