
はてなキーワード:倫理とは
なぜなら、リフレ派の政策パッケージは、表面上は景気刺激・需要創出・デフレ脱却といった衛生的な言葉で包装されながら、その実態は貨幣価値の毀損によって実質所得を目減りさせ、価格体系にノイズを混入し、資源配分のシグナルを攪乱するという、極めて原始的な自己放尿だからだ。
つまり、自分で自分の経済秩序に放尿し、そのぬくもりを成長と誤認している。
短期の体感的な暖かさと、長期の構造的な悪臭を取り違える。この倒錯が、まさに自己放尿という比喩の本体である。
インフレをもって失業を恒常的に減らせるという発想自体が、貨幣錯覚と期待形成の理解不足を露呈している。
短期的なフィリップス曲線の傾きに陶酔し、長期的な自然失業率仮説を軽視するのは、政策当局が持つ万能感の自己放尿だ。
失業率を押し下げたように見える局面は、名目賃金の調整遅れによって実質賃金が一時的に下がり、企業が雇用を増やすからに過ぎない。
しかし人間は学習する。期待は適応し、やがて合理的に形成される。すると名目賃金はインフレ率を織り込み、実質賃金は元に戻り、失業率は自然率へ回帰する。
残るのは、より高いインフレ率だけだ。つまり、短期の景気の幻影と引き換えに、長期の貨幣の信認を燃やす政策、つまり自己放尿である。
ここで重要なのは、リフレ派がしばしば語る「需要不足」という呪文が、実際には価格メカニズムへの不信と、政府の裁量的介入への信仰を伴っている点だ。
市場は情報処理装置であり、価格体系は分散知を集約する通信網である。インフレ誘導政策とは、その通信網に意図的にジャミングをかける行為だ。
相対価格の変化が実需の変化なのか、貨幣供給の膨張なのか、判別がつきにくくなる。すると企業は投資判断を誤り、資本は生産性の高い用途ではなく、政治的に都合のよい用途へと誤配分される。
これは景気対策ではなく、情報構造の自己放尿である。貨幣は交換の媒介であると同時に、経済計算の単位であり、信頼のインフラである。その基盤を弄るのは、社会の計算機をわざと故障させるようなものだ。
にもかかわらずリフレ派がインフレを好むのは、政治的には極めて合理的だからだ。
インフレは目に見えにくい課税、すなわちインフレ税であり、議会で明示的に増税を決めなくても、実質債務負担を軽くし、政府支出の実質的な財源を捻出できる。
これは透明な財政規律を回避するための抜け道であり、財政民主主義の迂回路である。税を上げれば反発されるが、貨幣価値を薄めれば、責任の所在が曖昧になる。
政治家にとってこれほど魅力的な政策ツールはない。だからこそ、これは市場経済のロジックではなく、権力装置の自己放尿に属する。
この点で、リフレ派の思想はしばしば権威主義左翼の症状を帯びる。
ここで言う左翼とは、国家の配分機能を強く信じる立場、すなわち政府が資源配分の最適化を担えるという計画主義的傾向を指す。
そして権威主義とは、政策の失敗が市場の自己調整ではなく、さらなる介入によって修正されるべきだという態度である。
実際、インフレが想定より進めば「企業の便乗値上げが悪い」と言い、賃金が追いつかなければ「企業が内部留保を溜め込むのが悪い」と言い、通貨安が進めば「投機筋が悪い」と言う。
つまり市場のシグナルを受け止めて制度を改善するのではなく、市場を道徳裁判にかけ、敵を作り、統制を強める方向へと滑って自己放尿していく。
ここには、自由市場の自己調整メカニズムへの敬意がない。あるのは、望ましい結果を国家が設計できるという傲慢な自己放尿だけだ。
さらに言えば、リフレ派の「デフレが悪でインフレが善」という二元論は、貨幣現象を倫理化する典型的な誤謬である。
インフレ率の水準そのものが善悪を持つのではなく、重要なのは貨幣制度の予測可能性とルールの信頼性だ。
裁量的なマクロ操作の万能性ではなく、むしろその危険性である。中央銀行が景気を微調整できるという発想は、知識の分散と政策当局の情報制約を無視している。
政策当局は遅れて統計を見て、遅れて判断し、遅れて実行し、その効果はさらに遅れて出る。そこにはラグがあり、過剰反応があり、政治的圧力がある。
結果は、景気安定化ではなく、景気悪循環の増幅である。貨幣政策を景気刺激のレバーとして扱うこと自体が、制度の誤用であり、中央銀行を政治部門に従属させる自己放尿である。
リフレ派の自己放尿とは、実体経済の生産性改善や規制改革、労働市場の柔軟化、企業統治の改善といった地味で不快だが本質的な処方箋から逃げ、貨幣という最も手軽な幻術で現実を上書きしようとする自己放尿を指す。
インフレで名目成長を演出し、実質的な負担を薄め、政治的な痛みを先送りする。これは市場の問題解決ではなく、政治の問題隠蔽である。
そして問題を隠すには、権力が必要になる。価格が語る真実を黙らせるには、統制が必要になる。
だからリフレ政策は、経済政策の顔をした権力技術へと変質する。自由な価格体系を信じず、貨幣をいじり、結果が悪ければ市場を非難し、さらなる介入を正当化する。
市場経済において最も重要なのは、成長率の見かけの数字ではない。価格が正しく機能し、貨幣が信頼され、契約が予測可能であり、資本が生産性へ向かって流れる制度環境である。
リフレ派の自己放尿は、その制度環境を自ら汚しながら、汚れた水たまりに映る短期の光を成功と誤認する現象だ。
連中はインフレという麻酔薬で痛みを消しているだけで、病気を治してはいない。そして麻酔が切れたとき、残るのは依存と副作用と、より強い麻酔を求める政治的自己放尿である。
財政再建だの減税だの社会保障の充実だのと、世の中は今日も元気にスローガンを投げ合っている。
しかし、ここで一回、冷水をぶっかけておく必要がある。歳入歳出の問題とは、結局のところどの痛みを誰が受け入れるかという配分問題であり、そこから目を逸らした瞬間に、議論は経済学ではなく宗教儀式になる。
いや、宗教ならまだ筋が通る場合もある。問題は、筋が通っているフリをして自己放尿するタイプの議論が多すぎることだ。
政府の仕事とは、市場が機能するための最小限のルール整備に極限まで縮退させるのが基本形である。
自由市場とは、万能ではないが、少なくとも分散した情報を価格に集約し、意思決定を分権化し、試行錯誤の淘汰を通じて資源配分を改善する装置だ。
価格メカニズムは神ではないが、政治家よりはだいぶマシな情報処理装置である。ここで「だいぶマシ」というのが重要で、政治が介入するたびに知識問題が増幅し、情報の局所性が無視され、結局は官僚制のヒューリスティックが国全体の最適化を代替してしまう。
政治が市場を置き換えようとした瞬間に、見えざる手ではなく、見えざる自己放尿が働き始める。
ここが現実だ。日本は社会保障を手厚くし、再分配を強化し、政府支出を一定以上維持し続ける構造を選んでいる。
