はてなキーワード:他界とは
アンチフェミ50代高齢未婚おじがいつも「非モテ女だけど高身長イケメンに冷たくされて高身長イケメンが苦手になったので低身長ブサメンホビットで妥協した」という作文を投下してるが、現実はアンチフェミの女性ですら、イケメンに冷たくされても手の届かないイケメンに執着し続けて推し活する人生を選び.「自分と釣り合う男との結婚」を拒絶する
男にモテないから女嫌いになった、男はみんなホモになれと自著で公言
自分のファンの、見るからにオタク・マニアで変人で女っ気のない、そして脚に重度の障害のある唐沢と結婚
しかしトリビアの泉で有名になった途端に若く可愛い女性編集者を追い回したり劇団の女優と不倫しだしたので離婚
https://note.com/gusukuma/n/n88881ace99fe
前年の暮れに職場によるストレスから貪るように聴いた沖縄のロックバンド、紫への想いが再燃し、2003年の9月に初来沖した。
ホテルにチェックインし、しばらく涼んでからタクシーに乗り、向かったのは、紫のリードギターである比嘉清正さんが2024年12月まで営んでいたビーチバー『ココナッツムーン』。
オリジナル紫時代から、彫りの深い顔に、カーリーヘア、たくわえられた口髭、スラリとした長身と寡黙さがエキゾチックな魅力があり、人気のメンバーだった清正さん。03年当時の清正さんはカーリーヘアはさらに伸び、口髭の他に顎髭を生やし、その髪と髭には白いものが増えたけれどますます魅力的なイケオジと化していた。
清正さんはテンパりまくりな私に苦笑しながらも親切に応対してくださった。
さらに、清正さんはココナッツムーン近くにある、ルネッサンスリゾートオキナワが観光客向けに行っているレーザーショーがココナッツムーン間近の浜辺で見れるからと私を窓際の席にエスコートしてくださった。
夜の海に煌めくレーザーの光が幻想的かつ、清正さんにそっと肩を抱かれた私は心を熱くし、目を輝かせた。
すると、清正さんは私をじっと見ると微笑まれた。
「君、可愛いね」と呟きながら。
いつか、誰かに、いや、夢のように美しい誰かに言われたいと祈るように切望したその言葉。
清正さんは戯れに言ったのだろう。
でも、私には長年の呪いを解く魔法の言葉だった。清正さんに容姿を肯定されたあの日は私の宝物となった。
さらに、それから10年後、紫、アイランドのボーカリストだった城間正男さん宅にお邪魔し、2011年に他界された城間俊雄さんの仏前に線香をあげ、正男さんが淹れてくださった麦茶を飲みつつ雑談していた時のこと、正男さんはぽつりと仰った。
「まいきーは綺麗な瞳をしているよね」
https://anond.hatelabo.jp/20230104041756
ブスでも美人でも可愛くもなく、その辺にいくらでもいそうな見た目だが、男から見たら性欲を喚起されなさそうな顔
Xでも度々指摘されているように、発達障害傾向があり女にハブられたり見下されてアンチフェミ化するも、アンチフェミの高齢未婚男性のホビットが望む「自分と釣り合う男」で妥協は絶対しないし、婚活してそいつらと結ばれて結婚して家庭を持つくらいなら、死ぬまで未婚のままイケメンの有名人やホストを追いかける方がマシだと考えている
男にモテないから女嫌いになった、男はみんなホモになれと自著で公言
自分のファンの、見るからにオタク・マニアで変人で女っ気のない、そして脚に重度の障害のある唐沢と結婚
しかしトリビアの泉で有名になった途端に若く可愛い女性編集者を追い回したり劇団の女優と不倫しだしたので離婚
https://note.com/gusukuma/n/n88881ace99fe
前年の暮れに職場によるストレスから貪るように聴いた沖縄のロックバンド、紫への想いが再燃し、2003年の9月に初来沖した。
