
はてなキーワード:人間不信とは
三歳上の旦那とはうまく行ってる。旦那は妊娠、出産、育児について勉強してくれて、家事も手伝ってくれるし労わってくれる。義両親もこれ以上なく素敵な人で、妊娠についてとても喜んでいる。
これ以上なく幸せなのに、大学時代、サークルで対人トラブルにあったことを思い出す。一つ上の学年の同性の先輩にキツくあたられ、周りに助けを求めたが効果がなく、四面楚歌で孤立してサークルを抜けた。誰も助けてくれない状況が辛かった。同じサークルで付き合う寸前だった人にも裏切られて人間不信になった。
もう何年も前で、幸いサークル以外の人間関係には恵まれてたので立ち直れてたはずだった。しかし、ここ1ヶ月こればっかり思い出して辛くなる。妊娠によるホルモンバランスの影響か。誰に相談すればいいのかわからない。
まず予防線を張らせてもらう
あまりにも情けない話なので友人知人にはとても話せないし、かといって医者にわざわざ話すような内容でもない
更にはネットにはありふれてて面白くもなんともないただの自称弱者のなんのヤマもオチもない身の上話にすぎない
でもどっかで吐き出したい。まとまってすらいない。ただそれだけの記事
まぁポエムみたいなもんだと思ってくれ
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俺はアラサーで童貞というネットには掃いて捨てるほどいるごく普通のいわゆるキモオタである
10歳ぐらいの頃に同学年ほぼ全員と上下1学年の約半数以上から汚物扱いを受け見事に社会不適合者になった
1クラス約30人で1学年2クラスだったから、だいたい100人強ぐらいには嫌われてた計算になる。まぁ数字はどうでもいい
きっかけは自覚のある範囲だとやや太り気味で運動が苦手だったとかその辺だろうと思われる
例によって自覚のない何かもあっただろうが、当時の絵に書いたようないじめっ子連中とは当然もうつながりは無いので確認のしようはない
最初こそただの爪弾き者くらいの扱いだったのが、俺がロクに抵抗しなかったばかりにどんどん風潮は大きくなっていき、
最終的にはあまりの嫌われっぷりにイジメらしいイジメすら起きなかった
誰も俺には近づきたがらないし俺の使っている机や道具類も等しく汚物扱いだったので、イタズラに触ろうとする人間なんかまずいなかった
無論そんな環境で心地よく過ごせるはずもなく、教師や親に相談したこともあったが、返ってくるのは決まって「考えすぎ」の一言
そんなわけ無いだろという気持ちもありつつ、特に跳ねっ返りでもなかった俺は割と素直にその言葉を飲み込んでしまった
結果できあがったのは「俺が辛い思いをしているのは自分の考えすぎ=自分のせい」である
加えてクラスの人畜無害枠だと思っていた子からもやんわりと拒絶されたことで完全に自分自身を含めた人間不信に陥る
一挙一動、身動ぎ一つですら何を言われるか分かったものではない状況を乗り越えるために身につけたのは、
休み時間は動作を最低限にできる読書に費やし、やむを得ず移動等が必要になった時は可能な限りこちらから距離を取る
相手に嫌な顔をされるのは俺も嫌だったし、徹底的に嫌われ者としての義務を果たした
最終的に不登校に行き着き、数ヶ月の後説得に負けて登校したらなんかみんな大人しくなってた。学級会でもあったんだろう
それ以降は大学に至るまでそんな扱いを受けることは無かったが、俺の対人関係の価値観は完全に歪みきっていてまともに友人も作れなかった
唯一小学校の頃から気にかけていてくれたやつはいたが、普通に友達も多いやつだったので自然と疎遠になった
そいつは気づけばLINEのアイコンで赤子を抱いていたのでまぁ、そういうことだ
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今ではだいぶマシになったけどそれでも根本的に自分が信じられなくて、そのせいで人も信じられないクズであることは変わらず
特に当時比較的イジワル路線だった男性陣よりも、心の底から嫌悪感をあらわにしてきた女性陣に対する距離感というのは完全に壊れている
いくら歪んでいるとはいえ俺も一応ヘテロ男性ではあるので、女性を好む気持ち自体は普通にある
ただし俺の中にある異性とのコミュニケーションの最適解が「そもそも関わろうとしない」になってしまっている
他人にとって俺と関わることは不幸であるという価値観がどうしても抜けず、本当にその人のことが好きなら好きになってはいけないみたいな訳の分からん事になってる
理屈としてそんなコミュニケーションはおかしいと理解はしているが、あのとき向けられた憎悪にも近い嫌悪の感情がこびりついて離れない
一度嫌われ者になると挽回は非常に困難で、そんな状況では自発的な行動は逆効果であると感覚的に学習してしまっていることから、基本的には相手方から仲良くしようと歩み寄ってくれるのを待つことしかできない
だというのにせっかく褒められたりしても素直に信じられず、自分から距離を取るような真似をしてしまう
挙げ句に完全に擦り切れた自尊心故に自己顕示欲も強い。本当に救いようのない人格である
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だが、一時期から自分自身ではなく自分の作り出したものを間接的に評価してもらうのは割と素直に受け入れられる事に気づいた
幸いインターネット環境はありデジタルにも強い方だったので、文字なり絵なり、パソコンでできる創作は色々試した
結果、趣味同士のコミュニティになんとなく加わることに成功した
ネットには俺みたいなはぐれものが多くいたし、特に親しくならずともふわっとした関係でいられたので大変居心地が良かった
その辺を駆使し続けてなんとか15年くらい自我を維持してきた結果、この数年で急に親しい友人が増えた
