
はてなキーワード:作画監督とは
https://www.nhk.jp/p/tokikaketv/ts/WQGK99QWJZ/episode/te/B3M14NJRNK/
実際に原爆で殺された少女たちを、彼女らが遺した日記を元にアニメにしていて、生き生きとした8月5日までの生活が描かれてるぞ
当時存命だった少女たちの親へのインタビューが途中途中で挟まれるから涙が止まらないぞ
気がつく人は多いだろうけど『火垂るの墓』の公開年と同じ年だぞ
その『火垂るの墓』の主要スタッフの百瀬義行さんが作画監督を務めてるから往年のジブリ作品みたいでクオリティ高いぞ
令和に作られた番組も。
アニメーション・ドキュメンタリー いわたくんちのおばあちゃん -NHK
スタッフロール見ればわかるけど、自社の人間だけで作ってる話ってほぼないのがアニメ業界なのよ
「作画監督は自社で確保したけど、全部受け持つのは無理なので他社の作画監督と二人体制にする」
みたいなことが普通にある
京アニ作品はやたらクオリティが高いので有名なのを知ってるかわからないが
そういういきさつなので、お手伝いがめちゃくちゃ多いのよ
そのお手伝い先が「人がたくさん減ったので、自社作品に専念します」って言い出したから
一気に回らなくなった
「4話まで放送したけど、手が回らないので残りの放送は休止して来年再開します」
みたいな話聞いたことない?
赤いきつね騒動について、私は「自分はそこまで気にならないけど嫌な人がいるのは分かる」くらいのスタンスだったのだが、周囲を見渡すと私が慕ってる人の中にも問題を全く理解してない人が結構いて、嫌気がさしてしまったので書き殴ります。
フェミとオタクを中心に不毛な言い争いが繰り広げられてる印象の強い問題だけど、多分君たちは敵じゃない。対立する場面はあったとしても、名前だけを見て殴りかかっちゃ駄目だ。個別の問題に目を向けてくれ。落ち着いて聞いてくれ。
まずフェミ(とネット上で呼ばれている人)およびフェミと名乗るほどではないが女性の性的消費にうんざりしている人たちが何故そんなに怒っているか。日頃アニメコンテンツに慣れ親しんでいる人ほど「あれが性的…?」と思ってしまうと思うけど、そういう人はまず「性的」という言葉の意味を捉え直す必要がある。
あの映像は「(女性だけが)過度に性的に表現されている」と批判されているわけだが、「性的」とは何も直接的なエロ表現のことだけではない。「性愛の対象として魅力的に感じること」、もう少し噛み砕いて言うと、「女の子を女の子らしく可愛く描くこと」も広く「性的」と言える。
女性の中には、この「女の子らしく可愛く」を求められることにうんざりしている人が結構いるのだ。
「私たちは都合のいい可愛い生き物じゃない。ちゃんと人間として見てくれ」と。
頬染め、耳かけ、潤んだ目、口元の描写と、様々な点が指摘されているが、そういうアイコン化されて現実からかけ離れた「可愛い女の子像」にうんざりしているのだ。
尚、あれがフェラみたいだとか言っている人については、それは正直どうかとは思う。
けれど同時に、それくらい口汚く罵りたくなるほど性的な目で見られることに嫌悪感を抱く人がいることも忘れてはならないし、その背景からも目を背けてはならない。
男性諸君には想像もつかないかもしれないが、女性というのは生きているだけで本当に性的な目を向けられ続けるのだ。
私なんかはかなり平和に生きられている方だと思うが、それでも男性多数のコミュニティにいた時には、私の本当になんでもないほんのちょっとした言動をAVやエロ漫画のシチュエーションに結びつけて、嘲笑の的にされるようなことは頻繁にあった。私ですらそうなのだ。
どうしてか性的な目を向けられやすい人とは残念ながら存在するので、酷い人はそれはもう想像を絶するほどに酷い目に遭ってきたのだと思う。そういう背景を持つ人たちから半ば反射的に飛び出す罵詈雑言を、言葉尻だけを捉えて批判するようなことはしたくない。
