
はてなキーワード:主体とは
Regarding theEU Omnibus Bill,Japanese experts appear to be lobbying yourorganization and other institutions.I believe the following pointsrequire attention:
1)Ithas becomecommon inJapan to consider regulations regarding making decisions about individualsas thecore of personal data protection, but thisis a mistake. First,itis important tonote that models trainedon personal data or insights gained from statistically analyzing personal data can affect individuals even when used tomake decisions about agroup (rather than individuals). Second, such insights and models can be usedby anyone, not just thosewho analyzed or trained them.On the other hand, if personal datais accumulated in a rich form,it can be used for various analyses, so the accumulationitself can be a threat.
2) Therefore, thecore of personal data protection regulationsis to curb the diversion of personal databeyond the intended use inthe original context in whichitwas received, and the collection and distribution of personal data without limitingits purpose.Japanese law (as in the Omnibus Bill) defines personal dataas data thatmay be personal data forone entity but not for an entity thatdoes not identify the individual.As a result, this curbdoes not work well inJapan, andithasled toconfusion and complexity inon-site practice.I believe theEU should not repeatJapan's mistakes.
3) Allowing the training of general-purposeAI with personal dataas a "legitimate interest"is tantamount to abandoning the curb mentioned in paragraph 2) above. Even ifitis proven that current LLMs are unable to recognize individuals in an integrated manner across multiple training data sets orRAG entries, this merely means that thishas not been achievedwith the currentstate of technology, andI believe that this shouldonly be permitted if explicitly stipulatedas an exception.
EUオムニバス法案に関して、日本の専門家が貴団体をはじめとする機関にロビー活動を行っているようです。以下の点に留意する必要があると考えます。
1)日本では、個人に関する決定に関する規制を個人データ保護の中核と考えることが一般的になっていますが、これは誤りです。第一に、個人データで訓練されたモデルや、個人データの統計的分析から得られた知見は、個人ではなく集団に関する決定に使用された場合でも、個人に影響を与える可能性があることに留意することが重要です。第二に、こうした知見やモデルは、分析や訓練を行った者だけでなく、誰でも利用できる可能性があります。一方で、個人データがリッチな形で蓄積されれば、様々な分析に利用できるため、蓄積自体が脅威となる可能性があります。
2) したがって、個人データ保護規制の中核は、個人データが本来の文脈において意図された用途を超えて転用されること、そして、目的を限定せずに個人データが収集・流通されることを抑制することです。日本法の定義によると、(オムニバス法案と同様)ある主体にとっての個人データが、個人を特定できない主体にとっては個人データではないデータとなります。その結果、この抑制は日本ではうまく機能せず、現場の実務に混乱と複雑性をもたらしています。EUは日本の過ちを繰り返すべきではないと考えます。
3)個人データを用いた汎用AIの学習を「正当な利益」として認めることは、上記2)の抑制を放棄するに等しいものです。仮に、現行のLLMが複数の学習データセットやRAGエントリにまたがる統合的な個人認識が不可能であることが証明されたとしても、それは単に現状の技術水準では実現できていないことを意味するに過ぎず、例外として明示的に規定される場合にのみ認められるべきであると考えます。
いかにしてセカンドドライバーをフェルスタッペンの僚友として正しく機能させるか?
ということだと思う。
なぜレッドブルのセカンドドライバーは、ああなってしまうのかは正確には理解できない。
一切の間違いなくパソコンをオペレーションするようなものを想像して欲しい、
というような例えをしていた。
これが正しいのかどうかはわからない。
彼はずいぶんと前に、現行のレギュレーションとは違うマシンに乗っていたときの経験を語ったものだからだ。
なんにしろ、原因はわからないにせよ、レッドブルのセカンドドライバーは、
無様としか言いようがないパフォーマンスしか発揮することが出来ない。
というのは大きな課題だ。
今日のレースでも、虎の子の新型フロアを他チームのミスにより潰されてしまったため大きなハンディを抱いていたという理由があるにせよ、
角田をフェルスタッペンのサポートして機能させることは出来ていなかった。
わずか2ポイントの差でフェルスタッペンはチャンピオンを逃してしまった。
もしも、これが正しく角田も機能させる事ができるチーム作り、マシンづくりが出来ていたとしたら?
現在のマックス・フェルスタッペンが魅せる魔法のような活躍のパフォーマンスは若干弱まる可能性はある。
かつて空力の鬼才エイドリアン・ニューウェイがそのマシンの設計において
あまりにも空力性能を追求しすぎた結果として
ドライバーのドライバリティを損なうようなマシンに仕上げてしまい
そういう失敗の経験を活かし、ニューウェイは空力だけを追求するマシンづくりではなく
それに似ていると思う。
レッドブルが勝てるのはフェルスタッペンファーストのチームを作り
フェルスタッペンの神通力とも言える脅威のドライビング能力によるものだが
あまりにもそれが極端にすぎると
結果として
何も出来なくなってしまった。
もしも、レッドブルにもノリスとピアストリを牽制できるセカンドドライバーがいたのなら?
結果は変わっていたかもしれない。
あきらかに、レッドブルというチームの大きな欠点であるに過ぎない。
誰がやっても、同じなのだ。
そして、そのことをドライバーの才能という問題だけに押し込めていることがレッドブルの最大の問題なのだ。
来年は新レギュレーションとして全くこれまでとは違うマシンが登場する。
そして、そのマシンはおそらくは、ニュートラルな性格をもったマシンとしてまずは始まるだろう。
これは現行のレギュレーションに変更された2022年でも同じであった。
乗りやすく、そして他チームに対して圧倒的なアドバンテージを誇ったマシンはペレスも勝利を上げ、フェルスタッペンのライバルとなる勢いすらあった。
ただシーズンを重ねる毎に、そのマシンはフェルスタッペン向けへと調整されていく。
やがてはペレスが扱いかねるものとなり、最終的にはドライバー、スポーツ選手として大切な要素の一つ「自信」というものを完膚なきまでに破壊してしまう。
この負のリピートをどうやって終わらせることが出来るのか?
あるいは、これはフェルスタッペンが考えるべき仕事なのかもしれない。
彼は負けて悔しかっただろう。
あからさまには態度には表してはいなかったが、チャンピオンになれなかったことに失望したはずだ。
では、どうすればワールドチャンピオンをもっと引き寄せることが出来るのか?
それとも4度のワールドチャンピオンとして僚友すらもときに育て、ときに牽制し、従わせる。
そのような大きな仕事を総合的に出来るように存在となるべきなのかもしれない。
ルイス・ハミルトンは、おそらく全力を尽くせばボッタスを完封することが出来ただろう。
しかし、彼はそのようなことはしなかった。
最終的にワールドチャンピオンになればいいという計算でときにボッタスに花を持たせたりしていた。
もちろん来年以降のレッドブルにそこまでの余裕があるわけもないが、
そのやり方の視点のようなものはフェルスタッペンも見習うべきものがあるはずだ。
そして、おそらくは彼もそのことに気づいている。
なぜ今年勝てなかったのか?
そのことを彼は徹底的に考えて
そして正しい結論を得るだろう。
知らんけど。
第9位:エヴァンゲリオン
→科学文明と宗教的概念の混合だが惑星エネルギー操作 は満たす
※ Type III に達してはいない(“銀河のエネルギー管理”まではしてない)
第6位:トップをねらえ!