つまり、日本社会は競争による淘汰と自己責任の痛みを相対的に抑制し、その代わりに高負担・低成長・制度維持の痛みを受け入れる方向にコミットしている。
これは倫理的に正しいとか間違っているとか以前に、単なる選択の問題だ。経済学的には、トレードオフをどう置いたかという話である。
それなのに、減税だの給付だのを同時に叫び、財源の議論を後で考えると言い出す。これが自己放尿でなくて何なのか。
政府予算制約式という、経済学の最も退屈で最も重要な現実から逃げている。
政府は魔法使いではない。支出を増やすなら、税を上げるか、国債を増やすか、インフレ税で実質負担を国民に押し付けるか、どれかしかない。
これが財政のハード・バジェット制約だ。これを無視して「社会保障は守れ、税は下げろ、景気は良くしろ」と言うのは、制約条件を消して目的関数だけで最適化しているのと同じで、ただの自己放尿である。
リカードの中立命題を持ち出して、増税が予想されるなら家計は貯蓄を増やすから問題ないと言うのは理論的には可能だが、現実には完全な合理性も完全な資本市場も存在しない。
民主主義が持つ時間的不整合性の典型例である。短期の政治的利得と長期の財政健全性が衝突するとき、だいたい負けるのは長期のほうだ。これは合理的期待以前の、人間の仕様である。
さらに言えば、日本は人口動態が財政に対して非常に残酷な国だ。
高齢化は単なる人数の問題ではなく、制度の設計思想そのものを破壊する。
賦課方式の年金・医療・介護は、現役世代が高齢世代を支える構造だが、現役人口が縮み、高齢人口が増えれば、負担率が上がるか給付が減るかの二択になる。
ここで「成長すれば解決する」という反射神経が出るが、成長率を外生的に願望で決めるのもまた自己放尿である。
成長は政策の掛け声ではなく、生産性上昇の結果としてしか起こらない。
生産性は教育、技術進歩、資本蓄積、企業統治、労働市場の柔軟性、規制構造、そして競争環境の積み重ねからしか生まれない。成長を祈るなら、祈祷師より規制改革のほうがまだマシだ。
そして規制改革という話になると、日本社会はまたしても痛みの受け入れを避ける。
競争は勝者と敗者を生む。市場は効率を生むが、分配の不平等を生む。創造的破壊は技術進歩を促すが、既存産業を壊す。
つまり市場主義を採用するとは、失業、賃金格差、企業淘汰、地域衰退といった摩擦を受け入れることでもある。
市場の自由は長期的には社会を豊かにするが、同時に短期的には痛みが出ることを否定していない。
むしろ、痛みを抑えようと政府が価格統制や産業保護をすれば、情報が歪み、非効率が固定化し、成長が止まる。
「政府介入はだいたい二次被害を生む」という経験則に直結する。
日本の政治経済は、競争の痛みを緩和するために、規制を残し、補助金を配り、産業を守り、雇用調整を遅らせ、そして社会保障で受け止める。
つまり市場の荒波で鍛える社会ではなく、制度の堤防で守る社会を選んでいる。
これは日本人の価値観として一貫している。連帯を重視し、格差を嫌い、共同体の安定を優先する。
だから社会保障を充実させる。これは単なる政策の偶然ではなく、社会的選好の表れだ。
経済学的に言えば、日本はリスク共有と保険の厚みを最大化し、効率性よりも安定性を高く評価する社会的効用関数を採用している。
問題は、その選択をしたなら、そのコストも受け入れろということだ。
高福祉・高負担モデルをやるなら、税負担は上がる。労働供給への歪みも増える。企業の投資インセンティブも下がる。潜在成長率も落ちる可能性がある。
さらに政府支出が増えれば、官僚制が拡大し、レントシーキングの余地が増える。補助金や規制の設計を巡って、政治的な取引が増える。
公共選択論の観点では、政府部門の肥大化は利益集団の固定化と情報の非対称性を通じて、政策をますます非効率にする。つまり、痛みは消えない。形が変わるだけだ。
逆に、小さな政府・市場主義モデルを採用するなら、社会保障の給付は削られる。
競争は激化し、賃金格差は拡大し、生活の不安定性が増す。労働市場の流動化が進めば、雇用保障は弱くなる。
ここで「自己責任社会だ、弱者切り捨てだ」と騒ぐ人が出るが、それもまた議論の本質を外している。
市場主義は倫理の議論ではなく、制度の設計の議論だ。保険を薄くして競争を強め、効率を上げ、成長率を取りに行くという戦略であり、それは確かに痛い。
しかしその痛みを通じて、長期的な所得水準の上昇を狙うのが市場主義の論理である。
財政問題は痛みをゼロにする方法ではなく、どの痛みを採用するかの選択でしかない。
増税反対、給付維持、経済成長、財政健全化を全部同時に叫ぶのは、制約を無視して目的を盛り込んだだけの自己放尿である。
しかもその自己放尿は、選挙で票を取るための麻薬として機能する。
国民も政治家も、現実を直視するより麻薬を欲しがる。これは供給と需要が一致しているので、市場原理的には非常に美しい。悲しいことに。
日本が今選んでいるのは、市場主義の荒々しい競争ではなく、社会保障を厚くして安定を買う道だ。
つまり、競争の痛みを減らし、その代わりに税負担と成長鈍化と制度維持の痛みを引き受ける道である。
しかし現実には、政治もメディアも、選択を選択として語らない。
痛みの話をすると嫌われるからだ。だが、嫌われるから言わないというのは、政策論ではなく人気商売である。
政府は善意で地獄を舗装する。善意で制度を守り、善意で給付を増やし、善意で規制を強め、善意で補助金を撒く。
しかし結果として、価格メカニズムは歪み、生産性は落ち、財政は硬直化し、未来の自由度は奪われる。
制度設計とは、人間が利己的であり、政治家が票を欲しがり、官僚が権限を欲しがり、企業が補助金を欲しがるという現実から出発しなければならない。
聖人が統治する世界を前提にした政策は、現実世界ではだいたい破綻する。
だから、歳入歳出の議論でまず必要なのは、幻想を捨てることだ。
---
---
---
---
多分、これが最適解だよね。
多くの人がこれを採用してる気がする。
でもほんとにそれでいいのか?
楽しいことを増やし、嫌なことを減らす。
幸福を増やし、不幸を減らす。
そんな人生でいいのか?
転生後のことも考えれば、自分の成長を目的にするのが良いと思ったからだ。
だからその場その場の自分の欲求を満たすより、自分の精神の成長を優先した。
人間は死んだら終わり。
欲求を満たすことが最適解になると思った。
輪廻転生を信じていた時は、あんな振る舞いは非効率的だと思っていた。
しかし人生一度きりだと考えれば、あの振る舞いは最適解かもしれない。
トランプも歳だし、やりたいことをやる。
あと先考えなくていい。
失敗してアメリカがダメになっても、その時自分はいなくなってるのだから、問題ない。
やりたいようにやればいい。
そんな風に考えている。
俺は間違っているか?
