
はてなキーワード:伝道とは
長くなったので読みにくいかもしれません
半年ROMれてませんが匿名性が必要だったのでここに書かせていただきます
乱文ご容赦ください
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援護が無さすぎるのではないかと思い、やっぱり納得がいかないと感じたので
ここに書きにきた
以前から何度も書こうと思っていたけれど
どうしても書けないまま 何年も過ぎてしまったが
なんとか書き始めた
フラッシュバックなど、読むのが嫌だと感じる場合はスルーしてくださいーーー
呆然とした
正直なところ
ショックとか 人が亡くなったということ以上に
「どうして今になって」と思った
ようやく悪夢を見て、ドキドキしながら目覚めることが無くなってきていた頃だった
逃げ出した後も燃え尽き症候群のようになり
ベッドから起き上がれなくなる日が続いて
一度は「こんなに辛いならもう死のう」と思ったけれど
いつでもそのボタンは自分が持ってるんだから もう私は誰にも縛られてないんだから」と思い
誰にも助けてもらえないので(親に話したが困惑されて流されただけだったので)
それでもなかなか人への恐怖や組織へ入る恐怖を克服できなかったので
バイトもできず
それでも人が怖くて怖くて
いつも人の顔が見れず震えて汗をかいたり
人と会ったあとは部屋で寝て起き上がれなかったり
遠出ができなかったり
そういうことがようやくひと段落つき始めていた頃
「ようやく最近少しずつ人と話せるようになってきたな」
「ようやく教団の元仲間から説得のメールが来ることも無くなってきたな」
と思っていた頃に
誰にも言えなくて
昔から付き合いのある友人にも言えなくて
両親に言っても「よく出てきたな」と言われるだけで
具体的なケアは何もしてもらえない中で
「宗教施設で共同生活をしていて就活のタイミングを逃しました」
「経歴に書けることがありません」
「宗教施設で生活していた影響で人が怖くてしょうがなくてバイトすらできません」
「燃え尽き症候群のようになって社会生活を人並みに送ることがどうしても難しいです」
そんなことの説明をしようがなく
ただひたすら周りからの、
「この人どうして朝起きれないんだろう」「なんか付き合い悪いな」
「学生時代の話してくれないな」「この人いっつも何してるんだろう 無職?」
「なんで結婚しないの」「なんでハロワ行かないの」「なんでもっと営業しないの」
「なんでいっつもお金が無いの」
あらゆる なんで? に耐えながら
ひたすら自分の足で立つことができるようになるように
1発の銃声で 毎日のように統一教会の名前をテレビで聞くようになってしまった
無かったことになっている自分の在籍期間6年とリハビリ生活10年間が
突然色を与えられたような感覚で
苦しかった
その行為自体を賞賛はできるはずもないけれど 思いは複雑だった
ただ悲しかった
あれは叫びだと私には感じられた
それくらい 中にいると社会で生活している人とは隔絶され 外の声は届かないし
中の声もまた外には届かなくなる
そこには長らく透明な分厚い分厚い壁があって中と外は隔絶されていた
あの1発の弾がそれを壊した
尊い人命と共に
その重大さを社会にどこまで理解してもらえているのか 分からない
その苦しみは 多分本気であの中で一生懸命やった人にしか分からないだろうと思う
それでもそこから私が逃げ出せたのは
ある程度、状況を俯瞰して見る(ある種冷笑的な)感覚を身につけていたからで
そこに関しては、私は自分が漫画アニメ好きのオタクでよかったなと思っている
「マジで漫画みたいなこと言うやんw」という茶化しが自分の中でできていたこと、
不真面目だったため、外の読み物やテレビは見てはいけないことになっていたが
伝道(いわゆる勧誘)もこっそりトイレに隠れてサボりまくっていたことなど
中の人からすると酷い不真面目、規律違反的なことをやっていたために
最後の一歩(あ、ここにいたら私の人生、誰も保証してくれないんじゃないか?)
という感覚に至れた、というところがある
しかし、そんな不真面目な私であっても
逃げ出すことが良いことなのか悪いことなのか、その時点では判別はできていなかった
神や、いわゆるお父様お母様(教祖)に背くことになるわけなので
正直ここから出てその後どんなことが訪れても覚悟を決めようというような気持ちはあった
なぜならいわゆる統一教会が言うところの「神のみ旨」を放棄することになるわけなので、
そうなった時に自分に何かよくないことが起きるかも、私だけじゃなく家族も何かよくないことが起きるかも、
という感覚が強く自分を支配していて そこに対して否定できる確証はなかったからだ
私が死ななくても 私の代わりに誰かが死ぬかも、と本気で思っていた
不真面目な信者であってもこのくらいにはどっぷり浸かっていた
それでも私は「本当に神様がいて 神様が私を愛しているとしたら
私のこの選択も祝福してくれるんじゃないか」という気持ちも微かに持っていた
それを信じたい、という気持ちだったと思う
そうであったらいいな、という感じで
もちろん確証も何もない
こんなふうになったから
今だからそんなふうに言えているだけで
その時には全く確証がなかった
ただ今言えるのは「神様がいるとすれば 統一教会にいる人も愛していると思うし
私のことも愛しているんじゃないかと思う」ということだ
これは信仰心ではなく
今の段階での結論というか、
信念的なものではあると思う