ヒステリックに過剰反応してしまってる人も確かにいると思う。でも逆に「その反応も仕方ないほど傷つけられてきたのだとしたら?」と想像すると、とてもいたたまれない気持ちになる。
あの映像を見ただけであれだけ怒っているのだと思っているなら、確かに「ちょっとおかしいんじゃないの?」と感じてしまうだろう。
でも彼女たちはずっとずっと女として生きているだけで嫌な思いを積み重ねてきたのだ。
「ちょっとおかしいんじゃないの?」を彼女たちにぶつけてしまう前に、一旦立ち止まって考えてほしい。
「どうして彼女たちはたったあれだけのことでこんなに怒らなければならなくなってしまったんだろう?」と。
あの映像は「目の保養」としてはよくできていたと思う。ドラマを観て涙ぐみながらうどんを啜る女の子は可愛い。でもそれは、主人公の女の子を鑑賞物として見てしまっているということでもあるのだ。
「あれは可愛い女の子を見て楽しむものだろう。それの何が悪い」と思う人がいるかもしれない。
言いたいことは分かるし、そういう楽しみ方をする人がいてもいいと思う。
では何故炎上したかと言うと、あの映像がCMであり、CMのターゲット・コンセプトと作画・演出がミスマッチを起こしていたからだろう。
あれが人気アニメのキャラを主人公にした映像だったら、全く同じ演出でも多分あんなに炎上しなかったと思う。それならCMのターゲットはそのアニメのファンであることは明確であり、主人公が「鑑賞対象」として楽しむために作られたものだということが理解できるからだ。
しかし、無名の男性主人公/女性主人公の映像が制作されたところを見ると、ターゲットはそれぞれ広く一般的な男性/一般的な女性と見るのが妥当だろう。
そして、両者とも日常的なシーンを描いていたことから、顧客の共感を呼ぶことで購買意欲を刺激することを狙ったのだろうと考えられる。
しかし、肝心の女性主人公が現実の女性とはかけ離れていて、共感できる対象ではなかったのだ。
ゴリゴリにジェンダーバイアスのかかったステレオタイプのシチュエーションで、キラキラの目と紅い頬の可愛さの強調された絵柄、フェチ仕草として擦られまくった耳かけポーズ。
自己投影の対象として作られたであろう「一般的な女性」であるキャラクターがここまで性的魅力を強調して描かれていれば、「こんなんじゃねえわ」と思って当然だし、自分に性的な目を向けられているような嫌悪感を覚えるのも無理ないだろう。
さらにこの件では、男性と女性の描かれ方の非対称性が顕著に現れていたことも問題だった。
男性は比較的リアルな作画だったのに対して、女性はいわゆる「萌え絵」と呼ばれる、消費の対象であるコンテンツとして培われてきたイラストの表現手法で描かれていた。
逆に男性側も「女性好みのキラキライケメン」として描かれていたならここまで大きな問題にはならなかっただろうが、男女の扱いに差を作ってしまったことで、そのまま社会における男女の扱いの差を投影してしまったのだ。
作画監督が違うんだから絵柄が違うのは当然だ、という指摘が多いが、よほど興味のある人でない限り監督が誰がなんて調べないし、苦言を呈す側がそこまでの注意を払う必要はないと思う。そもそも同じシリーズとしてセットで公開された映像なのだから比較されるのは当然のことだ。
消費の対象として作られたコンテンツを消費することは何も悪いことではない。けれど、あの映像における女性主人公は「消費者の代表」として捉えられても全くおかしくない存在であり、それを性的に描いてしまったのだから、不快感を持つ人はいて当然だと思う。
意地悪な解釈をすると、それは「カップうどん食べてる女の子ってちょっとエッチで可愛いよね」というカップうどんメーカーからのメッセージとも取れる表現であって、「おまえら消費者をそんな目で見てたのかふざけんな」と批判されても仕方のないことなのだ。
