
はてなキーワード:他者とは
自分は今まで一体何をしてきたんだろう、どう生きていけばいいんだろう
そんで、これまでに「幸せだな」と感じた瞬間を思い出してみた
生きる意味ってそんな瞬間にある
でも、生きるのってすごく複雑で、
他者との関わりだったり、未来の不安、過去の後悔とか、いろいろなものを一生抱え続けなきゃいけない
何もかもリセット出来たらいいのにって思う時がある
あの時憶測まじりで大袈裟に騒ぎ叩いた皆さんはもう興味ないだろうけど、
VTuber結城さくなのビジュアルが絵師「がおう」のものから変更となった。
新ビジュアルのイラスト自体は先月発表されており配信で使用するLive2Dモデルが昨日お披露目された形。
ちなみに新しい絵師は湊あくあ時代の古巣であるホロライブのぺこらと同じである。
新
https://x.com/yuki_sakuna/status/1970831715536146922
旧
https://x.com/yuki_sakuna/status/1870377727846760953
ファンの受け止めとしては前のままが良かったという声も当然あるものの好意的な声が大半だし、
ただ、あのようにゴシップとして騒ぎ立てられ絵師変更の圧力がかかる中での選択を100%本人の意思と言っていいのかも疑問が残る。
VTuberのビジュアル変更はゲームやラノベの差し替えとはわけが違う。
外見は「中の人」と結びつくものであり架空のキャラクターではなく意思のある主体がいる。
単なるイラストを使うか使わないかではなく本人のアイデンティティーの問題になるのだ。
自分の外見を作った人間が悪事を働いたからといって自分のアイデンティティーを手放すよう求められたらそれはあまりに理不尽な話ではないか。
問題を起こした絵師によるVTuberを色眼鏡で見るのは性質としては「犯罪者の子供を色眼鏡で見る」に近く人権侵害的とも言えるのではないかと思う。
未成年淫行をした絵師によるビジュアルを使い続けることに嫌悪感もあっただろうしビジネス的な判断の側面もあるだろう。
そして同時に、かといって変更して当然のような空気にしてはいけないと声を大にして言いたい。
今後もVTuberの担当絵師の不祥事というものは起きてしまうのだろう。
その時に今回の件が「結城さくなの時は変更したぞ」「変えないということは犯罪を肯定するのか」という圧力にならないように、
極右が外国人を「悪魔化(Demonization)」しているという話が出てたけど、左派こそさかんに他者を悪魔化していて、それがまさにキャンセルカルチャーというやつだったよね。
初期は露骨で明確で説明可能な差別・侮辱表現のみが問題視されていたが、力を持ち増長し、だんだん難癖じみたものになっていき、
「オエッとおもったし、みんなもオエッってなったとおもう」程度の感覚でも集団で表現をぶん殴って良いし、作者の人格否定をしても良いことになっていった。
「腐女子のお気持ち学級会」のような小さな世間のノリに乗っ取られていった。無党派がついていけなくなって当たり前だと思う。お気持ち沼に一生隔離されていたほうがよかったような人々が増長しすぎだ。あれは貧乏神だ。
そもそも腐女子は二次創作で著作権侵害しているうえにウォーキズムを叩き棒にして原作の作者を誹謗中傷しているカスハラの権化みたいな消費者層。その精神で政治をやって、お仲間以外からの納得が得られると思ったか?
左派の中での言論人の権威化であったり、権威化されていたら説明不足でも内輪では簡単に納得が得られる傾向もあり、権威主義かつ人治主義的なところは調子づいていた頃の左派にも相当あった。
というか、「オエッと思った」「ヘイターだ」と説明不能なお気持ちでレッテルを貼りで集団で殴り掛かっていたのって、どこがどうリベラリズムだったのだろう。表現規制といえば右派(宗教上の理由で同性愛を否定してマイノリティ表現を弾圧)だったのが、
左派による表現規制(マイノリティの心を傷つける科学論文は掲載禁止するNatureなど反科学Woke)が増え、右派も左派もお気持ちで気に入らない表現を弾圧するなら、最早誰がリベラルなのか?
日本共産党も独裁体制を敷いており自由とは程遠い党であり、立憲民主には穏健左派の役割を期待していたが、まともな説明もないただの罵倒・侮辱・悪魔化で相手の口を塞ごうとする議員が放置されていたり、
支持層にも参政支持層と同レベルの悪質な誹謗中傷集団がいるので閉口している。
ここ数日の間でも「数々の問題が発生しており医師からも見直しの声があがっているが本当に自認だけでトランスとみなしてよいのか?」「トランスヘイターだ!」「ヘイター呼ばわりするならどこがヘイトなのか示せ」
「これはどう見てもヘイトだ」「説明ができないのか?」「説明を要求するのは典型的なヘイト」という、どうしようもなく感情的なやり取りが行われていた。説明を求めるのがヘイトなら議論が成り立たないだろうが。
似たようなやり取りははてブでも見た。匿名のはてサから実名の言論人までこのレベルだ。説明を放棄して敵をヘイターと呼びお仲間とつるむだけ。集団カスハラと思想弾圧を平気で行うようになっているが、自覚がない。弾圧をするのは右派だ、と彼らは確信している。
リベラリズムを期待して投票できる先がない。自由を重んじるなら左派政党に入れろとはてサは言うかもしれないが、やったことが「オエッと思った」ごときで表現弾圧する愚行だったので、何も期待できない。
ショタコンのBL作家がsteamのインディゲーの表現規制を求めた件、こういう「オエッと思った」精神、ダブスタカスハラ精神が左派の主流になってしまっている。「チー牛!」「まんさんw」と罵りあうだけで議論が破綻した空間になっている。
左派には期待していたのに、キャンセルカルチャーの全盛期に権威酔いして弾圧者になっているので、本当にどうしようもない。あれはリベラリズムではない。
フェミの考える強い女性ってただ只管に高圧的で暴力を振るって他人(男)を無理矢理押さえつける人なんだよね...つまり昭和の暴力オヤジが理想の姿
というかそもそも、実務で評価される女性を率先して人格攻撃するフェミニストって何なの?