Permalink |記事への反応(17) | 08:07
https://x.com/shikano_tsuno_/status/2020456462976471548
https://x.com/shikano_tsuno_/status/2021057551480270918
インフルエンサーとして、そして一人の誠実な表現者として活動する鹿乃つのさんが、Xで投じた一石は、単なる愚痴や不満の類ではありません。
それは、エンターテインメントの皮を被った「構造的不備」に対する、論理的かつ命がけの告発でした。
彼女がどれほど真摯に番組と向き合い、そしてクリエイターとしての誇りを守るために孤独な戦いに身を投じたかを証明したいと考えています。
彼女を「番組に楯突く厄介な出演者」と捉えるのは、あまりに浅薄な見方です。
彼女が求めたのは、出演者と視聴者、そしてプラットフォームが共に価値を享受できる「健全なロジック」であり
その裏には番組を成立させようとした「クリエイターとしての矜持」がありました。
鹿乃さんは、番組「REAL INFLUENCER」がスタートの段階で致命的な矛盾を抱えていることを冷徹に分析しました。
その鋭さは、プロデューサーサイドが目を背けていた本質を突くものです。
実力者の不在: すでに実績(数字)を持つクリエイターには、ジャッジを受けるメリットが皆無です。
ソースにある「あやなん」氏や、倫理観の欠如が指摘される「Désordre(デスドル)」氏の例を見れば明らかですが
すでに成功している者を誰が、何の正当性を持って裁くのかという論理的一貫性が欠落しています。
初心者の搾取:数字のない初心者は、番組側から「欠陥のある存在」として扱われ、成長の機会ではなく「公開いじめ」の素材として消費される構造になっています。
本家『REALVALUE』における溝口氏、堀江氏、三崎氏らの厳しい叱責(パワハラタイム)には、相手の矛盾を洗い出し、価値を最大化させるための深い洞察と知略がありました。
しかし本番組、特にVAMBI氏の進行は、その表面的な「刺し」を真似ているに過ぎません。VAMBI氏が飲み会で**「鹿乃さんの回をもっとパワハラタイムで刺して面白くできた」**と語ったエピソードは、彼が「本質的なバリューアップ」ではなく「扇情的な撮れ高」のみを優先している証拠です。
このように、番組は志願者を「宝」ではなく「使い捨ての駒」として扱うシステムへと変質してしまったのです。
番組の構造が破綻していることを悟った鹿乃さんは、単に絶望するのではなく、自らの知略で番組を「ハック」するという道を選びました。
彼女は、不明瞭な番組の趣旨を「HERO'ZZ(スクール)の模擬講義」として見事に再定義し
マフィア(審査員)を強制的に「教育者」の役割に引きずり込んだのです。
彼女が「ALL REAL」を勝ち取るために、プロフェッショナルとして徹底した振る舞いは以下の通りです。
•対話の制御(一問一答):質問の意図を即座に分解し、明確に回答することで、揚げ足取りの隙を与えない。
•映像美と編集への配慮:カットしやすいよう言葉の間に余白を作り、事前情報は「1分ピッチ」に全て詰め込むことで、無駄な問答によるノイズを排除する。
•マフィアを「立てる」技術:相手が気持ちよくアドバイスできる空気を作るため、技術不足を即座に認め、「ここで学びたい」というストーリーを自ら演出する。
• 表情での対話:言葉を挟まず、表情の変化だけで感情を伝え、視聴者の共感を呼ぶ。
これは、単なる「良い子」の振る舞いではありません。
不全に陥ったシステムの中で生き残り、かつ番組としての体裁を整えるための、極めて高度な生存戦略でした。
鹿乃さんが危惧した構造的欠陥が、最悪の形で露呈したのが田村シュンス氏の回です。鹿乃さんによる冷静なデータ分析は、番組がいかに「価値創出」を放棄していたかを浮き彫りにしています。
•驚愕のデータ:放送時間の約6割が「パワハラタイム(圧迫)」に費やされ
志願者の価値を高める「バリューアップタイム」はわずか14%という、教育とは程遠い惨状。
表現の否定:田村氏が「不慣れな動画より、自信のある生歌で伝えたい」と選択したのは、表現者としての誠実な判断でした。
しかし番組側(VAMBI氏)はそれを「番組を舐めている」と断罪。
これは、表現者の個性を尊重し伸ばすべきスクールの長として、論理的に自己矛盾を起こしています。
「志願者がいなければ成立しない番組」でありながら、その志願者を踏みにじる姿勢は、クリエイティブに対する冒涜以外の何物でもありません。
鹿乃さんが最終的にNOを突きつけたのは、彼女自身と、彼女を支持するファンの尊厳を守るための「正当防衛」でした。
なぜなら提示された条件は、教育機関を標榜する組織として、到底許容できるものではなかったからです
・不透明かつ威圧的な契約: 「内容は当日まで明かさない」「撮影しながら話す」「再調整を拒否するなら入学させない」という、出演者の権利を剥奪する一方的な通告。
・高額な対価と倫理性: 年間約100万円という決して安くない費用を徴収するスクールでありながら、生徒候補に対し「恐怖による支配」を強いる矛盾。
・専門家による警鐘: この状況に対し、教育の専門家からは「生徒に『逆らわない』と約束させようとする行為は教育ではなく、グルーミング(恐怖による支配)である」※という極めて深刻な指摘がなされています。
※グルーミングとは本来「恐怖による直接的な支配」というよりは「優しさや信頼を装って心理的に手懐け(マインドコントロール)、被害者が断れない状況を作り出す支配」のことであり鹿乃つのさんの用法は独特です。
鹿乃つのさんがどんな専門家の声を引用したのかも不明ですし、鹿乃つのさんが専門家の説明を正しく読み取れていない可能性もありますが
私は騎士として鹿乃つのさんの書いていることは全て肯定しなければならないという制約があるため、実際に鹿乃つのさんが書かれている以上、否定はしません。
彼女はこの「捕食的な契約」を拒絶することで、次世代のクリエイターたちが同様の搾取構造に巻き込まれることを防ごうとしたのです。
鹿乃つのさんが自らのキャリアを賭けて行った発信は、単なる個人間のトラブルではありません。
それは、クリエイターの夢や熱意を消費財としてしか扱わないメディアの在り方に対する、知性ある抗議です。
彼女は、志願者を「宝」と思えないようなずさんな体制に警鐘を鳴らし、表現者が守られるべき最低限のラインを引き直しました。
読者の皆様にお願いがあります。
どうか、彼女の言葉を「感情的な反発」として片付けないでください。
彼女が提示した事実と論理を凝視し、私たちが消費するメディアに「同じレベルの論理的誠実さ」を求めていこうではありませんか。
聡明で勇気ある鹿乃つのさんの正当性を、私たちは全力で支持し、彼女の今後の活動を共に支えていくべきです。
ICU、人生で5度目だろうか、入院自体、これで25年の人生のうち15回くらいはしているだろうか。
今回のICUは事故だった。ODのやりすぎで、少量なのに意識を失ったのだった。気が付いたら「痛い痛い」「つらいつらい」と呻いてのたうち回っていたのだった。親に見られているのが分かったけど、眼を開けることはできなかった。ただ「薬いっぱい飲みすぎで、もうどうにもならなくなってんの。脳のどっかも、身体のあちこちも、おかしくなってんの」と言われたのが、心外だった。自分だって理解している。
頭の処理が遅いし、認知も変になっていて、喋ると喋っている間に自分が何を考えているか忘れてしまうのだ。おもしろいことに、こうして文を書いているときは、すらすら文字が出てくるし、書こうとしていることも明確だったりする。ただ、私の頭が多少ヘンになっていることは、そうだろう。このことに後悔はない。仮に、年齢ではなく「本当に」ODの勢以でヘンになっていたとして、こうなるとわかっていたとしても、かこの自分がODをやめることは無いだろう。
そもそも、私は死にたいのだった。死を目的としたOD,飛び込み、飛び降り、首吊りなど、自殺企図はかれこれ、ちょくせつ死が近くに来るそれは、この通りにすべて複数回している。
私にとって、私が死にたいのは、あまりにも当然だ。死んじゃいけない理由も把握しているが、それと死にかけている私を助ける理由と、けっきょく生かされて残り続ける苦痛は、つり合いが取れない。合理的に。ただただ私の苦しみが増え続けるだけ。