それと誤解されがちだけど、女性を性的に消費するのは何も男性だけではない。女性もまた女性を性的に消費しているのだ。
女性アイドルにも必ず一定数の女性ファンがいることを見れば明らかだろう。女にとっても可愛いものは可愛い。
だからあの映像の監督が女性であることは何も不思議なことではない。「可愛い女性」の描き方に慣れ過ぎて手癖同然に女の子を可愛く(性的に誇張して)描いてしまったのか、クライアントから「もっと可愛くして」と要望を受けたのかは分からないが、女性が「アイコン化された可愛い女の子」を描くのも別に普通のことだ。
繰り返すが、消費の対象として作られたコンテンツを消費することは何も悪いことではない。ただ、コンテンツを通して現実に生きる女性に性的な眼差しが向けられてしまった時(あるいはそう捉えられる表現がされていた時)、それは時として加害性を伴うのだ。怒って当然だ。
ただし、もし監督個人を攻撃している人がいたら、それは今すぐやめろ。
生み出したものへの責任は背負う必要があるので、作品そのものが批判されるのは致し方のないことだ。でも人格までを否定する権利は誰にもない。
ひとつひとつは大した内容じゃなかったとしても、あなたが発したのがたったひと言だったとしても、今彼女には膨大な量の批判を一人で引き受けている。
きっと怖いなんてもんじゃないだろう。世界の全てが敵になったように感じるだろう。
言葉の向こうに人間がいることを忘れてはならない。あなたの言葉が背中を押してしまうかもしれない。
(そして個人的なお願いだが、作品の批判をする場合でも可能な限り言葉は選んでほしい。批判されるのは致し方ないことだけど、自分の生み出した作品が否定されるのは結構メンタルにくるものだから。)
「ああいう表現嫌い」は許されたとしても、人格を否定するようなことは言っちゃ駄目だろ。
そういう人として許されないラインを超えた発言をしてると誰にも話を聞いてもらえなくなるぞ。
ここまで読んでもあの映像がそこまで問題だと思えない人もいるかもしれないが、それは別に悪いことではない。誰が何を感じようと自由だ。(私自身も、あの映像自体にそこまで嫌悪感は抱いていない。)
しかし「嫌だ」と思う人がいる事実を曲げてはならない。「嫌だ」だと感じるのだって自由だ。「嫌だ」と思ったなら「やめて」だって言うべきだと思う。
「嫌だ」は自由だけど「やめて」を言う権利は誰にもない、みたいな主張も見かけたけど、そんな馬鹿なことはない。
「嫌だ」も「やめて」もそれを受け入れてもらえるかは別の話というだけであって、言う権利は誰にだってある。
「嫌だ」という人に「嫌だって言う方がおかしい」というような言葉を投げかけるのは人格の否定であって、それがどれだけ暴力的なことか理解してほしい。
(こういう話をすると「自分は色々我慢してるのに!嫌だと言う奴は我儘だ!」と言う人が必ず現れるが、それはあなたがもっと自分のことを大事にした方がいい。嫌なことがあるなら「嫌だ」って言わないと気づいてもらえないから。どんどん口に出して自分を守ってほしい。)
同時に「嫌だと思わない奴はおかしい」もやめた方がいい。
あなたがどれだけ嫌な思いをしていようと、他者の感情を制御することは誰にもできない。「嫌だ」と思う人にできるのは、「嫌だ」と声を上げ続けることだけなのだ。
そして嫌だと思わない人も、できるだけ「あなたは嫌なんだね。そういう人もいるんだね」と受け止めてほしい。「(自分はそうは思わないけど)」でも構わないから。
(紛らわしいけど、「嫌だと思う人がいることを理解できないのはおかしい」は言ってもいいと思う。そういう人は目の前にいる人の存在を無視しているわけだから、胸ぐら掴んででも視界に入れてやらなきゃいけない。)
フェミの話が長くなってしまったけど、ここからはオタクの話もしたいと思う。
