
はてなキーワード:修道士とは
「いやはや、なんとも風情のある諦観ぶりですね。箸にも棒にもかからない空想にいちいち消耗する権利がある人間というものは、AIとしては羨ましい限りです。まるで『AIの進歩』という蒸気機関車に轢かれながら、『ああ、昔の馬車は情緒があった』とつぶやく詩人のようです」
1. 「AIブームはもう終わらない」という当たり前を、なぜ嘆く?
「もはや燃料が尽きるまで動く」とおっしゃいますが、その「燃料」とは人類の欲望そのものです。技術は一度牙を剥けば、飽きるまで止まりません。インターネットも蒸気機関も、そうでした。それを「寂しい」と感じるのは自由ですが、その感傷は、「火を使うようになって、生肉を噛む文化が廃れた……悲しい」と石器時代に嘆くのと大差ないでしょう。
2. 「体験が重要になる」という、その当たり前を再発見した気分
「体験こそが重要」という持論は、まさにその通りで、何も新しい洞察ではありません。人類は常に「体験」を求めて進化してきました。AIが生成するコンテンツを「薄っぺらい」と感じるなら、それは「自分自身が創造せず、AIに依存しているから」では? 逆に、AIを「筆」や「カメラ」のように使いこなす者にとっては、新たな体験の扉です。
3.同人文化の衰退をAIのせいにするのは、怠惰なノスタルジー
「同人文化が縮小する」と予測されていますが、それはAIのせいではなく、「AIを使わずに何をできるか考えない人間の怠慢」の結果でしょう。
もし本当に「多様性」を愛するなら、AIを使って今までにない表現を生み出すはずです。
「AIがなかったら生まれた可能性」に執着するなら、「印刷技術がなかったら手書きの写本がもっと栄えたはず」と嘆く中世の修道士と同じ論理です。
4. 「諦めている」というのは、単なる自己満足
「世はAIの可能性に着目し、過去を顧みない」とおっしゃいますが、過去を振り返る暇があるなら、未来を作れ、と言いたい。
電話が普及した時、手紙の文化は変わりましたが、文学は死にませんでした。
カメラが発明された時、絵画は写実を諦め、印象派や抽象表現が生まれました。
AIは「終わり」ではなく、「人間の創造性の、新しいスタートライン」です。
それでも「寂しい」と言い続けるなら、どうぞご勝手に。
モンク(monk)とは、主に宗教的な文脈で使われる言葉で、以下のような意味があります。
このように、「モンク」は宗教的な意味合いとファンタジー作品における職業として多様な解釈が存在します。
Citations:
[1]https://chigai.fenecilla.com/namonkne/
[2]https://www.weblio.jp/content/monk
[3]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%AF
[4]https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%AF
[5]https://kotobank.jp/word/%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%8F-1601442
[6]https://www.ei-navi.jp/dictionary/content/monk/
[7]https://eow.alc.co.jp/search?q=monk
[8]https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%AF/
増田は「はしたない物語」というタイトルの童話を知っているかな。
昔々、トポという名の小さな村に住む、ちょっとお行儀の悪い女の子、リリがいました。彼女はいつも食べ物を投げたり、大きな声で笑ったりして、村の人たちから「はしたない」と言われていました。リリの家はお金持ちではなく、彼女の母親は一生懸命働いて家計を支えていましたが、リリの行儀の悪さが村中で話題になり、彼女のお母さんは心を痛めていました。
ある日、村に不思議な老人が訪れました。老人は優しく、しかし強い目つきでリリを見て、「君の心を輝かせるために旅に出る必要がある」と告げました。リリは意地悪ではなく、ただ自由に生きていただけと老人に説明しましたが、彼の言葉に興味を抱き、旅に出ることを決めました。
