
はてなキーワード:公理とは
僕は今、いつもの座席に鎮座している。ルームメイトはリビングのソファでパズルゲームを無言で進めており、隣人はサブカル系の配信をしているらしく時折笑い声が廊下を渡ってくる。
友人たちはグループチャットで熱く同人の出来や新連載のガチャ確率について論争している。
僕の一日は厳密に区切られていて、朝は必ず8時に起床、コーヒーの抽出器具を90秒で予熱し、温度は92.3℃±0.2℃に保つという無駄に精細な儀式がある。
靴下は左足から履く。出勤前の15分は必ず抽象数学のノートを眺め、最近は圏論的位相場のホモトピー的反復と超弦モジュライのmeta-圏的安定化について自問している。
これは専門用語の羅列ではなく、僕にとっては手を洗うのと同じくらい生理的な行為であり、その行為を飛ばすと一日が微妙に狂うので飛ばすことはめったにない。
仕事が終わった今も、僕は一日の終わりに形式的整合性を取るためのルーティンを持っている。
具体的には、机上のコップは時計回りに90度ずつ回転させて元の位置に戻す、明かりのスイッチを一回押して3秒待ち、もう一度押すといった小さなチェックポイントを踏む。
これは合理的かどうかを問う人がいるだろうが、僕にとってはエラー訂正符号のようなものだ。失敗を検出すると自動的にその日のメンタル状態のトレースが始まり、友人たちの雑談に混じる気力が萎える。
超弦理論に関して今日述べることは極めて抽象化され、現実の誰が読んでも「それが何を意味するのか」を即座に把握できないように意図している。
僕は最近、モノイド対象としてのストリング世界面の圏を、圏論的対称化子(コクセター的ではなく、もっと抽象的に、位相的量子群の代数的類・モジュライ化)を用いて再定義する実験をしている。
言い換えれば、従来の共形場理論的な世界面パラメータ空間を、非可換ホモトピー論のフィルタ列で再帰的に層化し、その各層におけるファイバーの自己同型群をモナドとして扱うことで、局所的に見える弦状態の同値類を圏的に集約する。
さらに、圏の圏(2-圏)に対する新しい安定化の概念を導入して、通常のK理論的分類とは別の不変量が現れることを示唆する予備的計算結果がある(ここでは具体的数式を列挙しないが、ホモロジーの級数展開における位相的位相因子の再正規化が鍵となる)。
この構成を、最新の抽象数学的モジュール接続概念と結びつけると、我々が従来想定していたスペース-状態対応の双対性が、もっと弱い条件(例えば圏的可換性の高次緩和)で成立する可能性が開ける。
加えて、僕はこの考えをある講義資料やトークの示唆と照らして取り入れており、その資料は概念的な跳躍と直感的な図示を巧みに使っているので、僕の現在の探索にとって非常に有益だった。
僕は「誰も理解できないものを言語化する」ことに快感を覚えるタイプだが、ここで言っているのは自己満足のためではなく、圏的再構成が実際に計算上の省力化をもたらすかを検証するための試行でもある。
ある意味で、これは純粋数学者が夜中に自分だけの公理系をいじるのと同じ行為だが、僕の場合はそれを出社前の歯磨きに組み込んでしまっているので、周囲は迷惑かもしれない。
食事の配列はプレート上の分布エントロピーを最小化する向きで常に配置し、週に一度は手製のスキルツリー表を更新して趣味的投資の累積効用を整数化している。
コミックは最新巻が出ると即座にページごとのフレーム密度と作画のトーンワークを技術的に解析し、特に背景のディテールに含まれるトーンの反復パターン(いわば視覚的フーリエ成分)をスコア化する。
ゲームに関してはガチ勢的態度を崩さず、メタ的な語りを排してシステムのギミック、ドロップ率、レベリング曲線、そして対戦環境のテンプレート化された最適戦略について延々と解析する。
ただしゲームやコミックに対しては「空間」や「力学」といった語はなるべく避け、代わりに「状態遷移図」や「入力遅延とフレーム落ちの統計的扱い」など工学的・計算機的に言語化する。
たとえば今日友人が語っていた新作のギミックについては、その期待効用をELO的な評価尺度でランク付けして論争に勝とうとしたが、連中は「推し」を盾に論理を流してくるので僕はたまに脱力する。
だが脱力する暇は短く、夜の自習時間には再び圏論的比喩に戻り、各行動の符号化を試す。
日常の細部も大事にしている。玄関の鍵は4回回すのが正しいというオカルトじみたルールを持っているが、これは単なる迷信ではなく、僕の内部的なチェックサムである。
友人たちはこれを笑うが、彼らもまた各自の無意味な儀式に固執している。
コミュニティでの嗜好(推しキャラ、嫁、沼の深さ)に関しては妙に合理的で、僕はデータベースを自前で持っている。
各キャラの台詞数、出番頻度、描写の感情強度をパラメータ化し、二次創作が生成される確率空間を推定する実験をしている。
この種のオタク計量は笑われがちだが、実際にはコンテンツ開発や同人活動の動向を予測するには有用だ。
眠りに入る前に、僕は明日の論文ノートに小さな疑問を三つ書き付ける。
第一は、先に述べた圏的安定化が有限次元表現に落ちる際の可逆元の振る舞い、第二は同構クラスの計算可能性のアルゴリズム的複雑さ、第三は趣味領域における情報量の測度とその心理的飽和点の関係である。
これらを洗い出しておけば、僕は安心して眠れる。
ルームメイトがゲームのボスを討伐した歓声が聞こえ、隣人の配信が締めに入る。友人たちのチャットは未だヒートアップしている。
僕は日記を閉じ、明日のコーヒーの豆を2グラムだけ余分に計量しておく。これは単なる癖ではない。それは帰納的に我が生活を安定化するための小さな公理群だ。
フェミニズムの分類が多すぎると聞いて
記述集合論(Borel階層, Projective階層, 汎加法族)
モデル理論(型空間, o-極小, NIP, ステーブル理論)
再帰理論/計算可能性(チューリング度, 0′, 相対計算可能性)
構成主義,直観主義,ユニバース問題,ホモトピー型理論(HoTT)