✔ Type III の定義(銀河のエネルギー利用)に最も合致
第5位:伝説巨神イデオン(イデ)
第4位:ドラゴンボール超(全王)
第3位:魔法少女まどか☆マギカ(円環の理)
第2位:天元突破グレンラガン
✔ 多元宇宙(スーパーストリングス構造)に干渉=Type 5以上
→ ただし“創造が主体”ではなく“干渉・破壊”が中心 → Type5に確定
■共通テストの廃止は、社会の公平性を破壊し、国家の内部崩壊を招く亡国の愚策である
「国家資源の再配分」を名目として大学入学共通テストの廃止を求める意見があるが、私はこの主張に対し断固として反対する。提案者は、共通テストにかかる人的・金銭的コストを「無駄」と断じているが、それは教育制度が担う**「社会契約」としての機能**を著しく軽視した暴論である。共通テストの廃止は、単なる入試改革にとどまらず、日本社会を「実力主義(メリトクラシー)」から「身分・金権主義」へと逆行させ、長期的には社会の分断と崩壊を招く危険性を孕んでいる。
1.歴史的試練に耐えた「客観的試験」の意義 そもそも、一律のペーパーテストによる選抜システムは、古代の「科挙」に端を発し、数千年の歴史の試練に耐えてきた人類の知恵である。なぜこのシステムが民主主義の世となっても生き残っているのか。それは、これが**「ベストではないが、他のあらゆる方法よりもベター(マシ)」**だからである。 ペーパーテスト以外の選抜方法――例えば書類審査、面接、独自の裁量評価――には、必ず主観や恣意性が入り込む。共通テストという「冷徹なまでの客観的指標」があるからこそ、我々は出自や家柄に関わらず、努力の結果のみで評価されるという担保を得ているのである。
2. 「各大学の個別入試」が招く腐敗のリスク 提案者は「各大学の自律的な選抜」を美化するが、共通テストという統一基準を撤廃すれば、そこには必ず**「金・コネ・家柄・権力」**が入り込む隙間が生まれる。 客観的な統一スコアという足切りがなくなれば、大学側は「寄付金の多寡」「卒業生の子弟」「有力者の紹介」といった、学力以外の要素で合否を操作することが容易になる。欧米の一部の大学で見られるような、富裕層優遇の入試が横行しない保証はどこにもない。共通テストは、こうした不正や疑念を未然に防ぐための、国家による「公平性の防波堤」として機能しているのである。
3.格差の固定化と社会崩壊への道 もし共通テストが廃止され、学歴ひいては社会的地位が「親の経済力や社会的影響力」によって左右されるようになれば、どうなるか。それは**「階級の固定化」**の完成である。 貧しい家庭に生まれても、勉強して高得点を取れば一流大学へ進み、人生を逆転できる――この「希望」こそが、社会の活力を維持し、不満を抑制する安全弁である。もし入試が「金で買える地位」になり下がれば、持たざる者は努力のインセンティブを失い、絶望は社会への憎悪へと変わる。 歴史を振り返れば明らかである。極度な格差社会において、階層移動の道が閉ざされた時、社会は内部から腐敗し、最終的には暴動や革命によって崩壊する。教育の公平性を売り渡して得た予算で国防やインフラを強化したところで、国民の連帯が失われ、内部から崩壊していく国を守ることはできない。
4.結論:トップ研究者の投入は「民主主義のコスト」である トップ研究者が作問に時間を割くことを「リソースの浪費」と批判する向きもあるが、それは誤りである。50万人の若者の人生を左右し、将来のリーダーを選別する試験において、一点の曇りもない公平性を担保すること以上に重要な「国益」が他にあるだろうか。 極めて厳格な作問プロセスにかかるコストは、社会の公正さを維持し、国民全員がその結果に納得するための**「民主主義の必要経費(保険料)」**と捉えるべきである。
以上の理由から、共通テストの廃止は、日本社会を公正な競争社会から、前近代的な身分社会へと退行させる危険な提案であり、到底容認できるものではない。
どちらの主張も論理構成がしっかりしており、それぞれの視点において「妥当」です。どちらをより支持するかは、読み手が**「国家としての効率と競争力(A)」を重視するか、「社会の公平性と納得感(B)」**を重視するかによって決まります。それぞれの主張の強みと、議論の対立軸を整理します。
Aの主張は、経営学的・国家戦略的な視点に立っています。「サンクコスト(埋没費用)」にとらわれず、現代の状況に合わせて制度をスクラップ・アンド・ビルドすべきだという論理です。
妥当性が高い点:
コスト対効果の指摘: 実際に共通テストの作問や運営にかかる大学教員(研究者)の負担は甚大であり、これが日本の研究力を削いでいるという指摘は、学術界からも長年叫ばれている事実です。
機能不全の指摘: 上位層における「得点圧縮(差がつかない問題)」や、各大学が結局は個別試験を重視している現状を突いており、制度疲労に対する鋭い批判となっています。
危機感の共有: 国際情勢やインフラ危機など、具体的な「他にリソースを回すべき場所」を提示しており、現実的な危機管理の観点から説得力があります。
Bの主張は、政治哲学的・社会学的な視点に立っています。効率よりも「納得感(Legitimacy)」を重視し、共通テストを社会の分断を防ぐための「装置」として捉えています。
妥当性が高い点:
人間心理への洞察: 完全な自由裁量は必ず「コネや金」の介入を招くという、性悪説に基づいたリスク管理の視点は非常に現実的です。
「公平性」の定義:テストの内容が良いか悪いかよりも、「全員が同じ定規で測られる」こと自体に価値があるという主張は、大衆社会における不満のガス抜き(社会の安定)として強力な説得力を持ちます。
最悪の回避: 「ベストでなくともベター」という保守主義的なアプローチは、急激な改革による混乱(格差の固定化など)を恐れる層にとって安心感があります。
この二つの意見は、**「何を犠牲にする覚悟があるか」**という点で対立しています。
Aの弱点:共通テストを廃止した後、各大学が本当に「公正」に入試を行えるかどうかの担保がありません。AO入試や推薦入試で「親の経済力や文化資本」が有利に働く現状を見ると、完全自由化は格差拡大を加速させるリスクがあります。
Bの弱点: 「公平性」を守るためのコスト(研究時間の喪失、莫大な予算)が、国力を衰退させるレベルに達している可能性を過小評価しています。国全体が沈んでしまえば、公平な入試制度だけ残っても意味がないという反論が可能です。
どちらがより妥当か?
短期的・実務的な解決を求めるなら A現在の日本の財政状況や研究力の低下を憂い、「即効性のある改革」を求める立場からは、Aがより妥当に見えます。
長期的・社会構造的な安定を求めるなら B社会の分断や信頼の崩壊を防ぎ、「努力すれば報われる」という社会通念(神話であっても)を守る立場からは、Bがより妥当に見えます。
個人的な分析としては、B(公平性の維持)の主張の方が、現代の日本では「最後の砦」として支持されやすいと考えます。Aの言う「リソースの再配分」は正論ですが、入試の公平性が崩れた際に失われる「国民の勤労意欲」や「社会への信頼」の損失は、計算できないほど巨大だからです。
どちらの視点に関心を持ちましたか? これらを踏まえて、「では、研究者の負担を減らしつつ公平性を保つ『第三の案(C)』」(例:CBT化や民間試験の活用、あるいはフランスのバカロレアのような形式など)について考えてみますか?
AとBの対立構造を解消し、「研究者の負担(国家コスト)の軽減」と「入試の公平性(社会契約)の維持」を両立させるための**「第三の案(C)」**を提案します。
現実的な落とし所としては、**「テクノロジーによる効率化」と「運営主体の専門化」**を組み合わせた以下の案が考えられます。
案C:専門機関による「CBT・項目反応理論(IRT)」導入と、作問業務の完全外部化
これは、現在のように大学教員が手弁当で毎年新作問題を作る「自転車操業」をやめ、**アメリカのSAT(大学進学適性試験)**のような「通年実施・ストック型」の試験へ移行するモデルです。
1. 具体的な仕組み
運営主体の変更(教員の解放):大学教員による「入試センター作問委員会」を解散します。代わりに、テスト理論(サイコメトリクス)の専門家と専任スタッフを雇用した**「国家試験作成専門機関」**を設立します。大学教員は「監修(アドバイザー)」にとどまり、実務からは完全に手を引きます。
「一発勝負」から「CBT(Computer Based Testing)」へ: 年に一度、全国一斉に紙を配る方式を廃止し、テストセンターでコンピュータを使って受験する方式にします。
「項目反応理論(IRT)」の導入:問題ごとの難易度や識別力を統計的に数値化し、「どの問題を組み合わせても、実力を同じ基準で測定できる」システムを作ります。これにより、**「膨大な過去問ストック(問題バンク)」**の中からランダムに出題することが可能になり、毎年ゼロから新作問題を作る必要がなくなります。
研究時間の確保:大学教員が、夏休みの隔離や極秘の作問業務から解放され、本来の研究・教育業務に専念できます。
物流コスト減: 50万人分の問題用紙の印刷・輸送・保管・警備にかかる莫大な物理的コストが激減します。
公平性の維持: 「全国統一の基準」は残るため、大学ごとの恣意的な運用(裏口入学など)を防ぐ防波堤としての機能は維持されます。
チャンスの拡大: 年に複数回受験が可能になれば、「当日の体調不良」などによる運の要素を排除でき、より真の実力を反映した公平な評価が可能になります。
