
はてなキーワード:八正道とは
かつて、インドの大地にて私は悟りを開き、菩提樹の下にて四つの真理を見出しました。
それは、人生には苦しみ(ドゥッカ)があること、その原因は欲であること、苦しみを終わらせる道があること、そしてその道こそが八正道である、というものでございます。
インドは、ただの場所ではなく、目覚めへの道が始まった聖なる大地であります。
ガンジスの流れ、風に揺れる菩提樹の葉の音、沈む夕日、それらすべてが無常(アニッチャ)を語っております。全ては変わりゆくもの。だからこそ、今というこの瞬間に、心をとどめましょう。
マインドフルに生きること。
慈しみの心を忘れぬこと。
己を手放すこと。
これらが、仏教の真髄であり、悟りへの静かな道しるべとなります。
人生に疲れた時も、怒りに囚われた時も、こう問いかけてみてください
「この感情は、永遠のものか?それともただ流れゆく雲のようなものか?」
そして、どんな一日であっても、最後にこう言えたらそれでよいのです。
「今日もよく生きた。
おやすみー。」
三木大雲氏の言葉「食事と言葉を変えれば、天禄を書き換えられる」は、仏教的な視点から見ると非常に興味深い教えです。
ここには因果(カルマ) や縁起(すべてのものは相互に依存している)という仏教の核心的な思想が反映されていると考えられます。
仏教では、人生は宿命(過去世の業による影響) と運命(現在の行いによって変化するもの) の組み合わせによって成り立っていると考えます。
つまり、「天禄を書き換える」とは自身の運命を変え、より善い方向へ進めるという意味でしょう。
仏教において食事は、 心と身体を浄化する手段であり、特に精進料理や五観の偈(ごかんのげ)に見られるように、食べること自体が修行の一環とされています。
食事を変えることは、身体の健康を保つだけでなく、心のあり方にも影響を与えるということを意味します。
例えば、暴飲暴食や肉食中心の食生活は、貪り(貪欲)の心を強める可能性があります。
一方で、質素でバランスの取れた食事は、心を安定させ、執着を減らし、精神を落ち着かせる助けになります。
たとえば、動物性食品を減らすことは、不殺生(アヒンサー)や慈悲の実践につながります。
その結果、良い業(カルマ)を積み、自身の運命(天禄)をより良い方向へ変えることができるのです。
仏教では、言葉は単なる音の連なりではなく、大きな力を持つものと考えます。
特に、「正語(しょうご)」(正しい言葉遣い)は、八正道の一つにも挙げられています。
悪い言葉(暴言、嘘、悪口、無駄話)は、相手を傷つけるだけでなく、自分自身の心を荒らし、周囲との関係も悪くします。
逆に、優しく、誠実で、慈悲に満ちた言葉を使えば、良い縁を生み、より良い人生を築くことができます。
日々の言葉を変えることは、自分の意識を変え、周囲の環境を変え、結果として未来(天禄)を変えていくことにつながるのです。
三木大雲氏の言葉を仏教的に解釈すると、「日々の食事と話し方を意識することで、自分の運命(カルマ)を良い方向に変えることができる」 という意味だと考えられます。
これは単なる迷信ではなく、実際に行動を変えることで、人生の流れが変わるという仏教の教えに通じるものです。
食事を慎み、言葉を正せば、心も穏やかになり、結果としてより善い人生へと導かれる、これはまさに仏道の実践の一つと言えるでしょう。
「宗教」を定義し、その成立要件を明確にすることは学問的にも議論が分かれる分野ですが、一般的に宗教とみなされるために必要な要件には以下のようなものがあります。これらは宗教学、哲学、社会学などで共通して挙げられる基本的な要素です。
• 内容:
神、霊、超自然的な力、宇宙的秩序など、日常生活を超えた存在や概念を信仰・認識すること。
• 例:
• 内容:
超越的存在や概念についての教えや信念の体系。これが宗教を支える哲学的・倫理的な基盤となる。
• 例:
• 内容:
