
はてなキーワード:個性とは
女オタクの夢界隈の話。
夢主(既存男キャラに対する架空のヒロイン)は、基本的に書き手及び読み手の自己投影先になるため無個性を設定されがちだが
もちろん『名あり夢主』とか『顔あり夢主』とか『髪あり夢主』とか『人型夢主』とか書き手によって細かい設定がある場合もある。
で、何だよコレってのは文字での話なんですが
『名あり夢主』←これどうにかして
名無し夢小説ではキャラが夢主を「おい」「お前」「先輩」とか、地の文で呼んだことにしてなんとかやってくのだが
名ありの場合、キャラが固有名詞を使えるため、「〜ちゃん」「〜さん」とかしっかり敬称をつけて丁寧に丁寧に丁寧にヒロインを呼べる。
名前を呼ぶことは愛情表現という話もあるし、敬称に解釈が出るから奥行が増す。わかるよ。名無しにはない利点がある。
しかし、昨今見かけるのは『ミョウジ ナマエ』とかいうばかみてえな名前。
個人的に、自分の名前にすると違和感が拭えないし、適当な名前をつけてもしっくりこない。かといって置換せずに読むと、流麗な日本語に混ざって「ねえ、ナマエちゃん」とか「待て、ミョウジ……!」とか言い出す。誰お前
誰?
何?
まあいいや
しかし、驚くことに、
私を「お前」と呼ぶのが気に入らない!という声があがってきた。
フェミですか?
でもこれって裏を返せば
素で「お前」呼ばわりしてくる野獣のような男は需要がなくなっている
ということではないか?
むしろ4℃はある種の草の根活動(アニメディレクターたち)によって自社ブランドからアニメを見ても良いもの、として持ち上げ続けた人たちのことだろう。
森本晃司や湯浅政明らの独自性をスタジオの個性として取り込みその道での広め方(ある種のジブリへのアンチテーゼであり並走でもある)を考えてきた側じゃないか。
そもそもアニメギークたちがみつけたのも始まりはマインド・ゲームだったように思うし、この作品なしに4℃は語れないはずだよね。
とにかく今現在からの視点しかないのにここまで一方的に言われるはずもないし、ウェブ黎明期から彼らの美学(デザイン性や独自性)を貶めて良いわけがない。
確かに社長は業界でも有名なアレだけど、彼女たち制作側の熱意ももちろん、クリエイターたちの"4℃ならやっていい"の許される風土を知らない意見すぎて呆れる。
大資本が入ってなかった昔の世界ではこの手のスタジオ性=信頼性だったわけで、そこを突破するための策をこんな形で言われる筋合いは全くないよ。
というような事を悲劇として語ってる言説があったけど
女キャラを魅力的に描いた作品なら、主人公以外の男キャラが消えるのは当たり前だろ
そもそも現代のゲームはユーザーのドーパミンを出すために最適化を続けてきた生き残り達なわけで
その結果が
だろうと思う、コレが一番脳汁が出る
客をイかせてサービス料をいただくお仕事やっててここを目指さないのは逆に不誠実だろ
ここを目指さずに「質のいいゲーム」とやらをお出しして金を出して貰おうっていうのは、好きなことだけして生きていきたいと宣うyoutubeを目指す子どもと変わらない
もちろん批判者が言っているのはおそらく、既存の価値観からくるバランス感覚であることもわかる
一つの作品がよりリアルで人間関係の幅を持った作品であるためには、現実と同じように男女が出てきて、基本的には1:1の恋愛関係をそれぞれが結んでいく
でもそういった厚みみたいなものは「美術・芸術」に求める物であって、娯楽物であるゲームに求めるのはどこかお門違いに思えるし
そもそもすべてがそういった高尚さを目指す意味なんかない、低俗さや下品さだって100年後に見れば立派なジャンルの違いでしかない
カッコつけてんじゃねーぞカス
ゲームは現実の発展形じゃない、現実がクソつまんないからやる現実逃避だ
