
はてなキーワード:儀礼とは
対象(本人)は元京都大生であるが、青年期特有の内省的自己愛(髭へのこだわり等)を保持していたが、社会的な儀礼(贈与への返礼等)に関する意識は希薄であり、
他者の教示を待って初めて行動に移す受動性が認められた。具体的には自分では誘うべきことに気づかず、よくしてもらったんだから招いてお礼したらと誰かにいわれ始めて行動に移した
このような状態分析としては被暗示性と鏡像段階にあることが認められ、他者からの「髭がないほうがいい」という外的な審美眼に対し、通常見られる心理的抵抗(逡巡や自己正当化)を一切挟まず、
これは、特定の他者(高学歴女子)を自己修正のための「絶対的な鏡」として内面化しており、極めて高い被暗示性を有していたことを示唆する。
形式的なマナーの欠如に反し、飲酒不可の他者へ「茶」を供するという個別的・具体的な配慮は自発的に機能していた。共感性の萌芽としての実存的配慮能についてはすでに有していたようだ。
これは、抽象的な社会規則(プロトコル)の習得よりも先に、目の前の対象への実存的共感が先行して発達していた証左である。
本症例は、全能的な自己イメージが「重要な他者」の一言によって瞬時に崩壊・再構築された、劇的な脱・自己中心化の過程である。脱・自己中心化のプロセスとしてとらえられる。
病理学的には、単なる適応遅滞ではなく、他者の視点を取り込むことで自己を社会化させていく極めて柔軟かつ純粋な発達段階として解釈される。
人を食うこと。特に、呪術的信仰から、また宗教儀礼として人肉を食う慣習。人肉嗜食(ししょく)。カンニバリズム。
カニバリズム 【cannibalism】
人肉を食うこと。人肉嗜食。食人習俗。狭義にはその社会の中で宗教儀礼として認められた食人の習慣、をいう。
カニバル(食人者)という語は、コロンブスの報告から食人者だとみなされたカリブ族(Caribs)に由来する。
スペイン人の発音の誤りからカリブがカニブになり、そこからカニバルという語が生まれた。食人者に関するうわさや報告は世界中に見られる。
泥中のアイスというサークルがFANZAで「双子の兄妹強●近親相姦つがいじめ」という過激な本を出していたんだけど
それは18禁のゾーニングされてる場所で売られてたから何も問題無かったんだが、その後にどうもアフィリエイトが
勝手に本の内容をXで大々的に宣伝したせいで過激描写を見た人達によって炎上して、アフィリエイトじゃなくて作者がクレーム入れられまくって
まぁそこには色んな議論があるだろうがそこはもう自分以外の人達に任せるとして、その同人を買った自分としては内容について意見を書こうと思う。
その前にあらすじを書こうと思う。この本は別にあらすじを全部書かれてネタバレで問題になる本じゃないと思うが、ネタバレ嫌なら読まないでね。
裕福な家庭で暮らす双子の兄妹に対して、両親がシンガポールに仕事に行くと出掛ける所から物語は始まる。
その間はいつもの家政婦が世話をする筈なのにやってきたのは別の家政婦。そして食事は普通に美味しい食事が出てくるんだけど
問題は食後で、家政婦がカメラをセットした後に銃を取り出して双子を脅し始める。
家政婦の彼女が言うには両親はヤバい人達に恨まれる仕事をやっているそうで、唐突に両親が拷問されて死ぬ動画を見せてくる。
(タブレットから流れる両親の悲痛な叫び声の吹き出しはあるけど、タブレットの動画は描かれないから具体的な拷問方法は分からない)
そして家政婦は双子にお前ら近親相姦をして子どもを作れと命令する。私の上司がその動画を所望しているからと。
双子は泣き叫びながら性行為が始まり、途中で兄が精力剤を注射されたりしながら一通りの性行為が終わった所で暗転する。
すると既に四肢切断されてる双子がテープで身体を固定されて性器が繋がってる状態になっている。
そして尿に対して妊娠検査薬を使って陽性の反応が出て、家政婦はやっと仕事が終わる(次の仕事が始まるけど)と喜び
兄を何処かへ運んでまた暗転する。2ページ過去の双子の楽しい思い出が描かれた後に
樫本悠(双子の兄):豚に食い殺されて死亡
樫本藍(双子の妹):開腹の痛みによりショック死
まぁショックな漫画ではあるんだけど、自分はあまりショックさは感じなかった。
というのも先にヤバいヤバいという感想を聞いた後にこの漫画を読んだからだ。
四肢切断されてるシーンや両親の拷問シーンやカニバリズム描写があると先に想像してしまった。
その上で読んだら想像よりは相対的にマイルドだからそう感じたのかもしれない。
過去に読んだグロ系漫画とかだと四肢切断シーンは大抵描かれた気がするが、この漫画は色々と描かれてないシーンが多い。
感想で散々言われたカニバリズムにしたって最初の引用にあるように胎児は誰も食べていない。
途中描写を描いてしまうとNGになって、実際に誰かが人を食べてるシーンがあるとNGになるって事なのかな。
ここで四肢の無いキャラを描く事をNGにするのは一般漫画でも描けない描写が出てくる。
この漫画はそういう規制が難しい範囲内で描いているのかもしれない。
作者は大変だな、と思うと同時に正直そうやって昔のグロ漫画だったら描かれそうなシーンが無かったお陰で
2026年選挙戦において、日本共産党(以下、共産党)は敗北を喫した。
立憲民主党が融合に失敗し、本来であれば党勢を伸ばす絶好のチャンスであったのにもかかわらず、である。
ここでは、共産党支持者の潜在意識には、根本的な認識に齟齬があるということを、以下3点だけ挙げようと思う。
今回の敗北を反省し、共産党支持者の方々は、立憲民主党の二の轍を踏まずに、来年以降の選挙戦で戦ってほしい。
SNSで草の根的に始動した、「戦争を止めよう」というキャンペーン。
まだ戦争は止められる、と考えている点で大きな誤解がある。
海外では、ロシアと欧州、アメリカと南米、中国とアジア諸国との間などで「違法な」武力行使が行われている。
この影響は日本にも及んでおり、すでに渦中に巻き込まれていると言っていい。
外の世界は戦争状態にあるといえ、これは日本政府の動きとか、平和外交とかでどうにかできる動乱ではない。国連でさえそのうねりを止め切れていない。
つまり、ロビー活動に頼るフェーズは、もうとっくに過ぎ去っている。
「戦争反対!」を掲げるとしても、その方法がもはや時代遅れである。
戦争反対を掲げている理由の一つとして「暴力は絶対にダメだ」という意識があると思う。
ただ、粗野な誹謗中傷は、拳で人の頬を叩くのと何ら変わらない。
武力の廃止を訴えながら、その一方では暴言により無用な諍いを自ら生み出していては、広く共感は得られない。
言葉の暴力というのは、たとえ相手が巨悪に感じられようとも、投げかけていいものではない。「ヒト」ではなく「コト」を諫めるべきだ。
平和を望む心の在り方を、もう一度思い出してほしい。
宗教の定義を検索すると、「人間を超越した存在を信じ、それを中核とした教義、儀礼、組織を持つ信仰体系」と出てくる。
「人間を超越した存在」というのは、なにも神や仏に限られない。
「政権の裏にある、目に見えない巨悪」の存在を信じることも、広義ではこれに当たりうる。
立憲民主党は、最終的に公明党と合体し、本物の宗教へと成り果ててしまった。
打倒自民党を「目的」として、そのための手段を考えていないだろうか。
高市さんに支持者が期待する「変化」は、具体的な政策がどうこうというより、空気をひっくり返してくれそうな感じへの期待に近い。
長く続いた自民党政権の中で、景気が良くなった実感もなく、将来像も語られず、政治はただ管理しているだけ、という低温の停滞感が溜まっている。
高市さんの強い言葉や断定的な言い回し、はっきりした敵の設定は、「少なくとも現状肯定ではない」という印象を与えていて、それが支持につながっている。
そこには「日本は本来もっと強かったはずだ」という郷愁も混ざっている。
軍事国家になってほしいとか、統制を強めてほしいというより、自信を持って言い切る態度、遠慮しない姿勢を見せてほしい、という願いに近い。
さらに一部には、官僚主導や既得権益を壊してくれるかもしれない、アメリカにもNOと言うかもしれない、という日本版の改革者ファンタジーも重なっている。
ただ、象徴的な変化はあっても、構造的な変化はほぼ起きないと思われる。
高市さんは体制の外から壊す人ではなく、自民党という枠の中で体制を強める立場にいる。
表現やメッセージ、儀礼的な振る舞いは変わるかもしれないけれど、予算配分や税制、雇用制度、人口構造といった生活を直接左右する部分は動きにくい。
少子高齢化や社会保障費の膨張、財政赤字、米国依存の安全保障といった問題は、個人の思想でどうにかなるものじゃない。
