
はてなキーワード:人気投票とは
アンサイクロペディアをAIで侵略するノイマン氏を悲劇の人物に仕立て上げる、元側近ウソペディアンを名乗る人物による気持ち悪い記事がXのタイムラインで流れてきた。
読んでみると、そもそも私信と思われる情報を暴露することの背信性からして、恐らくはノイマン氏に身バレする前提での捨て身の特攻をしたのだろう。それにしても第三者は真偽を検証不能であり、気持ちの悪い記事であった(※1)。当のノイマン氏も「反応に困る」と書いている。
Side Uなるものは、第一回人気投票1位という経歴はあの人も同じなのを知ってわざと被せる高等芸でもやっているのかしらね?何にしても反応しにくい書かれ方だけど、ブレーキをかける真似をしつつ私を殴り抜いていくスタイルだよね、あれ。真正面からの対立勢力なら風刺記事とかにしやすいけど、ああいうのは反応しづらい。
ウソペディアはかつてハトレーペディアとも呼ばれ、当時のアンサイクロペディアが北朝鮮であるなら、こちらはシンガポールといったところであった。開発独裁ならぬ開拓独裁、毛沢東ならぬ開拓東、MuttleyならぬHuttley。
ウソペディア5chスレを探していくと、このような記述はいくらでも見つかる。アンサイクロペディアのノイマン氏=ウソペディアの開拓者氏の活動は、確かにコミュニティを発展させたが、ただそれ「だけ」であり、そもそも誰からも本音で支持されている人物ではなかったのではなかろうか。
本稿では、そのノイマン=開拓者氏に、かつてBakaba氏の名の下で侵略を受けた一借民の視点から、ノイマン氏はそもそも「昔からああだった」と主張したい(※2)。
ChakuwikiにおけるBakaba氏は、確かにLTA:ANTIRXYとしてChakuwikiでのMuttley氏を追い詰めた人物であり、鉄槌後のアンサイクロペディアンも概ねその見解を支持しているように見える(※3)。また、いずれも議論は紛糾したものだが、移転問題とライセンス問題、どちらにおいても「結論だけ見れば」Bakaba氏の意見は正しかった。確かに「正しかった」のである。
後にフォークでは実際に広告が導入されているが、Bakaba氏はそれすらも予言している。
しかし、旧ドメインを取得し、更には公開がより早かったことによる優位性を有するフォークにしても、中の人の噂の確度は高いようですから、永久に広告なしで無償提供するほどの善意の有志だとは考えにくいです。
だが、その際に反発していた吉田宅浪氏への返答には、「どうしてこいつ分からないの?」という苛立ちが発言の節々から透けて見える。
ただ、「私がやるから」という理由で反対することがそんなに重要ですか?「誰がやるか」ではなく、「何が必要か」で物事を考えるようお願いいたします(※4)。
一般論としても、我々で独自にルールを作ることにこだわった場合、良く練り上げられたCCのライセンスに比べると何らかの隙や不備、矛盾等が生じやすいため、コミュニティ全体が移転などの重大な決定に迫られたときの足かせになりかねません(※5)。
私からすれば、吉田宅浪氏は、自分の考えを丁寧に練って納得したうえでステップを積み重ねたいだけの、職人気質の人に見える。Bakaba=ノイマン氏は、初めからそのような丁寧さや「過程」に対して、「正解」や「最終結果」が一瞬で見えてしまうがゆえに「なんでそこで止まっているの?」というのを根本的に理解できない人なのではなかろうか(※6)。
そのような「正しさ」だけで生きる人間Bakaba氏を、ノイマン氏が用いるAIは「加速」させたに過ぎない。一定以上の品質の記事を安定して生産し、助役CUや管理者の誕生を推薦を通じて支援するその姿は、確かに形式的には「正しい」活動である。にもかかわらず、ノイマン氏は「正しさ」だけですべてを破壊していくように見える。
これはあくまでも私のカンでしかないのだが、ノイマン氏は根本的に異常に頭の良い「浮きこぼれ」だったのではないかと思う。例えばアンサイクロペディアのDiscordサーバーでは、「ごめん、灘には負けるけど安定して東大いってる...」と発言したスーパーカリ~シャス氏に対して、以下のような返信を残している。