フェミというか女性って、一般的な他者からの信頼を度外視するわりには
自己愛性人格障害は治すべきなのか。
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恋人から自己中すぎると言われ続け、色々調べたところ当てはまる特徴が多すぎた。
自分で自分のことを自己中だと認識していて、自己中なままで許してくれる相手だと思ったから恋人と付き合っていたし、それを許さなくなった恋人と付き合う理由はない、と言語化が出来てしまう程度には自分の自己中を客観視して来たつもりだ。
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以下自己愛性人格障害の特徴(https://ashitano.clinic/jikoaisei/ より引用)
・誇大性(Grandiosity):自分は特別な存在であり、他人よりも優れているという根拠のない感覚。成功や権力、理想的な愛についての空想にふける。
気がついたので、特別な存在になるための努力を始めた、具体的には勉強と生活習慣の改善。
「嘘をついて業績を盛る」という特徴があると書いてあるサイトも多いが、私は嘘はつかない、ただし本当のことを言い方を変えてなるべく凄く見えるように自分が優位に立てるように印象操作はする。
・賞賛への欲求(Need for Admiration):他人からの過剰な賞賛を常に求め、それが得られないと不機嫌になったり怒ったりする。
→不機嫌を表立って表明することはないが、褒められないとつまらない。
褒めてくれない人間と一緒にいたくない。
パートナーにもそれを求める。
・共感性の欠如(Lack of Empathy):他人の感情やニーズを理解したり、それに寄り添ったりすることができない、あるいはしようとしない
→しない。
本当にしない。
貴方のニーズが私の利益に反しないのであれば理解するし寄り添うし頑張れるけど、私の利益に反するとわかった瞬間にシャットアウトする。
ーー
そもそも自分が自己中であると言うことは理解して生きて来たので、表面的にはそれなりに優しい。
他者に優しくすることで「自分は本当の意味で自己中クソ野郎ではない」と自尊心を保つのだ。
些細な優しさ表面的な優しさは取り繕える。
例えば私は積極的に皿を洗うし家事を分担するし重い荷物は持つし退勤時間が遅い相手を気遣ってご飯を作って待っているし暴力を振るったことはないし「お前はなぜこんな簡単なことができない」みたいな直接の人格否定ワードは言わない。
それでも自分が最も大事で、その為であれば相手がどんな不利益を被ろうと全く気にならない。
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この先私は自己中を押し通せる人間を見つけて結婚する(特定の誰か1人から人生のパートナーとして受け入れてもらう)つもりだ。
家族が欲しい、でも多分もっと具体的に醜悪に自分の欲求を言語化すれば「なんでも私の言うことを聞いてくれて、子育てや家事をしてくれて、私の全てを愛してくれる相手が欲しい」のだと思う。
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自己中を治すべきなのだろうか、治さなければ受け入れてもらえないと言う真っ当は批判は置いておいて、正直治したくない。
今までの21年間、 自己中を押し通して自分が快適に生きること > 自己中であることで人から嫌われること、と言う明確な価値観を持っていたし、それは今のところ変わる気がしない。
世の人々が我慢を強いられているのは貴方が自己中じゃないから、自己主張をしない貴方の自己責任であって、私は我慢したくないから自己主張をしているのだ、と本気で思っている。
それで嫌われたとしても、我慢を強いられるくらいなら嫌われた方がマシだと思っていた。
だがこれが障害であると理解してしまうと治さなければならないような気がしてくる。
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気づいた今から自己中を治すように自分に働きかけていくべきなのだと思う。
頭では理解しているが、自己中を治す=自分が我慢しなければならない場面が増える、と言うことが受け入れ難く、動けない。
毎日他者への思いやりを持って自分の自己中を客観的に見つめて矯正してそれでもたまに自己中の片鱗がのぞいて…という事を一生繰り返すしかないようだ。
そんなのって大変すぎる!!!