確証はないけれど「そうなんじゃないか?」と思っている、というようなことだ
「そうでなきゃやってられるか」というような思いでもある
神がいようがいまいが関係なく日々は続くし
私の場合 立ち止まっていても誰かが
「大丈夫?私がなんとかしてあげる 任せて」と
手を引いてくれるような状況は皆無だったから
(唯一打ち明けたカウンセラーの人も宗教的な苦しみまでは理解してケアしてくれなかったし
被害者コミュニティもあったかもしれないがまたそこから出られなくなるのではと思い、
組織に属するのが怖かった
両親は受け身なので私が動かない限り私の状況は好転するわけがなかった)
ただ言えるのは、自分で少しずつ歩く過程で人に支えてもらえることはあった、ということだ
理解できないなりに 両親は私の過去を酷くなじることはなかったし、生活も支援してくれた
「よく出てきたな それはなかなかできないことだぞ」と肯定はしてくれた
自立支援センターも、電話をかけたものの一人で行くのが怖かったので着いてきてもらった
理解してくれていようがしてくれなかろうが 都度都度助けてくれる人はいる
カウンセラーの人が言ってくれたことのいくつかは今も自分を支えてくれている
(私は自分の中に宗教施設にいたという負い目があったので、とにかく人に疑われるということが怖かった
自分の話をするのが怖く、いつボロを出しておかしなことを話してしまわないかと怖かった
そのせいか言葉がなかなか出てこなかったけど「ペラペラ話す人よりちょっとずつ一言一言話す人の方が信頼感があるよ」と言ってもらえたので 今は辿々しくても少しずつ言葉を並べられるようになった
だいぶ人と話すことが怖くなくなった)
神がいようがいまいが 関係なく日々は続いていく、というのはそういう感覚だ
私がいたのは学生寮のようなところで
信者に向け講義をするような人材を育てることを目的としている寮だった
20〜25人くらいの規模で
マンションの3部屋(うち1部屋は夫婦の家)を借りて男女別れて住んでいた
みんな割と若かったと思う
私は2世ではない
まだ規制が緩かったので大学内でも駅のコンコースでも勧誘を行なっていた
声をかけられた時も怪しいなとは思っていたが 半ば分かっていてついていった
統一教会だと開示を受けた上で「寮に入らないか」というような打診を受けたので
なんとなく流れで、面白そうなので入ることにした
あと、みんな、人が良い人たちだった、というのがあった
でも入教したキッカケには結局、自分の中に将来自分が働いているビジョンが湧かなかったり
社会一般の基準で勤めることは難しいんじゃないかという漠然とした不安があった
この時このような逃げの姿勢でいなければ
こんなに長く苦しむことはなかったなと今になってみれば思う
朝早くから起きて
原理講論を音読したり、勉強会をしたり、祈りをしたり、敬拝をしたりする
仕送りは全て世話役の夫婦に預ける形になっていて自由には使えなかった
お金は全て「聖別」といって、清められ
そういう清められたお金は「神様とお父様お母様のお金」と言い含められる
友人と遊びに行く、呑みに行くなどの経験も皆無だ
もちろん遊びにお金を使うことができないので 自由な交遊はできない、と言っていい
学校から帰ってきたら即駅のコンコースや他大学へ伝道という名の勧誘に行く
長期休暇は県外へ、車中泊をしながら1日中歩いてフキンの訪問販売をする
当然ながらより多く売れた方が良いわけだが私はいつもほとんど売れなかった
1ヶ月寮には帰れない
家族には内部のことは言えないことになっていて
これらを聞いて楽しそう、と思うだろうか?
けれど楽しいと思うことを排除し、自分を否定し、自分の望むものを否定して、
それを全てみ旨に捧げるというのが信仰の道だった
苦しければ苦しいほど条件になる、そういう発想なのだ
(そういう発想が多額の献金の要求にも繋がったのかもしれない が その要求に正当性は無いと思う)
私が寮内で大きな声で笑っていたら先輩に
「あなたが来てから、こんな大きな声で笑ってもいいんだなって 初めて思ったの」と言われた
そういう場所だったのだ
聞いた時はドン引きした
それでもやっている時は一生懸命だった
けれど これは本当に人を幸せにするような活動なのか?という疑問がずっとあった
(そういった活動などが条件となり積み重ねられ、
その条件が満ちると間接的に人を幸せにする、という考え方なので
目の前の相手を即幸せな気持ちにさせたかどうかはあまり重要ではない)
(どれだけ苦労を重ねるか 自分の欲や怠惰を否定できるかの方が
より大きな条件になるという考え方になる)
(親が子を置いて宗教活動に邁進することになるのは、そういう仕組みゆえだ)
人になかなか言うことができないような生活で費やしてしまったことは
勿体ないことだったと素直に思っている
勿体なかったと言うと「でもあなたのその過去も今に繋がっているじゃない?」
というような返しを親からされることがあるが
これを言われると いつも胸が詰まり
説明のできないいろんな思いが去来して胸がぐるぐるする
しなくてもいい苦労というのはある、ということで
誰も「統一教会が許せない」とも「あなたが失ったものを思うと本当に悲しい」とも
言ってくれる人はいなかった
私の、誰にも相談できなかった日々、1人苦しんだ日々を
私が逃げ出すことによって自分も家族も不幸な目に遭って死ぬかもしれない
もしひどい事が起こるなら私に起こしてくださいと
誰にも相談できなかった日々を
肯定しないといけないのだろうか?
