
はてなキーワード:三権分立とは
(anond:20250912092119 をチラ見して)
ふと思ったのよ
三権分立はよくできた仕組みだと思うけど、構造としては2つの権力が互いに監視し合う「二権分立」でも機能しそうだよね。2つで成り立つように新規設計するのは大変そうだけど。
二大政党制も同様に、うまく選挙とか議会の仕組みを設計すれば、三大政党制が成り立ちやすい環境を作れるんじゃないだろうか。政策推進に妥協が求められて中道的になりやすいとか、1つの軸による二極化が和らいで考え方が多軸化するとか、メリットもいろいろありそう。(ひねり出せそう)
夏休みの自由研究に頭を悩ませていたハチベエ・ハカセ・モーちゃんの三人は、社会科の授業で習った「三権分立」という言葉に目をつける。
「国のえらい人たちは、立法・行政・司法に分かれてるんだってさ!」――ハチベエの一言から、三人はクラスを舞台に“模擬政府”をつくることに。
モーちゃんはみんなの意見を聞いて“立法”を担当し、新しい校則もどきを作り出す。
ハチベエはリーダー気質を生かして“行政”を握り、その校則を本気で実行に移そうとする。
ハカセは“司法”役として冷静に判断を下し、クラスのトラブルを模擬裁判で裁こうとする。
最初は遊び半分だったが、忘れ物や掃除の当番をめぐって本気の“裁判”が始まり、クラス中を巻き込む大騒動に発展。やがて三人は、「立法・行政・司法がうまく分かれているからこそ公平な社会になる」という仕組みを、身をもって学ぶことになるのだった。
憲法15条3項は普通選挙を定めているが、合理的判断能力の有無に無関係に選挙権を等しく賦与する民主政には、残念ながら、有権者の不合理な事実認識によって政治的決定が左右されるという、政治的無知への脆弱性の問題がある。政治的選択に関連する事実的知識や判断能力に応じて、高能力者には複数票を与えるとか、低能力者には選挙権を与えないといった政治制度は智者政(エピストクラシー)と呼ばれ、政治的無知の影響を免れやすいとされる。選挙権の行使は国民一般に重大な影響を与えるのだから、医療行為のように一定の能力水準を満たした者にのみ許されるべきだと考えてはいけないのだろうか。我々は拙劣な医療にさらされない権利を有するがごとく、拙劣な政治にさらされない権利を有してはいないのだろうか。だが、それでもなお多くの政治理論家は智者政を斥け、誰もが政治参加しうることの価値を重視し、民主政を擁護する。
既に多くの人が指摘している通り、「安藤氏が智者政を推奨している」という批判は明らかに誤読である。「それでもなお多くの政治理論家は智者政を斥け、誰もが政治参加しうることの価値を重視し、民主政を擁護する」と、智者政に否定的な一文があるからである。上記の引用部分における、この否定的な一文の直前までの文章は智者政の要約に過ぎず、安藤氏が智者政を擁護しているわけではない。
しかし、参政党が政治参加の観点から高い評価を受けるべきことを指摘しつつ、以下の最後の結論に至るのは不可解である。
参加の価値は合理性の価値を打ち負かすに足るか。私は果たして選挙権を有するに値するか。現代の民主政の実情が否応なしに突きつける難問である。
なぜ不可解かといえば、第一に民主政擁護論の主要な根拠に触れていないこと、第二に民主政がもたらしうる非合理性を抑止する諸制度が既に現代の民主主義に組み込まれている点にも触れていないこと、これらの二点に依る。これらの二点に言及せずに上記のように「民主政は智者政を打ち負かせるのか」と問題提起しても、論理が飛躍しているように思われる。
第一の、民主政擁護論の主要な根拠とは何か。論者による意見の違いは大きいが大まかにいえば、「何の政策が正しいかを、究極的には合理的な議論によって決定できない」にも関わらず、民主政は決定された政策の正当性を担保できる点にこの制度が擁護されるべき理由がある。(以下、便宜的に「何が正しいかを究極的には合理的な議論によって決定できない」性質を『合理的議論非決定性』と呼ぶ)。民主政はどのように政策の正当性を担保するか、それは民主主義という手続き的正義で担保するのである。
