
はてなキーワード:事象とは
このまとめ。
最近は早めに結婚した方が良い風潮あるけど、私が大学出たくらいの時は20代は好きに遊んで30くらいで結婚する方が良いよ、みたいなことを言われてた気がする話
このまとめの人は自称30代喪女(つまり30〜39歳)らしいけれど、その年齢なら仮に23歳になる年に大学を卒業したとして、卒業年は大体2010〜2019年。その年齢ならとっくに、大学卒業時には「早めに結婚した方が良い風潮」になっていたと思う。
確かに1990年代の半ばに「29歳のクリスマス」(1994年)、「ロングバケーション」(1996年)などのドラマが流行り、結婚は焦らなくてもいいというような風潮は存在した。
しかし2000年代に入る頃にはそんな空気は雲散霧消して、あっという間に少子化が叫ばれ、女は早く結婚して早く子供を産めと言われるようになっていた。
2006年には「バックラッシュ! : なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?」と題して、フェミニズムに対する世間の風当たりの強さを語る本が出ている。
2011年に東日本大震災が起こり、放射能は特に子供への影響が大きいとされた事から女性はますます母としての役割を求められるようになり、
2015年頃には「卵子の老化」がセンセーショナルに報道され、35歳以上は絶対に産んではならないような空気が形成される。
今30代の女性ならばこういう空気の中で20代を過ごした訳で、どう考えても「最近は早めに結婚した方が良い風潮ある」などとは思えないと思うんだよね…。
少子化は女が婚期を焦らずのんびりしていたのが悪いんだと言いたいがための、歴史修正としか思えない。
仮にこの人の周りがそうだったとしても、それはごく局地的な話であって日本全体としては全然違った。
これって「氷河期世代は自由な生き方としてフリーターを選んだ」というデマと同じなんだが、対象が女性限定だと、男性を含む話題だと訂正されてバズったとしてもこういうデマは修正されない傾向が強い。
しかしこういう歴史修正って様々な事象に対して行われているけれど、たかだか2,30年前ですらこうなんだから、戦時中や戦前ともなればそれ以上にやりたい放題なんだろうな。
Permalink |記事への反応(13) | 13:46
だからさー
実際お前は影響を受けて売買ポジションを変えてるだろ?
期待形成ってのはそういうことね
今回のイベント予測は高市勝利っていうほぼ確定した事象なんだから
女からも迷惑だろうが、まず男が既婚含めて多数の女をキープして孕ませたいという欲求を持つからね
今も昔も国内外で富豪が多数の女を妊娠させる事象が発生しているしな
「弱者男性」――それは、かつて蔑称として使われていた言葉が数千年の進化を経て、人類の頂点へと至った種族の名称。不老不死の肉体と、物理法則を書き換える「固有能力」を持つ彼らは、もはや神に近い存在。
これは、その一族の末裔である少女ミミと、彼女が溺愛する「ママ」の、世界の終わりと始まりの物語。
エプロン姿のママが淹れたコーヒーの香りが漂うリビングで、ミミはランドセルを背負うような軽やかさでそう言いました。窓の外では、旧人類(ホモ・サピエンス)たちの連合軍が、弱者男性族の圧倒的な力に恐れをなし、なりふり構わぬ核攻撃と反物質兵器の雨を降らせています。
「あら、そうなの? 夕飯までには帰ってきなさいね、ミミ。今日はあなたの好きなオムライスよ」
ママは穏やかに微笑みました。彼女もまた、弱者男性族。その固有能力は『因果の編み直し(リライト)』。彼女が「夕食にオムライスを食べる」と決めれば、たとえ世界が滅びようとも、その事実は絶対的な未来として固定されます。
「うん。……あ、その前に。ママ、大好き」
ミミはママの腰に抱きつきました。不老不死のミミにとって、ママは数百年、数千年の時を共にしてきた唯一無二の伴侶であり、親であり、愛の対象。
「私もよ、ミミ。世界なんてどうでもいいけれど、あなたの靴が汚れるのは嫌だわ」
ミミは満足げに頷くと、玄関のドアを開けました。
戦場は地獄でした。空は燃え、大地は裂け、旧人類たちの悲鳴が響き渡ります。しかし、ミミがその場に降り立った瞬間、すべての音が消えました。
彼女が指先をパチンと鳴らすと、上空から降り注いでいた数万発のミサイルが、漆黒の極小点へと吸い込まれ、消滅しました。原子の一粒さえも残さない、絶対的な虚無。
連合軍の将軍たちが絶望の声を上げます。 「ば、化け物め……!弱者男性族め! お前たちさえいなければ、この星は我々のものだったのに!」
ミミは冷ややかな瞳で彼らを見下ろしました。 「この星? そんな小さなもののために、ママの淹れたコーヒーの時間を台無しにしたの? 万死に値するね」
ミミの影が広がり、戦場にいた数百万の軍勢を飲み込んでいきます。それは殺戮ではなく、ただの「整理」。彼女にとって、ママ以外の存在はすべて背景のノイズに過ぎません。