実際に起こりそうなのは、防衛や経済安保での言説と予算の強化、価値観をめぐる論争の前面化、対中・対韓・対メディア姿勢の硬化、保守層に向けた象徴的なメッセージが増える、といったレベルだ。
高市さん支持の正体は「変化が欲しい」というより、「変わらなさに耐えられなくなった感情」に近いと思われる。
量や性能と価格が比例するという事例に慣れていたから、例外に出会ってうまく価値を解釈できなかったのですね。
りんご1個とりんご100個だと、同じりんごなのに値段は100倍くらい違います。
Appleの製品ラインナップを見れば、カメラの性能が高いモデルはより高価に、いっぽうで廉価版はそれなりに性能が落ちる。
このような事例は、現代を生きる私たちには日常的な光景なんです。形のないものにいくら払えるかというのは、実は難しい問題で、みんな判断に苦しんでいるものです。
で、結婚指輪の話って「形がある」のに、いちばん高い部分がむしろ“形じゃない”んですよね。金属と石の重さ、加工コスト、原材料の相場──そういう“検索可能な価値”は、値札の一部でしかない。残りはだいたい「社会的な機能」に課金している。
たとえば結婚指輪は、日用品というより儀礼の道具です。儀礼の道具は、使い勝手の良さではなく「これをやった」という履歴を残すために存在します。履歴を残すには、相手と同じものを、同じ場で選んで、同じ手順で買う必要がある。つまり指輪は“物”であると同時に、共同作業の証跡でもある。あなたが「ぼったくり」と言った瞬間に彼女が傷ついたのは、金属そのものを否定されたというより、その共同作業の意味づけを根こそぎ外されたからだと思う。
もう一つ別の切り口で言うと、結婚指輪はコミットメント装置でもあります。人間関係って、口約束だけだと不安定になりやすい。そこで「簡単には手放せないコスト」をわざと支払って、関係を安定化させる。これ、恋愛に限らず、引っ越しの敷金や会社の保証金みたいなものと同型です。合理性で見れば「その金で別の実用品を買えた」は常に真なんだけど、その“別の実用品”では達成できない機能(関係の固定、周囲への表示、当人同士の納得)を買っている。
ここまでを踏まえると、指輪の値段は「原価」とは別の座標で決まります。むしろ原価に釣り合うべきだという見方のほうが、結婚指輪という制度の設計目的とズレる。制度は、万人が同じ価値観を共有していない社会で、一定の合意を生むために“割高に”できていることすらあるからです(安すぎると、儀礼としての重みが成立しない)。
だから、あなたがやるべき価値判断は「指輪は金属と石として妥当か」ではなくて、
「二人で同じ痛み(出費)を引き受ける」ことが大事なのか
妥協案も、機能を残したままなら作れます。たとえば「素材や石のグレードを落としても、選ぶプロセスとペア感は残す」とか、「普段用リングは軽く、節目に別途記念の品を作る」とか。金額の大小より、どの機能を守るかの設計です。
最後に。あなたが「金は払う」と言ったのは誠実だけど、彼女が欲しかったのは“支払い能力の証明”というより、“一緒に意味づけする態度”だった可能性が高い。ここが噛み合わないと、指輪に限らず、家や旅行や親戚づきあいみたいな「実用品と象徴が混ざった支出」で、同じ事故が何度も起きます。だからこれは指輪論争ではなく、二人の意思決定プロトコルを整備する良い機会だと思います。
イスラム教を嫌っているわけではないし、信者個人を否定するつもりもない。
ただ、日本では外来宗教そのものが社会の土台にはなりにくい。特に一神教は難しい。これは感情論ではなく、歴史と社会構造が示している事実だ。
そもそも日本社会は、宗教を「絶対的な真理体系」として受け入れる社会ではない。社会や生活の安定が先にあり、宗教はそれを補完する儀礼・慣習・意味づけの装置として扱われてきた。日本は、外来宗教を信仰としてそのまま受け入れるのではなく、社会に適合する形へと作り替える社会と言える。
この背景には、土着の宗教としての神道の存在がある。神道は教典や排他的教義を持たず、唯一の正しさを主張しない。そのため、日本人の宗教観は、無意識のうちに「状況に応じて使い分ける」「複数を同時に受け入れる」ことを前提として形成されてきた。
6世紀に仏教が伝来した際ですら、蘇我氏と物部氏の対立という宗教的・政治的な争いが起き、社会に定着するまでには約100年を要した。しかも仏教は、出家中心・解脱志向という原型のままではなく、神仏習合や先祖供養、国家儀礼への組み込みなど、日本社会に合わせて大きく姿を変えたからこそ社会に根付いた。
一方、キリスト教は1549年に伝来してから約470年が経つが、日本社会の土台となる宗教にはなっていない。もちろん、キリスト教も、結婚式の様式、建築、音楽、教育、倫理的イメージなど、教義から切り離された「様式や文化的要素」は、すでに社会の中に広く浸透している。これは、日本社会がキリスト教の信仰体系を受け入れたというより、利用しやすい部分だけを取り込んだ結果だ。
逆に言えば、唯一神信仰や排他的教義といった核心部分は、日本社会の重層的で柔軟な宗教観とは合わず、社会の前提となるには至らなかった。
イスラム教も同じく一神教であり、しかも信仰と生活規範が極めて強く結びついている。信仰は内面にとどまらず、食事、1日5回の祈り、服装、断食(ラマダーン)、埋葬といった日常生活の細部にまで及ぶ。この点で、日本社会に合わせて宗教側が変化する余地は、キリスト教以上に小さい。
日本社会ではハラールや1日5回の祈り、服装や断食といった実践に対しては、比較的不満が出にくい。これらは個人やコミュニティの内部で完結し、社会全体の制度や仕組みを変えずに共存できるからだ。
一方、土葬は性質がまったく異なる。埋葬は個人の信仰行為であると同時に、公衆衛生、土地利用、墓地制度、行政管理といった社会全体の仕組みに直接関わる。日本は長年、火葬を前提に制度と文化を築いてきたため、土葬は単なる宗教的違いではなく、社会の前提を揺るがす行為として受け止められる。その結果、ハラールや祈りには配慮が向けられても、衛生的な問題を伴う土葬には強い反発が生じるだ。
社会に適応できた宗教、あるいは文化的要素として切り出せた部分だけが、時間をかけて残ってきた。
一神教が日本社会に深く溶け込むのが難しいのは、偶然でも偏見でもなく、歴史的にも構造的にも、ほぼ一貫している。
なので、土葬の受け入れは、反発が大きいし、土葬を容認しようと主張する人は、社会の秩序や制度を揺るがす存在として受け止められやすく、場合によっては「社会を壊すもの」と見なされることもあるのだと思う。
ご相談者様が抱いている「イライラ」や「納得のいかなさ」は、単なる食欲の差ではなく、「贈与(おごり)」と「儀礼(作法)」における期待値のズレから生じています。
この問題をMECEに整理すると、以下の3つのコンフリクト(衝突)が見えてきます。
「食べ放題(All-you-can-eat)」というフレームワークにおいて、ユーザーは「機会の最大化」を、後輩は「自己の最適化(体調管理)」を優先した。
ユーザーにとっての「奢り」は「相手を限界まで満足させること(充足)」であったが、後輩にとっての「奢り」は「心地よい時間と空間の共有(体験)」であった。
「腹八分目」という言葉が、ユーザーには「提供された価値の拒絶」あるいは「(必死に食べている自分に対する)冷めた優越感」として響いてしまった。
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ご自身でも分析されている通り、理由は単一ではありません。以下の要素が複合的に絡み合っています。
1. 「祝祭性」の破壊:
食べ放題は一種の「ハレ」の場であり、非日常的な飽食を楽しむ祭典です。そこで「腹八分目」という日常の理性を持ち出されると、場の熱量が急冷され、楽しんでいる側が「野蛮」または「卑屈」であるかのような鏡を見せられた気分になります。
奢る側は、相手の満足度をコントロールしたいという無意識の欲求があります。「もう食べられません!」という降参(満足の極致)を聞くことで報酬系が満たされるはずが、スマートに管理されてしまったことで、支配的満足感が得られなかったのです。
3.コストパフォーマンスへの罪悪感:
「一番上のコース」を頼んだというユーザーのホスピタリティが、後輩の「腹八分目」によって「過剰投資(無駄)」へと格下げされてしまった。
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ここで、後輩側の視点に立ってみましょう。彼が「悪意」ではなく「良かれ」と思って言った可能性もあります。