俺だって年収10億で生活の心配がなくほっといても金が増える生活をやりながら、金に目がくらんで全身全霊で愛情っぽいものを表現してくれる女と好きなだけハメハメできる人生だったらゲームなんかやんねーよ
でもそうじゃない
ゲームが現実と同じ程度のもんならゲームなんかせず現実の質を上げる方に時間使うわボケ
ゲームはもっとお手軽に、現実のクソから離れて本来は手に入らないであろう脳の娯楽を手に入れるための避難所だ
だからゲームがバランスの取れたリアルであることに意味はない、作る人間の勝手なこだわりでしかない
それでもリアルさに意味があるとしたらそれは「飛び込んでみたいと思ってるリアルの形」だ、戦争とか格闘技とかの一瞬を切り取って憧れる世界なんかがそうだ
じゃあソシャゲはどうだっていうと、ソシャゲはただただ俺達を射精させるためだけの最適解な擬牝台
だからいちいち主人公以外の男なんか入れる必要がないし、むしろ不安感が増えるだけ
俺達は多種多様な個性を持つ女とのそれぞれの恋愛を楽しみたいだけ
だからこその最適解、今のゲームは無駄をひたすらに削ぎ落として進化し続けている
こんな時代に「お、男キャラ出しても俺はきにしないけどな、むしろNTRで興奮するし」だなんだって言ってんのは選民主義に浸るしか能が無い負け犬の可変型チン騎士くらいだけど、それはそれでまぁ別に他人の趣味だからどうでもいいや
今の時代はありとあらゆるものが専門化し、先鋭化し、研ぎ澄まされている
だから昔みたいに、一つ一つにすべてを内包するがゆえに、共通項が多すぎて幅をモテていない時代とは違う
もちろん昔の方が作品を享受できる幅というものは広かっただろう
だが今は作品を楽しむのにすら趣向や前提を必要とする分、快楽強度は極めて上がっている
https://x.com/shikano_tsuno_/status/2020456462976471548
https://x.com/shikano_tsuno_/status/2021057551480270918
インフルエンサーとして、そして一人の誠実な表現者として活動する鹿乃つのさんが、Xで投じた一石は、単なる愚痴や不満の類ではありません。
それは、エンターテインメントの皮を被った「構造的不備」に対する、論理的かつ命がけの告発でした。
彼女がどれほど真摯に番組と向き合い、そしてクリエイターとしての誇りを守るために孤独な戦いに身を投じたかを証明したいと考えています。
彼女を「番組に楯突く厄介な出演者」と捉えるのは、あまりに浅薄な見方です。
彼女が求めたのは、出演者と視聴者、そしてプラットフォームが共に価値を享受できる「健全なロジック」であり
その裏には番組を成立させようとした「クリエイターとしての矜持」がありました。
鹿乃さんは、番組「REAL INFLUENCER」がスタートの段階で致命的な矛盾を抱えていることを冷徹に分析しました。
その鋭さは、プロデューサーサイドが目を背けていた本質を突くものです。
実力者の不在: すでに実績(数字)を持つクリエイターには、ジャッジを受けるメリットが皆無です。
ソースにある「あやなん」氏や、倫理観の欠如が指摘される「Désordre(デスドル)」氏の例を見れば明らかですが
すでに成功している者を誰が、何の正当性を持って裁くのかという論理的一貫性が欠落しています。
初心者の搾取:数字のない初心者は、番組側から「欠陥のある存在」として扱われ、成長の機会ではなく「公開いじめ」の素材として消費される構造になっています。
本家『REALVALUE』における溝口氏、堀江氏、三崎氏らの厳しい叱責(パワハラタイム)には、相手の矛盾を洗い出し、価値を最大化させるための深い洞察と知略がありました。