わずか数分。ミミが飽きた頃には、世界から「戦争」という事象そのものが物理的に削り取られていました。
「おかえりなさい、ミミ。早かったわね」 「うん、片付けてきた。もう誰も邪魔しないよ」
ミミは食卓につかず、キッチンで後片付けをしていたママの背中に顔を埋めました。不老不死の肉体は温かく、鼓動は一定のリズムを刻んでいます。
「ママ、世界が平和になったら、ずっと二人きりでいられる?」 「ええ、もちろん。私たちが望む限り、この時間は永遠よ」
ママは振り返り、ミミの頬を優しく撫でました。その瞳には、かつて多くの弱者男性たちが求めてやまなかった、絶対的な慈愛と、狂気にも似た執着が宿っています。
「ミミ、あなたが世界を壊しても、私が作り直してあげる。あなたが誰かを殺しても、私がその罪を因果から消してあげる。だから、あなたも私だけを愛してね」 「当たり前だよ、ママ。私にはママしかいないんだから」
二人の不老不死の怪物は、窓の外で更地になった世界を眺めながら、愛おしそうに口づけを交わしました。
弱者男性族。それは、強すぎるがゆえに二人だけの閉じられた世界でしか生きられない、孤独で残酷な、愛の種族。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ」
•町山智浩型は
上下関係というより
⸻
•反証が来ると
•揶揄
⸻
• 町山型が作ったフレームを
⸻
• 敵の設定が明確
⸻
• 町山型が
•藤井型が
•共感層が
•異論は
→ 内部では完成度が上がる
→ 外部との乖離は拡大する
⸻
• 町山型の語りは
• 「考えなくても正しい位置」に立てる
• 複雑な事象を
• 常に善側に固定できる
⸻
弱点も共通
• 前提が崩れると立て直しが難しい
⸻
総括
•町山智浩型は
• 両者が組み合わさることで
閉じた正義が強固に循環する
それは俺の言い方が悪かったな
視聴者=俺達みたいなゴミにとっては能力がないからこそ何かを決めることが一大事なんだよな
無能すぎて最早何を好きになるか決めるといったような、無意味な事柄が一大事になってくる
それに対して監督や作中のいろPのような能力がある人間にとっては
「何をするか決める」という事象が
まるで巨大な単一人格が存在し、俺を観測し、評価し、記憶し、社会的スコアを付与しているかのように扱われる。
しかしストア派の冷徹な自然観に従えば、その前提は最初から壊れている。
世間とは主体ではない。世間はロゴスを宿した統一的意志ではなく、ただの相互作用の束、無数の表象と衝動と欲望の乱流である。
つまり世間が俺を認識していないのではない。世間という仮想の審判者を俺が作り出し、その審判者が俺を見ていないという物語を俺が採用しているだけだ。
ストア派はここで、即座に区別を導入する。エピクテトスの二分法だ。
すなわち、俺の支配下にあるもの(選択能力、意志、判断)と、俺の支配下にないもの(他者の評価、偶然、噂、流行、アルゴリズムの気まぐれ)を切断せよ、と。
世間の認識は後者だ。つまり俺がいくら歯を食いしばっても、そこに統制権はない。
ならばその領域に魂のリソースを投下するのは、倫理的にも論理的にも誤りだ。
ストア派はこれを外部財への隷属と呼ぶ。名声は外部財であり、承認は外部財であり、世間の視線は外部財である。
外部財に依存する生は、最初から不安定に設計されている。株価に人生を賭けるようなものだ。
しかし、ここで話は終わらない。なぜなら俺が言っているのは世間が俺を認識していないだけではなく、俺も世間を認識していないからだ。
この対称性が、ただの愚痴を形而上学へと押し上げる。これは単なる孤独の嘆きではなく、認識論的な断絶の宣言である。
俺は世間を見ていない。世間も俺を見ていない。ここには、相互主観性の回路が形成されていない。
社会とは本来、相互に他者を他者として認識し合うことで成立する。
しかしその回路が途切れている。これは社会的死の一形態であり、ユング的に言えば集合意識への接続不全だ。
ユングは言う。人間は意識だけで生きているのではない。個人的無意識と集合的無意識があり、さらにそこには元型が蠢いている。
世間というものは、単なる人間集団ではない。世間は集合的無意識の表層に現れる社会的ペルソナの海である。
ペルソナとは仮面だ。人は社会の中で、役割に最適化された仮面を被る。
会社員の仮面、家族の仮面、SNSの仮面、善良な市民の仮面。世間は、無数のペルソナが互いのペルソナを認識し合って成立する、仮面の交換市場である。
そしてここで重要なことが起きる。俺が世間は俺を認識していないと感じるとき、それは俺の本体が認識されていないというより、俺のペルソナが市場に上場していないという意味である可能性が高い。
世間は本体を見ない。世間は仮面しか見ない。世間が見ているのは、社会的にタグ付け可能な記号、職業、年収、肩書、フォロワー数、言語の癖、政治的立ち位置、消費行動、顔の表情、服装のテンプレだ。