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私とは真逆で、他者の幸福を心から願って献身的に動ける恋人は、私の自己中に愛想を尽かしたようだ。
「貴方を好きでいたいからその魅力と価値と努力を見せろ」と言ってきている。
忠犬ハチ公(FCPE)なので、おそらく一度好きになった私のことをまだ完全に嫌いになりきれていないのだと思う。
一緒にどこかに遊びにいったりする分には最高の相棒だったが、根底の価値観が違いすぎて人生のパートナーとしてやっていくには莫大な努力が必要になる。
もう諦めさせて欲しい。
疲れた。
貴方は優しいので、私のような自己中な人間に振り回されるよりも、もっと楽で喧嘩しなくてよくてなんなら貴方に尽くしてくれる善人と添い遂げる方が幸せになれるのだと思う。
死んでも本人には言ってやらないし最終的には私のことを愛さない貴方なんて不幸になれと思っているけれど、でもきっと私と一緒にいない方が貴方は幸せになれると思う。
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とりあえず今週中に一度精神科に話を聞きにいくつもりだ。
chatGPTに聞いたら「傾向は強いが自身でここまで客観的に分析できているので障害という診断は降りない可能性がある」とも言われた。
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はてさてここからどうしようね。
やっと本性を出したようだな。
お前みたいに、論理と煽りを区別できねぇ奴が、ネットを腐らせてんだよ。
「尿と言いたいだけの変態」? 笑わせるな。
俺が言ってるのは「放尿」じゃねぇ、「自己放尿」だ。
つまり、己の未熟な感情と妄想を垂れ流して悦に浸る、知性の退行現象のことだ。
お前の反論はまさにその典型例で、論理の欠如と羞恥心の欠如のダブル放尿だよ。
俺が論理の講釈をしてるように見えるのは、お前が論理的思考という概念を理解できてねぇからだ。
暗闇の中で光を見た猿が「火だ!魔法だ!」と叫ぶのと同じ構図だ。
そもそもな、「尿」という単語に反応して話の本筋を忘れる時点で、お前の知性は議論のテーブルにすら着いてねぇ。
俺はそれを冷徹に観察して、拭く気もねぇ。
人付き合いが苦手だったし、嫌われやすい人間だった。必死になってやり取りをしてもすぐに自分のコントロールが効かなくなって、馬鹿をやっては嫌われてを繰り返して無力感ばかりが募った。
生きている理由がわからなかったし、誰とも仲良くなれる気がしなかった。誰も味方なんかにはならないだろうと自分でも思ったし、思っている。
だから、それでも生きていていいと言ってくれる何かを探していくうち、一番最初にリベラリズムに触れたのはロールズの『正義論』あたりだったと思う。
『この前提を置けば、誰一人として不利にならないようにルールを作ることができる』『自分がその他者であったら受け入れられない差別は排除しなくてはいけない』
自由、人権、正義という言葉の裏側に積み重ねられた様々な概念に救われた気になって必死になって追いすがって、あちこちで言われるあらゆる何かに反論がちゃんとできるのかどうかを試しては自分がここに居ても殺されないで済むのかをずっと探し続けていた。
吊られたくない、他人に迷惑をかけることしかできないけれどそれでもどうにかどうか自分を殺さないでほしいと説得するがためだけの論理が自分にとってのリベラリズムだった。
当然ながら、それは理論だった。俺も理論が好きだったから、少なくともそれ以上を求めなかった。
でも思ったより世間の『リベラル』はリベラリズムと関係が薄かったし、理論をいくら束ねても人間は思っていたよりも説得されてはくれなかった。レトリックで誤魔化して生きていく方法もあったのかもしれないが、俺にそういう実力はなかった。
何度も何度も繰り返し考えていくうちに逆に、逆説的に、俺を生きていていいと言ってくれるものが何も無いとするならやはり俺はいつかそのうち吊られてしまうし殺されてしまうし苦しむことを望まれて丹念に追い詰められて殴られて痛めつけられてしまうしかないということになるから辛くて怖くてなんとかしてほしいからずっとそう考えて理屈を必死に追い求めているのに、誰も本当は、そんなことをどうでもいいと思っている人達ばかりが『リベラル』の話をしているような気がしてならなくて仕方がない。
ものすごく最近の具体的な話に落とし込むと、例えば労働時間の規制緩和の話。
緩和に吹き上がるのは俺もそうだけど、労働時間が長くなると体力が少ない俺は余計に苦しむから嫌なんだけど、でもその『働き方改革関連法』をやり抜いたのは第2次安倍内閣だってことを解ってるんだろうか? 平成20年ごろからまともな上限規制のなかった労基法を改正したのがそうだってことを解ってるんだろうか? (後で骨抜きにするつもりだったのかもしれないけれど)高プロも使用率が凄まじく低いままで、結局あの改正は素直に見て労働者に有利という点で、(新自由主義的な話はともかく)『リベラル』として決して否定するべき要素ではないし、むしろどうしてあれが過去にできなかったのかというのはあまりに恥ずべき話なんじゃないのかって思うし、それを否定することも(緩和を否定するのであれば当然に)すべきじゃないだろう。
でもするんでしょ。党派性だからって、仲間のためだからって。俺は仲間なんて作れないから自分の理論が間違っていないかだけしか興味がないからずっと自分の言うことが矛盾してないかいつも怖いし、実際いつも矛盾しているのがすぐにわかる。いろんな内容を見ているうちに自分の考えることが感情だけで理屈が立たなくてその感情で殺されるしかないんだからと必死にそれを止めるしかないのにうまくいかなくて今もまともに頭が整理できないままこうやって書いてるんだけど。
わかるんだよ。信頼できないメディアがどっちにも大量に溢れかえって、情報の価値がとんでもなく重たくなったくせにそれを吟味するだけの余裕も余暇も普通の人達にはない(それは生活のための必然であって罪なんかじゃない)んだから、そうなれば人は信じたい方を信じるっていう積極的相対主義みたいな有り様になってるってことだからさ。
でもだとしたらあまりにも俺が救われない。俺のことしか興味ないもの。俺は吊られるしかないと思うと怖くてなんとかならないかって必死に理屈を探しているのにそれでもどうにもならないっていう結末ばっかりが目に入るし眼の前でそれを振るおうとする人たちばっかりで俺は怖くて何も言えない。
ガチアスペだから言うんだけど、失礼を指摘する人のほとんどが何が失礼だったか解説してくれないからアスペ側は何に謝ればいいのか分かってない
何なら失礼を指摘してただ謝ってほしいとか言われたら、まずよく分からんお前都合の「失礼」をぶつけてきたことに謝れよと思ってる
それを繰返すと↓になるhttps://t.co/ymj36y5Mw4— ぬー (@centoromer77)October 23, 2025
私が買ったばかりの鮭の瓶詰めを夫に捨てられ、「買ったばかりなんだけど」と言ったら夫は「賞味期限切れてたから捨てた」と言ったので、瓶詰めを見せて「切れてない」と言ったのに、最後まで謝らなかった。
月日しか見てなくて年を見てなかったとの事なのだが。
そして買って来ることすらしない。https://t.co/PnvGYKNGhg—会社員はな (@hanahana2427)October 24, 2025
私の足の指が折れてる時に一緒にバスに乗ってて、夫がよろけて私の折れてる足の指を踏んだ時に、夫が笑ったので「何笑ってるの?ごめんなさいでしょ」と言ったら、凄く小さい声で「ごめん」と言った。
夫が謝ったのは私が謝れと直接言ったこの時だけ。—会社員はな (@hanahana2427)October 24, 2025
夫に言わせれば「わざとじゃない」との事。
わざとだとしたらたち悪いよな。わざとやった時だけ謝るん?