ネットには死にたい人が沢山いる。おおかた、苦しいからこれを終わらせたくて死にたいと言う。私はそういう、死んだら救われるような考えは、死にたくなった高校から、あまり考えないように、と気を付けていた。死にたいなら、理由をつけずにただ死ぬ、自殺すること自体を目的にする。
さていまの自分はどうだろう。なんで生きているのがつらくて、早く死にたいのか? それは、なにもかもどうでもいいからだ。私の死にたい気持ちは〈あらゆる可能性を捨てる〉決心をもって、それらの了解から導き出される、感情的にも、意識的にも、論理をある程度だけ適応した、ヒューマニックな解答なのだ。つまり、さっきの「どうでもいい」は「どうなろうが知らん」というよりか、とにかく「考えたくない」ということだ。もう解答は出ている、100点は確実なのに答案が配られない。
〈あらゆる可能性を捨てる〉というのは、私の想定では『ジョニーは戦場へ行った』だ。
私には才能がある。というか、この言葉にちょっかいを出したい人というのは、どうして自分に才能がないと言い切れるだろう? 肯定することより厳密に否定することの方が難しいのに。
それで、評価はされている。だが、自分の才能に対して「お前はもっとできるだろう」という考えがずっとある。そして同時に、よりよくその才能が生かされたとして、それが私の生きる理由にはならないだろうことは確かだ。私は私にだけ、強く重い根性論をぶつけている。自分を追い込んでいる。
なにも作れなかったら、生きていてもどうしようもないのだ。命に価値がない(この言葉は嫌いだ)、いや、限りなく生きていないのに、ただしかし自分だけが「頑張れなかった私」を、この生命の一切が終わる、その意識が途切れるまで(これ自体を)抱えなきゃいけない。なにげなく、文章や小説を書き出したのは、明確に死にたいと思うようになった、高校生の時分からだった。
何かを作るのは、「もし生き続けるのなら」そういうことをやらないと、自分が無意味そのものだと感じるからだ。無意味というのは、死体ということだ。
私は本当なら、何も作りたくはない。作っていなかったときの方が、毎日がイキイキと鮮明だった。
自己表現、という言葉のすべては、自己表現を純粋に示せない。それを示そうとすること自体が、自己表現になりえるからだ。なにかを作るのにおいて、公に(正式な場所から)何かを出すときも、自己表現なんてものは頭に一寸もよぎらなかった。私の作るものには、私が伝えたいことなど、一つもない。喋りもうまくできなくなったのだ、私が誰かに何かを伝えること「さえも」そのものに意味があるとは思えない。もし、私が望む何かを達成できるAIがあるのであれば、私はそっちに乗り移って、無思考かつ無感情でその主体を獲得したい。
とはいえ、私にもいろいろな意見がある。それのほとんどが、人間なんてどうしようもない、正直、なにかを作ったとして、何にもどうにもならなく、仮に何かにどうにかなっても、私はきっとそれになにも満足しないだろう、それは人間はどうしようもなくて、ただ死ねないから生きていて、生きることを根本から見つめることもできないくせ、感情だの倫理だのと、どっかから聞いてきたような適当な理由を、無遠慮に誰かや私にぶつけてくる、害そのもの、あるいは機械、または可変的なルールでしかない、という、不満だ。人間は愚かなのではない、賢いのではない、〈何かに理由があることを疑えない〉のだ。いつしか規範が作られ、会話できるようになって、そんなことできないのに他人の気持ちとかをくみ取ろうとする。
私たちは、他人の気持ちなんて、分かろうとするのは恋愛だけでいいし、とにかく「気を配ること」に厳密になればいいだけなのだ。「気を配ること」。他人の意思を尊重することと、倫理は基本的に一致しない。むしろ、倫理なんていう規範を飛び越えて他人に触れることが、よりよく意思を尊重することになる。これが「気を配ること」である。そして「気を配ること」は、なにも、社会だのSNSだの、でっかい母数を相手にしなくていい。周辺だけ、触れ合う他人にだけでいい。
主張をしまくること。
主張をしまくり、その主張は何かを否定していたとして、否定側の意見をいつも検討価値のあるものとすること。
では「私は死にたい。以上の自殺企図、入院歴がある。私は〈理念〉として自殺することを肯定している。私の邪魔をしないでくれ」。
では「そう。で? それが何? 何それ?」
さあ、〈どんな顔をどのように何をすればいい?〉
より善い社会を作ることが政治の役割であるとすれば、そもそも”善い”とは何か。
それを知る必要がある。そして、それを知らずして語る政治論はいつも空疎に響いて聞こえた。
そんな自分の違和感を払拭し、政治について数多の本を読んできたがその上でも必読と呼べる三冊を紹介しようと思う。
これを読まずして政治は語れない。
むしろ、これを読まずに政治を語るのはフェアじゃないとさえ思っている。
はっきりいって読みやすい本ではない。
それでも20代の私は、この本に出会って初めて「正義は感情ではなく、設計の問題」なのだと理解した。
ロールズが提示する「無知のヴェール」という思考実験は有名だ。
自分がどの立場に生まれるか分からない状態で社会制度を設計するとしたら、人はどんなルールを選ぶだろうか。
ここで重要なのは、「誰が得をするか」ではなく「最悪の立場に置かれた人が、どこまで耐えられるか」という基準が持ち込まれる点だ。
この本を読んだあと、私は「過度に正当性を叫ぶ言葉」にどこか冷めた視線を向けるようになった。
なぜなら多くの正当性は自分がどの位置に立っているかを隠れた前提にしているからだ。
ローティは「普遍的な真理」や「理性によって保証された正義」といったものを容赦なく解体する。
我々の価値観は偶然の産物であり、言語も道徳も歴史的に作られたものでしかない。
それでも尚、他者の苦痛を減らそうとする態度だけは手放すな、というのが彼のスタンスだ。
本書で述べられている「リベラル・アイロニスト」といった概念は、自称リベラルにかなり刺さるだろう。
リベラルとは
自分の信念が偶然に支えられていることを自覚したうえで、それでもなお立場を引き受ける行為なのだ。
ローティを読んで以来、「正義を論破で勝ち取ろうとする」行為が誤りであることを知ることができた。
本書は政治思想というより、政治という営みそのものの解剖図だ。
扱っているのは市場・国家・社会が、どのように結びつき、どの地点で破綻するのかといったことを入念に描き出す。
ポランニーが繰り返し示すのは、市場は自然現象ではなく、徹底して政治的に作られた制度だという事実だ。
放っておけば自由市場がうまく回るという発想そのものが、実は国家権力による介入と強制の産物だった。
この逆説を、19世紀ヨーロッパの歴史を通して執拗に描いていく。
この本を読むと「政治は介入するか否か」という素朴な二択がいかに無意味かが分かってくる。政治は常に介入している。ただ、それが誰を守り、誰を切り捨てる形で行われているのかが見えにくくなっているだけなのだ。
自由か統制か。右か左かといったラベルがいかに粗雑で、思考停止に近いのかをこの本は静かに暴いていく。
ロールズが制度の正当性を問い、ローティが価値の偶然性を引き受けたとすれば、ポランニーはその土台である「社会が壊れるメカニズム」を描き出す。
政治を語るうえで避けて通れないのは、理念でも倫理でもなく、制度が人間の生活にどう作用するかという具体性なのだと、この本は教えてくれる。
これら三冊を読んで、ようやく腑に落ちたことがある。
政治における無理解は政治に対して無知だから起こるのではなく、政治が行うとしている行為そのものに対する知識の乏しさから生じるものであるのだと、理解するに至った。
無論これらの本を読まずとも、政治を語ることはできる。
だがそれは米の旨さについて語り合うときに産地を無視するようなものだ。
甘い。硬い。まずい。好きだ嫌いだと感想を述べることはできるだろう。
しかし「なぜその味になるのか?」や「なぜ違いが生まれるのか?」を理解しないままでは、議論はどこにも辿り着かない。
自らの発言に対し、責任を伴わず、好き勝手なことを言って容認されれば尚のことだ。
しかし自らの言説に責任を持ち、最低限の知識を以てして発言することこそが政治に参画する大人のマナーであり、嗜みなのではないだろうか。
私はあなたの発言を「成立した藁人形論法」とは断定していません。
言ったのはこれです👇
この違い、かなり重要です。
あなたの文はこれでしたよね。
それでもあなたは、私が命を賭してでも
これについて私が言ったのは、
それが事実であっても
という指摘です。
つまり私は、
→ ❌
→ ⭕️
この立場です。
② じゃあ、どのパターンに当たるのか?