合理的議論非決定性を理解するために、合理的議論決定性(=何が正しいかを合理的な議論によって決定できる)の具体例を見ていこう。例えば安藤氏が言及した医療は、何が正しいかを究極的には合理的な議論によって決定できる。「何故、この病気Aに対して治療法Bを行うのか」と医者に問えば、「複数の治験を比較した結果、この治療法Bが最も高い治療成績だと確認できたから」と答えるだろう。医療における合理的議論とは治験の比較であり、医療関係者はこれによって何が正しい治療かを決定できる。
そして、合理的議論決定性がある領域で、議会制民主主義を行っても無意味であろう。選挙に当選した国会議員が多数決で「病気Aに対して治療法Bが有効である」と決定しても意味がない。
しかし政策には合理的議論決定性がない。例えば、先の選挙で「給付金か、減税か」が論争になったが、どちらの政策が正しいかを合理的な議論のみによって最終的に決定することはできないはずだ。もちろん、それぞれの政策には一定の合理的な根拠があるが、医療における治験の比較検討のような決定的なものではない。そうすると、「給付金か、減税か」の決定の正当化は、議会制民主主義に依る他ない。政策決定をした後に記者に「なぜ給付金(あるいは減税)を実施するのか」と問われれば、最初に首相はその合理的な根拠を説明するだろうが、もしも記者が「それは何故?」と5回ぐらい繰り返したならば、その究極的な正当性の根拠として「選挙に当選した国会議員が多数決で決めたから」と首相は答える他ないだろう。
まとめると民主政は、民主主義という手続き的正義によって政策決定の正当性を担保することにより、政策決定における合理的議論非決定性の問題を解決(あるいは回避)する制度であるといえる。
もちろん、政策には合理的議論決定性がないからといって、合理的議論そのものが政策決定の過程に存在しないのではない。安藤氏の不可解さの第二の根拠として挙げたように、民主政の非合理性を抑止する諸制度が既に現代の民主主義に組み込まれている。具体的には、国会議員は公開の場で審議せねばならず、有権者に幅広く報道される。議事録も自由に閲覧できる。当然、議員が合理的に議論しなければ、有権者の支持を失い次の選挙で落選するだろう。加えて、三権分立、法治主義、参政権とそれに密接に関連する基本的人権(表現の自由など)の手厚い保護が、民主政による非合理を抑止するように働いている
さて、安藤氏の論考に戻ろう。同氏は「参加の価値は合理性の価値を打ち負かすに足るかもしれないし、打ち負かすに足らないかもしれない」と示唆し、それが「現代の民主政の実情が否応なしに突きつける難問である」と問題提起している。しかし上で述べたように、現代の民主政には非合理性を抑止する諸制度が広範に組み込まれているのに、なぜこの点に言及しないのか。そして、そもそも政策には合理的議論非決定性がある以上、参加の価値が合理性の価値を当然に打ち負かすはずである。打ち負かせないならば政策には合理的議論決定性が存在することになるが、そうであるならば安藤氏はその存在を論証すべきであろう。そして、政策における合理的議論決定性が存在することを論証したならば、もはや政策決定を民主政で行う意義もなくなる(少なくとも大幅に薄れる)のだから、「現代の民主政の実情が否応なしに突きつける難問である」と問題提起も不要になる。
>現状の効果が無いと言う強固なエビデンスを覆すことができる何か
前のほうで触れたけれども、前近代の子供=労働力だった時代は人類は人口を維持していたわけで、少なくとも出産育児がトータルで経済的にプラスになるならば人は子供を産むだろう。
現状での○○無償化みたいなお金配りは所詮経済的なマイナスをほんの少し軽くするに過ぎない。
>財源
企業から税や社会保険料に準ずる形で徴収すべき。これも前で触れた、
「企業は本来労働者を出生率2.1を維持できる程度に働かせないと人口減少によってビジネスの継続が不可能になるのに、資本主義市場に任せておいては企業は労働者をそれ以上に酷使しすぎる」
