
はてなキーワード:作務とは
「時間資本を人的資本に変えろ!」とか、キラキラした目で言ってくる奴、たまにいるけどな。
いやまあ、俺も昔はそういうのに影響されてさ、IT勉強して、プログラマーになったわけよ。
でもよ、歳食って、しみじみ思うんだわ。「努力」って、本当にそこまで神聖視するもんか?って。
いや、無駄とまでは言わねえけど、なんていうか、割に合わねえっていうか。
要は生活コストなんだよ。毎月いくらかかるのか、そこから逆算すればさ、
極端な話、家賃抑えて、自炊して、酒もたまにしか飲まねぇなら、月10万くらいで生きていける。
それ以上稼いで、何に使うんだって話だよな。ブランド物?高級ディナー?SNSで「いいね」集めるために?
…そんなん、虚しくねぇか?
ホワイト企業なら椅子に座ってコード書いてるだけだし、体力的にはバイトよりマシかもな。
資本資本って、人生まで投資対象にしてどうすんだよ。人間、道具じゃねぇぞ。
「社会から認められたい!」って感情も、正直、昔はあったけど、今はもうどうでもいい。
俺にとって大事なのは、静かに、淡々と、壊れずに日々を送れること。
禅僧みたいなもんよ。日が昇れば起きて、飯食って、掃除して、寝る。
それができれば、まあ満足じゃねぇか?
だから今の俺にとって「プログラミング」ってのは、自己実現でもなければ資本形成でもない。
単なる「作務」なんだよ。掃除とか、薪割りとかと一緒。心を整えるための反復動作。
コード書いて、動いて、「おー、動いたか」ってちょっとだけ思って、それで終わり。
収入?別にこれ以上いらねぇ。SNS?やってねぇし、バズっても何も嬉しくねぇ。
「OSSでヒット作を出して業界に名を残せ!」とか言われてもなあ……
百年後にそれが残ってる保証なんてどこにあるんだ?
死んだ後に何が残るかなんて、俺には関係ねぇ。
ユダヤ教と禅(禅仏教)は一見すると異なる宗教伝統ですが、意外な共通点も多くあります。
どちらも深い精神性を持ち、内面の探求を重視する点で共鳴する部分がありますね。いくつかの共通点を挙げてみましょう。
禅といえば座禅(瞑想)が中心ですが、ユダヤ教にもהתבוננות (Hitbonenut,内省)やהתבודדות (Hitbodedut,孤独な祈り)の実践があります。
例えば、ハシディズム(חסידות)では、自然の中で一人になって神と語る習慣があり、これは禅の「只管打坐(しかんたざ)」に似た側面があります。
どちらも「今この瞬間」に意識を向けることが大切です。
禅では「公案(こうあん)」という、論理的には答えが出せない問いを使って悟りを得ようとします(例:「一つ手で打つ音とは何か?」)。
ユダヤ教でもタルムードには、相反する意見が並べられることが多く、「両方とも正しいかもしれない」とする考え方があります。
有名な例では、ヒレル派とシャマイ派の議論があり、「これはこれで正しく、あれもまた正しい」という精神が根付いています。
ユダヤ教では、「神との関係はシナゴーグ(בית כנסת)だけではなく、日常生活の中にある」と考えます。
食事をする前にブラッハー(ברכה,祝福の言葉)を唱えたり、仕事や家庭生活を通じて神聖さを見出すことが大切とされます。
これは禅の「作務(さむ)」の考え方と似ており、掃除や料理といった日常の行動そのものを修行とする点と共鳴します。
禅では「無駄を削ぎ落とし、シンプルな生活をする」ことが美徳とされます。
ユダヤ教でも、物質主義にとらわれず、質素な生活を尊ぶ伝統があります。
例えば、ハシディズムの教えの中には「少ないもので満足し、それに感謝する」ことを強調するものが多く、禅の「足るを知る」という思想と通じるものがあります。
禅では、「言葉や理論ではなく、実際に体験することが大切」とされます。
これは、ユダヤ教の「行動を通じて学ぶ」という考え方と一致します。