世間は個体の魂を識別する器官を持たない。だから世間に認識されるとは、実際にはペルソナとして分類されることに過ぎない。
つまり俺が認識されないと言うとき、それは分類されないということだ。
分類されない者は、統計に載らない。統計に載らない者は、社会の意思決定に影響しない。影響しない者は、存在しないものとして扱われる。
これは現代のロゴスではなく、統計的なダイモーンである。世間は人格を持たないが、集合としての惰性を持つ。惰性は倫理を持たない。惰性はただ、流れる。これが世間の正体だ。
しかしユングはさらに深く刺してくる。俺は世間の人間を一切認識していないと言うとき、そこには投影が潜んでいる。
俺は他者を見ていないのではない。俺は他者を世間という抽象概念に圧縮している。
これは他者の人格を剥奪する心理的操作だ。世間の人間は、顔も名前も欲望も恐怖も持つ具体的存在なのに、俺はそれを世間という巨大なモンスターにまとめてしまう。
つまり俺は他者を認識しないことで、逆説的に自分を守っている。ユングはこれを影の機制として読むだろう。
影とは、自我が受け入れたくない側面の貯蔵庫だ。俺が世間を嫌悪するとき、その嫌悪の一部は、俺自身の影が外部に投影されたものかもしれない。
世間は薄っぺらい、世間は愚かだ、世間は凡庸だ、世間は空虚だ。そう断罪することで、俺は自分の中の薄っぺらさ、愚かさ、凡庸さ、空虚さを俺ではないものに隔離している可能性がある。
これは心理的には合理的だ。自我は自己像を守るために、世界を歪める。だがそれは同時に、個性化のプロセスを阻害する。
ストア派の言葉で言えば、これは判断の誤謬だ。外部の現象に価値判断を貼り付け、心を乱す。ストア派が問題視するのは現象ではない。
現象はただの現象だ。問題は俺の判断だ。世間が俺を認識しないこと自体は中立である。
善でも悪でもない。ただの事実である。しかし俺がそこに「これは耐えがたい」「これは屈辱だ」「これは人生の敗北だ」という価値を付与した瞬間、俺は自分の魂を鎖につないだ。
そしてこの鎖の正体は、承認欲求というよりもっと原始的なものだ。
ストア派的に言えば他者の評価への恐怖であり、ユング的に言えばペルソナ崩壊への恐怖だ。
世間に認識されないということは、ペルソナが成立しないということだ。ペルソナが成立しないと、社会の舞台における座標がない。座標がないと、自我は漂流する。漂流する自我は、存在論的不安に沈む。
だから俺は認識されないことを恐れているのではない。俺が俺であることを保証する外部の鏡がないことを恐れている。
人間は他者の眼差しを通して自己像を形成する。これはサルトル的だが、ユングも似た構造を持つ。自己は自我を超えた中心だが、そこに到達するには、他者との摩擦が必要になる。摩擦がなければ、俺は自己の輪郭を得られない。
だがストア派は冷酷に言う。そんなものに依存するな、と。自己の輪郭は外部の鏡ではなく、内的ロゴスによって確立されるべきだ。
ストア派にとって自由とは、外界の承認から独立した精神状態である。アパテイアとは、無感情ではない。誤った価値判断から解放された状態だ。
世間に認識されないことを害と見なさないこと。世間に認識されることを善と見なさないこと。これが精神の自律だ。
しかし、ここで一つの逆説がある。ストア派は共同体を否定しない。むしろコスモポリタニズムを唱える。
人間は宇宙国家の市民であり、互いに理性によって結ばれている、と。つまりストア派は世間を無視して独りで悟れとは言っていない。
むしろ共同体に奉仕せよ。ただし、共同体からの評価に魂を売るなと言う。
これが厄介だ。俺の状況は、奉仕する共同体が実感として存在しないという状態だ。
世間が見えない。世間も俺を見ない。ここでストア派倫理は、真空に投げ込まれる。
ユングはここで、個性化の観点から別の地図を提示する。世間から切断された者は、集合意識の浅瀬に住めない。
浅瀬に住めない者は、深海に潜るしかない。つまり、世間に適応するペルソナのゲームを捨てた者は、否応なく影と対峙し、アニマ/アニムス(内なる異性元型)と格闘し、自己の徴候に出会う。
これは苦しいが、精神の錬金術でもある。ユングはこれを魂の夜と呼びたくなるだろう。孤独は病理である場合もあるが、同時に、個性化の必須条件でもある。
だから世間が俺を認識しないは、災厄であると同時にチャンスでもある。
世間に認識されることは、社会的安定を与える代わりに、ペルソナの牢獄を与える。認識されないことは、安定を奪う代わりに、自由と深度を与える。
これはユングの言う補償作用だ。意識が外界で満たされないなら、無意識が別の形で膨張する。世間が俺に意味を与えないなら、無意識が俺に意味を生成する。
しかし、意味生成には危険がある。世間が俺を認識しないとき、俺は選ばれた孤独という神話を作りたくなる。
これは元型的誘惑だ。殉教者の元型、賢者の元型、アウトサイダーの元型。俺は世間に理解されない天才だ、という物語は甘い。
だがそれはしばしば、単なる自己防衛の神話化にすぎない。ユングはそれをインフレーションと呼ぶ。
