
はてなキーワード:上流工程とは
しかし下流工程からは、部屋の間取りが歪なせいでフローリングが張りにくいだの、加工が大変だの言ってきやがる
あのですね、客の要望に応えないハウスメーカーで家建てようと思います?
百歩譲って、こうした方が加工や作業が楽なんだけど、どうにかならない?みたいな言い方だとこっちも考えようがある
海原雄山もびっくりの、この図面を引いたのは誰だあ!!って殴りこんで来て文句しか言わない
そうですね、じゃあどうしたらいいですか?って聞いたら、それを考えるのが建築士の仕事だろ!!って言われてからはもう下流工程の意見を聞いていない
はじめに。
内容はまったく肯定的でないです。
本文中、主語がざっくりしている箇所がありますが、この文章の目的上、「アニメ銀八を楽しめていない〇〇」であることを含みおき下さい。
楽しんでご覧になっている方や、銀八や銀魂が大好きで面白い面白くないは関係ないんだという方はご気分を害される内容のはずです。
自分自身の気持ちの整理や一感想として残しておくこと、また、同じように感じている方に届けばいいなと言う気持ちで書きました。
したがって、作文の程度は低いものですので、お目通しになる際は、可読性についてはご容赦ください。
よくある5段階評価を付けるなら、決して星2を超えない。
星1ではなく2なのは、声優さんの演技や製作の苦労といった、クリエイターへの“同情”から。
まるちばーす祭りもライビュを昼と夜の両方見に行ったり、銀八放映開始を本当に楽しみにしていた。
それがどうして低評価となったのか。
Xやレビューサイトで評判を調べれば、多くの人が次のように口を揃えている。
「テンポが悪い」
賛同する。
「ギャグが滑っている」
「銀魂本編のノリと違う」
これも確かに言える。
何故こんなふうに言われるのか。
まず、『銀八先生』シリーズの原作小説は空知先生ではなく、大崎知仁先生が著されている。
ギャグの雰囲気に違いを感じる人がいるのは、書いている人が異なるためもあろうと理解できるが、私が読んだのはシリーズの折り返しまでであるものの、原作小説も十分“楽しめる”内容とクオリティだった。空知先生も「(ノベライズの内容は)銀魂そのものだ。自分の代わりに大崎先生に書いてもらうことにする」と冗談めかしながらも太鼓判を押していたくらい。
元は普通の小説を書かれる作家さんであることは、銀八本文内の表現や言い回しに滲んでいる。だから、文体をあえてここまで落として、よくあのハチャメチャな作風を文字として表現できたなと、私は銀八原作小説を結構高く評価している。私が読んだのが半ばで止まっているのは、その“あえて落とされた文体”が個人的に合わず、読むのに大変な体力を使うからで、内容の退屈さからではない。
なので「原作小説からそもそも面白くなかった」という声は、この若年層向けの文体が合わなかったものではないかと推察している。こう言っているのは、高校生以上の読書慣れした人が多いのではないか。小中学生なら取っ付きやすくハードルの低い文体だと思う。
だから「ギャグが滑って」「面白みを感じない」のは、場面転換や時間経過表現、セリフとセリフの間の妙なテンポの悪さが寒々しいからではないだろうか。その寒い所へBGMのアシストもないので、笑わせるつもりのネタも響いていかない。そうして場がシラケるような気まずさを視聴者に与えるのだろうと思った。
では、何故テンポが悪いのか。
文字ベースの原作小説をアニメにすると恐らく尺がギュッとして足りなくなる。これを30分枠で一本の作りにしているため、間が持たずタラタラしてしまうのではないだろうか。
割り切ってAパートとBパートで分ける、クレしんのような形式にすればここまで間延びはしなかったのではないか。何話目か忘れたが、この構成の週は間延び感が緩和されて感じたので、的外れな発想ではないように思う。
さらに、原作小説そのままでは尺が足りないのであれば、元を削るようなことはせず、アニオリはその不足分を充填する要素として用いればいいのに、何故か原作小説の内容を削ってアニオリを入れてくる。これが面白いなら構わないが、面白くないから賛否別れるハメになっている。
複数のレビューで同様に見られた表現が「二次創作みたい」というもの。これには唸った。
例えば2話か3話のアバンで、銀八が生徒らが幼児化や獣化する白昼夢を見る。正直公式のアニメにそういう供給は求めてない。
見るのはオタクばかりじゃない。天下のWJの目玉漫画でギャグの人気が高いんだから、漫画が好きな普通の人たちも読んでいたしアニメも見ている。評判を調べていても「懐かしいと思って見てみた」という人も多い。
