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はてなキーワード:不法在留とは

2025-10-01

産業レベルシュリンクさせる覚悟必要なのでは

anond:20251001014423

最近語られる外国人労働者問題は大抵「今」か「未来」、過去言及しても比較最近問題みたいな顔してるけどわりと昔からあるよね

自分が知っている中だと1980年代には人手不足が盛んに言われていて、1990年には大規模な受け入れがあったわけでしょう

1993年には不法残留者(不法滞在者)が約30万人(現在は約8万人)という有様で、1990年入管法改正では日系人の受け入れや外国人研修制度の本格化が行われていた

1993年には研修制度技能実習制度が追加されて…在留カードの創設など色々要因があったか不法在留の減少と合法的な受け入れの増加に関連があると言うには短絡的かもしれないが…

何にせよそこから数えても35年近く続けてるんだから、既に社会外国人労働者依存しきってると見るべきでは?

その間目に見えていなかったのなら見ていなかっただけだと思うんだよな

リーマンショックの時には日系人が多い地域は大変な社会問題になったわけで、都民かには実感がないかもしれんけども

日系ブラジル人の多い浜松出身静岡県知事共生がどうの言い出したのは逆にこの時があまりにも大変だったせいで逆にそっちの結論になったみたいなとこあるレベルで色々あったよね…

そこで90年代を顧みると、当時散々問題になって今でもたまに外国人研修生・技能実習生の話で出てくる時給300円っていうのは栃木の縫製業の話なんだが、

その縫製業は今どうなっていると思う?

1990年には50%近くあった衣料品国内製造比率2022年には1.5%(輸入浸透率98.5%)にまで落ち込んでいて、頑張っている方々には悪いがもはや壊滅的と言っていい

https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/fiber/pdf/240516.pdf

もちろん外国人奴隷みたいにこき使えなくなったからここまで落ち込んだんだというような単純な話ではないだろうし、

ここまで極端な例を他の産業にそのまま当てはめるのも違うだろうし、何なら自給300円が許されるとは全く思わない

しかしま現実ブラックがなくなって産業生産性が高まってという前に似たようなことが起こる産業はありそうだ

その際に問題となるのは食料自給率だの食の安全保障だの別の話が絡む第一次産業あたりなのかなあ

米の高騰でこんな騒ぎになっているのと、効率化にしても大規模農業ができるアメリカですら不法移民を使ってるというんだから厳しさを感じざるをえない

トランプ政権関税政策を見ていると一層食料自給率の確保は必要そうに見えるが、食料安全保障なんて保守派からも以前よりは聞かなくなった気さえする

朝日新聞食料自給率と言いながら外国人労働者頼りなのを嘆いた記事を見かけたのももはや10年以上も前(ネットで話題になった産経川上村記事の1年前なので)だった記憶がある

昔は夏休み学生が来て早朝からの収穫の短期アルバイトをやってくれたのに、今や割高で募集しても全然まらないみたいな話まで載ってたね

こうなると諦めの境地というか、もうとんでもない技術革新が起きて全部解決してくれるとでも思っておくしかないというか

逆に今までの話とは全く逆で人件費が高騰しまくってるのに全然人が足りなくて国策外国人を呼んでる建築業なんてものもあります

外国人材とつくる建設未来賞」なんてものである

https://www.mlit.go.jp/totikensangyo/const/totikensangyo_const_tk2_000117.html

公共インフラを考えると人手不足で回らなくなるのはぞっとしないがどうすりゃいいんだ?

よく男女の給与差で女性はきつい仕事をせず事務職選択するからって話をはてなでも見るけど、ブルーワーカーを避ける傾向にあるのはもはやに女性限らんわけで…

まあもうどうにもならんという話ではあるが

Permalink |記事への反応(1) | 23:42

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2025-06-17

不法滞在犯罪ではありません」

行政法上の「違反」であり、刑事罰対象となる犯罪ではないそうな。

でも、不法在留者のほとんどが不法就労をしている。こっちは刑事罰対象である犯罪行為。

令和6年中に処分した者の数が1万8,908人、そのうち1万4,453人が不法就労従事している。不法滞在の76%が犯罪行為である入管法違反就労している。

なお刑罰法令違反者は384人で、約2%。日本人刑法犯の割合が0.14%なので、約14倍になる。

https://www.moj.go.jp/isa/publications/press/09_00011.html

なので、外国人犯罪を減らすには、まず不法滞在者、不法残留者を送還することが大事だ。

共産党立憲民主党は、不法滞在者を支援し、強制送還に反対している。収容人権侵害とし、住民不安の声を差別と断ずる。日本治安を思うなら投票してはいけない。

Permalink |記事への反応(0) | 12:51

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2025-06-15

anond:20250615100331

川口市内のトルコ国籍者は2206人

700人ほどの不法滞在者強制送還すると1500人。

900人ほどが難民申請中で在留資格がある。半年ほどで申請の結果が出るので、基本的には不法在留になる。すぐに送還すれば川口市内のクルド人は600人ほどになり、すべて適法在留資格もつクルド人だけになる。

Permalink |記事への反応(0) | 10:20

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2022-03-03

anond:20220302000536

不法在留していたゲェジ1人死んだくらいで騒ぎすぎ

逆張りすんじゃねえよクソガキ

Permalink |記事への反応(0) | 11:40

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2022-02-26

anond:20220226071423

そう、だから自衛隊が行って不法在留韓国人を追い出して駐留するだけだな。

Permalink |記事への反応(0) | 07:20

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2019-07-19

不法残留複数外国人逃走|NHK岩手県ニュースhttps://www3.nhk.or.jp/lnews/morioka/20190718/6040004711.html

”18日午後、岩手県宮古市アパートで、警察官巡回に訪れた際、ベトナム国籍とみられる5、6人の外国人が逃げ出しました。

警察では、部屋にいた28歳のベトナム人の男を不法残留の疑いで逮捕するとともに、逃走した人物不法残留の疑いがあるとみて、行方を追っています。”

なんで不法在留が起こるか背景説明せずに、こういう報道するのはフェアじゃないと思うなぁ

参考:日本が「都合のいい外国人」を求め続けてきた30年を振り返る(荻上 チキ,山口 元一) |現代ビジネス |講談社(1/5)https://gendai.ismedia.jp/articles/-/63300

Permalink |記事への反応(0) | 10:19

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2017-05-19

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1円仁人物

2遣唐使の渡海の困難

3天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5五台山巡礼

6長安への求法

7帰国の旅の苦難

8 関連文献

9脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

Permalink |記事への反応(0) | 14:03

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