自我が元型のエネルギーを吸って巨大化し、現実との接地を失う状態だ。これは精神の事故だ。孤独が精神を鍛えることもあるが、孤独が精神を神格化することもある。
ストア派は、この危険をもっと簡単な言葉で切り捨てる。思い上がりだと。
宇宙の秩序の中で、俺が特別に悲劇的である理由はない。俺が特別に見捨てられている理由もない。世界は俺を中心に設計されていない。
ここでストア派は残酷なほど健全だ。世界が俺を見ていないのは、世界が忙しいからだ。
世界は世界のロゴスで回っている。俺はその一部でしかない。これは虚無ではない。むしろ、過剰な自己重要感からの解放である。
そして結局、俺が言うべきことはこうなる。
世間が俺を認識しないのは、世間が愚かだからではない。世間とはそもそも、俺を認識するための器官を持たない現象だからだ。
世間は意識ではなく、統計的流体であり、アルゴリズムであり、模倣の連鎖であり、集合的無意識の泡である。そこに人格的な期待を置くのが誤りだ。
また、俺が世間を認識しないのは、俺が優れているからではない。俺が他者を抽象化し、投影し、影を外部化しているからだ。
俺は世間を見ているのではなく、世間という言葉に詰め込んだ自分の恐怖と嫌悪を見ている。
俺は世間を拒絶しているのではない。俺は世間を通じて、自分の無意識と戦っている。
ストア派の結論は明快だ。認識されるかどうかは外部の事象であり、俺の徳とは無関係だ。
俺が制御できるのは、判断と行為だけだ。ゆえに、世間の認識を求めて魂を擦り減らすのは、ロゴスに反する。
ユングの結論はもっと暗い。世間に認識されないという傷は、影を肥大させ、投影を増やし、ペルソナを崩し、個性化を促進する。
つまり俺は今、精神の錬金炉の中にいる。そこから黄金が出るか、煙だけが出るかは、俺の自我がどこまで誠実に無意識と対話できるかにかかっている。
だから、このタイトルの文章は、ただの絶望ではない。これは認識の構造の告白だ。
世界は俺を見ない。俺も世界を見ない。その断絶は、社会的には不幸であり、哲学的には中立であり、心理学的には危険であり、同時に可能性でもある。
俺がすべきことは、世間に認識されるために仮面を磨くことではない。仮面が必要なら、それは道具として作ればいい。しかし魂を仮面に売るな。ストア派の禁忌はそこにある。
世間を憎んで自分を正当化することでもない。影を世間に投げつけるな。ユングの禁忌はそこにある。
残るのは、静かな実務だ。俺の支配下にある行為を、今日も淡々と実行すること。ロゴスに従い、自然に従い、徳に従い、同時に、自分の影を凝視し、投影を回収し、自己の中心に向かって潜ること。
世間が俺を認識するかどうかは、天候のようなものだ。雨が降るかどうかに怒るのは愚かだ。だが雨が降るなら傘を差すのは合理的だ。世間は俺を認識しない。
ならば、俺は俺の生を、俺の判断で構築する。世間が俺を認識しようがしまいが、宇宙は無関心に回り続ける。ならば俺もまた、余計なドラマを捨て、静かに回ればいい。
「俺は世間を認識していない」と言いながら、この文章を書いている時点で、俺はすでに世間を認識している。
「世間は俺を認識していない」と言いながら、その不在を語ることで、俺は世間の視線を前提にしている。
つまりこの文章は、断絶の宣言ではない。断絶を前提にした、接続への欲望の記録だ。
ロゴスに反し、元型に引きずられ、影を撒き散らし、それでも理性を求める生物だ。
イノベーションを『技術の種』と『社会実装の仕組み』に分けて考えると、日本には前者はあるものの、
後者の『まずはやってみる』という市場環境がないことが最大のネックだと感じる。
日本では最初から『リスクベースの規制』を完璧に構造化しようとするため、規制当局、開発者、ユーザーの全員にとって『失敗のコスト』が極端に高くなっている。
一方で、テスラやUber、あるいはドローンが先行した国々では、『規制は後から追いかける』のが常態だった。イノベーション、特にその『社会的受容性』は、頭で考えるものではなく、社会が実際に触れて、失敗して、体感しながら学んでいくもの。インターネットやSNSがそうだったように。
例えばドローンの普及過程を見ても、米国などでは初期のホビー利用や小規模な失敗の蓄積が、結果として社会全体の実地教材として機能したことはビジネス環境を考えるうえで見逃せないと思っている。
墜落する、電波が切れる、といった事象を社会が経験することで、『ゼロリスク』を求める段階から、『どの条件なら許容できるか』というコンセンサスを形成する段階へ、知らず知らずのうちに社会のリテラシーが引き上げられたのが大きい。
この失敗を通じた社会的学習の履歴の差こそが、日本と諸外国のイノベーションの速度差を生んでいるもうひとつの側面だと思うね。
最初から失敗しないよう制度設計しようとするんじゃなくて、あえて小さな失敗の段階でどこまでリスクテイクできるのかを市場で様子をみる、という環境があるかどうかの差。