ホテルにチェックインし、しばらく涼んでからタクシーに乗り、向かったのは、紫のリードギターである比嘉清正さんが2024年12月まで営んでいたビーチバー『ココナッツムーン』。
オリジナル紫時代から、彫りの深い顔に、カーリーヘア、たくわえられた口髭、スラリとした長身と寡黙さがエキゾチックな魅力があり、人気のメンバーだった清正さん。03年当時の清正さんはカーリーヘアはさらに伸び、口髭の他に顎髭を生やし、その髪と髭には白いものが増えたけれどますます魅力的なイケオジと化していた。
清正さんはテンパりまくりな私に苦笑しながらも親切に応対してくださった。
さらに、清正さんはココナッツムーン近くにある、ルネッサンスリゾートオキナワが観光客向けに行っているレーザーショーがココナッツムーン間近の浜辺で見れるからと私を窓際の席にエスコートしてくださった。
夜の海に煌めくレーザーの光が幻想的かつ、清正さんにそっと肩を抱かれた私は心を熱くし、目を輝かせた。
すると、清正さんは私をじっと見ると微笑まれた。
「君、可愛いね」と呟きながら。
いつか、誰かに、いや、夢のように美しい誰かに言われたいと祈るように切望したその言葉。
清正さんは戯れに言ったのだろう。
でも、私には長年の呪いを解く魔法の言葉だった。清正さんに容姿を肯定されたあの日は私の宝物となった。
さらに、それから10年後、紫、アイランドのボーカリストだった城間正男さん宅にお邪魔し、2011年に他界された城間俊雄さんの仏前に線香をあげ、正男さんが淹れてくださった麦茶を飲みつつ雑談していた時のこと、正男さんはぽつりと仰った。
「まいきーは綺麗な瞳をしているよね」
アンチフェミ50代高齢未婚おじがいつも「非モテ女だけど高身長イケメンに冷たくされて高身長イケメンが苦手になったので低身長ブサメンホビットで妥協した」という作文を投下してるが、現実はアンチフェミの女性ですら、イケメンに冷たくされても手の届かないイケメンに執着し続けて推し活する人生を選び.「自分と釣り合う男との結婚」を拒絶する
16年前のガンが再発し、再闘病8年目の今年2月、これ以上の治療は困難とのことで緩和ケアへ移行することになりました。
この時私は妊娠6ヶ月でした。念願の初孫だと喜んでくれていたので、この告知はとてもショックでした。
予定日は7月2日、母の余命は4ヶ月ほどだろうと言われました。主治医の先生には被るのではないかとまで言われたそうです。
去年は友達と九州へ旅行に行ったり、好きなアーティストのコンサートに行っていたのに、本当に急でした。
もちろん里帰り出産なんて出来ませんでした。さらに今後、私がお腹の子を育てていく際に母の支えが無いのだということに絶望しました。孫の手を引くお母さんを見ることは出来ないんだと、孫を甘やかすおばあちゃんがいないのだと。
しかし1番悲しいのは母自身です。私は期待を持たせて悲しさが大きくなるのが怖くて、孫に会わせたい、孫を抱いて欲しいという願いをグッと飲み込み、母は母の病気に向き合って、私は私の出産を頑張るからと伝えました。
遠出を避けなければならない妊娠後期ギリギリまで何度も帰省しては、母にたくさんお腹を撫でてもらいました。撫でてもらうたびに、お腹の子に会わせたいという淡い思いで胸がいっぱいになりました。
最後に会ったのはGWでした。またね、頑張るんだよと声を掛けてくれた姿は比較的元気そうでしたが、今思えば妊婦の私を気遣って無理をしていたのでしょう。
その後、母はみるみるうちにやつれていきました。ご飯が咀嚼出来なくなり、ゼリーなどの流動食ばかり食べていたようです。肺に水が溜まり、心臓が痛くなり、起き上がるのが苦しくなっていたのです。また薬の副作用や症状の悪化でせん妄が顕著に現れていました。テレビ通話やメッセージが支離滅裂になっていく母の姿を見るのは辛かったです。
