
はてなキーワード:三丁目の夕日とは
雑誌にはクソみたいな作品も載ってるからそれに金を払うのがイヤなんじゃない?俺自身は、『セシルの女王』きっかけでビッグコミックオリジナル読み出して、他の作品もだんだん読み初めて今はほぼ全部読んでる。『ミワさんなりすます』『まるさんかくしかく』『んば!』とか面白いよね。世間一般では『釣りバカ日誌』『黄昏流星群』『三丁目の夕日』の雑誌と思われてるだろうけど。ただ、『昭和天皇物語』だけはダメ。何で今あんな昭和天皇擁護(というよりほぼ礼賛)マンガをかくのかね。特攻始まっちゃったけど。絵の人はあんなの描いててうれしいの?あと登場人物の顔が全員水野晴郎。「ナニそれ」って思うかもしれないが、実際全員水野晴郎だから。
(追記)
雑誌と言えば、『ガラスの仮面』の今ではなかったことにされてるアナザーストーリー、連載時に「花とゆめ」買って読んでたんだよね。雑誌は捨てちゃったんだけど、今めっちゃ後悔してる。とっときゃよかったよー。雑誌には希にこういうこともある。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
バルサミコ酢や自家製ドレッシング、レバニラ、コーン茶、駅弁・居酒屋メニュー、サウナの生姜体験など、日々の食事や飲料にまつわる話題が豊富に登場しました。
結婚式準備(ドレスやゲストの服装)、家族間トラブルと弁護士雇用の影響、過去の恋愛への反省、部下への餞別ギフト選びなど、プライベートな出来事や自己成長についての対話が続きました。
映画(『三丁目の夕日』再視聴やゼルダ映画の炎上)、アニメ(『らき☆すた』と地方活性化)、コナン関連イベント、絵本(『エルマーの冒険』やヨシタケシンスケ作品)、コスプレ市場と著作権・違法配信への議論など、趣味/文化的話題が幅広く語られました。
ビットコイン・仮想通貨の価格動向と投資戦略、ChatGPTや各種AIツールの使い分け、Switch/Switch2抽選の当落報告、リモートワーク環境の可否など、最新技術への関心がにじみ出ていました。
フィンランド政治・教育制度、生活保護や難民問題、トランプ和平案批判などの社会・政治論から、夜行バス対新幹線の移動比較、万博予約のコツ、地域ニュース共有まで、広い視点の情報交換が行われました。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
なんか絶賛されててビックリするんだけど
大人目線、オトナ帝国の逆襲で言えば、ひろしとか敵の目線で描かれてるんだよね
しんのすけが都合の良い子供の動きになってるのがキモくてしょうがない
優秀な子役や、大人に褒められることを言う子供や、北朝鮮の不自然なダンスをする子供みたいな
言いすぎかもしれないけどそういうのに見える
しんのすけの元の性格を考えると、余計にそこが際立っていてキモい
たぶん絶賛してる人はオトナ帝国にハマるひろしと同じ状態になってるんだろうと思う
つまりオトナ帝国にハマる大人たちを見て不気味に見えている子供のような感想を自分は持っている
例えばアクション仮面のやつとか、しんのすけの行動原理は完璧だったよな
ヘンダーランドは一部感動的でクレヨンしんちゃんっぽくないのだが、アレは敵側の圧に野原一家がリアクションしてるタイプのストーリーだったから違和感が少なかった
トッペマを助けるあたりは若干しんのすけっぽくはないのだが、まあ可愛いし許容範囲だろう
オトナ帝国の逆襲の話に戻るが
2001年当時、例えば10歳児の生年は1991年で、その親は1961年生まれなわけで、万博時に9歳とかだった
と考えるとドンピシャなんだよね、この映画は映画を見に来た両親向けに作られていた
その世代ではない、つまりオトナ帝国に懐かしさを抱かない人からしたら不気味に見えるで正解なんだろうと思う
ガロは書く人も居なさそうなので、元読者の義務感に駆られて書いてみた。リアタイで読んでいたのは80~90年代の一部なのでいろいろ偏っているとは思う。選択の基準としては、漫画史的な重要性や、後世に与えた影響を優先した。バックナンバーや単行本やアンソロジー、関連書籍(が多いのもガロの特徴ではある)などの知識も動員したが、記憶に頼って書いているので誤謬などはご容赦。むしろ先達からの突っ込みが欲しいです。なお、ガロ分裂後のアックス誌の作品にはここでは触れない。