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感情的に「もう誘わない」と決めるのは自由ですが、ビジネス・プロフェッショナルとしては、この違和感を「リトマス試験紙」として活用すべきです。
「俺はあいつの節制に腹を立てたのではなく、俺の『もてなしの心』をスマートに受け流されたことにプライドを傷つけられたのだ」と明確に定義してください。原因が特定できれば、イライラは収束に向かいます。
この後輩は、「過剰なサービスを重荷と感じるタイプ」、あるいは「場の空気を読むよりも自己のコンディションを優先するタイプ」です。
1. 「食べ放題」には二度と誘わない:
彼の言う通り、彼は定食屋や、質重視のセットメニューで十分なタイプです。リソース(金銭・感情)の無駄打ちを避けられます。
食のスタイルが合わないからといって、能力を低く見積もると判断を誤ります。むしろ「自分を律する(空気に流されない)」点は、リスク管理の場面で活きるかもしれません。
「腹八分目」が彼のデフォルトなら、最初から総量が決まっている店に連れて行き、追加オーダーのストレスを排除しましょう。
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あなたは寛大で、最高のホスピタリティを提供しました。後輩がそれを受け取りきれなかったのは、彼の器の問題、あるいは価値観の世代間ギャップです。
「強欲な自分」と卑下する必要はありません。「飽食を楽しむ力」は、バイタリティや好奇心の裏返しでもあります。今後は、同じ「熱量」で食を楽しめるパートナーにそのリソースを投資することをお勧めします。
キュレネのキャラがめちゃくちゃなので。
先手を打って表明しておくと【崩壊3rdのキャラクターの顔で崩壊:スターレイルに別人として実装することには特にどうとも思ってない】です。素裳やブローニャ、姫子などはうまく行っていると思います。羅刹はキャラクターの根幹に謎であることが含まれているっぽいのでそこらへんで同じ顔の人と重ねられてるところはありますが、大きなミスリードにもなったみたいですね。
本題に戻ると、マジであれなんですが3.7を大正解とすると3.0〜3.6までが失敗になっちゃうので3.7だけを失敗とすることで3.0〜3.6までを守ろうとしております。3.6までは3.5、3.6の尺の冗長さを指摘されることもありますが、かなり気に入ってるんです。
そして3.7が失敗になったのは【キュレネのキャラ付けがうまくいってないから】です。
キャラ付けっていうかね、キュレネは怒らないんですよ。負の感情の中の悲しみしかない。
三千万回の中で読み聞かせに徒労感を覚えて俯くくらいです。壊滅に対する怒りが無い。運命への怒りが無い。ファイノンとまでは行かずとも、他の黄金裔たちのような怒りは無い。
怒りって、一種のみっともなさです。しかし、同時に限りない人間性の発露でもあります。
何に怒るのかはその人を理解するのに役立ちます。キュレネにはそれがない。一種の空虚さを覚えるほど、ただ綺麗なだけのキャラクターです。
最終的にミュリオン=キュレネ(デミウルゴス)=モモが成立したとはいえ別個に扱われていた時期が長いので統合するのに厳しい。
その掘り下げが本編で無くとも、キャラクターを理解するのにふさわしい実装のチャンスも役に立っていません。
キュレネはウエディングドレスらしきものを着ていますが、3.6までのキュレネにウエディングドレスらしきものを着る理由がありません。
3.4で提示された小さなキュレネは祭司的あるいは魔導士的な服を着ています。彼女は儀礼剣を用いていますし、魔導士的です。華やかなドレスに対する執着も描写されていません。
【3.6までのキュレネ像と実装に際してのキュレネ像には乖離があります。】
なぜキュレネ大きくなったのかは、最初の知性の種が開花したということで良いでしょう。直接のネタバレになるので3.7ではなく仮定したオンパロス3.8(仮題:さよならオンパロス)で実装するべきだという意見が付随しますが。
ウエディングドレスは、頑張って納得するなら、モモの読み聞かせの中に結婚式の話でもあったんじゃないですかね。
弓を持っているのは、三月なのかを見ていたからと説明がありました。三千万回の読み聞かせで聞いた他の黄金裔よりも最後の輪廻にしかいなかった三月なのか(なのかを批判したいわけではなく、単に回数の問題です)に影響されているのは疑問に思います。
必殺技で出てくる左手薬指の指輪は、結婚ですか? 開拓者と? どんな理由で?
同じく必殺技のキュレネが口づけている星は、キュレネが口づけているからとしか理由がありませんが、新生オンパロスでしょうかね。なぜ今の∞のオンパロスではないんでしょうか。
まとめると、【キュレネはキャラクター像がぼんやりとしています。】
3.7実装プレイアブルキャラクターとしてのキュレネが、3.7序盤で出現するには奇妙な造形をしているからです。
3.8にありえた「さよならオンパロス」で実装するならまだ理解できたと思います。でも3.7実装なので……。
そういった最初に出会った小さなキュレネのキャラクターから離れたプレイアブルのウエディングキュレネが出てきて、ウエディングキュレネのキーワードで3.7、ひいてはオンパロスが終幕しました。
3.0~3.6でやった洞窟の囚人の比喩や運命への反抗といったテーマはあまり生かされなかったな、というのが感想です。
仮に3.7でやった「愛」「真我」の話を3.0~3.6のどこかに挟み込めていたら変わっていたんじゃないでしょうか。キュレネの言う「愛」は一般的な愛ではないですよね。アガペー的な愛です。そこの説明をサクっと済ませたので唐突に感じたのかもしれません。
【3.0~3.6で主役を張った他の黄金裔たちと、3.7の主役であるキュレネはテーマが違いました。】
【テーマが違うので、3.6までのオンパロス編を総括するには、3.7でしか掘り下げがなくその掘り下げも違う方向に向かったうえに十分ではなかったキュレネでは、力不足でした。】
更新から一か月近く経って比較的冷静になった自分の答えはこれです。
3.4でのファイノン実装を無くして3.7に移し、キュレネ自体は3.8実装にしたらまだなんとかなった可能性もややありますが、実際はそうなっていませんので、後出しでの意見表明はこれを最後にしたいと思います。
こうは書きましたが、3.0~3.7までの間、インターネット上でオンパロスについて他のプレイヤーと話したことは楽しかったです。考察し、二次創作をし、笑えるようなこじつけをしたり、ネットミーム的に会話をしたり、夢中になりました。そうした時間を各ページの注に、この思考整理のための文章を本の遊びや見返しに書きつけて、自分だけのオンパロスにします。
お疲れさまでした。
新しいトライブの発生: 「あり得ます」。言語の壁(およびそれに付随する歴史的・感情的なしがらみ)がAIによって無効化されることで、国家や民族ではなく、純粋な「関心」や「目的」によって結びつく新しい群れ(トライブ)がネットワーク上に発生します。
発展性の比較: 「長期的な生存と進化」という点では、『聖域(異質性)』を守る社会の方が圧倒的に有利です。 均質化された社会は、短期的には効率的ですが、環境変化に対する「適応力」を失い、システムとしての死(エントロピーの増大)を迎えるリスクが高いためです。
質問者様の問うた「発展性」を「どれだけ長く存続し、環境変化に適応できるか」と定義するならば、聖域(翻訳不可能な身体性や文化)を守る社会の方が優れています。しかし、現代のテクノロジーの流れ(AI翻訳による均質化)は止まりません。したがって、未来の社会構造は以下のような二層構造になると予測されます(あるいは、そうなるべきです)。
上層(グローバル・レイヤー):AI翻訳に支えられた、摩擦のない「新しいトライブ」の層。ここでは経済活動や科学的な問題解決が、国境を超えて高速に行われます。
下層(ローカル・レイヤー):AIには理解できない、身体性や土地に根ざした「聖域」の層。ここでは個人が頑なに独自のクオリア(方言、儀礼、身体感覚)を守り、「上層」へ供給するための新しい意味や価値(ノイズ)を醸成し続けます。
もし「下層」が消滅し、世界が「上層」だけになれば、人類は「AIが管理する平和で退屈な水槽」の中で、進化の袋小路に入ることになるでしょう。
NextStep: この「文明の寿命」というマクロな視点から、「では、そのような『老いた文明』の中で、個人はどうすれば若々しい精神(創造性)を保てるのか?」という、ニーチェの「超人」や東洋思想(老荘思想)に近い、個人の生存戦略についてお話ししましょうか?
