
はてなキーワード:一般社会とは
これ、今の時点では本人は「至高の美」だと思ってるんだろうけど、個人的には今後5年〜10年で、彼女たちはかつてないほどの「美の基準の変化」に苦しむことになると予想している。理由はいくつかあるんだけど、整理して書いておく。
まず、これ。彼女たちが本来ターゲットにしていたはずの「経済力のあるまともな男性」層が、すでにこの手の顔を敬遠し始めている。港区女子的な界隈でチヤホヤされているように見えるかもしれないが、それはあくまで「消費対象」としてであって、パートナーとしての「美」とは見なされていない。
経営者や医師、外資系みたいなハイスぺ層と話すと、彼らが今求めているのは「圧倒的な清潔感」と「生物としての健康美」だ。 作り込まれた不自然な造形よりも、髪のツヤ、肌のキメ、程よく筋肉がついた体型といった、「生命力の強さ」に価値がシフトしている。カリカリの整形顔は、彼らにとって「不健康」「メンタルが不安定そう」「金がかかりそう」というネガティブなシグナルにしかなっていないのが現実だ。
じゃあなんで彼女たちは止まらないのかというと、完全に「女同士の内輪ノリ」で美の基準が形成されているからだ。SNSという閉鎖空間(タコツボ)の中で、「もっと鼻を高く」「もっと小顔に」と、互いに「いいね」を送り合うことで、基準がインフレを起こしている。 これは客観的な美しさではなく、もはや「課金額と痛みに耐えた量」を競うチキンレースだ。一般社会や異性の視点から完全に乖離したまま、極端な方向へアクセルを踏み続けていることに気づいていない。
これが一番残酷かもしれない。 今のα世代が大人になった時、今のカリカリ整形顔はどう見えるか。 かつてのバブル時代の太眉やソバージュ、あるいは一昔前の極細アーチ眉がそうであったように、「あ、これ昔流行った顔だ」という強烈な時代遅れ感(=おばさん臭さ)の象徴になる。
「不自然なほど尖った鼻と細い顎」は、将来的に「2020年代に青春を拗らせた層」の制服のように見なされるだろう。若者がナチュラル回帰していく中で、あの造形はあまりにもノイズが大きすぎる。
そして彼女たちを待ち受ける未来は、以下の3つが同時に襲ってくる「詰み」の状況だ。
美のトレンドの変化: これまで信じてきた「正解の顔」が、ある日突然「ダサい顔」「古い顔」として扱われるようになる。
整形後遺症(メンテナンスの限界): 無理なプロテーゼや骨削りは、加齢とともにガタがくる。皮膚は薄くなり、軟骨は変形し、メンテナンス費用は指数関数的に跳ね上がる。
自然老化: どれだけいじっても、生物としての老化からは逃げられない。不自然に引っ張った皮膚と、老いていく肉体のバランスが崩れ、いわゆる「崩壊」が始まる。
このトリプルパンチを食らった時、心身ともに耐えられる人間がどれだけいるだろうか。 「あんなに痛い思いをして、大金を払って手に入れた顔」が、社会から「古臭くて不気味」と評価され、さらに物理的にも維持できなくなる。 その時のアイデンティティの崩壊とメンタルの疲弊は、想像するだけでキツイ。
今、承認欲求のドーパミンで麻痺している彼女たちが、この「はしご外し」に気づく頃には、もう手遅れなのかもしれない。 美しさの定義が「加工」から「素材の健康」へ揺り戻しが来ている今、過剰な整形の出口戦略を考えておかないと、本当に地獄を見ると思う。
もちろん、女性側の「容姿に金かけてるんだから食事代はお前が出せ」という主張も、デートはそういう取引ではないと感じる人はいるだろうが、しかしそれは「金出した分お前も出せ」という意味においては正しい。自分と相手の持ち出し額において等価でないと思うのであれば「7000円は出すけど5000円はお前が出せ」とでも交渉すればよろしい。
しかし「金を出す」と「ヤれる」は「性風俗」においては交換可能な価値であるが一般社会においてはそうではないということをいい加減、一部の「金かけたら奢ってもらえると思ってるってことは、こっちが金出したらヤらせると思っていいよな」などと考えている人類は学ぶべきである。
極端な例を出すのであれば「殴らせ屋」を常用している人間に急に金を渡されて「1万円受け取ったことは俺はお前を3分間殴る権利があるってことだよな」と迫られるようなものである。そんな常識は一部の特殊な業界の中にしかないということなのである。
なので「払った対価に応じて性サービスを受けたい」のであれば性風俗か東横か飛田か吉原かなんでもいいが、そういった商取引を行っている場所に行け。そこではお前の望む通り、金を出したらちゃんと性行為を行ってくれる人がちゃんと存在する。女性全てを呪う必要はない。
とある声優のオタクが接近イベでセクハラ発言をして炎上している件、件の発言(貧乳いじり)は当然セクハラに該当するものだと思うが、どこまでならセクハラとならないのか、改めて考えるとその境界線が難しいのではないだろうか。