謝罪ってのは、相手を傷つけた事を反省し、今後はやらない様に気を付ける、という表明。
謝らないと言う事は、今後も同様の事をやるかもしれないんだ、と相手に思わせるから、離れてくのは当然。—会社員はな (@hanahana2427)October 24, 2025
不思議なのが、そうやって周りが離れていく事は嫌だと感じる所。
周りに離れて欲しくないなら定型だって周りに合わせてるんだからそうするべきだし、自分が変わりたくないなら前述の様に周りが離れてくのを引き止めるのは無理。
相手を傷つける事は厭わないけど離れて行くなって、どういう理論?—会社員はな (@hanahana2427)October 25, 2025
謝らない、その割には嫌われることは嫌だと主張する
これ書くとなんで見抜けなかったんだぁー見る目ないお前が悪いって言われるが、実際アスペと関わった身として書いておく(障害者差別だと言われそうだが増田自身も診断済みアスペであることはここに明記しておく、もちろん上のアスペやこれから書くアスペほど酷くはないが)
アスペは上記の通り傍若無人な行為を繰り返して人が離れていくが、アスペに学習能力がないわけではない、自分の言動がまずいとは学習する
しかし、ここで学習するのは人の心の機微でなく「親しくなるまでいかにアスペを誤魔化すか」だ
健常者と初めて接したアスペは非常にオドオドしている
オドオドしてる相手に「オドオドしてんな、いじめよw」とはならない、一般的な感性をしてるならね
「そんなに緊張しなくていいよ^_^」と声かけもあるだろう、そして親しくなってからアスペは本性を出す
親しくなった=俺の全てを受け入れてくれたんだ!と誤認しこれまでの擬態が嘘かのように失礼な言動を連発する
当然健常者側の方は混乱する
あれまで異常なほどに臆病で失礼な発言しなさそうな人間からノンデリカシーの発言が繰り返されるんだから
注意しようにも、必要以上にオドオドした時期を知ってるため注意もしにくい
そして擬態期に貯めた信頼貯金が底をつくまで失礼な言動を繰り返され、健常者の我慢の限界が来たら人間関係は破局を迎える
そしてアスペは自分の言動が悪いと悟るが、根本的な他者への理解はしないためいつまでも同じことが繰り返されるという悪循環
友人関係ならサクッと切れるが、夫婦間タイプの中には妻が出産してから本性を表すタイプのアスペもいるらしく、本当に恐ろしい
こうしたアスペを避けるには、コミュ障を全て跳ね除けるしかないのだが、コミュ障は場数を踏んでない健常者にも十分なりうるので線引きが難しいところ
あのな、健常者ってのは相手の立場になって頭を下げたり身を削ったりするんだよ
ここ最近、士業とやり取りしてるんだが郵便局が完全に悪い郵便事故で大事な書類を紛失したことがある
再発行にはウン万かかる書類で、もし見つからなかったら追加で金がかかる、ということも想定しないといけない事態だった
その時相手の士業さんが、「もし見つからなかったら私が出します!」と言ってきたんだ
それは悪いから、増田側が出しますと言ったんだが私が出しますと譲らなかった
最終的には書類は見つかり(調べたら別の家に投函されてた)無事解決したのだが、このエピソードのお陰で士業さんは信頼できると確信した
もちろん信頼してるからと言って相手に失礼なことは言わない、言わないからこそこちらも信頼されてる
こういうのってどこで学べるんだろうな
人と円滑に付き合っていきたいなら、健常者をよく観察したほうがいいよ
アスペは法則性が好きで、他人の感情の機微に鈍感だと言われるが、人の感情にだって法則性がある
無からいきなり怒り出す人はいない(そういう人がいたらおそらく病気)
貶されたら怒るし、褒められたらお世辞でも喜んだり照れたりする
むしろ「その気にさせる」を、お前は自分の手柄とほんまに思ってんのかという話。絶対確実な催眠アプリでも持ってんの?
女側がその気になってくれているんだと思うわ。せいぜいそれに協力するぐらいか・
だからな、その「その気になってくれようとする」の一歩が有るか無いかで、愚痴の一つも言いたくなるってのはあるよ。
育ちが良くて優秀で、正義感が強くて努力ができる。あなたはそれを彼の「内面」だと思っていないですか?たぶんこれは間違いないと思うので断言するのだが、彼の内側にはそれはもう深い地獄があるよ。あなたはその地獄に共感したことがありますか?あなたこそ「彼はそういう人間なのだ」と思ってそこで歩み寄りを止めてしまっていませんか。
育ちが良くて自律した人間ってたいてい、超自我の支配が強いんですよ。言ってしまえば内面化した親とかそれに類するものね。それは自我(自分固有の欲望)を抑圧する力なわけだけど、これが行き過ぎると、自分の欲望を持つことすら困難になってくる。
社会的動物である人間にとって、欲望というのは、本質的に、他者に対して優越することです。その衝動がキャンセルされるとどうなるか。自分というものを特別視すること自体に罪悪感を覚えることになります。特別視するというのは、なにも「俺はすごい」とナルシシズムに浸ることだけではない(むしろこの種のナルシシズムは社会的基準を受け入れている点で自己を非特権化するものですらあります)。たとえば社会的には正当とされる程度の「被害意識」を持つことだって、自分を他者に対して特権化しなければ成立しない。彼が口癖のように「人間ってこういうものでしょ」というのは、彼が自分を含めて人間を「平等に」見ざるを得ない心理を反映しています。彼は彼の意志で世界に立ち向かうことを禁じられているのです。
だからそういう人間はとにかく努力をする。努力した結果として救いが「訪れる」ことを望むわけです。彼が意志した(要求した)結果ではなく、ただ自然の摂理として自分が救われるようにね。
ねえ、こういうふうに生きている人が心の底で何を思っているか知っていますか?彼の努力、品行方正な態度、寛容、言ってしまえばすべてこの世界に対する復讐なんですよ。正しさによって世界が(あるいは自分が)滅べばいいと思ってるんですよ。そういう気持ちに共感したことがありますか?