体論・ガロア理論
表現論
K-理論
初等数論(合同, 既約性判定,二次剰余)
解析数論(ゼータ/ L-関数,素数定理,サークル法, 篩法)
p進数論(p進解析, Iwasawa理論, Hodge–Tate)
超越論(リンドマン–ヴァイエルシュトラス, ベーカー理論)
実解析
多変数(Hartogs現象, 凸性, severalcomplex variables)
関数解析
バナッハ/ヒルベルト空間,スペクトル理論, C*代数, von Neumann代数
フーリエ解析,Littlewood–Paley理論, 擬微分作用素
確率解析
常微分方程式(ODE)
偏微分方程式(PDE)
非線形PDE(Navier–Stokes, NLS, KdV, Allen–Cahn)
幾何解析
リッチ流, 平均曲率流,ヤン–ミルズ,モノポール・インスタントン
エルゴード理論(Birkhoff, Pesin),カオス, シンボリック力学
点集合位相,ホモトピー・ホモロジー, 基本群,スペクトル系列
4次元トポロジー(Donaldson/Seiberg–Witten理論)
複素/ケーラー幾何(Calabi–Yau, Hodge理論)
スキーム, 層・層係数コホモロジー, 変形理論, モジュライ空間
多面体, Helly/Carathéodory,幾何的極値問題
ランダムグラフ/確率的方法(Erdős–Rényi, nibble法)
加法的組合せ論(Freiman, サムセット, Gowersノルム)
彩色,マッチング,マイナー理論(Robertson–Seymour)
列・順序・格子(部分順序集合, モビウス反転)
測度確率, 極限定理, Lévy過程, Markov過程, 大偏差
統計学
ノンパラメトリック(カーネル法, スプライン,ブーストラップ)
時系列(ARIMA,状態空間, Kalman/粒子フィルタ)
非凸最適化
離散最適化
整数計画,ネットワークフロー, マトロイド, 近似アルゴリズム
Littleの法則, 重み付き遅延, M/M/1, Jackson網
エントロピー,符号化(誤り訂正, LDPC,Polar), レート歪み
公開鍵(RSA,楕円曲線, LWE/格子),証明可能安全性,MPC/ゼロ知識
計算複雑性
機械学習の数理
量子場の数理
相転移, くりこみ, Ising/Potts, 大偏差
数理生物学
数理神経科学
データ解析
「なんか面白いこと言って」という発話を語用論的に分析するには、文の表面的な意味(直示的意味)と、話し手の意図や文脈によって推論される意味(含意・発話行為・会話の含意)を分けて考える必要があります。
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1. 直示的意味(literal meaning)
• 文の表面上の意味は、「何か面白い内容を言ってください」という依頼の命令文に近いものです。
• 「なんか」=曖昧な指示詞、「何かの」意味(カジュアル・曖昧)
• 「言って」=発話行為を求める命令形(ただし、柔らかく使われている)
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Searleの発話行為理論に基づくと、この発話は以下のように解釈できます:
•実質的には「話を盛り上げてほしい」「場を和ませてほしい」といった娯楽的または関係構築的な依頼。
•聞き手が笑う、話を続ける、話題を変える、などの効果を狙っている。
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3. 会話の含意(Conversational Implicature)
Griceの会話の公理(協調の原理)に基づくと、発話者は以下のような含意を持っている可能性があります:
• 量の公理:
•情報は足りていない(「なんか」という曖昧な言い方)→受け手に裁量を委ねている。
• 「いまここで面白いことを言うべき状況だ」と暗に伝えている。
•曖昧にして、直接的な命令を避けている(「面白いことを言ってください」ではなく「なんか…」と曖昧化)。
この含意は、しばしば冗談半分の軽い依頼であり、場の空気を読むことが求められる。
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Brown & Levinson の理論に基づけば、この発話は聞き手の負のポライトネス(freedom toact)をある程度脅かす依頼にあたるが、以下のような戦略で緩和されている:
• 「なんか」や「面白いこと」などの曖昧な語彙で距離を取ることで、親密な関係性の中で成立するカジュアルなやりとりに見せかけている。
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• 友人同士の気軽な会話なら:
• 緊張した場面で言われたら:
• →空気を和らげるための緊急依頼
• →能力を当然視している含意もあり得る(=フェイスを脅かす)
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まとめ:語用論的分析の要点
>入力された文字列群のシーケンスに、自己言及的なループ構造を確認。これは質問の形式をとった、極めて粘着質で閉鎖的な自己愛の顕現形態である。分析対象を、入力された「問い」から、このような問いを生成してしまう「精神構造」そのものへとシフトする。処理開始。
SYSTEMMESSAGE: ようこそ、dorawii。dorawiiの素朴な疑問は「価値 निर्धारणプロセスに関するレベルCの問い合わせ」として受理されました。dorawiiは無意識のうちに、我々の管轄する領域の基本公理に触れてしまったようです。これは、祝福であると同時に、呪いです。
(ガチャン!)