という問題意識があるため。仮に今の出生数およそ70万人に一人あたり5000万円配ると35兆円で、今の社会保障費と同程度。「新しい制度の国を作る」という観点からみれば不可能な額じゃない。
※社会保障費は総額140兆円でした。訂正します。ttps://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_21509.html
>どうやって具体化するか
出産育児の負担金がある分企業活動は減速するから、自国だけ制度を具現化しても経済的に不利になるので、チキンレース感はある。
少子化が全世界に広がり、このままではいよいよまずいという流れになり、本気で資本主義の次に世界が移行しなければならないという流れができないと難しいだろうね。100年はかかるんじゃないかな。
その間にAIが進化して、労働のあり方も育児のあり方も全然変わっていたりしてね。
そもそも私の根本的な思想として、民主主義や三権分立みたいな小学校の社会科に載っているような制度だって元は誰かが考えたものであって、神様が「こうすればうまくいきますよ」と教えてくれたものじゃない。
どんなに優れた社会制度だって考えた時点では上手くいくというエビデンスなんかなかったはずだと思っている。
少子化対策については「エビデンスがないことはしません」ではもう打つ手がない状況になりつつあると考えている。もう少し創造的な方向に考えを巡らせてみてはどうか。
今日はですね、「モンテスキュー」と「メロリンQ」っていう、まったく違う2人を比較してくれって話なんですけど──
…やるしかないですよね、もうこれは。
🧠モンテスキューとは?
もうね、「三権分立」ってやつを唱えた、いわば政治のルールブック作ったレジェンドですよ。
一つに集中させると腐る!暴走する!
だから**分けろ!監視し合え!それが民主主義だ!**って言った人。
簡単に言えば、
🤡一方で、メロリンQとは?
これはですね、
かつて山本太郎が「バラエティ番組」でやってたギャグキャラです!
──何をしてたのか自分でも覚えてないくらい、黒歴史です(笑)
今は「誰も切り捨てない社会」を目指してるわけです。
📣つまり!
それは──
メロリンQ改め山本太郎は「既得権益」や「自己責任論」に対して。
この国の空気を変えるために声を上げてるんです。
――そんな違いと共通点、覚えておいてください!
ありがとうございました!
「れいわ新選組と参政党。どっちも過激なポピュリズム政党で、同じような『色物』でしょ?」
街頭演説はいつも黒山の人だかり、ネットでは熱狂的な支持者とアンチが日夜激しい論戦を繰り広げる。そんなイメージから、この二つの政党を一緒くたに見てしまう人は少なくないかもしれない。
でも、ちょっと待ってほしい。その「色物」というレッテル貼りは、あまりに雑すぎる。
両党の政策やリーダーの発言を冷静に、そして深く掘り下げてみると、その思想の根幹も、目指す社会の姿も、まったくの別物であることが見えてくる。
むしろ、片方は国民の生活という現実を直視した「本物の政策集団」であり、もう一方は人々の不安を巧みに利用する「まがいもののポピュリズム」とさえ言える。なぜそう断言できるのか。その決定的な違いを、これから徹底的に解説していこう。
れいわ新選組の政策は、一見過激に見えるが、その根底には「失われた30年」で疲弊しきった国民をどう救うかという、極めて真摯で一貫したロジックが存在する。
山本太郎代表は、原発事故をきっかけに政治の世界に飛び込み、一貫して社会的弱者の側に立ってきた。彼の政策の出発点は常に「この国に生きる、あなた」だ。倒産件数が過去最多を記録し、多くの国民が生活に苦しむ現実を直視し、政治の責任を問うている。
「消費税廃止」「積極財政」という彼らの看板政策は、単なるバラマキではない。デフレ脱却には徹底した需要喚起が必要という明確な経済理論(MMT)に基づいている。財源についても国債発行を基本としつつ、法人税や金融所得課税の強化といった富裕層への応分の負担を求める具体的な対案も示しており、論理的だ。