しかし私のお腹の子はどんどん大きくなって来ます。とうとう正期産の日になりました。その当日の妊婦健診時の「いつ生まれて来てもいいからね」という先生の言葉を聞いたからなのか、はたまたこの後のことが分かっていたのか、その日の夜、子は予定より3週間も早く産まれてくれました。
小さく生まれたものの、2510gとギリギリ体重をクリア、増加率も問題なく、一緒に退院することが出来ました。
旦那が無事に出産したと実家にメッセージを送ると、混濁していた母の意識が急にはっきりして、母子の無事を泣いて喜んでくれたと聞きました。喜怒哀楽を娘にあまり見せない親だったので、大泣きする母の姿が想像できませんでした。
母がしっかりと会話できたのはこの日が最後でした。
介護をしている姉から送られてくる母の様子は、かなり厳しいものでした。言葉が出てこなくて癇癪を起こしてしまう、姉の顔を忘れてしまった、ベッドから起き上がれなくなった、トイレに行けなくなったとゆっくりと、しかし着実に一生を終える階段を登っているようでした。
ついに1週間前、母が入院になりました。最後の入院になるだろうとのことでした。医者の見立てというものはすごいです。2月の段階ではここまで進行するとは思えないほど元気だったのに。
私は姉に伝えました。1ヶ月健診が終わったら帰るから、それまで頑張るんだよと伝えて欲しいと。
子が早く生まれてくれたから、早くに外出できるようになったのです。母に抱かせられるかもしれない。諦めたはずの期待が溢れてしまいました。
無事に1ヶ月健診を終え、急いで実家に帰省しました。母を見舞う前日、姉から「ご飯が食べられなくなった。それに伴って持病の薬を全て中止した」と言われました。全身に転移したガンとは別に心臓の持病を抱える母にとってそれは、最期へのカウントダウンでした。
月曜日、特別に許可をもらい子を連れて病室に向かいました。母は息をしていました。意識はほぼなく、呼吸器をつけてやっとしていた息ですが、心臓を動かして待ってくれていました。痩せて骨と皮だけになった母の手を取り、子の手を触ってもらいました。発熱していたこともあり、温かい指先でした。目を少し動かし、私を、子を追っているように見えました。待っていてくれてありがとう、私もお母さん頑張るよと伝えて病室を後にしました。
その日の深夜、日付が変わる時に母は旅立ちました。主人に子を預け、最期に立ち会うことが出来ました。
息を引き取った母を見て、ああ本当に待ってくれたのだと思いました。また、子は母の命の時間を知っていて早くに生まれてくれたのだと思いました。
そうとしか思えないのです。
そう思ってもよいでしょうか。
母の病気が治らないと知った時、奇跡なんてものはなく、神もいないのだと悟りました。
でも抱かせることは叶わなかったけれど、無事出産できたことを知らせることができ、孫の写真を見せられて、直接孫の顔を見せることも、孫の手に触れさせてあげられたことも出来ました。
このタイミングが偶然のものだとしたら、出来すぎだなあと笑ってしまいます。
そして未明に母が帰宅し、授乳の合間を縫って仮眠を取り、やっとジワジワと母が逝ってしまったことを実感しています。
死に目に遭えたからとしても、やはり私のこの先の人生に母の姿がないことに変わりはありません。その事実がどうしようもなく辛く、悲しく、胸に重くのしかかってきています。寝不足のまま、微かに一階から流れくる線香の匂いを嗅ぎ、理由なく泣き続ける子をあやしながら、広くなって静かな家の廊下を歩いていると、今日がきっと人生で1番辛い日なのだと思います。
程度は変わるのでしょうが、一生この辛さは消えないのでしょう。ここに母がいたら、母だったら何を言ってくれただろう、と。道ゆくおばあちゃんと孫の姿を見かけるたびに、私は一呼吸置いて鼻の奥が痛くなるのを堪えるのでしょう。
それでも我が子を抱きながら、この子と母の奇跡のような巡り合わせを思い出して、痛みを少しだけ溶かしていくのだと思います。