幸か不幸か、嫌な人間を見る機会は大変多くあったためそれらを反面教師にすることで、表面上は割とまともな人間に見えるようになっていたらしい
とてもありがたく嬉しいことなのだが、まともに人間関係を築いてこなかったために考えたり覚えたりすることがものすごく多くけっこう大変だった
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そして交友関係が増えると自然に目に入るようになるのが色恋沙汰である
つい最近まで上記のような人生を送ってきたために、自分はもちろん他人事ですらその様な事象とはほぼ無縁だったが、じわじわと俺の認識に入りこんできた
そのあたりはとうに諦めたつもりでいたのだが、そもそも現実の出来事と認識できていなかっただけのようで、急に焦りのようなものが出てきた
挙げ句、割と付き合いの長かったやつがいつの間にか同棲を始めていたなどのイベントも重なり、いよいよ自分の化けの皮が剥がれ始める
これまた幸か不幸か、ちょうどなんとなく関係の良い異性が一人いた。焦りもあって生まれて初めての告白をしたところ、通ってしまった
かつての汚物扱いをそのまま引きずっていた俺は、この期に及んで人間に戻れる可能性を見出してしまったのである
まぁその後のことはなんとなくお察しの通り、こんな状態からいきなり異性とまともに関われるはずもなく
自分を好いてくれる人間などいるはずがないという強迫観念に打ち勝つことができなかった
逆に、自分が誰かを好きだと思う気持ちへの疑いすら拭いきれなかった。自分から告っておいてあまりに失礼である
それまで思い込みの側面が強かった自分の不出来さを、実例をもって実感と成した。ある意味では収穫だった
そんな誰にでもあるようなイベントを、三十路になってようやく初体験することになった
これをまだ可能性があると見るか、最初で最後のチャンスをフイにしたと見るか、その辺りはまだ咀嚼できていない
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これだけ恵まれているというのに心の自傷行為をやめられないのも結構つらい
いかなる希望も絶望の種にしかならないと、浮かれかけた心を自分で痛めつけてどん底に沈んでいく行為なのだが、これが妙に心地よくてならない
ここ10年ほどは鳴りを潜めていた悪癖なのだが、また出てきてしまった
ともかく、人間には戻れなかった
この様なことを言うのは仲良くしてくれている人たちに物凄く失礼なのだと頭では理解しているが、それでもこういう物言いをしないと心が耐えられない
もし俺が本当に人間なのだとしたら、この不出来さを説明できない。ありえないことだと
人間になりそこなった何かなのであればまぁ、はじめから社会から外れたところに居ると思えるからまだマシ
結局のところは努力も何もかも足りていないのだろう。全くしていない訳では無いが、客観的にはそういう結論になると思う
だが幾度となく努力に裏切られてきた経験が、あの頃からボロボロのままのメンタルに重くのしかかってくる
それも考え方の問題なんだろうが、俺の一番の問題はその考え方の部分がなんかおかしくなっちゃってるところなので困っている
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ここまで書いてちょっと冷静になれた
医者にわざわざ話すような内容でもないとか言ったけど、これはもしかしたら話していい案件かもしれないな
お目汚し失礼しました
俺のことは忘れてくれ
10年以上の希死念慮が生活改善で治ったから書くね。増田はある面では正しいと思う。
私は精神科にも通っていて適応障害、鬱、躁鬱、自閉スペクトラム症の診断をもらったよ。
寝起きから涙がポロポロ出て毎日吐いて時々叫ぶ程度の症状だよ。
三日間何も食べなかったこともあるよ。そして食べてないと栄養を吸収するための栄養がない状態になるんだよ。
心が病気で栄養失調状態だとお腹も空かないんだよね。食事をして良い身分だと感じられないし。
実家では賞味期限切れの肉や数日間常温で放置されてる汁物や何日も冷蔵庫にあるものを食べてよくお腹を壊してたよ。子供の頃からそれが普通だったから食べてるのに体調は悪いしどうすれば良いのか分からなかった。それに家族はそれでも平気だった。
どうやって治ったかだけど実家を出て1人暮らしをし始めたからだよ。
自閉スペクトラム症の特性のおかげか正しい食事をしたいと思って、栄養価の高いものを取ったり、タンパク質野菜主食乳酸菌を意識してバランスをの良い食事をとる様に努めたり。調味料に拘ったりもしたよ。自分に合う食事ができるようになるまで数年掛の長い長い過程だから詳細は省くね。
血糖値と貧血が改善されるほどよく寝れる様になって自然と運動もできる様になったよ。いくら横になっていても疲れていてつらい状態から長時間じっとしている方がつらいに変わったよ。でも最中抗うつ剤は飲んでいたよ。薬がなければパニックを起こしてうっかり死んじゃったかもしれない。
病気の真っ最中はみんな敵だと感じてたけど今はそれも消えて精神が安定してるってこういう事かって実感してるよ。
栄養が足りてない間は攻撃的だったり疑心暗鬼で人間不信になってしまってたんだけど、これって動物として普通なんだと思う。今の日本では滅多に起こり得ないけどこのまま飢えて死んじゃうより競争相手を蹴落として獲物を獲得した方がいいって体と脳が変わっちゃうんだよ。
まとまらないけど増田を叩くコメントが多かったけどそんな事ないって言いたくて書いた。高知能ASDとは違うから文章が下手でごめんね。
成人男性同士が同性愛してる作品の何がそんなに許されないんでしょうか?
濡れ場がアウトならハリウッド映画の輸入も、古い邦画の販売も禁止したらいいんじゃないですか?