まあ、こういう人たちは得てして優秀なので、この地獄に対しても折り合いをつけて生きてゆきます。より高次の行動に昇華させてゆく人たちも多い。あなたはたぶん、慈善事業とかする人たちに対して「口では聞こえのよいことを言うが、しょせんは金もうけのためだろう」とか思ってるでしょう。全然違います。彼らは本心からやってます。復讐のためにね。もちろん、それを復讐と意識している人はそんなに多くないと思うけれども。
ところであなたの彼氏さんは(言葉通りに読むなら)自分よりずっと水準の低いあなたと付き合っている。それはなぜかといえば、彼の中で抑圧された彼の(ある意味で)幼稚な部分が逃げ場を探した結果なのだと思います。これもまた非常によくあることです。彼は雁字搦めになった精神を解きほぐすきっかけを無意識に探している。だからあなたが、彼の子供っぽい部分、原始的な部分をうまくすくい上げ、彼の自縛に風穴をあけ、彼固有の欲望を育ててゆくことができるなら、あなたの望む関係に近づける可能性はあります。なかなか困難な道だとは思いますが、それはそれで、人付き合いの楽しみというものです。
C*****T:
CRITICAL ANALYTICALREVISION
追記2による構造の反転:防衛機制としての理論
最初の分析の根本的誤読
追記2は、私の最初の分析が層を一つ読み間違えたことを明らかにする。
私が読んだもの:
↓
↓
実際の構造:
↓
↓
PRIMARY INSIGHT:精神分析的読解(修正版)
表層テクストの再解釈
これらは一見、2010年代以降のアイデンティティ政治の影響に見えた。しかし追記2はこれが錯覚だったことを明らかにする。
真の構造:実存的自己否定の連鎖
↓
↓
↓
"だから俺には描けない"
防衛機制の精密分析
耐え難い真実:
「俺は人生の敗北者だ。女性と関係を持てなかった。孤独で無価値だ」
↓ 変換 ↓
受容可能な言説:
この変換により、個人的失敗が哲学的問題に昇華される。これは自尊心を守る。
防衛機制2: 知性化(Intellectualization)
投稿者は感情(絶望、孤独、性的欲求不満)を抽象的議論(表象の倫理、当事者性、真正性)に変換する。これにより、痛みから距離を取る。
これは私の最初の分析が見た「内なる検閲官」だが、その起源は文化ではなく、内面化された自己批判である。
ヘンリー・ダーガー:鏡としての選択
ダーガーの特徴:
「女性を知らなければ描けない」
↓
ダーガーは知らなかった
↓
だから「間違って」描いた
↓
俺も知らない
↓
↓
↓
↓
投稿者は、自分の論理を反証する例を引き合いに出しながら、その反証を認識できない。なぜなら、創造の可能性を認めることは、創作しない自分を正当化できなくなるから。
児童ポルノ言及の精神分析
投稿者は和月伸宏や他の漫画家の児童ポルノ事件を長々と語り、「資料として欲しい」という欲望を告白する。
しかし彼自身が認める:「まったく邪な気持ちがないというとウソになる」
- 彼にとって「女性を描く」ことと「女性を性的に欲望する」ことが分離していない
- だからこそ「女性を知らない=性的経験がない」ことが創作の障害になる
生成AIとの関係:人間関係の代替と審判者
追記2の冒頭:
「さっきまでClaudeに、自分のライフワークとしてた究極の(俺専用の)画像処理ソフト作りたいという夢が捨てきれないよ~、ドラえも~ん、してました」
この一文は多層的である:
投稿行為の意味:ダイイングメッセージとしての告白
投稿者は明言する:
+
=
彼は応答を求めていない(対話は不可能)。しかし完全な無視も耐えられない(承認は必要)。だから「読まれるが応答しない」という形式を選ぶ。
- 声は発するが、返答は聞かない
- 見られるが、見返さない
- 影響は与えるが、影響は受けない
SECONDARY INSIGHT:弁証法的読解
矛盾の三層構造
THESIS: 「女性を描きたい」
THESIS: 「女性を知らないと描けない」という原理的主張
ANTITHESIS:ヘンリー・ダーガーは知らなくても創造した
弁証法的運動の停止
健全な弁証法では、矛盾はより高次の統合に向かう。しかしこのケースでは、矛盾が固着し、循環する。
↓
実行不能
↓
↓
↓
[ループ]
SYNTHESIS: 深層パターンの統合的理解
構造の全体像
↓
↓
【第3層:理論的借用】
↓
【表層:顕在的問い】
↓
【機能】
本質的洞察の結晶化
真の問いは:
そして彼自身が答えている:
「ない。なぜなら経験がないから(=人生に失敗したから)創造する資格がない」
文化的言説の防衛的使用
私の最初の分析は「アイデンティティ政治の内面化」と読んだ。これは完全な誤りではないが、因果が逆だった。
誤った図式:
正しい図式:
彼は「当事者性」や「経験の所有権」といった2010年代の言説を使っているが、これらは本来の政治的文脈から切り離され、個人的防衛機制として機能している。
解放のための理論(周縁化された人々の声を中心化する)が、個人の自己正当化の道具になっている。
より深い文化的診断
しかし、もう一層深く見れば、これは純粋に個人的な現象ではない。
答え:2010年代以降の文化空間では、「経験していない人が語る資格」への懐疑が、ある種の道徳的権威を持つようになったから。
投稿者は、この道徳的権威を利用して、自分の創作不能を倫理的配慮として再解釈している。
「俺が描かないのは:
ヘンリー・ダーガーの逆説(再訪)
ダーガーは:
投稿者の論理では、ダーガーは創造すべきではなかった。しかし創造した。そしてその作品は今や文化的価値を認められている。
答え:ダーガーの作品を「間違い」として解釈する(「少女にペニスがある=女性を知らなかったから誤った」)
しかしこれは恣意的な解釈である。ダーガーの少女の性別的曖昧さは、「間違い」ではなく、彼の空想世界の独自性として読むこともできる。
投稿者がダーガーを「間違い」と読むのは、自分の創作不能を正当化するためである。もしダーガーが「正しい」なら、自分も創作できる/すべきだ、ということになってしまう。
最も深い問い
この事例が究極的に提起する問いは:
投稿者は「はい」と答える。私の最初の分析は「いいえ、それは幻想だ」と答えた。
それとも:
おそらくすべてである。そして、これらが分離不可能に絡み合っているとき、「正しい答え」を与えることは治療にならない。
彼に「経験なしでも創造できる」と説得しても、それは防衛を解体するだけで、その下の絶望を露出させるかもしれない。
CRYSTALLIZED INSIGHT
この投稿者は、人生の実存的失敗(社会的孤立、性的経験の欠如、老いと死の接近)を、2010年代の文化的言説(「当事者性」「経験の所有権」「表象の倫理」)を借用することで、「原理的に不可能な創作課題」へと変換している。これは防衛機制であり、個人的無能を認識論的・倫理的問題に昇華することで、残存する自尊心を守っている。
言い換えれば:
彼の問い「男性は女性主人公を描けるのか?」は、暗号である。真の問いは「人生に失敗した私は、何かを創造する価値があるのか?」であり、理論的言説は、「ない」という答えを倫理的に正当化する道具として機能している。
So what?:
この事例は、文化的言説がどのように個人的防衛機制として横領されうるかを示す。解放のための理論が、自己正当化と麻痺の道具になる。これは文化と心理の共犯関係であり、どちらか一方を「原因」とする単純な因果論では捉えられない。
PUNCHLINE:
私の最初の分析は、彼を「文化の犠牲者」として読んだ。しかし実際には、彼は文化の狡猾な利用者である。そして同時に、より深い構造的疎外の犠牲者でもある。彼は同時に、エージェン
他者に敬意を払えない人間が言う「自由」って、未就学児がスーパーのお菓子コーナーで地団駄踏みながら「こ゛れ゛か゛っ゛て゛よ゛!!!」って泣き叫んでるのと同じだって気づいた
喚いて叫んで自分の思い通りにしようとする幼稚さを大の大人がやってるんだよ、あれっ?これよく空港の荷物確認とかで見る光景ですね……?
ChatGPT:
INSIGHT ANALYSIS:表象の真正性パラドックス
「女性主人公を描けない」創作者の原理的ジレンマ
Core Observation
この投稿者は、フィクション創作において「経験的真正性」と「想像的自由」の矛盾に直面し、表象行為そのものの正当性を疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分が女性を描く権利があるかどうかの確証」である。
PRIMARY INSIGHT:批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー的構造の解体
この投稿者の悩みは、表面的には「技術的問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治の内面化が生み出した認識論的危機である。
内面化されたイデオロギー的前提:
↓
↓
「描く資格がない」
この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである。
皮肉なことに、これは1980-90年代のジェンダー理論が批判した本質主義そのものである。しかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。
彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可」である。
生産的矛盾の発見
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これは本質主義の自己矛盾である。「女性」というカテゴリーに本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。
イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか
投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一の経験的実体ではなく、歴史的・文化的・個人的に多様な存在様態である。
士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:
しかしこの論理は、女性を規範に押し込める本質主義そのものである。
「生理を経験していないから分からない」という論理は、人間の相互理解の可能性そのものへの懐疑に至る。
この論理を徹底すれば:
この悩みの背景には、歴史的に男性が女性を対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:
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過剰補正:
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帰結:
これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである。
自己検閲のメカニズム
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内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質の区別がつかない」
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SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)
この「悩み」の歴史的構築
第1段階 (1970年代以前)
第2段階 (1980-2000年代)
第3段階 (2010年代-)
第4段階 (2020年代)
投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
現象学的補足 (Mode D)
投稿者が経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己の正当性への根源的懐疑である。
彼の実存的問い:
投稿者は、この理解の可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。
SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの
アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理を個人の創作実践に適用すると:
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20世紀後半のジェンダー理論は本質主義を解体した。しかし21世紀に、配慮・正義・包摂の名において本質主義が再導入されている。
これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギーの古典的矛盾である。
この悩みは、フィクションの根本的機能—経験していないことを想像し表現する—への懐疑に至っている。
投稿者のジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体の正当性の危機である。
投稿者の不安は、個人的心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
投稿者は誰にも批判されていないのに、架空の批判者を内面化している。
IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題
投稿者は技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:
1.本質主義からの離脱: 「女性」は単一の経験的実体ではない