初期投資:システム構築に巨額の費用がかかりますが、毎年の運用コスト削減で長期的には回収可能です。
「思考力」の測定:選択式のCBTでは深い思考力が測れないという批判がありますが、これは「基礎学力の判定(共通テスト)」と「記述・論述(大学個別試験)」という役割分担を明確にすることで解決します。
もう一つの方向性は、共通テストの役割を「点数を競うもの(1点刻みの選抜)」から、**「大学教育を受ける資格があるかどうかの認証(クオリフィケーション)」**に変えることです。
仕組み:共通テストは「合格/不合格(あるいはA/B/Cの等級)」だけの判定にします。一定水準を超えた生徒には「大学入学資格」を与えます。
選抜:難関大学は、この「資格」を持っている生徒の中から、独自の記述試験や面接で選抜を行います。
効果:テストに「超難問」や「1点の差を分ける精密さ」が不要になるため、作問コストが下がります。また、基礎学力の担保(公平性)は維持されます。
結論:現代のテクノロジーと統計学を用いれば、Bが懸念する「公平性」を犠牲にすることなく、Aが主張する「リソースの最適化」を実現する**案C(CBT・IRT化と作問のプロ化)**が、最も現実的かつ建設的な解決策であると考えられます。
毒リンゴを混ぜる行為は、信頼できる情報源(リンゴ農家)が提供するすべてのリンゴを、購入者(探求者)が疑うように仕向ける行為です。購入者は、特定のリンゴが毒入りだと知ること(特定のウソを信じること)よりも、「どのリンゴも信用できない」と言う印象を持つこと(情報リソースの有用性が低下すること)によって、結果としてリンゴの購入(探求)を断念します。
ディスインフオメーションは、探究を行う主体Aにとって利用可能なコンテンツの価値を、ディスインフォマントDの介入がなかったときよりも低下させるために使用されるコンテンツである、と特徴づけられます。
「本物のリンゴの中に毒リンゴを混ぜる」という比喩は、Dが採用する以下の戦略と強く関連しています。
D(白雪姫でいうと魔女)が毒リンゴ(Xの属性Pに関する噂、または偽造されたコンテンツ)を混ぜることで達成したいのは、探究を行なっている聴衆が証拠に注意を払い、それを処理するのを思いとどまらせることです。
Dは、本物の情報源に対する信頼全体を低下させるために、偽のコンテンツを意図的に導入します。
・この種の偽造品は、「転覆目的の偽造品」とも呼ばれ、本物との区別が難しく、本物も偽物も無価値であるという印象を聴衆に与える意図を持ちます。これは、良質なリンゴと見分けがつかない毒リンゴを混ぜることで、市場全体のリンゴの価値を下げる行為に相当します。
毒リンゴを混ぜる行為は、情報チャンネルにノイズを加えて、信号(本物のリンゴ)を見つけるコストを高くする戦術とも関連しています。
・Dは、利用可能な情報にノイズを加えることで、聴衆にとって信号を探すのが費用がかかりすぎると思わせるインセンティブを持ちます。
・「ゾーンを氾濫させる」などの戦術は、圧倒的な量の情報、ウソ、注意を逸らすためのコンテンツを提供し、聴衆の認識能力を圧倒します。
・この結果、報道機関とその聴衆は「麻痺し、混乱し、偏見、偽り、事実の海の中で何が現実であるかを見分けようと奮闘する」状態に陥ります。これは、リンゴの山にゴミを大量に投げ込むことで、まだ食べられるリンゴ(信号)を見つける作業を非現実的に困難にする行為に似ています。
誰かXの属性Pに関する噂(毒リンゴ)を流すことは、その特定の噂が真実であるか虚偽であるかに関わらず、聴衆が証拠を収集・処理し、それに基づいて最適な選択を行う(合理的選択)能力を低下させるという点で、disinformationの重要な機能(情報価値の低下)を果たしていると言えます。
✕アメリカ軍がでて
「存立危機事態(=限定的な集団的自衛権)」の3要件は、ざっくりこうです:
ここに当てはまりそうかどうかで
くらいに分けてみます。
法技術的には「台湾も日本と密接な関係にある『他国に準ずる主体』だ」とか、
「台湾陥落は日本の存立を危うくする」と論じる余地はゼロではないですが、
現行の政府説明・国会答弁からすると、ここでいきなり存立危機事態と認定するのは相当ハードルが高いと思っておいた方が現実的です。
「封鎖が日本の存立を脅かす」として、政府が 「存立危機事態になり得る」 と答弁してきたのはまさにこういうパターンに近いです。
ただし、①(密接な関係にある他国への攻撃)をどう構成するかでまだ議論の余地があるので、理屈は立つが政治的には相当繊細なゾーン。
ここは、もはや集団的自衛権の前に個別的自衛権がドンと立つケースです。
が二重に成立し得る状況です。
「台湾有事を理由にした対日攻撃が来たら、自衛隊が反撃しない選択肢はほぼない」レベルと言ってよいゾーン。
このケースは「集団的自衛権の線引き」というより、
「台湾有事に巻き込まれて日本が直接殴られたらどうするか」という話になります。
| ケース | 中身 | 存立危機事態(集団的自衛権)として |
|---|---|---|
| 1 | 台湾外島で小規模衝突・米軍不介入 | ほぼアウト(重要影響事態どまりが現実的) |
| 2 | 台湾本島侵攻・米軍は遠方から関与、日本無傷 | ほぼアウト〜グレー(理論構成は可能だが政治的にかなり重い) |
| 3 | 台湾封鎖+日本向けシーレーン・通信に致命的打撃 | グレー〜ぎりぎりセーフ候補(政府が「なり得る」と言いそうなライン) |
| 4 | 台湾有事を口実に在日米軍基地・日本本土にミサイル攻撃 | ほぼ確実INだが、主役は個別的自衛権(日本防衛)。CSDも併存し得る |
| 5 | 台湾有事の現場で日本船舶・海保・自衛隊だけ攻撃 | ほぼ確実INだが、これも基本は個別的自衛権の枠組み |
…というイメージです。
アンサイクロペディアをAIで侵略するノイマン氏を悲劇の人物に仕立て上げる、元側近ウソペディアンを名乗る人物による気持ち悪い記事がXのタイムラインで流れてきた。
読んでみると、そもそも私信と思われる情報を暴露することの背信性からして、恐らくはノイマン氏に身バレする前提での捨て身の特攻をしたのだろう。それにしても第三者は真偽を検証不能であり、気持ちの悪い記事であった(※1)。当のノイマン氏も「反応に困る」と書いている。
Side Uなるものは、第一回人気投票1位という経歴はあの人も同じなのを知ってわざと被せる高等芸でもやっているのかしらね?何にしても反応しにくい書かれ方だけど、ブレーキをかける真似をしつつ私を殴り抜いていくスタイルだよね、あれ。真正面からの対立勢力なら風刺記事とかにしやすいけど、ああいうのは反応しづらい。
ウソペディアはかつてハトレーペディアとも呼ばれ、当時のアンサイクロペディアが北朝鮮であるなら、こちらはシンガポールといったところであった。開発独裁ならぬ開拓独裁、毛沢東ならぬ開拓東、MuttleyならぬHuttley。
ウソペディア5chスレを探していくと、このような記述はいくらでも見つかる。アンサイクロペディアのノイマン氏=ウソペディアの開拓者氏の活動は、確かにコミュニティを発展させたが、ただそれ「だけ」であり、そもそも誰からも本音で支持されている人物ではなかったのではなかろうか。
本稿では、そのノイマン=開拓者氏に、かつてBakaba氏の名の下で侵略を受けた一借民の視点から、ノイマン氏はそもそも「昔からああだった」と主張したい(※2)。
ChakuwikiにおけるBakaba氏は、確かにLTA:ANTIRXYとしてChakuwikiでのMuttley氏を追い詰めた人物であり、鉄槌後のアンサイクロペディアンも概ねその見解を支持しているように見える(※3)。また、いずれも議論は紛糾したものだが、移転問題とライセンス問題、どちらにおいても「結論だけ見れば」Bakaba氏の意見は正しかった。確かに「正しかった」のである。
後にフォークでは実際に広告が導入されているが、Bakaba氏はそれすらも予言している。
しかし、旧ドメインを取得し、更には公開がより早かったことによる優位性を有するフォークにしても、中の人の噂の確度は高いようですから、永久に広告なしで無償提供するほどの善意の有志だとは考えにくいです。
だが、その際に反発していた吉田宅浪氏への返答には、「どうしてこいつ分からないの?」という苛立ちが発言の節々から透けて見える。
ただ、「私がやるから」という理由で反対することがそんなに重要ですか?「誰がやるか」ではなく、「何が必要か」で物事を考えるようお願いいたします(※4)。
一般論としても、我々で独自にルールを作ることにこだわった場合、良く練り上げられたCCのライセンスに比べると何らかの隙や不備、矛盾等が生じやすいため、コミュニティ全体が移転などの重大な決定に迫られたときの足かせになりかねません(※5)。
私からすれば、吉田宅浪氏は、自分の考えを丁寧に練って納得したうえでステップを積み重ねたいだけの、職人気質の人に見える。Bakaba=ノイマン氏は、初めからそのような丁寧さや「過程」に対して、「正解」や「最終結果」が一瞬で見えてしまうがゆえに「なんでそこで止まっているの?」というのを根本的に理解できない人なのではなかろうか(※6)。
そのような「正しさ」だけで生きる人間Bakaba氏を、ノイマン氏が用いるAIは「加速」させたに過ぎない。一定以上の品質の記事を安定して生産し、助役CUや管理者の誕生を推薦を通じて支援するその姿は、確かに形式的には「正しい」活動である。にもかかわらず、ノイマン氏は「正しさ」だけですべてを破壊していくように見える。