まずはなにを差し置いてもこれ。そもそもガロという雑誌の創刊自体が長井勝一による「カムイ伝」を掲載する媒体を作りたいという並外れた理由によるもので、「ガロ」という奇妙な誌名も作中人物の「大摩のガロ」から取ったものだった。どちらかと言えば現在では「読まれない」作品になりつつある印象なので当時の熱狂を図るのは難しいが、漫画史的には「どうやら漫画という媒体は歴史的・社会的な諸問題を描き得る(と読者に思わせた)」点がエポックだったのではないかと思う。今であればそんなもん当然だろうと思われるかもしれないが、所詮我々はこのような巨人の肩の上にいる。
つげ義春がガロ誌に発表した短編は悉くが傑作なのでとても一本に絞りきれるものではなく、作品の完成度からすればむしろ「ゲンセンカン主人」や「赤い花」ではないかとも思うのだが、後世に与えた影響の大きさを考えればこれを選ばざるを得ない。「見た夢をそのまま描いた」という誤解を受けることも多い本作だが、実のところは多種多様なコラージュや巧みな漫画的技法に満ちていて、きちんとした作為の下に統制して作り上げられた「シュール」の傑作であることがわかる。
若い男女の同棲と破綻の物語と描けば無数の類例が思い浮かぶが、1970年の発表当時には極めて新しかったはずである。なにしろ婚前交渉などという言葉が現役だった時代だ。主人公の職業がアニメーターというのも新しく、しゃれていたのではあるまいか。この作品の画期は、漫画に「俺たちの等身大の青春(あるいはそのように夢想したいもの)」を持ち込んだ点だったのではないかと思う。林静一の洒脱な絵は上村一夫などによる後続作に比べても洗練されていて、今見ても色あせない。
漫画(に限らず表現)とはなにものかを描かなければならないのだというドグマがまだ有効だった60年代、漫画から意味というものを完全に取り去ってしまった佐々木マキの一連の作品はセンセーショナルであったらしい。画風はおそらく杉浦茂の系譜にあるのだが、もはやナンセンスという言葉も不適当だと思われるぐらいに徹底して意味や物語は排除されている。その衝撃は若き日の村上春樹にもはっきりと影響を与えたらしく、のちに佐々木は村上の著作の挿画を担当することになる。
簡素な絵でナンセンス漫画を濫作していた滝田ゆうが、心機一転、自らが少年時代を過ごした戦前の私娼街・玉ノ井の風景をおそろしく緻密な絵柄で描き出した。「三丁目の夕日」的なノスタルジアものの先駆ではあるが、最終回、戦火は玉ノ井の街を焼き尽くして終わる。ここに描かれているものは、卓抜した記憶力と画力により再構築された、失われて二度とよみがえることのなかった風景なのである。
ここまでは疑いなく殿堂入りの作品が並ぶが、ここからは判断に迷う。70年代ガロからは永島慎二や宮谷一彦を外してはいけないかもしれないのだが、活躍のメインはガロ誌ではなかった作家だし、やはり当時の熱狂を現在から嗅ぎ取るのは少々難しい。安部慎一や花輪和一、古川益三(のちのまんだらけ社長)の諸作品も思い浮かぶけれど、ここでは作品の強度と詩情、卓抜した画力を取って敢えて鈴木翁二で。
これも当時の衝撃をいま追体験するのは難しいのかもしれないが、ヘタウマや不条理がどっさり詰め込まれた本作が半世紀近く前のものと考えるとやはり衝撃的だし、こういうギラついた脳天気さは、結局は80年代「軽チャー」の苗床になったのではないかと思わされる。
80年前後のガロにはニューウェーブにカテゴライズされる作家も少なからずいて、例えば川崎ゆきお、蛭子能収、ひさうちみちお、奥平イラなどが挙げられるのだが、個々の作品への愛着はさておいて結局のところ今に至るまで強い影響を与え続けているのはむしろニューウェーブの埒外にいた丸尾末広ではないかと思う。圧倒的な画力は漫画のみならず演劇や音楽にも影響を与えたし、世代を超えたファンも多い。なお本作の初出はガロ誌ではないのだが、代表作として外せないのと単行本は青林堂だったのでご容赦を。
80年代ガロではこの人の名前も外せない。「過激な」作風と言われ「特殊漫画」を自称他称もしている人ではあるけれど、実のところは非常に息の長い物語を紡ぎ出せるストーリーテラーでもあり、日本の近代史や土俗性を容赦なくぶち込んでやるから覚悟しろよというぎらついた野心も垣間見える。その試みがもっとも巧くいった作品の一つが本作。水爆投下とともに発射された精子が自我を持つ話です……と書くと面白そうでしょ?
