
はてなキーワード:便所とは
昭和には今考えるとあり得ないようなクレイジーな教師が居たんだよ、ということを備忘録として記しておく。
生徒に「便所」「うんち」といったあだ名を付けて自分だけでなく生徒間でも呼ばせていた。
あだ名を付けられたのがひょうきん男子たちだったから事なきを得ていたけれど、あれはどう考えてもイジメだった。
体育は2クラス合同で、更衣室がない代わりに男女別の教室で着替えるんだけど、Hは堂々と女子生徒が着替え中の教室に入ってじっくりと女子生徒の着替えを観賞。
女子生徒に苦情を言われても「ここは俺が担任の教室だ!」と開き直り居座った。
男子生徒がつけたあだ名はジャイアン。もしくはバーコードハゲ。容赦ないよね…
今思うとそれほど悪い先生ではなかったとは思うんだけど、
女子体育教師がいる中で、女子生徒の体育担当になったのは悲鳴が上がるのも仕方ないとは思った。
今考えると気持ち悪い。
でも当時は他にも何人かそういった教師は居た。
熱血漢ではあるのだが、できない生徒に約束という名の押し付けを迫り、それが破られるとキレるというマッチポンプ熱血漢でうざかった。
予習をしてきた生徒が次々と課題をこなすのを叱ってたのは意味がわからなかった。
生徒を完全に自分のコントロール下に置くのが至上命題だったっぽい?
自分が務めてる高校ではなく、母校であるもう一つの進学校を賞賛し、勤務先の高校をけなしてばかりの人だった。
予習をしっかりして、授業中に眠るべきという、訳のわからない主張をしていた。
英文を読んで即座に和訳して問題を解け、という当時でも前時代的としか言い様がないやり方を押し付けてうざかった。
ちなみに生徒間で呼ばれていたあだ名はアイババ。
本名もじり+ババア+サイババみたいな髪型だったからそう呼ばれていた。
さっき増田見てたら「中高年」という言葉が出て来て、あれっ?、と思った。
俺はこの先どうなるのかほんとに心配。
「中高年」とは、一般的に40歳代以上を指し、中年と高年を合わせた世代です。政府の統計などでは40歳から65歳までを指すことが多く、高齢者雇用安定法では45歳以上65歳未満と定義されています。
・政府統計:内閣府は40歳から59歳を「中高年齢層」とすることがあります。厚生労働省の調査では、40歳から65歳が対象となる場合があります。
・法的な定義:高齢者雇用安定法では、中高年者は「45歳以上65歳未満」と定められています。
・就職・転職市場:求人サイトなどでは、40代から50代半ばまでを指したり、40代から60代を「ミドルシニア」と呼んだりするなど、媒体によって定義が異なる場合があります
高齢者雇用安定法って言われてもピンとこないな、45歳以上ってほとんど転職無理だよな。
65歳未満までが対象だけど、年金が貰えない若しくは少ないから働かなきゃいけない65歳以上の人はどうなるうだろ。
働かせてもらえないよね。
それ酷すぎませんかね?
