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はてなキーワード:代官所とは

2024-11-16

anond:20241116075901

長安の豪奢な生活生前から有名で、『当代記』にその旨が幾つか書かれている。例えば毎年鉱山巡視の際には、遊女70~80人等を含めた250人(伝馬人夫は別)を引き連れ、宿所も自身代官所故に思うままの造作をしたとあり、路中の民は迷惑したとある

家康がこのような長安の振る舞いをどの様に捉えていたか不明である。『駿府記』『当代記』より後に編纂された『慶長年録』によれば、家康長安の振る舞いを知っていたものの、長安が有能なため捨て置いて死後になって罪に問うたとされる。

また同書には、大久保忠隣本多正信の不仲故に、正信が長安の死後に家康へ讒訴したともある。後者は『徳川実紀』にも引き継がれ、長安事件は忠隣改易も含め家康意志によるものではなく、正信・正純の讒言が主因としている。

一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったこから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的支配を任されていたと言われている。

しか晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さら正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長17年(1612年)7月27日中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[6]。慶長18年(1613年)4月25日中風のために死去した[7]。享年69。

長安の死後に生前不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日大久保藤十郎大久保外記青山成国、大久保雲十郎、大久保内膳、大久保右京長清(越後在住)、男1人(播磨在住)[8]、以上7人は切腹となった。また大久保忠隣や縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。

Permalink |記事への反応(0) | 16:01

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2015-10-20

http://anond.hatelabo.jp/20151020035335

誰のモノかもわからない桃を 拾って持ち帰って食べるのは、犯罪ではありませんか?

落とし物は見つけたら、警察か、その時代代官所に届けるのが 法律的正義ではないでしょうか。

Permalink |記事への反応(2) | 11:51

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