この状況になるまで誰もそれをすることができなかった
その事実はとても重いと思う
それは助ける力がない人たちが口を揃えて言う言葉のようにも思える
とても、とても苦しいものだ
それがこの方法だったのだ
この方法以外で彼が救われることもなかっただろうと思う
山上被告が自分で自分を救うしかなかった結果がこれだったのではないだろうかと思う
私が入教して実感したことは、宗教に関わっている人は意外と多い、ということだ
私のいた寮の中にも、親が創価学会だったがそれに反発して統一教会に来た人もいた
(その人は非常に熱心な人だったが その後心身を崩して入院されたりしていた)
気になったのは、世話役の夫婦の奥さんの方はいつも病気がちで寝てばかりだったことだ
いつも辛そうだなと思っていた
断食をしたり敬拝をしたり長時間伝道をしたり 体を酷使することも多かったので
体を悪くしている人も多かった
みんな普通の人たちだ
そこにいる人たちは みんなそれぞれがんばって生きている
それを食い物にする、というのがおかしな話で
どんな宗教であっても「献金しなければ救われない」というのはおかしいことだと思う
正直に言えば 宗教法人は本当に好き放題するところは好き放題やっていると思う
人の気持ちは弱いので それで救われるなら払ってしまうわけだけど
なんとかもう少し規制ができてほしい
少なくともその行き過ぎた状態が、あのような悲惨な事件に帰結したのだということを思うと
そこをきちんと、法なりなんなりで整備しないというのは、単純に理解に苦しむ
状況がもう少し良くなってくれることを願う
あの事件が無ければ少なくとも私の16年は社会の中では意味を持たず透明なままだったし
こんな話は絶対にできなかっただろうと思う
誰も助けてくれなかったのだ
それを思うと本当に胸が苦しい
何度も書くが
誰かが助けてくれるはずがないのだ
そういう構造になっているのだ
楽しい家族旅行、欲しかったおもちゃ、勉強するための本、服、車
普通の人が当たり前に経験する友人との時間、家族と過ごせた時間、
そういうものに付随する思い出全てが
その悔しさ 悲しさ 苦しみを思うと計り知れない
私の失った16年 いや、それでは比較にならないほどの苦しみと絶望だと思う
それらは 決して帰ってはこない
泡になって 帰ってこない
親が宗教活動にハマるなんていうのは交通事故のようで あまりにも避けようがない
加えてそれを身内がどうにかするなんていうのはほぼ不可能だと言っていい
なんなら母親も被害を受けた側、交通事故に遭った側だとも感じられる
内情を知る人の弁護がなさすぎる気がする
「宗教にどっぷりハマっている身内がいる状況」
私は最後、逃げ出す前に
もしこの人たちがもう少し私に向き合ってくれていたら
けれど最終的な結論として
「ああ この人たちは神に祈りお父様お母様に祈る以上のことはしてくれないんだ」と思った
それが最終的な答えになるので話ができないのだ
「こうこうこういうことで悩んでいる」
と悩みを打ち明けても
「神のみ旨はこうだ」「お父様お母様はこう言っている」
その堂々巡りになる
そこを信じて同じことを繰り返せばいいのだ
他の話は通じない
一切だ 一切通じない
その虚しさは 本気で話をしようとした人間にしか分からないだろうと思う
皆良い人たちなのだ
信頼もしていた
一個人で見れば仲間や世話になった人たちだ 頭が悪いわけでもおかしいわけでもない
けれどそうであればあるほど ある一定のところから会話ができなくなることが辛い
逃げた後、私は入教前に元々住んでいたアパートに帰った
入寮時にそこを解約すると家族におかしく思われるのでそのまま残しておく慣わしなのだ
入教すると元の家には特別なことでもない限り入ることはできなくなる
記憶が薄いが、そこに帰れたということは
しばらくその部屋には仲間が何度も説得に訪れた
手紙が置いてあったり食べ物がドアの取っ手にかかっていたりした
無視をし続けていたところ
ある時、眠っていて目を覚ましたら目の前に女性の仲間(先輩)がいて、私を覗き込んでいた
預けたままになっていた鍵を使って勝手に部屋の中に入ってきていたのだ
その人に悪気はなかった
けれど、「神のためならそれができる」そういう思考回路になってしまうのだ
「神のために、この人を救わないといけない」
「神のみ旨であればこの行いは許される」
私は何度も何度も「あなたたちを見ると色んなことを思い出して怖くて震えて辛いので何も送らないでほしい 会いにこないでほしい」と伝えた
1566年、カトリックに対してオランダ人プロテスタントが蜂起して80年戦争になり、その間にオランダに証取と植民地会社VOCができる。
1722年、ザクセンのツィンツェンドルフ伯爵(以下、ツイ伯爵)は、カトリックから逃れたチェコのモラビア教徒を保護し、ヘルンフートの町を建設してやった
オランダ政府のVOCはアメリカにニューアムスを建設した。江戸幕府の銀がふんだんにあった。
英蘭戦争の結果、1667年イギリス領(ニューヨーク)になってしまったものの、オランダ出身のバンダービルト家は鉄道財閥になった
ザクセンのツイ伯爵も1740年伝道に入ったが、モヒカン族との関係が悪い噂になり、当局から追放された
1855年ごろ、富豪バンダービルト家はモラヴィア兄弟団に、3.4ヘクタールの土地を寄付(日本語版)または18ヘクタールの墓地を寄付(英語版)
ツイ伯爵はモラヴィア兄弟団とともに1741年ペンシルバニア州に移動し、ベツヘレムという町を建設した。この州ではメロンが鉄道財閥になった
1863年、ゲティスバーグの戦いで北軍が勝利し、アメリカ統一した
1891年-1896年、日本の保険財閥の門野重九郎がペンシルバニア鉄道で研修中、ペン鉄道は飛躍的に拡大
なお、1894年創業の大阪生命保険は徴兵保険を扱い、1903年使途不明金が発覚し解散処分
鉄道事業者と言えば、南北戦争最中に政府に請求詐欺してユニオンパシフィック鉄道を敷設したあげく1901年恐慌を引き起こしたのは、マサチューセッツ出身の詐欺師の医学博士。
「張り合うために努力するバカ者(若者)」という概念が俺の観察固有のものかと思ったが、さすがコヘレト、似たような観察をしていた。
「また私は見た。人のあらゆる労苦と巧みなわざは、互いにねたみ(妬み)によって起こるものである。これもまた空(ヘベル)であり、風を追うようなものだ。」(コヘレト 4:4)