かくいう私も声豚なので、たまにお渡し会とかで会話したりするのだが、大体まず髪型とか服装とかを褒める事が多い。「今日の髪型すごく可愛いです!」みたいな。
だがこれを一般社会に置き換えてみると、会社の同僚に上記の発言をしたらセクハラでアウトになる事例では無いだろうか。となるとアイドルや声優に対しても、容姿に言及する事そのものが実は控えるべき事なのだろう。俺は知らず知らずのうちに推しにセクハラを行っていたのかもしれない
もっと言えば我々のような弱者男性が話しかける事自体がもうハラスメントだとも言えるので、そもそもオタクは女性声優に会いに行くべきでない、というのが正解な気がする。
冬コミに、生成AIをメインで使うサークルがそれなりの数参加するということで、けっこう揉めている。AIも立派な表現だから参加するという声もあれば、AIなどただの盗作だから運営はAIを締め出すべき、までさまざま。参加者が揉めるのはいいが外野はちょっとだまっててほしいかもしれない。
くわえて生成AIの現状にはめちゃくちゃ批判的な立場である。反AIって呼ばれる部類?呼び方はどうでもいいが。
結論はタイトルどおりで、AIサークルの参加に問題はない。コミケ準備会も禁止するつもりはまったくないだろう。
現在、社会一般ではAIによる生成物が文章画像を問わず当たり前に出回っている。
私はそれを良いこととは思わないし、法律も含めて一定の規制が進むべきだと考えているが、ともかく現状の世間では許容されている。
なのでコミケでも許容されてよい。コミケとは一般的なモラル以上のルールが求められる場ではない、というよりさらに寛容だからだ。
自分たちで作ったものなら何を置いてもいい。机の上で完結し互いに干渉せず迷惑をかけない、ざっくりいえばそれだけがルールだ。自分のサークルの隣がAIサークルだとしても仕方がない。ふつうに挨拶はする。(新刊交換はご遠慮願いたいが)
もちろん即売会のレギュレーションとして創作物の範囲を定め、AI生成物は禁止とするのは自由だ。仮にコミケがそうしてもなにも問題はない。
ただし、AIだけを禁止するのはこれまでのコミケのやり方にはそぐわないと思う。
そもそもコミケは自由な創作の場をうたってはいるが、自由とは要するにゆるゆるなのである。
二次創作が大半を占めるのも、エロ本が売られるのも、マンガやアニメと関係ない趣味の本があるのも、コスプレが大勢いるのも、来るものを拒まずにいた成り行きの結果にすぎない。法的に危うい恐れがあっても明確に黒でなければ締め出すことはない。だからAIを忌避することもないだろう。
AIを締め出してほしい派の人たちは、コミケというものに明確なルールで運用される創作者の味方を期待しているのだろうけど、それはお門違いかと思う。いいかげんでごちゃごちゃしたアンモラル寄り、灰色の場がコミケなのだ。
仮にコミケがAIを締め出すとしたら、一般社会からAIがある程度締め出されるようになってからだろう。
AIサークルが増えてもいいのか?創作の場が生成AIに侵略されていいのか?と言われたらふつうに嫌である。
でも、たぶんそうはならん気がする。なったら場を移すしかないと考えている。
理工系の女子が少ない大学、あるいは高専出身者ならわかると思うんだけど、あの空間、文化って凄く独特で、普通の学部や学校だと教室の隅でラップトップをカタカタしていたり、ライトノベルを読んでいたりしたようなカースト下位のオタク君たちがグループやクラスの中心にいるんだよね。
つまり理系っていうのは「オタク」という被差別属性の存在がカースト上位の男子や女子のいない空間で、モテ度による非人道的な差別から逃れて主体性をもって技術や学問に没頭できる保護区だったわけ。
女性が主体的に教育を受けるための教育機関が女子校であれば、オタクが主体的に教育を受けるための教育機関が理工系だったんだよ。
そしてこれまでの理工系の成果というのは、間違いなくそういった、一般社会ではキモい、陰キャと迫害された人たちが中心となって育ててきたものなんですよ。
それが儲かるようになってくるとSTEMだなんだともてはやして、「こんな良いものをオタク共が独占するな」と言われてるのが今なんですよ。
だからこそ、いま理工系で起きていることは「多様性の拡張」ではなく、「文化的な再征服」の捉えるべきだ。
かつて見向きもされなかった“オタクたちの保護区”が、経済的価値を持った瞬間に、社会の主流に収奪されようとしている。
誰もがモテ度やカーストに縛られず、数少ない女子学生も含めてただ好きなことに没頭できるという自由の構造こそが、理工系の文化を支えてきた。