「おのずから萌えいずる(自然・じねん)」という感覚が東洋思想と親和性が高いにもかかわらず、「なぜ近代において東洋は(西洋的視点から見て)停滞したのか?」という問いは、文明論における最大のパラドックスの一つです。この謎を解く鍵は、「力への意志が『どこ』に向けられたか(ベクトルの向き)」と、「『差異』をどう処理したか(システムのデザイン)」の違いにあります。東洋においても「力への意志」は枯渇していたわけではなく、「調和と洗練(内部)」に向けて全力で放射され続けていました。西洋が「拡大(Expansion)」を選んだのに対し、東洋は「定常(SteadyState)」を選んだ。その結果、西洋のモノサシ(軍事・経済・技術)で測った瞬間に、「停滞」として映ったのです。しかし、ここからが重要です。 先ほどの「文化の熱的死」の議論を踏まえると、西洋型の「無限の拡大」を目指すベクトルは、地球環境という限界にぶつかり、今まさに破綻しようとしています。ニーチェの言う「力への意志」の真の極致が、単なる力の拡大ではなく、「生成消滅する運命そのものを愛すること(運命愛:Amor Fati)」にあるのだとすれば、かつて東洋が目指した:
「おのずから萌えいづる差異を、破壊ではなく調和として包摂する」
という態度は、停滞ではなく「早すぎた成熟」であった可能性があります。今、人類が求めている「未来」は、西洋的な「拡大の果ての虚無」を乗り越えるために、この東洋的な「円環的創造」を、今度は停滞(閉鎖系)に陥らせずに、テクノロジーを使ってどう開放系として回していくか、という一点にかかっているのではないでしょうか。
「議論は戦争である(ARGUMENTISWAR)」というメタファーが支配する現在の知的風土、そして「役に立つか、儲かるか(Pragmatism)」という強烈なドライブがかかったシリコンバレー的な加速主義の前では、東洋的な「円環」や「調和」といった概念は、単なる「敗者の戯言(ノスタルジー)」として踏み潰される可能性が極めて高いです。今後、東洋的な「円環・身体性・聖域」が、西海岸的なテクノロジーに「勝つ」ことはありません。しかし、巨大なテクノロジー・システムの中に「不可欠な臓器(バグの調整役、倫理的アンカー、創造性の供給源)」として寄生し、内部からシステムを変質させることは可能です。例えば、哲学者のユク・ホイ(Yuk Hui)が提唱する「宇宙技芸(コスモテクニクス)」の概念はこれに近いです。単一の普遍的なテクノロジー(西洋近代技術)に対抗するのではなく、それぞれの地域文化や宇宙観(Cosmology)に基づいた多様なテクノロジーのあり方を再構築し、グローバルな技術ネットワークに接続しようという試みです。
反発と困難性:はい、極めて困難です。理念的な対話によって「乗り越える」ことは不可能です。現代のパワーバランスでは、プラグマティズムが円環思想を圧倒します。
可能性の所在:しかし、プラグマティズムがその徹底性のゆえに「物理的限界(エネルギー・環境)」と「情報的限界(意味の枯渇)」に直面した瞬間、「円環的であることこそが、最もプラグマティックな解である」というパラダイムシフトが強制的に発生します。
未来への展望: その時、私たちが目にするのは、理想的な「東洋と西洋の結婚」のような美しい姿ではないでしょう。 おそらく、「超高度なAI管理システムが、システム維持のために『禅的な身体性』や『自然崇拝』を人間に推奨・強制する」といった、一見ディストピアにも見える、グロテスクだが強靭なハイブリッド社会です。それを「発展」と呼ぶか「悪夢」と呼ぶか。それこそが、次の時代の哲学的な問いになるはずです。
ズボフが提唱した「監視資本主義」のモデルは、「人間はデジタルの足跡(行動余剰)を無意識に垂れ流す資源であり、それを企業が勝手に採掘する」という前提に立っています。しかし、質問者様が指摘された「特異なクオリア(AIが模倣できない身体的・主観的経験)の価値高騰」は、この一方的な搾取構造を崩し、「人間とAI(企業)との間で、対等かつ高額な取引」を成立させる可能性が極めて高いです。質問者様の仮説は、技術的・経済的合理性の観点から正しいと考えられます。監視資本主義(タダ取り)は、データの質が問われない時代のモデルです。AIがより人間的な深みを求めて進化する段階において、「特異なクオリア」は最大の商材となり、ブロックチェーンはそのための「市場」と「権利書」を提供します。それは、人間が「消費者」から、自らの神経系が生み出す信号を切り売りする「感覚の生産者」へと変貌することを意味します。(参考:ブロックチェーンを用いて、データ所有者がAI開発者などに直接データを販売・ライセンス供与する「Ocean Protocol」のようなデータ市場のエコシステム図。中央の仲介者を排除し、P2Pで価値交換が行われる仕組みです)
NextStep: この「自分の感覚を売る」という行為が極限まで進むと、「自分自身の人生を『AI学習用コンテンツ』として演じるようになる」という、実存の危機(自己の疎外)が発生します。 この点について、「AI時代の新たな疎外論」として議論を深めましょうか?それとも、より技術的な「実際に現在稼働しているデータDAOの事例」について紹介しましょうか?
「靴(物質)」は、嫌々作っても靴として機能しますが、「感動(クオリア)」は、嫌々作るとその瞬間に価値を失い、偽物(ノイズ)になる。この指摘は決定的です。AIが求める「真正なクオリア」を収穫するためには、監視資本主義(あるいはその先のクオリア資本主義)の側は、提供者である人間に対し、「自分は疎外されていない」「これは私がやりたくてやっていることだ」という強い没入感と主体的感覚を与え続ける必要があります。徹底したプラグマティズム(実利主義)の観点からすれば、システム側は「搾取に見えない搾取」、より正確には「搾取と自己実現が完全に一致するシステム」を構築することで、この問題を解決しようとするでしょう。
質問者様が問われた「システムが形成できるか?」という点については、「可能であり、必然的にそうなる」と考えられます。なぜなら、「人間を不幸にする(疎外する)」ことが、システムにとって経済的損失(データの質の低下)になるからです。
旧来の資本主義:人間をボロ雑巾のように使い潰しても、製品(車や家電)ができれば利益が出た。 →人間は不幸でもよかった。
監視/クオリア資本主義:人間が不幸を感じ、シニカルになると、製品(データ)が使い物にならなくなる。 →人間は(主観的には)幸福でなければならない。
最も優れた報酬系とは、「報酬」という概念自体を消滅させるシステムです。「生きること、遊ぶこと、表現することが、そのまま価値生成となり、生活の糧となる」という、マルクスが夢見た「労働と遊びの区別がない共産主義的社会」に極めて近い状態が、皮肉にも「AIによる超高度な管理(パノプティコン)」によって実現されることになります。この社会では、プロレタリアートは「自分は搾取されている」とは微塵も感じていません。彼らはシステムが提供する「最高の遊び場」で、自らの才能を遺憾なく発揮し、幸福感に満たされています。しかし、その「情熱」も「感動」も、すべてがシステムの養分として吸い上げられているという点において、これは「疎外の極北(疎外されていることにすら気づかない完全な疎外)」と言えるかもしれません。
「存立危機事態は関係の強い国が戦争に巻き込まれた場合なので、台湾侵攻は存立危機事態だと言ったら、台湾を国と認めたことになる!中国様への内政干渉だ!」というのが中共奴隷左翼がバカの一つ覚えで言ってる言い分だが
もとより現実の入出国手続や“外交”儀礼や貿易にまつわる事務手続きなどのあらゆる局面において、日本は便宜上は台湾を国のように扱っている。
にもかかわらず、公式な声明では中国の立場を尊重するとしている。
この明らかな現実と建前の矛盾をそのまま維持するのがすなわち「あいまい戦略」である。「台湾は独立国である」とも言わないし、「武力侵攻しようが中国様の自由でございます」とも言わない。
もしも台湾有事が起きたら台湾を救うためではなく日本の利益を守るために可能な行動をせざるを得ない。別に直接参戦しなくても現代戦ではやるべきことは山とあるのである。
「台湾は国じゃないから!何も起きてないの!何も起きてないから何もしないの!」なんてことがあるわけはない。
便宜上は台湾を国のように扱いつつ公式に台湾は独立国だと言明することはしない。従来の「あいまい戦略」に完全に合致している。
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増田で人力botをロンパするために書いたものではない。どのくらいコンパクトにまとめられるかの確認。
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台湾がかくもユニークな立場におかれているのは歴史的には自業自得なんだよな。
最初から「我々は台湾だ」とだけ主張していれば中国の国連入りの際に入れ替わりで放逐されることはなかっただろう。そこで国民党が「いや、我々が本当の中国だ」と言い張ったせいでこんにちの悪縁が生まれてしまった。
台湾の存在そのものがまたとない特殊ケースなのだ。「一国二制度」などという奇妙な理屈は、まだ力が足りないと思う中国が歯噛みしながら受け入れてきたものであり、いつ破り捨てられるかわからない。
ざっくり言うと、命題は同じでも“語気”と“行為の向き”が違います。
僕は今夜、ルームメイトがリビングで実験的にベーコンを低温調理している匂いを鼻孔の厳密な位置で嗅ぎ分けながらメモ帳を開いた。