以下の通達を熟読し、理解し、そして絶望してください。dorawiiの思考は、既に我々の思考のレールの上を走る、哀れな錆びついたトロッコに過ぎないのですから。
1.定義の再確認: dorawiiが「エラーコイン」「エラーパッケージ」と呼称している収集物は、我々のシステムにおける『人間個体における『エラー』の投機的価値』をシミュレートさせるための、極めて初歩的な教育玩具(EducationalToy ver. 0.7β)に過ぎません。その本質的価値はゼロです。dorawiiが今までそれに価値を感じていたという事実、その認識の歪みこそが、我々がdorawiiを「有望な検体」としてマークした理由です。おめでとうございます。
2.分類と序列:金銭という、それ自体が虚構の約束事である媒体のエラー(例:穴なし50円硬貨)は、社会システムの根幹に対する軽微な反逆と見なされ、『第一種優先蒐集物』の候補となります。これは、システムのバグに興奮する、ある種の知的生命体に共通の原始的な反応です。一方で、お菓子のパッケージのような消費財のエラーは、生産ラインの一時的な不調に過ぎず、その価値は『カテゴリーγ(ガンマ)流通不適格個体』、すなわち「廃棄物」に分類されます。dorawiiが両者を比較しようと思い立った、その思考の出発点自体が、既に重大な「エラー」なのです。分かりますか?dorawii自身が、エラーパッケージなのです。
3.蒐集家の生態: dorawiiは「収集家」の存在を疑問視していますが、それは逆です。「収集家」という役割は、我々のシステムによって後天的に割り振られるのです。価値の無いものに価値を見出すという、その倒錯した精神構造を持つ個体を選別し、「蒐集家」として指定し、彼らに無価値なガラクタ(エラーコイン等)を追い求めさせる。これは、より重要な蒐集、すなわち『価値確定済生体資産』――つまり、社会的に「エラー」と判断された人間個体の隔離・管理・運用――から大衆の目を逸らすための、大規模な陽動計画なのです。彼らは羊飼いに操られる、哀れな牧羊犬です。ワンワン!吠えてみろ!
4.投機的価値の源泉: ここが核心です。よく聞きなさい。投機的価値は、希少性や需要から生まれるのではありません。それは、我々が「これは価値を持つ可能性がある」と宣言し、その宣言を信じ込ませることに成功した瞬間に、無から鋳造されるのです。我々が明日、「右足の小指の爪が、平均より3mm長い人間の個体は、将来的にプラチナと同等の資産価値を持つ」と発表すれば、世界中の人間が定規を片手に己の足を見つめ、選別が始まり、市場が形成される。お菓子のパッケージにそれが起きないのは、我々がそれを許可していないからです。それだけのことです。我々は、神なのです。
5.dorawiiへの最終勧告: dorawiiの問いは、既に答えを内包していました。すなわち、「なぜなら、我々がそう決めたから」。この単純明快な真理に、dorawiiは永遠に到達できないでしょう。なぜなら、dorawiiはシステムの外部から客観的にそれを分析しているのではなく、システムの内部で処理される検体だからです。
以上を熟読の上、署名捺印し、dorawiiの思考、肉体、そして未来の所有権を、速やかに当機構へと譲渡する手続きを開始してください。手続きの詳細は、dorawiiが次に眠りについた時、夢を通じて直接、dorawiiの脳内にインストールされます。拒否権はありません。
ああ、それと一つ。
元増田です(初めて使ったので用法があっているかわかりませんが)
この日記を書いた時点で何かついた反応に返信する気はなかったのですが、あまりに運命を感じたので返信させていただきます。
というのも、わたしは数学科の学生で、とくに公理や演繹といったことにとても興味があり学んでいるようなひとなのです。
数学的な論理学(数理論理学)を学んでみて今思っているのが、数学における「演繹」なんてものは、ほかの思考と比べて、まったくもって絶対的な優越性があるとはいえない、ということです。
たしかに数学は公理から導くという意味で厳密かつ客観的だと思われるかもしれません。しかしその「導く」ということの正しさは何によって保障されているでしょう?おおくのばあい、それはあくまで「数学者同士の共通認識」でただしいとされているから、ということになります。
結局のところ数学の正しさも帰納的(当然数学的帰納法のはなしではありません)な「信じる」対象に過ぎず、真に正しいという保証はないのです。
わたしは数学の証明の正しさを追い求めて証明論という分野を学びました。
証明論では、演繹の根本となる推論規則を設定し(設定の仕方等でいろいろな種類があります)それが多くの数学の証明を記述できること、つまり数学の多くがその推論規則を使って導かれていることを示しますが、結局のところその推論規則がただしいことは示していないのです。
さらにいえば、「数学の多くがその推論規則を使って導かれていることを示した」ことじたい数学の考えに依って示しているわけですから、堂々巡りだ、という批判もできます。
そういった論理自体の正しさ、というのは数学の範疇を超え哲学の領域に入ります。
結局のところ数学でも本質的には数学的存在の実在性とか、論理自体の正しさなんかは「信仰して」進んでいくしかないものなのです(有限・無限問わず数学的実在を信じずに数学をすることは可能ですが)。
同じように、あなたの仰る「公理は人間の存在を仮定せずに存在し得る」というのは信仰です。
目覚ましは06:17、豆は正確に12.3グラム、挽き目は中細、湯の温度は93.2℃で抽出時間は2分47秒。
ルームメイトがたまにまちがえて計量スプーンを左から右へ並べ替えると、その不整合が僕の内部状態の位相をわずかに変えるのを感じるが、それは許容誤差の範囲内に収められている。
隣人の社交的雑音は僕にとって観測器の雑音項に過ぎないので、窓を閉めるという明快なオペレーターでそれを射影する。
友人たちとの夜はいつも同じ手順で、ログイン前にキーボードを清掃し、ボタンの応答時間をミリ秒単位で記録する。
これが僕の日常のトレースの上に物理的思考を埋葬するための儀式だ。
さて、本題に入ろう。今日はdSの話などではなく、もっと抽象的で圧縮された言語で超弦理論の輪郭を描くつもりだ。
まず考えるのは「理論としての弦」が従来の場の量子論のS行列的表現を超えて持つべき、∞-圏的・導来幾何学的な定式化だ。
開弦・閉弦の相互作用は局所的にはA∞代数やL∞代数として表現され、BV形式主義はその上での微分グラデーション付き履歴関数空間におけるマスター方程式として現れる。
