
はてなキーワード:免許とは
クマの駆除を行政の「負担」とするのではなく、経済的インセンティブによって能動的に解決される「市場」として設計するのである。
すなわち、行政が危険な害獣に対して懸賞金を設定する「ハンター制度」の導入である。
行政は、クマの出没情報、危険度、狩猟環境に基づき、対象個体に公的な懸賞金を設定する。
猟銃免許保持者であることは前提として、既存の猟友会とは別枠の、高度な専門職として「認定ハンター」を登録する。
現状、我々の社会には半グレやトクリュウなど、既存の労働市場から逸脱し、短期的な高額報酬のためなら法的な禁忌や生命の危険すら厭わない、命知らずの荒くれ者が一定数存在することが確認されている。
合法的に高額な報酬が保証されていれば、彼らは合理的判断においてこの市場に参入することが予想される。
ハンター制度は、社会の脅威となる潜在的リスク人材を、社会的に有用な方向へ転換させる受け皿となる。
被害が多発する地域の中心部や道の駅などに、ハンターたちが集う物理的な「場」を提供する。
荒くれ者たちが集い、酒を酌み交わしながら情報交換を行う場となり、狩猟のための情報がハンター同士で自然に交換されるようになる。
また、ソロでの活動が困難な高難度な狩猟には、パーティの編成を促す場として機能する。
牧師の息子で、自身も牧師となるために大学へ入ったが、学業は振るわず、卒業はできなかった。
しかしタイタスは学位を持っていると嘘をついて、ロンドン司教から説教免許を得て、父の下で副牧師を務めた。
また「学校教師が男色行為をしている」と虚偽告発し、教師の職を得ようとしたが、嘘がバレるとロンドンへ逃亡した。
1677年、タイタスはカトリックに改宗し、イエズス会の神学校に入った。
そこでもカトリック神学の博士号を取得していると嘘をついたが、ラテン語を使えなかったため虚偽は明らかだった。
神学校から追放されたタイタスはロンドンに戻り、「イエズス会の秘密を探るためにカトリックに改宗したふりをしていた」と主張した。
そしてタイタスは「イエズス会とカトリック教徒たちが国王を暗殺しようとしている」という告発を行った。
最初は信用されなかったが、いくつかの事件が陰謀と結びつけられたことで信憑性を得て、イギリス中が集団ヒステリーのようになった。
当時、王妃や王弟がカトリックを信仰していたことを国民は不安に思っており、タイタスはそこにつけこんだと言える。
数年にわたって、無実のカトリック教徒たちが裁判にかけられて死刑となり、タイタスは陰謀を暴いた英雄としての扱いを受けた。
しかし、やがて熱狂していた人々も鎮静化し、タイタスに疑いを持つようになった。
タイタスは偽証罪によって「終身刑」と「生涯にわたり毎年5日間ロンドンの街で鞭打たれる刑」を課された。
1689年に恩赦を受けて出所したが、世間からは忘れられた存在となっていた。
ただし、名誉革命によりプロテスタントが復権しており、タイタスには多額の年金が支払われた。
1705年に死去した。
今は良くても、AIで20年後くらいに失職する可能性が高い。何の仕事をするか。
・飲食
無くはない。過去にバイトもやっていたのである程度はわかる。でもバイトの子とかすごく気を使うだろうな。
・コンビニ
無くはないが20年後には無人になっていそう...。そうでもないか。
・工場
怖そうだしキツそう。年功序列そう。あとAIと機械化で影響あるか。
・農業
老後も継続できるのはいいかも。自然に生活を左右されるのは嫌かも。
・運送
免許無いので無理ぽ。
自衛隊に出動を要請したみたいな報道を見て、その前にやることあるやろ・・・と思ったのが正直なところ。
狩猟免許持ってる人間からすると常識だけど、今の制度は狩猟を効率的に行えないように様々な規制が行われていて、それは鳥獣を保護するという目的からすれば当然だろうけどこのままでいいの?っていうね。