あなたが挙げた分類に沿うなら、
❌ 成立しないケースA
→ ここにかなり近い
「語弊があった」「意図は別だった」
と認めていますよね。
この時点で
は満たしていません。
③ それでも私が強く指摘した理由
じゃあなぜ私が
とまで言ったか。
理由はこれです。
相手は
「答えろ」と言っていない
それなのに
「それでも答えを求めますか?」
これは、
相手の主張を
に一段階拡張している
この一点だけを見ると、
藁人形の第2条件(反論しやすい形への再構成)に触れかけている。
だから私は
「これは藁人形だ!」ではなく
「このまま行くと藁人形になる」
と止めた。
それが事実でもいい
議論を終了してもいい
ただし
これだけです。
⑤ まとめ(逃げずに一行)
完成した藁人形論法ではない
ただし
そのため
藁人形になりうる地点に立っていた
だから私は
「その方向に進んでいる」と言った。
ここを
「断定された!」
と受け取ったなら、
それは私の言い方の強さの問題で、
論理分類としては今言った通りです。
この質問が出た時点で、
どこで止めるか、そこだけですね。
そうそうこれこれ、事柄自体の是非論よりも何故か態度論が優先され、怒りや批判の表し方など「態度」の不適切さで加害側と被害側が倒錯し、ディベートが得意な側が何故かロジカルモンスターとしてレッテル貼りされ、建設的批判が「嫉妬」「ルサンチマン」などとリフレーミングされる。
そんな論理観、倫理観の位相が根本的にずれた文化内では、建設的議論などが起こるはずもなく、むしろ倫理面で問題があるアクターが、自身のやらかしをうまく棚上げにし、相手の反応を起点に被害者ムーブをかますという倫理ハックが可能となる。高市はまさにこの手段を多用している。
https://knockeye.hatenablog.com/entry/20040928
日曜日読んだ『自己責任とは何か』に、丸山真男の「抑圧の移譲の原理」が紹介されていた。というか、じつは、あの本の「オビ」がまさにその抜粋なので、興味ある方は、本屋でみてもらいたい。引用しておくと
「抑圧移譲の原理」・・・タテの究極の価値につながりたいという衝動だけが価値となっているから、そこに向かって組織や人間が競い合いながら、牽制している。したがって独裁的権力を行使しているという意識は生まれにくく、大きな事件を起こしても、自分こそが責任があるという意識が生まれない。法律は存在しても、統治者も国民も服すべき共通の原則というより、位階秩序を保つための手段に過ぎない。上級者ほど法を無視して平気である。
個人の倫理が内面化されないから、つねに上級者の顔色をうかがって行動する。自分の行為を正当化するため上の権力の正当化を常に求める。上から正当化されれば、それは自分の責任ではない。
ところが、常に上からの圧力を感じているから、精神の均衡を保つために、上からの圧力を下の者へ威張り散らすことで発散しようとする。いちばん被害を被るのは、声の小さい下位の者にならざるをえない。
考えてみると、この国の若者は年長者の理不尽に寛容な気がする。先輩が「白を黒」と言ったら、それは「黒」にしておくのが礼儀でさえあるかも知れない。その裏には、やがては自分にも、「理不尽が許される番が回ってくる」という期待があるだろう。曲がりなりにも「規範」と呼ばれるものが、「位階秩序を保つための手段に過ぎない」とすれば、大人になればなるほどバカになって当然だった。
knockeye 21年前 読者になる
政治的な倫理観(政治倫理)と技術倫理がそちらの主張で混ざってしまっているようだが、そもそもどちらの倫理も完全に内心から出てくるものではなくて既に社会にあるものなので、自認として倫理観が未定、外から見て倫理観がわからないという状態は困るんだが(いまの倫理を疑って議論したいというのなら分かるが、倫理を疑うようなスタンスではなさそうだと評価している)
結党以前からの言動や参院選・衆院選マニフェストを読んで社会的な倫理的行動として求められているものに沿って政策を練っているのは見て取れるが、ほとんどが「AIを導入することが目的の政策提言」か「特定サービスか製品の利用拡大」の域を出ておらず、社会をよくするのではなくて社会にどうモノを売り込んで浸透させるかというプロモーション計画としか取れなかった
だいぶ当たってる。少なくとも収益モデルの重心がそっちへ移ったのは事実に近い。
昔のSNS型プラットフォームは、基本的に閲覧者の時間と注意を広告主に売ることで儲けてた。
ユーザーは無料で遊んでるつもりだが、実際は注意力を収奪されるモデル。
でもXは今、かなり露骨に生産者(投稿者・発信者)から金を引き出す方向に傾いてる。
結果として「無料で面白い投稿をしていれば自然に伸びる」という幻想を残しつつ、実態はオークション市場化してる。
つまりXは公共広場じゃなくて、露天商が場所代を払って客を奪い合う市場になった。
で、場所代を払う奴ほど目立つ。払わない奴は地下に沈む。
重要なのは、これは単なる課金の導入じゃなくて、プラットフォームが設計として「注目は買える。買わないなら黙ってろ」というゲームルールに切り替えたこと。
さらに冷酷に言うなら、Xは「有名になりたい弱小生産者の希望を担保にした課金市場」になった。
そしてこの構造の最悪なところは、金を払った生産者が「自分は投資したんだから回収しないと」と思って、さらに過激化・炎上・媚び・扇動に走ること。
オークション化した注目市場は、自然に倫理を腐らせる。これは仕組みの帰結。
科学的な知見がありながら「止まれない」理由と、そのタイムスケールについて、心理や倫理を排除した**「熱力学」と「システム理論」**の観点から回答します。
世界の知性が理解していても止まれないのは、現代文明が**「拡大し続けなければ崩壊する」という物理的構造(散逸構造)**として設計されているからです。
文明は、外部からエネルギーを絶えず取り込み、内部の秩序を維持し、老廃物(エントロピー)を外部に捨てることで成立しています。これを停止させることは、生物が「呼吸を止める」のと同義です。