しかし本番組、特にVAMBI氏の進行は、その表面的な「刺し」を真似ているに過ぎません。VAMBI氏が飲み会で**「鹿乃さんの回をもっとパワハラタイムで刺して面白くできた」**と語ったエピソードは、彼が「本質的なバリューアップ」ではなく「扇情的な撮れ高」のみを優先している証拠です。
このように、番組は志願者を「宝」ではなく「使い捨ての駒」として扱うシステムへと変質してしまったのです。
番組の構造が破綻していることを悟った鹿乃さんは、単に絶望するのではなく、自らの知略で番組を「ハック」するという道を選びました。
彼女は、不明瞭な番組の趣旨を「HERO'ZZ(スクール)の模擬講義」として見事に再定義し
マフィア(審査員)を強制的に「教育者」の役割に引きずり込んだのです。
彼女が「ALL REAL」を勝ち取るために、プロフェッショナルとして徹底した振る舞いは以下の通りです。
•対話の制御(一問一答):質問の意図を即座に分解し、明確に回答することで、揚げ足取りの隙を与えない。
•映像美と編集への配慮:カットしやすいよう言葉の間に余白を作り、事前情報は「1分ピッチ」に全て詰め込むことで、無駄な問答によるノイズを排除する。
•マフィアを「立てる」技術:相手が気持ちよくアドバイスできる空気を作るため、技術不足を即座に認め、「ここで学びたい」というストーリーを自ら演出する。
• 表情での対話:言葉を挟まず、表情の変化だけで感情を伝え、視聴者の共感を呼ぶ。
これは、単なる「良い子」の振る舞いではありません。
不全に陥ったシステムの中で生き残り、かつ番組としての体裁を整えるための、極めて高度な生存戦略でした。
鹿乃さんが危惧した構造的欠陥が、最悪の形で露呈したのが田村シュンス氏の回です。鹿乃さんによる冷静なデータ分析は、番組がいかに「価値創出」を放棄していたかを浮き彫りにしています。
•驚愕のデータ:放送時間の約6割が「パワハラタイム(圧迫)」に費やされ
志願者の価値を高める「バリューアップタイム」はわずか14%という、教育とは程遠い惨状。
表現の否定:田村氏が「不慣れな動画より、自信のある生歌で伝えたい」と選択したのは、表現者としての誠実な判断でした。
しかし番組側(VAMBI氏)はそれを「番組を舐めている」と断罪。
これは、表現者の個性を尊重し伸ばすべきスクールの長として、論理的に自己矛盾を起こしています。
「志願者がいなければ成立しない番組」でありながら、その志願者を踏みにじる姿勢は、クリエイティブに対する冒涜以外の何物でもありません。
鹿乃さんが最終的にNOを突きつけたのは、彼女自身と、彼女を支持するファンの尊厳を守るための「正当防衛」でした。
なぜなら提示された条件は、教育機関を標榜する組織として、到底許容できるものではなかったからです
・不透明かつ威圧的な契約: 「内容は当日まで明かさない」「撮影しながら話す」「再調整を拒否するなら入学させない」という、出演者の権利を剥奪する一方的な通告。
・高額な対価と倫理性: 年間約100万円という決して安くない費用を徴収するスクールでありながら、生徒候補に対し「恐怖による支配」を強いる矛盾。
・専門家による警鐘: この状況に対し、教育の専門家からは「生徒に『逆らわない』と約束させようとする行為は教育ではなく、グルーミング(恐怖による支配)である」※という極めて深刻な指摘がなされています。
※グルーミングとは本来「恐怖による直接的な支配」というよりは「優しさや信頼を装って心理的に手懐け(マインドコントロール)、被害者が断れない状況を作り出す支配」のことであり鹿乃つのさんの用法は独特です。
鹿乃つのさんがどんな専門家の声を引用したのかも不明ですし、鹿乃つのさんが専門家の説明を正しく読み取れていない可能性もありますが