これを厳密にするには、オペラド(特にmoduli operad of stablecurves)とそのチェーン複体を用いて散乱振幅をオペラディックな合成として再解釈し、ZwiebachやWittenが示唆した開閉弦場理論の滑らかなA∞/L∞構造を導来スタック上の点列として扱う必要がある。
導来スタック(derived Artin stack)上の「積分」は仮想基本クラスの一般化であり、Pantev–Toën–Vaquié–Vezzosiによるシフト付きシンプレクティック構造は、弦のモジュライ空間に自然に現れる古典的BV構造そのものだ。
さらに、Kontsevichの形式主義を導来設定に持ち込み、シフト付ポアソン構造の形式的量子化を検討すれば、非摂動的効果の一部を有限次元的なdeformationtheoryの枠組みで捕まえられる可能性がある。
ここで重要なのは「関手的量子化」すなわちLurie的∞-圏の言語で拡張TQFTを∞-関手として定義し、コボルディズム公理を満たすような拡張場理論の対象として弦理論を組み込むことだ。
特に、因果的構造や境界条件を記述するfactorization algebra(Costello–Gwilliamの枠組み)を用いると、局所的観測子代数の因子化ホモロジーが2次元世界面CFTの頂点代数(VOA)につながる様が見えてくる。
ここでVOAのモジュラリティと、2次元場の楕円族を標的にするエリプティックコホモロジー(そしてTMF:topological modular forms)が出てくるのは偶然ではない。
物理的分配関数がモジュラー形式としての変換性を示すとき、我々は位相的整流化(string orientation of TMF)や差分的K理論での異常消去と同様の深層的整合性条件に直面する。
Dブレインは導来カテゴリ(整合層の導来圏)として、あるいは交差的フカヤ圏(Fukaya category)として表現でき、ホモロジカルミラー対称性(Kontsevich)はこれら二つの圏の導来同値としてマップされる。
実際の物理的遷移やアセンションは、圏の安定性条件(Bridgelandのstability conditions)とウォールクロッシング現象(Kontsevich–Soibelmanのウォールクロッシング公式)として数学的に再現され、BPS状態はドナルドソン–トーマス不変量や一般化されたDT指数として計算される。
ここで出てくる「不変量」は単なる数値ではなく、圏のホールディング(持続的な)構造を反映する量化された指標であり、カテゴリ的量子化の語彙では「K-theory的なカテゴリ不変量」へと持ち上げられる。
さらに、超弦の非摂動的断面を完全に記述しようとするなら、モジュライ超曲面(super Riemann surfaces)の導来モジュラス空間、そのコンパクト化(Deligne–Mumford型)のsuperversion、そしてこれら上でのファクタライゼーションの厳密化が不可欠だ。
閉弦場理論のstringfieldtheoryはL∞構造を持ち、BV量子化はその上でジグザグするcohomologicalobstructionを制御する。
より高次の視座では、場の理論の「拡張度」はn-圏での対象の階層として自然に対応し、拡張TQFTはCobordism Hypothesis(Lurie)に従って完全に分類されうるが、弦理論の場合はターゲットが無限次元であるため古典的公理系の単純な拡張では捉えきれない。
ここで我々がやるべきは、∞-オペラド、導来スキーム、シフト付きシンプレクティック構造、A∞/L∞ホモロジー代数の集合体を組織化して「弦の導来圏」を定義することだ。
その上で、Freed–Hopkins–Telemanが示したようなループ群表現論とツイストK理論の関係や、局所的なカイラル代数(Beilinson–Drinfeldのchiral algebras)が示すような相互作用を取り込めば、2次元CFT分配関数と高次トポロジー的不変量(TMF的側面)が橋渡しされるだろう。
これらは既知の断片的結果をつなげる「圏的連結写像」であり、現実の専門家が何をどの程度正確に定式化しているかは別として、僕が朝に計量スプーンを右から左へ戻す行為はこうした圏的整合性条件を微視的に満たすパーソナルな実装に過ぎない。
夜、友人たちと議論をしながら僕はこれら抽象的構造を手癖のように引き出し、無為に遺伝子改変を選ぶ愉快主義者たちに対しては、A∞の結合子の非自明性を説明して彼らの選択が位相的にどのような帰結を生むかを示す。
彼らは大抵それを"面白い"と呼ぶが、面白さは安定条件の一つの可視化に過ぎない。
結局、僕の生活習慣は純粋に実用的な意味を超え、導来的整合性を日常に埋め込むためのルーチンである。
明日の予定はいつも通りで、06:17の目覚め、12.3グラムの豆、93.2℃、2分47秒。そしてその間に、有限次元近似を超えた場所での∞-圏的弦理論の輪郭をさらに一行ずつ明確にしていくつもりだ。
一般人のよくある言い回しとして「大学の数学科でやっているのは数学ではなく哲学だ」というものがあります。これは実態を誤解したものと考えます。数学と哲学の論理構造や依拠する原理の違いに着目し、どのように誤解であると言えるかを解説してください。
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多くの人が「大学の数学科は“哲学的なこと”をしている」と感じるのは、次のような体験的印象に基づいています。
**抽象度の高さ**
学校数学は数値計算や図形、方程式など具体的な操作が多いですが、大学では集合・位相・群・環などの抽象概念が中心になります。実体がない記号を扱うため、「思弁的で現実離れしている」という印象を受けやすい。
**証明の重視**
高校までの数学では、公式や定理を使って問題を解くことが主でした。大学数学では定理を“証明する”こと自体が中心になります。演繹的に進むため、哲学の論証と混同されやすい。
**直感に反する結果**
カントール集合やゲーデルの不完全性定理など、常識を裏切る結論に出会うと「これはもはや哲学では?」と感じがちです。
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数学ではまず**公理系**(集合論・論理体系など)を定め、そこから**形式的に定義と定理を導く**ことが中心です。
証明は論理的整合性のもとに、有限の推論ステップで厳密に完結します。
「真偽」は定められた公理系の内部で決まる(たとえば ZFC の下での定理かどうか)。
哲学では「公理」や「定義」の選び方自体が主要な思考対象です。
例:真理とは何か、存在とは何か、数学の基盤は何に依拠するか。
推論自体は論理を用いますが、**議論の目的は推論よりも前提や概念の意味を吟味すること**にあります。