義実家とは結婚の時に縁が切れています。そのため頼れる家族が、認知症を患う父と陸の孤島と呼ばれる県内の果ての地で教鞭をふるう姉しかいません。
1964年頃初代林家三平に入門。三平の付き人を6年間ほど務めた。当初「ペー平」と命名されたが、のちに「ぺー」となった。
2008年には「落語もやってみたい」と考えを改め、一門の後輩である林家たい平に落語家として弟子入りし、「林家たいぺー」の高座名をもらう。
初代林家三平一門の中で数少ない、名前に「平」の字が付かない弟子である。来歴にもある通り、元々、師匠である三平から一度「林家ペー平(ペーぺー)」という芸名をもらった。しかし、1963年に師匠の友人である近江俊郎宅を師匠ら数人と訪れた際、そこにいた近江の友人である占い師に『林家ペー平』で姓名判断してもらった。すると「素晴らし過ぎる名前だ。いずれ師匠を食ってしまうほどの大物になるだろう」と告げられたが、小心者である初代三平(ペー本人がそう語っている)が弟子であるペーの台頭を恐れ、「平」を取ってしまったためである。
名付け親の初代三平が他界したため、「ペー」の書体がひらがなかカタカナかは本人にも分からない。ペー本人は「師匠に聞く前に他界されてしまった」と語っている。番組などで「横書きの時はカタカナ、縦書きの時はひらがな」と時折語っている。
やっぱネットで暇つぶしするとしても、自分のアテンションをどう割り当てるかってのを悩むんだよなぁ
これは、俺のネット歴が浅い段階で興味を持ったものだ。おそらく10年以上前
要するに「典型的なユーチューバー」を暇つぶしに見ている時期があった
その他にも、
などを見ている時期があったな。だが、最近はあんまし見なくなった
なんつーか、Youtubeには今はもっと多様なコンテンツがあるから、こいつらにアテンションを割り当てることはなくなった
価値観が異なる人びとのチャンネルは見ていて飽きない。(もちろん、価値観が違うと言っても、迷惑系のことではない)
俺が他界系だった頃はクリスの部屋やKevinsEnglishRoomってのを見てたが、最近だと
などを見ることがある
最近は翻訳精度が上がってちゃんと字幕も見れるから、自分の興味に近い動画は海外の動画を見るようになった
俺の場合は物理学とか数学なんだけど、サビーネホッセンフェルダーは投稿頻度が多いのでハマった。あとBrian Keatingも
以前はLex FridmanやCurt Jaimungalも見ていたが、対談系は動画長が長いので見なくなった
Aleph 0やVisualMathなどの「難解概念をわかりやすく説明する」シリーズも最近見始めた
俺は統合失調症患者なので、高校生の時に陰謀論の用語をたくさん調べたことがある
その興味が今でも拭えず、調べてしまうことがあり、そういうときに都市伝説系Youtuberを見てしまう
コヤッキー、ウマヅラ、ナオキマン、三木大雲、などを見ることがある
エンタメとして楽しんでいるだけではあるが、流石に財務省陰謀論を主張している時は見るのをやめようと思った
日本に住んでいて、ユダヤ教についての情報を見る機会はあまりないが、ネットならいくらでも見れることに気がついた
んで、前述した「懸けはシオン」も見るし、「ハバッド・ジャパン」も見る
あと宗教系で見るのは、禅の師匠がなにやら解説している動画とか
R25, Pivot, リハック,NewsPicks, Abemaなどを見ることがたまにある
リハックに関しては、最初は超弦理論の解説を見て知ったが、それ以外の動画もたまーに面白そうなのがあるので見る
一時期、こいつらにハマったし、最近もたまに見るが、要は「何かを主張している人たち」を見ることがある
懐かしい音楽を聴きたいことがあるので、たまに調べる(例:X Japan)