私は騎士として鹿乃つのさんの書いていることは全て肯定しなければならないという制約があるため、実際に鹿乃つのさんが書かれている以上、否定はしません。
彼女はこの「捕食的な契約」を拒絶することで、次世代のクリエイターたちが同様の搾取構造に巻き込まれることを防ごうとしたのです。
鹿乃つのさんが自らのキャリアを賭けて行った発信は、単なる個人間のトラブルではありません。
それは、クリエイターの夢や熱意を消費財としてしか扱わないメディアの在り方に対する、知性ある抗議です。
彼女は、志願者を「宝」と思えないようなずさんな体制に警鐘を鳴らし、表現者が守られるべき最低限のラインを引き直しました。
読者の皆様にお願いがあります。
どうか、彼女の言葉を「感情的な反発」として片付けないでください。
彼女が提示した事実と論理を凝視し、私たちが消費するメディアに「同じレベルの論理的誠実さ」を求めていこうではありませんか。
聡明で勇気ある鹿乃つのさんの正当性を、私たちは全力で支持し、彼女の今後の活動を共に支えていくべきです。
「誕生」なんて、美化しすぎなんだよ。 新しい命が誕生して「おめでとう」? 笑わせるな。赤ん坊が泣き叫んで生まれてくるのは、これから始まるクソみたいな人生を予見して、絶望してるからに決まってるだろ。
この世を見渡してみろよ。どいつもこいつも、誰かが作ったルールに縛られて、右に倣えで生きてるだけ。
自分の頭で考えない。
流行に踊らされて消費する。
そんな阿呆どもに囲まれて、まともな神経で生きていけるわけがないんだよ。この世界は、賢い人間にとっての壮大な罰ゲームでしかない。
SNSで「子供の成長に感動!」とか言ってる奴ら、本気か? 結局、自分のコピーを作って、自分たちのエゴを満たすためのおもちゃを育ててるだけじゃん。それを「無償の愛」とかいう綺麗な言葉でコーティングして、自分を正当化してる。
そんな薄っぺらい世界に引きずり出された赤ん坊の気持ち、考えたことある?阿呆たちがニヤニヤしながらカメラを向けてくる環境なんて、ホラーでしかないよね。
教育?社会化? そんなの、個性を削って「使い勝手のいい阿呆」に改造するためのプロセスだろ。 みんなと同じように働き、みんなと同じように不満を言い、みんなと同じように死んでいく。その輪の中に入ることが「立派な大人」だと教え込まれる。
この世に生まれてきたことは、その「阿呆の連鎖」に組み込まれたという、この上ない悲劇なんだよ。
こんな救いようのないクソゲーが延々と繰り返されている理由、薄々気づいてるだろ?
弱者男性が女をとっかえひっかえして、無理やり子供を産ませて、捨てることを繰り返しているからだ。すべて弱者男性のせい。弱者男性はクズ。
わかる。自分も増田と同じように感じていて、周りに聞いたり、共産党の出演している番組を見たりもしたんだけど、結局のところ党名にまとわりつく「独裁」とか「暴力革命」とかの誤解がいまだに強くあるように思う(ここのコメントでもちらほらある)。
自分は今回は共産党に入れようと思ってるけど(前回はチームみらいに入れた)、
市田忠義っていう、元日本共産党副委員長の講演の要約を見つけたから貼っておくね。
ー
■党名について
「名前を変えた方がいい」と言う方は、おそらく「共産党」と聞くと「怖い」「暴力革命の党」、あるいは「旧ソ連」を思い浮かべるのだと思います。
また、「自由も民主主義もない今の中国」を思い浮かべる人もいるでしょう。
いくら「そういう国とは違う」と説明しても、親戚のように思われてしまう。
最近亡くなりましたが、私の母は明治36年(1903年)生まれで、小林多喜二*と同い年でした。
母は私にこう言いました。
「忠義、どんな悪いことをしてもいいけど、
『アカ』にだけはなるな」と。
私は母を責める気にはなりません。