ガロ最末期の90年代から一人と考えて、古屋兎丸や山野一・ねこぢるなども思い浮かんだけれど、漫画表現の圧倒的な強度に鑑みて本作を選んだ。この地上には存在しないはずなのによく知っている風景がどこまでもどこまでも展開される。いつかうなされながら見た夢が、ここに具現化されているという驚き。「ガロがなければ世に出ることのなかった」作品の一つの頂点であると思う。逆柱作品はどれをとっても傑作なのに単行本の多くは絶版で、とんでもないプレミアが付いてたりする……。
・個人的にはつげ忠男の大ファンで、実際「無頼の街」「河童の居る川」など傑作も数多いのだが、漫画史的重要性を優先して涙を呑んだ。
・赤瀬川原平も言及に迷ったけど、ガロ誌での漫画作品(『お座敷』など)よりも、その外での活躍が多かった人という印象なので選外に。ガロ系の作家ではこういう人も多いのですが。
・「ガロにおける有名作家」という問題もある。水木しげるに矢口高雄に池上遼一といったビッグネームもあれば、のちのどおくまんも一度作品を掲載しており、末期ガロにも吉田戦車のような意外な面々が顔を覗かせる。珍しいところでは、SPA!誌で掲載を断られたゴーマニズム宣言の回を小林よしのりがガロに持ち込んで掲載された例がある。
・ガロ出身で他誌で活躍することになる人も多い。上記の他、新しい世代では花くまゆうさく・福満しげゆき・東陽片岡・古泉智浩あたりか。
・80年代ガロでかなり迷ったのは、トラバでも言及のある久住兄弟や泉晴紀・泉昌之、渡辺和博などの面々。このあたりのナンセンスな作品群はわりと影響も大きかったようなんだけど、作品単体でどうこう言えるものが思い当たらなかったので除外。
・つりたくにこ・やまだ紫・杉浦日向子・近藤ようこといった女性作家たちの極めて良質な作品についても言及しておきたい。特に津野裕子は最末期のガロに、寡作ながら優れた作品を残した作家で、機会があればぜひ一読をお勧めします。
・その他、この10選に選ぶには及ばないけれど間違いなくその人にしか描き得ない作品を残し、ガロという媒体がなければ目にすることもなかったであろう作家たちについても、その名をリスペクトしておきたい。淀川さんぽ、とま雅和、谷弘兒、三橋乙耶、菅野修、等々……。
・90年代ガロは文章ページが(文章ページのほうが……)充実してた感があり、呉智英や四方田犬彦など結構な面々が連載していた。
・投稿ページの「4コマガロ」も相当(雑誌のカラー的な意味で)レベルが高く、ここ出身の有名作家が福満しげゆき。
・同時期にやっていた「ガロ名作劇場」という好企画があって、90年代前半時点では入手困難だった作家を含め、ガロ出身の名作家を回顧的に紹介してくれた。林静一「まっかっかロック」なんてものすごい衝撃受けたし、楠正平や勝又進なんてこんなことでもなければまず読むことができなかった作家だったと思う。
・ねこぢるはやはり入れるべきだったかなーという迷いは今でもあり、代わりに削るとすればペンギンごはんか鈴木翁二か。リアタイ勢だったんだけど初読の際の衝撃は今でも覚えていて、90年代サブカル的にはわりとよくあった「無邪気な残酷さ」が普遍性を持ち得た希有な例だったんじゃないかと思う。(その点では山田花子には自分は少々点が辛い)
・>ビレヴァンいけば売ってる? >なんか漫画系のサブスクはこういうのの乗っかってどんどんセット売りとかして欲しいよな。
これは本当にそう思うところで、ガロの名作群はとにかく作品へのリーチが困難。古川益三の作品なんてマジで読めないし古書には衝撃的な値が付いてたりする。電書にするにしたってタダじゃないのは分かってるけど、なんとかならんかな。