最近はイヤーワームが嫌なので聴くことは減ったが、ドラマーがひたすらドラムを叩くだけのインストゥルメンタルなどは見る
趣味に仕事に関連することを持ち込みたくないので避けてはいるが、ThePrimeTimeやArjanCodesなどの芸人に限ってはたまに見る
黒猫の部屋、テイコウペンギン、などを見ていた時期はあったが、その頃は仕事で忙しくて人生がぼんやりしていた
VihartやPhysicsgirlなども見ていたが、最近はこれらの人たちは体調が悪いのでひっそりしている
親は5年前に他界、8つ上の兄が2ヶ月前急死。
妻子なし。
親とも、兄とも半年とか1年に一回会話するかな?くらいだったんだけど、この世から「俺をほぼ無条件で肯定してくれる存在」が無くなったことが今実感として湧いてきてとても怖い。
それでも怖い。なんなんだろ。この感覚。
怖いよ。本当に怖い。
そして想像だけど、奥さんや子供出来てもこの怖い感覚なくならないんだろうな。だって俺が守る存在だし。
守られる大切さを痛感してる。実際に守ってくれるかは置いといて。
そりゃ人類神に縋るよ。今めちゃくちゃ怖いもん。
上がいる安心感って、強かったんだね。
Permalink |記事への反応(28) | 01:28
外国人犯罪を黙認するとか
俺の実家のある場所は南米からの出稼ぎ労働者が多くて、治安もスラムとまではいかないけれど、地元の学校やPTAで「◯◯川の向こう(外国人労働者が多くたむろする地域)には絶対に行かないように」みたいな連絡がしょっちゅうあるようなところなんたけど、以前俺の従兄の中学生の娘が下校中に出稼ぎ労働者数人に腕を掴まれて車に引き込まれそうになった事件があって警察に通報しようとしたとき、祖父だけは大反対して親族一同から総スカン食らうという出来事があった
祖父曰く「外国人労働者なしでこの国は成り立たない。だから慎重になれ」「そんなことで警察沙汰にしたらこの街は彼らから見捨てられる。そうなったらお前らは責任を取れるのか」「彼らは本当に乱暴しようとしたのか分からない。孫に好意を寄せて仲良くなろうとしただけかもしれない。なのにいきなり警察沙汰はやり過ぎだ」だそうで、当然だが祖父の家には誰も近寄らなくなった(同居していた祖母は既に他界してる)
特にキレたのは娘の父である従兄で、じゃあ親父の全財産売り払って◯◯団地(外国人労働者が多く住むことで有名)に行って、風俗代あげるからうちの孫に手を出すのは辞めてくださいとお願いしてこい!と胸ぐらをつかんで怒鳴り散らしてたが、それでも祖父は考えを曲げなかった
その後警察に被害届を出したが、被疑者が捕まったという話はなく、従兄一家は娘の中学卒業を機に遠方へ引っ越していった
高瀬邦久(たかせ・くにひさ)は、生涯をタイムマシンの開発に費やした。
大学時代、恩師の講義で語られた”時間軸の可逆性”に魅せられたのが始まりだった。
理論を積み上げ、実験を重ね、資金を得るために幾度となく職を変え、食費を削った。
気づけば60を越えていた。親は他界し、友人は疎遠に。恋人は一度もできなかった。
だが、彼には確信があった。
もしそれが成功すれば、自らの成功が実証される。人生の全てが意味を持つのだと。
けれど——タイムマシンが完成することはなかった。
79歳の冬。研究室の古い窓から差し込む午後の光の中で、邦久は気づいた。
仮に、タイムマシンを作ることに成功したのであれば、未来から自分が会いに来るのではないかと。
その夜、邦久は長く封をしていた引き出しから、古びた拳銃を取り出した。
買ったのは30年前。自分を止めるためではなく、研究を盗もうとした男から身を守るためだったが、一度も使われなかった。
手は震えていた。寒さのせいではない。
「失敗だったな」
引き金に指をかけたときだった。
背後で、ガタッという棚が揺れる音がした。
——誰かがいる?