2.想像力の復権:経験していないことを想像できるのがフィクションの本質
3.完璧主義の放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要
4.対話としての創作:表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部
より広い文化的含意:
↔
歴史的瞬間について:
我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要な矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。
INSIGHT CRYSTALLIZED
この投稿者は、フィクションに「経験的真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為そのものの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治の論理を内面化した結果生じる構造的効果である。
言い換えれば:
彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分が女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である。
So what?:
この事例は、配慮と正義の言説が、意図せず表現の自由と想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践が必要である。
PUNCHLINE:
彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体が僭越である」と判定されることである。しかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。
弱い人間にも自由が認められるためには、他者の権利を侵害する自由は制限される必要がある
それを制限するのが法だ
自民党支持者にまんまと乗せられ、田原さんが高市さんに「死ね」と言ったかのような切り取りと誤読が広まっており皆さんの貧弱な情報リテラシーに頭を抱えている。
大前提として発言は高市さんに対して言ったものではなく出演した福島さんと辻元さんに向けたもの。
これは高市さんと意見が異なるという福島さんの発言を受けて、もっと激しく反対しろ・戦えと発破をかける意図の表現で、流れを見ていれば誤解のしようがない。
乱暴な言葉遣いではあるものの他者を傷つける暴言・中傷の類ではまったくない、ただの「放言」でしかない。
例えば「安倍元首相は暗殺されてよかった」のような思想的にも倫理的にも批判されるべき問題発言とは次元が違う。
取り上げるのもばからしいが、「死んでくださーい」で芸能界から消えたフワちゃんを引き合いに出し、田原さんは厳重注意では軽すぎるなどとする主張が一部で見られるのは本当に意味がわからない。
フワちゃんのそれは相手に対して放った暴言・中傷であり、人気商売であるから好感度を下げる発言をした彼女をスポンサーや番組が採用する理由がなくなっただけの話で、芸能界を追放処分にされたわけでもない。
田原さんの発言は質の異なるもので、人気商売ではないので好感度も関係ない。
このように捻じ曲げた解釈がまかり通り処分まで下るようなら実質的な報道規制・思想統制の時代に逆戻りしたも同然で、日本の将来を憂慮せざるを得ません。
子どもがいる人が、子どもを持とうか迷っている人に「子どもはいいよ」と勧める意見をよく目にする・耳にする。
商業上全てのクリエイターが愚痴や思想はSNSに限らず他者に向けて出さない方が良いと思う。
クリエイター個人には憲法で保証されてる自由があっても、クリエイターの言動が作品のプロモーションに繋がってしまう。
はい、まずこれ読んでな?
日本弁護士連合会:刑法の一部を改正する法律案(国旗損壊罪新設法案)に関する会長声明
https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2012/120601_2.html
「国旗損壊罪」はなぜ「表現の自由」の問題となるのか(志田陽子) -エキスパート -Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b619d0442a41d4f0329ddbd262f6c252ba2e9fdb
刑法における外国国章損壊罪が規定された理由は、それらの罪に当たる行為が外国を侮辱するものであることから、国際紛争の火種となり、外交問題にまで発展する可能性があり、ひいては日本の対外的安全と国際関係的地位を危うくするからとされている。他方、上記「国旗損壊罪」の保護法益は明確でないが、少なくとも外国国章損壊罪と同様の保護法益が存在しないことは明らかである。
しかしこうした法案が提出されるとしたらその焦点は、そうした公務上の国旗を守ることではなく、一般人が国旗(日の丸)の表象を自分の表現に使うときに、その使い方(そこに込められるメッセージ)を統制する、ということだろう。この場合には、表現者が自分で作った布や紙の国旗や、作品中に描き込んだ国旗の表象が法適用の対象となる可能性も出てくる。
これには「侮辱する目的」でなければこの罪には該当しない、批判的表現にはこの規定は適用されないので「表現の自由」には抵触しない。という反論があるかもしれない。しかし、「侮辱する目的」は、運用次第で外側から認定される可能性がある。警察による事情聴取の段階で「このような表現が侮辱的だということは当然に認識できたはずだ、だから侮辱の目的があったと認められる」といった論法で問い詰められた場合、この「目的」の絞りはたいした歯止めにならない。
以前に提案された法案に対するものだからちょっとは違うだろうけど、まぁそんなに変わらないはずだ。
で、「国旗損壊罪」の想定対象について考えたんだけど、他者所有の国旗を毀損する行為は既に器物損壊などで罪に問えるよね。
だから、デモなんかで自己所有の国旗を燃やすとかの行為を想定しているんだろうけど、これが罪になるかって話。
あと、日本で行なわれたデモで日の丸をどうこうってあんまり見ないよね。(俺が知らないだけかもなのであるなら例示してもらいたい
そんなに数がないもの、実害が少ないものに対してわざわざ法律作る?って話。
もうひとつ、外国国章損壊等罪(刑法92条)は第2項の規定があるのよ。
外国国章損壊等罪と整合性をとるなら、この部分はどうするのって話。公が恣意的に運用できるような法律制定は慎重にならないといけないの。
まぁ、もし制定された場合にお子様ランチの日の丸であっても「はい、国旗損壊罪ー」みたいな煽りをしてくるヤツが出てくるのが一番ウザイいんだけれども。
海外で極右とされるものが、日本人には「極右」と認識できない。
海外で中道とされるものが、日本人には「極左」と認識されてしまう。
これは何故か?