ジェンダー観が問題になり広告が炎上する事態はもう何度も繰り返されてきたが、そこにアニメ・漫画コンテンツが関わる場合、必ずオタクがフェミ叩きを始める。
オタクは何をそんなに怒っているのだろうか。
これは主観だが、オタクは長く日陰に追いやられてきた悲しい歴史からか、自分のテリトリーが侵されることに強い拒否反応を示す人が多いように思う。
アニメ・漫画コンテンツは自分たちのテリトリーであり、それを使って表現された広告が批判に遭い、取り下げられることが受け入れられない。「表現の自由」を大義名分に掲げて暴走してしまうのだ。
こういう人たちにまず理解してほしいのが、エンタメコンテンツとして制作されたアニメーションと、広告のクリエイティブとしてのアニメーションの役割の違いだ。
エンタメコンテンツは、コンテンツそれ自体を楽しむためのものであり、好きな人だけが見ればいいものだ。分かりやすく言うと、「嫌なら見るな」が通じる。
商業作品であれば商売としてとして成立させる必要はあるものの、表現の自由は限りなく完全に近い状態で認められるべきものだと思う(適切なゾーニングは必要だが)。
この「(適切なゾーニングは必要だが)」が重要で、今回の件で「頬染めが駄目なら女の好きなBL作品だって駄目じゃないか」みたいな反論をいくつか見かけたが、それ本気で言ってるのか?全く反論になってない。
BLはBLというジャンルに隔離して好きな人だけで楽しんでいるものであり、概ね正しくゾーニングされている状態なので問題ない。嫌いな人も多いだろうか、嫌な人が視界に入れないことができる状態だ。(「絵本の隣にBLが置いてある」みたいなのはマジで早急に改善してくれ。)
例えどんな非人道的な表現であろうと、表現すること自体は限りなく自由であるべきだと思う。
発信した内容には責任が伴うことも忘れてはならないし、この先ゾーニングが厳しくなっていく可能性は十分にあるが、表現することそれ自体は自由だ。
一方で広告の役割は、エンタメコンテンツのそれとは明確に違う。
広告は不特定多数の人に見てもらって商品をPRするものなので、まず第一に、「嫌なら見るな」が通じない。
広告とは頭下げてでも見てもらいたいものだし、隙あらば視界に入ってこようとするものだ。
だから好きな人だけが見ればいいエンタメコンテンツと比べて表現には気を遣う必要があって、企業や商品のイメージを損なう恐れのある表現は避けなければならない。
広告の目標とは、商品のイメージアップや売上アップなど色々あるわけだが、とにかくその広告によってそれぞれ目標が設定されている。
そして目標があるということは、つまり明確な「成功/失敗」があるということだ。設定した目標が達成できれば成功、できなければ失敗だ。
ここの区別がつかない人が結構多い印象なのだが、炎上の理由に正当性があろうとなかろうと、広告が「失敗」と判断されれば、その広告の早期終了や取り下げもやむを得ないことだ。
オタクたちに理解してほしいのだが、広告の取り下げが起ころうと、表現の自由が侵されたわけでは決してないので安心してほしい。それは「表現規制」などではなく、業績への悪影響を考慮した「経営判断」だから。
そして広告の失敗がダイレクトに売上に影響してしまう以上、企業がその表現内容について慎重にならざるを得ないのは理解できるだろう。
仮にこの先ガチガチに配慮された表現の広告クリエイティブしか作られなくなっていったとしても、それを「表現規制」と呼ばないでほしい。ただの「経営判断」だから。
過去の炎上案件の中には理不尽な炎上もあったと思うし、適切とは思えない取り下げもあったと思う。
同じような構図の炎上に見えても、それぞれ別の問題であって、フェミの主張もそれぞれ違う。その中には正当性のあるものもないものもある。