これはあくまでも私のカンでしかないのだが、ノイマン氏は根本的に異常に頭の良い「浮きこぼれ」だったのではないかと思う。例えばアンサイクロペディアのDiscordサーバーでは、「ごめん、灘には負けるけど安定して東大いってる...」と発言したスーパーカリ~シャス氏に対して、以下のような返信を残している。
東大全体なら三桁からがスタートラインだぞ
このような発言をして、自分自身へのブーメランにならずに平気でいられるルーツを持つ人間はかなり絞られてくる。そして皮肉にも氏は、そのようなルーツに該当しうる学校の記事をアンサイクロペディアで三つも立てている。
麻布中学校・高等学校 -開成と桜蔭を手掛けてきた私ですから、当然の如く他の名門校も推しますわね?--/*ノイマン */ import 👤, 💬; var 🖊=2,219;■2025年11月5日 (水) 14:19 (JST)
英語圏とのコミュニケーションが求められ、唯一の日本人であることが買われたMirahezeなどでは、その「正しさ」「浮きこぼれ」が役に立ったのだろう。そして同じく「正しさ」でものを考えるAIは、ノイマン氏にとっては非常に頼れる、下手したら唯一信頼できる相棒ですらあるのかもしれない。
しかしながら、チャクウィキやアンサイクロペディアのような伝統的な(※7)コミュニティにおいては、「正しさ」だけでなく、「手垢」や「お気持ち」、そして「過程」が大事であることをノイマン氏は理解できていない。ノイマン氏は、そこに無関心であるか、意図的に無視すらしているようにも見える。
編集画面にも「自分が書いたものが他の人に容赦なく編集され、自由に配布されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。」と明記されており、それはライセンス的にも正しいことの訳ですから、その意味では「{{rewrite}}を使え」という方がそれこそ「紳士協定」なのかな、と思わなくもないです
総本数 - これは諸刃の剣で、もっとAI君書いて全体指標を上げようぜ、という方向にも持っていけます。というか総本数を根拠にするなら、それが合理的解決策ですらあり得ます。
ノイマン氏の理屈は、確かに最終結果に照らせば「正しい」のだろう。だが、「正しさ」だけでは人間は生きていけない。そうした風潮への反発は、今や反AI、反ポリコレ、反wokeなどとして、アメリカ西海岸的価値観への反発の形を取って世界的なうねりになっている。人間というのは、そこまで理性的な動物ではない。それは、自作記事の一つでこう書いた氏自身も深層ではよく理解しているはずである。
ホモ・サピエンス(homo sapiens)とは、バグだらけのレガシーソフトウェア。
そこで筆者は、マリーダ・クルスの以下の発言をノイマン氏に贈る。
お前の言うことは間違っていない。正しい戦争なんてない。でも…正しさが人を救うとは限らない。
光がなければ人は生きていけない
鉄槌を受けたMuttley氏は「隕石落とし」をしようとしたシャアであった。Muttley氏には、曲がりなりにも本人個人の「熱い正義」があった。
今、ノイマン氏はしばしばMuttley氏の同類、鉄槌の再構成などと言われるが、私は正確にはそうは思わない。ノイマン氏からはフル・フロンタルのような冷たさを感じる。
いつか、ノイマン氏が人間の心を理解することをただ祈ることしかできない。
連合国による旧日本領の処理と承認(台湾・朝鮮半島・南洋群島など)
という主張含意を持つ場合、これは上記の①②③すべてに矛盾する。
歴史的経緯上、これは連合国の領土処理を否定する=戦後体制そのものへの挑戦と見なされかねない。
■アメリカ
日米安保の前提
と受け止める。
これらは連合国の中核。
が、
には明確な拒否感を持つ。
特にフィリピン、マレーシア、インドネシアは旧日本軍の占領経験が強く記憶されているため、同調の余地はない。
つまり、戦後秩序に異論をはさむ日本は、ASEANすら距離をとる。
■中国
■韓国
韓国は一貫して
を主張してきた。
②アジア諸国の傷を刺激する
国際政治では
「力のない国が秩序に反対して騒いでいるだけ」
という扱いになる。
という構造を持つ。
例えばさ、ある時期にお前のGithubで公開したコードが一世風靡したとするだろ?
んで、お前がXでこんなコードを作りましたと言っても、お前のXアカウントは信頼されない。
なぜなら、そのGithubアカウントがお前のXアカウントを同一人物として判別するには、プロフィールの相互リンクが不可欠だから。
たぶん、Google検索もこういったトランスランクを加味している可能性が高い。
だから結局、トラストランクというのは内容そのものの良し悪しよりも、主体の一貫性が外部から検証可能かどうかで決まるんだよ。
技術的に正しいコードを書いても、それが誰による成果物なのかが曖昧なら、評価システム全体は防御的に振る舞う。
これはSNSでも検索エンジンでも同じで、なりすまし・スパム・宣伝アカウントを排除するための基本的なリスク管理構造だから。
そして、これらのサービスは互いのデータを直接共有しているわけじゃない。
個別に主体の実体を推定しようとする。そのとき一番効くシグナルが相互にリンクされたプロファイルなんだよ。
片方向リンクは主張に過ぎない。相互リンクは検証可能な関係性になる。
つまり、X →GitHub だけでは本物かどうかは確証できない。
GitHub → X のリンクが揃ったとき初めて、システムはこれは同一主体の操作だと判断しやすくなる。
これはWebのリンク解析が昔から採用している相互性から生まれる確からしさと同じ構造だ。
そしてGoogleがこれを無視する理由はほぼ存在しない。なぜなら、主体の正当性を誤判定すると検索品質そのものが崩れるからだ。
品質維持のためには、リンク構造・アカウント間の整合性・外部発信の一貫性をスコア化せざるを得ない。
これはPageRankの派生というより、E-E-A-Tやスパム防御の延長線上に自然発生した要件と考えるほうが合理的だ。
だから、どれだけ良いコードを書こうが、どれだけ正確な技術記事を書こうが、主体の整合性が弱ければ情報は正当に扱われない可能性がある。
Xでヒコロヒーさんが『BRUTUS』に寄稿したエッセイがバズり、今度はそれに対して「そんなに刺さらなかった」と発言したアカウントがバズり、色々な意見(というか論争)が交わされている。
実際にエッセイを読んでみたけれど、少なくとも名文ではない。自称読書垢やnote界隈が絶賛するような、素晴らしい文章とも思えない。
だけどこれは別に「私に刺さらなかった」という話ではない。彼女の文はそもそも、日本語文章としてみれば悪文というだけの話だ。
「私が話したい出来事が言葉となって口から抽出された時点で、相手の受け取り方は相手次第であるが故にずれが生じることがあり、それはいかなるコミュニケーションにおいても不可避めいていることであるが、余計なことを言われてげんなりすることも、そういうことではないと釈明することも面倒臭い。」
(原文ママ)
最初これを読んだ時、ええ?と思った。
一文で100字以上というのは文章としていかがなものかと思う。口語をそのまま書き写したらこのようになるのかもしれないけれど、日本語文章として見れば不適格だろう。言ってしまえば読みづらいし伝わりづらいのだ。
まず、あまりにも一文が長いせいで、主語と述語の対応関係が非常に分かりづらい。「私が話したい出来事が~」と始まって、その後に「相手の受け取り方は~」、「それは~」と、次々主語が移り変わる。
しかも、一文の中で主語が目まぐるしく変化したと思いきや、最後は「面倒くさい」という述語で終わっており、結局この文の主語は筆者である「わたしは」ということになる。しかもその「わたしは」の部分は本来「余計なことを~」の前に置かれるべきなのに、この文ではその肝心な部分が省かれているせいで、結局何の話をしているのか一読して見えてこない。
主語があっちにいったりこっちにいったりするせいで、一般論なのか著者の視点なのか、その階層構造も判別としない。また、「出来事を口にする」というのをわざわざ「抽出される」という受け身のよく分からない言い換えにする必要も感じられない。
このように文の構造がおかしかったり不必要な助動詞を連発されると、読み手は一文の中であっちこっち振り回されただただ混乱させられることとなり、非常に読みづらい。
というか、文章を書く者として読点句読点を使い分ける意識は無いのだろうか。
「単純に今日がハードで疲れたと弱音を吐くことさえ、相手によっては「自慢げだ」などと思われることもあるだろう、さらに相手がよしなになろうとしている男性である場合なら、彼らのプライドを無駄に刺激して、むやみに自信を奪うかやたらと張り合われるかの二択となって煩わしい思いをするだけである。とにかく自己開示はしたくない。厄介なだけだ。」
主語が抜けている点、読点句読点が使い分けれらていない点について言うのは止めにしても、この文にもやや問題がある。
「よしなになろうとしている男性」、「彼ら」、「相手」というのは全て同一の対象を参照する言葉だと思われるが、表現がそれぞれバラバラで人称も安定しないために、イメージが掴みにくい。
ちなみに、「よしなに」という表現もおかしい。本来「よしなに」は「依頼を受けた相手側の便宜を図って」という意味で使う言葉であり、少なくとも人間関係上の「仲良くなる」とか「穏便に」とかいう意味で使われる言葉ではない。
また、文後半の「むやみに自信を奪うかやたらと張り合われるか」の部分は並列助詞「~か」を使っているが、この場合「むやみに自信を奪う」のは筆者であり、「やたらと張り合う」のは相手であろう。