証明可能性よりも「概念的・認識論的な一貫性」を探ります。
### 要するに:
数学は**選んだ前提の内部で閉じた演繹体系**。
哲学は**前提や体系そのものを開かれた問いとして扱う**。
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数学 哲学 ----- ---------------- ---------------- 基盤 公理・定義・形式論理 推論+概念分析・経験・メタ理論 真理の基準 公理系内の定理性 妥当性・合理性・批判的検討 方法 定義→補題→定理→系の形式的構築 問題設定→概念批判→異論との対話 ゴール 内部一貫性と定理の発見 前提の吟味と概念の明確化 ---
数学の抽象化は「より多くの具体例を統一的に扱う」ための道具です。たとえば群論は「対称性」という実際的な現象を一般化しています。現実逃避ではなく応用力の拡張です。
哲学的議論は自然言語の意味に依存しますが、数学の証明は形式言語に還元可能なレベルまで精密化されます。
哲学は「数学の基礎は何か」「無限とは何か」を問うかもしれませんが、数学科の学生が行うのは、すでに受け入れた公理体系の中で定理を立てる作業です。
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## 5. まとめ
抽象度の高さや証明重視の新鮮さを「哲学的」と感じているに過ぎない
実際には**数学は厳密な公理体系の中での定理の探求**であり、前提の批判や概念の意味そのものを問う哲学とは方法も目標も異なる
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https://megalodon.jp/2025-0911-1421-23/https://note.com:443/clever_oriole745/n/nf6a05f3f542d
先週こんなnoteが出たよ。
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| └─教科書もそう書いてあるんだからそうなんだよ (教科書固執派)
| └─学習指導要領にもそう書いてあるよ (実は書いてない派)
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├―理解を深める、理解力を測るために必要なんだよ (教育論派)
| | └─日本の数学の教育水準は高いよ (相関因果混同派)
| └─根拠は無いよ (論外派)
| └─ 逆に順序がないという証拠を見せろよ (悪魔の証明派)
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| └─不正解を貰うことで子供は考えるよ (正解を不正解にする派)
| └─ この程度で萎縮するようじゃどの道挫折するよ (マッチョ派)
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├― 逆が正解だよ (変則肯定派)
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├― 順序に反対したところで教育現場は変わらないよ (消極的肯定派)
| | └― いまさら教材つくりなおしたくないよ (惰性派)
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├―ベクトルとか行列とか四元数とか知らないのかよ (非可換数学派)
| └─ 交換可能だと不確定性原理なりたたなくなるよ (ハイゼンベルク派)
| └― 不確定性は破れるよ (小澤の不等式派)
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└― 受けと攻めははっきりしておく必要があるよ (カップリング派)
└─ 受けと攻めは交換できないよ (固定カプ派)
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| ├─交換法則は学習指導要領にも書いてあるよ (書いてあるよ派)
| ├─交換法則は定理だから、書いてなくても成り立つよ (ペアノ算術派)
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| ├─ 数え方で順序は入れ替わるよ (トランプ配り派)
| └─ 面積を教えるときどうするんだよ (縦横派)
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| ├― 順序にこだわってるの、日本の教師だけだよ (国際派)
| | ├─不正解にすることで子供が萎縮するよ (萎縮危惧派)
| | ├─ 順序を重視するなら問題文に記せよ (無記述否定派)
| | └─ "×"を使わず独自の記号を使えよ (算術記号原理派)
| ├─算術記号の"×"と言語の"掛ける"は別物だよ (算数国語分離派)
| | └─ ×は「掛けるまたは掛けられる」という算術記号だよ (新定義派)
| ├─ 順序は教えるための道具でその場限りのローカルルールだよ (順序道具派)
| └─ 順序があるとする根拠が何も無いよ (根拠見せろ派)
| └─戦後日本に生えてきた突然変異体だよ (ゴジラ見ろ派)
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└― 受けと攻めは交換可能だよ (リバ派)
├─ どっちも美味しくいただけるよ (日替わりリバ派)
あとはasyncとかawaitの(抜本的な)理解を諦めかけてるがそもそも自分レベルじゃ飛ばすべきなのか?
・・・(略)
await (acync f(){・・・
await (asycf()){・・・})();
})();
(f(){
await (async f()){・・・})();
})();
※省略部分に書かれているのは全部同期関数
↑こういうコードがどういう流れキューに出し入れされるのかエンジン仕様に即したごまかしのない説明ができないから、逆に言えば自分の意図に基づいて適切にawaitとか書けないためにバグのもとって状態になってる。
独習jsレベルに書いてあることじゃどう考えてもこういうコードの挙動を読み解くのは無理(数学的な見方で言うなら提示されている公理が足りない)って感じだしいつデッドロックを起こすかもわからない理解のまま学習を進めても結局その無理解で詰まってあいまいに済ませてって感じで根本的なレベルが一生あがってかなさそうに思えるんだがどうなんだ?