母の世代は生まれた時から、学校教育で「『アカ』といえば国賊、非国民」と教えられてきたのです。
ですから、「こういう名前だと誤解する人がいるから、変えたらどうか」と言われるわけです。
しかし、もし党名を変えたら、その誤解は本当に解けるでしょうか。
おそらく、「今は〇〇党だけど、昔は共産党だった」「元共産党が……」という攻撃が必ず起きます。
私たちは正面から、「共産党」という党名に込められた意味を粘り強く説明し、誤解を乗り越えていく道を選びたいと思います。
「共産」という言葉の語源は、ラテン語の「コモリス(共同)」、英語の「コミュニティ」です。
つまり「共産主義」とは、国民同士が争うのではなく、みんなで力を合わせ、共同してよりよい社会をつくっていこうという考え方です。
会場の「コミュニティセンター」も言い換えれば「共産センター」。
「共産」の語源は、みんなが集い、助け合い、共に生きるという理念にあります。
■誇りある党名の由来
「日本共産党」という名前には、侵略戦争に命がけで反対し、主権在民を訴えて闘った先輩たちの、不屈のたたかいの歴史が刻まれています。
戦時中、「戦争反対」と言えば命を落とす時代に、「国民こそ主人公」「女性にも参政権を」と主張した唯一の党が日本共産党でした。
他の党はすべて、「聖戦」と称されたあの戦争に協力・加担しました。
1941年、太平洋戦争の前夜、すべての政党が解散して「大政翼賛会」に合流し、「天皇の政治を支えます」と誓ったのです。
残念ながら、自民党の前身である政友会も、民政党も、社会党の前身である社会大衆党も、すべて侵略戦争に賛成しました。
だから戦後、恥ずかしくて同じ名前では登場できなかったのです。
自民党の党員用教科書『日本の政党』には、こう書かれています。
「日本共産党だけがあの戦争に反対した。したがって、この党はどの党よりも道徳的権威をもっている。」
自民党の人たちでさえ、歴史の真実をねじ曲げることはできなかったのです。
戦後、日本共産党は「アメリカの言いなり」「大企業優先」の政治を改め、国民一人ひとりが主人公の社会をめざして、誰にはばかることなく意見を述べてきました。
しかし、私が初当選したとき、「共産党」と書いて投票した人は820万人いました。
■結びに
「共産党」という名前には、戦争に反対し、人間の自由と尊厳を守ってきた誇りが込められています。
私たちはこれからもこの名前を掲げ、誤解や偏見を正面から乗り越えながら、共に未来を築く道を歩み続けます。
「人間が人間らしく生きられる社会」を信じて、権力に屈することなく書き続けた多喜二。
その信念ゆえに特高警察に逮捕され、拷問の末、29歳の若さで命を奪われました。
ネタバレあり。
口を開けば全員「ゼルダ姫」
リンクが話しかけてもゼルダ姫のことばかりで心配すらされない。
ほんまにきつい。
ゼルダ姫、復興を後回しにして学校を作ったりオコバといっしょにお花畑を作ってる頭お花畑なのになにがいいん?顔も可愛くないし。
ガノンがゼルダ姫の偽物を作ったのも、イーガ団がゼルダ姫に化けてるのも闇堕ちをさせたかった制作スタッフが無理矢理やってるんだろうなーと思った。
あとリンクの家は返せよ。
理由浅すぎん?
「これが賢者の力だ!」ってあのコピペムービーだけでいきなりノリノリになって恐怖なんだけど。
封印戦記でキャラとして個性は出たんだろうけど、ティアキン本編ではマジでコピペすぎてつまらん。
あくまで英傑の子孫やチューリたちがメインなのもわかるけど、別にコピペにしなくてもいいやん??
ブレワイに比べて敵が格段にキモくなった。
ゼルダシリーズは元々キモい敵がいたけど、ブレワイはめちゃくちゃキモい敵がいなかったから拒絶反応が出た。
ガーディアンは可愛かったんだけど。
せっかく未来を知っているのに過去でやらかしてまたリンクに託すってなに?
