
はてなキーワード:仮象とは
シュミット先生は『合法性と正当性』にて「技術信仰の明証性は、技術において、ついに、絶対的、最終的に中性的な基礎を見出したと信じることができた」とか「ここでならば、あらゆる民族、国民、あらゆる階級、宗派、あらゆる年齢層、性別が、急速に合意することも可能であるように見える。なぜなら、技術的快適さの利益、便利は、万人が同じ自明さをもって享受するのだから」と書いている。
この人が生きていた時代はAI技術なんて考慮すらされていなかったので、ここでいう“技術信仰”における技術ってのは“科学的な体系や、その分野の専門家”などを指しているわけだが、現代でいうならここにAIも含まれることになるだろう。
このあたりの“技術信仰”の是非は他の人も語ってて、シュトラウス先生は『ホッブズの政治学』で
技術の中立性が仮象であることがわかるにつれて、「絶対的かつ究極の中立的基盤」を発見したり、いかなる協調を実現しようとする試みの不合理さも明らかとなる。いかなる代価を払ってでも協調が実現されるべきだとすれば、それは人間生活の意味を放棄するという代償を支払って得られる協調でしかありえない。なぜなら、そうした協調は何が正しいかという問いを断念するときのみ、実現可能だからだ。そして人間がそうした問いを断念するとき、かれは人間であることを断念することになる。
完全なる協調を求めるならば闘争を治めるしかない。そのためには皆が“何が正しいのかという問題”を放棄すればいい。或いは、価値一元論のもと解答先を決めて、皆がそれに従う世界にすればいいかもしれない。その“解答先”こそが“技術”であり、ひいては“AI”ってわけだ。
本質的に技術そのものは中立であり、その解答は客観的で偏りがないとされる。価値一元論のもと解答を求めるならば、AIはこの上ない存在だろう。しかし、シュミット先生は「技術は全ての人に仕えるという、まさにそれ故に中立的ではない」ともいっている。技術そのものが中立的であっても、そうではない人間が紛れ込む時点で中立性は損なわれるからだ。
ちょっと前に、朝日新聞フォトアーカイブをAIでファクトチェックしようとした人が話題になったけど、あれなんて典型例だろう。使う側が「この画像はおかしい」という含意のもとAIに尋ね、その結果を「AIがいっていることだから正しい」という前提のもと解答としている。もちろん、あの件をAI技術の未発達が原因だと論じることは可能だけど、それって人間側の未熟さを棚にあげるってことで「人間であることを断念」してないか。人間性を放棄しといて民主も自由もなかろうに。
人間が何が正しいかを真剣に問うならば、そうした問いのもつ「解きがたき問題構成」に直面して、紛争が、それも生死を賭した紛争が勃発するのである。何が正しいか真剣に問うことによって、政治的なもの(人類の敵味方への集団化)はその正当な根拠を得るのである。
これも『ホッブズの政治学』に書かれてたことだけど、つまり何が正しいか真剣に問わない世界ってのは政治的闘争もないってこと。というより、技術(AI)が絶対的に正しいとするならば、そこに民主的な考えや自由な考えが入り込んで対立する余地がない。あったとして、それは茶番や娯楽でしかない。だから人間は真剣でなくなるけど、争いは減るからまあ平和的ともいえる。
そういえば最近、シロクマ先生はAIに選挙を任せることの是非についても語っていたけど、ブコメで「AIの言ったとおりに投票する自由はあるだろ」といった旨のこと言ってる人がいたな。まあ理論上ではあるけど、「(AI)技術が本質的にもつ中立性」と「自由主義が追い求める中立性」って相性はいいんだよね。
ただ先ほどもいったように技術を誰でも仕える時点で中立性は損なわれている。その点を抜きにしても、技術が人間に服従していて、かつ人間よりは有能でないからこそ成り立つ話でもある。今後AIがより有能になり、むしろ人間側がすすんで服従することがマストの風潮になっていくならば、その先に自由なんてないわけで。奴隷が「その先に自由がないものを選ぶ」ことまで“自由”という括りにするのは欺瞞的だ。
とはいえ、価値一元論における解答者がAIになるような世界が実現した場合、そもそも人間による政治そのものが必要なくなり、選挙もする必要がなくなる(AIの判断が最も正しいのならば、国家レベルで「人間同士が正しさを競う場」なんて必要ない)。なので、いまの選挙のように「人間が政治的に争う場」がまだある現段階では、多少AIが介入したところで民主や自由は残ってるといえなくもない。
AIは現状「人間の労力と、その結果に対する責任を誤魔化すためのツール」の域を出ないからこそ、まだ悠長に語れている話ではある。シュトラウス先生が現代に蘇れば「私たちが語ってた頃よりも技術がヤバいことなってるのに、お前らまだそんな吞気なこと言ってんのか」って思うかもしれんが。
大学生の頃、教職課程の介護実習でデイサービスセンターに5日間お世話になったことがある。そのとき90歳も越えようかというあるおばあちゃんと色々とお話したことが今でも印象に残ってる。そのおばあちゃんは僕の顔を見ると毎日口癖のように「今あなたが生きてるのは親のおかげなんやから親に感謝しなあかんで」と言っていた。僕自身恵まれた家庭環境で育ったわけではないし、何より哲学という捻くれた学問を多少なりともかじっていたこともあって、彼女の言葉を素直に受け取ることができなかった。「いやいや、『存在』の原因の話をするなら第一原因にまで遡るべきだし、神ならまだしも何で親で遡及を止める必要があるんだ」とか思っていた。哲学を少しでもかじったことのある人間は基本的に、肯定するにせよ否定するにせよ、いま・ここという仮象の世界と、そうではない真実の世界という二元論を前提として持っている。そして得てして二元論を持つ自分は一元論に留まる大衆よりも正しい仕方で豊かに世界を認識していると思いこんでしまう。もちろん自分もその例外ではなかった。おばあちゃんの説教はとても素朴な一元論の立場からの言葉にしか聞こえなかったし、そこに道徳的、政治的なある種の危うさすら感じた。そして実際そういう側面はあったのだろうと思う。けれどもおばあちゃんを不快に感じたことは一度もなかった。一人で起き上がることすら出来ないほとんど骨と皮だけになったしわしわのおばあちゃんを見ていると、その言葉が実際のところ何に規定されているのであれ、少なくとも一世紀近く生きてきた中で彼女自身が確信してきた信念から出てきた言葉なのだということを感じた。だからと言ってその人生哲学だか生活哲学を無批判的に受容すべき理由にはならないのだが、そうなのだが、あのおばあちゃんをイドラに囚われた啓蒙すべき人間としか見なさないような哲学に豊かさはあるのかと強く思う。