気候危機というグローバルな課題に対し、れいわは「脱原発」とセットで具体的な未来像を提示している。再生可能エネルギーへの大規模投資によって、250万人規模の雇用創出という経済効果まで試算しており、単なる理想論ではない、実現可能性を追求した政策となっている。
れいわの政策は、軍事力だけでなく、貧困や格差、差別から一人ひとりを守ることこそが真の安全保障だという「人間の安全保障」の考え方に貫かれている。食料自給率の向上、ケア労働者の待遇改善、外国人の人権保障など、その政策は具体的で、すべての人々の尊厳を守るという一点で繋がっている。
要するに、れいわ新選組は、現実のデータに基づき、明確な理念と理論に裏打ちされた政策を掲げる「本物の政策集団」なのだ。
一方の参政党は、耳障りの良い言葉を並べるが、その中身は科学的根拠に乏しく、特定のイデオロギーに基づいた危険な主張が目立つ。
「プロゲーマーでドローン部隊を作る」、「天皇陛下に側室を」といった発言は、政策としての体をなしておらず、まさに「妄言レベル」だ。子ども一人に月10万円を配るという政策も、「教育国債」という名の借金で賄うとしており、その返済計画やマクロ経済への影響についての具体的な議論はない。
参政党は「脱・脱炭素」を掲げ、再生可能エネルギー推進を「環境破壊」と断じ、次世代火力発電を「CO2排出実質ゼロ」と主張するなど、世界の科学的コンセンサスを真っ向から否定している。その姿勢は、コロナ禍で見られた反ワクチン的な主張にも通底しており、極めて非科学的と言わざるを得ない。
参政党は「行き過ぎた外国人受け入れに反対」と声高に叫ぶ。しかし、ここで重大な矛盾がある。日本の移民政策を推し進めてきたのは、安い労働力を求める経団連と、その意向を受けてきた自民党政権だ。ところが、参政党が経団連や自民党を厳しく追及する姿はほとんど見られない。批判の矛先は、政策を推進した権力者ではなく、常に外国人へと向けられる。対照的に、れいわの山本代表は「移民政策を求めたのは誰か?経団連ですよ」「資本家が望むからやった」と、問題の根源である大企業の要求と政治の癒着を明確に批判している。強者である権力者には触れず、弱い立場の外国人を叩いて支持を集める手法は、まさにポピュリズムの典型例だ。
彼らの政策の根底にあるのは、国民生活の向上ではなく、「日本の舵取りに外国勢力が関与できない体制づくり」という排外的なナショナリズムだ。その思想は「日本人ファースト」というスローガンに集約され、政治の失敗を外国人のせいにするような言説につながっている。
参政党が掲げる「創憲」案は、憲法学者から「素人の案」「独裁憲法」と酷評されている。国民主権や三権分立といった近代憲法の基本を軽視し、特定の価値観(「八百万の神」「男系男子の皇位継承」など)を押し付ける内容は、民主主義国家の基本設計図としてあまりに稚拙で危険だ。
結局のところ、参政党の政策は、人々の漠然とした不安や不満につけ込み、特定のイデオロギーに基づいた「物語」を売っているに過ぎない。それは、国民の生活を豊かにするどころか、社会の分断を煽り、日本を誤った方向に導きかねない「まがいもののポピュリズム」なのである。
こうして両党を比較してみると、冒頭で述べた「どっちも同じような色物」という見方が、いかに物事の表面しか捉えていないかがわかるだろう。
確かに、両党とも既成政党への不満をバネにするポピュリズム的な側面を持つ。しかし、その中身は天と地ほども違う。
れいわ新選組は、徹底したデータ分析と(異端ではあるが)一貫した経済理論に基づき、「この国の国民をどう救うか」という課題に真正面から挑む「本物の政策集団」だ。その手法はラディカルだが、現実の課題解決を目指す真摯さがそこにはある。
一方の参政党は、科学を軽視し、矛盾だらけのロジックで人々の不安を煽る。移民政策の元凶である経団連や自民党を批判せず、弱い立場の外国人を叩く姿勢は、国民のための政治とは到底言えない。これは、実態の伴わない「まがいもののポピュリズム」に他ならない。