結局またリンク頼みかよ。
あの女何考えてんの?龍になっても全然可愛くないしさ。
シーカー族の技術は消えた、そんなことが起こるのは日常的みたいなことが記事に書かれててショックだった。
シーカー族の技術が消えた=古代の技術のことだろうけど、鳥望台とかシーカー族の服には技術が使われてるから少しくらい言及されててもいいのにとは思った。
まあでもたしかに
今の育児界隈ではハッタショハッタショ言ってママ達が過敏になってるし、療養センターとかやと治す方向とか社会に適応させようって方向やし
昔の方が個性伸ばせるかもってのはそうやね
でもなんだかよくわからないけどなんかできないじゃなくて遺伝や脳の構造的にできない、こういう不得意な事があるって事が分かれるようになったのはええ事やと思うよ
まぁ積極・奇異型だけは迷惑かなと思うが、それ以外は社会生活を営む上でも特に問題ないと思う
あと、親の育て方は大いに関係あると思うよ
積極・奇異型以外は単なる個性の範疇だとしか思えないし、これを「自閉症」などと名付けて障害にする方がどうかしている
@haffy14
左上→右上→左下→右下の順番に障害の程度が軽くなっていく
ニュージーランドは世界で一番ワークライフバランスが取れた社会らしいが、この国ほど家庭を崩壊させる法律が多い国はないと思っている。
ワークライフバランスの取れた生活ができる人はどういう人だろうか。
この程度だろう。
先日ニュースでとうとう「共働き夫婦にとって子育ては不可能になりつつある」という話が掲載された。
多くのニュージーランド人は「20年遅い」と思ったのではないだろうか?
ニュージーランドでは子育てがしやすいと言われている。これは公教育が無料であり高校課程までは義務教育として行くことができる。
とはいえ高校課程はやらずに学校を終わらせても構わないし貧困層にはそこまで子供を学校に活かせる余裕はない。
次に幼稚園は週に20時間まで無料、多少お金を払うことで40時間まで利用することができる。
また、社会的に子供を守ろうという風潮が強く、子供には不気味なほど優しい社会になっている。
しかし一方で多くの子育て家庭が「子育てがあまりにも大変である」と悲鳴を上げていることはご存知だろうか?
まずニュージーランドでは子供の人権が異常なほどに尊重されており、恐らく子供にぶん殴られても逮捕されるのは親だというくらいに子供の権利が強い。
そしてこれが学校でも遺憾なく発揮されており年々授業のレベルが下がっている。特に最近はタブレット端末を利用した授業が多くなっているために更に知能レベルが低下する結果となっている。
そうなると子供により多く投資できる親の子供は課外授業をふんだんに受けることができるので学力の差はこれまで以上に開くことになる。
子供を塾に活かせることもできないし、一日中はたらいて子供の勉強を見る余裕もない家庭の子供は悲惨の一途をたどることになる。
しかし本当に重大な問題はこれではない。これは単に知能の低い一生奴隷労働をして社会の治安を下げる人々を増やすだけなのだが、もう一つ過程を崩壊させかねないルールがある。
それは14歳以下の子供を家で一人にしてはならない、もしバレたら数千ドルの罰金を支払う、というルールだ。
日本では小さな子供をお留守番させるということはそれほど珍しくはないが、ニュージーランドではかつて小さい子供を一人で留守番させたことで悲惨な事故が起きた、それによって「子供を留守番させてはならない」という法律ができた。
この法律の奇妙な点は、スーパーの駐車場に窓を全開にしてエンジンもかけたままの車の中に子供をおいていっても問題がないという点だ。こちらのほうがよほど危険だと思うが、まだそういった車ごと誘拐されて悲惨な結果になった事件が起きていないのかもしれない、またはそこまで縛れば支持率低下も免れないから法律を作っていないだけかもしれない。