その自由があったからこそ、教室の隅で世界を観察していた少年少女たちは技術で世の中を支える人材に育ってきた。
STEMを誰が学ぶかよりも先に問うべきは、その自由がまだ残っているかどうかだろう。
没頭を許す環境が失われたとき、理工系は単なる“キャリア教育”に堕し、人類の創造力はその静かな避難所を失う。
社会性なんて学校以外でも伸ばせる場所はいくらでもあるだろうに。
最低限は人との関わりが必要だっていうなら通信制でも登校日やイベントがあるのは普通だしな。
そもそも全日制に通い続けていれば協調性やコミュニケーション能力が育つのかといったら、そんな人ばかりじゃない。
反社会性や攻撃性の強い生徒同士でつるんで周りに迷惑かけまくったり、コミュニケーション苦手なままの受身な人なんていくらでもいる。
そんなやつらのどこが学校に通うことで社会性を身につけられてるんだ?逆に全日制に通ってなくても芸術なり競技なりバイトなりその子が打ち込んでる活動を通じて苦いも甘いも経験して社会性の育っていく子なんていくらでもいるが?
それをお前は「全日制でずっとやってきてるからこの子はちゃんとしてるに違いない。こっちの通信制のやつは何か瑕疵があるに違いない」とか判断するんだろうな。人の本質を見ようとしない人間は救いようがない。
だいいちどんな学校だって「一般社会で出会ったら転職してでも距離を取るべきレベルのバケモン」と出会う可能性があるのに「誰とでもみんな仲良く」なんていう現実に即してないお題目を真に受けて、制度的に認められてる回避方法を認めないほうが社会からズレてるだろ。
そもそもバラエティ番組のプロデューサーやディレクターやってた人って、テレビ局に就職してなかったら、明らかに反社の世界の人にいた人だよね。テリー伊藤、土屋敏男、片岡飛鳥とか、表に顔出しできる人ですら、目つき顔つきがやばすぎる連中ばかり。一般社会なら普通に犯罪になることを、テレビバラエティを縦にしてやりたい放題だった。
とくに氷河期世代でADやっていた人たちは本当に不幸。若手の頃は暴力パワハラが日常で、なんとか生き延びて中堅になったら暴力パワハラがダメになり、テレビ自体が衰退してしまった。街録の人とか、一部の人はyoutubeで活路を見出している。陰謀論に闇堕ちしたクズも多い。
働くこともなくひたすら甘やかされお菓子とアマプラを観て寝てツイッターやインスタだけする生活をさせたい
自分の意見を否定されることはなく、どんなことしても怒られることのない生活をひたすら続けさせ、一般社会には二度と復帰できないけど只管退屈なだけの毎日を強制させたい
SNSによる集合知の高度化は社会学の存在価値を失わせる可能性があります。社会学は集合知の進化によって存在価値を失いその役割を失ったと言えます。
集合知(衆愚、Wisdom of Crowds)は、多くの人々の意見や知識を集約することで、個々の専門家よりも優れた判断や予測を導き出す可能性を秘めています。特にSNSは、この集合知の形成を加速させていますが、同時にいくつかの課題も抱えています。
SNS上の集合知は、しばしば特定のグループ内での意見の増幅(エコーチェンバー)や、感情的な共感に基づく短絡的な判断に陥りがちです。また、誤情報(フェイクニュース)や意図的な操作の影響を受けやすいという脆弱性もあります。
社会学の役割:社会学は、こうした情報拡散の構造や、人々の意識形成のプロセス、そしてそれが社会全体に与える影響を客観的に分析し、集合知の限界や偏りを指摘します。単なる「データ」ではなく、「社会的文脈」や「価値観」を含めて理解しようとします。
集合知は「何が起きているか」を示すのには長けていますが、「なぜそれが起きているのか」「それは社会にとってどんな意味を持つのか」といった本質的な問いには答えられません。
社会学の役割:社会学は、人々の行動や社会現象の背後にある動機、文化、規範、格差といった、目には見えない社会構造を深く掘り下げます。**「望ましい社会とは何か」**という規範的な問いに対しても、歴史的、比較的な視点から考察を加えます。
SNSは意見の可視化を進める一方で、社会の分断(二極化)も深刻化させています。異なる意見を持つ者同士の建設的な対話は難しくなりがちです。
社会学の役割:社会学は、分断を生み出すメカニズムを分析し、異なる集団間の理解や対話を促進するための理論的基盤を提供します。また、心理的安全性のある対話の場が、健全な集合知の形成に不可欠であることも指摘します。
SNS上の集合知が高度化しても、社会学は人々がどのように集団を形成し、相互作用し、意味を作り出し、葛藤しているのかを、データを超えて本質的に理解するための学問として、その存在価値は揺るぎません。むしろ、複雑化するデジタル社会を深く、批判的に理解するために、社会学の知見はこれまで以上に重要になると言えるでしょう。