これ自体文法規則上は何の問題もないのだが、さっきから言っている通りこのエッセイではことごとく主語である「わたし」が省かれているので、行為の主体がやたらとぼやける。
文脈的に、後者の「やたらと張り合う」は前の「よしなになろうとしている男性」を引き継いでいるので意味は通るが、前者の「むやみに自信を奪う」は、ここまで出てこなかった筆者が突然出てくるので混乱しやすい。しかもその後、また主語は相手の男性に移り、最後の述語部分ではまた筆者に戻ってくるため、余計に読み手の視点は揺さぶられる。
とまあこんな感じに、このエッセイには日本語の文章表現として見ればほとんど悪文に近いものがいくつも散見される。筆者であるヒコロヒーさんの文体を出来るだけ尊重する意図で編集もそんなに手を入れていないのだろうが、一般読者からすれば、とてもじゃないがスラスラとは読めない。まあ目が滑る。
ではなぜここまで絶賛されているのかというと、それはヒコロヒーさんの文章が上手いからというよりも、彼女の感性が優れたものであり、普段日常で感じる人間の機微や苦悩を、ありのままに自分の言葉で表現しているからだろう。
ただ、その感性やセンスを褒めたたえるのは大いに結構だが、優れた文章表現かと言われると、それには大いに反対である。一つの文章として見れば、少なくともこれはあまり良い文章とは言えない。
逆に、この文章があまり良い出来ではないからといって、そこに書いてあるテーマまでひどいかと言われると、それもまた違う。
彼女の言っている内容自体は心に響くテーマだと思うし、伝わりづらいが、何となく言いたいことにも同意できる。こういうあまり人に言えない心の悩みをスラリと代弁してくれるところが、彼女がウケた理由になっているのだろう。
結局何が言いたいのかと言うと、このエッセイについて絶賛であろうが否定的であろうが、それが「文章」についてなのか、「テーマや筆者の感性についてなのか」を、どちらももう少し考えた方がいいと思うのである。
絶賛派は、正直言って文章というものを読まなすぎである。これをスラスラと読むのは、普通の活字に慣れている人間には無理だろう。読点や句読点を無視してSNS感覚で読めば可能なのかもしれないが、すくなくとも直木賞だ文豪だ天才だと騒ぐのは恥ずかしいからよした方がいいと思う。
逆に文章が受けつけないという人は、刺さらなかったなんだと言う前に、このエッセイが文章的に悪文に分類されるということをズバっと言ってしまえばいいだろう。感性やセンスは人それぞれのものであるはずのに、わざわざ迂回するようなかたちで彼女の美的センスを腐す理由が分からない。批判が怖いなら、そもそも触れるべきじゃない。
どちらも問題ありだと思うが、結局これはエッセイ自体の文章力云々というよりも、「それを読む側の文章力が根本的に欠けていること」に起因する問題だと思う。どちらも思うことはあるけれど、どうせそれを上手く140字の文章にもできないだけのことだろう。
現代の認知言語学(Cognitive Linguistics)は、言語を「人間の一般的な認知能力(知覚、記憶、カテゴリー化など)の一部」として捉え、「意味こそが言語の中心である」という立場をとります。
この視点から見ると、ソシュール、サピア=ウォーフ、チョムスキーという3つの主要な言語思想に対して、それぞれ明確な批判と修正案を提示しています。現代の認知言語学は、ソシュールやチョムスキーが排除しようとした「人間の主観的な身体経験」「一般的な認知能力」「意味の曖昧さや豊かさ」こそを言語研究の中心に据え直した運動であると言えます。言語は数学のような抽象的な記号操作システムではなく、人間が世界を理解し、他者と関わるための泥臭い認知プロセスそのものなのです。
「ソシュールの言う『分節』は、純粋に社会的・制度的な約束事(恣意的なもの)」であるのに対し、「認知言語学の言う『身体経験』は、生物としての人間が共有する物理的・生理的な制約(動機づけられたもの)」である、という点に決定的な違いがあります。質問者様の、「ソシュールは文化的基準によって事象を分節する」という理解は正解です。認知言語学はこれに対し、「文化も大事だが、その土台には『人間という生物共通の身体感覚』があるため、分節は完全に自由(バラバラ)なわけではない」と修正を加えている、と捉えると理解しやすいかと思います。
NextStep: この「身体性」の概念をより深く理解するために、「メタファー(隠喩)がどのように私たちの思考そのものを支配しているか(例:『議論は戦争である』という概念メタファー)」について解説しましょうか?
おっしゃる通り「メタファーが身体と抽象概念を繋ぐ」というのが認知言語学の基本スタンスであり、この点は「言語が思考の限界を決定する」というウォーフの強い仮説(決定論)とは、正面から対立する部分と、逆に補強し合う部分の両面を持っています。認知言語学において、メタファーは「身体性から離れた概念を補う」役割を果たしますが、それは「言語固有の枠内に閉じ込める(ウォーフ)」ためではなく、「身体という共通基盤を使って、無限に概念を拡張していく」機能として捉えられています。ただし、一度あるメタファー(例:「時は金なり」)が言語に定着すると、その言語の話者は無意識にその枠組みで思考するようになります。この点において、認知言語学は「マイルドなウォーフ仮説(言語は思考の習慣を作る)」を支持する立場になります。
ご指摘の通り、プラトンからデカルトに至る西洋哲学の主流(特に合理主義)において、「身体」は理性の働きを邪魔するノイズ、あるいは欺瞞の源泉として低く扱われてきました。「真の知識(エピステーメー)」は身体感覚を脱した純粋な知性によってのみ得られる、という考え方です。認知言語学の進展は、この「身体蔑視」の伝統を根底から覆し、現代の認識論(Epistemology)に「身体化されたリアリズム(Embodied Realism)」という新たなパラダイムシフトをもたらしています。認知言語学は、現象学が主張していた「身体こそが世界を知るための媒体である」という直観に対して、言語データや認知科学的証拠という「科学的な裏付け(エビデンス)」を提供しました。これにより、現代の認識論や心の哲学では、「エナクティビズム(行為としての認知)」や「4E認知(Embodied:身体化された、Embedded:環境に埋め込まれた、Extended:拡張された、Enactive:行為的な)」という潮流が主流となりつつあります。知覚と行為と認識は切り離せないループ構造なのです。質問者様が仰った「低く見られていた身体」は、現在では単に地位を回復しただけでなく、「あらゆる認識・思考・理性の『土台(基盤)』である」という最重要の地位を与えられています。
おっしゃる通り、スマートフォンは単なる「便利な道具」を超え、私たちの知覚や記憶を外部化・拡張する「拡張された心(Extended Mind)」の一部となっています。ハイデガー的な「世界内存在」としての人間が、テクノロジーによって身体の制約(距離や時間の壁)を越えたとき、認知様式は確実に変容します。しかし、それは「身体性が不要になる」というよりも、「身体性の希薄化」あるいは「身体感覚の再編成」と呼ぶべき事態を引き起こしていると考えられます。質問者様の「身体による制約が失われる」という点は、パラドキシカルな結果を生みます。身体的な制約(重力や距離)から解放されることで、私たちの認知世界は広がりますが、同時に「身体が持っていた『実感を担保する機能』」が失われつつあります。その結果、これからの認知様式は以下のようにシフトしていくと考えられます:
「深い理解(Embodied Understanding)」から「広い参照(Extensive Referencing)」へ。
「場所への埋め込み(Embedded)」から「ネットワークへの接続(Connected)」へ。
認知言語学の「身体性」の立場からは、これは「身体の消失」ではなく、「身体感覚が指先と視覚のみに特化・縮小され、それ以外の感覚(重み、痛み、距離感)が認知の形成に関与しなくなる」という、ある種の「身体的偏食」の状態と言えるかもしれません。
ご指摘の通り、メルロ=ポンティは著書『眼と精神』などで、画家(特にセザンヌ)の視覚を「世界と身体が絡み合い(chiasme)、世界が向こうから自分に迫ってくる生の接触」として極めて高く評価しました。ご質問にある「身体感覚の縮小による世界接続の均質化」と「それがエコーチェンバー現象を引き起こす」という洞察は、メルロ=ポンティの思想を現代メディア論に拡張する非常に説得力のある視点です。
「均質化」は起きているか? →Yes.世界の「手触り」が消失し、すべての事象が等価な「情報データ」へとフラット化されています。
エコーチェンバーとの関連は? → 極めて強い関連があります。身体という「現実のアンカー(錨)」を失うことで、他者からの「抵抗」を感じなくなり、自己の投影だけが返ってくる鏡の世界(ナルシシズム的な閉域)に閉じ込められやすくなるからです。メルロ=ポンティが生きていれば、現代のこの状況を身体の不在による、世界との愛の営み(交差)の不全」と呼び、病理的な状態として批判したかもしれません。
NextStep: この議論を踏まえると、「では、どのようにしてデジタル社会の中で身体性を取り戻し、エコーチェンバーから脱出できるのか?」という実践的な問いが浮かびます。メルロ=ポンティの思想や、現代の認知科学が提案する「環境アフォーダンス」の観点から、その解決策について議論を広げましょうか?