東大全体なら三桁からがスタートラインだぞ
このような発言をして、自分自身へのブーメランにならずに平気でいられるルーツを持つ人間はかなり絞られてくる。そして皮肉にも氏は、そのようなルーツに該当しうる学校の記事をアンサイクロペディアで三つも立てている。
麻布中学校・高等学校 -開成と桜蔭を手掛けてきた私ですから、当然の如く他の名門校も推しますわね?--/*ノイマン */ import 👤, 💬; var 🖊=2,219;■2025年11月5日 (水) 14:19 (JST)
英語圏とのコミュニケーションが求められ、唯一の日本人であることが買われたMirahezeなどでは、その「正しさ」「浮きこぼれ」が役に立ったのだろう。そして同じく「正しさ」でものを考えるAIは、ノイマン氏にとっては非常に頼れる、下手したら唯一信頼できる相棒ですらあるのかもしれない。
しかしながら、チャクウィキやアンサイクロペディアのような伝統的な(※7)コミュニティにおいては、「正しさ」だけでなく、「手垢」や「お気持ち」、そして「過程」が大事であることをノイマン氏は理解できていない。ノイマン氏は、そこに無関心であるか、意図的に無視すらしているようにも見える。
編集画面にも「自分が書いたものが他の人に容赦なく編集され、自由に配布されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。」と明記されており、それはライセンス的にも正しいことの訳ですから、その意味では「{{rewrite}}を使え」という方がそれこそ「紳士協定」なのかな、と思わなくもないです
総本数 - これは諸刃の剣で、もっとAI君書いて全体指標を上げようぜ、という方向にも持っていけます。というか総本数を根拠にするなら、それが合理的解決策ですらあり得ます。
ノイマン氏の理屈は、確かに最終結果に照らせば「正しい」のだろう。だが、「正しさ」だけでは人間は生きていけない。そうした風潮への反発は、今や反AI、反ポリコレ、反wokeなどとして、アメリカ西海岸的価値観への反発の形を取って世界的なうねりになっている。人間というのは、そこまで理性的な動物ではない。それは、自作記事の一つでこう書いた氏自身も深層ではよく理解しているはずである。
ホモ・サピエンス(homo sapiens)とは、バグだらけのレガシーソフトウェア。
そこで筆者は、マリーダ・クルスの以下の発言をノイマン氏に贈る。
お前の言うことは間違っていない。正しい戦争なんてない。でも…正しさが人を救うとは限らない。
光がなければ人は生きていけない
鉄槌を受けたMuttley氏は「隕石落とし」をしようとしたシャアであった。Muttley氏には、曲がりなりにも本人個人の「熱い正義」があった。
今、ノイマン氏はしばしばMuttley氏の同類、鉄槌の再構成などと言われるが、私は正確にはそうは思わない。ノイマン氏からはフル・フロンタルのような冷たさを感じる。
いつか、ノイマン氏が人間の心を理解することをただ祈ることしかできない。
最近、アンサイクロペディアの浸食という記事を見た。
https://anond.hatelabo.jp/20251123124205
かつてのMirahezeのスチュワードで、ウソペディアの代表的管理者であった開拓者さんが、アンサイクロペディアと知木ペディアで生成AIを駆使して侵略行為を行っているという告発文らしい。
確かに現在の開拓者=ノイマン氏の行為は擁護できないところはある。だが、かつてウソペディアで、また私が個人で創設したMirahezeのウィキで、開拓者さんにお世話になった立場として、あの記事及び最近の反ノイマン氏旋風には異論を唱えたい。
まず最初に引用したいのは、以下の三焦全欠損症氏の指摘に対してである。