特定のパラダイム(理論的枠組み)や専門用語がコミュニティ内で過度に重視され、その枠外にある新しい視点や異論が軽視されたり、理解されにくくなったりすることがあります。学術誌の査読や学会での発表においても、既存の主流な考え方を支持する研究が通りやすい、という構造的なバイアスが発生し得ます。
社会学は社会の不平等や権力構造を批判的に分析しますが、その批判対象が固定化し、社会の変化に伴って新たに生まれる問題や、複雑な現実に存在する「善意による悪」のような側面を見落としてしまう危険性があります。常に批判的な立場を取るあまり、実証データや客観的な分析よりも、イデオロギーが先行してしまうという批判もあります。
一般社会の集合知や常識からかけ離れた独自の議論を深めていくあまり、「象牙の塔」に閉じこもり、学術コミュニティ内でのみ通用する言葉や論理で固まってしまう現象です。これは、社会学者が自ら分析するはずの多様な価値観や日常のリアリティから切り離され、社会に対する影響力を失うことにも繋がります。
しかし、この自己批判こそが社会学の核心的な強みとも言えます。社会学は、権威主義やバイアスを分析し、客観性と批判精神を維持しようと努力する学問です。
集合知やビッグデータ分析といった新しい定量的手法を取り入れ、伝統的な定性的手法(インタビューやエスノグラフィー)と組み合わせることで、視点の偏りを減らそうとしています。
経済学、心理学、情報科学など、異なる分野の研究者との協働を深め、独自のコミュニティの殻を破ろうとしています。
自分自身の立ち位置や、研究者コミュニティが持つバイアスを常に問い直すという「内省(リフレクシビティ)」は、社会学研究の重要な柱の一つです。
つまり、「社会学者こそエコーチェンバーに囚われている」というご指摘は、社会学が自らの宿痾と闘い続けるべきという、非常に重要なメッセージを内包していると言えるでしょう。
この自己批判の能力こそ、集合知が持つ限界(偏りや短絡性)を外部から分析できる、社会学の根源的な存在価値につながるのではないでしょうか。
流行る物事や日々対峙する人間たちに全く魅力を感じない。決定的に自分の方がズレてきている感覚が無視できなくなってきている。
かといって自分の価値観を共有し切れる友人やコミュニティもないし、日々孤独に「自分はこれオモロいけどな〜」と自家発電的に誤魔化し続けるという次第である。
多分これは自分自身が相当面白くなくなっている証左である。思い返すと、昔の記憶というかかつて自分が好きだったものを擦り続けている現実もあるし、何か未来に向かっていっていない回顧主義的な感覚が強くなり過ぎている。
昔は万物のカルチャーに詳しい自分、というのがアイデンティティめいたものであったが、最近はマジで知らないことが増えたし、知らないからといってそれをディグるようなモチベーションも沸かないのが現実である。
興味のアンテナの感度が大分薄れてきているのである。イコール単純につまらない人間になってしまったのかもしれない。多分これからどんどんそんな機会が増え始めて、どんどん面白くなくなっていくのであろう。
なんというか目に見えて人生終わっている訳でもないのが辛い。ある程度一般社会人としては卒なくこなせつつあるが、その中でも特化して凄い訳でもない。仕事はまあ最低限こなせてると思うが、仕事以外の人間的な充足度が異常に欠乏し切っているという状況に恐れを感じている。
二十代の頃はガムシャラというか仕事に悩殺されていても、「今は若手時代のそういう時期」と納得できる感覚もあったが、そんな青春期も頭に過ぎ去り、ちゃんと人生経験重ねて「仕事もプライベートも卒なくこなしてる大人」というある種のチェックポイントに永遠に追いつけないようになってしまっている気がする。
そして脳の調子がすこぶる悪い。一回抑うつで休職してしまっているので、この体調悪さの段階がなんとなく読めてしまっているのだが、だからと言った休んでもそこに救いは無かったという事実も過去の経験から理解してしまっている。
要するにちょっと辛くても走り続けなければ根本的に詰みゆく事実を理解している。現状の生活は怠惰でやっぱり辛いながらも気に入ってたりするのだが、このまま何もせず10年ぐらい平然と過ぎていくのももっと恐ろしいだろなと自覚している。
今は酒を飲みまくり現実逃避しているのが実態であるが、これもいつか無理が来て崩壊していく未来も見えつつある。この年代に差し掛かるとこれまで全く意識していなかった「肉体の健康」という指標が重視されてくる。「精神の健康」は大分危ういなと過去から理解し、ケアに努めようとしているが、肉体面まで包括的に守っていけるようなキャパシティは持ち合わせているのだろうか?