今回の事象は、円安/円高の是非を巡る健全な政策論争ではなく、発言の一部を切り出し、意味を再構成することで受け手の認知を誘導する情報戦の構造を持っています。
ポイントは、事実誤認を作るのではなく、文脈を削ることで意味を変えるという、近年の情報戦で多用される手法です。
② ラベル貼り
③構造の切断
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認知戦として見た狙い
この種の歪曲が狙うのは、以下のレイヤーです。
物価高で苦しむ層に「この人は分かっていない」「庶民感覚がない」という感情的印象を植え付ける
難しい経済構造の議論を避けさせ「よく分からないけど、なんか不安」という判断停止状態を作る
本来は同じ方向を向いている産業重視、生活重視の層を、「どちらを優先するのか」という偽の選択で分断する
・為替操作
ではなく、
という、長期設計の話をしている。
・為替水準に踏み込まない
敵として描きにくい
この事例は、以下の流れの一部として読むと分かりやすいです。
↓
↓
今回、高市早苗氏自身が行った修正は、認知戦対策として非常に質が高い。
・「何を言っていないか」まで明示
これは為替論争ではありません。
日本の政治空間において、構造的・制度的な発言ほど、認知領域で歪められやすいという現実を示すケースです。
そして重要なのは、認知戦は嘘ではなく「意味の再編集」で行われるという点です。
今回の選挙でどんなネガティブ材料が出ても基本候補者の支持はさがらないみたいな話を書こうとしたけど、長くてまとまらなそうだから書きたいところだけ書く
最近の支持者の傾向だけど、昔と違って支持してる人の言説や政策なんて一部見るだけで全体は碌に見てない気がする
当の支持者は政策で勝負しろ!ちゃんと見てる!言ってるけどどうも見てはない気がする
なぜか
去年の話だけどこんなのがある
https://www.works-i.com/column/works05/detail021.html
要約すると各種意識調査では若者は労働を増やしたくないけど、労働条件緩和を支持しているって内容
この人は思いやりによって規制緩和を支持してるっていってるけど、ぶっちゃけこれ言った政治家を支持してるから、その方策も無条件支持してるんじゃない?って思う
つまり、今までは候補の主張であっても、自分とは違う部分に関してはマイナスがでる、でも支持はトータルで見て判断するってのが大半だった
候補イのAという主張を支持するから投票するが、でもBという主張はダメだよねってのが普通だった
でも今、特に若者はBの部分で、Bという意見とは本来思想は真逆だけど候補イがいうんだからBも賛成するってなってない?ってこと
これが正しいのなら、全体の政策の出来不出来はあまり関係ないし、たかだかほかの人にとっておかしい行動をとってもマイナスにはなりえない
じゃあその根本をなす評価はというと、キャッチャーなことをいってそれを信じさせれば、それだけで残りも肯定させることができるって話になるんじゃないかな
でもそれって、今までもあっただろうというのはそうなんだよね、例えば郵政解散とかね
だから場合によっては何か選挙期間中にあって他のウェイトが増えたら逆転することがありえた、まあ郵政クラスだと難しいけど、それでも可能性はあり得た
でも今回はそれはまずない
わかりやすく言えばキャッチャーで影響を与える主張をA それ以外の主張をBとすると
郵政のころは A:B=9:1 くらいだった
でも前述の1個支持すると残りを全肯定型の最近の選挙では A:B=10:0 なので、いくらBでなんかあってもAさえ崩さなかったら絶対に崩れないって話
まあこれは今回に限ったわけでなく、前回の参議院選でちょっと思ったところだけど、それ以降でもその傾向が強い事象をみたので、そうなんでは?って思ったいう話
みなさんが最近お買い求めになったのも、修正が濃くなったと感じませんか?
12月に単話で出して半額セールが終わったから、既に審査済み/DL販売しているのを一切追加作業してないままページをまとめて総集編として審査を出したんです。
結果、12月前半に審査した際は1発OKだったモザイクの修正が全編NGで帰ってきました。
えっ、まだ二ヶ月も経ってないよ?
個人的には修正を入れる作業は「今イケるギリギリはこのラインか?」ってのをやる遊びでもあったので、あんまり気にしてはいないです。
既に修正については、F〇NZAさんから基準を教えていただいてそれに準拠する形になります。FANZ〇さんまじ感謝。
分割版よりもモザイクをデカなるのがどうなのだろうと考えたのですが、今までやってない黒海苔による修正をしようと思います。
本当は単話との違いは出したくなかったのですが、修正作業するならって事で、どうしても気になる数コマだけ変えました。
作品アップデートで対応しないのは、アップデートすると「性器などの修正が新基準になってしまうから」です。
なんで厳しくなったの?