ハンター不足なんて当たり前なんよ、効率的に狩猟が行えないような規制でがんじがらめってことは時間も労力も無駄にかかるってことで、更に結構な金額で狩猟を許してもらわないと駄目なんだから必要に迫られた人しかならないでしょ。
で、タイトル、本当にクマを減らしたいなら罠猟の規制を緩和するだけでいい。
今の罠猟ってクマの錯誤捕獲をしないように12cm規制とか設置数規制とかでクマを守ってるけど、錯誤捕獲を気にしなくていいとするだけでいい。
言っちゃなんだけど、くくり罠をたくさん設置すればクマなんてすぐに減らせると思うよ。
狩猟は県ごとだから全国的にやる必要はなくて、被害の多い東北でだけでもやってみればいい。
でもやらないだろうな。
人生経験の浅さ、乏しさがコンプレックスとなることが少なくない。
おおよそほとんどの人が、生きていれば当たり前に経験していることを全然しておらず、それゆえの教養の欠如や、雑談の苦手意識に繋がっている。
とはいえ齢も33を超え、子供は3歳にまで育ち、来年には新築マンションの購入が控えており、今まで以上に社会へと溶け込む必要性迫られている。
また、社会による半強制的な理由だけでなく、純粋に人生を豊かにするための趣味や生きがいの選択の幅を広げるためにも、今後は意識的に新しいことにチャレンジしていきたいと思うようにもなり、この文章を打ち込んでいる。
前説が長くなったが、ここからは、誰しも(少なくとも友人・知人・会社の同僚を見る限り)が当たり前に経験しているのに、私は経験していない事柄を並べていこう。
多くの人にとっては、こんなに何もしてない人もいるんだと思うかもしれないが、同じような境遇の人がいれば、シンパシーを感じてもらえれば幸いだ。
正確には、運転免許(それもマニュアル車)を持っているため、未経験ではない。とはいえ、教習所以外で運転したのは大学を卒業後に数える程度で、10年近いペーパードライバーをしている。免許も3回ぐらいは更新している。
都市部に済んでおりリモートワーカーであることから必要性がないと言えばそうだが、どちらかと言えば運転をしたくなく、車が無くても構わないような生活スタイルを選びに行っている節がある。
来年引っ越す新築マンションにしても、首都圏へのアクセスが容易であり、徒歩圏内の駅前で概ねすべて事足りる立地であるため、敷地面積が犬小屋と揶揄されそうなほど小さいのに、地方なら豪邸が建てられるであろう住宅ローンを組んでしまっている。
このまま運転をせずに逃げ切れそうでもあるが、やはり子どもが幼稚園、小学校と成長していくと、車を使った自由度の高いお出かけができないことで不便を強いてしまうだろう。自分だけが不便ならまだしも、子どもが車を通じて様々な興味を持ったり経験したりする機会を失うリスクは避けたい。
車を運転したくない理由の筆頭は運転が怖いことで、ペーパードライバーを10年経て今更普通のドライバーになれるものなのかなという漠然とした不安がある。VR空間上で自由に安全にドライブできるような環境があれば良いのだが。
行ったことはないし、これは興味もなければ行かないことのリスクもほとんどない。
が、行ったことがないので当然パスポートも取得したことがないし、なんなら飛行機すら数える程度しか乗ったことがなく、おそらく一人では乗り方がわからないレベルだ。
人生経験の欠如や、雑談の中で海外旅行の話になったときの疎外感からコンプレックスもあるところだが、そういう目的で行ってもおそらくは楽しめないだろう。
とりあえず子どもがもう少し大きくなったら、北海道や沖縄のような、国内ながら長距離の移動を要する旅行はしようと思う。
音楽は人並みには好きだ。学生時代に好んでいたバンドや、当時のアニソンから最近流行りの曲までそれなりに聞く。カラオケも大好きで、大きな趣味の一つとも言える。