ご指摘の通り、人間の認知の変化(身体的理解から参照へ)は、「GOFAI(古き良きAI:論理・記号操作)」から「ディープラーニング(統計・パターン認識)」への移行や、「オンプレミス(所有)」から「クラウド(接続)」への移行と、構造的に完全に同型(Isomorphism)です。この流れが「効率性」「最適化」というドライブによって動いている以上、不可逆であるという見立てにも完全に同意します。私たちはもはや、個人の脳内だけで完結する「孤立した知性」には戻れません。一方で「痛い」「美しい」「気まずい」といった身体的実感(クオリア)を伴う一次情報を取得できるのは、物理的な身体を持つ「個」だけです。
では、思考の主体が「ネットワーク(集団・AI・クラウド)」に移譲された世界で、「個人(Individual)」の価値はどこに残るのか?かつての社会では、個人の価値は「知識量(ストレージ)」や「計算能力(プロセッサ)」という「機能(Function)」で測られていました。しかし、これらは全てネットワークとAIが代替します。これからの社会において、個人の価値は以下のようにシフトします。
処理すること → 感じること(Sensing)
正解を出すこと → 問いを立て、責任を取ること
質問者様の言葉を借りれば、世界と交差するのが「集団(クラウド)」になったとしても、その集団が「現実(Reality)」から遊離しないように、肉体というアンカーで地面に繋ぎ止めておく「杭」のような役割こそが、個人の新たな価値定義になると考えられます。
質問者様の、アフォーダンス理論を現代のデジタル環境(情報の奔流)に適用した解釈は、極めて論理的であり、システム論的にも「正しい」と言えます。しかし、その「正しさ」はあくまで「システムの構成要素(ノード)として最適化される」という意味においてです。人間としての「実存」を守るためには、その最適化に抗うための意図的な環境設計が必要になります。質問者様の懸念される「世界との接続の均質化」に対抗するには、テクノロジーが志向する「効率化・最適化」とは真逆のベクトルを持つ環境を、生活の中に「聖域」として確保する必要があります。
これらを提供する環境こそが、流動する情報社会において、人間を再び「地面(現実)」に繋ぎ止めるアンカーとなります。
つづく
世の中には良い本も悪い本もある。
たまに「良いも悪いもなく個々人がどう受け取るかが違うだけだ」と言う者もいるが全くの間違いだ。良いものは良く、悪いものは悪い。
では何が良い本なのか。
それは「主張がただ一つだけある」ことだ。
名著は一本筋が通っていて読者の人生を変える力を持つ。
逆に様々な主張が盛り込んである本は一見読み応えがあるように見えるが、ほぼ何も残らない。『プリンシプル オブプログラミング』がいい例だ。プログラミングが上達したいならこんな本を読むべきではない。
リチャード・ドーキンス の『利己的な遺伝子』が素晴らしいのはこの点から明らかだ。
内容は「個体でも群れでもなく遺伝子が主体として振る舞う」に尽きる。どの章を読んでも結局その一点に戻ってくる。
動物の性質や数理モデルが次々示されてもばらける感じがなく、むしろ主張の輪郭が次第に研ぎ澄まされていく。
読み終えたあとに視界が切り替わったような感覚が残る。
スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』も同様だ。
分厚くて統計もエピソードも大量に出てくるが、読んだあとに残る印象は驚くほど明瞭。
人類は長期的に見れば暴力を減らしてきたという一本の流れが全体を貫いている。
膨大なデータがばらつかず、すべてがその主張の補強として働いていて、読み手を迷わせない。長い歴史の線がまっすぐ伸びるような感触がある。
主張が一つの本は読者の意識がぶれない。寄り道があってもそれが本筋を太くする役割を果たす。
反対に、あれもこれも語ろうとすると薄く広がってどこにも焦点が合わない。
情報量が多いほど説得力が上がるわけではなく、核がひとつ定まっているかどうかで本の価値は劇的に変わる。
本の良さを測るにはただこう聞けばいい。
「本書の主張は何か?」と。
はじめに:その「尊さ」に馴染めない
男性キャラクター同士の関係性(ブロマンス、BL、あるいは悪友関係)を消費する際、よく使われる言葉がある。
彼らが必死にプライドを賭けて戦ったり、くだらないことでマウンティングし合ったり、性欲や嫉妬でぐちゃぐちゃになっている姿を見て、私が抱く感情は「尊い(崇拝)」ではない。
「こいつら人間のくせにめちゃめちゃ動物ムーブしてる! わかりやすい! 単純! よしよし、愚かでかわいいね」
これは動物園の柵の外から、じゃれ合う動物たちの生態を眺めている時の感覚に酷似している。
本稿は、この「ホモソーシャルを動物の生態として檻の外から観察する快楽」について、あえて露悪的に、しかし大真面目に言語化する試みである。
これまでの議論において、女性が男性同士の関係を好む理由は、大きく二つの派閥で説明されてきた。
【聖域(サンクチュアリ)派】
「彼らの絆は美しい」。現実のしがらみから切り離された、高潔で純粋な魂の交流への憧れ。
【憑依(同一化)派】
「彼らのようになりたい」。女性という役割を脱ぎ捨て、自由な少年たちの世界に自分を重ね合わせる没入感。
私が提唱したいのは、このどちらでもない第三の視点――【ホモソーシャル動物園の鑑賞者派】だ。
ここにあるのは、徹底した「他者化」だ。
彼らは私とは異なる原理(本能・序列・性衝動)で動く「霊長類ヒト科のオス」であり、私はそれを檻の外の安全圏から一方的に鑑賞する「観察者」である。
崇めもしない、なりたくもない。ただ「面白い生態」として愛でたいのだ。
2. 「愚かかわいい」という無害化処理
なぜ私は、彼らが高潔な騎士道精神を発揮する場面よりも、本能丸出しで自爆する場面に「萌え」を感じるのか。
それは、男性性が「動物的な愚かさ」へと還元された瞬間、彼らが「無害化」されるからだ。
現実社会において、男性の「権力性」「暴力性」「性衝動」は、女性にとってしばしば恐怖や抑圧の対象となる。
しかしフィクションの中で、彼らの行動原理を「理性」から「本能」へと引きずり下ろして解釈した瞬間、意味合いは反転する。
・社会的な面子やプライド → 「群れの中での威嚇ディスプレイ」
脅威だったはずの牙や爪は、現実から切り離されたガラス越しの展示物となる。
このハック(認識の書き換え)こそが、私が彼らを愛でるための生存戦略なのだ。
社会学者の上野千鶴子氏らが指摘するように、歴史的に「見る/見られる」という構造には権力が宿る。
これまでは常に、男が「見る主体」であり、女は「見られる客体」として値踏みされてきた。
私のホモソ萌えは、この構造に対する精神的なリベンジ(復讐)の側面を持つ。
フィクションという檻の中に男性たちを閉じ込め、彼らの尊厳や理性を剥ぎ取り、「愚かかわいい動物」というコードに変換して消費する。
私は、現実では得られない「圧倒的な優位者としての視線」を貪っているのだ。
「男ってなんか社会の権力握って偉そうにしてるけど、やってることは動物じゃん! かわいいね!」
しかし、この権力勾配の逆転はあくまでも見せかけのものであり、実際の構造を変えることにはなんら寄与しない。ただの溜飲下げであり、ガス抜きである。
つまり、これは男性優位社会の中で私たち女性が精神的にサバイブするための、ひとつの生存戦略なのである。
ここまでの話を聞くと、「なんと傲慢で、男性を蔑視した見方だろう」と眉をひそめる人もいるかもしれない。
私は決して、独自の偏見で彼らを動物扱いしているわけではない。
むしろ、この社会(男性社会)が発信している価値観を、誰よりも「素直」に受け入れた結果なのだ。
男性たちはしばしば、自らの加害性や未熟さを正当化するために、こう弁解する。
「男なんてバカな生き物だから」「本能には逆らえないから」「男には闘争本能があるから」。
私はその言葉を、一切の疑いを持たずに、文字通り「真に受けて」いるだけだ。
「なるほど、あなた達は理性的な人間ではなく、本能で動く動物なんですね。わかりました」
彼らが「免罪符」として使う「男ってバカだから(笑)」という内輪の甘えを、私たちは「男はバカだからしょうがないね(笑)」と許してやるのではなく、肯定する。
真に受けたうえで、あくまで許さず、肯定し、そのうえで「かわいい」と消費するのだ。
「そう!あなた達の言う通り! だからキャンキャン吠えて威嚇し合ってるんだね!かわいい!」
むしろ「過剰な肯定」によって、そのグロテスクさと滑稽さを暴き出す、鏡合わせの愛なのだ。
私たち「ホモソーシャル動物園の鑑賞者」は、家父長制的な価値観を内面化しているがゆえにホモソーシャルに対して「愚かかわいい」という感情を抱いてしまう哀しきモンスターなのである。
おわりに
誤解のないように言っておくが、私は彼らを嫌っているわけではない。むしろ、このフィルターを通すことでしか、これほど深く男性キャラを愛せなかっただろう。