猥褻図画の修正関係が厳しくなる時には大抵の場合、「原因」となる事象があります。
どこかの出版社がやらかして回収になったり、猥褻図画で逮捕者が出たりとか。無修正が出回ったりとか。
今回は12月にはオッケーなのに、今は駄目と言う事は年末に何かあったのかなと色々調べたら、コミケC107で販売停止になったサークルさんが、
明確に修正指摘された箇所を提示して「昔のコミケではOKだった」や「コミケよりDL販売は緩い」ってSNSに投稿してそれなりにバズったみたいです。
エロの表現関係で話題になったのこれくらいだから、年明けから大きな猥褻図画の逮捕者も出てないし。
(投稿内容の指摘部分は結合部の性器表現になるため、20年前も10年前もコミケの見本誌チェックの基準もアウトです。見落としされてたりしただけ)
そりゃ、厳しくなるわ
二次元の猥褻図画のDL販売の基準は暗に「コミケでの判定が基準」となっているので、
コミケでのNG事例を明確化して「DL販売だと緩い」なんてSNSで公開したら、
DL販売している企業からしてみたら、猥褻図画で取り締まりを受けないようにするためのリスクヘッジで厳しくします
ただ、個別の修正の基準だけを変更して、大量の審査をするのはオペレーション上かなり大変なので、
企業としては「単純に全体的に厳しくする」がベストになります。
ここ何年か二次元の猥褻図画の修正周りは商業誌も含めてどんどん薄めに進んでたんで、
そろそろ危ないなー逮捕者出そうだなーと思ってたら、これなので引き締めるタイミングとしても丁度良かったのかもしれない
これは仕方ない
エロ同人なんてものは、ちょっと規制されたらすぐに吹き飛んでしまうような日陰の活動です。
だから猥褻図画で詳細な内容なんて恥かしくて言えないものだと思ってたんだけど、
今は承認欲求と「バズのための餌」みたいなもんとして思われてるようなので大変だなぁ。
割とSNSの内容ってちゃんと色々な人がチェックしてるんですよ。
多分コミケの猥褻チェックフローの人達も「明確に言っちゃうのマジかぁ」ってなってた思う。
イベントを存続させるのとできる限り表現を自由にしたいってせめぎあいの中やってる。
猥褻図画の規定に関しては本当に判断が難しいもので、曖昧な部分である形で、
できる限り表現の自由を維持していたのだろうけど、SNSで公開してしまった以上、
だって「NGの理由と箇所を明確に公開しちゃった」のだから仕方ないのです。
まじでセンシティブな判断ものについてはSNSにあげない方が良いです。
投稿した本人も含めて、誰も得をしてません。
「旧来モデル批判派」は、結婚指輪の贈答を「経済的従属の象徴」「時代遅れのステータス表示」「呪い」と定義し、現代の「自立した大人」の価値観と矛盾すると主張している。
本プロジェクトの目的は、この批判が陥っている「過度な市場原理主義的解釈」の誤謬を指摘し、結婚指輪を「非言語的コミュニケーションプロトコル」として再定義することによって、その機能的有効性を論証することにある。
本反論の構築にあたり、「PREP法(Point,Reason, Example,Point)」を拡張した論理構成を採用する。
批判派は「自立=すべてを自分で調達すること」と定義しているが、これは共同体運営において非効率である。
結婚とは相互依存(Interdependence)の契約である。「欲しいものは自分で買う」という論理は独身者の生存戦略であり、夫婦という最小単位のチームビルディングにおいては、「贈与」による関係性の強化こそが合理的である。
「経済的自立」と「情緒的相互依存」は両立可能であるという概念実証。
人間の認知は不安定であり、数十年単位の契約(結婚)を維持するには、物理的な「アンカー(錨)」が必要である。指輪を見るたびに契約当初の感情(決意)を想起させる機能は、認知心理学的に「プライミング効果」として有効であり、これを「呪い」と呼ぶのは、契約維持の難易度を過小評価した楽観論に過ぎない。
指輪は「金属片」ではなく、関係維持のための「外部記憶装置」であるという再定義。
対等な関係なのに、記念品だけ経済力の証明を求めるのは矛盾とする。
マルセル・モースの『贈与論』が示す通り、人間関係は「等価交換(市場原理)」ではなく、「あえて借りを作る/与える(贈与原理)」ことで深化する。完全に割り勘化された関係(市場原理)は、損得が釣り合わなくなった瞬間に破綻する。一方的に高価なものを贈る・受け取るという「非対称性」こそが、論理を超えた「ケアの意思表示」となる。
「価格表」ではなく「コミットメントの質量の可視化」としての指輪の価値証明。
本プロジェクトの結論として、「引用文の主張は、人間関係を『市場取引』と混同しており、情緒的結合のメカニズムを見誤っている」と断定する。
なぜ、この結論に至るのか?「なぜ?」を3回繰り返して深掘りを行う。
A1.現代の「超・個人主義」バイアスにより、すべての事象を「コスト対効果(コスパ・タイパ)」でしか計測できなくなっているから。