ハハハハ2020年代にもなってニュー・シネマ・パラダイスみたいな話になっちゃいましたね流石に議論のレベルが低すぎますよ。
私としては、「苺ましまろ」や「私に天使が舞い降りた!」のような幼女の日常を盗撮して性的に消費しようとするコンテンツがゾーニングされずに売ってることの方が遥かに有害だと思いますよ。
アレを見た子供が人間不信に陥ったらどうするべきなんでしょうね。
もちろん「変態に誘拐や盗撮されないように気をつけて」と教える必要はありますが、その先にある性的消費の実態についてまで彼女ちに知らせる必要はないでしょう。
@1
木古おうみさんは普通に女だし、おうみさんとされてる容姿の可愛い人は多分彼女じゃなくて彼女の友人のことなので、インターネットって面白いな〜と思っています— しの (@pop_sino2)July 26, 2025
@1
木古おうみさんにリア垢突然ブロ解されてめちゃくちゃにウケてます 今回の件で人間不信になっちゃったのかな?でも仕事減るどころか逆に仕事増えてるらしいので(昨日リア垢でツイートしてた)、よかったんじゃないですか?— しの (@pop_sino2)July 26, 2025
https://anond.hatelabo.jp/20250727101204
当人は自分がヤンチャしてた時の行為を謝罪して回ったりしたんだろうか?
みたいなことが気になって、全然同情できなかった
ガキが今なんて比較にならんほど調子に乗ってた頃で、社会問題化してる
輩がいれば学校でまともに授業ができず、先生は暴力に見舞われ辞める人がたくさんいて
学校内で授業中にモデルガンが乱射され、教室内でサッカーして蛍光灯や窓ガラスが割れ
しかし、教師からは暴力という抑止手段が剥奪されていった、そういう時代
他人に便所や水槽の水飲ませたり、金を巻き上げるのが、取り立てて珍しいことではなかった時代
こういう【ヤカラ】のせいで、人間不信や自信喪失のため一生を棒に振った人が数え切れないほど沢山いるはずだ
変な話、万引き犯にも人権は有るし、痴漢犯罪者なら殺人の冤罪を被せてもオーケーとはならんだろうが
痴漢してるやつが、殺人犯にされて、人を信じられなくなりました、みたいなこと言ってるような不快感
絶対に自分の贖罪をしないくせに、自分らの不幸を嘆いて見せるような
そんな不快感
国籍上は日本人だと認識しているが、一定の理性を感じられないと「あっち側の民族か」と感じるようになった。
基本的な前提となる価値観が異なる場合が多い。性格が悪いとか他人に迷惑をかけることを気にしないというレベルではなく、民族が違うんだなという感覚。
自分の中ではこの民族は、韓国人や中国人、アメリカ人やイギリス人、インド人やベトナム人や台湾人などよりも遠い存在だと感じている。
これは右翼左翼などではなく、右翼左翼はどちら側にも存在する。それらの右翼左翼は、自分たちの民族の中で右翼か左翼かを話している印象だ。
まだグラデーション化はされておらず、うまく分類することができていない。
ただし反ワクチンや陰謀論に染まる人間は「あっち側」に分類される。対話をしようとも考え方を知ろうとも思えない。そもそもまともな会話ができない。
自己中心的な人間は、単に自己中心的だからといってあっち側には分類されない。自己中心的なことを言っているのに、それを恥とも自己中心的だとも思わず当然のことだと主張し、赤の他人が自分に献身すべきということを心底信じているようなときに「あっち側の民族」と考えている。
俺が言いたいのは「あいつらは日本人ではない」ということではなく、「同じような日本人」という意識がなくなってしまったということ。「何か別の日本人」という感覚で、昔自分が思い描いていた「日本人」という所属は「こっち側の民族」という感覚になっている。
ほとんどの人は、中国の農村部で嵐が起きて人がたくさん亡くなっても、日本で起きたときと同等にはあまり可哀想だとは思わないだろう。俺はそれが日本人の中で起きている。
「あっち側の民族」とは、リアルで接触することは一切無くなっている。ネットでもフィルタリングをしていると稀にしか見かけなくなる。
フィルタリングの向こう側で「あっち側の民族」が暮らしているというように考えている。
最近では「あっち側の民族」の言っている話がだんだんわからなくなってきた。というのも、あっち側の話を見ても大して共感できないからだ。自分の生活実態や不満に思っている点と違いすぎ、彼らは謎の敵とずっと戦っているように見えている。
「あっち側の民族」に共通して見られるのは、極度の人間不信かもしれない。敵ではない人間ですらも敵認定することで、結果的に敵を増やしているように見受けられる。
「他人は敵だ」という意識で「あっち側の民族」はまとまっているように見える。
こうした分断意識を全体が持つと良くないとは思うが、個人の人生観の中では楽で便利なのでこの頃は多用するようになった。「こっち側の民族ではないんだな」と思えば腹も立たないし、そういうこともあるのだろうと事実も受け入れやすい。半ば諦めのようなところもあるが。
オタクのボリューム層が着々と高齢化してきてるが、コイツらは健康寿命が短い上に独身だからいつ施設送りになってもおかしくない。
厄介なのは脳みそが元気なうちに脳に正しい情報を入れないといけないってことだ。
人間の脳みそが劣化する速度や順序は個体差があるから、認知症になってないけどちょっと難しい話は理解できなくなる状態に陥ってる奴らも少なくないだろう。
ま、つまる所は主人公の最大スペックが全然ショボイアルジャーノンみたいな話になりつつあるんだな。
孤独死、人間不信、統合失調、カルト依存など様々なリスクを考慮すると、今すぐにでも「正しい終活(≠メンヘラの自殺ごっこの一部)」を始めないとヤバいのではないか?