その割には音楽ライブには参加(参戦?)したことがない。生歌から受けられる衝撃や、同士集まる空間での一体感はさぞ良いものだろうという想像は出来るが、安くない金額と、競争を勝ち抜いてチケットを手に入れるような労力が無いのだろう。
これに関しては最初から人気アーティストのライブを目指すのではなく、気軽にふらっと立ち寄れるような場所からはじめるのが良いのかもしれない。
音楽つながりで言うなら、楽器の演奏というのにも挑戦したことがない。もちろん、学生時代の音楽の授業であるとか、授業の一環として触れてきてはいるが、それを趣味にしようと思うほど馴染んだこともない。
音楽自体は好きであることからも、興味こそはあるが、やはり楽器演奏というのは、序盤の楽しくなるまでの努力の量と、そこにたどり着くまでに挫折する可能性の高さからハードルを感じてしまうのだろう。
リモートワークしている人、ほとんどジムで筋トレをしているイメージがある。リモートワークあるいはデスクワークだと筋肉が凝ることもあり定期的な運動、発散を求めるのだろう。
私は(自称)中肉中背であり、散歩が趣味であることからも必要最低限の運動は重ねているし、健康診断も概ね良好な結果が出ているので、必要に迫られているわけでは無いものの、筋肉を付けたり有酸素運動を連続して行うことで心身ともにパフォーマンスを向上させられるという逸話もあるため興味はある。
「整う」という謎の概念に憧れがないでもない。稀に銭湯に行っても、サウナは熱いからすぐ出ちゃうし、かといって水風呂は冷たくて入る気がしない。外気浴ぐらいがちょうどよいがあれが「整う」なのかはわからない。寒暖差で意識が飛びそうになる瞬間があって、あれが「整う」だとしたらすごい界隈だと思う。
いわゆる男の料理を自分用にする程度。包丁をまともに使えない。猫の手さえ出来ればなんとかなるだろうレベル。揚げ物としたり、魚を捌いたりを自宅で出来るようになるとカッコよさそうだし、料理を妻に任せっきりになっているのを一緒にできる実利もあるので、これはチャレンジしたい度が高い。もうすぐ引っ越してキッチンも広くなるし。
ゲームとして面白いかはともかく、大人のコミュニケーションのキッカケとして、もはや常識とも言えるような遊戯だ。また、麻雀漫画を筆頭に多くのコンテンツにおいて、麻雀を理解していることで間接的により楽しめる娯楽が多く、これを知っているだけでも人生の豊かさが底上げされるような気もする。
やりたい感は強め。学生時代にしたきりだが、その時の楽しさが忘れられない。とはいえ車を運転できないのが大きな足かせに思える。子どもに家族でキャンプする経験は与えたい。
キャンプとほぼ同じ。
キャンプとほぼ同じ。そうか、車がないとアウトドアがなかなか出来ないんだ。
いわゆる「推し」が出来たことが一度もない。アイドルであるとか俳優・芸能人であるとか、今ならYouTuber などの配信者がそうなのかもしれないが、特定個人を推した経験が一度もない。
もちろん好きなYouTuberであるとか、アーティスト、作家などはいる。が、いずれもクリエイターその人ではなく、その人が生み出すコンテンツのほうが好きなだけである。(コンテンツに対する「推し」もあるとは思うが)
よく「推しがいるから生きてる」など、推し活時代が人生を豊かにする源泉である人がいるので、少し羨ましい。
やる必要はない。が、これが意外と雑談の中でひとウケになったりもするので気にならないこともない。
やる必要はない。ニコチンがない類の某はちょっと興味があるかも。
マイナンバーカードの更新時における免許情報等の引継ぎ –マイナンバーカード総合サイト
https://www.kojinbango-card.go.jp/apprec/apply/drivers-license/
引継ぎを希望する場合は、その後の「申請情報登録」画面において、マイナ免許証に記録されている「免許情報記録番号」を入力する必要があります。
この辺がちょっと面倒?