つまり、コヘレト(伝道者)は、人が努力したり、働いたり、技術を磨いたりする背後には、他人との競争心や嫉妬があるのだ、と観察している。
それを称賛しているわけではなく、「これもまたヘベル(空虚、むなしい)」と言っている点が重要。
つまり、そうした「張り合いによる努力」は、結局は空しいものであり、本質的な満足にはつながらないという洞察。
この後の節(4:6)ではこう続く。
「手のひらいっぱいの安らぎの方が、両手いっぱいの労苦と風を追うことよりましである。」
つまり、コヘレトは「張り合い」よりも静かな満足・平穏な生き方を価値あるものとして提示している。
「人間はただ、狂った時代に、狂ってダンスを踊っているだけ」という言葉には、人生の不条理や社会の混沌に対する諦め、あるいは皮肉な観察が込められています。
ユダヤ教的な視点から見ると、この考え方は一面の真理を含みつつも、最終的にはユダヤ的世界観とは異なる方向を指しています。
つまり、ユダヤ教は世界の混乱や理不尽さを否定しません。人間は確かに時代の流れに巻き込まれ、ときに「狂ったように」見える世界を生きている。
しかし、それでも世界は無意味ではなく、神の意志の中にある秩序が存在すると教えます。
ユダヤ教では、踊りは単なる気まぐれではなく、神への喜びや生命への感謝の表現です。
つまり、もし「踊り」が「混乱に流される無意味な行動」を指すならユダヤ教はそれを戒めますが、もし「踊り」が「困難な時代の中でも神を見失わず、生命の意味を表現すること」なら、それは非常に尊いものです。
むしろ、人間はティクンオラム(世界の修復)、すなわち「世界をより良くする責任」を負う存在とされます。
世界が狂って見えるのは、私たちにその混乱の中で意味を見出し、行動する使命があるからです。
これは、「狂った時代に、どう踊るか」を示すユダヤ的答えとも言えるでしょう。
この現象は、タナフ(聖書)やタルムードでもたびたび語られています。
「なぜ悪や愚かさが目立ち、善や知恵が隠されるのか」
彼は、愚か者が栄える現実を見て心が乱れました。しかし彼は神殿に入り、悟ります。
つまり、ユダヤ的視点では、今見える「栄え」は最終結果ではないのです。
SNSの評価や人気は、「この世」の一時的な見せかけ(הֶבֶל, hevel=虚しいもの)にすぎません。
「すべては虚しい(הֲבֵל הֲבָלִים, hevel havalim)。」
真の価値は「天の裁き」で決まる。世間の人気は、多くの場合「耳に心地よい言葉」を語る者に与えられる。
しかしトーラーの真理は、しばしば人に「挑戦」と「不快」を与えるものです。
だから、ラビたちが評価されないことは、実は彼らが真理を語っている証拠でもあるのです。
カバラ的に言えば、世界は「クリッパー(קליפות, 外殻)」に覆われています。
これは善の光を隠す「殻」のような力です。
SNSや世俗文化の多くは、この「殻」の領域に強く働きます。なぜなら:
派手な炎はすぐ消えるが、ランプの灯は長く燃える、という比喩がタルムードにもあります(シェバット 31a)。
ピルケイ・アヴォット(祖先の言葉)4:2にこう書かれています:
「ミツワーはミツワーを生み、罪は罪を生む。」
つまり、善の結果は目に見えないところで積み重なり、最終的に永遠の世界で報われる。
「どんな人も軽んじてはならない。どんな行いも無視してはならない。すべての人に時がある。」
ラビや善人の評価が表に出ないのは、彼らの時がまだ来ていないだけなのです。
もしあなたが「善が報われない」と感じるなら、それは神があなたに「外ではなく、内に目を向けよ」と促しているサインかもしれません。
| 世俗の価値観 | ユダヤの視点 |
| 人気・フォロワー数 | 神の前での誠実さ(אמת, emet) |
| 目立つことが成功 | 隠れた善が真の成功 |
| 今この瞬間の評価 | 永遠の次元での評価 |
| 愚者が栄える | 賢者は神のもとで報われる |
この問いはまさに「アサフの苦悩」と呼ばれる、霊的成熟の通過点です。
ユダヤの伝統には「お金」「共同体」「責任」に関する多くの知恵があります。そこから現代の政策議論に通じる示唆を得ることができます。
「義に過ぎてはならない。知りすぎてもならない。… ただ、神を恐れる者は、これらすべてを避ける。」
ここでの教えは「極端に走らず、全体のバランスを見ること」。
財政政策も、過剰な緊縮で人々を苦しめてはならず、また過剰な支出で未来世代を苦しめてもならない。
ユダヤ思想では、貧しい者を助けることは「慈善」ではなく「正義(tzedakah)」です。
つまり、国家が困窮者を支えるために支出することは、単なる優しさではなく社会的正義の実現です。
「人は自分のためだけでなく、子孫のために木を植える。」
投資は「将来の世代のための木を植える」意識を持つべきだと教えています。
この主張 「神を全面信頼する。なぜなら男性乳首を設計したから」は一見冗談のように聞こえますが、タルムード的に読み解くと、いくつか深い視点が考えられます。
タルムードの思想には、「神が創造したものには無意味なものはない」という考え方があります。
たとえば:
"The HolyOne, blessed be He,doesnothing in vain.” (ベラホット 10a、サンヘドリン 37aなどの文脈にも近い思想)
つまり、たとえ人間には「無駄」に見えるものでも、神の視点では何らかの意味や目的がある。
この言葉の発言者は、「男性の乳首」という一見不要に見える存在さえも創造された神を見て、「そこまで完全な設計をされたなら、他のことも信頼できる」と感じている、という読み方ができます。
「神はすべてを時にかなって美しくされた。人は神のなさることを初めから終わりまで見極めることができない。」
この発言は、「神の創造の不可解さ」を笑いながら受け入れ、それをもって「だからこそ信じる」と言っているわけです。
タルムード的なパラドックスのユーモアにも似ています(例:Eruvin 13bの「これもあれも神の言葉」など)。
タルムードの賢者たちは、しばしばユーモラスな比喩を用いて信仰や哲学を語ります。
この発言も、皮肉に見えて実は「創造の完全さ」「神の知恵の深さ」への驚嘆を、俗っぽい表現で表したものです。
たとえばラビ・アキヴァのように、「すべてのことは神の慈悲によって」と言いながらも、世俗の中に神の意志を見出そうとする姿勢に似ています(Berakhot 60b 「すべて神がなさることは良いことのためだ」)。