だがオタク共はプライドが高い上に自分の頭や性格が悪いとは意地でも認めないから、自分に都合の悪い話を聞く時の認知能力が大きく低下する。
だが、奴らは美少女に語りかけられれば勝手に頷き始めるわけだ。
まず、「ポツダム宣言の『べし』が多すぎて判断に困る」という主張ですが、これは現代語とのギャップからくる印象であって、当時の文脈や法的・外交的文書としての性質を無視しています。ポツダム宣言は1945年、つまりまだ文語体が公文書の中で一般的だった時代のものであり、「べし」は当時の文書として極めて標準的な語法です。「べし」が多い=読みづらいというのは、単に読解者側の近代文語への知識不足を示しているにすぎません。
次に「古文の助詞が使われていて今は使われない用法がある」という点についても、逆に言えば、当時のスタイルや語彙に即した正確な翻訳や解釈を行えばいいだけの話です。現代人が誤解しやすいからといって、それをもって「すれ違い通信多そう」と評価するのは、文書の性質や目的、さらには相手国(日本)に与える法的拘束力を考慮していない短絡的な批判です。
また「AI君なら人間より正確に答えるだろう」との発言も、皮肉に見せかけた人間不信にすぎません。AIの正確な回答も、訓練データとして過去の人間による文法解釈や用例分析がベースになっています。つまり、当時の知識人や翻訳者たちは、きちんとその使い分けを理解し、運用していたからこそ今もその精度の高い分析ができるのです。
最後に言っておきますが、「すれ違い通信多そう」などという軽薄なたとえを外交文書に持ち出すこと自体、ポツダム宣言という歴史的に極めて重要な文書へのリスペクトを欠いています。文語体に対する理解と敬意のなさが、あなたの読解困難を引き起こしているのではないでしょうか。
えーっと…ふむふむ。カラオケの投稿サイトで人気だったけど、まぁ、自作自演とかで炎上しちゃった、お友達がいたと…。で、その子は、自分は才能があって、嫉妬で潰されたって本気で信じてたと…。スゥゥゥ…。なるほどねぇ…。
でもねぇ、なんかぁ、この部分、すごく分かりますよぉ。
「自信が無いからこそ、嘘で理想を塗り固めていた」「本人にとっては『本当のこと』だった」ってとこ。
実は、僕もねぇ、似たような経験、あるんですよぉ。
いや、彼女とかじゃないんですけどもぉ。僕にそんな経験ないんで。残念ながら。
あのねぇ、一時期、めちゃくちゃ応援してる、女性のVTuberさんがいたんですよぉ。
まぁ、今もこっそり見てますけどもぉ。
毎日のように配信見て、お小遣いからスパチャ投げてね。そしたら、そのうち名前も覚えてくれて、『〇〇(僕の名前)さん、いつもありがとう!大好きだよ〜!』なんて、配信で言ってくれるんですよ。
スゥゥゥ…もう、これは、両想いかなって。思いますよねぇ?普通。
いつかオフ会とかあったら、告白しようかなぁなんて、本気で思ってましたからね、僕。
でも、ある日ぃ、その子が別の男のVTuberと楽しそうにコラボしてるのを見ちゃったんですよ。
ほんで〜、その配信でも、視聴者に向かって『みんな大好きだよ〜!』って言ってたんですねぇ…。
スゥゥゥ…。
その時、気づいちゃったんですよ。
あ、俺に言ってた『大好き』は、嘘だったんだなって。
ビジネス『大好き』だったんだなって。
俺だけに言ってくれてるんじゃなくて、スパチャくれる人みんなに言ってたんだ…って。
いや、みんなに言ってるってのは、頭では分かってましたけどぉ、でも、僕に言うときは、なんか、特別な意味がこもってるって…信じてたんで…。
いやー、あれはショックでしたねぇ…。もう、人間不信になりますよ、ほんと。
だから、このコメント書いた人が、その、お友達と縁を切ったって気持ち、分かりますよぉ。信じてたのに、裏切られたんですもんねぇ。
…まぁ、寂しくなって、3日後くらいにまた投げちゃいましたけどぉ。えへへ。
スゥゥゥ…はぁ。
ビジネス『大好き』じゃなくて、ほんとの『大好き』を言ってくれる彼女がほしいなぁ…。
まぁ、僕なんかが言っても、気持ち悪いだけですかねぇ。はい。残念ながら。
※終盤で明かされましたが、主人公のシドにはあらゆる嘘を一瞬で見抜いてしまうために嘘ばかりつく人間たちにうんざりしていたという過去がありました。そんなときに助手に応募してきたエリオ。シドは男装していることを一目で見抜きましたが、ひたむきに自分を慕ってくるエリオの姿を見て、この子のことは何があっても信じようと思い(=男という嘘も自分自身に本当だと信じ込ませた)、人間不信になっていたところを救われたという設定がありました。
なんで男装に気付かねえんだよと突っ込んで早々に読まなくなったけどなるほどそういう理由があったのか
とは別になんねえななんだそれ
先日増田でこのような日記を書きました。この中で私は筒井先生の新連載であった『シド・クラフトの最終推理』を「きっと長期連載になるのでしょう」と書きましたが、残念なことに今週発売したジャンプで27話で打ち切りになってしまいました。
掲載順も早々に最下位を取るなど良くありませんでしたし、単行本売上もギャグ漫画のロボコより下(追記:単行本が売れづらいギャグ漫画でそれなりに売れているロボコはすごいですが、一方でギャグ漫画以外でロボコより売れないと長期連載は難しいかと思います)でしたのでいずれそうなるだろうとは思っていましたが想像より早かったです。
前の増田のブコメで「よし、打ち切られるか長期連載になるか俺と勝負だ。」と勝負を仕掛けられていましたので私が勝負に負けてしまった形になります。
そのため負けた責任としてなぜ私は長期連載になると思っていたのか、にも関わらずなぜ打ち切られてしまったのかを自分なりに整理して書き留めます。
結論から言えば私が筒井先生のファンであるという軛から逃れられていなかったのが根本的な理由だと感じました。元々増田のようにファンを辞めていたつもりだったのですが、そのようにはなれていなかったようでした。
以下に私なりに整理した内容を書いていきますが、ネタバレがありますので注意してください。