・>「ガロ」はフォロワー・影響度では計れない作家作品が多すぎて。簡単に真似されるような作品はガロ的ではないとも言えるし
これも本当に同感で、孤立峰みたいな作家が多すぎるんだよなー。熱を込めて語られるけれど模倣はされない、って、表現としてはすごいことなんだけど。
・>ちびまる子ちゃんのクラスメイトの名前はガロの作家の名前から取ってると聞いたときは「へー」となった
誰かが今まさに書いてるであろう他の雑誌と被らなそうな所
漫画アクションは、週刊→休刊→隔週で復刊して発行中、というちょっと特殊な経緯を持った雑誌
双葉社はピンチになると神風が吹く、とも言われて、その神風でほぼ埋まるんだよね
一作者一作品しばりではあるが、このしばりが必要ないんだよなあ
Permalink |記事への反応(18) | 16:34
https://anond.hatelabo.jp/20240609080350
https://web.archive.org/web/20170710055944/http://ashihara-hina.jugem.jp/?month=201201
こないだ、食事に連れて行って頂いたレストランでのデザートが。。。
ココナッツのアイスと、ヨーグルトのムース?だったかな?(記憶曖昧)
グラスの中で組み立てるんだって。器用だなあ~~すごいなあ~~~
こういうの、ほんと見てるだけでワクワクする。食べるけど。
先週、誕生日だったので。
今年で17回、送って頂いたという事か。あれ?18回??
1
日記---
あれ?急にアクセス数増えた?と思ったら、
初めまして。芦原妃名子です。
「BLACK BIRD」も面白いけど、「Piece」もよろしくお願いします。(宣伝)
今日は(あ、もう昨日か。。)小学館の偉い人からタダ券を頂いたので、
楽しかったー。
しかし・・戦後20年で、ここまでマッハな速度で発展を遂げたのね。
頭では分かっちゃいるけど、改めて、すごい時代だな~と。
って、うちの親の世代か。すごいな。
そんなこんなと、「やっぱり大森南朋が好き過ぎる!!どうしよう!!」とか
考えてたら、あっという間の2時間ちょいでした。
一瞬、自分がどこにいるのか分かんなくなった。
お尻イタイ。恥ずかしい。
体が冷えたので「野獣風呂」に入ったよ
真っ黒(笑)
2
本・映画---
この可愛さは犯罪だと思うよ!
「ほぼ女子会」に、こういうシャンパンをセレクトして来てくださる
(私なりに物凄く褒めてるつもり!)、面白いです。ほんとに。
ユカイな人に出会うたんびに、「ああ、この仕事選んで良かったな」とか思う。
(あれ?気を遣われてるだけ??その可能性も大。)
杉本彩プロデュース「野獣風呂」は、以前他の人にも貰った事があるよ。
去年、私が「女豹になりたい」とか、ほざいてたからでしょうか。(あほ)
いつも接待して頂いてばかりなので、「今日は私が接待するわよ!!」的な
気分で、ご飯用意して待ってたんですが、、
結局また引っ越し祝いやらお菓子やら沢山頂いて、「私、何様!?」状態です。
取りあえず、「Piece」をがんばろう。
また遊びに来てくださいね~。
あ。酒飲み&通な編集さんを満足させるお酒を選ぶ能力が私にはないので、
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日記---
仕事机裏に3つ
ああ、魔除けね、魔除け!