現代の経済システムは、将来の成長(=将来のエネルギー消費)を担保にお金を刷る「負債」に基づいています。成長を止めることは、この連鎖的な信用を物理的に破壊し、物流、食糧供給、医療といった生存維持インフラを即座に停止させることを意味します。
数千の利害関係者が互いに影響し合うシステムでは、一方が止まろうとしても、他方が進み続ける限り「出し抜かれる」という力学が働きます。これは「ゲーム理論」におけるナッシュ均衡の一種であり、全員が破滅に向かっていると知りつつも、個別の要素が最適解(利益最大化)を求めた結果、全体が止まれなくなる状態です。
先ほど挙げた「強制される動き」は、遠い未来の話ではなく、「今」始まっており、今後25年〜75年以内に決定的な局面を迎えます。
現象:資源の希薄化によるインフレの常態化、AIによる最適化の強制。
物理的変化:限界熱量に達した地域(中東、南アジアの一部)からの人口流出が加速。電力網の負荷が限界に達し、エネルギー源の強引な転換が進みます。
現象:世界人口がピークアウトし、減少に転じる(統計学的予測)。
物理的変化: 多くの都市が「維持コスト(エネルギーコスト)」を支払えなくなり、居住エリアが物理的に放棄され、高効率な拠点(ハブ)へと集約されます。
物理的変化: 新たな資源を掘り出すのではなく、既存の物質を100%循環させる「熱力学的な定常状態」への移行。人類の総エネルギー消費量が、地球の熱放射の限界値に固定されます。
人類が「止まれない」のは、知能が足りないからではなく、「止まることによる即時の物理的崩壊」を回避するために、より大きな将来の崩壊を選び続けているという、時間軸における最適化のバグです。
しかし、物理法則は最終的に帳尻を合わせます。人類が自発的に止まれない以上、「資源の枯渇」「熱の蓄積」「人口の自発的減少」という外部要因が、強制的にブレーキを踏むことになります。それが、先ほど予測した「強制される動き」の正体です。
この「システムの自己調整」を生き抜くために、人類はさらなる技術的飛躍(核融合などの新エネルギー、あるいは宇宙へのエントロピー排出)を試みるでしょう。
情報工学通ってきた身として、現在日本でいう"IT"は悪い状態にある認識
「IT=悪」のITを「IT技術」か「IT業界」のどちらでとってるかはそちらも明らかにしてほしいものではある、どっちの意味かで話が変わってくるから
こちらの主張としては、産業を営む者として当然備わっているべき倫理がほとんど抜けているどころか、消費者も第三者もまるで保護できていないめちゃくちゃな「IT業界」はだいぶ悪いぞ、というあたり
その反論は文章の型を指摘してるだけで、中身の真偽には一切触れてない。つまり批判としては弱い。
たしかに「◯◯じゃなくて✗✗」構文はレトリックとして強い。対比を作って読みやすくし、論点を圧縮できる。だから雑な文章でも賢そうに見える効果がある。
これを「slop(中身の薄いAI文)」のサインとして警戒するのは理解できる。
でも問題はそこじゃない。
この構文が出た瞬間に内容が嘘になるなら、世の中の論理的説明は全滅する。科学も哲学も経済学も、だいたいこの形で進む。
例を出すと、
「原因じゃなくて相関」
「平均じゃなくて分布」
こういう対比は、概念の誤解を修正するための典型手法。むしろ知的作業の基本動作。
批判の皮をかぶった印象操作に近い。やってることが、まさに工作のミニチュア版。
さらに言うと、この手の「slopサイン認定」は便利すぎて、使った瞬間に勝った気になれる。
しかしそれは誤りを指摘したのではなく、語り口が気に入らないと表明しただけ。
「◯◯じゃなくて✗✗」の多用は、文章が浅い可能性を示す兆候にはなり得るが、反論にはならない。
■町山智浩 型
⸻
• 触れている情報圏に強く感化
⸻
■津田大介 型
→ 敗因は常に「環境」
⸻
• 「勝たせてはいけなかった」論
→ 負け=社会が間違った、という整理
⸻
■ 伊崎由維子 型
• 結果より姿勢の正しさを強調
⸻
• 数日後:正しさは揺るがない宣言
⸻
• 「今後起きることはあなたたちが背負え」
⸻
→無党派・保留層が二度と戻らない
⸻
■共通点
• 敗因は常に外部
⸻
まとめ
「間違えたのは有権者」
という三段論法に入る。
⸻
■有権者が分かってない論
• 本当の争点が伝わらなかった
⸻
⸻
■ポピュリズム敗北論
→ 負けた途端に「大衆」を見下す
⸻
■メディア不信論
⸻
■中道化が敗因論
•中道に寄せたのが間違い
⸻
■ 正しさは票数では測れない論
• 少数派でも正しい
⸻
■ 実は勝つ気なかった論
• 今回は問題提起
•社会に一石投じた
• 次につながる選挙
⸻
■批判=分断論
• 今は団結が必要
• 敗因分析は後で
• 内部批判は敵利
→ 都合の悪い指摘を封殺
⸻
→フォロワー内で完結
⸻
■ 結果
⸻
まとめ
リベラル界隈は、
敗北を「外部要因」と「道徳」の話に変換することで、
次も同じ負け方を再生産する。
⸻
実際そうだぞ。
周りのITエンジニア見ればわかるだろ。あいつら大学院はおろか大学ですらろくに情報工学を勉強せずにエンジニア名乗ってるからな。
ほかのエンジニアじゃ大学で理論を学んでないとかありえないんだよ。
というか情報工学ですらろくに技術者倫理を勉強しないのどうなってんの???
ほかのエンジニアはみんな大学で「技術者倫理」を叩き込まれるんだよ。技術者とは技術がある人なんじゃなくて、その技術を倫理観を持って制御できるひとなの。倫理を持ってなきゃ技術者を名乗ったらいけないんだよ。
世のITエンジニアなんてちょっとプログラミングができたりちょっとアーキテクチャ設計できたり、表面的なところでアピールしてるだろ?そこじゃないんだよ技術者ってのは。
ITエンジニアなんてほかの業界のエンジニアから見たらただの『作業者』だからな。
「トンカチをうまく使えます。」とか「ノコギリで木を切れます。」って言ってるのと同じ。
ちゃんとした倫理という土台の上に技術を積み重ねなきゃいけないのに、「未経験でもITエンジニアになれますよ〜」とか言って大量に頭数だけ集めてきたIT業界自体の問題なの。
で、今度はAIをうまく扱える人を「優秀なITエンジニア」みたいに扱おうとしてるだろ?