という、創造への信頼と人間理解の限界を受け入れる信仰の表明といえます。
引き寄せの法則、名前からして胡散臭いと思ったが、その内容を実際に聞いてみたらいくつかのバリエーションがあることがわかった
まず最も多いのは「認識が現実を作る」というもの。例えば成功者になりたければ成功すると信じろ、みたいなタイプ
もう一つが「人生はネットサーフィンと同じ」というタイプ。つまり自分が注意を向けたものに感情が動かされるという論
前者を信じる人は「ポジティブ思考じゃなきゃダメだ」といって逆に自己検閲をして疲弊していることが多い。ネガティブ思考をすると自己嫌悪になるアホ
後者はむしろ「自分がコントロールできることに集中する」というストア派に近い。楽しい感情がほしければ、何が楽しいか自己分析して、実際に楽しいことをしろ、と言う
まず 「認識が現実を作る」タイプについて、タルムードは、人の思考や信念が行動を形作り、その行動が結果を生むと強調する。
たとえば
「人が進みたい道に導かれる」マッコート 10b
という有名な言葉がある。つまり、思考だけで現実が魔法のように変わるのではなく、「その人の意志や方向性が、その後の機会や結果につながっていく」という考え方。
タルムード的には「ポジティブ思考=それ自体で現実を変える」ではなく、「考え方がその人の選択や行動を左右するから、最終的に現実に影響する」と理解するほうが自然。
一方、「ネガティブを抑えなきゃ」と無理に自己検閲すると疲弊するのは、タルムードでも警告される点。
タルムード(ブラコット 30b)は「心の抑圧は人を病ませる」と言い、ネガティブを全否定するのではなく、相談し、方向付けをすることをすすめる。
一方 「注意を向けたものに感情が動く」タイプについて、こちらはタルムードにより強い共鳴がある。
つまり、感情は「外界そのもの」よりも「自分がどこに注意を向けるか」に大きく左右される、ということ。これは「ストア派に近い考え方」に対応。
またタナハでも、コヘレト(伝道の書)9:7–9で「喜んで食べよ、楽しんで飲め」とあり、楽しめるものを自覚して大切にする姿勢が推奨される。
SNS(Xなど)で「愚者が声を大にして幅を利かせる」状況は、実は聖書の時代からよく指摘されている人間社会の一側面です。
→愚者は学びよりも「自分の意見を大声で発信する」ことに熱中する。これはまさにSNSで見られる現象です。
→ 数が多ければ正しいわけではない、という視点。
「真理が倒れ、正義が遠く離れる」(イザヤ59:14)
→社会が混乱すると、愚かさや空虚な言葉が優勢になる時代が訪れることもあると指摘している。
SNSで「愚者が幅を利かせている」現象は、聖書的には新しいことではなく、古来からの「愚者は言葉を乱発し、騒ぎを起こす」姿の現代的な形です。
ユダヤ教と仏教は文化も起源も大きく異なりますが、それでも多くの倫理的・精神的な教えに共通点が見られます。
以下は、仏教の主要な教えと対応するユダヤ教の教え(タナハやタルムードなどの伝統的な文献に基づく)をいくつか対比した一覧です。
| 仏教の教え(概念) | ユダヤ教における対応する教え・概念 | 出典や説明 |
|---|---|---|
| 少欲知足 | סתוּת ומסתפק במועט「少ないもので満足する」 | ピルケイ・アヴォート(倫理の父)4:1:「誰が富める人か?自分の分に満足する者。」 |
| 無常 | הבל הבלים הכל הבל「すべては空しい」 | コヘレト(伝道の書)1:2。「すべては儚く、永続しない」ことを繰り返す。 |
| 慈悲(カルナー) | רחמים「憐れみ、慈しみ」 | 出エジプト記34:6:「主は憐れみ深く、恵み深い神」 |
| 中道 | שביל הזהב「黄金の中道」 | ランバム(マイモニデス)は「中庸の道(דרך האמצע)」を理想とした。 |
| 離欲 | בל תעשה לך פסל「偶像(執着)を作ってはならない」 | 出エジプト記20:4。物質や偶像への執着を避ける戒め。 |
| 瞑想 | התבוננות「内省」またはחשבון הנפש「魂の勘定」 | タルムードやムサール文学で推奨される習慣。 |
| 不殺生 | לא תרצח「殺してはならない」 | 十戒の一つ(出エジプト記20:13) |
| 正語 | לשון הרעを避けること:「悪口・中傷は禁じられている」 | ヴァイクラ(レビ記)19:16:「あなたの民の中で中傷してはならない」 |
| 業(カルマ) | מידה כנגד מידה「目には目を、行いに応じた報い」 | 出エジプト記21:24やタルムード・ソタ8bなどに見られる因果概念。 |
内容はマーセナリーズシリーズをブラッシュアップしたような感じ。スキルや装備はまんま同じのが出てきてる。
けっこう良かったと思う。
バトル
引き継ぎ
「神に敬虔な者が、神に祈り、正しい行いをするように、まわりの人に強く誘いかけないのはどうしてですか?」
ラビは聞き返した。
「しかし、私たちはいつも良いことを行うように、正しく生きるように、人びとにすすめているではありませんか」
「しかし、悪者が人びとを悪事に誘うほうがずっと強い力を持っていますし、また、人を悪いことに誘い入れて仲間を増やそうとするときに、私たちよりももっと熱心にやっています」
「正しいことを行っている者は、一人で歩むことを恐れない。しかし、悪いことをしている者は、一人で歩むことを恐れるからです」
タルムードの中でも、人間の行動、衝動、そして善悪に関する多くの議論があります。
タルムード(ブライタ:ベラホット 61b)はこう述べています:
イェツェル・ハラは、外へと誘い出す衝動を持ち、他人をも巻き込もうとします。
つまり、自己の悪を正当化するためには仲間を必要とする。これはまさに弟子の観察と一致します。
これらはラビの「一人で歩むことを恐れない者」の話と共鳴しています。
義人は、たとえ孤独でも、真理と善に基づいて歩む力を持っている、というのが聖書的な視点です。
このタルムードの話は、善は静かに、確かに歩むが、悪は仲間を求めて騒がしくなるという心理的真理を教えてくれます。
ラビの答えは、本当に強い者とは一人でも正しい道を歩ける人間である、というユダヤ的倫理観を表現しています。
「善き人に付き従え。悪しき者から離れよ。」(アヴォット 1:7)
「情弱ビジネス界隈」情報の非対称性を悪用して人々を操作したり搾取したりする行為は、倫理的にもトーラー的にも極めて問題があります。