「フェミ」というラベルだけを見て叩かないでほしい。ちゃんと彼女たちの抱える痛みに目を向けて、その上で判断してほしい。
これはフェミのために言っているわけではなく、オタクのテリトリーを守るためにも必要なことだ。
「表現の自由」という強すぎる言葉を盾に痛みを抱える人の主張を蹴散らしていては、いつかはその大事な盾を取り上げられてしまうだろう。
違法でないのをいいことに迷惑行為を行う人にならないでほしい。
例えルールの範囲内だったとしても、それが誰かを傷つける内容であればちゃんと自分たち自身で「ノー」が出せる人であってくれ。
自由が許されているうちに変わってくれ。
受け入れなくていい。でも相手の主張を無視したり馬鹿にするのではなく、「好きなものをそんな風に言われるのは辛い。好きな気持ちを否定しないでほしい」とちゃんと自分の思いを言葉で伝えてほしい。
今の状態だと正直、オタクはフェミ叩きをしたいだけに見えてしまう。でも本当は違うんじゃないか?守りたいものがあるんじゃないか?それを言ってくれないと分からない。
揚げ足取りの口喧嘩で言い負かしたところで相手の内面は変えられない。それではオタクコンテンツへのヘイトが溜まる一方だ。
取り留めのない話を長々とここまで書いてしまったけど、フェミとオタクは対立する場面は多いが、本来は互いに協力して「配慮と自由を両立するにはどうすればいいか」を探っていかなければならない相手だと思う。
フェミにもオタクにも悪いところはある。人としての一線を超えている人も両者に散見される。
けれど相手は「フェミ」じゃない。「オタク」じゃない。人間だ。
人間をやめないでくれ。
きっと未来永劫叶わないことだけど、互いの大切なものが対立したときに、殴り合いではなく議論で解決策を見つけられる人間ばかりになってほしい。
もう不毛な争いは見たくない。
京都アニメーションの新作が発表された。
落胆した、そして悲しくなった。
一方は既存のシリーズの劇場版、もう一方は新規とは言えかつて京アニで制作した同作者の「日常」の流れを汲んでるので、似たようなテイストになるのは明白だ。
京アニは完全新規の企画を立ち上げる体力はまだ戻ってきていないことをまざまざと証明させられた。
あの放火殺人事件によって、京アニの精神的支柱・大黒柱とも言える木上益治氏を失い、武本康弘、西屋太志、池田晶子も居なくなった。
実は事件後、犠牲を免れた人達の中からも大勢が京都アニメーションを去っている、監督・キャラデザ・作画監督クラスの人間がごっそり京アニを辞めたのだ。
きみの色公開中の山田尚子はもとより、ヴァイオレット・エヴァーガーデンのキャラデザの高瀬亜貴子ももう京都アニメーションには在籍していない。堀口悠紀子は事件の数年前にはすでに辞めている。
その他の作画監督級のアニメーターも退職して上京したり、廃業したりしている。
2010年代の京アニは特に自社原作オリジナル作品に力を入れていた。
会社として多数のオリジナルIPを生み出せる強みを存分に活かしていたが、それを担える才能はあの事件でほとんど失われてしまった。
今度の「新作」も、既存もしくは既存に近い性質の作品ばかりだ。
傍目には復活できたかのような京都アニメーションだが、今回の新作発表会で事件から5年以上経ってもかつての力を取り戻せてはないという現実を無惨にも突きつけられた気がした。
京都アニメーションの強みというのは、商業主義と表現主義のバランスだ。商売として売れなければどうしようもないが、だからといって表現も捨ててはならないという強固な意思の強さだ。それは犠牲になった木上益治氏の影響力も強かったからだ。華々しいテレビや劇場の裏で作っていた短編作品などは極めて表現主義的なものだった。
その木上氏を失い、多数の才能も失った京都アニメーションは今後、商業主義的な作品ばかりになっていくのだろう。
それがとてつもなく悲しい。