夜中にお風呂入ってたら、いきなりブレーカー落ちて、怖いよりとにかく寒い思いしたり、
桜小路さんに「すっごい暖かいよ!!」と おススメされて買った暖房器具が、
なるほど超暖かかったんですけど、3週間で壊れたり、
相変わらずちっちゃな災難が、毎日いっぱいです。
逆柱の神様(?)、ほんとになんとかしてください。
うちの電化製品は、なんでいっつもすぐに壊れるのかなあ。。?
ほんとに不思議なんだけど。私、なんか発してる。。?
雪やんだかな。寒いなあ。
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日記---
全くおんなじやつを買いなおそうと思ったら。。
こういうの、ほんと目に見えて進化するよなあ~。
前ので十分満足してたんだけど。どこまで行くんだ。
消えて無くなるよ。
買おうか迷ってたiPad も一緒に買ってみた。
黒×赤にしてみたよ。
こういうの、その時期の気分によって、選ぶ色が全然変わる。
コレ、楽しいな!バッテリー持ちいいし!いくらでも時間つぶせるよ。
ちゃんと使いこなしたら、海外旅行中でもお仕事出来るよね~なんて
カッコ良さげな事を夢想中。
何を言う。
リビングにまだ無線LAN通ってないので、リビングで使えない。
RICOHさん、早く~!
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日記---
新刊が、やっと家にも届きましたよ
遅いなーと思ってたら、やっぱり一度、引っ越し前の住所に
配達されてたみたいです。
よくあるある。
1
お仕事---
和歌山在住・10年以上会ってない友人が誘ってくれたので、
すごく楽しみにしてたんですよ。
そしたら当日、神戸在住・これまた数年ぶりの懐かしい友人が、
「東京出張ができたので、今夜東京に着くよ!ご飯食べようよ!」って。
よ、よりによって、なんで被るのさ。。!
「前より元気そうだね。以前は、顔色青白かったよ。」とか言われる。
確かに私、前よか数倍元気。
風邪もひきにくくなったよ。
子供の頃、よそ様から頂いて、お正月によく食べてたよ、ゴーフル。
私はいちご味が好きです
1
日記---
だらけてます。
だらだら自由業なので、人出の多い時期にわざわざ外出する事って
あまり無いんですが。。。
今年は敢えて観光地に飛び込んでみましたよ。
箱根神社
日本も、元気になるといいな!
•waybackmachineにある最古のページは2011年6月だったけどそれにはブログ開始の挨拶とかなかったから、実際はもっとあったのかもしれない
↑写真とかも載ってるから興味ある人はちゃんとこっちから読んだ方ががいいです。
或いはこの増田のツリーよりはarchiveの方がPC版とサイズ同じなので読みやすいかもですhttps://archive.md/or39k
・「ダラス・バイヤーズクラブ」
・「オンリーゴッド」
・姉から鍋つかみをもらった
・顔出し
・「タイピスト」
・集英社で初連載
・競馬
・「月刊フラワーズ」メッセージイラスト(水城せとな先生の20周年)
・中山優馬くんの「Missing Piece」
・MATCHBOX TWENTY 「NORTH」
・稲刈り
・関西弁
・「鈴木先生」
・「桐島、部活やめるってよ」
・ドラマ迷った
・パソコン壊れかけた
・「殺す理由」
・講談社漫画賞授賞式祝賀会(水城せとな先生の失恋ショコラティエ)、迷って日比谷シャンテ周辺をグルグルグル。
・テレビが壊れた
・占い
・最近ライアン・ゴズリングが好き
・「ドライヴ」と「スーパー・チューズデー」
・「ブルーバレンタイン」
・猫が来た
・テニス
・貧血
・「ガタカ」
・「ヘルタースケルター」
・「僕らがいた」
・「第9地区」
・母のロールキャベツ
・「カーネーション」「ジョゼ」「ヒミコ」「コケッコー」渡辺あやさん
・野獣風呂
・iPad買った
・箱根神社
・謝恩会
・テレビ壊した
・芝刈り
・「ガキのためいき」
・「見かけの二重星」。
・犬の箸置き
・ルンバ壊れた
・「天然コケッコー」
・カラスに襲われた
・パンの話が描きたい
いい点
放射線吐き出す時の背中が機械ぽく伸びるのが個人的にカッコよく思っちゃった
戦闘機が、逆Vで渋い
悪い点
ゴジラが人を噛んでポイするとき、人体が分断しないよう甘噛みしとる。優しいんかい。
山崎貴の演出か、めちゃくちゃ演技が臭い。佐々木蔵之介とかマヨネーズぶっかけとるくらい臭い。まともな演技できる俳優さんなのに。
吉岡、こいつは臭い演技しかどんなドラマ映画でもできんから、まぁ山崎監督が好きなんだろなぁと。くっせぇ。
「生きなきゃいかんのです」って言っといて、電車の中でぼちぼち遠い距離でゴジラ見かけて椅子に座ったまま「あれが、、ゴジラ」じゃねーよ、さっさと電車から降りろっての。車両齧られるまでなにやってたんや。しかも、接近されても逃げないという。その後の宙吊り浜辺美波見たいだけだろ、山﨑よ。
その後神木登場は臭過ぎる。
吉岡がゴジラの沈める作戦伝えるとき、「ダメージ」という言葉つかう。1948年?とかでダメージって学者が言葉使うのか?
吉岡よ、「官の太平洋戦争とはちゃうで!民間のは生きる為の作戦や!」
言うといてゴジラ沈めた後、途中で浮かび上がらず、ゴジラ止まってたら圧力の急変そんな効いてないから、今から上げたところで、対応策無いくせになんで漁船もろともあげようとしてんねん。漁船死ぬやろ。吉岡。お前、神木の特攻知っとるやろ。脚本がクソ。一人で作る脚本はマジで爪が甘くなる。
人々の話し方とか、価値観が2023年の人の演じる戦後って感じ。
シナリオがご都合主義過ぎる。山崎って感じ。ドラ泣きしよう、とか三丁目の夕日みたいに、感動押し付けてくる。ウザい。嫌い。
あと思い出したら書いてく。
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも建設省に代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海に豪奢な別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治の開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。