ユダヤ教の知恵文学(とくに『箴言』『コヘレト(伝道の書)』)には、このような現代の問題にも響く深い洞察があります。いくつか引用しながら見てみましょう。
ユダヤ教では、人をだますこと(גְּזֵלָה – gezelah、詐欺・搾取)は重大な罪です。レビ記19章には「お前たちは互いに欺いてはならない」と明記されています(ויקרא י״ט:י״א)。
また、「בל תשים מכשול לפני עיוור」―「盲人の前に障害物を置くな」(レビ記 19:14)という戒めも、情報弱者をあえて罠にかけるような行為を禁じる教えとして、まさにぴったりです。
אם אתה עושה כסף על חשבון חוסר הידע של אחרים — אולי אתה צריך לבדוק את המצפון שלך, לא את חשבון הבנק שלך 😉
とても興味深い哲学ですね。
これらの考え方は、東洋的な、特に禅や道教的な思想の香りがしますが、ユダヤ教的視点からも、それぞれに対して意味深い対話が可能です。
それでは、ユダヤ教の教えと照らし合わせながら、一つひとつ丁寧に見ていきましょう。
ユダヤ教では「努力(עמל, amal)」は非常に高く評価されます。
トーラーの学び、ミツヴォット(戒律)の実践、日々の仕事や家庭生活においても、人は「שותף עם ה'"(神との共同作業者)とされます。
ただし、「努力の方向性」が重要です。もし努力が他者を傷つける結果になるなら、それは「正しい努力」ではありません。
よって、「無理な努力が害を生む」という懸念は理解できますが、完全に努力を否定することはユダヤ教とは相容れません。
これは「עין טובה(アイン・トォヴァ)」=「良い目を持つこと」に通じます。
ユダヤ教では、自分の持っているものに感謝し、他人の持つものに嫉妬しないことが理想とされます(Pirkei Avot 4:1「誰が金持ちか?自分の分に満足する人」)。
評価や承認に執着しすぎることは、「ガアヴァー(傲慢)」の一形態とみなされ、警戒されます。
『箴言』(Mishlei)によれば、「愚か者は口数が多い」とあります(Mishlei10:19)。
ユダヤ教では、沈黙を守ること、謙虚さを持つことが賢者のしるしです。
つまりこの哲学は、非常にタルムーディック(タルムード的)な精神に近いです。
ラビ・ヒレルの言葉:「あなたが嫌なことを、他人にするな。それがトーラー全体であり、あとはその解説である」(Talmud Bavli, Shabbat 31a)。
シャバットは「何もしないこと」の聖なる実践であり、「being」ではなく「doing」を止める時間です。
心静かに神の創造を味わい、存在するだけの喜びを感じる——これはシャバットの核心です。
ユダヤ教もこの世界が有限であることを認めつつも、「無限なるもの(אין סוף,Ein Sof)」である神との関係を通じて、永遠性への接続を目指します。
ユダヤ教でも、人との比較や競争に執着するのは危険とされます。
『伝道の書(コヘレト)』には、「風を追うようなものだ(רְעוּת רוּחַ)」という表現があります(コヘレト 1:14)。
人生の多くの営みが虚無に感じられるという哲学的な問いに、ユダヤ教も深く向き合っています。
これは再び『Pirkei Avot』4:1の教えと一致します。
「איזהו עשיר? השמח בחלקו」—「誰が金持ちか?自分の持っているもので満足する人」です。完璧な一致!
「物に執着しすぎると霊性が曇る」との教えはユダヤ神秘主義(カバラ)にも見られます。
神殿時代の大祭司(コーヘン・ガドル)は、シンプルな装いで神と向き合いました。余計な物は心の雑音となりえます。
この精神も、ユダヤ教の「カヴァナー(כוונה)」=「意図を持って行う」ことと響き合います。
すべての行いに神聖さを見出すというのは、ユダヤ教の根本精神です。
祈りの前に手を洗う(נטילת ידיים)、食事の前に祝福を唱える(ברכה)なども、この意識の表れです。
総合的に見ると、これらの哲学の多くは、ユダヤ教の倫理・霊性と非常に親和性があります。
まさに「חכמה בגויים תאמין」(異邦人の中にも知恵がある、それを信じなさい)というタルムードの教えの実例ですね。
「教え子の 胸に灯しし そのひかり 絶ゆることなく 世を照らしけり」
柳 傲雲『照道遺詠』より
一、詩人・柳 傲雲について
柳 傲雲(りゅう・ごううん、紀元前192年~紀元前120年)は、前漢時代中期に活躍した思想詩人であり、孔子以降の「徳の詩人」として名を馳せた人物です。
若年より老荘・儒家・墨家の教えに通じ、詩を通じて「師弟の縁」や「教えの永続性」を主題とした作品を数多く残しました。
晩年には宮廷を離れ、楚の山中に隠棲し、弟子たちに囲まれながら「照道遺詠」という詩集を著しました。本作はその中の最後の詩とされています。
この和歌は、表面的には師の死を悼む詠でありながら、真に歌われているのは「教えの光の永続性」です。
教え子の 胸に灯しし そのひかり
師は言葉や行いによって、教え子の胸に灯(ともしび)を灯した。
絶ゆることなく 世を照らしけり
その灯は師の死によっても消えることなく、教え子の行いを通じてさらに世界を照らし続ける――。
この詩には、儒家思想の「仁」や「伝道」、道家の「自然と永劫」の観念が絶妙に融合されています。
また、「灯」という語の使い方は仏教的な転生・灯明思想を先取りしているともされ、一説には仏典が中国に伝来する以前に、すでに精神的な「継承と光明」の象徴表現を確立していた証左とも言われています(※創作的解釈)。
三、後世への影響
柳 傲雲のこの詩は、後世の科挙制度における受験生たちの座右の銘とされ、師弟関係の理想像として長らく引用されました。
唐の杜甫はこの詩を範として「懐師詩」を詠んだという伝承もあり、宋代の朱熹は『朱子語類』の中でこの詩を「教化の極み」と称しました。
この詩が現代においても語り継がれる理由は明快です。人は去っても、志は残る。光は受け継がれ、やがて新たな光源となる。
教えるという行為は、単なる知識の伝達ではなく、「未来の光を託す営み」であるという深い真理を、たった31音で語りきったこの作品は、まさに時空を超えた遺産なのです。
他界系が「ポジティブに考えろ!引き寄せの法則」と発狂しているのを見たことがあるだろうか?