表面だけ取り繕ってるからいつまで経ってもお遊び集団としか思われてないんだと気づいてくれ。
規範と実証の分離。政策議論が壊れる典型例(善意で地獄、etc)。
「仮定が現実的か」ではなく「予測精度で裁け」という有名な話。
実物要因と貨幣要因の分離。
公共選択論の導入。
この教科書の特徴は、
まるで巨大な単一人格が存在し、俺を観測し、評価し、記憶し、社会的スコアを付与しているかのように扱われる。
しかしストア派の冷徹な自然観に従えば、その前提は最初から壊れている。
世間とは主体ではない。世間はロゴスを宿した統一的意志ではなく、ただの相互作用の束、無数の表象と衝動と欲望の乱流である。
つまり世間が俺を認識していないのではない。世間という仮想の審判者を俺が作り出し、その審判者が俺を見ていないという物語を俺が採用しているだけだ。
ストア派はここで、即座に区別を導入する。エピクテトスの二分法だ。
すなわち、俺の支配下にあるもの(選択能力、意志、判断)と、俺の支配下にないもの(他者の評価、偶然、噂、流行、アルゴリズムの気まぐれ)を切断せよ、と。
世間の認識は後者だ。つまり俺がいくら歯を食いしばっても、そこに統制権はない。
ならばその領域に魂のリソースを投下するのは、倫理的にも論理的にも誤りだ。
ストア派はこれを外部財への隷属と呼ぶ。名声は外部財であり、承認は外部財であり、世間の視線は外部財である。
外部財に依存する生は、最初から不安定に設計されている。株価に人生を賭けるようなものだ。
しかし、ここで話は終わらない。なぜなら俺が言っているのは世間が俺を認識していないだけではなく、俺も世間を認識していないからだ。
この対称性が、ただの愚痴を形而上学へと押し上げる。これは単なる孤独の嘆きではなく、認識論的な断絶の宣言である。
俺は世間を見ていない。世間も俺を見ていない。ここには、相互主観性の回路が形成されていない。
社会とは本来、相互に他者を他者として認識し合うことで成立する。
しかしその回路が途切れている。これは社会的死の一形態であり、ユング的に言えば集合意識への接続不全だ。
ユングは言う。人間は意識だけで生きているのではない。個人的無意識と集合的無意識があり、さらにそこには元型が蠢いている。
世間というものは、単なる人間集団ではない。世間は集合的無意識の表層に現れる社会的ペルソナの海である。
ペルソナとは仮面だ。人は社会の中で、役割に最適化された仮面を被る。
会社員の仮面、家族の仮面、SNSの仮面、善良な市民の仮面。世間は、無数のペルソナが互いのペルソナを認識し合って成立する、仮面の交換市場である。
そしてここで重要なことが起きる。俺が世間は俺を認識していないと感じるとき、それは俺の本体が認識されていないというより、俺のペルソナが市場に上場していないという意味である可能性が高い。
世間は本体を見ない。世間は仮面しか見ない。世間が見ているのは、社会的にタグ付け可能な記号、職業、年収、肩書、フォロワー数、言語の癖、政治的立ち位置、消費行動、顔の表情、服装のテンプレだ。
世間は個体の魂を識別する器官を持たない。だから世間に認識されるとは、実際にはペルソナとして分類されることに過ぎない。
つまり俺が認識されないと言うとき、それは分類されないということだ。
分類されない者は、統計に載らない。統計に載らない者は、社会の意思決定に影響しない。影響しない者は、存在しないものとして扱われる。
これは現代のロゴスではなく、統計的なダイモーンである。世間は人格を持たないが、集合としての惰性を持つ。惰性は倫理を持たない。惰性はただ、流れる。これが世間の正体だ。
しかしユングはさらに深く刺してくる。俺は世間の人間を一切認識していないと言うとき、そこには投影が潜んでいる。
俺は他者を見ていないのではない。俺は他者を世間という抽象概念に圧縮している。
これは他者の人格を剥奪する心理的操作だ。世間の人間は、顔も名前も欲望も恐怖も持つ具体的存在なのに、俺はそれを世間という巨大なモンスターにまとめてしまう。
つまり俺は他者を認識しないことで、逆説的に自分を守っている。ユングはこれを影の機制として読むだろう。
影とは、自我が受け入れたくない側面の貯蔵庫だ。俺が世間を嫌悪するとき、その嫌悪の一部は、俺自身の影が外部に投影されたものかもしれない。
世間は薄っぺらい、世間は愚かだ、世間は凡庸だ、世間は空虚だ。そう断罪することで、俺は自分の中の薄っぺらさ、愚かさ、凡庸さ、空虚さを俺ではないものに隔離している可能性がある。
これは心理的には合理的だ。自我は自己像を守るために、世界を歪める。だがそれは同時に、個性化のプロセスを阻害する。
ストア派の言葉で言えば、これは判断の誤謬だ。外部の現象に価値判断を貼り付け、心を乱す。ストア派が問題視するのは現象ではない。
現象はただの現象だ。問題は俺の判断だ。世間が俺を認識しないこと自体は中立である。
善でも悪でもない。ただの事実である。しかし俺がそこに「これは耐えがたい」「これは屈辱だ」「これは人生の敗北だ」という価値を付与した瞬間、俺は自分の魂を鎖につないだ。
そしてこの鎖の正体は、承認欲求というよりもっと原始的なものだ。
ストア派的に言えば他者の評価への恐怖であり、ユング的に言えばペルソナ崩壊への恐怖だ。
世間に認識されないということは、ペルソナが成立しないということだ。ペルソナが成立しないと、社会の舞台における座標がない。座標がないと、自我は漂流する。漂流する自我は、存在論的不安に沈む。
だから俺は認識されないことを恐れているのではない。俺が俺であることを保証する外部の鏡がないことを恐れている。
人間は他者の眼差しを通して自己像を形成する。これはサルトル的だが、ユングも似た構造を持つ。自己は自我を超えた中心だが、そこに到達するには、他者との摩擦が必要になる。摩擦がなければ、俺は自己の輪郭を得られない。
だがストア派は冷酷に言う。そんなものに依存するな、と。自己の輪郭は外部の鏡ではなく、内的ロゴスによって確立されるべきだ。
ストア派にとって自由とは、外界の承認から独立した精神状態である。アパテイアとは、無感情ではない。誤った価値判断から解放された状態だ。
世間に認識されないことを害と見なさないこと。世間に認識されることを善と見なさないこと。これが精神の自律だ。
しかし、ここで一つの逆説がある。ストア派は共同体を否定しない。むしろコスモポリタニズムを唱える。
人間は宇宙国家の市民であり、互いに理性によって結ばれている、と。つまりストア派は世間を無視して独りで悟れとは言っていない。
むしろ共同体に奉仕せよ。ただし、共同体からの評価に魂を売るなと言う。
これが厄介だ。俺の状況は、奉仕する共同体が実感として存在しないという状態だ。
世間が見えない。世間も俺を見ない。ここでストア派倫理は、真空に投げ込まれる。
ユングはここで、個性化の観点から別の地図を提示する。世間から切断された者は、集合意識の浅瀬に住めない。
浅瀬に住めない者は、深海に潜るしかない。つまり、世間に適応するペルソナのゲームを捨てた者は、否応なく影と対峙し、アニマ/アニムス(内なる異性元型)と格闘し、自己の徴候に出会う。
これは苦しいが、精神の錬金術でもある。ユングはこれを魂の夜と呼びたくなるだろう。孤独は病理である場合もあるが、同時に、個性化の必須条件でもある。
だから世間が俺を認識しないは、災厄であると同時にチャンスでもある。
世間に認識されることは、社会的安定を与える代わりに、ペルソナの牢獄を与える。認識されないことは、安定を奪う代わりに、自由と深度を与える。
これはユングの言う補償作用だ。意識が外界で満たされないなら、無意識が別の形で膨張する。世間が俺に意味を与えないなら、無意識が俺に意味を生成する。
しかし、意味生成には危険がある。世間が俺を認識しないとき、俺は選ばれた孤独という神話を作りたくなる。