主人公のシド・クラフトは些細な異変に気付ける洞察力と、犯人を物理的に制圧する実力を持ち合わせた名探偵でありながら、一方で女性にモテたいと思いながらも全然モテず、更に好きになった相手がことごとく犯罪者であるという不幸の星の下に生まれた人物です。
ジャンプで成人男性が主人公になること自体は昔からこち亀やぬ~べ~や銀魂など人気作品がありますし、今もSAKAMOTODAYSが看板級の人気を博していますのでよくあることです。
ですから成人男性であるというのはさほどのマイナスではありません。では何がダメと感じたかというと小~高校生の男子の憧れの対象になっていないように感じました。
先に上げた主人公は普段はスケベだったりだらしなかったりしています。
ただいざというときには他の誰にもできない方法で犯人を捕まえたり生徒を救ったり敵を倒したりする。普段はだらしないけどいざというときに活躍する。そういう姿に少年たちは大人の格好良さを感じるわけじゃないですか。昼行灯が活躍するというのはこの格好良さの定番の一つで、先に上げた主人公たちもそのフォーマットに則っています。
シドの場合は逆で、普段は名探偵らしく推理も格闘もこなしますが、いざ恋愛になるとヒロイン(エリオ)の男装に気づかなかったり※、女性にちょっと触れたくらいでひゃあーー!?とか叫んだり胸が当たったくらいで気絶したりしてしまいます。
※終盤で明かされましたが、主人公のシドにはあらゆる嘘を一瞬で見抜いてしまうために嘘ばかりつく人間たちにうんざりしていたという過去がありました。そんなときに助手に応募してきたエリオ。シドは男装していることを一目で見抜きましたが、ひたむきに自分を慕ってくるエリオの姿を見て、この子のことは何があっても信じようと思い(=男という嘘も自分自身に本当だと信じ込ませた)、人間不信になっていたところを救われたという設定がありました。
要するに普段はカッコいいのにいざというときにはヘタれてしまいます。これは憧れというより、応援したくなる、共感できる主人公のムーブのように感じます。
一方で文武両道完璧なイケメン主人公なのに恋愛で上手くいかないというのは中々思春期の男には想像しづらく、応援や共感したいという気持ちで好感を持たせるムーブの主人公なのに、応援や共感できる設定ではないのかなと。
そういう意味で主人公が成人男性なのに憧れられない、かといって応援したいとも思われないのは主人公の造形が失敗しているのかなと感じました。
終盤のシリアス展開ではカッコよかったので早いうちからこういう姿も見たかったです。
後は成人男性がちょっとエロいシチュになったくらいでひゃあー!?だのはわー!?だの可愛いデフォルメ顔で叫んでるの結構キツかったです。大人だろ。
今作ではメインヒロイン3人中2人、それも1話に出た2人が男っぽい服装や男装というスタイルでした。
だいぶ挑戦的だなと思いましたが、個人的には筒井先生の絵なら十分行けると思っていました。
露出が少なくても筒井先生は可愛い女の子が描けますし、1話時点では出ていませんでしたが途中から真冬とそっくりのルルが3人目のヒロインとして出てきましたので、十分カバーできると思っていたのですが、結果的にはいわゆるヒロイン像からズラしすぎてしまったのかなと思います。
本作はラブコメミステリと名乗っているとおり、ミステリ要素があります。
ただあくまでラブコメがメイン、ミステリはサブなのでトリックはほぼなく1話完結。その話の中でこういうコマやセリフがあるから犯人はこの人という程度のものです。
つまり金田一やコナンのような推理要素はあまりなく、漫画に書いてある描写をシドが語って解決するという、小学校低学年向けのミステリ的な感じです。
これは個人的にはプラス要素で、筒井先生といえばラブコメですからミステリがその邪魔にならないからいいと思っていました。
ただレビューを見るとミステリ要素を期待していた読者もいたようで、そういった方からは低評価のようでした。確かにキャラクターと一緒に事件を追っている感じはしなかったです。
結果的には推理を入れるなどしてミステリ要素を強めたほうが良かったのかもしれません。
もっとも、大謎としてゼロクラフトという悪役の正体がヒロインの一人だったという展開がありましたので、筒井先生のラブコメがウケてミステリも続けられればミステリ好きも満足できたのではないかと思うと残念です。
ただ曲がりなりにも推理ものなのに、記憶も行動も操作可能な催眠ができる黒幕がいるというのが真相の核にあるのは白けました。
これは簡単に言うとヒロインが可愛くないコマがあるということですね。ぼく勉では筒井先生の描かれる美少女のイデアを確かに掴んでいたと思うのですが、それがシド推では失われてしまったように感じました。
可愛くないコマくらいいくらでもあるだろうと思われるかもしれませんが、ぼく勉連載時にはどのヒロインも1コマたりとも可愛くないなと感じたことはありませんでした。元ファンとして断言します。それなのにシド推はたった20話ちょっとなのにいくつかそういうコマがありました。
これはキャラデザによるものではありません。現にシド推一巻発売時に掲載されたぼく勉特別編の真冬とうるかにもそういうコマがありました。
筒井先生の作画環境が変わってしまった結果なのか、単に絵柄の変化によるものなのか私にはわかりませんが、筒井先生はヒロインの可愛さが一番の武器だったと思うので、それを逃してしまったのは大きなマイナスだったと思います。
連載中
https://i.imgur.com/S55ocgs.png https://i.imgur.com/G1SqOqv.png ぼくたちは勉強ができない問37 ぼくたちは勉強ができない問184 より
特別編
https://i.imgur.com/Nu8hgiY.png https://i.imgur.com/zLxhB31.png ぼくたちは勉強ができない特別編 より