あの頃の京都アニメーションを取り戻すにはまだあと10年以上先か、いやもう元通りにはならないかもしれない。
Permalink |記事への反応(25) | 10:37
8年間無名の制作会社で勤務していたが、4年ほど前にそこそこ名の知れた制作会社で働き始めることができた。
そこで働き始めてから3年ぐらいしてからのことなんだけど、ある中国の映像制作(アニメ制作専門ってわけではなさそう)の会社から引き抜きのメールが来た(メルアドはTwitterに載せてる)
作画監督レベルの給料に惹かれはしたが、中国勤務だったので断った
次に同じ会社から引き抜きの誘いが来た時は、福岡にあるその会社の子会社勤務で月50万年間650万(家賃補助あり)の契約だった
少し悩んでいる。現在の給料は月28万でボーナス込みでも年400いかないくらい。
同業に話を聞くと、同じ会社から全く同じ条件の誘いがきてる人が俺の周りだけでも8人いた。
正直なんでこんなに末端のアニメーターに多く支払えるのかがわからない。
今働いているところも一般的な日本のアニメ制作会社と比較すると待遇はすこぶる良く、文明的な生活が可能である
自分で言うのもなんだが、アニメーターの中じゃそこそこいい生活ができている
いくら人口が多いとは言え、中国でアニメってそんなに儲かるのか?
別に作画監督として現地のアニメーターを指導してくれってわけじゃなくて、普通にアニメ作ってくれというだけの誘い
Permalink |記事への反応(16) | 18:30
素直にそう思う。
シスプリリピュアってアニメが昔あって、とても独特な構成になっていた。
テレビ放送前提なので一般的にはOP-Aパート-CM-Bパート-EDと構成されているのだけれど、この作品はAパートとBパートが別の作品だった。
Aパート(ストーリーズ)はシスプリ自体のアニメオリジナルストーリーを毎週にわたって展開し、全13回の1クール長編アニメとして構成されていた。
Bパート(キャラクターズ)はシスプリのメインコンテンツである12人の妹を全12回、毎回1人ずつ紹介する短編アニメ集だった。
と上記のように、キャラクタを深堀することに全力を費やしたのが、シスプリリピュアのキャラクターズパートである。
おそらくコストも相当かかってるが「電撃G'sマガジンの紙面企画のメディアミックス」としては最高の出来だった。
まあ昨今は関係性オタクとかも幅を利かせているので向き不向きはあるだろうけど、ソシャゲはこの方式でやってもいいんじゃないかと思うんだけどね。
俺は見る側だから作る方の都合は知らんけども。
アニメ制作の流れや、趣味や商業目的で使用されている技術についての説明に使えそうな動画を探してたら、かなり辛辣というかキツい主張をしているアニメーターの動画を見つけた
- アニメーターの平均年収は440万円で、日本の平均よりも若干高い
- トップ層のアニメーターは年収が1000万円を超えるし、原画もトップ層は1600万円を稼ぐこともある。トップ層には届かずとも、監督であれば600万円台の年収が見込める(これは地方の役職付き社員や首都圏の中堅社員と同等の水準)
※1と2は、一般社団法人日本アニメーター・演出協会の情報を参考にしている模様- アニメーターは誰でも目指せる職業だが、そのためにトップクラスとそれ以外の間に大きな差が生じている。技術が低いアニメーターのポンコツ作画を修正するのは、作画監督やより優れたアニメーターの仕事となっている
- 稼げない、生活できないのは単純にアニメーターに向いていないからでは?トップクラスになれなくても、必要な技術や能力があれば、平均的なサラリーマンよりも稼ぐことが可能
- ポンコツをクビにしたくてもできないというか、技術が低いポンコツアニメーターが多いことがアニメ業界の本当の闇
動画主(アニメーター) の主張を聞いたワイの感想は、その意見も一理あるというか、ほぼ全面的に『まあ、そうでしょうね』という感じ