信仰を表現するための形式化された行動や儀式があること。これにより、信者が宗教に参加し、コミュニティとのつながりを持つ。
• 例:
• 内容:
信仰に基づいて生活や行動の規範となる倫理や価値観を提供すること。
• 例:
• 内容:
宗教の教えを広め、維持するための組織や共同体が存在すること。これには聖職者や管理機構、信者の集団が含まれる。
• 例:
• 内容:
教えや儀式を記録し、伝えるための書物や口承の伝統があること。
• 例:
• 内容:
信仰者に特有の体験や、死後の世界や魂の救済といった宗教的な目的が存在すること。
• 例:
• 内容:
• 例:
• 内容:
個人の内面(価値観、救済観)だけでなく、社会や文化に影響を与える力を持つこと。
• 例:
•宗教とみなされるかどうかは文化や時代、地域によって異なる場合があります。
• 例:仏教や儒教は宗教であると同時に哲学としても理解されることがある。
• 例:新興宗教やスピリチュアルな信仰は、伝統的な宗教の枠組みでは捉えにくい。
「宗教」とみなすためには、上記の要素がいくつか揃っている必要があります。ただし、すべての要素が揃わなくても宗教とされる場合があり、特に文化や歴史的背景によってその認識は異なります。そのため、宗教の成立要件を考える際は、柔軟な視点を持つことが重要です。
と思いがちなんだけど、実際には
「色んなモノに参加する敷居が下がるだけ」
なので、アレな人でも本や動画作れるようになったり、本来生き残れない人が生き残れるようになるので、表面的にはレベルが下がるのよ…
陰謀論を唱えるというのは極端にしても、
「メンタルの問題は、古典に答えが書いてあることもたくさんあるのに、古典で軸を作れていない人が、断片的に自己啓発本や心理学の研究を読む」
「せいぜい200年しか歴史のない心理学で、メンタルの問題をわかった気分になる」
みたいなことが多くて…うん
私が本書くときにあたって心理学も色々調べたけど…それこそ人気の本から、DaiGoさんまで
みたいな断片的な情報が多すぎて、体系立てられているものや、汎用性をもって使えそうなものはむしろ哲学や仏教の方に多くてけっこう困った。
「ロジカルなら正しい」
もけっこう危険だけど、『実験・データによると』はもっと危険やからなぁ…。
切り口次第でどうとでもなるし、再現や検証に手間がかかるからその場限りで人を言い負かすのには、ロジカル以上に使えることがある。
疑いだせばキリがない話だけどね…
ロジカルに考えても
みたいなのがしっくり来る説明がないというか、どうとでも言えちゃうものは私は取り入れないようにしてるけどね
その辺、仏教・禅は「悟りってなんやねん」と聞いた人にちゃんと答えてる人がおるから、なんでもありではない
は十住心論、正法眼蔵、般若心経あたりを読むと書いてあるんで、そこは整合性取れてる。
これを「仏教の修行しないとできません」と言っちゃうのは仏教側にも驕りがあるとは思うけどやりたいことは伝わる
・自分たちの考えのことを「真理」と言って、宗教ではないと主張する人も散見される
・真理から見て正しい間違ってるという「八正道」は一歩間違えると洗脳の道具になる
仏教が哲学として面白い一方で、ヤバい人もたくさん作っちゃってる部分はこの「驕り」なのです。
驕りの部分を取り入れないで、哲学の面白さを取り入れると役に立つのだが…驕りが入ってこないように適切な距離感を取る必要がある。
ここが仏教を取り入れる注意点かなぁ…
仏の教えは合理的。基本的な理屈の前提となっているのは、この世界には「因果関係」があって、あらゆる物事は因果関係の連鎖で成り立っていますってことだけ。
・絶え間ない因果関係の連なりがあるから「諸行無常」。諸行無常ってのは、あらゆる物事は変化し続けているってこと。
・諸行無常な世界を普通の人間が経験すると、「一切皆苦」と感じる。あらゆる物事が変化し続けているってことは、やがては人の望まない状態になり得るし、たいていはそうなるから。人生には「四苦八苦」がつきもの。