ぼく勉の中でうるかが成幸にずっと見ててねと言っているエピソードがありましたが、シド推でもシドが見ていてくれたとかいうエピソードがありました。
また真冬と成幸で疑似親子のエピソードがありましたが、それもシド推で、見た目が真冬先生と同じようなルルとシドでやっていました。
もちろん同じ話ではないのですが、前作を読んでいれば思い起こすことは当然にする展開でした。
個人的にはそのエピソードはぼくたちは勉強ができないという作品の成幸とうるか、成幸と真冬が経験したエピソードなので、同じ作者とはいえそれを違うキャラクターがやるのは見ていて相当違和感がありました。
もちろん逆に嬉しい人もいるかと思いますが、他にも前作ヒロインが絵画にいるとか孤児院の子どもが前作に出てきた子どもであるとか、ファンが喜びそうな反面、見飽きてしまったり新規さんお断りであったりと感じられてしまうことはあるかなと思いました。
またぼく勉と似た設定として、主人公のシドは実は探偵をやめて静かに暮らしたいと思っています。シドだけではなくヒロインの3人にも軽重はありますが本当はやめたい(やりたい)けど我慢していることがあります。
最終的にはやりたくないことをやめてやりたいことをやろうという結論に達するわけですが、ぼく勉は開始前からヒロインはその結論に達していて、そのために努力しようというところから始まっているので、ぼく勉のときより年齢設定が上がっているのに精神面では後退しているのは個人的には非常に引っかかりました。
今作のヒロインの一人であり怪盗でもあるルルには、悪人からしか盗まないという設定があります。にも関わらず彼女の初登場回のエピソードは彼女が狙った美術館の美術品を主人公が守って終わりという展開でしたので、主人公は悪人を守ったことになり、それでいいのかという疑問が残ってしまいます。そもそも普通に展示されている美術品を盗むわけなので、美術館のどこがどう悪人なのかわかりません。
他にも昔主人公がヒロインの冤罪を晴らしたときの年齢が青年から子供に急に変わったり、催眠術を術者の声真似をして無効化できるようになったのに声真似をするキャラがなぜかその場所をすぐ離れたり、細部にこだわりがあまり感じられない印象でした。
前作でもシチュエーション重視の強引な設定はありましたが現代の日本なので読者がなんとなく補完できていたけれど、近代のロンドンは読者が補完できないので違和感が大きくなってしまうのかなと感じました。
ラブコメミステリですけど普通に人が死ぬんですよね。その横できゃあああ師匠さすがっすー!!!みたいなことされてもテンションがついていけないところがありました。
コナンと比較されることもありますが、コナンは時代を経て殺人事件がある種メタツッコミされるような定番化した後にやり始めたのであって、序盤からそれ以上のノリで軽く扱われるものとは少し事情が違うのかなと思います。それにコナンには黒の組織を潰して新一に戻らないと蘭とまともに恋愛できないという感じでミステリと恋愛に繋がりがありますが、シド推は特にそういうのないんですよね。
ラブコメとの相乗効果がないタイプのミステリだったので、そういった点でも殺伐としすぎる事件が多かったと感じました。
一話目を読んだ印象ではモテたいというのが目的だと思っていたのですが、モテたいという動機は早々になくなってしまいました。探偵として積極的に活躍するというモチベーションも特にありません。
途中でゼロクラフトというシドを狙う悪役が現れましたが、シドが積極的に捕まえようと動くわけでもなく襲ってくるのを迎え撃つというだけでした。
その少し後、中盤から終盤くらいにようやく探偵をやめて穏やかに暮らしたいという夢があること明かされました。
このように主人公のやりたいことや目的がはっきりしないので、嫌々ながら探偵をやっている主人公に美女三人が集まって事件を解決するだけみたいな話になっていました。
ハーレム系ラブコメって意外と恋愛だけやるのは少ないです。ニセコイは約束の女の子を探す目的がありましたし、いちご100%も映画を作る目標がありました。
そういうフォーマットとは違って恋愛だけが主題で、事件には受け身で巻き込まれるだけという形になってしまっていたので、その意味でも分かりづらかったのかなと思います。
マイナス面は上記が主なものかなと思います。一部は1話から察することができるものではありましたが、それでも私は長期連載になるだろうと感じていました。
理由としてはまず筒井先生の絵が素晴らしかったことですね。キャラデザのマイナスは正直に言えばあったと思いますが、それでもしっかり可愛かったですし、他の連載陣と比べても十分上位に入る上手さだと思います。
また筒井先生の一番の武器はヒロインの豊かな感情を表現した顔が描けることだと思いますが、これは連載陣の中でも一番だと思っています。ラブコメではこれが何より強みになると思っていましたので、多少のハンデがあったところで他のライバルたちに負けないだろうと思っていました。
他にはとにかく読みやすいことですね。読んでいて何がどうなっているのか読みづらい、どう時間が流れているのかわからない、なんとなく読んでいて違和感がある。そういったことが一切ありません。
わかりやすく読みやすいようにデザインされていて、そのせいで無茶な設定でもなんとなく読み飛ばせてしまうという欠点もありますが、とにかく読みやすいということは読まれやすいということで、広く読者をカバーする必要がある中では強い武器だと思っていました。
私は元々筒井先生が好きでしたから、前作からこのような要素が保たれていたので長期連載になるだろうと思っていました。
結果的にはこれらの要素を過大評価していたために予想を外してしまっていたのだと思います。
私は筒井先生のファンであるという軛から逃れられてはいなかったのだなと、このような結果が出て初めて実感しました。
最後に最終回についてです。筒井先生の良いところと悪いところがふんだんに詰まっていて、まさに筒井先生の面目躍如だなという回でした。(個人的にはお世辞抜きで面白い最終回だったなとは思っています。)