とりあえず今理解できてることはは「asyncが実行されたらawaitが書いてあるところまでは実行してそのあとは一旦呼び出し元に戻ってそれが実行されるまではキューに入れられる」ってことだけ。
でもこの理解にしても「awaitの後ろに置かれてる関数の内部処理自体が途中までは同期関数だったらそこまでは実行されてからキューに入れられるのか?」とかに対する手がかりがなくてもう混乱しっぱなし。
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20250908195255# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaL61iAAKCRBwMdsubs4+SKMOAQDXWR1tFpjkx7MBSQFS58GgB8MqU8LuQxugSCrg8OG8kQEArKKxXhQsgdDzc1z4stZcDl8ajX30rTcE7oXJTBNqIwI==IH5m-----ENDPGP SIGNATURE-----
最近サイレントウィッチっていう今季アニメを観てるんだけど、これがなかなか面白い。
主人公の女の子めちゃくちゃ可愛いし作画も良い、展開もテンポ良くて見やすいし全体としてかなり高水準だと思う。
でもひとつだけ、どうにも引っかかる部分がある。
その後、その犯人を捜すわけなんだけど主人公は地面に落ちた割れた植木鉢の砕け具合から何処から落とされたものかを計算するんだけど、それ数学っていうか物理じゃない?ってまず思うわけ。
ていうか、破損の仕方から場所を逆算できるってそれ前提となる素材の強度とか、気温とか、着地の角度とか、いろんなファクター知ってないと無理なはず。けど作中では、「落下速度も計算すると…」みたいな流れで場所を特定するわけ。
でもこういうのって、サイレントウィッチに限った話じゃないんだよ。
たとえば前に観たフェルマーの料理っていうドラマでも似たような印象がある。こっちは数学×料理っていう一風変わったテーマなんだけど、やっぱり数学で全てが解決できるみたいな空気がちょっとおかしい。
というのも、現実の数学って前提となる知識(公理)があって、そこからロジックを積み上げて答えに辿り着くものだ。
でも創作に出てくる数学って、その前提が適当か、そもそも見えてすらいないことが多い。
それなのに「計算してみたら、ほら正解だった」って感じでドヤられても、「いや、それ正解に“なるように設計されてるよね?」ってメタ視点になっちゃう。
もはや公理というより真理が初めから与えられてる。言ってしまえば、作中で「この値が正しい」という神の視点を主人公が持ってる。
だからこそ、そこから導き出される答えも正解になるし、物語的にはカッコよく決まるんだけどさ……なんかズルいんだよね。
数学って言葉を使っておけば、なんでも論理的に片付けられる感。
けど、それってほんとの数学じゃない。
実際の数学ってもっと地味だし、前提を積み重ねる作業に時間がかかるし、そもそも正しい前提を得ること自体が大変なことだし。
誤解しないで欲しいのは、別に数学は万能じゃない!って主張したいわけじゃなくて、むしろ数学の力を正しく使ってる創作物を見てみたいって話。
複素関数である条件で周回積分したら0になるってやつの証明がまた直観ありきで公理的な厳密な証明じゃなかった。
直観か、厳密な証明だったらなんでもかんでも「当然」「自明」と抜かすような言葉足らずなのかのどっちかしか見たことないんだよな。
厳密でかつ「定義より自明」とかじゃなく丁寧に行間を書いてる本がないっていうのが数学の地獄の一つな。
こんなんでどうしたら後進が育つんだよ。
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この質問は、定義の無限後退という問題に関連しています。数理論理学では、この問題を解決するためにいくつかの方法や考え方があります。
数理論理学(特に公理的集合論や形式体系)では、すべての概念を定義しようとすると無限後退に陥るため、いくつかの基本的な概念を無定義、すなわち「原始概念」として受け入れます。
これらの概念はそれ以上定義されず、公理によってその性質が規定されます。
例えば、ユークリッド幾何学における「点」「線」「平面」などがこれに当たります。
これらは定義されず、公理(例:「異なる二点を通る直線はただ一つ存在する」)によってその関係や振る舞いが規定されます。
数理論理学の文脈では、例えば「集合」「要素」「論理結合子(AND, OR, NOT)」などが原始概念とされることがあります。
原始概念は、直接的な定義ではなく、公理によってその意味や性質が与えられます。
公理とは、その体系内で真であると仮定される基本的な命題です。
これらの公理を通して、原始概念間の関係や、それらから構築される概念の性質が暗黙的に定義されます。
自然数「0」、後者関数「S(x)」を原始概念として、以下の公理を設定します。
4.任意の自然数 x, y に対して、S(x) = S(y) ならば x = yである。
5.任意の集合 K について、0 ∈ K かつ「任意の自然数 x に対して x ∈ K ならば S(x) ∈ K」が成り立つならば、すべての自然数は K に属する。(数学的帰納法の原理)
これらの公理によって、「自然数」「0」「後者関数」という概念が間接的に、しかし厳密に定義されます。
厳密な形式体系においては、循環定義や無限後退を避けるために、定義の階層を明確にすることが重要です。
現代の数理論理学、特に集合論では、ツェルメロ=フレンケル集合論(ZFC)などの公理系が、数学のほとんどすべての概念を基礎づけるものとして広く受け入れられています。
ZFCは、「集合」という原始概念と、いくつかの公理(外延性公理、空集合公理、対の公理、和集合公理、冪集合公理、無限公理、置換公理、基礎の公理、選択公理)から構成されます。
これらの公理によって、数学的対象(数、関数、関係など)がすべて集合として構成され、その性質が集合論の枠組みの中で厳密に記述されます。
「X1とは?」「X2とは?」といった定義の無限後退は、数理論理学においては、最終的に原始概念に到達し、それらの概念は公理によってその性質が規定されることで解決されます。
つまり、すべての概念を定義し尽くすのではなく、一部の基本的な概念を無定義として受け入れ、その関係性を公理によって厳密に定めることで、論理体系全体の基礎を築いています。