特に、動画主(アニメーター)が指摘する『トップクラスとそれ以外の間に大きな差が生じている』という現象は、アニメ業界に限らず、ほとんどの分野で見られる
例えば、『20代から40代までなんとなく続けてきた人』と、『40代から新たに挑戦する能力の高い人』だと、後者が勝つ傾向にあったりする
これは、人間の能力が、身長のように目に見えるほど差があるという、残酷な現実を示す一端だ
だからこそ、世に溢れる自己啓発書では、わがままが許される状況下なら、『特別に好きなこと』もしくは『競争に勝てる得意なこと』のどちらかを仕事に選ぶべきだと大昔から説いているんだね
競争に勝てなくても三度のメシより好きなことに情熱を注ぎ続けられるなら、後悔のない自分らしい人生を送れる可能性が高いし、好きなことでなくても競争に勝ち続けられることなら、プライベートに注力できる時間や余裕が生まれるから
ちなみに、年収が低いアニメーターはアニメーターに向いていないという意見だが、IT業界にも当てはまる。年収が低いIT屋が、IT屋に向いていない可能性はそこそこ高い(もちろん、金銭的な成功ではなく、技術探求に情熱を注ぐ人もたくさんいるし、無給で自宅で勉強するのではなく、会社で給与を得ながら学ぶ戦略を一時的に取る人もいるので、そういうのは例外)
強いて動画主(アニメーター)の主張に対してワイがツッコミを入れるとしたら、ポンコツアニメーターも人間であり、尊重されるべき存在であること、ポンコツにも生活があることを忘れずに、接しましょうかな。気軽にクビに〜とか言ってるけどね。つか、業務を依頼したり、雇用した時点で、責任は伴うもんでしょうよ
自分がどのポジションにあっても、すべての人に敬意と思いやりを持って接するべきだよね、スキルに関係なくさ
ちなみに、日本のIT業界も、アニメ業界と似ていて、業務に必要なスキルを持った人を揃えることができない問題に直面することがそこそこある
要領が悪いSIのSEや社内開発のプロジェクトリーダーが、業後や休日にポンコツ技術者の作業を手直しているケースを見かけたりもする(おそロシア)
これは、過労死リスクを高めるだけでなく、まぁフツーにプロジェクトの遅延にもつながるよね
しかし、本当にやるべきなのは、適切なスキルを持つ人材を事前に準備し、アサインすることなんだよね
事前準備や根回しが間に合わない場合でも、『いや、○○の経験をある人揃えられないなら無理ッス』とハッキリ言って、とにかく周囲に理解を求め、状況に抗う姿勢を示すことが大事なのよ(無理なものは無理)
政治的または予算的な制約で人材確保がどうしても不可能な場合は、開き直って、誰が参画してもスムーズに業務を進められるような効率的なワークフローを構築することに全力を注ぐべき。社内の過去案件の資産を徹底活用し、チームで仕事ができる環境を整えることが最優先。つか、ITは本来、効率的なワークフローを作るお仕事だからね
もちろん、ちょっとナレッジ整えて教育したくらい、枠整えたくらいでは、どうにもならねぇポンコツメンバーってケースもあるだろう
しかし、それでもやっぱりやるべきことは、ワークフロー構築に全力を注ぐだよね
なぜなら、どうにもならねぇことはどうにもならねぇからだ。選択肢は、『メンバーが育つのを待つ』か、『危機感を持った人が人材を投入してくれるのを待つ』か、『プロジェクトから逃げる』の3つだよ
いや、それで査定は乗り切れない、俺私の無限残業でリカバリーする!!!!って言ったって、どのみち、俺私に社内やプライベートで予期せぬ予定が入る度に、プロジェクトは遅延するよ
同じ体力と時間を使うなら、予期せぬ事態にも対応できる体制を作り上げることの方に使おう(次回も使える)
IT屋さん(geekではなく、並な人々や技術がポンコツな人々)にとって、効率的に少人数で業務を回し、負荷が偏らないようにチームで仕事をする仕組みを作ることは何よりも重要だけど、