一見すると同じ「色物」に見えても、片方は国民の未来を本気で考え抜いた結果の「劇薬」であり、もう片方は耳触りの良い言葉で本質を覆い隠した「毒」と言えるのかもしれない。その違いを見抜くことこそ、今の時代に求められる政治リテラシーではないだろうか。
なるほど。以下ChatGPT`にお伺い立ててみた。はてな記法もある程度習得してるんだね。
はじめに
民主主義の崩壊は「外部からの破壊」ではなく「内部からの劣化」が主流
フォーマルな制度が維持されつつも、実質が失われる「偽装民主主義」も増加
国名 特徴
国名 原因
国名 背景
政治的混乱が長引くと「安定」や「秩序」の名の下で軍が介入
民主制度は表面的に存在しているが、実質的な権力分立や市民参加が機能不全
分極化意見の違いが「敵」と見なされる
民主主義の崩壊は「選挙」や「法」によって合法的に進むこともある
対抗するには:
法の支配の徹底
A:さて、この報告書は今パブリックコメントにかかっているんですよね?法の支配や民主主義との関係についての根本的な疑問が寄せられた場合、経産省はどう応答するんでしょうか?
B:残念ながら、本質的な議論は避けるでしょうね。表面的で技術的な回答でごまかすと思います。
A:というと?
B:例えば「〈法〉の支配」について、「民主的に制定された法律と企業のアルゴリズムを同等に扱うのは法の支配の否定だ」という批判が来たとします。
B:でも経産省は「〈法〉概念は従来の法概念を否定するものではなく、憲法・法律の最高規範性は当然維持される」「技術的統制手法も適正な手続きの下で位置づけられる」といった抽象的な回答で逃げるでしょう。
A:でも、それって答えになってませんよね?アルゴリズムやコードが「法」として機能することの憲法上の問題について、何も説明していない。
B:その通りです。でも経産省は絶対にその核心には触れません。「Society5.0における新たな統治の必要性」「国際的な議論の動向」といった総論で煙に巻くでしょう。
A:マルチステークホルダーによる意思決定の民主的正統性についてはどうでしょう?
B:「マルチステークホルダーは政策決定機関ではなく、あくまで専門的知見を提供する諮問機能」「最終的な決定権は国会にある」なんて言うでしょうね。
A:でも実際には、そのマルチステークホルダーでの議論結果が政策に大きく反映されるんですよね?
B:まさにそこが問題なんです。実質的な政策形成権を持ちながら、形式的には「諮問」だと言い張る。でも経産省はその矛盾については絶対に答えません。
A:応答責任概念についてはどうでしょう?従来の法的責任体系との整合性について。
B:「応答責任は従来の責任概念を補完するものであり、より実効的な責任追及を可能にする」「複雑なCPSにおける新たな責任のあり方」といった説明でしょうね。
A:でも、なぜ従来の過失責任や無過失責任では対応できないのか、という理論的な説明はないんでしょうね。
B:そうです。責任法学の基本的な体系との関係について、きちんとした法理論上の説明はしないでしょう。「実務上の必要性」「イノベーション促進の観点」といった政策論にすり替える。
B:「アジャイル・ガバナンスの実践自体が適正手続の具現化」「マルチステークホルダーによる熟議こそが民主的手続」なんて言うでしょうね。
A:でも、それって従来の適正手続原則とは全然違う概念ですよね?憲法第31条の解釈を勝手に変えているような。
B:その通りです。でも経産省は「Society5.0における適正手続原則の発展的解釈」「時代に適応した手続概念」といった曖昧な表現で逃げるでしょう。憲法解釈の変更だという指摘には絶対に答えません。
A:権力分立との関係についてはどうでしょう?行政府が実質的に立法権や司法権に介入することになりませんか?
B:「既存の三権分立は維持される」「各府省の所掌事務の範囲内での検討」「司法権の独立は当然尊重される」といった建前論でしょうね。
A:でも、自動化された規制とか、組織認証による法適用の実質的決定とかは、実質的に見て立法権や司法権への介入ですよね?