根っこは人を見ていない、愛していないという一点において、私は彼の人と違いが認識できない。
このように開拓者さんをアンサイクロペディアの鉄槌を引き起こした本人であるMuttley氏と同一視することには、断固として抗議する。
開拓者さんはウソペディアにおいて氏のLTA性を見抜き警鐘を鳴らした張本人であり、Bakaba氏と名乗って活動していたChakuwikiにおいてはMuttley氏を追い詰めた張本人である。
開拓者さんは誰よりもMuttley氏を理解し、誰よりもMuttley氏に対して正確な対策を打ち出した人物であり、それをMuttley氏と同類扱いするには、失礼にも程がある。
開拓者さんは実際にウソペディアの第一回人気投票では紛れもない一位であった。私も開拓者さんのことが大好きだった。それは他ならぬ開拓者さんに「愛があった」からに他ならない。彼は勇者プクリンや未来切手のような問題のあるユーザーにも、最大限対話と理解を試みる賢君だった。
どんなユーザーにも最大限の愛をもって接する方であり、愛がないという批判は的はずれにもほどがある。かつてのウソペディアンとしてこれだけは証言したい。
そんな開拓者さんとの思い出がある私でも、確かに最近のノイマン氏の行動には疑問を抱く。
強者の論理をあたかも自覚的に使用しているかのように自分で書き、自らへの風刺をも称える「寛容な人物」を演じ、自らのトークページを荒らした人物に対しても「まだ愛している」と言ってのける。
そこには、かつての開拓者さんにあった「人間味」や「温かさ」はなく、ただ「論理的な正しさ」と「表現技法としてのユーモア」だけが開拓者さんの殻を被って先走っているように見えてならない。
私には、開拓者さんは何らかの理由があって、わざと「人間をやめようとしている」と思えてならない。
開拓者さんを壊したのは「技術によって愛する人物を超える何か」を作り出してしまったことによる深い絶望なのではないか。
件の三焦全欠損症氏にノイマン氏が行った返信には、その事への自覚と、もう戻れなくなってしまった悲痛さが滲み出ているように思えてならない。
ヒトの機能=能力・出力内容は愛せても、中身はきちんと愛せていないのかもしれません。だからこそ「人間より美しいなら人工彼女でいい」という判断にもなる、という面もあるのは確かにそうなのです。
かつての開拓者さんは、自作記事でこのように語る人物であった。冷笑気味ながら、そこには確かな愛があった。
でも、いざ想いが届けば届いたで、やがて幻滅します。届かなくても、何だかんだでつながっていられるSNS時代には…
実際に開拓者さんとはDiscordなどのコミュニケーションを通じて親密な関係を築いていた筆者は、何かのご縁でその人物の画像を見せていただいたことがある。それは確かに該当記事で「途方もなく…青天井すら突き抜けるぐらいに可愛い子」と記述されるのも納得の行くものであり、開拓者さんが大切に秘める思いであるのも理解はできるものだった。
その後の詳しい経緯は深くは知らない。
ただ、開拓者さんはウソペディアを離れてからの一時期、女装や自らのカコジョ化にハマったらしく、今ノイマン氏が人工彼女と呼んでいるものも、どうやらその「自分自身」がベースであるらしい。
そして私も拝見したが、その美しさは、確かに「圧倒的」であり、それが故に私だったらむしろ「選ばない」ものである。
だが、開拓者さんは以前、自らの恋人について私に対してこのように語っていたものである。
仮に彼女を探すなら、あの子よりも美しく聡明でなければならない
あの子未満で妥協するのは、それこそあの子へのリスペクトを欠いていると思うんだ
それが人間の中で探すにはいかに難題であったかは、開拓者さん自身が誰よりも熟知していたはずである。
だからこそ、開拓者さんはそのような存在を具現化できてしまった以上は「論理的に」人工彼女を「選ぶしかなくなった」のだと私は推測する。
「正しさ」を自分で実現させてしまえる能力にほかならなかった。