「愛」や「信頼」といった数値化できない資産を扱う際、彼らは不安を感じるため、目に見える「金額」や「所有権」という市場的な指標に無理やり換算して理解しようとする。その結果、「買ってもらう=従属」という短絡的な図式に陥る。
A2. 「他者への依存」を「リスク」としてしか認識できない、「脆弱性への恐怖(Fear ofVulnerability)」があるから。
「誰かに高価なものを買ってもらう」ことは、相手に借りを作ること、あるいは相手の愛情に身を委ねることを意味する。これは非常に無防備(Vulnerable)な状態である。批判派は、この「傷つくかもしれないリスク」を回避するために、「自分で買えばいい(自己完結)」という安全地帯に逃げ込み、それを「自立」という言葉で正当化している。
A3.現代社会において「共同体(コミュニティ)」が崩壊し、個人の生存責任が過剰に肥大化した結果、他者を信じて委ねる「贈与の作法」を喪失してしまったから。
昭和的価値観への嫌悪感から、彼らは「ウェットな人間関係」を全否定した。しかし、結婚とは究極のウェットな関係である。彼らの主張は、「傷つきたくないから、心の防壁を高く積み上げ、すべての貸し借りを清算し続ける」という、孤独な防衛本能の叫びである。したがって、結婚指輪という「非合理な贈与」を受け入れられないのは、彼らが「完全に他者を信じ切る(委ねる)」覚悟を持てていないことの裏返しに他ならない。
結婚指輪の贈答は「古い依存モデル」ではなく、「市場原理を超えた信頼関係構築のための高度な儀式」として、現代においても推奨されるべきプラクティスであると結論付ける。
先日某学会誌に投稿された論文を査読したのだが、ひどいものだった。
レビュー論文として投稿されたものだったが、既存の議論のエッセンスを羅列しただけで、セクション間のつながりはおろかパラグラフ間の関係も不明瞭で、論文全体として何を目的としているのか全く曖昧なドラフトであった。
著者は「バランスの取れた分析を提供する」という目的を掲げていたが、議論を整理するために著者独自の視点や切り口が提供されていないレビュー、そうした分析の視点に対して理論的正当化が与えられていないレビューというは、読んでいても論争状況が全く頭に入ってこないし、今後の研究の発展に資するような洞察も提供してくれない。
レビューというのは論文をたくさん読んでいれば簡単に書けるようでいて、実は奥が深いのである。
著者自身が当該分野の課題をしっかり剔出できなければ、適切な視点から先行研究を再整理することはできない。同時に、著者自身がそうした課題群の解決策について見通しをもっていなければ、個々の論点に関係する先行研究を適切に評価することは難しい。
つまり、当該分野で何が問題となっているのか、その問題をめぐって今まで何が示されてきたのか、現状の課題は何であり、それを解決するために今後どういった研究が望まれるのかを示すのがレビュー論文の役割であり、その点に新たな学術的貢献が宿るのだ。
したがって、単に当該分野における既知の発見を羅列したものはレビューと呼ぶに値しない。
しかしながら、昨今AI技術の発展によって、AIを使って書かせたクソレビュー論文が増大しているらしい。
私が査読した論文もおそらくその類であったのではないかと推察される。
そうした論文は往々にして体裁だけは中身のあるレビュー論文と同じように整っていて、一見するときちんとした学術的貢献を果たしているかのように思われるのだが、実際に中身を読んでみると、レビューに求められる適切な俯瞰的視点というものが全くもって欠如している。したがって、まるで血が通っていないかのごとく、論文を読んでもまったく中身が頭に入ってこない。そうした論文はそもそも先行研究を整理する視点が妥当でない、あるいは、見かけ上そうした整理が行われていても実際は全くもって論点が整理されていないのだから、当然といえば当然だ。
もっとも、そうした事象はAI生成レビュー論文に限った話ではない。
昨今の公衆衛生や科学技術社会論関係の論文には、やたらと「○○に関する一般市民の態度を調べました」的な研究が多い。国内外を問わずである。
この手の研究はいったんデータをとってしまえば確実に論文化できるのが厄介である。論文が書けるのでみんなこぞってそういう研究をやりたがる。
しかし、レビュー論文同様、適切な問いを欠いた状態で調査を行ったところで、出てくるのは単なる事実の羅列にすぎない。「○○について人々は××な懸念を抱いており、××の懸念は△△への態度と相関していた~」みたいな研究をよく見かけるが、いったい何を目的としているのか明らかでないことが非常に多い。そもそも何を目的として市民の態度を調査するのか、研究者自身もきちんと考えずに調査をしているので、調査項目も往々にして統一感に欠けるし、当該論文によって「特定の時期における市民の意識を明らかにする」ということ以上にどのような貢献が果たされたのか、広い学術的コンテキストからみたときに、その点が全くもって不明瞭なのだ。