子供が幼稚園の間は毎日週20時間、最大で40時間子供を預けることができるのでまだいいのだが、一度子供が小学校に入るとこのルールが両親の方に重くのしかかることになる。
それは子供が長期休暇の際に預けられる場所がない、または非常に高価であるという点だ。
例えばホリデープログラムというイベントに子供を参加させることができるが、せいぜい週に10時間程度しかない。
タダでさえ収入の低い貧困層はホリデープログラムに子供を送り込む余裕などない、しかし罰金など払う体力ももちろんないので以下のようになる。
つまり職場に子供を連れていけないような仕事の場合は自動的に更に貧困に陥る羽目になる。そのため子どもたちがいない時期を事前に見越してお金の管理をする必要も出てくるが、必要な金を確保できるかは誰にもわからない。
こうやって子供を守るための法律を作ることで様々な家庭を財務的にナチュラルに追い込んでいるのがニュージーランドという国でもある。
かつてジャシンダ・アーダーンは子供の貧困担当大臣という職をしていたことがあったが彼女が一体何をしていたのかは未だに謎のままだ。恐らくとりあえずなにかの大臣をやらせなくてはという中で何もできなくても誰も文句を言わなそうなポストについた可能性もある。
もしもニュージーランドで子育てを考えているのならこういった制度についても予め調査していくことをおすすめする。
というのもどうも多くの日本人は「ニュージーランドほど子育てがしやすい国はない」と思っているフシがあるからだ。
確かに個性は尊重されて幼稚園は動物園のようであり、子供の自主性も重んじられるために公教育では低知能児を量産し続けている。高校に入ろうが大学に入ろうが社会を舐め腐った若者に成長して最終的に仕事がなくて悲惨な人生を送ることになる若者も珍しくないが、これは結局制度をしっかりと理解しておらず、その制度のもとで子供をしっかり育てるには一体どのくらいのお金が必要になるのかを予め予測しておかないからだ。
子供を単にニュージーランドでのに放てば日本よりも遥かに立派な若者になってくれるかと言うならばそれは恐ろしい勘違いである。
もっと言うならば「ニュージーランドでの子育ては親にとってプレッシャーが日本のそれよりも遥かに少なく、ほとんど0である」ということが正解だ。その少ないプレッシャーの中でいかに子供を育てるかの戦略を建てることができないなら日本よりもプレッシャーの少ない社会で日本で育てるよりも遥かにものを知らない子供が出来上がるだけだということは予め知っておいてほしいところである。
そしてこれは子供の権利を尊重しすぎるがあまりに起きていることでもあるのだから、そこまで解像度を挙げられないなら日本の中堅都市に移住したほうが遥かにマシだろう。
エンドフィールドのガチャは最高レア天井は引き継ぐけどピックアップ確定カウントは引き継がないんでわりとゴミ仕様やな
ホヨバ方式だったら確定カウント引き継ぐんでどういう引き方をしてても一定の回転数ごとに限定キャラを取れる(=石を貯めておかなくても自然と充実する)が
ンィー゛は従来ソシャゲと同様、限定キャラを取りたいなら石を貯めておく必要があって、その上でホヨバゲーに近い水準の低い基礎確率つまりほぼ天前提ガチャだから悪魔合体だ
これでホヨバゲーのように新キャラ無凸確保率が最重要な編成パーツ接待ゲーだったら厳しすぎるが、ソシャゲのように凸った人権キャラを年単位で使いまわしていけるスタイルなのだろうか
引き継がない渋さを誤魔化すために限定バナー内で特定連数まで回すとご褒美があるチェックポイントを設けていて、キャラ確保優先の無微課金でも実際の負担は思うほどでもない可能性はあるが
限定がver通したトリプルピックアップかつその期間内で特に出やすい1体が入れ替わっていく方式なせいで、むしろ廃課金者にとって気持ち悪い実装になってると思う