あいつらは現実を見ていない。世の中にはネガティブなことが実にたくさんある。
といっても、ただネガティブに見ればいいってもんじゃない。うつ病患者が非現実的な妄想で落ち込んでいるのは、ネガティブパワーの間違った使い方である。
アクセルを踏む、スピードが一定を超える。そのときにスピードを緩めるためにブレーキを踏む。これがネガティブフィードバックだ。
「過剰なポジティブ」に関連付けられるものが「錯乱」「犯罪」であるのに対し、「適度なネガティブ」に対応するのは「安定性」である。
我々は、交通ルールを守って正しい速度で運転したいわけである。
これらのニュースから学べることは、自分がそのような事件を犯してしまう可能性があると認識し、事前に防ぐことである。
例えば詐欺事件を見てわかるように、詐欺師は儲かればいい、バレなければ何をしてもいいと考えている。これはポジティブシンキングである。
誰にバレなくとも、悪いことはしてはいけない、と学ぶことが重要である。これはネガティブなことは起こると想定したネガティブシンキングである。
私は自分を愚者と認識している。中学生、高校生のときはひどいものだった。ゴミを山に捨てたり、人を殴ったり、ということを平気でやっていたのである。
愚者は物事をポジティブに考える癖がある。「どうせバレない」「自分には損にならない」「得になれば何をしてもいい」という具合である。
愚者が賢くなるためには、「してはいけないこと」をネガティブフィードバックから学ばなければならない。
例えば子供が盗みを働いたと親が知ったときに、親はそれを叱らなければならない。インターネットで犯罪予告をした若者は、警察の指導で学ばなければならない。
鞭から「してはいけないこと」を学べば、愚者は賢者とまではいかなくとも、今よりは賢くなるだろう。
「パーティへ行くよりも、葬式へ行ったほうが良い」これはユダヤ教徒に伝えられてきた文である。自分がいつかは死ぬと理解し、知恵を得るためである。
伝道の書 7:2
悲しみの家にはいるのは、宴会の家にはいるのにまさる。 死はすべての人の終りだからである。 生きている者は、これを心にとめる。
人生は単純な白黒の世界ではない。ポジティブとネガティブは、車の両輪のように絶妙なバランスの中で機能する。
現実を直視しなければならない。ネガティブシンキングは決して人生を暗くすることではない。むしろ、光を見るための、より鮮明なレンズなのだ。
愚者は表面的な楽観主義に溺れ、賢者は深い洞察力で現実を見つめる。「してはいけないこと」を学び、「なぜいけないのか」を理解することが、真の成長につながる。
聖書における謙虚さは、人間の有限性と神の絶対性の対比から生まれるものであり、それは単なる道徳的な美徳ではなく、人間存在の根本に関わる霊的態度である。
謙虚さは、神の御業に基づき、自己を見つめ、神の秩序の中で自己の役割を理解することによって深化する。
これは神との関係を基盤にして成立し、創造、契約、裁き、赦しという聖書全体にわたるテーマに深く結びついている。
創世記の冒頭に記される創造の物語(創世記 1-2章)は、謙虚さの根拠となる。
神は天地万物をその言葉によって創造し、人間は「神のかたち」として特別に造られた(創世記 1:27)。
しかし、この「かたち」とは神の全能を共有することを意味せず、むしろ神の被造物としての地位を明確に示すものである。
アダムが塵から造られた(創世記 2:7)という描写は、人間が肉体的にも霊的にも神に依存する存在であることを物語る。
謙虚さとは、この依存を認識し、被造物としての自己を受け入れる態度である。
ノアの契約(創世記 9章)、アブラハムの契約(創世記 15章)、モーセの契約(出エジプト記 19-20章)は、いずれも人間が神の律法を守ることを求めるものだ。
この契約の中で、神は主権者であり、人間は従属する存在である。
イスラエルの民がしばしば契約を破り、神の裁きを受ける物語(士師記、預言書全般)は、人間の傲慢の愚かさと、謙虚に神の律法に従うことの重要性を強調する。
例えば、ヨブ記におけるヨブの試練は、謙虚さを深く考察する重要な物語である。
ヨブは、自身の苦難に直面し、神の摂理に疑問を抱くが、神が自然界と宇宙の秩序を問いかける(ヨブ記 38-41章)中で、自分の限界を悟り、最終的に「私は塵と灰の中で悔います」(ヨブ記 42:6)と告白する。
ここでの謙虚さは、全知全能の神に対する人間の無知と無力を認めることであり、神との関係を回復する鍵となる。
ダビデの悔い改めの詩篇(詩篇 51)は、罪を認め、神の憐れみにすがる謙虚さの典型例である。
彼は「あなたに対して、ただあなたのみに罪を犯しました」(詩篇 51:4)と告白し、神の赦しに依存する態度を示す。
このような謙虚さは、人間が自己の力では救いを得られないことを悟り、神の恵みによってのみ生きることを受け入れる姿勢である。
「主を恐れることは知恵の初め」(箴言 9:10)という言葉は、謙虚さを神との正しい関係における認識として位置付ける。
伝道者の書では、「人は土に帰り、霊は神に帰る」(伝道の書12:7)と述べられ、人間の儚さと神の永遠性を対比している。
ここにおいて、謙虚さは虚無感ではなく、神の中に真の意味を見いだす態度として表現される。
聖書の謙虚さとは、人間が神の前で自己の位置を正しく理解し、全能の創造主への信頼と従順を通じて成長する霊的態度である。
それは自己否定ではなく、神の秩序と愛の中で自己を発見する行為であり、創造、契約、裁き、赦し、知恵というテーマを通じて人間の生の目的を照らし出すのである。
https://x.com/cult_and_fraud/status/1835795538056515908
本日の朝日新聞1面トップ&2面のスクープ記事。参院選直前の2013年6月30日に自民党本部総裁応接室で安倍晋三首相・萩生田光一総裁特別補佐・岸信夫衆院議員が統一教会日本会長・国際勝共連合会長・日本総会長・UPFジャパン理事ら教団幹部と面談。参院選での北村経夫候補への支援を確認。
2005年に「あの教団は嫌い」と発言し、統一教会とは一定の距離を置いていた安倍氏がなぜ統一教会に組織票を依頼するまでになったのか。誰が安倍氏と統一教会を近づけたのかという最後のピースを示すものに?