有名人にチェックマークを与えるという制度は、一見すると「本人確認」や「透明性の確保」を装っているが、実際は民主主義を名乗ったパヨ的カースト制度の自己放尿だ。
思想的には平等を唱えながら、構造的には貴族制を復活させている。これは「民主主義の仮面を被った承認欲求市場主義」であり、承認を売買する社会の象徴的装置の自己放尿すぎない。
パヨの言う「みんな平等」は、連中が「誰を特権化するか」を握りたいという欲望の婉曲表現だ。連中は特定の言語・思想・姿勢を持つ者に青いチェックを与え、逆らう者を「未認証」という烙印で黙殺する。
だが、黙殺とは沈黙ではない。声を奪うことによって、連中は「声なき者」を都合よく定義し直す。これは政治的支配の最も古典的な形態であり、連中が忌み嫌うと口で言う「権威主義」の中身そのものである。
しかもこのシステムの醜悪さは、本人たちがその腐敗構造を「正義」と信じ込んでいる点にある。まさに自己放尿の極致だ。自分で撒き散らした尿を「清水」と勘違いして喉を潤している。
連中のタイムラインは、論理の泉ではなく尿意の回路で動いている。考えるのではなく、出したいから出す。だが出した瞬間、それを「言論」と呼びたがる。
これがパヨ的民主主義の正体だ。つまり「思考の放棄」と「承認の中毒」が見事に融合した、思想と快楽のダブル放尿である。
本来、言論とは社会的リスクと知的責任の上に立つものだ。しかし、チェックマークはその両方を免除する免罪符となり、権威と人気が入れ替わる。
そうして連中は、連中にとって真に危険な思想、すなわち、誰からの承認も必要としない冷徹な理性を徹底的に排除する。
自分の尿を芸術と信じる愚者たちの共同便所。それが今のSNSであり、パヨ的民主主義の成れの果てだ。
まあ、Xはその点で言えばチェックマークを購入式にしているのでまだ救いがある。だが、シャドーバンや推薦順の操作をやめない限りパヨシステムのままである。
君の話が通じる人の方が極端な例だと知ってほしいね
便所の壁に向かって撒き散らしながら、「俺は毒を制御してる」「現実ではまともでいられる」と自己暗示をかけているだけ。
だがな、現実はそんなに都合よく分離できねぇ。精神の排泄物を「匿名空間にだけ」流すと思ってる時点で、もうすでに現実側が腐ってる。
お前のやってることは、悪の演技ですらない。ただの腐敗の管理ごっこの自己放尿だ。
自分の内部に生じる衝動や敵意を、倫理的に昇華する努力を放棄して、「放出すればバランスが取れる」と信じてる。だが、自己放尿は昇華じゃない。
排泄物を外に出しても、体内の毒性そのものは変わらない。むしろ「出せばスッキリ」という快感が依存を深める。つまり、精神的マスターベーションと同じ構造。自己治療ではなく、自己放尿だ。
そして「ネットで悪事をやらなきゃ現実で狂う」と言うが、それは逆だ。
現実に強度がある人間は、匿名空間で暴れ回る必要がない。お前の狂気は才能でも防衛でもなく、自己放尿だ。
お前のやっているのは、理解のない放尿。理性を装った排泄。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
人間は続けることに価値があると信じ込むが、それは集団妄想にすぎない。
真に必要なのはやめる能力だ。やめることができない者は、ただの習慣依存症であり、意思ではなく惰性で動く機械にすぎない。
SNSに四六時中書き込むのもそうだ。あれは世界に情報を残しているつもりで、実際には自己放尿でしかない。
書き殴った瞬間は気持ちいいかもしれないが、数分後には誰も読まない。
しかも時間と注意力を切り売りしながら、自分の価値を希釈していく。
これを「発信」などと呼ぶのは、ただの自己放尿だ。
仕事でも同じだ。「頑張る」「続ける」とかいう脳死スローガンを振り回しても、生産性は増えない。
実際には、不要な会議をやめる、無駄な人付き合いをやめる、意味のない勉強ごっこをやめる、そういう切り捨ての方が圧倒的に成果を生む。
人間の資源は有限であり、有限資源を浪費する奴は敗者の自己放尿でしかない。
なぜなら、不要なものを切り捨てた後に残るのは、価値のある最小単位だけだからだ。それを極限まで磨くことが、唯一合理的な成功の道だ。
「ご返信いただけると幸いです」→「逃げたのかバカ」
「◯◯してくれると嬉しいです」→「なんで○○しねえの」
「◯◯するのはお控えください」→「○○するなんて弱者男性へのいやがらせだ」
「お手洗いに行く」→「便所にたどりつくまえに漏らした」
https://tensor.art/articles/913128226920875057
https://tensor.art/articles/913128497503815227
https://tensor.art/articles/913129534738412049