・普通の人間は、永遠不変の私がいることを素朴に信じていて、その『私』に強く執着している。しかし実際は、「諸法無我」。つまり、永遠不変の私は存在しないということ。なぜなら、私はこの世界の一部であって、世界の一部であるからには因果関係の連鎖によって一時的に立ち現れている物事でしかないから。身体も五感も思考も欲求も一時的に立ち現れているものに過ぎない。私という存在もまた、諸行無常であり、ゆえに諸法無我。
・普通の人間が諸行無常な世界に在って一切皆苦と感じるのは、『私』に強く執着しているから。世界も私も変化し続けているものだから、『私』の思い通りになるとは限らない。それなのに、思い通りにならないとそのたびに苦しい。
・一切皆苦と感じる原因が『私』に対する強い執着であるなら、その執着を薄め、消し去ればいい。この世界は諸行無常であり諸法無我であることを、知識としてではなく、感得することができたなら、『私』への強いこだわりは霧散し、世界を一切皆苦とは感じなくなるし、副産物として利己性も消える。これが悟りの境地。
・この世界が諸行無常であり諸法無我であることを感得するには、感得するトレーニングを繰り返して感得する認知能力を高める必要がある。自転車に乗れるようになりたいなら自転車に乗るしかないのと同じ。このトレーニングが仏教の修行の中核。昨今では「ヴィパッサナー瞑想」とか「マインドフルネス」とか呼ばれている。ヴィパッサナー瞑想で得られる認知能力を「智慧」あるいは単に「慧」と呼ぶ。
・『私』に対する強い執着を薄める方法はヴィパッサナー瞑想以外にもう一つのアプローチがある。「慈悲」つまり、利他的な心を育てる瞑想や利他的な実践を繰り返すこと。
・ヴィパッサナー瞑想だけしていれば悟れるかというと、そうでもない。「戒」:瞑想に集中するための環境や習慣を整え、「定」:ヴィパッサナー瞑想に必要な集中力を高めるための瞑想も行う。これらをヴィパッサナー瞑想と合わせて「戒定慧」と呼ぶ。仏教の実践は基本的にこの三つ。もう少し詳しくは「八正道」と言う。
というのが、私の理解。もっと詳しく知りたければ「」でくくった単語を検索して一つずつ調べるか、書籍なら仏教思想のゼロポイントをおすすめ。
思想史的な観点をちょっとだけ補足。仏教は教祖である釈迦の没後、スリランカやミャンマーあたりに伝わったものが初期のノウハウを比較的色濃く伝えている。これは上座部仏教、南伝仏教、小乗仏教とか呼ばれてる。一方、中央アジア等を経由して中国に至るうちにかなりの変貌を遂げたのが、北伝仏教、大乗仏教とか呼ばれてる。日本の仏教は中国経由で伝わったもので、基本的に大乗仏教。輪廻転生は仏教のオリジナルのアイデアではなくて、インドやネパールあたりにもっと昔から根付いていたアイデア(輪廻転生だの神や悪魔だのの有無は、今生きているあなたが苦から逃れるために重要なことではないですよ、肝心なのは八正道の実践、ってのが仏教のスタンス)。天国地獄のアイデアはおそらく中央アジアあたりで仏教に混淆した。先祖の供養が大事みたいなアイデアはたぶん中国で混ざった。
瞑想というかマインドフルネスに抵抗があって、本を買って読んだりしてみてるわりに、全然実践できていない。
効き目がないと思っているわけではなくて、「まあこういう仕組みだから、こういう世の中でやると、こういう調整が効くんだろうな」と自分なりに納得もしてる。
じゃあ何がひっかかってんのかというと、自分がちゃんとした仏教徒じゃないからだ。
マインドフルネスは、宗教的要素を取り除いたとは言われるけど、きっぱりはっきり「八正道の中の正念」という概念とイコールなことがあきらかだし、そもそもその宗教的要素を取り除いたっていうことに対しても「……いや、そんな勝手に取り除いていいものなのか?」っていう気持ちになってしまう。残りの八正道ノータッチでいいんだ?? ほんとに??