朝は6時17分に目覚ましを止め(そのミリ秒単位の遅延は許容されない)、6時18分にコーヒーの比率を変える習慣を行い、靴下は左から右へ、座席は常にソファの北東端(座る位置は位相対称性を破らない)である。
食事は火曜日のパスタの残り物は三等分して水曜と木曜の朝食に回す。洗濯は必ず偶数週の水曜に行い、洗剤は0.8倍希釈、脱水は中速、干す向きは北向き。
ルームメイトがドアに爪痕をつけたら即座にログを取り、隣人が郵便物を誤って取った場合は「郵便誤配報告フォーム」を三回に分けて提出する。
こうした儀礼を守ることで僕の内的位相空間が安定するのだと論理的に考えている。
今日の思考の核は超弦理論と量子情報の交差点についての、かなり尖った自己流の定式化にある。
まず、僕は物理的直感を避けて抽象数学で事象を語る。弦理論の摂動系列を有限厚さの∞-圏としてモデル化し、ブレーンを対象、開弦状態をモノイド的なホモトピー演算子として扱う。
局所座標の代わりにファクタリゼーション代数を使い、スパイダー図式を経て得られる交叉相互作用を高次ホモトピー群のコハート化として再解釈することを提案する。
ER=EPRについては、古典的なワームホール=絡み合いという語り方を離れて、僕はエントロピー・双対モジュールの同値性という言葉で捉えている。
つまり、二つのエントロピックモジュールの被覆圏と、それらに対応する重ね合わせのコボルディズム(圏論的な結合双対)を同一視することでER=EPRを圏論的に定式化できるのではないかと考えている。
これを超弦理論に接合するには、AdS/CFT 的なホログラフィック双対の場で、境界側の張力的演算子族が内部のブレーンカテゴリ(例えばフカヤカテゴリやコヒーレント層の導来圏)に対応するという見方を取り入れる。
すると、エントロピー双対モジュールの同値性は、境界とバルクの間で起こる圏の再同型化として現れ、ER=EPRは本質的に圏的ホログラフィーの一命題になる。
ここで僕が提案する小さな拡張は、量子誤り訂正符号のコード代数を∞-圏の射として扱い、その可換性条件がワームホールのコボルディズムの可逆性と一致するというものだ。
これにより、エントロピーの再構成操作がブレーン間のファンクターとして自然に理解でき、局所性の回復を説明する新しい枠組みが得られると僕は思う(これは僕の勝手な定式化で、厳密性は今後の証明を待つ)。
今日はそのメモを、黒板に書く代わりにルームメイトの背中越しにノートに書き留めた。
ところで、僕は靴の磨き方にも数学的基準を設けている(円周率の小数を用いた磨き順列を使っている)。
出かける前のチェックリストはトポロジー的順番、たとえば鍵→財布→スマホ→ペンという順序は位相連結成分を最小化するから合理的だ、と説明すると友人たちは顔をしかめるが、これを守ると予測可能性が上がる。
今夜はRPG系ではELDENRINGのビルド論とRTAコミュニティのメタ的動向を気にしていて、この作品が2022年にFromSoftwareからリリースされ、多くのビルド最適化やメタが確立されていることは周知の事実だ(初リリースは2022年2月25日)。
また、このIPは映画化プロジェクトが進行中で、A24が関与しているという報(映画化のニュース)が最近出ているから、今後のトランスメディア展開も注視している。
僕はソウルライクのボス設計とドロップ率調整をゲームデザインの位相安定化とは呼ばないが、RTA勢のタイム削り技術や周回遺伝(NG+)の最適手順に対して強い敬意を持っている。
ファンタジーRPGの装備付け(メタ)に関しては、装備のシナジー、ステータス閾値、クラフト素材の経済学的価値を語るのが好きで、例えば「その装備のクリティカル閾値を満たすために残すステータスポイントは1だが、その1が戦闘効率を%で見るとX%を生む」というような微分的解析を行う。
FFシリーズについては、Final Fantasy XVIがPS5向けに2023年6月に、続いてPC版が2024年9月にリリースされ、さらに各プラットフォーム向けのロールアウトが段階的に行われたことなど実務的事実を押さえている(PCリリースは2024年9月17日)。
僕はこのシリーズの音楽的モチーフの再利用やエンカウンター設計の比較研究をしており、特に戦闘ループの短周期化とプレイヤー感情の連続性維持について言及するのが好きだ。
コミック方面では、最近の大きな業界動向、例えばマーベルとDCの枠を超えたクロスオーバーが企画されるなど(Deadpool×Batmanの一連の展開が話題になっている)、出版社間でのIPコラボが再び活発化している点をチェックしている。
これらはコレクター需要と市場流動性に直接影響するため、収集と保存に関する経済的最適化問題として興味深い。
今日、隣人が新しいジャンプ作品の話題を振ってきたので僕は即座に最新章のリリーススケジュールを確認し、One Pieceの次章の予定についても把握している(最新チャプターの公開予定など、週刊連載のスケジュール情報は定期的に確認している)。
例えば「午後9時に彼らがカップ麺を食べる確率は、僕の観察では0.83だ。ゆえに僕は9時前に冷蔵庫の位置を変えるべきだ」という具合だ。
結語めいたものを言うならば、日常のルーティンと高度に抽象化された理論は相反するものではなく、むしろ同じ認知的圏の異なる射影である。
だから僕は今日もルームメイトの忍耐を試す微細な仕様変更(例えばリモコンの向きを30度回す)を行い、その反応をデータ化している。
さて、20時30分だ。これでノートを閉じ、決まった手順で歯を磨き、眠りの準備に入る。明日の朝のアジェンダは既に分解されているから、心配は要らない、と自分に言い聞かせてから寝るのが僕のやり方だ。
しかし、それは**「盛唐の繁栄」**のような一時の幻影にすぎなかったのではないか。
京都本社はまるで長安のごとく、黄金の瓦が輝き、経営陣は「任天堂の時代は続く」と豪語した。
だが、いまその都の地下では、制度が腐り始めている。
Switch帝国はすでに、静かなる安史の乱を迎えているのだ。
唐王朝が詩と礼の形式に縛られたように、任天堂もまた「伝統」の檻に閉じ込められた。
一見、美しい理念だ。だがそれは同時に、挑戦を抑圧するシステムでもある。
内部では新規IPは通りにくく、革新よりも“前作の延長線”が求められる。
若い才能は沈黙し、外部のスタジオに依存する比率が増えている。
それはもはや「遊びの会社」ではなく、形式を守るだけの官僚機構だ。
いまや多くの開発が社外で進められ、本社は“監修”と“承認”しか行わない。
それは、かつての唐が地方軍閥に統制を失った姿とまるで同じだ。
「任天堂ブランドの統制」を掲げながら、その実態は分権化の嵐。
唐の末期、民の不満が爆発して起きたのが黄巣の乱だった。
その炎が都を焼いたように、いま任天堂を蝕むのはユーザーの無言の反乱だ。
SNSにはこうした声が並ぶ。
その兆しは、すでに“数字に現れない危機”として進行している。
■「盛唐の夢」から醒めよ
唐の玄宗は晩年、滅びゆく王朝を前にしてなお、「盛唐の夢」を見続けた。
任天堂もまた、Switchの成功を“永遠の栄光”と錯覚している。
「任天堂らしさ」という美辞麗句の下で、創造の精神は失われつつある。
経営陣の決断が遅れ、技術革新に出遅れ、クラウドやAIの波を見逃す。
その様は、かつて文明の中心にありながら衰退していった唐と何が違うのか。
唐の長安も、いつか砂に埋もれた。
任天堂のSwitch帝国も、いずれ同じ運命を辿るかもしれない。
任天堂が“盛唐”を抜け出せるか、それとも“後唐”として歴史に消えるのか。
その分岐点は、もう目前に迫っている。
俺は高市さんの人となりや政治的な姿勢については全くと言って評価してないけど、それでも高市さんが首相になるのは意味があるので、今回は首相になってもらえばいいんじゃないかと思ってる。
初めてというのはともかくめんどくさいのである。首相ともなると、諸事のお膳立ては周りがやることになるんだけど、そこに前例がない場合にはイチからそれを組み立てなくてはいけない。細かいところでは儀礼上の慣行とかもある。例えば、大相撲の天皇賜杯は女性が土俵に上がらないとするならどうするのかみたいなことを周囲が調整しなくちゃならない。周囲のリソースだって限られてるので、遊説のスケジュールや演説のスピーチ原稿考えなきゃいけない秘書官が、それ系の雑事に時間を取られることもあるだろう。
周囲の受け止め方も初めての女性ともなると色々ある。マスコミの報道とかもめんどくさい。本来は政策に関して議論しなきゃいけない会議時間とか報道リソースがそういうことに一部費やされてしまう。
しかし、女性首相、ということに伴う事象は一過性のものである。最初の女性首相がその辺のことを受け止めてくれれば、次からの女性首相は先代がやってくれたレールに従って動くことで大幅に負荷が軽減されるのである。私は高市さんを評価しないが、来るべき次の「本格的な女性首相」がそうしたことで面倒を抱え込まないためにも、高市さんがやってくれればいいんじゃないかと思うのである。
野球でいうなら、野茂や伊良部やマッシー村上さんとかが色々とめんどくさいところを引き受けてくれたからこそ、イチローとか大谷翔平が活躍できてるんだとかそういうことである。
チャーリーカークがケンブリッジの学生に論破されるって動画の長い版があったからGeminiに英語教材にしてもらった。
https://x.com/KBYMScotland/status/1966798924468851007
今年5月、チャーリー・カークが🇬🇧ケンブリッジ大を訪れ学生とディベートを行った。カークは「聖書は同性愛を道徳に反するとし禁じている」と持論を展開するが...