簡単に流れを書くと、シドがスフレに君が好きだ、探偵を辞めるから2人で静かに暮らそうと告白するも、他の2人のヒロインやその他のキャラたちがたくさん出てきてなんとなくうやむやになり、最後は探偵の本能に導かれてまだ探偵を続けることになるという最終回でした。
まずは印象的な見開きの使い方ですね。ジャンプラ読者に配慮したのかシド推は見開きが少なかったように思いますが、筒井先生のここぞというシーンでの見開きの使い方は非常に巧みで、スフレに告白するシーンでのカメラを引いた見開きは素晴らしかったです。
他にも告白前後のシドやスフレのキャラクターの表情の繊細さや、告白してからの全キャラ総出のドタバタギャグなど、ライトで明るい描写も非常に楽しかったです。
決めシーンでの繊細な感情描写、ライトなシーンでの明るく軽い描写、どちらも高レベルでこなせる筒井先生の面目躍如だったと思います。
端的に言うとキャラクターの心情を全く顧みないことですね。
まずスフレに探偵を辞めると言って告白したことですが、この数話前に男装していた自分の助手であるエリオに対して、男も女もどうでもいい、キミにそばにいてほしいんだって言っているんですよね。
このセリフを言ってから作中時間で数日しか経っていないのに探偵を辞めるとか言い出すのさすがに薄情すぎると思います。
また告白した後のなんとなくうやむやの部分ですが、色々あってエリオもルルも自分がシドの好きな相手だと思い込んでるんですよね。
完全に振られてる女に自分が選ばれたと思わせて糠喜びさせてるんですよ。
普通に振られるよりよほど残酷でグロいなと思いますが、この辺りに筒井先生のなんとなくそれっぽい雰囲気にすることを優先して先のことを考えないところ、キャラクターのことや言動の整合性を考えていないところが詰まっていて、本当に筒井先生だなと思いました。
総じていうと打ち切りが決まったであろう後半、シリアスが入ってからは面白かったです。逆にそれまではぼく勉の焼き直し感が強く退屈でした。
キャラの強さがぼく勉と比べて大きく違った点だと感じました。逆に言えばこのキャラが好きな人には打ち切りは納得いかないだろうなと思います。
・ラブコメ ぼく勉よりつまらない上に同じノリなので見飽きている。
・キャラクター ぼく勉と比べて魅力がない。
こういった点が打ち切りになってしまった原因なのかなと思います。
筒井先生が今後どのような分野でご活躍なされるかはわかりませんが、良い点も悪い点も変わってなかったので、あえて言えば絵は多少悪化していると思いますが、きっとどこかでご活躍なされるのだろうなと思います。
ただまあこれもファン目線かもしれないですね。
明らかに違う部分は取り消し線入れとく
ニャアンの行動は、彼女が抱える「生き残ること」と「居場所を得ること」という根源的な望みから来ています。彼女は、戦いを「好き」でしているわけではありません。
ニャアンは、マチュやシュウジのように、ガンダムに乗ることや戦いに「キラキラした気持ち」を抱いていません。むしろ、最初は嫌々、マチュが捕らわれた状況で仕方なくクラバに出ました。
しかし、マチュとシュウジがクラバで稼ぐ中で、難民で経済的余裕のない自分だけが「貢献できていない」「分かってない側」だと感じ、二人に並び立ちたい、貢献したいという強い劣等感や焦燥感がありました。
二人が稼いだお金で地球旅行に行くことへの申し訳なさや、彼らが共有する「キラキラ」を理解できないことへの寂しさも、彼女を突き動かす要因でした。
ガンダム(クラバ)に乗り、マチュ不在の穴を埋め、賞金を稼いだニャアンは、これで二人に認められると思ったはずです。
しかし、マチュから「そこは私の場所なのに」と怒られたことは、ニャアンにとって「居場所を奪うな」と言われたに等しく、まさに地雷でした。
ニャアンは「居場所が欲しい難民」という切実な状況。それに対し、マチュは学校や家庭に居場所があり、さらに「足りないもの(高次元の満たされなさ)」を求めている立場です。この根本的な状況の違いが、ニャアンにとってマチュの言葉が「贅沢な悩み」と映り、理解できない怒りになったと考えられます。
マチュに怒られ、シュウジを盾にしてしまった自己嫌悪に陥る中で、ニャアンはマチュに助けを求められない状態になります。
そこで、シュウジが「普段のニャアンも、ワケワカのニャアンも、両方」肯定してくれ、ジークアクスに拒絶された時に抱き留めてくれたことで、ニャアンはシュウジにしがみつくことを許されたと感じます。
これは、家族を失い、いつ居場所を失うか分からない不安の中で生きてきたニャアンにとって、初めてできた友人である二人のうち、自分を無条件に受け入れてくれたシュウジへの、親へのような深い依存心や安心感が、「好き」という感情に繋がったと考えられます。
シュウジに依存し、彼が目の前から消失したことで、ニャアンは再び「居場所も繋がりも失った空っぽ」の状態になります。
この孤独と不安に付け込むように、キシリアが手を差し伸べます。
キシリアは、ニャアンが求めていた「居場所」と「人間関係」を物理的・精神的に与え、手作りの料理を振る舞ったり、髪をとかしたりといった行為を通じて、ニャアンを徹底的に「グルーミング」(依存関係の構築)していきます。
これは、ニャアンの「しがみつきたい」という切実な欲求と、キシリアの「人間不信で不安な人間を抱え込みたい」という心理が最悪の形で噛み合ってしまった結果と言えるでしょう。
キシリアは、マ・クベを軽んじてシャアを優遇したり、エグザベより後輩のニャアンを個人的な感情で特別扱いしたりします。
このような上司の寵愛は、現場の指揮官であるエグザベへの敬意を失わせ、ニャアンが組織内で浮き、結果的にキシリアへの依存度をさらに高めるという悪循環を生み出すと指摘しています。
特命事項をニャアンにだけ伝え、他の部下には知らせないといった行動も、組織の健全性を損なうものとして批判しています。
この分析は、ニャアンの複雑な心理が、彼女の過去の経験と、周囲の人間関係、特にマチュとシュウジ、そしてキシリアとの相互作用によってどのように形成され、行動に繋がっていくかを示唆しています。