濃紺のコートを着て、どこか見覚えのある目をしていた。
「……誰だ、お前は」
少年は頷いた。
「呼ばれた気がしたんです。あなたが、最後の選択をしようとしていたから」
邦久は銃を下ろした。夢か幻か分からぬまま、ただ黙って椅子に腰を下ろす。
少年は壁際のテーブルに歩み寄り、一枚の紙を見つめた。そこには邦久がかつて書きかけて放置した「時間跳躍における自己観測理論」の草稿があった。
「……未来で?」
少年はニッと笑った。
「あなたが作ったタイムマシン、たしかに完成しなかった。でも、あなたの理論は、ある女性が読み継いで、やがて世界を変えるタイム通信技術につながった。あなたの仕事は意味があったんだ」
邦久は言葉を失った。
「でも……お前は俺じゃないのか?」
「あなたに憧れて科学者になった、遠い未来の誰か。たぶん、あなたの“遺伝子”も、“名誉”も継いでない。ただ……“熱”だけを、受け取った人間です」
気づけば、少年の姿は薄れていくようだった。
まるで、朝の霧がゆっくり晴れていくように。
目が覚めたとき、朝だった。
拳銃は棚の上に戻っていた。夢かもしれない。しかし——机の上の一枚の紙が、いつの間にか整理され、隅にこう書かれていた。
邦久はその言葉を、誰のものとも知れぬまま、そっと胸にしまった。
その日から、彼は遺稿の整理を始めた。
おかしいな、と思うべき出来事は色々あった。しかし、その時は母がおかしいなんて全く思ってなかった。
母は向かいのマンションを見ながら、「あそこの窓からピンク色の光が漏れ出ている。きっと怪しい家だ」と語っていた。
ダイニングのテーブルのすぐ裏の壁がベリベリに剥がれていて、中の配線が丸見えになっていた。呑気な私はそれを見て、「壁の中ってこんななってるのか」と興味を引かれたものの、そうなった理由については考えもしなかった。盗聴されているという妄想を持っていた母が、調査するためにやったらしい。
朝の通学路で手袋を落としたところ、家から結構離れていた地点なのに、母がすぐ後ろから「はい落としたよ」と手袋を渡してくれた。これはきっと、ずっと後ろから見守ってたのだろう。
などと、思い返すと繋がる出来事なのだが、当時の私は「そんなこともあるか」と徹底して能天気であった。
そんな私でも、さすがにおかしいんじゃないかと気づく事件が起きる。母が失踪したのだ。中2の時だった。
母は突然何も言わずに消えた。しかしその当日、私の叔母が家にやってきて母の不在を告げたので、「まあ何かあったのだろう」と納得していた。
しかし、母は思ったよりも長く帰って来なかった。5日ほど。この間、叔母が食事は用意してくれていたのだが、私は一人で家で過ごしていた。(私の父は小5の時に他界しており、兄弟もいない)
そして母は帰ってこない中、私は唐突に叔母から真実を伝えられることとなった。母はどうやら東京にいるらしい。なぜ東京にいるかは分からないが、母が統合失調症を患ったことが原因らしい、と。
そこで、東京の中でも正確な居場所をつかめない母に、帰ってきてほしいと電話をして欲しいと叔母から頼まれた。
私としては、正直夢の中の出来事みたいなところがあって、私が電話してどうなるんだよと思ったのだが、割り当てられた仕事のような義務感で電話をした。
「もしもし、(私)だけど。困ってるから帰ってきてほしいんだけど」
そこで母は言った、
「あなたなんか(私)ちゃんじゃない!本物の(私)ちゃんはどこ!」
それを聞いて、ショックというより、平熱が1度下がるような感覚がした。それ言われたらさぁ、どうしようもないじゃんか、という言葉が本能と理性の両方から出た。
「(私)だよ〜、本物だよ」
と私は反論したが、対話としてそう言うしかないと思ったからであって、
本当にそれが伝わることを、私はきっと期待していなかった。
……結局、叔母が東京まで迎えに行ったこともあって、母は地元に戻ってきた。
しかし、その後パトカーが家に来て、地元の警察まで行くことになった。
マンションのエントランスで、家の前に停まったパトカーを見た母が嫌がって、私の腕を掴んできたとき、母の異様な力の強さに驚いた。リミッターが外れているかのような馬鹿力だ。腕に跡がつきそうなほど握りしめられ、骨がちな母の指が私の贅肉に埋もれた。
その後、とにかくパトカーに乗ることになり、私と母は隣同士で後部座席に乗せられた。席は硬く黒い材質で出来ていてタクシーのようだった。その間、母は私の手を握っていて、それは優しく握られていたのだが、私たちの手の間には手汗による湿気の滑り気があって、それがなんだか、この異質なパトカーの中にて、私と母との切っても切れない粘ついた関係のようで気まずかった。