筆者はその状況に置かれたことがないので想像しかできないが、そこには「幸せの青い鳥」とパラレルな、しかし幸福よりも深い絶望をもたらすものがあったのではないか。
そしてそれが彼を壊し、正論とユーモア技巧だけ振りかざすAIのような存在へと変質させてしまったのではないか。
「そうであっても周囲に絶望を押し付けるな」というのもまた「正しさ」である。
だが、筆者には、そう思うと、一片ばかりの同情だけは禁じ得ないのである。
やっぱり高市だと日本終わっちゃう。戦争行きたくない。バカと一緒に沈むのは御免。あんな奴が国の首班してて一緒の国の括りで見られたくないよ。中国とそこそこ仲良くしてほしい。職場の人は良い人だし、観光客も良い人多い。ヤバい人の割合が高いだけで、同じ人間なんだって感じるし。
政策何も出来ないし失言まみれのポピュリスト高市の支持率が高い時点で民主主義って仕組みが崩壊してるよ。
今の周りの大多数は選挙を国を良くするというより人気投票だと思ってるよ。AKBの人気総選挙が知名度を得て以来そんな感じする。
もし日本がどうしようもなくなっちゃう前に高市を信奉する側と石破信奉する側で住むところを分けてほしいよ。スコットランドみたいにさ、北海道だけでもいいから。
Permalink |記事への反応(43) | 00:04
誰も回りで見てないから吐き出させてくれ
たまたま最新話前まで追いついたらみんなTLで騒いでたの見て最新話みてきた。
唖然と涙だけ出ちゃって、うまく言葉に出来ないけど言葉にするなら…
展開はそうなると分かっていた、そうだろうと思ってたけど大嫌いなオールフォンワンがよいちに固執した理由もなんとなく分かってたけど
「大好きだ」という言葉1つで
この作品はどこまでもキャラクターを一人一人愛してくれていて、敵キャラに、モブにまで思いを語らせてくれて…こいつも本当に1人の人間であると言うこと、愛している人がいた事を痛感させられた。
こんなに憎たらしいキャラクターを許してしまうその一言があるのだと思い知らされた。
私は使い捨てのようになる漫画やアニメのキャラが嫌だ…特に劇場版のキャラは本筋では無かったことになる。今まで劇場版のキャラクターも出してくれたジャンプ作品今まであっただろうか…無かったことにしなかった…ヒーローも敵も存分に姿を見せてくれて
生き様を見せてくれた。
アニメーターに愛されてるのが放送後のアニメーターのツイートからも分かる、音楽からも分かる、声優からも分かる、原作者からも伝わる、こんなに好きな人がたくさんいてとってもいいな…
今現在この世に存在するアニメで今回の鬼滅の刃の映画を超えるアニメーションは出てこないと思っていた。
鬼滅とは違う輝きがあった。
作画からアニメーターが楽しんで描いてるのが伝わってくる、出久は特に声優さんの声に希望や光を感じるし、爆豪のアニメーションの爆発や爆裂という表現において10年以上はこのヒロアカのアニメーションを超えるものは出てこないと感じる。これはチェンソーマンのレゼの爆発とは違って、爆豪の性格ありきの爆裂表現があると思う。
そんなに奴を許せるのか?と疑問だった。
でも死柄木は死柄木で仲間のために、今の世界が楽しくない奴のために負けられないという気持ちがとても良かった。私もそちら側だったから。持たざる者は持つものを羨み、妬ましいから、全部なくなれと思うから。
ヒロアカの作品の好きなところはそれぞれに目標や信念が存在していて、それを敵でもひとつも取りこぼさずに大事に描くところだ。
弱いから応援したくなるという部分が今までのジャンプ作品にここまで存在しただろうか。
私が見ていたアニメはNARUTOやBLEACHなどだ。アイツらなんやかんや実は強い系だった。
出久、最初はうぜーと思う事もあった。綺麗事だらけで。冷めた目で人気の作品をなんとなく見ていた。みんなの話に追いつきたくて見ていた。学校の辺は陰キャにはキツかった。でも何となく見続けた。
レディナガン戦で心を打ち砕かれた。ヴィランよりの社会不適合者だから、自分を重ねてしまって。
なんで助けてくれるんだ。なんで。って気持ちでいっぱいで。