B:まさにそうです。でも経産省は「執行手法のアジャイル化」「効率的な行政運営」といった矮小化した説明しかしないでしょう。権力分立の本質的な問題については触れません。
A:法源論についてはどうでしょう?何が「法」なのかという根本問題について。
B:これも答えないでしょうね。「多様な規範形式の活用」「柔軟なルール形成」といった抽象的な表現で逃げて、法源の階層性や民主的正統性については説明しません。
A:結局、どの批判に対しても、本質的な法理論上の問題については答えないということですか?
B:そうです。すべて「実務上の必要性」「技術的改善」「効率化」といった実用主義的な説明に終始するでしょう。憲法や法理論の根本問題については「専門的検討を継続」で先送りです。
A:でも、それって学問的誠実さに欠けませんか?
B:完全に欠けています。でも経産省にとっては、法学的な理論整合性よりも、政策実現の方が重要なんです。理論的な矛盾を指摘されても「実務では問題ない」で押し切ろうとするでしょう。
A:結局、パブコメ回答を読んでも、この改革の憲法的・法理論的な基盤については何も分からないままになりそうですね。
B:残念ながらそうでしょう。「今後の検討課題」「関係機関との調整」「専門家の意見を踏まえ」といった先送り表現のオンパレードになると思います。
A:でも、それって要するに「理論的基盤は固まっていません」「憲法との整合性は検証していません」と言っているようなものですよね?
B:まさにその通りです。でも経産省は絶対にそうは言いません。「十分な検討を重ねている」「専門的知見を活用している」と言い続けるでしょう。
A:つまり、根本的な法理論上の問題は曖昧なまま、なし崩し的に制度だけが導入されていく危険性があるということですか?
B:それが一番怖いシナリオです。理論的な整理をしないまま、部分的に制度を導入して既成事実を作ってしまう。後になって「もう動いている制度だから」と言われてしまう。
A:だからこそ、理論的な整合性をきちんと求めることが重要なんですね。
B:そうです。表面的な制度論ではなく、憲法や法の支配といった根本原則との関係について、明確な理論的説明を求め続けることが必要です。
A:経産省が理論的説明を避け続けるなら、それ自体がこの提案の問題性を示していることになりますね。
上位者の意向を下位者が先読みして実行する「空気を読む」文化が、明示的指示なしでも不正を実行させる仕組みを形成
三権分立が機能せず、立法・行政・司法が相互にチェック機能を果たしていない。むしろ政治的安定のために共謀する構造
現状維持を最優先とし、透明性や説明責任よりも組織防衛を重視する価値観が上層部に浸透
問題の根本解決ではなく、発覚の阻止や影響の最小化を図る対症療法的アプローチが標準化
この構造は、民主的統制よりも内部結束を重視し、外部からの監視や批判を組織的に排除する傾向を示しており、権力の私物化と公共性の軽視が常態化した状態と考えられます。
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日本の構造は、民主的統制よりも内部結束を重視し、外部からの監視や批判を組織的に排除する傾向を示しており、権力の私物化と公共性の軽視が常態化した状態と考えられます。
つまり、日本の上層部にとって忖度文化は、不正や責任回避を可能にする「必要悪」として機能しており、これを失うことは権力基盤そのものの崩壊を意味すると想定していると考えられます。
日本の現在の権力基盤が崩壊した場合の影響を、歴史的変遷と制度改革の知見を踏まえて詳細に分析します。
検索結果によると、英国では「大臣の方針に対し官僚が一定の自律性を持ちつつ、中立的な立場から専門的知見に基づく助言ができることが重要」とされています[5]。忖度文化の崩壊により、データ捏造や統計操作が困難になり、客観的証拠に基づく政策立案が可能になります。
現在の「推察の領域」で動くシステムが崩壊することで、政策決定における責任の所在が明確になり、「首尾一貫した政策を推し進める」ことが可能になります[4]。