マイナ免許証のみを所持している(通常の運転免許証は所持していない)場合は、マイナンバーカードの受取場所(市区町村役場等)へ自動車等を運転して来場するのは避けてください。
「高尚」という言葉については、元の投稿の表現をそのまま引用しただけです。
ASDだの何だのと想像を広げていただき、わざわざ解釈してくださったのはありがたいですが、
世田谷がどうこうという話もありましたが、
子どもはまだしも、大人で堂々と信号を無視する人はあまり見かけません。
丸の内あたりで赤信号を渡れば、どう見ても「土地勘のない人」に見えるでしょう。
その感覚の違いを説明しても伝わらなさそうなので、ここでは触れないでおきます。
地方に対する無意識な優越感のようなものが滲んでいて少し気になりました。
普通に「東京出身」で済む話なのに、あえて区名を出すあたりが象徴的です。
進学や転勤などで外の地域を知らないと、
東京の中だけでヒエラルキーを作ってしまうものなのかもしれません。
田舎の人間は、都会の人が思うほど「見下されている」とは感じていません。
むしろ、田舎を知らない都会の人ほど「田舎差別」に過敏に反応する印象です。
熊を殺さないでと役所に電話するような“善意の人”と言えば伝わるでしょうか。
相手をASDだのフェミだのとレッテルを貼っていくのは、なかなか不思議な構造です。
正義感と攻撃性が同居しているあたり、SNS的とでも言うべきでしょうか。
幸いそこまでの自覚はありません。
その点ではまだ「未熟」なのかもしれませんね。
最後に一点だけ。
将来、無意識のうちに誰かを巻き込まないよう、お気をつけください。
「私には立派な人すぎて…」ならまだ分かるけど「高尚すぎて…」と言われるのは、なんかちょっと「あの人その場のその場の空気に柔軟に合わせられないASDみたいで…」と言われてるようで引っかかるな
高尚って褒め言葉じゃなくて遠回しに貶すときに使うワードというか
素を見せない人がみんな高尚呼ばわりされるかというと、そうではないよね
たとえば、誰も聞いてないしそんな話の流れでもないのに、とつぜん超弦理論とかブルデューとか、あるいはワインの蘊蓄について語り始めちゃう人がいたとしたら「○○さんって、高尚()ですよね」って自分なら思っちゃうかな
うーん、本当に東京出身……? 小中高とずっと私立で周りにお金持ちしかいなかったとか?
自分は世田谷生まれ世田谷育ちだけど、車の往来がなかったら赤信号でも左右をよく確認して渡っちゃうし、そんな人間は東京出身にもいくらでもいるよ
私個人の話をして申し訳ないが、たしかに免許は持ってないが、推し活は一切してないし、私と同じように推し活なんてしてない「都会の女性」とやらはいくらでもおりますよ
「酒飲みの田舎娘転がってないかな」って、ナチュラルに田舎出身の人を物扱いしてる上に見下してるみたいで嫌な感じだな
東京出身の女性にもいろんな人がいるのに、自分がモテないからって「都会女には相手にされんけど田舎女なら俺にもワンチャンあんじゃね」って言ってるみたい
自分も都内生まれ育ちでボンボンだの実家が太いだのからかわれる方だが、
こういうふうに見られているのかもしれないと反省した。
サークルや社内恋愛はあったけれど何となく婚期を逃してアラサーになって
たまに紹介を受けるけれども、ちょっと高尚過ぎてついていけないと紹介者づてに言われたことが何度かある。
紹介となると身構えるというか何となく格好つけてしまうというか、
さすがに赤信号くらいは渡るけれども一線は超えないような感じに振る舞ってしまう。
もう少し早い段階で素を出していくほうがいいのだと思った。
逆に、都会の女性は赤信号はじめ色々とに厳し過ぎてついていけない。
公明党の成果
部活を頑張れ!とかいうタイプの教員の学歴って大体日東駒専か精々MARCHの中途半端な学歴の奴で、早慶上智以上の学歴帯にはいない気がする
部活ばっかりやってても引退してからガチればギリギリ間に合うのがMARCHラインなんだと思うわ
で、この手の手合いって小学校中学校高校と部活をして、大学でちょっと麻雀するくらいの悪いことをたしなんで、大学卒業後また学校に戻ってくるタイプだから、部活を介さないで人間とかかわる方法を知らないんだよね
だから、教員になったあとも同タイプの部活の続きをやりたくて教員になった系の部活動顧問達や、部活を通して知り合った高体連関係の他校の教員とかとずっとつるんでる
彼らにとって勉強というのは大学へ入った時点で終わりなので、採用後この手の教員が何か勉強して学部生だった頃より教科の専門性を高める場面を見かけることはない。
じゃあスポーツは真剣にやってるかと言えば、プロになるほどの根性もなく、コーチングのプロとして民間で働く根性もなく、体育の免許を取るほどスポーツ科学を学んでるわけでもなく、公務員として数学とか社会の免許を持ちながら、だらだら長時間高校生で遊んでるだけ。
負けても責任を取るわけでもないし、部活の生徒の成績、つまり人生に責任を持つわけでもない
じゃあ仕事はやるのかって言うと、雑用ばっかり進んでるやるだけで、別に授業に力を入れるわけでもないし、もっぱら部活をすることで学校に貢献してる気になってイキるだけ
クマ被害増えてるけど、自分のような一生都市生活をするつもりの都市住民はヒグマやツキノワグマが出てくるような田舎のために一銭も払いたくないというのが多数だろうから国は動かないだろうし、被害を受けて困っている地元民が自力救済で猟銃の免許を取って集団でクマを狩り殺す自警団を結成するしかないと思う。地元の70歳までの成人男性は同調圧力で実質強制参加で。消防団みたいなノリで意外と楽しいかも?