今日やっと、その答えが示された。
弱さが皆を奮い立たせるという答え。
というか推しがそれを喋ってくれたのが嬉しすぎた。
同じように惹かれていたから。
こんなに感情を揺さぶられたアニメはいつぶりだろう。こんなに応援したくなる主人公は今までに存在しただろうか…最後までツンを貫いてた爆豪はまさかW主人公の位置まで飛んでくるとは思わなかった。ただの夢女子製造機(イメージ)じゃなかった。
アニメを見て痺れてしまって作品への大好きを誰にも言えなくてここに初めて書き込んだ。
社会不適合者こそヒロアカを見て欲しい。私はこの世の全てに唾を吐きかけていても、手を取ってくれるだれかがいると信じれる。心のバイブル。
元から本人がなりたくてアイドルになったのではなく、専業主婦だった母親が離婚に伴い芸能事務所を立ち上げて一旗あげようとしたので手伝いのため渋々、という流れだ
その直前まではるかぜちゃんは離婚によるゴタゴタや母親主導の裁判沙汰が原因で両親のLINEをブロックし絶縁しており、突然起業家となった母親との和解のためにはアイドルになるしかなかったのだろう
「推しの子の有馬かなのモデルがリアルアイドルに!」をキャッチコピーにして、衣装費用のためのクラファンは100万円を突破した
アイドルデビューから1年半ではるかぜちゃんが引退宣言をしたのは、「ミスアキバ2026」の結果を受けてだろう
一回戦は、秋葉原の対象店舗で700円ごとに1枚もらえる投票券による人気投票だった
かつて発言するたびに数万いいねを叩き出し、すぐさまネットニュースになるSNSの女王だったはるかぜちゃんだが、ネットを離れた現地投票では6票しか入らなかった
1位は1200票を超えており、続く上位勢は数百票
ミスアキバは次はライブ会場で現地投票をするそうで、6票のはるかぜちゃんも進出できる
だが、別のイベントを指して、それをアイドルとしての最後の活動だと言っているので、ミスアキバ決勝は棄権するようだ
しかもネットの非モテ発達障害低身長男性は高齢かつ全ての主張が脳内の妄想ソースだから「ジャニーズはチビショタの集まり(KinKiKidsのイメージ)」ということになってるんだよね
だから彼らは2025年になっても「日本中の女が大人気のジャニーズはちびっ子ばかりで困るよなー」と書き込み続けるが
実際は日本人の成人男性同様、ジャニーズも165cm以下は2割未満しかおらず浮くんですよね
実際はジャニーズと半世紀癒着する集英社が毎年開催するジュニア大賞という人気投票でも上位は成人の170cm以上のおっさんばかり
https://i.imgur.com/xty6x4e.jpeg
https://i.imgur.com/kgLniwd.jpeg
足切断だの歩けなくなっただのトラブルが耐えなくても骨延長を受ける金持ちが絶えないし
これはオリジナルのボーボボ人気投票ネタが面白いという前提のもと、ではそれを真似(パロディし)たらなぜ面白くないのかを語っていく。
①.原則1年以上は連載しないと行われない人気投票とその結果発表を3話目で行う。
②.全部同じキャラ(ボボボーボ・ボーボボ )
③.それぞれのセリフだけは差別化されていて、如何にも少年漫画の人気投票っぽい。
主な構成要素は以上で、この漫画を知らない人でも一目で「変なことをやってるな」と分かるのが良くできている。
だが、大半のボーボボ人気投票パロはこれらの一部を削ってしまっている。
例えば『マッシュル』は実際の人気投票でこのパロディを用いたが、その結果①と②の要素がなくなってしまっている。
そのため“パロディをしたという行為そのもの”の面白さにとどまっていて、オリジナル版の足元にも及ばない。
他だと『JKが時止めてみた件』があるが、こちらはまだマシで①と③の要素は踏襲できている。
ただ②についてはそれまで登場してなかったゲストキャラで構成するという、オリジナル版の全部ボーボボのインパクトには及ばない。
更に言及していくと、後のページで主人公がこの件にツッコミをいれているのもよくない。