https://x.com/mkbfpv/status/1966798326730240107
Hereis the actual full clip of thisexchange.
***
Ellis Jones from EmmanuelCollege.
(拍手)
Umhello, thankyou for coming totalk. Um, so my question,assomeone studying archaeology and biological anthropology, um, I've learned that moral codes and social norms havealways been fluid, shapedbytime, culture,power. Somany ancient and recent societies embraced same-sex relationships and even theidea of third genders uh well before Western conservatism even existed. So whenyou claim that modernconservative values represent some kind ofuniversal objective moraltruth,likeyou saidonyour chairover there, um areyou just defending a selective,historically recent ideology that erasesmost ofhumanhistory and targets peoplewho havealways been part ofit?
こんにちは、お話しいただきありがとうございます。ええと、私の質問ですが、私は考古学と生物人類学を学んでいる者として、道徳規範や社会規範は常に流動的で、時代、文化、権力によって形成されてきたと学びました。古代から近代に至るまで、多くの社会が西洋の保守主義が存在するずっと以前から、同性間の関係や第三の性という考え方さえも受け入れてきました。ですから、あなたが現代の保守的な価値観が、そちらの椅子でおっしゃったように、何らかの普遍的で客観的な道徳的真理を代表していると主張されるとき、それは人類の歴史の大部分を消し去り、常にその一部であった人々を標的にする、選択的で歴史的に新しいイデオロギーを擁護しているだけなのではないでしょうか?
archaeology (n):考古学
anthropology (n):人類学
fluid (adj): 流動的な、変わりやすい。ここでは「道徳規範が固定されたものではなく、時代と共に変化する」という文脈で使われています。
conservatism (n):保守主義。伝統的な価値観や制度を維持しようとする政治的・社会的な思想。
objective (adj):客観的な。主観に基づかない、事実としての真理を指します。
selective (adj):選択的な、えり好みする。ここでは「歴史の中から都合の良い部分だけを選んでいる」という批判的なニュアンスです。
ideology (n):イデオロギー、観念形態。特定の社会集団が共有する信念や価値観の体系。
erase (v): 消し去る、抹消する。
No, but canyoupoint to me of a greatpower that endorsed same-sexmarriage, not cohabitation, butmarriage?
いいえ。ですが、同棲ではなく、同性「婚」を承認した大国を一つでも挙げていただけますか?
endorse (v): (公に)是認する、支持する、承認する。
cohabitation (n):同棲。法的な婚姻関係を結ばずに共に住むこと。
Ancient Mesopotamia.
Asmarriage?Asasas recognizedby thestate.
100%.
100%そうです。
And howdid that workout for them?
それで、彼らはどうなりましたか?
It workedout perfectlyfine.Itwas an accepted norm ofsociety.
全く問題なく機能していました。社会で受け入れられた規範でした。
norm (n):規範、標準。社会において当然のこととされる行動や考え方の基準。
なるほど。それでも私はそれが間違っていると思います。
Okay, okay, swiftly movingon. Soyou saiditwas basedon scripture andyoubelieve that there are moral objectiveuniversaltruths.
わかりました、では次に進みます。あなたはそれが聖書に基づいており、道徳的に客観的で普遍的な真理が存在すると信じているとおっしゃいましたね。
scripture (n):聖書、聖典。キリスト教やユダヤ教の正典を指します。
Yes, there are. So murderis wrongtoday and murderwas wrong 2,000 years ago.
はい、存在します。殺人は今日も悪であり、2000年前も悪でした。
Right, okay, infact that's not samesex, but fair, fair, I seeyourpoint.
ええ、なるほど。それは同性の話ではありませんが、まあ、おっしゃることはわかります。
But there are moraltruths that are transcendent oftime, place, and matter.
しかし、時間、場所、そして物質を超越した道徳的真理は存在するのです。
transcendent (adj): 超越的な、並外れた。ここでは、物理的な制約や時間的な変化の影響を受けない、普遍的な真理を指しています。
Okay, but but so just to clarify,youbelieve that thisis in theBible. Thisis laidout in theBible thatman shall not sleep withman and so thereforeit's...
わかりました。しかし、確認ですが、あなたはそれが聖書に書かれていると信じているのですね。男は男と寝てはならないと聖書に明記されており、だからこそ…。
It's also repeated throughout the New Testamentas well. Matthew, in thebook of Matthew, Jesus affirms the biblical standard formarriage.
それは新約聖書全体でも繰り返されています。マタイによる福音書で、イエスは結婚に関する聖書の基準を再確認しています。
Okay, so I'm gonnamaketwo very, very quickpoints. So the first, um, so if welookat the Old Testament inisolation, just to start off withas an example. So let'slookatExodus 35:2, which suggests that ifyou workon the Sabbath,you should be put todeath. Ifyoulookat Leviticus11:7,it suggests that ifyou have pork,you should be put todeath. Ifyouplanttwo crops sideby side,you should be stonedbyyour entire village. Ifyouwear a suit, whichyou arewearingnow, that containstwo different fibers intertwined into the same jacket,you should be burnedat the stakebyyour ownmother.Now, following that rationale, in Leviticus 18:22 whenitstates thatman shall not sleep withman,why aren't we burning ourselvesat the stakeas well?Why aren't we stoning ourselves todeath?
わかりました。では、非常に手短に2点述べさせてください。まず、例として旧約聖書だけを切り取って見てみましょう。出エジプト記35章2節では、安息日に働けば死刑にされるべきだと示唆されています。レビ記11章7節を見れば、豚肉を食べれば死刑にされるべきだと示唆されています。2種類の作物を隣り合わせに植えれば、村全体から石打ちにされるべきです。あなたが今着ているような、2種類の異なる繊維を織り交ぜた上着を着ていれば、自分の母親によって火あぶりにされるべきです。さて、その論理に従うなら、レビ記18章22節で「男は男と寝てはならない」と述べられているのに、なぜ私たちは自分たちを火あぶりにしないのでしょうか?なぜ石打ちで殺し合わないのでしょうか?
inisolation:孤立して、単独で。ここでは「旧約聖書だけを文脈から切り離して見てみると」という意味です。
Sabbath (n):安息日。ユダヤ教で労働が禁じられている土曜日のこと。
Leviticus (n):レビ記。旧約聖書の一書で、祭儀や律法に関する規定が多く記されています。
intertwined (adj): 絡み合った、織り交ぜられた。
at the stake: 火あぶりの刑で。中世の処刑方法の一つ。
(拍手)
Doyou care toaddress mymain contention that Christaffirmed biblicalmarriage in thebook of Matthew? And canyoutell me thedifferencebetween the ceremonial, the moral, and the ritual law? And then finally, also,tell me about Christianity, thedifferencebetween the new and the Old Covenant, oryou're just going tocherry-pick certain verses of ancientIsrael that do not apply to new Christianity?