そうした需要の様相に対して、特定の、狭いニーズに向けたようにも感じられるショタ化ロリ化、ケモ化といったイロモノネタは面白くないどころか笑えないとさえ思える。
銀魂アニメのアニオリは、いい意味で、空知先生と同年代か少し上のおじさんたちが、おじさんホイホイやキワキワの下ネタでアニオリを突っ込んでくれていたので、作品との相性が良かった。しかし今回は監督も脚本も女性で、恐らくそうした方面への解像度が以前の上流工程陣ほど高まりにくいのではないだろうか。
銀魂アニメの監督さんたちは現在50代前後の男性で、彼らの子供時代にはまだ家庭科授業は女子だけというような区分があった。男女で見えるもの、培えるものに今よりも差があったことは想像しやすい。
加えて、キャラクターの扱いや動かし方といったものも雑だ。分かりやすいところだと高杉や土方。
頬をこけさせ好物を吸引する土方が、バケモノのように揶揄され、その姿をくどく使いまわしていたところや、ギャグを放とうとして滑り散らかす高杉というネタも、それしか弾がないかのように繰り返し繰り返しで、大変しつこかった。大抵の繰り返しネタは二回、内容や出来によっては三回程度なら繰り返していいが、この浅さで動かされるキャラクターネタを二度三度見せられるのは御免だと思った。
深夜放送とはいえ学園設定、学生ものであるゆえに、昨今のコンプラ意識の変容による縛りを余儀なくされ、表現の幅・深度に制約があることも考えられるが、どちらにせよ、アニオリ部分に面白みを感じられない。
「そういうのは二次創作でやる」というやつだと思う。公式なら、ちゃんとキャラを動かしてほしい。
従って、全体的に惜しさ、つまらなさ、退屈さ、以前のアニメとの差異を覚える流れは以下のセットだと推測。
音の乏しさ。テンポのもたつき。イマイチ乗らない視聴者の気持ち。シラけ、空回りした空気。キャラクターの掘り下げの甘いネタ。さらにシラケる視聴者の心。以下ループ。
声優さんの変わらない演技とプロ意識、及第的な作画で体面は保たれているが、原作小説の履修、未履修に関わらず、自然のうちに期待のハードルが上がっていたものが銀八アニメでは叶えられなかったということなのだと思う。ましてや、まるちばーす祭りなど、公式サイドが気流を上げまくっているのだから、期待値とともにハードルは上がって当然だ。
1話のアバンでも確かにこの事については触れていた。「渡されたバトンが重い」と。
でもね、と。
これについても言及したい。
プロが、クオリティの担保をできないことを、いくらやりたい放題ギャグ作品であろうと、「別物だと思って」と言い訳めいた建前を設けたことには、はっきり拒否感情を覚える。
確かにメタさは銀魂の醍醐味のひとつだ。けれど、これまでよくネタにされてきた、オマージュをやって色んな偉い人に怒られたというメタエピソードは、視聴者を楽しませるためにギリギリアウトのことまでした結果、BtoB的にはひんしゅくを買ったという話なのであり、今回のように、BtoCで十分な提供が出来ないことを言い訳がましく置き石するようなネタとは性質を全く異にする。例えば環境が整えられる状況でなかったとか、無理な予算や納期で進行していたという話はエンドユーザーには関係の無い話である。製作者らで談義したり解決すべき話なのであり、消費者をそれに巻き込まないでもらいたい。
ちなみに、銀魂アニメの時のような、外部のひんしゅくを招きかねないリスクを再びなぞってほしいと言っているのではない。あれらの話は、何度頭を丸めようが、額を床に擦りつけようが、立ち続けられたプロデューサー、その他製作の偉い方々の多大なる自己犠牲の上に成り立っていた。彼らが笑い話として盛り込んでいても、それはご本人の類い稀なる胆力、相手方や周囲の理解と協力によって我々に届けられていた。だから、また同じことをして笑わせろと要求している訳では無いことだけは、忘れずに言い置いておきたい。
山崎ががんばる話でした。地上波でもつい先日放送されたみたいですね。
作画も良くBGMもあり、アニオリでしたがお通ちゃんの新曲披露回とあってかなり手が込んでる印象でした。
このことについて今更だけど書こうと思う。
ここでうつ病だと思っていたけれども発達障害だということもわかった。発達障害というものにもいろいろあるけれどもわたしはADHDだった。
たしかに話を聞いていて、周りをよく見るのが苦手だったり、細かい作業をするのがあまり得意ではなかったりもしたし、勤怠表の提出物も苦手だった。
社会生活というものは続く、社会で暮らしていくためにはこの障害ともうまく付き合わなければならないと思った。
会社の助けもあり、何が得意か苦手なものかを探そう、という話になった。
いろいろやっていて、テスト工程が得意なことに気づいた。それから、テスト設計をやるようになって設計面で褒められることが多くなり、上流工程の基本設計もやっていこうという話になった。