いつも見かけてはいたけど、入ったことのない地元の警察署に初めて入った。警官さんが母に向かって、「(苗字)さん」と親しげに話しかけていて、私の知らない間に警官と顔見知りになっているという事実が薄気味悪かった。
叔母とおばあちゃんは既に警察署に居て、多分失踪事件の後始末をしていた。それがその時呼ばれた理由だった。
あれから、母は精神病院で入退院を繰り返している。失踪が起きてから10年が経った。
私は母に対して、不気味なものを見る時のような感情がずっと捨てられることが出来ず、全てを忘れて優しく接しようとしても気まずくなってしまう。
母が「お茶に毒が入れられている」と言おうが、「就職は何系を考えてるのか?」と聞こうが、私からの答えは「うーん、そうだね〜」で固定されている。
後者の問いかけはまともだと私は分かっているのだが、私はもう、母がまともなことを言っている時も、なんかもう嫌なのである。
母が嫌いなのではない。関わりたくなくて、存在を認めたくないのだ。きっと、母という存在に向き合いたくないのである。
そうやって、私は母への思いを10年間も保留している。
私の大事な人へと、母の話をする機会が稀にある。私は初めて自分の意見を表明する段になって、自分のスタンスに迷ってしまう。
「大嫌い」か、「かわいそう」か、「大事にするべき」か、「優しくしたい」か……きっともっとある。
冷凍した想いに名前を付けないといけない日は、いつかきっと来る。そうして私は大人にならないといけない。
Permalink |記事への反応(17) | 18:04
儲けのほどはわからなかったが、子どもながらに中流の下くらい、2人の子どもを大学(公立)に入れることならなんとか・・・レベルの家庭だったと思う。
しかし、'00年代前後に進んだ保険業界の規制緩和によって、保険代理業の経営は苦しくなっていった。
家族会議の場で、父は、「こんなことになったのは、小泉政権のせいだ」と言った。
今ならわかる。確かに「規制緩和」という時代の影響をマトモに受けたのだろう、と。
しかし当時、借金を隠していた父への怒り心頭だった私たちは、「自分の怠慢を、時代のせいにするな」と、父をさんざん責めた。
父は何も言い返さなかった。ただ、家計の立て直しに向けて、それまで数十年吸っていたタバコを、家族会議の日からやめた。
それからは、母が司法書士に借金返済の相談をし、私たちも返済を手伝って、10年以上かかって返済を終えた。
しかしその頃、母のガンが発覚した。
後に聞いたところによると、少ない収入で何とか家計管理を続けてきた母にとって、突然の1千万円の借金、長期に渡る返済、子どもを大学へ行かせることができないかもしれない…という不安は、相当のストレスだったと言う。
借金がガンの直接原因ではないかもしれないが、母自身はそう捉えていた。
数年の闘病の後、母は他界した。
一人になった家で過ごすことを嫌がっていた父も、母を追うように病気で他界した。
もしあの時代に規制緩和がなかったら、父はここまで借金を作らずに済んだろう。
そして母も、借金返済のストレスを抱えずに、もう少し長生きできたかもしれない。
それは、実現しなかった仮想世界だ。
その世界では、財政は今ほど健全化していないかもしれない(今だって、健全とは言えないが)。
それでも、私の両親がまだ生きている世界。
https://anond.hatelabo.jp/20250524132735
これとか本当に意識他界過ぎてひでーなって思うし、どんなスカした間抜け面でほざいてんだろうなって思うけど
あまりにも臭くキモくて情けなさ過ぎて俺だったら自殺しちゃうね
消費税が直撃する層ってのはさ、もう即ち所得が低い人程、生活に使える可処分割合が圧迫される訳で
その層とは
・低所得層、ではあるが給付や補助を受けていない(受けられない)人達
・低所得層と中間層の中間ぐらい、中間層の下位ぐらいの、給付や補助をそもそも受けられない人達
が、世間のボリュームゾーンのかなりの割合を占めているからだよ
消費税が上がれば上がる程、生活や遊興に使える割合は圧迫されるし、逆に下がれば、その割合は増える訳
消費税が上がった時、スーパーで一品二品買うのを我慢したり、ちょっと外食を減らしたりとかさ、普通やるでしょ?