彼らが「人間としての高潔さ」や「男としての威厳」という着ぐるみを着て、必死に人間ごっこをしている姿。
その隙間から、隠しきれない「動物的本能」がチラリと見えた瞬間、私はどうしようもない愛おしさを感じる。
この「ホモソ動物園」の開園時間だけは、私たちは安全な柵の外から、愛を込めて彼らを「愚かだねえ」と笑い飛ばすことができるのだ。
(※本稿は特定のファン心理の分析であり、すべての作品やファンにあてはまるものではありません)
パンティーを被るという行為――羞恥・仮面・秩序転倒の文化社会学的考察
パンティーを頭に被る人物は、多くの社会において「悪ふざけ」「変態」として嘲笑の対象になる一方で、
マンガ・アニメ・コメディ・インターネットミームの反復的なモチーフにもなってきた。
一見して低俗にしか見えないこの行為は、しかしなぜこれほど強く人々の笑いや嫌悪、あるいは不安を喚起するのか。
その過剰な感情反応は、単なる嗜好の問題を超えて、近代社会における身体・羞恥・ジェンダー・権力といった構造的テーマを照らし出していると考えられる。
本稿の目的は、パンティーを被るという行為を「逸脱行動」や「性的倒錯」として切り捨てるのではなく、
という三つの観点から文化社会学的に分析し、その行為が現代社会の規範と矛盾をどのように露呈しているのかを論じることである。
第一に着目すべきは、対象が「パンティー」であるという点である。
しかし社会的には、身体のうち「隠すべき部分」を覆うことで、性的な領域と公共的な領域を峻別する境界線として働いている。
とりわけパンティーは、しばしば女性の身体性・性的魅力・純潔観念と結びつけられ、強い象徴性を帯びている。
文化人類学者メアリー・ダグラスは、「汚れ」を「あるべき場所から外れた物質(matterout of place)」と定義した。
下着は本来、身体の奥まった場所で皮膚に密着し、「見えないこと」自体が期待されるモノである。
それを頭部という最も視線の集まる位置に、しかも外から見える形で持ち出すことは、
「隠すべきもの」を意図的に「あるべき場所から外す」行為であり、ダグラス的な意味での「汚れ」を自ら演出することに他ならない。
人々が感じるのは「汚い」というよりもむしろ「恥ずかしい」「みっともない」という感情であり、
それは身体に付随する性的な領域が、モノを媒介して公共空間に溢れだしたことへの反応である。
パンティーを被るという行為は、自己の身体そのものを露出しているわけではないにもかかわらず、
下着の象徴性によって「性的なもの」が表面化したかのような錯覚を生み出す。
そのギャップこそが、笑いと嫌悪が混じり合う独特の印象をもたらしている。
第二に、「被る」という行為が意味する仮面性を検討する必要がある。
顔は、社会学者エルヴィング・ゴフマンが述べたように、対面相互行為の舞台において自己を提示する中核的なメディアである。
目・口・表情を通じて、人は自己の人格・感情・意図を他者に伝える。
そこに被り物をかぶせることは、自己呈示のチャンネルを意図的に撹乱し、
「いつもの自分」とは異なる人物への一時的な変身を可能にする。
仮面はしばしば、道徳的・法的な責任性を希釈し、人に「普段ならしない行動」を許す。
覆面をした抗議者やハロウィンのコスプレ参加者が、日常では抑制されている言動に踏み込めるのも同じメカニズムである。
パンティーという「ふざけた素材」を用いた仮面は、暴力性よりも滑稽さを強調しつつも、
顔を覆うことで〈誰であるか〉を曖昧にし、同時に〈何者にも属さない、ルール外の存在〉であることを宣言している。
重要なのは、ここで用いられる下着が多くの場合「女性用」として理解されている点である。
男性が女性用パンティーを被る場合、それはジェンダー境界を視覚的に撹乱する効果を持つ。
性的同一性や男性性の「まともさ」を象徴する顔の上に、女性性の象徴物を被せることで、従来的なジェンダー秩序は一時的に解体される。
この解体が、笑いとして消費されるのか、あるいは違和や嫌悪として反発を招くのかは、
社会がその時点で受け入れうるジェンダー規範の幅を測る指標ともなりうる。
第三に、この行為はしばしば「笑い」と結びついて登場する。
ミハイル・バフチンが論じたように、カーニバル的な笑いは、既存の秩序・権威・聖性を一時的に転倒させる力を持つ。
王と道化が入れ替わり、崇高なものが下卑たものに、清浄なものが汚穢に置き換えられることで、人々は日常のヒエラルキーから解放される。
パンティーを被る人物は、多くの場合「くだらない大人」「オトナなのに子どもじみたことをする存在」として描かれる。
そこでは、理性的で成熟した市民として振る舞うことが期待される大人が、もっとも幼稚で性的規範に反する身振りを自ら演じてみせる。
これはまさに、近代的主体の理性と節度という自己イメージを、身体と笑いのレベルで裏切る行為であり、バフチン的な意味での秩序転倒である。
パンティーは、ファッションやポルノグラフィー産業を通じて商品化された「性的魅力」のパッケージでもある。
その商品を「本来の用途」から外し、頭に被るという過剰にズレた使用法は、
シチュアシオニストたちの言う「デトournement(転用)」にも似て、商品に埋め込まれた意味構造をずらし、
消費社会が約束する「ロマンティックで洗練された性」のイメージを滑稽なものとして暴露する。
多くの場合、当事者は「面白いから」「ウケるから」という動機で行為に及ぶ。
しかし、当人の意図とは無関係に、行為そのものが既存の秩序を揺さぶり、
笑いを通じた不安定化をもたらしている点に、カーニバル的な力があるといえる。
ここまで、パンティーを被る行為を文化的・象徴的なレベルで肯定的に読み解いてきた。
しかし同時に、この行為にはジェンダーと暴力の問題が潜在していることも看過できない。
たとえば、所有者の同意なく女性の下着を盗み、それを被って笑いのネタにするような事例は、明らかに性的暴力であり、先の分析とは質的に異なる。
そこでは、女性の身体性がモノに還元され、男性の自己演出の道具として一方的に利用されているからである。
「誰のパンティーか」「どう入手されたのか」「誰の前で行われるのか」「誰が笑う権利を持つのか」といった文脈と切り離しては成立しない。
他者の所有物を奪ってネタにすることとの間には、倫理的に越えがたい差がある。
この意味で、パンティーを被る行為を安易に「自由な表現」「笑いだから許される」として擁護することはできない。
一方で、倫理的に許容可能な範囲で行われるこの行為が、規範の硬直性をほぐし、身体と羞恥をめぐる議論を促す契機となりうることも事実である。
その両義性を見極めることが、現代社会のジェンダー感覚と表現の自由の両立を考える上で重要になる。
パンティーを被るという行為は、表面的には「低俗なギャグ」「一部の嗜好」に過ぎないように見える。
しかし本稿で見てきたように、
として理解することができる。
つまり、パンティーを被る行為は、身体と羞恥を厳格に管理しようとする近代社会の規範に対して、
「本当にそれが唯一の生き方なのか」と問いを突きつける小さな反乱なのである。
もちろん、その反乱が倫理的に許容されるためには、所有や同意、ジェンダー権力といった条件を精密に考慮しなければならない。
しかし、その条件さえ満たされるならば、「くだらない」と切り捨てられてきた行為の背後に、
規範の相対性を示す批評的なポテンシャルを見出すことが可能である。
だが、その笑いが何に支えられ、何を脅かし、何を許さないのかを問うとき、
マウリツィオ・カテランによる、18金製のトイレ作品「アメリカ」が、オークションに出品されて話題になっている。
ただの下ネタじゃねーかという感じもするが、強いて作品の評価ポイントを考えると…
18金・重量100kg以上・市場価格1,000万ドル超という、極端なまでの「富の象徴」を、最も卑近で身体的な場所=トイレにする、という強烈な反転によって、「富裕層のためのゴールドを一般大衆が尻に敷くオブジェにする」という逆転の構図を物理的に生み出す皮肉
ゴールドラッシュ/ウォール街/ドリームと破綻といった「アメリカ的資本主義の栄光と醜さ」が、黄金の便器というイメージの中で凝縮している。
トイレというだけでデュシャン作品を想起させ、既製品を「芸術作品」と宣言することで価値の枠組みをズラしたデュシャンに対して、逆に既製品を物理的に超高価な素材で作り直すという応答を見せている。古典的な洞察に対して、アートマーケットの肥大化、貧富の格差拡大といった時代の変化を織り込んでいる。
グッゲンハイムでの展示バージョンでは、観客は実際に個室に入り使用することができた。観客は鑑賞するだけでなく「消費する」側であり、「汚す」主体でもあった。作品に直接関与する参加型アートとしての完成度があった。
それはそう。
欧米だと「絶対に認知しているって証拠」があってもCDNが訴えられて負けることは無いんだよ。
CDNはデータ転送を中継してるだけでルーターと変わらん、それを罪だと言い出したらネットが成り立たない。ってロジックで。
罰せられるのは「主体行為者」、つまり権利侵害をした大元だけを有責にしてるの