「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、「おまゆう」問題。崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権・平等。あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法の価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものがアメリカの経験に基づいたものだ。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。
戦後、人権を外付け実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴに勝利した古代ローマ。
そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要が再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場の比喩が生まれる背景ともなった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深い。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。
それは、実は国によって微妙にコンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的な価値なら、なぜ何千年も克服できなかったかの意味を問うというか。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。
歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決は行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法の仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣の闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争の記憶との関連が薄まった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範が直接に結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的なロールモデルとは限らないのだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。
A clue to the problemmay befound in what I callthe theory of Opposite Virtues.Nations,like people in thisrespect,maypride themselvesmost highlyon the quality theymost lack. Hence “fair play”is agolden virtue inGreat Britain, the country thatattacked and subjugatedhalf theglobe. “Equality”was the banner of SovietRussia, where commissars owned lavish dachason the BlackSea and the proletariat lived no better than serfs.The United Statespridesitselfonits high “moral standard,” while perpetuating racial and moraldouble standards. And then thereis l’amour inFrance, anation ofcold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselvesmostonbeing so distinctively “Canadian.” InJapan we mustlookatthe time-honored ideal ofWa, “peace.”Wa means security, stability,everything inits proper place, “knowing whatis enough.”Yet a persistent irony ofJapanesehistory since 1868is that forall the emphasisonpeace andharmony, they are exactly the virtues thatJapandid not pursue.At the end of the nineteenthcentury, rather than settling back to enjoyits new prosperity,Japan embarkedon a campaign to conquer and colonizeits neighbors.By the 1930s,it had already acquired a tremendousempire in EastAsia; this inability to stopled toits suicidalattackon the U.S.baseatPearl Harbor,as a result of whichitlosteverything.Something similaris happeningagain. PerhapsJapan valuesWa so highly for the veryreason thatithas such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.