自己実現のために、信仰してない宗教の教義のごく一部分だけをお気軽に使うの、自分のオシャレのためにまったくコーランも知らないのにヒジュラかぶっちゃうみたいなアウト感をね……。感じてしまうんだよな~。
基本的に自分が考えすぎなのはわかってるんだけど、うっかり他人の重要な箇所に土足で入ってるんじゃないかって不安がどうしても残ってしまう。
写経体験みたいなものだと捉えたらどうかと言われたけど、マインドフルネスは継続して行う習慣なとこがどーもな……。
運動はがんばってます。スクワットちょっとずつ回数増やしてやってるのえらくないですか。
俺の人生の目的は悟りを開いて生きる執着を捨てることにあるんだ。
スッタニパータ、一角の犀の章を読んでもらうと分かると思うんだけど
「自分の息子を欲しいと思うことさえあってはならぬ」ってある。
異性と一緒になるのって突き詰めると子孫を残すためだよね?
もちろん五戒を守り八正道を実践していくにあたって女性の存在は認めるし、できる限り敬意を払うよ
仕事で協力が必要なら率先してこなすし、公共の場で援助が必要な場合ならそうする。
でもそこまでだよ。それ以上を望むのなら他の男性をあたってほしい。
子供を作る以外にも付き合ったり、結婚したりする目的はあると考える人がいるかもしれない。
でもそれこそ一角の犀のようにだよ。
一人離れて修行し歩くがよいなんだ。
釈迦はいくつかの物事を無記としました。無記とは議論するべきでない、考えてもしょうがない物事を指します。
生命と身体は同一か
生命と身体は別個か
修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
ではなぜ、釈迦はこれらを「考えても仕方のないこと」としたのでしょうか。これについて私見を述べたいと思います。
まず第一に、釈迦は決して「信仰」を求めませんでした。信仰ではなく、「実践」を求めました。
何を実践するのかというと、八正道というものです。また、悪いことをやめ、良いことをすることです。
釈迦は、なぜそれらをしなければいけないのかを、体系だった哲学によって、論理的に説明しました。
厳密に数学的な論理的ではないですが、哲学として筋の通ったものでしたし、個々人が実践によって結果を体感することができました。
ここに、輪廻転生や宇宙の構造について無記とした理由があると私は考えます。
その理由とは、輪廻転生や宇宙の構造は釈迦が悟りを開いてから超人的な力で知ったものであって、
悟りを開いていない一般の人々には「体感」することが不可能であることです。よって、実践によって「一般の人が」体感することができないもの、これは釈迦の言うことを信仰する以外にないのです。
輪廻転生については、釈迦が超人的な力で知ったものであって、論理的に導き出せるものでもなく、科学的な観察によっても前世を知ることはできません。
いまでこそ超ひも理論などの宇宙の構造について多少は知ることができていますが、完璧に知ることは未だできていませんし、完璧な宇宙の構造を一般人が身をもって知る、体感するということは不可能でしょう。一部の天才物理学者は数学や実験を通して理解できるかもしれませんが、それ以外の人達はやはり間接的にしか知ることはできません。
体感できない、観察できないのだとしたら、釈迦の言うことを盲目的に信じるしかありません。しかし、釈迦は「盲目的に信じる」という態度を否定していました。
だから、どうあがいても一般の悟りを開いていない人たちには知りようがない、体感しようがないことは「無記」としたのだと思います。
これは釈迦の、「たとえ私の言葉であっても盲目的に信じる必要はない」という態度の表れだと思うのです。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20121210/1355153569
を読んで色々調べたらこんなのあった。
http://ameblo.jp/joyufumihiro/entry-11001677436.html
また、途中で話が脱線し、濱野氏が最近「はまり気味」のAKB48について言及されたので、私が、自分の持論として、AKB48とは、その数字と言い、グループの構成の仕方と言い、仏陀とその教えに「深い縁」があり、その人気の裏側には、仏の守護があるのでは!という話しをさせていただきました(笑)。
仏陀は、日本仏教では4月8日生まれ、その中核の教えは、四諦八正道。有名な無我の教えの本質は、「私」とか、「彼」といった、(そして「AKB48」といった、)名前によって一つの存在のように見えているものが、それを構成する様々な要素が無常に移り変わっており、実体がないというもので、メンバーが総選挙で変わるAKBとよくシンクロした教えなのです(笑)。