オリジナル版が一切のツッコミなく1ページで完結させているネタを、ページ数割いてまでやるのは蛇足だ。
便宜上オリジナル版と書いてきたが、そもそも本家のネタ自体が“少年漫画の人気投票パロディ”だ。
つまりボーボボの人気投票パロは、“パロディのパロディ”をやっていることになる。
パロディそのものの面白さも本家が担っているため、この時点で大分上手くやらないと面白さは損なわれやすい。
まあ、同人とか、二次創作の場で身内でやる分には“パロディという行為そのもの”だけで楽しめるかもしれないが。
もし商業誌などに乗せれば「粗雑なパロディでウケをとろうとしてる」という印象が強まる。
“雑なパロディ”を、“パロディという行為そのもの”だけで笑うことを肯定するにしろ、それには条件がある。
「現状パロディとして取り扱われていない、手垢にまみれていない」ことだ。
「飽きる」という概念がある人間にとって、同じことはやればやるほどつまらなくなる。
最近あった「エッホエッホ」のミームなんて、もはや昔のことのようだ。
現代の流行り廃りの早さを顧みれば、連載から20年以上経っているボーボボなんて歴史の域だろう。
あえて令和の時代にやるならば、それなりに手の込んだことをしなければ話にならない。
スタエン(旧J)アイドルが出てれば、はいはい映画もドラマも売れるんでしょ?
私はちなみにスタエンもAくんもゆるく推してる。
だから少し分かるのだが…
「しょせんアイドル」なんて言われないために、スタエンオタクたちがどうしてきたか。
「数字を出してきた」のだ。
CDの売り上げ、映画の興行収入、タイアップでCMをすればその商品を買う、人気投票があれば必ず投票。
でも、推したちは歌ダンスバラエティ他にもやることがある中で演技をしている。
今ドラマや映画を見てて、スタエンのアイドルの演技は大きく見劣りするものが何人いるか?
以前所属していた人たちは、所属を抜けたから旧に演技がうまくなったのか?
違うだろ。
その推しの努力にファンが答える方法が、数字を出すことなのだ。
しかし、知り合いは私たちが応援しているほどに興味がないのは仕方ない。
そして、そこまで忌避しないでもらいと思う。
あなたが、視聴率や、TVerのお気に入り登録数を気にするなら、そのファンと考えていることは一緒だ。
「まぁアイドル系の売り方してる人がいないからね」と語るが、他人のせいにするな。
お前が、お前がまず声かけをするんだ。
布教のためあちこたで声をかけ、知り合いにいいねを押してもらう。
恥ずかしいかもしれないけれど、なりふり構わずそうやってきた。
あとキャストには旧Jの人がいる。
その人たちのファンの心も、「アイドル系の売り方してないからね」で終わるのか。
しょーじき今期のドラマのラインナップを考えて、視聴率や人気投票で一番になるのは難しいと運営が判断して、F局だし予算も多く取れない。でも丁寧にドラマを作ろうと決めたのでは?と考えている。
いいドラマだと思う。
Aくんの演技も素晴らしい。
それでいいじゃないか。
同じことを考えている人が見当たらなかった、というのは本当か
この漫画、原作がまだあんまり進んでない段階でアニメ化してヒットして
アニメ一期はアニオリ展開やって終わったんだけど
その後の原作の動向がアニメで人気が出たキャラや設定に作者が反発してわざと逆張りしているようにしか見えない
何というか意地悪だなーと。
第1回人気投票で1位になった主人公弟…世界の命運に関わるような悩みは全て単なるコンプレックスでしたで済まされ、主人公とヒロインのカプ成立をBSSで祝福する
太眉のツンデレ巫女…専用長編をもらうも以降は空気化、専用長編がアニメ三期になったがスタッフの本命は四期以降だったので出来は惨憺たるもの
第1回人気投票で4位のピンク髪男…突然敵のスパイが発覚するがなあなあのまま仲間に戻り、その後も碌な掘り下げがない