結論としては自分の内面的な部分を維持しようとかなりのリソースを使い果たしていて、それ故に世の中や他人への関心が向かずに「面白くなくなった」という事実である。本当はもっとお気楽な人間だったんだよなあと理解しながらも、今の世界はそのお気楽さを許してはくれない恐ろしい状況に今の自分には見える。それは世の中が変な方向に行ってるのではなく、単に自分が弱り果ててしまっているのだろう。
逃げたとこで救済はないだろうし、何か絶妙な変化で自分に潤いを与え続けるしかない。多分受け身で何か地殻変動を期待し続けているという状況が良くないのだろう。俺がマグニチュードになるしかない。
フェイクも入ってるんだろうけど、増田はおそらく漫画やイラストみたいな創作系の趣味をやっていて、
そこで商業的にも成功してその結果として恋愛や結婚に至る人間関係が出来るのを期待していたんだと思われる。
婚活しろというのは簡単だが、低賃金で働く特に容姿が良くもない人間は、アラサーだろうが二十代前半だろうが婚活市場で成功するのは難しいよ。凄く年上を狙えばワンチャン、くらい。
転職するだの独立するだのして収入を上げるのは、ただでさえ低迷する日本社会ではハードモード。
一般社会人としては難ありでも、クリエイターとして成功すればその魅力に釣られて異性が寄ってくるみたいな事例は実際にあるからな。
例えば庵野秀明みたいに。
そこまで著名じゃなくても同じ趣味を持つ者同志で結婚してる人は結構いるし。
小学生までとは言わないが、人生において童貞が許される期間があるという点においては真理だと思う。
長い人生、様々な人間とコミュニケ―ションを取ることになる。そうした積み重ねの中、時には恋に落ちて夜を過ごすことがある。そういった経験は多くの人がアラサーに入るまでにすると思われる。つまり、いい年こいた大人であれば童貞を卒業していることは普通なのだ。
ここで増田で見られる童貞煽りについて着目してみる。一般社会において童貞を卒業していることは普通であるため、童貞煽りは煽りにすらならない。しかし、増田においては異なる。童貞を卒業できていないような人らが集まるのが増田である。つまり、童貞煽りが通用する人間がいるのが増田なのである。
普通の大人であれば童貞は煽りにすらならないから童貞煽りは選択肢にすら入らない。しかし、童貞であれば童貞煽りが選択肢に入る。つまり、童貞煽りをしているヤツこそが童貞なのである。
かつて故安倍と麻生と小泉、まあ旧清和会の面々がB層と規定したその手の連中をオタク界隈とセットで票田取り込みに走ったのがそもそも間違い
寧ろオタク界隈で引き取ってるからこそこの程度で済んでるといえる
お前、それがどういう意味か分かってるのか
絶対ロクな事にならんて
お前の普通が見せパン履いてたら中見られたり撮られたりしてもしかたなしって阿呆なのはよくわかった。
見せパン履いてるのは自衛なの、下着、最悪局部をさらすことがないように防御してんの。
囲みで許可取るのは現実的じゃないから何でもしていいわけじゃないから。
知らん奴はやらせてくれたからお前もいいだろ?にはならんだろ。
誰も良心に訴えてないじゃん、レイヤーももっと意識上げて自衛なりする、カメコはルールと節度を持った一般社会人に戻る、
運営は問題提議を改めて行って改善するためのルール作りをする。