ニャアンの複雑な心理と行動の背景
ニャアンの行動は、彼女が抱える**「生き残ること」と「居場所を得ること」**という根源的な望みから来ています。彼女は、戦いを「好き」でしているわけではありません。
ニャアンは、マチュやシュウジのように、ガンダムに乗ることや戦いに「キラキラした気持ち」を抱いていません。むしろ、最初は嫌々、マチュが捕らわれた状況で仕方なくクラバに出ました。
しかし、マチュとシュウジがクラバで稼ぐ中で、難民で経済的余裕のない自分だけが「貢献できていない」「分かってない側」だと感じ、二人に並び立ちたい、貢献したいという強い劣等感や焦燥感がありました。
二人が稼いだお金で地球旅行に行くことへの申し訳なさや、彼らが共有する「キラキラ」を理解できないことへの寂しさも、彼女を突き動かす要因でした。
ガンダム(クラバ)に乗り、マチュ不在の穴を埋め、賞金を稼いだニャアンは、これで二人に認められると思ったはずです。
しかし、マチュから「そこは私の場所なのに」と怒られたことは、ニャアンにとって**「居場所を奪うな」と言われた**に等しく、まさに地雷でした。
ニャアンは**「居場所が欲しい難民」という切実な状況。それに対し、マチュは学校や家庭に居場所があり、さらに「足りないもの(高次元の満たされなさ)」を求めている立場**です。この根本的な状況の違いが、ニャアンにとってマチュの言葉が「贅沢な悩み」と映り、理解できない怒りになったと考えられます。
マチュに怒られ、シュウジを盾にしてしまった自己嫌悪に陥る中で、ニャアンはマチュに助けを求められない状態になります。
そこで、シュウジが「普段のニャアンも、ワケワカのニャアンも、両方」肯定してくれ、ジークアクスに拒絶された時に抱き留めてくれたことで、ニャアンはシュウジにしがみつくことを許されたと感じます。
これは、家族を失い、いつ居場所を失うか分からない不安の中で生きてきたニャアンにとって、初めてできた友人である二人のうち、自分を無条件に受け入れてくれたシュウジへの、親へのような深い依存心や安心感が、「好き」という感情に繋がったと考えられます。
シュウジに依存し、彼が目の前から消失したことで、ニャアンは再び「居場所も繋がりも失った空っぽ」の状態になります。
この孤独と不安に付け込むように、キシリアが手を差し伸べます。キシリアは、ニャアンが求めていた「居場所」と「人間関係」を物理的・精神的に与え、手作りの料理を振る舞ったり、髪をとかしたりといった行為を通じて、ニャアンを**徹底的に「グルーミング」(依存関係の構築)**していきます。
これは、ニャアンの「しがみつきたい」という切実な欲求と、キシリアの「人間不信で不安な人間を抱え込みたい」という心理が最悪の形で噛み合ってしまった結果と言えるでしょう。
この人物は、キシリアの行動を組織運営や人事の観点から問題視しています。
人事的な公平性の欠如:
キシリアは、マ・クベを軽んじてシャアを優遇したり、エグザベより後輩のニャアンを個人的な感情で特別扱いしたりします。
このような上司の寵愛は、現場の指揮官であるエグザベへの敬意を失わせ、ニャアンが組織内で浮き、結果的にキシリアへの依存度をさらに高めるという悪循環を生み出すと指摘しています。
特命事項をニャアンにだけ伝え、他の部下には知らせないといった行動も、組織の健全性を損なうものとして批判しています。
この分析は、ニャアンの複雑な心理が、彼女の過去の経験と、周囲の人間関係、特にマチュとシュウジ、そしてキシリアとの相互作用によってどのように形成され、行動に繋がっていくかを示唆しています。
ニャアンというキャラクターの行動原理は、以下の二つの根源的な欲求に集約されると考えられます。
この欲求は、マチュやシュウジが抱くガンダムへの感情とは対照的です。彼らがガンダムとの間に信頼関係を築き、戦闘に「キラキラ」した高揚感を見出すのに対し、ニャアンはガンダムを恐ろしく、できれば乗りたくないものとして捉えています。彼女がガンダムに乗るのは、あくまで居場所を確保するためのやむを得ない手段に過ぎません。
マチュ、シュウジとの三人組(さんこいち)という関係性の中で、ニャアンは常に疎外感と焦りを抱えていました。その原因は複合的なものです。
この状況を打開するため、彼女は乗りたくなかったガンダムに乗り、クラバに参加します。しかし、その行動が結果的にマチュの逆鱗に触れてしまいます。「そこは私の場所なのに」というマチュの言葉は、ニャアンが最も恐れていた「居場所の喪失」を突きつける、強烈な拒絶として響いたのです。
マチュの抱える満たされなさは、安定した家庭や学校生活という土台の上にある、いわば「贅沢な悩み」です。生存そのものが脅かされているニャアンにとって、その苦悩に共感するのは極めて困難であり、マチュの言葉は彼女の地雷を踏み抜くには十分すぎるものでした。
マチュとの関係が悪化し、精神的に追い詰められたニャアンにとって、唯一の救いとなったのがシュウジの存在でした。
マチュに拒絶され、しがみつくことのできない状況で、シュウジが見せた無条件の肯定は、ニャアンにとって唯一の希望の光でした。彼女のシュウジへの感情は、純粋な恋愛感情というよりも、以下のような要素が複雑に絡み合った、生存のための「しがみつき」と言えます。
この必死のしがみつきも、シュウジの消失によって断ち切られ、ニャアンは完全な孤独と空虚の中に突き落とされます。
シュウジを失い、全てを失ったニャアンの孤独に手を差し伸べたのがキシリアでした。キシリアは、ニャアンが渇望していた「居場所」と「人間関係」を巧みに与えます。
孤独で不安な人間同士であるという点で二人は「噛み合って」しまい、キシリアはニャアンの精神的な空白を埋めることで、彼女を完全に手中に収めることに成功したのです。
ニャアンへの寵愛は、キシリア個人の感情的な動きであると同時に、組織のトップとして極めて問題のある行動です。