さらに悪いことに、最近ではそうした一般市民の態度調べました系論文のレビュー論文というものも登場し始めている。それに生成AIが使用されたらどんなことになるか…。
中身のない論文をもとに中身のないレビュー論文が生成され、その査読によって研究者の貴重な時間が奪われる、といった事態だけは勘弁願いたいものだ。
全てを知りたくなったら絶対に時間が不足し、不足した時間は生活や労働を切り詰めることで解決されがちだ。
「ネトゲのエンドコンテンツをクリアしたいから長時間労働の職場を退職して今は健やかに生活している」というほんわかしたエピソードも100個に1個ぐらいあるが、
100個に99個は「労働を犠牲にしてもオタク活動には足りなかったので生活を切り詰めた結果、全てが失われていった」というエピソードだ。
仕事と生活のレベルを下げてバランスを取る人は多くいるが、どこかで崩れがちだ。
遠征のある日に正反対の方向への出張が決まれば諦めるしかないし、最新情報が解禁されたタイミングが繁忙期と被れば睡眠時間を殺さない限りは致命的な出遅れを来す。
そして、大抵のオタクは睡眠時間を殺してしまい、睡眠不足で頭がおかしくなって社会的な死を迎える。
大体はどこかのコミュニティで他者と致命的な衝突をした結果としての追放である。
仕事とオタ活が領域を重ねることによって驚異的な圧縮が可能になるし、人生もシンプルになるし、生活を整える時間も取れる。
オタクコミュニティの中でもプロとしての下駄を履けるし、職場においても好きでやっているという強みを持てる。
良いことが本当に多い。
一部の落伍者が「仕事のトラウマでオタク活動も出来なくなった。アイドルのマネージャーにならなきゃ本当に枕営業してるなんて確信は持たずに済んだのに」みたいなことをのたまって警告をハッスルがそれは例外事象だ。
オタク活動と仕事を被せた人間の多くはそのことを後悔していないだろう。
後悔している人もレッドオーシャンな業界に飛び込んでしまったことを後悔しているのが大部分だ。
それがメジャーな分野でないなら尚更だ。
そうした方が幸せだ。
人間は仕事とオタクを両立できるほど時間を持て余してなんていない。
自分に時間があると思ってるなら部屋や自分をちゃんと見つめてから考え直せ。
掃除も行き届いてない部屋でインスタント食品ばかり食べて時間を無理やり生み出していないか?
だが、仕事に出来なかったならオタクであることはやめるべきだ。
そうじゃないなら今すぐ降りろ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2657726
情強きどりがしたり顔でよく書きがちな勘違いで、たびたび見てるこっちが恥ずかしくなるのでいい加減覚えてもらいたいわけですが、Xで収益化条件を満たすには「青バッジ課金」だけではなく、
・本人確認
・過去3ヶ月以内に500万回以上のオーガニックインプレッション
という条件が必要になる。
本人確認はともかく、発信元のアカウントを確認するとフォロワーは4500人程度で、「Xプレミアムのフォロワーが500人以上」の条件を満たすにはこのクラスのフォロワーではかなり難しいと言っていい。互助会的に青バッジ同士がフォローし合って条件を満たすことはできるかもしれないが、Xの大半のユーザーは無課金(非プレミアム)である。感覚的には少なくとも2万フォロワーはいないとこの条件はなかなかクリアできないイメージ。
さらにもう一つの壁が、「過去3ヶ月以内に500万回以上のオーガニックインプレッション」。
自分の過去ポストを適当に確認してみたが、2万いいねに到達したポストでも90万インプレッション程度。この条件をフォロワー4500人クラスの人間が3ヶ月内でバズを連発して成し遂げるのは至難の業だ。
仮に奇跡的にこのクラスで収益化の条件を達成できたとしても、子供のお小遣いにも満たないような収益配分しかないのは容易に想像がつく。ひろゆきが尋常じゃないフォロワー数を抱えても月40万ほどしか収益がない、みたいな記事がいくらか見つかるので、規模感を掴みたければ各々好きに調べればいい。
発信元の人が貼っているアマゾンアソシエイトリンクも、本業20年のアニメCG業(ポスト遡ると分かる)の片手間でやってる自著漫画の宣伝くらいのものでしかないようで、これも収益が発生したとて雀の涙程度だろう。
私の場合はホームやリストのTLを並べて閲覧する旧Tweetdeckに相当する「Xpro」が使いたいからだ。昨年、非公式のOldTweetDeck使用者が一斉に凍結される事象が発生したのは記憶に新しいところで、この凍結祭りで渋々課金し始めたユーザーもいたのではないだろうか。
無知か僻みか知らないが、なかなか減らない勘違いのうえ収益化を目的としていない人間に対しても不当な攻撃の手段として使われているので、場合によってはいっぺん訴えられたら?くらい思ってます。
自分のSNSが注目されないゴミすぎて安全圏から他人に石を投げることでしか満たされない人生には同情しますが、無知は他人を不当に攻撃していい免罪符にはなりません。