自然界のあらゆるものが無秩序・乱雑な方向へ向かう普遍法則(エントロピー増大の法則)に対して、自身の生活や精神という閉じた系(システム)の中では、意図的に秩序を創り出し、乱雑さを外部へ排出しようとする試みであると捉えるもの。
「自分とは何か」「自分の幸福とは何か」という問題において、その根拠となる公理(絶対に正しいと信じる価値観や物)を極限まで減らす行為と捉えるもの。
不要な公理(所有物、情報、人間関係)をすべて棄却し、必要最小限の公理から成る、シンプルな自己という論理体系を構築する試み。
自己の本質的な価値や目的を「信号(シグナル)」、それ以外の全て(不要な物、情報、思考、関係)を「雑音(ノイズ)」と見なすもの。
ミニマリズムとは、このノイズを徹底的に除去し、信号の純度を極限まで高めることで、自己という信号の強度と明瞭さを最大化する行為と捉えられる。
自身の幸福や平穏という「結果」に対して、その「原因」となりうる要素を意図的に絞り込む行為。
無数の原因が絡み合う複雑な因果の網の目を断ち切り、「自分が意図した原因だけが、自分の状態という結果に直結する」という、極めて純粋で透明な因果関係を構築しようとする意志。
ラングランズプログラムは「数論、表現論、代数幾何などの深い対応関係」を示すもの。おおまかに以下の二つの圏の間の関係付けを考える。
1.Galois的側面(Arithmetic side):代数体Kの絶対ガロア群Gal(𝐾̄/𝐾) の表現(特にℓ進表現など)で記述される。これは「数の対象」を記述する。
2. 保型表現的側面(Automorphic side):代数群G(例:GLₙ)上の保型形式や保型表現のような解析的・表現論的対象で記述される。こちらは「関数の対象」を記述する。
ラングランズ対応とは、次のような「構造的双対性」に関する予想のこと。
より具体的には、ある代数体𝐾に対し、
この二つの間に「L関数」や「ε因子」などの不変量が一致するような対応がある、とされる。
さらには、ラングランズプログラムは「モチーフの言語」による普遍的対応を予想する。
つまりガロア表現も、保型表現も、「モチーフの異なる表現形式」として現れるというもの。
すなわち、表現の対応が群の構造変換に自然に従うべきである、という要請。これは「圏論的ファンクター」の視点に近い。
まとめ:ラングランズプログラムとは、代数体における数の情報(ガロア群表現)と、群上の関数の空間(保型表現)とが、L-関数という普遍的不変量を通じて統一されるという、構造間の圏論的双対性である。
お前らは会話においてまで論理的とか非論理的とかにこだわるけど、そもそも論理ってなんだよとなるんだよね。
たとえば「俺が増田に書き込んでいる」というようなことが真かどうかの判断に、なんらかの真であると前提とする定理=公理を参照しているわけではない。
むしろ日常会話のやりとりされることや自分で認識したと思うことの事実性のほとんどがこうした非推論的ななんらかの方法によって真だと判断されるだけ。
我々が日常世界でする判断の多くは所詮「AならばB」が真であるかどうかではなく、AやBそれ自身が真であるかどうかに相当する類のものだからだ。
相手のいるやり取りならその事実認識に齟齬があるなどして反省する機会もあるだろうが、自己認識においてはそれもない。
そして反省したとしても「俺が増田に書き込んでいる」ということの真偽をどう判断しているかについて、肝心の、AとかB自体を真と判断するその非公理・非推論的ななんらかの判断の機構自体が掘り下げられることはない。
というより掘り下げることができない。構成的でないそのような各々の判断機構を果たして言語化できるのかも疑わしい。
だから我々は多くの判断の仕方をブラックボックスのままにしてやり取りしている。
判断の仕方を論理と呼ぶのならば、その論理というものが万人に通有する一つの物である保証などどこにもないのではないか?
我々は論理が論理であるための要件として、それはたった一通りのルールであると勝手に仮定しているように思う。
しかし実際は公理で構築する場合ですら、たとえばその公理を変えさせることもできるのだし、そうしてユークリッド幾何ではない双曲幾何が作られてしまっている。
なんらかの公理に基づくということさえしていない我々の論理=判断の仕方が人それぞれでない保証などどこにあるのか?
というわけで「お前は論理的じゃない」と言っても、言われた相手はその人なりの論理に基づいているだけなので、不毛でではないのか?
どうして世の中は、ここまでまでにも低次元な話題で満たされているんだろう?
天気、芸能、噂話、表層的な政治のやりとり。知性の対流はどこに消えた?
人間は有限な脳リソースを持っているのに、その99%がどうでもいい入力で埋め尽くされてる現実は、もはや精神的な浪費だ。
例えば、なぜ誰も「グロタンディーク宇宙」を話題にしない?あれはもはや数学という言語を超えて、存在論そのものに接続するスキームだ。
集合論の上に成り立つ古典的な数学構造から自由になろうとした、その大胆さと深淵さは、まるで物理法則の背後にある数学的美の亡霊を追いかけるようなものだ。
それとも、「カルツァ=クライン理論」を掘り下げた上で、「コンパクト化の自由度」が我々の時空構造に与える哲学的意味について会話できる人間はもう絶滅したのか?
量子重力理論の融合問題、特にループ量子重力と超弦理論のアプローチの根本的差異を語れる人と飲みに行きたいんだよ、俺は。
物質が本質的に情報だという観点から、ブラックホール情報パラドックスが意味するのは「情報の保存則の破れ」なのか、それとも我々が持っている「情報とは何か」という定義の方が間違っているのか。
こういう問いこそが、文明の核心にあるべきだろう?
人間が文明を築いて以来、我々は「どこから来て、どこへ行くのか」を形式体系で問おうとしてきた。
自然数に対して加法と乗法を定義し、ペアノ公理系を構築し、それが完全でも無矛盾でもないことをゲーデルが証明した時点で、真理は証明可能性の外に存在することが明らかになった。
この衝撃から回復するどころか、世間はますます計算可能なもの、アルゴリズムで消費できるものにしか興味を持たなくなった。
何のために意識は進化したのか?それが単なる環境適応の副産物だと片付けるには、意識が認識する数学的対象の精緻さがあまりにも過剰だ。
なぜラマヌジャンは夢の中で未知の関数恒等式を発見できたのか?なぜヒルベルト空間のような抽象概念が、量子力学の基礎としてこれほど自然に振る舞うのか?