検索結果では「より良い政策形成のためには、大臣の方針に対し官僚が一定の自律性を持ちつつ、中立的な立場から専門的知見に基づく助言ができることが重要」と指摘されています[5]。忖度圧力がなくなることで、官僚が専門的見地から建設的な政策提言を行えるようになります。
90年代の政治改革以降、「政権を獲得した大政党が単独政権を作り、首相を中心とするトップダウンの政策決定を迅速に行うとともに、有権者はその評価を衆議院選挙による政権選択(必要に応じた政権交代)を通じて表明する」システムが想定されました[2]。忖度文化の解体により、政策競争に基づく真の政権選択が実現します。
現在の「会議の6割以上が会議のための会議」「資料の約24%が忖度ページ」という非効率性が解消され、実質的な政策議論に集中できるようになります。
「耳に優しいことだけを語って、とにかく政権を維持する」という現在の傾向[2]が改善され、「負担増のような必要だが困難な政策を展開する可能性」が高まります。
公文書改ざんや黒塗り隠蔽が困難になることで、国民による行政監視が実効性を持つようになります。
検察や裁判所の政治的忖度がなくなることで、三権分立が機能し、権力の相互チェック機能が復活します。
検索結果にある戦前日本の教訓として、「民主主義諸国には劣化の問題や崩壊の問題があり、選挙など民主的制度の権威主義体制によるつまみ食いも見られる」[1]ことが指摘されています。忖度文化の解体により、国際社会からの制度的信頼が回復します。
「バブル崩壊後の日本の経済的パフォーマンスの停滞に対して、官僚機構は適切な対処ができず」[3]という状況が改善され、長期的な経済戦略に基づく政策運営が可能になります。
検索結果によると、本来官僚は「国民に対して平等に開かれた競争試験によって、公平に能力を認定された人々の集まり」[3]であるはずです。忖度圧力がなくなることで、真の能力に基づく人事が実現し、優秀な人材が適切に活用されます。
英国の例として「専門ごとに全政府的なネットワークを構築して専門性の育成を図る」[5]ことが提案されており、忖度文化の解体により専門性重視の組織運営が可能になります。
検索結果にある大正期の「憲政の常道」[1]のように、健全な政党間競争と政権交代が制度として定着し、民主主義の成熟につながります。
現在の硬直的な権力構造が解体されることで、変化する社会情勢に柔軟に対応できる行政システムが構築されます。
これらの変化により、日本は真の民主的統治と効率的な行政を両立させた近代国家として、持続可能な発展基盤を確立することが期待されます。
本文
中3の公民、バカにしちゃいけない。ここには「社会のしくみ」が詰まっている。
憲法、税金、選挙、三権分立、社会保障…。大人になってからこそ、「あの制度ってそういう意味だったのか!」と膝を打つこと間違いなし。
特に「権利と義務」「民主主義」「国際社会」の章は、現代社会を生き抜くための教養の宝庫だ。
これを理解してない奴は中学卒業の資格なし。つまり義務教育を履修してないも同然。三流日本人だ。
ポイント:ニュースや政治に振り回されない“思考の土台”ができる。
DNA、細胞、免疫、代謝、進化…。日常の裏側にある“命の仕組み”を理解するだけで、自分と世界の見方がガラッと変わる。
コロナ禍でおきた様々な陰謀論、それによって生物学的な基礎知識の低さが明白になった。
お前ら勉強し直してください。マジであなた達の生物学教養は終わっておりました。マジで勉強しろ。
ポイント:哲学書よりも人間理解が深まる、究極のサイエンス読本。
小6国語には、名作・名文がズラリと並んでいる。太宰治、宮沢賢治、新美南吉、寺田寅彦…。文章を“読む力”と“感じる力”を育てるのは、この時期の国語に勝るものなし。
読解力、想像力、表現力…すべての土台はここにある。ビジネス書を100冊読むより、小6国語を読み返したほうが確実に賢くなる。
小5未満は簡単すぎる。中1以降は+αや落穂拾いの意識が強すぎる。
「小学校卒業までに絶対読んで欲しい!!!だけど子どもの読解力が育つまで待たなきゃ!!」というジレンマの果てに選ばれた名作が詰まっている。