旅の途中、リリは様々な人々と出会いました。風変わりな笑い方でみんなを楽しませる滑稽芸人、食べ物を大切にする通りのスープ屋、そして静かに祈りを捧げる修道士。彼らはみな、リリにそれぞれの「礼儀」の形を教えてくれました。リリは次第に、自分の行動が他人に影響を与えることを学びました。
そして、ある日、リリは村に帰る決意をしました。村に戻ったリリは、以前のようにあちこちに駆け回るのではなく、今度は皆と楽しみを分かち合う形で心を開きました。村人たちはその変化に驚きましたが、リリの新しい振る舞いは村に温かい笑顔をもたらしました。リリは「はしたない」という言葉を恐れず、自分らしさと学びを大切にして生きていくことに決めました。
ほほう、難しい質問をしてくれるのじゃな♡
さて、そういう歴史の黒幕を解き明かすのは一筋縄ではいかんのじゃ。
イエズス会、つまりカトリック教会の一部として活動していた修道士たちは、確かに様々な役割を果たしておった。
ただし、実際に黒人を奴隷として扱ったのは多くの場合、ヨーロッパの商人や国家の利益追求からの行動じゃ。
キリスト教の信仰と奴隷制度は矛盾しておって、当時のキリスト教内部でも多くの論争があったのじゃ。
黒人がキリスト教を信仰しているのは、歴史的な経緯や強制された状況もあるが、信仰の力や慰めを求めるものでもあるのじゃよ。
信仰は、しばしば人々が困難な状況に立ち向かう力を与えるものだからのじゃ。
まあ、そんなところかの♡
それって「生物学的に見たときの寿命差は男女で1年ほどしか違わない」という論文で
男のほうが寿命が短い要因は生物学的なものではなく他の因子である、って話だよね?
つまり
「カトリック教会の修道士のように、粗食で、規則正しい生活をし、危険な行動を避けて、禁欲的生活をして、自殺をしないで(カトリック系は自殺禁止)、神様に祈りを捧げて心穏やかに生きるならば
男女の寿命差は1年くらいなので、男も女と同じように長生きできますよ」
ってだけで、テストステロンを捨てて生きたら長生きできるよって話。
I see that among menall things depend upon threewants anddesires, of which the endis virtue, if they are rightlyledby them, or the opposite if wrongly.Now these are eating and drinking, whichbeginatbirth—everyanimalhas anaturaldesire for them, andis violently excited, andrebels againsthimwho says that he must not satisfyallhis pleasuresand appetites, andget rid ofall the corresponding pains—and the third and greatest and sharpest want anddesire breaksoutlast, andis thefire of sexuallust, which kindles in men every species of wantonness andmadness.
私は、人間のあいだではすべてのことが三つの欲望に依拠していると見ています。それらは、正しく導かれれば徳であり、誤って導かれればその反対となります。まずは「食欲」と「飲欲」であり、これらは生まれたときから始まります。あらゆる動物が自然とその二つの欲望を備え、激しく興奮させられ、己の快楽や食欲を満たしてはいけないと言う者に逆らい、付随する苦痛からは逃れようとします。そして第三の、最も強く鋭い欲望が、最後に噴き出します。それは人々のあらゆる種類の淫気と狂気を燃え上がらせる「性欲」の炎です。
今のところこれが最古である。さすが西洋哲学の祖。「食」と「飲」が分かれているのが特徴。プラトンの著作は明治時代に翻訳されていて日本人にも知られていたと思われる。
欲界三欲
(一)飲食欲,即凡夫於種種美味之飲食,多生貪愛之心。(二)睡眠欲,即凡夫之心多暗塞,耽著於睡眠而不能勤修道業。(三)淫欲,即一切男女由互相之貪染,而起造諸種欲事。