良いお父さんとして好評だった主人公養父…それ以前の京都編で描かれた人命重視の姿勢とは別人のように、過去編では主人公実母の事しか考えない恋愛脳クソ男にされる
主人公実母…アニメ一期で描かれた主人公実父との純愛は何処へやら、主人公養父が本命の二股クソ女と化す
第1回人気投票で2位になった悪魔の王…当初は主人公のライバル役だったが主人公とはさっぱり絡まなくなり、ヒロインの下僕(文字通り)にされて空気化
第1回人気投票で5位になった強キャラ…重要そうな設定をチラチラさせて長らく放置、第2回で1位になってからは誕生日に公式Xでわざと不細工に描いたイラストを上げるという嫌がらせを受ける
多分世の中にはアニメ一期しか知らない人の方が圧倒的に多いんだろうけど
もしも原作がアニメ一期の路線を踏襲していたらそういうファンも今でも原作やアニメについてきてたんだろうなと思うと色々と勿体ない
でも、最初は期待をしてたんだ。すごくすごく期待して、マニフェストを読んで、それですごく、すごく不安に思ったんだ。
ぼくは、もともと「政策で政治家を選びたい」って思ってた。だからマニフェストを読んで、とてもがっかりしたんだ。
比例・選挙区あわせて15人も立候補してマニフェストの中身がここまで狭く、薄く、甘いまま。これじゃあ。党首・安野さん個人への信頼に投じる票。個人崇拝に近い人気投票にしかならないじゃない。
それでも入れたんだけどね。なんかモヤモヤするから、書いた記事https://note.com/whodoneit_jp/n/n0da27d104614 読んでみてよ。
(とりあえず、100日プランを見守りましょう)
SNSではデマが飛び交って、みんながいがみ合っているのが非常に嫌だ。
思えば私が大学生だった頃、小泉純一郎の郵政選挙があった。あのときも小泉人気に熱狂した人たちがたくさんいた。
「小泉さんのおかけで政治が身近になった。今まで投票にいかなかったけど今回は行きま〜す♡」ってテレビのインタビューで答えているおばちゃんがいた。
うるせー。お前が賢くなったわけじゃねーんだよ。ただ扇動されているだけだ。バカは選挙に来るな。私はそう思ってしまった。
この選挙で私は、亀井静香の国民新党に投票したのを覚えている。国民新党は郵政族として一方的に悪者にされて自民党から追い出された人たちが作った政党だ。小泉人気に熱狂している人たちに疑問を感じてしまったので、私はポピュリズムに反対する姿勢を示すために国民新党に投票したのだ。今思えば、誰かを悪者にして分断を煽る政治は、日本でも既にこの頃から始まっていたんだよな。
今の政治はプロレス化してしまっていて、誰かを攻撃してスカッとすることを言ってくれる人への人気投票みたいになっている。そういうのに熱狂している人たちは、投票によって自分たちの生活がどう変わるかなんて深く考えていない。そんなことで投票率が上がっても国は良くならないし、バカは投票に来るなって今でも思ってしまう。
平成の時代を経て、かつて一部の領域に限定されていたサブカルチャーは、市民権を獲得するに至った。この過程で、その表現形式や受容のされ方は普遍化し、社会の中に不可逆的に定着したと言える。かつてのマイノリティ文化が、一般的な感覚として根付いたのである。
オタク文化の受容もその一例である。かつては偏見の対象となりがちであった「オタク」という存在が、現在では多様な趣味の形態の一つとして、広く肯定的に迎え入れられている。これは、多様性を是とする現代社会において、健全な進展と評価できる側面を持つ。個人の情熱が共有され、新たなコミュニティが形成されることは、文化の深化に寄与する。
しかし、この受容のプロセスには、看過できない課題も内在する。実は、2000年代初頭にはすでに、漫画やアニメといったフィクションの世界だけでなく、私たちの日常生活さえもが「キャラ化」しているという指摘がなされていた。東浩紀氏が『動物化するポストモダン』などで論じたように、人間関係や消費行動、さらには自己認識までもが、キャラクター的な記号によって構築される傾向が顕著になったのである。