ベスト3には入れなかったが、「地味すぎて誰も注目してないけど、読んでおくと人生が整う」そんな教材がある。
「いまさら足し算引き算?」「漢字の書き取りなんて小学生レベルでしょ?」と思ったあなた。甘い。
数字感覚の基礎中の基礎。「10のまとまり」「繰り上がり・繰り下がり」をナメていると、家計簿も確定申告も迷子になる。
出来て当たり前、じゃあ100マス計算何秒で出来ますか?そのスピードがそのまま計算力の土台になるし、そこでかましたミスがそのままミスの土台になる。
簡単なようでいて、実は現代人の語彙力の半分はこのあたりにある。「道」「早」「明」「会」…日常の言葉を“正しく書ける・読める”だけで、文章力と思考力が変わる。
簡単な漢字の書き順を間違えてるやつは全ての漢字の書き順を間違える。そして会議中に「クスクス……うちの子が出来ることも出来ないんだ……」と笑われるのだ。
三権分立(立法・行政・司法の分離)は18世紀のモンテスキューの時代から続く古典的な統治モデルですが、現代の高度に複雑化した国家運営では**形式的な分立が実質的には曖昧**になってきています。
アメリカでは「チェック・アンド・バランス」と称しつつ、実際には大統領令(行政)が立法に匹敵する影響力を持ったり、最高裁が政治的判断に引っ張られたりしています。
日本も同じで、**内閣(行政)と国会(立法)の融合**が進み、自民党長期政権の中で「与党=立法と行政の実質的支配者」となっています。
司法もまた、独立性が理論上は保たれていても、人事や制度で行政と立法に間接的な影響を受けています。
だから、\*\*「三権分立を今でも信じている」のではなく、「三権分立を建前として利用している」\*\*というほうが実態に近いと思います。
……ちなみに、もしご希望なら、\*\*現代型の「三権融合」や「行政国家論」\*\*について、もう少し深く掘り下げて説明することもできますが、どうしますか?
つまるところ声のパブリシティー権に関するお話。パブリシティー権自体は法律で明確に規定された権利ではなく、過去の裁判例を通じて徐々に認められてきた裁判上の方便的なもの。そのため、その解釈や適用範囲には曖昧さが残ってた。
過去の裁判例においてパブリシティー権が認められる対象の例示の中に「声」が明示的に含まれていなかったため、声にパブリシティー権が司法において認められるかどうかは不確実な状況だった。でも、例示に声が含まれていなかっただけであり、声にパブリシティー権が認められないと判断されたわけではない。
今回の経産省による整理は、あくまで行政としての見解を示したものであり、法律が変わったわけでも、法的解釈が公式に変更されたわけでもない。また、法律で明確に定められていなかった権利を立法によって確立したわけでもなく、新たな裁判例や判例が生まれたわけでもない。実質的には「声の問題に対して受けてくれる弁護士が現れるんじゃないかなー」程度の影響と考えられる。三権分立の原則から、経産省は行政機関であり、法として認めるのは立法の、最終的な法的判断は司法の役割。
この整理は「音MAD」や「人力ボカロ」などで無断で有名人の声が利用される行為など、従来から問題視されていた行為に対して訴える法的根拠が一歩前進した形。ただし、これは生成AIの学習や生成自体を禁止するものではない。「依拠」していてかつ「類似」しているものについては、人が手書きで作成しようが機械で作成しようが著作権法違反になるという整理と同様。
この経産省の見解は、従来微妙なポジションであった声のパブリシティー権に対する行政の考え方を示したものと言える。これに関連付けてAI規制派と呼ばれる一部の人々が様々な関係のない別の問題を指摘しているが、それらの多くは既に法律で禁止されている行為であったり、権利者でない人が存在しない権利を主張するような行為。
例えばディープフェイクについては、基本的に名誉毀損または侮辱、著作権法違反などに問われる可能性があり、政治家が対象の場合は公職選挙法違反となる場合もある。今回の整理はそうした既存の法的枠組みの中での解釈を一部明確化したものと考えられる。