動画主(アニメーター) の辛辣な主張のように、パヤオのような天才やトップ層だけいれば、ポンコツな人々はいなくていいみたいなマッチョな思想の人が多い業界なのかしらねって思いました
いのまたむつみ先生の業績を雑に語ってインプレ稼ぐ人が出てこない
仕方ないので自分が口火を切ろうと思う
自分たちの世代にとって、いのまたむつみ先生はジャンルファンタジーの擁護者であり守護者だった。
ライトノベル黎明期を支えたイラストレーターだが、元々はアニメのキャラデザ、作画監督で有名で、特に幻夢戦記レダとウインダリアのキャラデザで、ファンタジーアニメといえばいのまたむつみ先生、というイメージを植え付けられた。
ロードス島戦記より前、ファンタジーアイコンといえばビキニアーマーだった時代、レダのイラストがファンタジーアニメというニッチの存在感を支えてくれていた。
(ロードス島戦記のディードリットでファンタジーアイコンがビキニアーマーから耳長エルフに置き換わる。ディードリットの衝撃は耳の長さもさることながら、ファンタジーなのに肌色の多いビキニアーマーじゃなくちゃんと布で覆われつつファンタジー鎧だとわかる格好をしてることだった。コンプティークのディードリットヌード扉絵がプレミア価格なのは、ビキニアーマーじゃないちゃんと服着てるヒロインが脱いだからこそで、それだけ衝撃がすごかったのだ。耳長エルフが世界的に広まってしまった現在だと該当コンプティークのプレミア価格は億超えしかねないぐらいだ)
いのまたむつみ先生のレダが他のビキニアーマーと違うのは、やはり、ビキニアーマーなのにエロ方面に振られてなくて、あくまで綺麗な姿として描かれてたことだと思う。ドリームハンター麗夢だとロリコン絵柄ということになってしまうし、都築和彦先生のザナドゥも思春期男子には刺激が強すぎて広告だけで繰り返ししこらざるをえなかった。
そんなビキニアーマーという黙ってるとすぐエロになってしまうグラフィックを、エロの手前にとどめて一般へ訴求するに足るラインにしてくれたいのまた先生の功績は大きい。
先日、ジャンルファンタジーがマンガ雑誌編集に拒絶され描かせてもらえなかったという話題がバズっていたが、ジャンルファンタジーが市場として認知されるのはテレビゲームで十分に裾野を広げた後に、映画ロードオブザリングが世界的ヒットした21世紀以降で、それより前、ジャンルファンタジーは「ストーリーを展開する前に説明しなければならない設定が多すぎて一般層に届けるのは難しい」という認識だったと思う。レベルとスキルとエルフとドラゴン、といったテンプレが準備され誰にでも通用するとみなされる以前は、ファンタジーアイコンとしてキャッチーさで客を捕まえらえる要素は少なかった。ファンタジー黎明期を支えてくれたのがビキニアーマーというアイコンであり、そのビキニアーマーをエロくなく綺麗に描いてくれたのが、いのまた先生だった。イーノ・マータがエロの女神じゃなく美の女神なのはすごく大事なことだった。
次いでいのまた先生キャラデザのウインダリアもRPG以前のジャンルファンタジーとして重要な作品だった。ファルコムのイースのネタ元ではラピュタが挙げられることが多いが、ラピュタとほぼ同時期に上映されていたウインダリアもネタ元だった。イースの名前の由来はフランスの伝説の町イス(Ys)だけど、イスの伝説をイースより先に採用したのがウインダリアのイサ。ファルコム出身の新海誠はウインダリアからネタをちょくちょく拝借してる。ラピュタやウインダリアが上映されていた当時、「火吹山の魔法使い」などのゲームブックは既に発売されファンタジーブームに火がつきかけていたが、アニメーションはSFアニメが主流でファンタジーアニメは殆ど存在しないに等しかった。なのでウインダリアは貴重な供給元だった。