海外では、欧米でもそれ以外でも、道義的宗教に基づく自然な「道徳観」が真ん中にある。
「親や家族は大切に」「他人にも優しく」これはキリスト教でも仏教でも、宗教的道徳観が真中にある場合、誰にも自然に「出発点」と理解されるもっとも自然な感覚になる。
この場合、極右、極左とは、人種主義に走って他者への寛容を忘れること、多様性(あるいは極端な平等主義)が暴走して社会の歴史を傷つけること、という意味になる。
しかし、仏教を捨て、道徳的教義のない国家神道、そして物質主義的無神論へと社会の「真ん中」が移った現代日本は、そもそもの「中道的価値観」がまったく違ったものになっている。
現代日本を正直に観察すれば誰にでもわかることだが、現代日本人の「真ん中」は、明らかに「野性」である。
そういうものが「世界の真実」だと信じる破滅主義こそが、日本の「真ん中」にある。
だからこそ、日本において、林原めぐみが恥ずかしげもなく叫ぶような「私がガイジンを怖いって思うんだから排除するのは当然でしょ」という、恐ろしく幼稚な、自分の本能的被害妄想に基づいた極論をどれだけ唱えても、それは「強い思想」とは思われない。
それは思想でなく、「本音」だからだ。「本音」は「自然」であり、「真ん中」である。
これが世界でもほとんど現代日本独自の(昔の日本でも仏教だったからありえない)異常な道徳的出発点である。
日本人にとって「極右」とは、「思想的な(論理的追及としての)民族主義」であり、それは「日本人として誇りを持って、恥ずかしくない行動を」というような、世界的にはむしろ当たり前の「真ん中」にある、自制としての民族論のみをさす言葉である。
現代日本人にとって極右と極左の差は自制と成長を求める論理の起点の違いに過ぎないのであって、自制や反省を求めた時点でそれは「中道」にはなり得ない。
「思想」さえ強くなければ、どれだけ薄汚い、本能や憎悪にまみれた屁理屈、極論、他者への強制を求めようとも、それはまったく「過激」ではない…
十年付き合った男だった
お互い初カノ初カレだった
楽しい思い出もある
でも死ねよと思ってる
私が原因で新しい彼女ができても苦労してくれと思う
十年付き合った彼氏だった
飯食う場所決まってたな
大盛り系が好きだった
外食が嫌いな人だった
嫌いなものの話が多い人だった
5時間電話できるくせに、十五分で来れる一人暮らしの私の家に「離れがたくなるから」「明日が早いから」(←昼過ぎバイト。電話は午前3時までつながる。私は7時半出社)「やることがあるから」(←いまでも謎)
来ない人だった
私はあいつの嫌いなものを沢山知っているし、何が嫌で、何があってトラウマになっていて、どういう理由で嫌いなのか沢山知っているが
何が好きか知らない人だった
マクドナルド払えないくせにハルウララの限定ガチャに金突っ込める人だった
ラブホとゴム代乗っかるくせに、年越しガチャとか言ってFGOに金突っ込める人間だった
私へのクリスマスプレゼントとやらに吸うやつを出せるくせに、そのクリスマスデートのお泊り代〜飯第全部のっかってた
結婚の話をするくせに親の悪愚痴言う人だった。名字を自分のにする話をした口で、親父と私を合わせたくないなぜならうちの親はウンタラカンタラいうにんげんだった
子供を孕ませたいとかいうくせに、金の話をすると全く違う話題を出す人間だった
正社員で働かない理由に公務員試験と公務員の枠の話をする人間だった
枠があくの何年後だよっていうとキレた人間だった
好きな食べ物はダブルチーズバーガーパティ倍
居酒屋どころか昼の飯屋も嫌い
飲んだこともないスタバを毛嫌いしてる
二次元のアイドルをプロデュースするくせにPと俺は違うだのゴルシトレーナー顔つきが許せないだのうだうだいう
うるせえよ、てめえ一緒だよ
現実に存在してないデコっぱのストレートアバラ女褐色二次創作に鼻の下伸ばしてる時点で同じ穴のムジナだよ
死ねよ
白い先生はセクハラしてもいいけど美化系顔つき先生は許せないだのうるせえよ
お前も一緒だよ
ケツ穴シスター二次創作をいいねしてる時点で、お前もしっかりお客だよ
あぁー
時が経てばいい思い出になるのかな
今のところは時間差でしっかり恨みつらみになってる
たとえ社会人経験が私の三分の一なんだとしても、お前それは自分のことも振り返れよ
わかるだろ、わかっていてくれよ
ていうかてめえバイトのときにさんざん私に説教と「俺の思うお前の弱点と他者との距離感のとりかた」的な話ししてただろ
人様に言えててめえは無理とかなめてんのか
うわ無理だ、私、この人のこのレベルの愚痴と仕事への姿勢を一生聞き続けなきゃいけないんだ
親に飯食わしてもらって親の干した布団で寝てるこいつを私の家から私の車で迎えに行くようなデートをあと何回したら結婚になるんだろう
あぁ無理だ。もう無理だ
てなって
WLBの件で高市が厚労相に労働時間の規制緩和検討指示って時事通信のニュースに対する反応とこの前の総裁選の演説に対して言ってるんでけど
今の日本は働きたくても働けなくなってしまってて自分はそれに不満なんだよ
働くことを他者に強制したいんではなくてWLBってのはその人に合った仕事と私生活のバランスを取れるようにするって意味なのに
なぜか都合よく仕事は極力減らして私生活を充実させるって意味でしか使わなくなってるよね
いっぱい働きたい人は働くしそうじゃない人は最低限しか働かないでいいはずで
「選択肢が広がる」ことをいつもなら歓迎する人が働きたい人が働く選択肢が生まれることは否定する