わたしが見て作業を間違わないための設計書を書いていたら、認識祖語の少ない言葉で文字を書くようになって、そこについてほめられることが増えた。
テスト工程をやっていて、このテストをやったときに設計書を見て困ったことがないかを考えて書くようにしたら、自然と品質管理について勉強をすることになった。
それを生かして設計書に反映するようにしたら成果物の完成度についてほめられることが増えて、わたしが得意なことってこういうことなんだ、と言うことに気づくようになった。
ただ、やはり事務作業のようなことは抜け漏れが多くなってしまって、ここは苦手なので助けてくださいという話をしたら、手伝ってもらえるようになった。
自分が苦手なことをしっかり話すようにしたら、上司から「僕も苦手なことがあって、そこは君が得意で君が苦手なところに対して僕ができるから、作業をお互い入れ替えて確認しよう」という話になった。
わたしだけがそういうことをしているのかな?と思ったけれどもお互いに得意なことをやって苦手なことをやってもらうことはよくあることなのだということを教えてくれた。
それ以来、苦手なことについて不安に思うことがなくなった。手伝ってくれる人がいて、わたしもその人の苦手なところを手伝うことができたから。
持ちつ持たれつでお互いに交換して仕事をすることができるようになって、苦手だから、できないからと言って泣いて諦める必要もないのだということを上司は教えてくれた。
発達障害当事者はよく「定型発達の人は発達障害当事者の気持ちがわからない」と言うのを見かけることがある。
けれどもそれは裏を返すと発達障害当事者は定型発達の気持ちが分からないということでもある。
発達障害当事者の仕事ぶりについて、定型発達の人に仕事の巻き取りをしていることもあれば、逆もある。
その時に自分はやっているのに、という気持ちだけになっていないか?自分は定型発達の人の気持ちを慮ることはできているか?
そう思ったときにわたしは自分が発達障害だからと思っていたけれども定型発達の人の気持ちに配慮ができていないことに気が付いた。
定型発達の人はきちんと自分が苦手なことについて言葉で話をしてくれるのに自分はしっかり話ができているか?
「ありがとう」「ごめんなさい」「助かりました」という話がきちんとできていたか?
過去の自分はあまりうまくできてなかったと思う。発達障害があるから、やってもらって当たり前だと思っていないか?
そう考えたときに定型発達の人が発達障害を持っている人についてあまりいい目で見ない理由はそうじゃないか?と思いはじめた。
そう認識してからきちんとわたしは言葉で、苦手なことはこれです、お手数おかけしますが確認をしてくれないでしょうか?というお願いをするようになった。
確認をお願いした人は「わかった、じゃあ君はマニュアル作成もうまいから一度見てくれる?」と言われた
マニュアル作成は得意だった。自分が読み飛ばさずに、絶対に作業できるメモ書きを丁寧に書くことで発達障害当事者でも作業できる成果物を作っているのだから、定型発達の人には多少確認工程が多い。
ちょっと書きすぎかもしれないと思ったけれども、お客さんの作業者に配ってマニュアル通りに作業を進めるだけで作業が終わり、ミスもなく作業が完了してありがたいという話をされてうれしかった。
自分の障害に向き合って、初めて人のために仕事ができてうれしいと思った。自分が助けられる側だったのに、初めて人のために仕事ができたこと、
発達障害があれどひとりの人として社会生活を営むということは、相手のことを慮り生活をするということだ
障害のあるなし関係なく、お互いに助け合って生きることをわたしは職場で知り、それ以来仕事をすることにあたり発達障害という自分の性質を上手く使って仕事をすることもできるのだと思った。
定型発達の人の当たり前は発達障害者にとっての当たり前とはかけ離れているかもしれない、でもわからない、わたしは定型発達であったことがないから
けれども障害があったからこそ気づいたこともあったし、それを仕事に生かすこともできた点においてはわたしの得意なことを発掘してくれた会社には恩がある
子の発達障害についてそういう言葉を使って心を助けたいという気持ちはわからなくもない、それはわたしの親だって同じことだと思う。
障害を持っている子どもを産んでしまったことについて親が後悔しているそぶりを見せたことはなかったけれど、少し話をしていると職場で働けることができてよかったとは言いつつ、
やはり障害を持っている子どもを産んでしまったという事実は変えられず、才能に期待してしまう気持ちもわからない