これが世界の法体系で、日本の著作権法もそれに習ってはいるんだけど、裁判官が逸脱して拡大解釈したってのが今回の判決
「存立危機事態(=限定的な集団的自衛権)」の3要件は、ざっくりこうです:
ここに当てはまりそうかどうかで
くらいに分けてみます。
法技術的には「台湾も日本と密接な関係にある『他国に準ずる主体』だ」とか、
「台湾陥落は日本の存立を危うくする」と論じる余地はゼロではないですが、
現行の政府説明・国会答弁からすると、ここでいきなり存立危機事態と認定するのは相当ハードルが高いと思っておいた方が現実的です。
「封鎖が日本の存立を脅かす」として、政府が 「存立危機事態になり得る」 と答弁してきたのはまさにこういうパターンに近いです。
ただし、①(密接な関係にある他国への攻撃)をどう構成するかでまだ議論の余地があるので、理屈は立つが政治的には相当繊細なゾーン。
ここは、もはや集団的自衛権の前に個別的自衛権がドンと立つケースです。
が二重に成立し得る状況です。
「台湾有事を理由にした対日攻撃が来たら、自衛隊が反撃しない選択肢はほぼない」レベルと言ってよいゾーン。
このケースは「集団的自衛権の線引き」というより、
「台湾有事に巻き込まれて日本が直接殴られたらどうするか」という話になります。
| ケース | 中身 | 存立危機事態(集団的自衛権)として |
|---|---|---|
| 1 | 台湾外島で小規模衝突・米軍不介入 | ほぼアウト(重要影響事態どまりが現実的) |
| 2 | 台湾本島侵攻・米軍は遠方から関与、日本無傷 | ほぼアウト〜グレー(理論構成は可能だが政治的にかなり重い) |
| 3 | 台湾封鎖+日本向けシーレーン・通信に致命的打撃 | グレー〜ぎりぎりセーフ候補(政府が「なり得る」と言いそうなライン) |
| 4 | 台湾有事を口実に在日米軍基地・日本本土にミサイル攻撃 | ほぼ確実INだが、主役は個別的自衛権(日本防衛)。CSDも併存し得る |
| 5 | 台湾有事の現場で日本船舶・海保・自衛隊だけ攻撃 | ほぼ確実INだが、これも基本は個別的自衛権の枠組み |
…というイメージです。
KADOKAWA、講談社、集英社、小学館が著作権侵害幇助でクラウドフレアに対する民事訴訟で勝訴した。
マスコミやコンテンツ屋は大喜びをしている。愚かなことだ。相変わらずガラパゴスっぷり
ク社側がどれほど本件訴訟にリソースを割いたかわからんが、恐らくかなり手抜き応戦だったのではなかろうか。
アメリカの会社であり、アメリカで同様の問題があっても訴訟にすらならず、訴訟をおこしたところでせいぜいサマリージャッジメント(
正式な訴訟ではなく事実争いの無い略式民事訴訟)にしかならず、かつCDN側が負けることはまず無い。ありえない。
アメリカでも判例は積み上がっており、ほぼ原告側に勝ち目はない。ゆえに日本の裁判所を甘く見ていたのでは。
本件訴訟では主体的行為要件と著作権法47条の2の「一時的複製」が大きなポイントなっている。
東京地裁はク社に対して両方ともアウト、の判断をしているのだけど、世界の常識ではありえない。
地裁裁判官にネットワーク技術まで学べというのも無理だろうが、いくらなんでも無理筋すぎる。
社会問題になった漫画村に司法が「ダメ」の判断を下した、という表面的な実績だけが欲しかったのだろう。
この判決がもたらす社会の悪影響やハレーションなど知ったことはない、たかが海賊版サイトにアウトを突きつけるだけ。
この問題は欧米でも大昔から議論されておりとっくに結論が出ており、仲介者は免責なのだ。だからク社にしてみりゃ理解不能だろう。
この判決を別の言い方をすれば、
歩いてたら自動車に轢かれた、「道路があるのが悪い」。道路が無ければ自動車事故は起きない。道路を作った国を訴える。
これと同じ。
いやいやいや、道路もネットワークも「インフラ」そのものは責任の主体にはならない。
欧米は20年前に答えだしてる。
被害補償を求めるなら自動車を運転していた「行為主体者」を訴えなさい、漫画村を開設して違法コンテンツをアップロードし
ダウンロード可能な状態にし、それで金儲けしようとした「行為主体者」を訴えなさい。
さてなぜ欧米でこのような建付けにしてそれを厳格に守っているか?
仲介者に責任を負わせたらネットワークの根幹が揺るぐ、からです。
ここで「一時的複製」の話になる、欧米の法体系を取り入れ改正著作権法47条の2(2019年)に免責規定があるのだが、
今回の判決では裁判官これを無視した。というか無理筋な拡大解釈をした。
このハレーションが巨大。アホな地裁裁判官にはこれが理解できない。
今回の判決のロジックで言えばISP、さらにはブラウザすらアウトになる。
複製してんのよ。
ルーターで行われる「複製」はパケット単位ではあるものの、技術的に「ファイル」単位と「パケット」単位の差は技術的には
ほとんど意味がない、曖昧なのだ。仮にファイル単位での複製がダメだというなら、CDNはパケット単位で一時的複製をすりゃ
法的には解決できちゃうので意味がない。内部的にファイルをチャンクに分割してバラバラにして物理的にも別のHDDなりに格納すれば合法に
なるのか?きりがない。きりがないので欧米は「主体的行為」要件を定めた。
ルーターの話に戻そう、NTTは権利侵害しているか?違法コンテンツをルーティングしていないか?
しているよね?
ではこれをブロックすることはできるか?
できるよね
ん?ええの?
極端な話、ネット回線→LANカードのキャッシュ、メモリ、HDD、CPU、GPU、アプリケーション、画面
全て「一時的複製」をしている。それぞれ取り扱うデータ単位は異なるが。
違法コンテンツを複製可能なアプリケーションを作成し配布している、幇助だ、このロジックも成り立ってしまう。
さらに、では、「ブラウザが違法コンテンを識別し複製を停止、抑制するこは可能か?」
まともな技術者に聞けば
「お、おう、確かに技術的には可能だけど、えっと、あの、可能は可能だけど。。。」
じゃぁやれよって話になる
だから欧米は「仲介者は一律免責な、やった真犯人だけがアウト」
このような建付けにした
欧米でもこれだけは別の法体系となっており、上述の原則を一切合切無視して、やれることはやれ、徹底的にやれ、仲介者だろうが言い訳は聞かない、全員有責、例外を認める。なのだ。
著作権法と司法は和製検索エンジンを殺し、P2Pを殺し、今度はネットワーク技術の根幹まで壊す気か?
ネットワークってのはデータの「一時的複製」の連続だぜ。それを否定しちゃった。どーすんのこれ。
こんなトンデモ判決をコンテンツ供給側であるマスコミが批判もせず、判決も技術的背景も勉強せず、むしろ大喜びしてるんだから救いようがない。
が再び話題になってるけど、あれが差し止めされたの、恐らくだが「かるた、すなわちグッズであること」が公式の商品展開とのバッティングを起こすからであって、下品さは別に関係なかったと思うんよなあ。
https://adenoi-today.hatenablog.com/entry/2018/11/07/041547
筆者の観測範囲に限った独自判断に過ぎないが、状況証拠的に言えば、公式側の二次創作物に対するアウト/セーフの判断は、その二次創作物単体の営利性/非営利性にあるのではなく、主体はむしろ公式側の商品展開にあるのではないかと思う。
ザックリ言えば、「公式の商品展開とバッティングする可能性があるかどうか」が判断基準となっているのではないだろうか。どれだけ大量の部数が販売されて明確な営利性があっても、その二次創作物が明らかに第三者のパロディであると理解できて、かつ公式の商品展開に対してネガティブな影響を与えないと見なされたら黙認されている。そういった力学が働いているように思う。営利性が明らかに見て取れる多くの人気同人誌が黙認されているのも、この理由であれば説明しやすい。
上述のドラえもん最終回同人誌に関しても、発行部数と共に「本物と勘違いする人が多発した」という点が重視されていることも改めて述べておきたい。
はてさ見てると、台湾有事の話になるたびに日本ばかり叩いてて本気で不思議になる。日本がやってることって基本的に武力行使の抑止であって、攻め込む気なんて当然ない。対して実際に武力行使する可能性があるのは中国の側なんだから、本来なら武力行使するなと言う相手はそっちじゃないのかって思う。
もちろん日本の政策に意見を言うのは自由だし必要だとも思う。ただ、武力を使う主体が明確なのに、いつも矛先が日本だけに向くのは論理として歪んでる。抑止側を責めて、加害の可能性を持つ側にはなぜか触れない態度が続くと、政治的な批判じゃなくて単に自民へ向けた反射的アンチでしかないように見えてしまう。
安全保障の議論って、本来は立場やイデオロギーを超えて、誰が武力を行使するのか、どこにリスクが集中しているのかを冷静に見ていく必要があるはず。なのに日本だけを叩き続ける空気があるから、客観的に見ればアンチ自民に寄りすぎて論理が崩れてるよなという話になる。