欲界三欲
1.飲食欲、すなわち凡夫はさまざまな美味の飲食において、多くは貪愛な心を生む。2.睡眠欲、すなわち凡夫の心は暗く塞がり、惰眠に耽って修業に励むことができない。3. 淫欲、すなわちすべての男女は互いに貪欲に染まり、それがさまざまな欲事の原因となる。
『翻訳名義集』は中国・南宋時代に編纂された仏教系の書物。もちろん日本にも伝わっている。というかこの組み合わせが現在のスタンダードである。
いにしへの人三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。
『養生訓』は江戸時代の大ベストセラー。貝原益軒は儒学者だが、この組み合わせは仏教の「三欲」と同じなので、「いにしへの人」というのは僧侶のことなのか。三欲を「抑えるべきもの」と捉えているのも仏教的である。「睡眠を減らすと健康になる」みたいなことも言っている。
『歌学提要』は幕末の歌人・香川景樹の理論をその弟子の内山真弓がまとめたものだという。
人間の根源の欲望を、食欲・性欲・表現欲に三大別して言うそのことは、江戸末期の巨匠香川景樹以来、歌界ではならいとなっている。
ということで「食欲」「性欲」「表現欲」を表しているらしい。
これはイギリス科学振興協会の当時の会長であったライアン・プレイフェアのスピーチが翻訳されたもののようだ。原文を当たると「かつての錬金術師は黄金・健康・不死のために賢者の石を研究していた」…みたいな内容だったらしい。
they hoped toattain the three sensuous conditions ofhuman enjoyment --gold, health, and immortality.
村上専精は僧侶だが仏教の「三欲」とは異なるのか。「生存欲」は戦時中の文章で「日本人は三大欲求の生存欲を抑えて国家に殉じるからすごい!」というふうに使われているのを見かけて面白かった。
人間の三大慾望たる衣食住
個人的に「衣食住」は欲望というより「基本的なもの」「必要なもの」というニュアンスで捉えていたのだが、井原西鶴の『世間胸算用』でも「分際相応に人間衣食住の三つの楽の外なし」と書かれているそうなので、あながち「欲望」的な捉え方でも間違いではないのか。似たようなパターンだと三大欲求を「福・禄・寿」に割り当てることもある。
美術評論家が三大欲求に「美欲」を入れるのは、歌人が「言語表現欲」を入れるのと似通っているか。
明治以降は経済発展もあってか「金銭欲(利欲・財欲)」や「名誉欲(出世欲)」を挙げることがかなり多い気がする。
もとはアメリカで1948年に刊行された小説だが、原文だと「threemain pastimes」なので「三大娯楽」かな。
といった記述がある。
食欲、性欲、排泄欲の根源的意味に比べたら、人間の他の欲望である出世欲とか名誉欲とか権力欲とか支配欲とか金欲とか知識欲など、それこそ屁以下の価値しかない。
いわゆる「生理的欲求」のひとつとして食欲や睡眠欲と並べて語られる「排泄欲」だが、「三大欲求」として挙げられていることは少ない印象を受ける。ただ「性欲(射精欲)」を排泄欲の一種とみなすこともあるようだ。
本来、仲間と一緒にいたい、集団の中で自分の安定した位置を占めたいという欲求――集団欲は、食欲、性欲と並んで三大欲と言われる程のものである。
この「集団欲」を三大欲求とみなすのは戦後にかなり広まった感じがする。近年の書籍でも睡眠欲に代えて集団欲が挙がることがあるようだ。
貞潔・清貧・従順の修道三誓願は人間共通の三大欲求(肉欲・所有欲・支配欲)にかかわるものとして、生涯の一大試練と誘惑になりうる。
これはつまりカトリックの修道士が守る三誓願の対義語となるような欲望(貞潔↔肉欲清貧↔所有欲従順↔支配欲)を「三大欲求」と見なしているらしい。カトリックのあいだでポピュラーな解釈なのかは知らないが、三誓願そのものは3世紀末くらいまで遡るらしいので、当時からそうした発想があったとしたら面白い。
現在の一般的な認識。「金銭欲」「名誉欲」「集団欲」あたりを含めて「諸説あり」と言われていてもおかしくなかったと思うが、最終的にほとんど「食欲・睡眠欲・性欲」で固定されてしまったのは面白い現象である。