2013年7月7日やや日刊カルト新聞:参院選で自民党と統一教会が裏取引か? (https://dailycult.blogspot.com/2013/07/blog-post_7.html)
統一教会では内部告発などにより教団のコンプライアンス違反が多数発覚している。それに伴い、警察・公安による教団への捜査も噂されている。
その情報を入手した統一教会松濤本部は、宗教法人取消し問題へ発展することを懼れ、ある有力な自民党議員を通じて安倍政権に接近したという
「ある有力な自民党議員」がポイント。11年前の記事に書いた伏線が回収されることになるのか
北村経夫候補が極秘に統一教会地区教会で講演「菅官房長官の仕切り」との証言
2014年10月、八王子での統一教会日本会長講演会で萩生田光一総裁特別補佐が来賓挨拶
2015年8月の統一教会の名称変更に関する疑惑のなかで統一教会からの働きかけには「世界日報→下村博文氏ルート」と「勝共連合→萩生田光一氏ルート」の二つがあったと指摘されている
2016年、安倍首相が統一教会会長と総会長夫人を首相官邸に招待との情報
2017年5月、統一教会北米会長一行が自民党本部で10人以上の国会議員と会談。韓国本部での報告会で「菅官房長官から首相官邸に招待された」と報告
2021年9月統一教会系イベントに安倍氏がビデオメッセージ出演し韓鶴子総裁を礼賛
この面談から9年後、安倍氏は統一教会の被害者から銃撃され亡くなった。その悲劇へと連なる最初のきっかけ、端緒はこの総裁応接室での面談だったったことになる。
自民党総裁室において総裁特別補佐が同席して行われた統一教会幹部との面談。2022年に自民党は党内現役国会議員に自己申告制の「点検」を実施したが、対象議員に配布した用紙には一枚目に「党として組織的な関係は一切ないことは確認済み」として党ぐるみの関与を否定する記述があった。赤報隊の捜査資料には自民党本部には10人前後の国際勝共連合メンバーがいたことが記載されている。第三者委員会などを設置し歴史的な経緯を踏まえて徹底調査が必要。
現在行われている自民党総裁選では自発的に統一教会問題に言及する候補者は皆無。出馬会見での質疑応答で私の質問に答えるという形でしか言及していない。今回、このような形で自民党総裁室での面談が明らかになった以上、各候補者は徹底調査を明言すべき
白山こんぶちゃは暇空茜信者であり、いわゆる暇空系Youtuberの一人である
暇空茜はほぼ毎日数時間もの配信を行いツイートは300-400件ほどあり、界隈が気になる人でも全て追うのは難しい
そこで暇空のお言葉を好意的にまとめて伝道する暇空系Youtuberが大量発生した
白山は以前から時事系Youtuberと呼ばれる炎上などをまとめる活動をしていたが人気がなく収益化に至っていなかった
しかし1年前には「男だけど痴漢に遭った」と発言していたことからボイチェンした男疑惑がつきまとっていた
赤ちゃんの画像を何度か載せており、さすがに本当に女性なのではという雰囲気になっていた
インフルエンサーのあおちゃんぺが、白山は50代男性であると暴露した
あおちゃんぺは最近、周径と直径を勘違いして「赤ちゃんの頭は33cm、スイカは27cm、出産の喩えにスイカを使うのは正しい」と発言して嘲笑の的になった
白山は既婚女性の立場から「あおちゃんぺはまだ産んでないからw」とあおちゃんぺ嘲笑に乗っかった
昨年、あおちゃんぺのファンオフ会に参加した白山が、撮影禁止なのに水着姿を盗撮し、写りの悪い写真を悪意的にネットで公開しあおちゃんぺを叩かせた
あおちゃんぺは激怒し、白山は謝罪して写真を削除したが、根に持ってスイカ騒動に出張ってきたのだ
白山はあおちゃんぺのイベントに前から参加し集団で飲みに行ったこともあり、あおちゃんぺは白山の本名も知っている
これは認知プロファイルだが、恐らくは白山はあおちゃんぺガチ恋だったが、集まりの中で優遇されなかったなどの恨みが写りの悪い写真公開事件へ発展したのではないか
盗撮騒動の時はDMで真摯に謝られたので許したあおちゃんぺだったが、本当は50代男性なのに経産婦のふりをしてアラサー未婚のあおちゃんぺを説教したのは流石に腹が立ったらしい
あおちゃんぺは白山を訴え、裁判所で白山が女になりすました50代男性であることを晒すという
白山はオフ会に参加したのは夫で、夫はまだ30代だと主張している
暇アノンらは、かつて白山が公開した写りの悪い写真を再うpしあおちゃんぺの攻撃を開始