そんな日々の中で最も厄介なのは、CxOたちだ。
──CIO、CTO、CDO、CISO、CPO……肩書きは違っても、やっていることはだいたい同じ。
PowerPointを開いて「DXを推進している」と言う人たち。
うちのCxOはこう言った。
翌日、僕がPull Requestの内容を説明したら、「Goってタクシーのサービスの?」と返された。
その瞬間、何かが切れた。
──ケーキではない。
CxOたちはコードを読めない。
それ自体は罪ではない。
だが、読もうとしないことは怠慢だ。
よく聞く反論がある。
確かにそうだ。
ただし前提が抜けている。
つまり、コードを読めという話ではなく、読めるだけの構造理解を持てという話である。
「技術的なことは詳しくないが、成果は出している」
それはたまたまだ。
「上が言ってるから」「今期の方針だから」「スピード優先で」。
Pull Requestは読まないのに、Excelの進捗バーだけが毎日更新される。
これもよく聞く言い訳だ。
しかし、リソースが限られているならなおさら、理解の精度が重要になる。
僕が書いたAPIは、リクエストごとに外部APIを叩いていた。
「キャッシュを挟もう」と提案したが、PMは「リリース優先」と言った。
CxOたちは言った。
「想定してなかったのか?」
──想定してた。
だが、理解できないのは説明の問題ではなく、聞く姿勢の問題だ。
Slackの“#incident”チャンネルだけが、いつも一番アクティブだ。
CxOたちは「コストを切れ」と言う。
切れるのはコストだけ。
削ったコストの穴埋めに、技術的負債の利息を支払うのは現場だ。
Goで書かれた美しい構造体も、やがてはコメントだけが動くレガシーになる。
CxOたちは「我々はデジタル変革を進めている」と言う。
だが変わっているのは、スローガンのフォントと会議資料の配色だけだ。
クラウド導入もAI活用も、認知が変わらなければ儀式でしかない。
──違う軸を持つのは構わない。
現場を理解しない経営視点は、地図を見ないドライバーと同じだ。
「コードなんて書かなくていい。これからはノーコードの時代だ。」
だが、それは“コードをなくす”技術ではなく、“コードの抽象度を上げる”技術だ。
だが、隠したコードが消えるわけではない。
ボタンの裏にも、ワークフローの下にも、API呼び出しやロジックは確実に存在する。
それを理解せずに使えば、「コードを書かずにバグを埋める」だけの仕組みになる。
「ノーコードでいい」と言うCxOは、
「物理を知らなくてもロケットは飛ぶ」と言っているのと同じだ。
理解しないまま導入するノーコードは、“ノーコード”ではなく“ノーガード”である。
人を楽にするどころか、誰も直せない仕組みを量産する。
DXとは、ツールを導入することではない。
それを理解しない限り、
理解しないことだ。
真っ先に切られるのは、
──コストだけ。
CxOたちは「未来を見ている」と言う。
未来とは、仕様書ではなく、Pull Requestの積み重ねだ。