親はずっとわたしが発達障害の子で生まれてしまったことを恨まれると思っていたらしい。けれどもわたしは定型発達であったことがないのだから、そこについてとやかく言ってもしょうがないと思っていた。
定型発達だったらもっと変わってたのかなと思うことがあるが、それは夢物語でしかない。
成人して親の庇護下から離れてしまった後に親のせいだと言って何も努力しようとしないで文句ばかり言っているのは違うと思う。文句を言っても金は稼げないし生活はできない。
ただ、ギフテッドという言葉でまとめられて、社会生活をする一個人でしかなく特別な人でもなんでもない、特別視をされるという時点で同じ人として扱ってもらえないというのは嫌だった
定型発達の人と同じ、得意なことと苦手なことがあって人に助けられながら仕事をしている一個人でしかない。
今まで中小企業で勤務していたけれども、もっと多きな案件に携わりたくて大手のシステム会社に転職した。
会社には発達障害の話を入社前にしている。上司になる人には「発達障害を持っている方のキャリアモデルケースになってもらえると助かります」と言われており、発達障害があってもここまでは大きくなれるぞ、発達障害だからといって何もかもを諦めるのが早すぎるぞ
そういうことを人に伝えられるような人になりたい
発達障害のわたしを助けてくれた会社の人たちありがとう。あなたたちのおかげで、わたしは大きな仕事に取り組む勇気をもらいました。
■経歴と現状
•就職氷河期にブラックSESからキャリアを始め、転職を繰り返しながらIT業界に20年以上。
•社内SE・開発・上流工程など一通り経験し、今の大企業(グループ1万人・IT部門1000人規模)でもそれなりに評価されてきた。
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■きっかけ
• 今年入ってきた7歳下の同僚(別部署・未経験からIT転職)が、短期間で多数の資格を取得し、優秀かつ謙虚そうな人柄。
• その自己紹介を社内チャットで見た瞬間、「自分の20年より彼の5年が上」と感じ、激しい劣等感に襲われた。
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■心情
• 彼が未婚でも既婚でも、経済的にも精神的にも自分より恵まれていそうに感じる。
•自分は家庭もあり仕事も嫌いじゃないが、「他人の成功や自信を見るのがつらい」。
•努力しても結果が出ず、自己肯定感が極端に低い。氷河期世代の「報われなさ」を感じている。
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■行動
•精神的に限界を感じ、産業医やメンタルクリニックに行ったが異常なし。
•しかし気持ちは回復せず、「壊れる前に」と転職エージェントに登録。
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■まとめ
劣等感や世代的な不遇感が積み重なり、直接的なトラブルはないのに「他人の成功を見るのが苦しい」状態。
バイブコーディングやAIエージェントの活用法について盛んに議論されているが、これらは本質的に「どう作るか」という実装手段の話に過ぎない。真に重要なのは「何を作るか」「何を解決するか」というプロダクトの本質的な価値の定義だ。
多くのWEBエンジニアは技術的な実装力には長けているものの、問題発見や価値定義といった上流工程を得意とする人は少ない。そのため、コミュニティ全体の議論が自然と「どう作るか」という得意領域に収束してしまっている。
AIが実装作業を肩代わりできるようになった今、人間がやるべきことは「AIに何をさせるか」を定義することだ。つまり、課題の発見、価値の定義、要求の明確化といった、これまで以上に重要性を増した領域にこそ、議論のリソースを割くべきだ。
AIの実装能力が向上したからこそ、「何を作るべきか」についての思考と議論が活性化されるべきだ。技術的な手段の話ではなく、解決すべき課題やユーザーに届ける価値についての対話が、もっと前面に出てくるべきだと考えている。
サンプルはN=2で少ないけど、朝食のメニューをパンにしててフリーランスエンジニアやってる人でまともな人を見たことがない。
わかったフリをする。
頑固。最新の流行りに興味がなく色々便利なものを取り入れたいというチームには合わない。
gitの使い方がめちゃくちゃ。
長年某有名SIerで上流工程でやってきたのが誇りなのかプライドが高いわりに、コードを書いた経験は少ないのかプライドと実力が見合ってない。
やたら質問してくるわりに自分で調べようとしない(調べてもわからない)のか、会話が噛み合わない。質問を返すのがめんどくさくなる。