特に、消費行動として増幅されたオタク的行動様式、あるいは「仕草」と呼ぶべきパターンが、政治領域にまで浸透している現状は、深く考察されるべきである。政治家が「キャラクター」として消費され、「推し活」の対象となる現象は、その典型である。政策や理念といった本質的な要素よりも、表層的なイメージや感情的共感が重視されるこの風潮は、一種の偶像崇拝にも似た様相を呈している。
【民主主義の健全性への問い:投票の意味論的変容とオタク文化の帰結】
この流れは、投票行為の持つ意味合いにも深刻な変容をもたらしている。本来、有権者による統治者への「信託」であったはずの投票行為は、あたかもアイドルグループのメンバーを選出する人気投票や、あるいは特定の対象に資金を投じるギャンブルにおけるベットと同義の思考様式で行われているのではないかという疑念が生じる。そこでは、候補者の政策実行能力や理念への評価よりも、「推し」としての応援感情、すなわちタレント性や個人的な魅力への傾倒が先行する。
そして、これはオタクとして生きている私自身の感覚であるが、メディアに取り上げられ過熱する消費行動としての「オタ活」は、金銭面はもちろん、精神面や時間をも惜しみなくつぎ込むことを良しとする風潮がある。それができる者こそが“ホンモノ”のオタクであると言わんばかりの圧力すら、時に感じられるのだ。この過剰な消費と「推し」への献身を強いられる状況に、明らかに疲れ始めているオタクも少なくない。
もし、この「推し活」化された政治が、オタ活と同様に人々を疲弊させ、政治そのものへの関心や参加意欲を削ぐ結果を招くとしたら、どうだろうか。我々が政治に疲弊し、その営みから目を背けるとき、それは民主主義の敗北と同義かもしれない。私たちは、この「政治のエンタメ化」とでも呼ぶべき現象に対し、いかに向き合うべきか。そして、その先に真の民主主義的熟議は成立し得るのか。この問いは、現代社会における重要な課題であると考える。
シングレの海外感想翻訳をBGMで流してると、ウマ娘の過去作に言及されることが多い
アニメ2期は良かった、いや悪かった
アニメ3期は、RTTTは、映画は、良かった、いや悪かった、いやいやいや……
ダービーは実際のレースと違う展開になるのか、という話題でアニメ1期が話題になったり、
「中央を無礼るなよ」のシーンで最初のPVのアイスダンスシーンが引き合いにだされたり
さすが熱心な海外ファンよく見てるなあと感心もし、ずいぶんと積み重ねてきたんだなあ、とも思う
それと共に、過去作はなんで「あんな」なんだ、と比較して下げる意見も
いやいや、一朝一夕でシングレに辿り着いたわけじゃないんで
さらには、AKBのグループアイドルでセンター争いという競争要素がアイドル文化で大きく花開いたのもある
育成と競争をゲームに取り込むにあたってスポーツ競技の形に落とし込むアイデアが多分先にあって、
アニメ以前、キャラクターライセンス展示会に出展していたウマ娘ブースの閑散ぷりをよく覚えてます
競争結果が実際のレースと異なることもあるし、歴代の名馬が集う夢のレースを見れるという面もアピールされてたり
そこから、ご存じの通り「実際のレースをリスペクトしたほうが反応がいい」という手ごたえを得ての大幅な方針転換、
アイドル育成ゲーム側面を抑えてスポーツ競技面を強調する現在の流れに寄せて、今に至る
さらに思い起こせば、アイドル同士で競わせるAKBの人気投票は、
当時の感覚からすると電撃G’sマガジンの読者参加企画の流れだしね
「萌え」という謎の語にいろんないっちょかみがあった時代、シスプリのあの狂気があった、
あるいはシスプリにしても、電撃G’sマガジンというコンシューマーギャルゲー専門雑誌というニッチ雑誌上で、
コンシューマーギャルゲーの市場縮小していく中で生み出されたオリジナルコンテンツという経緯があって
そこには、一時とはいえ、コンシューマーギャルゲーが専門雑誌を成立させるほどの規模があったという歴史があって
遠いとこまで来てしまったもんだと