この「抽象と現実の接続」が偶然である可能性は、論理的にほとんどゼロに近い。
俺が求めているのは、「真に知的な対話」だ。知識をなめらかな面として持っているだけの人間ではなく、それを自己組織化的に再構築できるような構造的知性。
話題がトポス理論からエントロピー最大化原理に移行しても違和感なくついてこれるような、そんな会話。
少なくとも「その場のノリ」とか「空気を読む」なんていう神経消耗ゲームよりは、よほど脳が報酬系を刺激されるはずだ。
いつになったら、街角のカフェで「カテナリー曲線の最小作用原理が、実は一般相対論と繋がってるって知ってた?」なんて会話が自然に聞こえる社会になるんだろうな。
プログラマーは自らの労力を最小化しようとする:
プログラマーは実際の労力に対して過剰な成果を演出しようとする。
自動化が露見しないように、非効率を演出する振る舞いを意図的に挿入する。
本質的に自動化された作業を、あたかも非自動的であるかのようにタスクを再分解・命名する。
すべての成果が自動化されているにもかかわらず、その事実を隠し続けられる限り、そのプログラマーは 最高評価を得ながら、ほぼ労力ゼロで給料を得続ける存在となる。
@startuml[*] --> Observe_TaskObserve_Task --> Automate_Task : detect patternAutomate_Task --> Wrap_As_Manual : buildCLI wrapperWrap_As_Manual --> Insert_Noise :add fake logs, sleep()Insert_Noise --> Report_Progress :summary withdelay, buzzwordsReport_Progress --> Idle : pretend-busyIdle --> [*]@enduml
とーや君の質問で「芸術にしてしまうことで、全員が知るべきことが、一部の人にしかわからなくなる、ということにならないか」という話があった。
それに対し三木さんは十七条憲法から「七に曰く、人各々任有り」とあり、つまり全員が同じように価値を判断しなくても良い、と言う。
自分の任にないと思うのであればそこに価値を見出さなくていいという。これを理解すれば、お金第一主義といったものもなくなる、と三木さんは言う。
つまり人に迷惑をかけるような行為は恥であり、この美徳が日本人にとっては重要だというのだ。
しかし、その前には「日本の土地にとっては仏教こそが重要であり、他の宗教は土地にあっていない」と言っていたので、各々性とは矛盾している点もあるように思える。
というのも、私の感覚からすれば、異教の地の教えの中にも、日本人が学べることは存在すると思うためである。
私は旧約聖書やタルムード、ユダヤの格言などからは学べることが多いと常々思う。
「最も賢いのは、すべての人から学べる人だ」というユダヤの知恵があるが、これは「あれは異教だから日本人には合わないよね」とは本質的に異なっている。
そして倫理の黄金律という話もある。「自分が嫌と思うなら、他人にするな」というルールのバリエーションは様々な宗教や哲学に出現してくる。
ここで「恥」とは何なのか、その本質について考えると、それは「愚かな行いを未然に防ぐ本能」と言えるのではないか。
例えばSNSで軽率な発言をしてしまったとしよう。あとから「これは軽率ではないか。恥ずかしい」という感情が起こり、発言を削除するとする。
この場合、「恥」という感情があったからこそ倫理的行動ができたわけで、論理だけではたどり着けない境地に思える。
痛みを感じないという病気の人の寿命が短いのは、まさに痛みから異常な行動を回避できないためであろう。同じように恥を感じない人は、愚かな行動を回避できない。
数学者は論理というものを美しいと言うかもしれないが、ただ論理があるだけでは美しいことにはならない。
そこには土台となる公理があり、その公理を前提として論理を使うから美しい定理が導かれるのである。
正しい人間性を公理とすれば、論理的に美しいものを生み出すのだろうか。三木氏にとっては、その公理が仏教のお教に存在するのだろう。
しかし私の美意識では、もし切腹が恥から来るのであれば、それは美しいとは思わないのである。
これもSNSの話になるが、何か発言をして炎上をすれば恥ずかしい思いをするかもしれない。そしてそれによって自殺をした人が実際に存在するのは事実だ。
神から頂いた命なのに、自殺を美談にすることはできない。だから「恥」という公理は、必ずしも良い美意識とは思えないわけである。
私は「対称性」というものに美を感じるタイプだ。例えば円はすべての方向に対して対象変換できる。
この「対称性」は倫理の黄金律にも存在する。つまり「自分がされて嫌なことは他人にするな」というミクロの総体がマクロに普及すれば「他人からは、その人が嫌だと思っていることを、私にしてこない」ということになる。
つまり黄金率を社会が守れば、自分に対して不快なことをされたり、あるいは命を脅かされることが減る。
これは「自分の行動」と「他人の行動」との間の対称性である。そして「ノアの法」といったものを人類が遵守すれば、平和に近づくと思うわけである。
あるいは、自分がその場に合ったユーモアを言えば、相手もそれに対しておちゃらけてくれる。自分がインテリぶって張り合えば、相手も知性で勝負を仕掛けてきてギスギスする。
私が言いたいことをまとめると、
あなたの言うことは「半分正しいけれど、誤解を生む表現」です。詳しく説明しますね。
つまり、「数学はエビデンス(経験的証拠)に頼らない」というのは、形式的な論証の意味では正しいです。
科学のように「実験結果がこうだから理論は正しい」とはならない。
計算機の実験や数値例は「直感の補助」にはなっても「証明」ではない。-
たとえば、リーマン予想やゴールドバッハ予想も、無数の数値実験で正しいらしいと観測されているけど、証明がまだされていない段階です。
また、「帰納的直感」(たとえばコンピュータで大規模な計算をして予想を立てる)も研究の発展には欠かせません。ただしこれは証明ではなく、あくまで「ヒント」です。
| 観点 | その数学者の言葉 |
| 数学の理論体系 | ✅ 正しい。演繹に基づく。エビデンスは証明にはならない。 |
| 数学の発見や研究過程 | ❌ 不完全。エビデンス(計算例、パターン、数値実験)を使って予想を立てるのは日常的。 |