AI使うの大好きなのはわかったけど、スタイルを既存のものと合わせるくらいはやってくれ。AIが作ったコメントもそのまま残すのやめてくれ
ダイクストラが提唱した抽象(abstraction)指向の構造化は、その思想の前衛性から1970年代を通して理解を得られることはなく、発案者本来の構造化プログラミングは上流工程視点からも普及することはなかった。
ダイクストラは、プログラマは正しいプログラムを作り出すばかりでなく納得のいくやり方で正しさを証明(検証)することも仕事の一つであるという立場を取っていた[33]。プログラムがどんなに巨大化しても良く構造化(well-structured)されていれば、サイズに関係なくその正当性を検証[34]できるというのが彼の信念であった[注釈 5][35]。
オプションが10個あってその先のオプションが10個あってさらにその先に10とやっていってったら証明は難しくなる
テストにしたって無理になる
オプションを増やさないその先で分岐させないってのは日常的にあるよね
それをOOPでやろうが他のなんだろうが同じことで
日本において「文系ITエンジニア」と呼ばれる人々が存在し、彼らが資料作成や会議に終始し、実質的なシステム開発に携わらない状況は、日本のIT業界の発展を著しく阻害していると言えます。
彼らは、技術的な専門知識や開発経験が不足しているにもかかわらず、ITプロジェクトの上流工程や管理業務を担うことが多く、その結果、以下のような問題点が顕著化しています。
文系ITエンジニアは、プログラミング、システム設計、データベース構築といったIT開発の根幹となる技術スキルをほとんど持ちません。
彼らの主な武器は、ExcelやPowerPointといったオフィスソフトであり、これらを駆使して資料を作成し、会議で説明することに終始します。
そのため、実際の開発現場で何が起こっているのか、どのような技術的な課題が存在するのかを肌感覚で理解することができません。
現場のエンジニアとのコミュニケーションも表面的なものにとどまり、技術的な議論を深めることが難しく、結果として現場の意見がプロジェクトに反映されにくい状況を生み出します。
文系ITエンジニアは、過剰なまでに資料作成に時間を費やします。
会議のための資料、報告書、計画書、提案書など、枚挙にいとまがありません。
もちろん、資料作成自体は業務を円滑に進める上で一定の役割を果たしますが、彼らの場合、資料作成が目的化し、本来注力すべきシステム開発やサービス改善といった本質的な業務が疎かになりがちです。
会議のための資料作成に追われ、会議で資料を読み上げるだけで一日が終わってしまう、というケースも珍しくありません。
文系ITエンジニアが主導権を握るプロジェクトでは、技術的な側面が軽視されがちです。
彼らは、技術的な実現可能性よりも、スケジュールや予算といった管理的な側面にばかり目を向け、技術的なチャレンジや新しい技術の導入に消極的です。
その結果、既存技術の焼き直しのようなプロジェクトばかりが増え、革新的なサービスやプロダクトが生まれにくい土壌が形成されます。
また、技術力のあるエンジニアは、このような環境に嫌気がさし、技術を正当に評価してくれる企業へと流出してしまう傾向にあります。
実務経験や技術力のない文系ITエンジニアが、技術者を管理・評価する立場になることは、現場のエンジニアのモチベーションを著しく低下させます。
彼らは、自分たちの技術や努力が正当に評価されていないと感じ、仕事への情熱を失ってしまいます。
また、文系ITエンジニアは、技術的な指導や育成を行うことができないため、若手エンジニアの育成も停滞してしまいます。
結果として、組織全体の技術力は低下の一途を辿り、長期的な成長が見込めなくなります。
上記のような状況が蔓延することで、日本のIT業界全体の国際競争力は低下の一途を辿ります。
世界では、スピードとイノベーションが求められるIT業界において、日本は、意思決定の遅さ、技術力の停滞、人材不足といった問題を抱え、世界から大きく後れを取っています。
文系ITエンジニアの増加は、これらの問題をさらに深刻化させ、日本のIT業界の未来を危うくする要因の一つと言えるでしょう。
文系ITエンジニアの存在は、日本のIT業界にとって負の側面が非常に大きいと言えます。
彼らが資料作成や会議に終始する現状を打破し、技術力と実践経験を重視する文化を醸成していくことが、日本のIT業界が再び成長軌道に乗るための重要な鍵となります。
そのためには、企業は文系ITエンジニアの役割を見直し、技術者を尊重し、技術力を正当に評価する人事制度や組織文化を構築していく必要があります。