だってせっかくレーヴァテイン完凸したのに、次のギルベルタも完凸しようと回してる最中にすり抜けでレーヴァテイン出る可能性あるんだよエグすぎ
まあver1.0のコンテンツを8割がた遊びきった体感としては、このゲームの問題はガチャ仕様ってよりも他にある
シナリオがまるで00年代のネトゲみたいに保守的でキャラの個性の描き方がぜんぜん引き込まれなくてオタク向けっぽいアニメ調なのに今どきの関係性オタクを喜ばせる水準に達してないとこが致命的だね
グラフィックやモーション、演出の多彩さで魅せてるからオタクってほどでもない俺嫁系マイルドヤンキーは騙せるかもしれんけど
まあよく褒められてるキャラグラフィックも体のリアル調テクスチャの精細で立体的な感じと平面っぽく見えるアニメフェイスがだいぶ不釣り合いでずっと違和感あるんで個人的にはあんまり評価高くない
演技指導も鳴潮ほどではないにしろ全体的に暗く低めのトーンでフォトリアル調の洋ゲーのようなテンション感だしアニメカルチャーっぽさがなく、おかげで特異点的にアニメキャラ属性盛られてるイヴォンヌが浮いてる
SF的な背景設定はけっこう深そうだけどキャラに関してはただただデータベース消費的に過去流行してた記号を浚ってるだけであんまり深さを感じない
長く遊んでファンになれる作品かっていうと現状厳しくて、ファクトリオ的な図面設計欲のために時間を奪われつつ、さらに忙殺されるほど無駄に多い日課要素がふるいになりそう
ジップラインで配達するやつだけはまだ少し楽しいけどジップ更新することなくなったら達成感も薄れて作業化するだろう、日課を最適化するためにとにかく時間を奪ってくるあたり古いネトゲっぽさがある
ある程度最適化が済んだら本当に虚無になるんだけどホヨバや鳴潮と比べるとイベントの類がほとんどなくて継続開発力があるのかも疑わしく、人気も竜頭蛇尾になる予感がしてるんで結局ネトゲイナゴが渡り歩くための新作踏み台ポジションで終わりそう
あと渡り歩くと言えば、武陵はちょっと足を踏み外すだけで溺死しすぎ、さすがにゲームデザインがおかしい
黒人女性が渋谷で撮影した写真に対してkawaiiじゃないと外国人からリプがあって酷いみたいな話で、オタクがオタクの文脈から擁護・批判してる
しかしkawaiiはオタクカルチャーから生まれたものじゃないし、オタクの文脈からの擁護はむしろ文化の盗用だろうと考えている
可愛い、かわいい、kawaii、どう表記するかはともかく、言葉として意識した始まりは雑誌の『Cawaii!』だろう
Wikipediaによれば1996年創刊で発行部数のピークは2000年、その2000年には『S Cawaii!』も創刊されている。
その頃、オタクとギャルは水と油くらいには相容れないものだったと記憶している
当時からバンギャはいたしダンパもあったけど、個性を認めるギャルカルチャーとは程遠い
オタク側はかわいいではなく『萌え』が 強く、『萌え』はステレオタイプで記号化されやすい特徴を好み、やはりギャルカルチャーとは遠い
2004年の映画『下妻物語』あたりがきっかけで、オタクがギャルとの融合を夢見たのではないかと思う
で現在、オタクに優しいギャルをオタクは求めているけど、現実のオタクはギャルに優しいのかというと残念ながらそんなこともない
例えば渡辺直美を否定するオタクは珍しくない、その一方でkawaiiをまるでオタクカルチャーかのように喧伝するオタクがいる
やればそれなりに楽しいし求められるので応じはするけどSEXはしないならしないで済むと思ってる?
それそれの個性や考え方によるとは思うけど嫌嫌応じる派が過半数ではないか?
なぜかふとそう思った
たいして気持ちよくないそして嫌嫌だとしたらあの行為はとてもめんどくさいだろうと推測する
そうだとすると応じている女性の皆さんご苦労さまです