その「普通の」人達の財布や、体感景気を、思いっきり圧迫してるのが消費税なんだよ
自分は一次創作のとあるジャンルが昔っから好きでイラストを描いている
イラスト歴は長く、自分の描くものに関してはある程度頭打ちというか、こんなもんだろうな、という感じで楽しく描けている(遅筆ではあるが)
自ジャンルは少し特殊(ケモナーです)で界隈が狭くて深い分絵師同士の交流が盛んで、いわゆる「うちよそ」が盛んである。
(※うちよそ→自分のオリキャラを描いてもらったり、人様のオリキャラを描かせてもらうこと)
これが少し面倒で、本当に可愛いなと思うキャラクターは少なく、「どこかで見たことあるなぁ」「あのキャラとあのキャラ掛け合わせたみたいだなぁ」みたいなキャラクターが非常に多い(おそらく自分もそうである)
描いてもらったお礼で人様のオリキャラを描くのが非常にめんどくさい しかも可愛いと思えないキャラクターを
そういう「めんどくさいなぁ」と思うことが増えたタイミングで相互の絵師たちがイベントに出るようになった
自分がジャンルへの入ったのは2次創作がきっかけなので、今も好き作品の同人誌を買うためにイベントに参加もするが、そこの2次創作じゃなくて一次創作の枠で知り合いの絵師が続々とサークル参加をするようになり、義理で本を買わなければいけなくなった
先述の通りそもそもキャラクターにそんなに魅力を感じない作品ばかりでお金を使いたくないのが本音だ
自分が本を出す側ならまだお互いに…となるがその予定はない
そしてさらにめんどくさいのが、相互の絵師のうちの1人が同人イベントではなく都内で合同作品展やポストカードの委託販売をするようになった
自分が都内住みなのは割れているのでフル無視というわけにもいかず、たまに顔を出して買い物をしたりしているが本当に辛いしめんどくさ過ぎる
こんなに面倒なら別に自分のオリキャラを描いてほしいとも思わないし、この義理イベントの発生のせいで他界したくて仕方がないが転生したとて絵柄と描いているキャラクターで身バレする未来が容易に想像できる
母がこの世を去った
ここのところ軽度の病気で体を動かしづらくはなっていたものの、80代半ばにもなりなお要介護の状態になることもなく、しっかり動けて話せる状態からの脳卒中による突然の旅立ちだった
もともとせっかち気味の性格だったし、以前から介護される状態になるのを嫌がっていた(自分は献身的に夫(増田の父)の介護をしたくせに)ので、我が母らしいといえばらしい最期だったのかもしれない
中年のおじさんがこういうことを言うと引かれるかもしれないが、母と自分は仲が良かった。中高生の頃も一緒にスーパーへ買い物に行くのなんか全然平気で楽しかったし、一緒にお菓子もつくった。大学に入り実家を離れてからも電話をすれば長く話していたし、母が何か話したいと思えば兄のところではなく自分のところに連絡が来ていた。うちの妻のこともずいぶん、むしろ自分よりも褒めてくれていて、「嫁ちゃんに迷惑かけたらダメだよ」とよく釘を刺されていた
コロナ禍の入口に50年連れ添った父がガンで他界し、皆が誰とも会えなかったあの時期を彼女は喪失の辛さとともに一人で過ごした。その頃から一気に精神的な老化が進んでいった気がする。活力は削がれ、コロナが落ち着いても出かけることはなくなり、あんなに好きだった本は読まなくなった。電話も大半が愚痴になり、自分はそれを聞くのがつらくて、話す回数も週に3回だったものが、週に1回になり、月に1回になりとみるみる減っていってしまった
もう電話をかけようと思っても、実家を訪ねようと思っても、そこに母はいない
この数日、ふいに涙が出そうになることもあれば、駅までの道で突然うずくまって泣き出したくなることもある。そうすれば楽になるのだろうかとも思うのだけど、残念ながらそんなことができるほどオープンな性格ではない。住職の都合で葬儀までのあいだがえらく空いている今は、平気な顔をして日常を過ごす毎日。必要最低限の人にだけ状況を伝え、それ以外の人とは今までどおりに会話し、仕事をこなし、つまらない冗談を言い合い、なんの慰めにもならない笑顔を浮かべあう
という気持ちとは少し違う気がする。息子としては、母とじゅうぶんに仲良く過ごしたと思う。本を読む楽しさも、文章を書く楽しさも、花を見る楽しさも、菓子をつくる楽しさも、人を思いやるやさしさも、自分はすべて母から学んだ。母は最高の手本だった