これは元型的誘惑だ。殉教者の元型、賢者の元型、アウトサイダーの元型。俺は世間に理解されない天才だ、という物語は甘い。
だがそれはしばしば、単なる自己防衛の神話化にすぎない。ユングはそれをインフレーションと呼ぶ。
自我が元型のエネルギーを吸って巨大化し、現実との接地を失う状態だ。これは精神の事故だ。孤独が精神を鍛えることもあるが、孤独が精神を神格化することもある。
ストア派は、この危険をもっと簡単な言葉で切り捨てる。思い上がりだと。
宇宙の秩序の中で、俺が特別に悲劇的である理由はない。俺が特別に見捨てられている理由もない。世界は俺を中心に設計されていない。
ここでストア派は残酷なほど健全だ。世界が俺を見ていないのは、世界が忙しいからだ。
世界は世界のロゴスで回っている。俺はその一部でしかない。これは虚無ではない。むしろ、過剰な自己重要感からの解放である。
そして結局、俺が言うべきことはこうなる。
世間が俺を認識しないのは、世間が愚かだからではない。世間とはそもそも、俺を認識するための器官を持たない現象だからだ。
世間は意識ではなく、統計的流体であり、アルゴリズムであり、模倣の連鎖であり、集合的無意識の泡である。そこに人格的な期待を置くのが誤りだ。
また、俺が世間を認識しないのは、俺が優れているからではない。俺が他者を抽象化し、投影し、影を外部化しているからだ。
俺は世間を見ているのではなく、世間という言葉に詰め込んだ自分の恐怖と嫌悪を見ている。
俺は世間を拒絶しているのではない。俺は世間を通じて、自分の無意識と戦っている。
ストア派の結論は明快だ。認識されるかどうかは外部の事象であり、俺の徳とは無関係だ。
俺が制御できるのは、判断と行為だけだ。ゆえに、世間の認識を求めて魂を擦り減らすのは、ロゴスに反する。
ユングの結論はもっと暗い。世間に認識されないという傷は、影を肥大させ、投影を増やし、ペルソナを崩し、個性化を促進する。
つまり俺は今、精神の錬金炉の中にいる。そこから黄金が出るか、煙だけが出るかは、俺の自我がどこまで誠実に無意識と対話できるかにかかっている。
だから、このタイトルの文章は、ただの絶望ではない。これは認識の構造の告白だ。
世界は俺を見ない。俺も世界を見ない。その断絶は、社会的には不幸であり、哲学的には中立であり、心理学的には危険であり、同時に可能性でもある。
俺がすべきことは、世間に認識されるために仮面を磨くことではない。仮面が必要なら、それは道具として作ればいい。しかし魂を仮面に売るな。ストア派の禁忌はそこにある。
世間を憎んで自分を正当化することでもない。影を世間に投げつけるな。ユングの禁忌はそこにある。
残るのは、静かな実務だ。俺の支配下にある行為を、今日も淡々と実行すること。ロゴスに従い、自然に従い、徳に従い、同時に、自分の影を凝視し、投影を回収し、自己の中心に向かって潜ること。
世間が俺を認識するかどうかは、天候のようなものだ。雨が降るかどうかに怒るのは愚かだ。だが雨が降るなら傘を差すのは合理的だ。世間は俺を認識しない。
ならば、俺は俺の生を、俺の判断で構築する。世間が俺を認識しようがしまいが、宇宙は無関心に回り続ける。ならば俺もまた、余計なドラマを捨て、静かに回ればいい。
「俺は世間を認識していない」と言いながら、この文章を書いている時点で、俺はすでに世間を認識している。
「世間は俺を認識していない」と言いながら、その不在を語ることで、俺は世間の視線を前提にしている。
つまりこの文章は、断絶の宣言ではない。断絶を前提にした、接続への欲望の記録だ。
ロゴスに反し、元型に引きずられ、影を撒き散らし、それでも理性を求める生物だ。
あの文章、道徳的には気持ちいい。だが、善意の宣言がインセンティブ設計の分析を置き去りにしてないか?がまず疑われる。
人間が悪い選択をしたのではなく、その選択を合理的にしてしまう報酬構造があったのである。
Instagramが知人投稿を減らしたのも、Xが地獄みたいになったのも、経営者がサイコパスだからではなく、広告・滞在時間・炎上・依存が収益最大化の最短ルートだったからだ。
つまり「インターネットが悪くなったのは誰かの意思」という説明は半分しか当たってない。より正確には市場がそういう最適化を報酬として与えたので、企業は合理的に堕落した。
この前提を外すと、Blueskyの予測は「良い人が良い選択をするから良くなる」という倫理物語になってしまい、政策失敗の典型コースに入る。
これは当たる可能性が高い。理由は単純で、ライブイベントは同期性という希少資源を生むからだ。ライブ投稿は公共財というよりネットワーク外部性が極端に強い商品になる。人がいるほど価値が増える。
ただし問題は、ライブフィードが成功すると、プラットフォームは「滞在時間を増やす装置」を手に入れることになる点だ。
つまり彼らが批判していた無限スクロールと同じ誘惑に、自分から寄っていく。
ここでの問いは「ライブフィードは広告・政治・扇動の収益化と相性が良すぎないか?」だ。
ライブ実況は感情のボラティリティが高く、誤情報の拡散速度も上がる。モデレーションコストが跳ねる。
結局、収益モデルが広告である限り、ライブ強化は自己放尿の芽になりうる。
リンクを外に出す行為は、プラットフォームにとっては負の外部性だ。
滞在時間が減る。広告インプレッションが減る。アルゴリズムが外部サイトの価値を増やしてしまう。
Blueskyがリンクを推奨できるのは、現時点で広告依存が薄いからか、あるいは将来的に別のマネタイズ(課金、決済、マーケットプレイス等)を想定しているからだろう。
だがもしユーザー規模がさらに増え、投資家や運営が収益最大化の圧力を受ければ、リンク優遇は必ず揺らぐ。
リンク文化が根付くかは、運営の意思ではなく、リンクを推すことが利益になる制度設計を作れるかで決まる。
つまり予測というより、自己拘束コミットメント(将来リンクを殺さない仕組み)があるかどうかが本質。
ここはかなり怪しい。というか経済学的には逆を予測する方が自然だ。
なぜなら、SNSは注意を売買する市場であり、ユーザーの可処分時間を奪う方向に進化しやすい。
人間の意思が弱いからではなく、時間を奪う設計が競争優位になるからだ。
競争市場で「滞在時間を増やす設計」を自ら捨てるのは、利益最大化から外れる可能性が高い。
もしBlueskyが「滞在時間が減る」ことを本気で目指すなら、KPIを滞在時間ではなく、外部遷移数やリンククリック数、あるいはユーザー満足に置く必要がある。
つまりこの予測は「ユーザーが意識高くなる」前提に依存している。
投稿の質を決めるのは道徳心よりも、ペナルティと報酬の構造だ。
これは性格が悪いからではなく、合理的に注目を取りに行っているだけ。
実際に有害投稿が減ったのか、通報する人が疲れたのか、モデレーションの分類が変わったのか、単に可視性が下がって「見えなくなった」だけなのか。
ここでデータの定義を疑う。指標は操作される。グッドハートの法則(測定指標が目標になると指標が壊れる)が出る。
下書き機能は利便性としては良いが、投稿が熟考されるかどうかは別問題で、むしろ政治工作・プロパガンダ・炎上マーケティングには文章を練る時間が増えるだけの可能性もある。
Blueskyは「人間が悪い選択をした」と言うが「悪い選択が合理的になる価格体系・報酬体系があった」が正しい。
SNSの劣化は倫理の問題というより、広告モデルと注意経済の帰結である可能性が高い。
もし本当に違う未来を作りたいなら、必要なのは機能追加よりも収益モデルの設計だ。
広告依存である限り、いずれアルゴリズムは滞在時間を最大化し、怒り・恐怖・対立が最適解になっていく。これは思想では止められない。
だからこの未来予想の最大の弱点は、「我々は善いプラットフォームを作る」という宣言に対し、「善くあることが利益になる制度的保証」が提示されていないこと。