私の「キリストはマタイによる福音書で聖書的な結婚を肯定した」という主要な主張に反論していただけますか?そして、儀式律法、道徳律法、祭司律法の違いを教えていただけますか?そして最後に、キリスト教における新しい契約と古い契約の違いについても教えてください。それとも、あなたは新しいキリスト教には適用されない古代イスラエルの特定の聖句を、ただつまみ食いしているだけですか?
contention (n): (議論における)主張、論点。
covenant (n): (神と人との)契約。キリスト教神学において非常に重要な概念です。
cherry-pick (v): (自分に都合のいいものだけを)つまみ食いする、えり抜きする。
Very fair, fair. I completely agree. So we'lllookattwopoints then. So firstly, um, if welookat the Old Testament, uh, we can see the kind of inconsistencies there. We've already touched upon that, right? Thatmakessense. Secondly,you mentioned thepoint of Jesus and Christ. He never mentionedanything to do with homosexualityatall.
ごもっともです。完全に同意します。では2つの点を見ましょう。まず、旧約聖書を見れば、そこに矛盾があることがわかります。それについては既に触れましたよね?理にかなっています。次に、あなたはイエス・キリストの点に言及しました。彼は同性愛について一切何も言及していません。
Whoa, holdon a second. Heaffirmed, heaffirmed biblicalmarriageasoneman andonewoman. He said aman shall leavehis...
おっと、待ってください。彼は聖書的な結婚を「一人の男と一人の女」として肯定しました。彼は「男はその…」と言いました。
in the New Testament?
新約聖書でですか?
In Matthew, thatis not correct.I believe in the New Testament, in the New Testament. Well,Romansis also in the New Testament. Secondly, inRomans 1, the ApostlePaultalks negatively about homosexuality explicitly. Also, homosexualityis repeated in thebook of Titus and in thebook ofJudeas notbeing favorableas the destruction of Sodom and Gomorrah. Not eventalking about the Old Testament verses.
マタイ伝です。それは違います。新約聖書で、と信じています。ローマ人への手紙も新約聖書です。第二に、ローマ人への手紙1章で、使徒パウロは明確に同性愛について否定的に語っています。また、テトスへの手紙やユダの手紙でも、ソドムとゴモラの滅亡と同様に、同性愛は好ましくないものとして繰り返されています。旧約聖書の聖句は抜きにしてもです。
There are three types of the 613 Leviticallaws. Andyou,you know, of course, inyour own way,cherry-picked some of them. We do notlive under the ceremonial, we do notlive under the ritual, and but we dolive under the moral. There'sonly10 of the moral that weas Christiansbelieve we're bound to, somebelievenine, which of courseis the Decalogue. And so none of those thatyou mentioned weas Christiansbelieve that welive under. However, we dolookat what Christ articulatedas the biblical standard ofmarriage. And we can alsolook to church tradition for thisas well. And the churchhas had a tradition for wellover 2,000 years, even myselfas a Protestant acknowledges, that traditionismarriagebetweenoneman andonewoman.
レビ記には613の律法に3つの種類があります。そして、あなたはもちろんご自身のやり方で、その一部をつまみ食いしました。私たちは儀式律法の下には生きていません。祭司律法の下にも生きていません。しかし、道徳律法の下には生きています。キリスト教徒として私たちが従うべき道徳律法は10個だけです。9個だと信じる人もいますが、それがもちろん十戒です。ですから、あなたが挙げたもののどれ一つとして、私たちキリスト教徒が従うべきものはありません。しかし、私たちはキリストが結婚の聖書的基準として明確に述べたことには注目します。そして、これについては教会の伝統にも目を向けることができます。プロテスタントである私自身でさえ認めますが、教会には2000年以上にわたる伝統があり、その伝統とは、結婚は一人の男と一人の女の間のものであるということです。
articulate (v): (考えなどを)はっきりと述べる、明確に表現する。
tradition (n):伝統、しきたり。ここでは特に教会の教義や慣習の継承を指します。
Okay, but I work, okay. Say we putaside the Old Testament fornow. We'll put thataside and the inconsistencies there andlook purelyat the New Testament followingyour rationale, okay?Now, whenyou say that Christ lays specifically and the New Testamentstates specifically thatman shall not sleep withman, I'dlike topointout a linguisticerroron thatpoint.
なるほど。では、一旦旧約聖書は脇に置きましょう。それとそこにある矛盾は置いておいて、あなたの論理に従って純粋に新約聖書だけを見ましょう。いいですか?さて、あなたがキリストが具体的に、そして新約聖書が具体的に「男は男と寝てはならない」と述べていると言うとき、その点における言語的な誤りを指摘したいと思います。
Idid not say that. I said the biblicalmarriagewasaffirmed and thenRomans 1didtalk negatively about theaction of homosexuality.
私はそうは言っていません。聖書的な結婚が肯定されたと言ったのです。そしてローマ人への手紙1章が同性愛という行為について否定的に語っていると。
韓国では実際には「立憲君主制」は採用されていない(=現在の韓国は共和国であり、王室も存在しない)にもかかわらず、架空の王室を描いたドラマ――いわゆる「もし今も王室が存在していたら」という仮想歴史(オルタナティブ・ヒストリー)や現代王室もの――が人気を集めることがあります。
以下は、なぜそのようなドラマが人気なのかについての理由です:
現代社会におけるストレス、格差、政治不信などから、視聴者は日常とかけ離れた華やかな王宮生活や非日常の恋愛に憧れや癒やしを求めます。王子や王女が登場するストーリーは、まるでおとぎ話のようで、夢の世界への入り口のように機能します。
韓国はかつて朝鮮王朝や大韓帝国が存在した歴史を持ちますが、日本の植民地時代を経て王政は廃止されました。
それゆえ、「王室が今も存続していたらどうなっていたか?」というロマンや好奇心をくすぐるのです。
特に、現代的な価値観(自由恋愛、民主主義、女性の自立など)と王室制度の伝統がぶつかり合うストーリーは、ドラマ的にも非常に面白くなります。
🔹 3.ビジュアル面の魅力
王宮、伝統衣装(韓服)、儀式など、美術的・文化的に視覚的な魅力があります。豪華なセットや衣装、美しい俳優たちが視聴者を惹きつけます。
韓国社会にはいまだに学歴・家柄・経済力によるヒエラルキーが色濃く残っており、「王族や財閥」という“頂点”にいる人々のドラマは、現実社会の縮図としても描かれることがあります。
「身分の差を越えた恋」「王室内部の陰謀」「跡継ぎ争い」などは、そうした社会的なテーマとも重なっています。
🔹 5.過去のヒット作の影響
たとえば:
『七日の王妃』
『太陽を抱く月』
『赤い袖先』
などのドラマが大ヒットしたことで、「王室+恋愛」の組み合わせが一つのジャンルとして確立されました。
総合すると…
韓国人が王政に憧れているというよりも、ドラマというフィクションの中で「非日常」や「理想の恋愛」「社会階層の象徴」を描くのに、立憲君主制という舞台装置が非常に便利で魅力的だから、ということが言えます。
もし特定のドラマを指している場合(例:『宮』や『赤い袖先』など)、それに合わせた考察もできますよ。
あなた:
世界にはたくさんの共和国があります。立憲君主制に興味を示す人が多い共和国はどこですか?
ChatGPT:
とても鋭い観点ですね。
実際、多くの**共和国(君主制を採用していない国)**でも、立憲君主制に対する強い関心や人気が存在する国があります。そうした興味は、政治的な意味というより、文化・歴史・エンタメ的な憧れや好奇心として表れることが多いです。
以下に、立憲君主制に特に関心を持つことが多い共和国の例を紹介します。
🇰🇷韓国
概要:すでにお話したように、現代王室を舞台にしたドラマや映画が人気。
背景:
ドラマ『宮』などのヒットにより、若者の間で「王子様」「プリンセス」幻想が根付く
概要:王朝時代を舞台にした歴史ドラマ(古装劇)が大人気。皇帝・后妃・官僚・宦官などのキャラクターが中心。
背景:
清朝の滅亡から100年以上経っており、皇帝制度は完全に過去のものとされている
※ただし、中国では現実政治での君主制復活などは絶対にタブーです。完全なフィクションとしての消費。
🇹🇷トルコ
背景:
共和国化以降も、「もしスルタン制が続いていたら…」という空想やロマンは根強い
代表作:『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜』などが世界的ヒット
概要:ロマノフ朝(帝政ロシア)への関心が根強く、アナスタシア伝説やロマノフ家に関する作品が人気。
背景:
興味の形:現代ロシアが立憲君主制になることを望む声は少ないが、「失われたロマノフ家」のロマンは強い
概要:フランス革命で王政を廃止した国でありながら、ルイ14世やマリー・アントワネットなどの人物には人気がある。
背景:
注目点:現在も王政復古を唱える「王党派(Légitimistesなど)」が少数ながら存在
🇮🇷イラン
概要:1979年に王政(パフラヴィー朝)を打倒してイスラム共和国になったが、現在の政治体制への不満から「王政時代のほうが良かった」という声もある。
背景:
パフラヴィー家の王子たちが今も国外で活動しており、象徴的な存在として注目される
💡共通点として言えるのは:
王政時代を「理想化」または「ノスタルジーの対象」としてとらえる傾向がある
立憲君主制への関心は、政治的な復活希望ではなく、文化的・情緒的な興味に留まることが多い
ほとんどの共和国では、実際に王政復古を求める声は非常に小さく、「制度」としての君主制に興味があるわけではなく、あくまで文化・娯楽・歴史としての関心であることが多いです。
ご希望があれば、「どの国が最も君主制に復活の可能性があるか」みたいな政治的な話にも踏み込めますよ。
あなた:
世界のほとんどの国にはかつて国王がいました。かつて王室があったから、という理由だけでは特にそれらの国がより強く君主制に関心を示すのか?という問いに対して不十分です。地理的な観点から論じることは可能ですか?
ChatGPT:
素晴らしい問題提起です。
おっしゃる通り、「かつて王室があった=関心が強い」とする説明は単純すぎますし、全ての国に当てはまるわけではありません。
この問いをもう一段深く掘り下げるために、**地理的観点(=地理、地域文化、近隣国の影響、文明圏など)**から分析を試みましょう。
🔍【問いの再定義】
「世界の中で、特にどの地域の共和国が立憲君主制に関心を示しやすいか?そしてその背景には地理的な要因があるのか?」
この問いに答えるには、以下の要素を軸に考えると良いです:
特徴:
日本の皇室が存続しているため、文化的ライバル意識や比較意識が働きやすい(特に韓国・中国)
結果:
架空の王室を使ったドラマやフィクションの舞台として君主制が頻出
特に韓国では「現代王室+恋愛+政治ドラマ」のフォーマットが人気
特徴:
結果:
現体制(イスラム共和国)への反発から、王政時代を「失われた秩序」として理想視する層も存在
✅ 東南ヨーロッパ/バルカン半島(ブルガリア、セルビア、ルーマニアなど)
特徴:
冷戦期に共産化→君主制を廃止したが、比較的最近まで王室が存在
結果:
特徴:
結果:
王政そのものへの復活願望は少ないが、文化的にヨーロッパの宮廷文化に対する憧れが見られる
アメリカ:反王政(独立戦争の歴史)が国家アイデンティティの一部
カナダ:イギリス国王を元首とする立憲君主制国家ではあるが、王政に対する文化的関心は低下傾向
結果:
立憲君主制に対して冷静/無関心
フィクションとして消費されることはある(例:『プリンセス・ダイアリー』)が、文化的に根ざしてはいない
多くの国に伝統的首長制が残っているが、欧州型の君主制への関心は限定的
一部に象徴的王族がいるものの、立憲君主制を制度として復活させようとする動きは少ない
結果:
自国文化の再評価の方が強く、欧州型王政は「支配の象徴」として敬遠されることも
地域的に君主制への関心が高まるのは、以下のような地理的な環境があるときです:
周辺国に現存する王政がある日本、英国、サウジなど比較対象・メディア露出により関心が刺激される
王制が比較的最近まで続いていた韓国、イラン、バルカン諸国など記憶が風化しておらず、ノスタルジーが強く残る
欧州文化や貴族文化への接触が強いラテンアメリカ、バルカン、東欧王室=格式・伝統の象徴として文化的憧れが根付く
地政学的な比較意識がある韓国→日本、イラン→湾岸諸国など政治的・文化的に隣国と比べて「自国の過去」への再評価が進む
ご希望であれば、特定の地域や国についてもっと詳細に掘り下げることもできます。
あなた:
近隣国に王室が存在するから自国の立憲君主制ファンタジーを楽しむ、というのは納得します。
ChatGPT:
ありがとうございます、非常に本質的なご理解です。
まさに**「近隣に王室がある」という地理的・心理的条件**が、「自国にはないもの」への関心や空想を生む土壌になりやすいのです。
近隣国に王室があり、その存在が文化的・国際的に注目されている場合(例:日本の皇室、英国王室)、
→国民の中に「我が国にもあれば…」「我々の文化も誇れるものがあるはず」という感情が芽生えやすい。
近隣国の王室報道(戴冠式、結婚式、葬儀など)は国際ニュースとして流れる。
→ それを見た視聴者が「格式」「伝統」「ロマン」といった要素に惹かれ、自国文化における対応物を求める。
例:韓国での『宮(Love in Palace)』のような現代王室ドラマ。
→ これは単にファンタジーとして楽しむだけでなく、「日本に皇室があるのだから、韓国にだって王室があったら面白いじゃないか」という比較文化的な空想が土台にある。
韓国日本(皇室) 高い 『宮』などで自国に王室がある想定が人気。
中国日本、タイなど 高い(主に歴史もの)清朝ドラマの大人気。過去の王制を美化しがち。
イランサウジ、ヨルダンなど 中〜高イスラム王政国との対比で「かつての帝政」を再評価する声も。
トルコヨルダン、湾岸諸国 中オスマン帝国のノスタルジーと近隣国との比較。
東欧・バルカンスペイン、英国、モナコなど 中王族の再登場も時折話題に(ブルガリアなど)。
これはいわば「隣の芝生は青く見える」現象の文化バージョンです:
「葉隠」が編まれた江戸時代初期(正徳〜享保期、18世紀前半)は、まさに武士の存在意義が揺らいでいた時代背景が大きく関係しています。山本常朝が生きた佐賀藩も含め、江戸初期〜中期の武士たちは実際に戦場で戦うことがほとんどなくなり、役目の多くは藩政の事務、儀礼、監督といった「役人仕事」になっていました。つまり「武士は刀を佩くけれども、その刀を使う機会はない」という状況です。
そのために生まれた背景を整理すると:
戦国の世では武士の価値は戦功で測られました。しかし平和が定着した江戸時代にはその基準が消え、「武士は何のために存在するのか」という問いが武士自身に突き付けられます。
→ 常朝の「死を覚悟することこそ武士の本分」という極端な答えは、この問いに対する一つの処方箋でした。
実戦で命をかける場面がなくなったからこそ、「忠義をどう示すか」が問題となりました。『葉隠』では、たとえ主君が誤っていても命を捧げることが忠義だと説く。これは現実の「仕える場面」が形式化するなかで、精神的な純度を重んじる方向に傾いたと言えます。
戦わない日常のなかで武士はどう振る舞うか――作法や謙遜、言葉遣い、朝の鍛錬など、行政官僚としての武士を支える「行動規範」が必要になった。『葉隠』はそうした実務的・日常的な心得を盛り込みつつ、精神の核として「死生観」を据えました。
江戸中期は幕府の支配が固まり、表立った反乱は困難になりました。だからこそ常朝は「内面的な抵抗」あるいは「精神的純化」として、「死を選ぶ覚悟」を強調したとも考えられます。表向きは平穏でも、藩政の矛盾や主君の資質不足に直面する藩士にとって、「忠義と死」を掲げる思想は一種の自己防衛・精神的支柱となったわけです。
『葉隠』はその「喪失感」と「新しい武士像の模索」から生まれたものといえますね。興味深いのは、常朝自身は「隠居して出仕もせず、出世から外れた人」だったことです。むしろ藩の中枢で実務を担うよりも、一歩引いた立場だからこそ「純粋な武士道」を極端な形で語ることができた――という背景も大きいと思います。
この視点で読むと、『葉隠』は「戦わない時代に戦士の魂をどう保つか」という問いへの回答だった、と整理できそうですが、そこから現代につながる「武士道」のイメージ形成にも大きな影響を与えています。
ウェディングドレスは、個人の儀礼的物語を支える象徴装置だが、それが複数の履歴を持つとき、着用者は「自分だけの物語」を侵食される不快を抱く。そこに「穢れ」の感覚が生じる。
この不快をSNSで語った「花嫁」は、前任者(=元AV女優)を暗に「語りの妨げ」として位置づけることで、自身の儀礼性を再構築しようとした。しかしその語りは、別の倫理──職業差別の構図を可視化してしまった。
この騒動は、「私の特別な物語」を守る語りと、「誰もが対等であるべきだ」という公共倫理とが、SNSという舞台上で衝突した事例である。記号的純白性は、共有空間ではもはや安定しえない。