
はてなキーワード:一元論とは
『立正安国論』(日蓮著)と『共産党宣言』(マルクス、エンゲルス著)は、成立した時代、背景、そして思想的基盤は類似点を見出すことができます。
社会の主流派や既得権益の外側に身を置いた急進的な異端者という視点から見ると、「体制外からの批判と、絶対的な正義に基づく世界観の強要」という構造的な類似性が浮かび上がります。
この共通性は、両者が既存の秩序・権威を根底から否定し、「唯一の正義」による強制的な社会変革(革命)を求め、その結果、体制側から徹底的に弾圧された点に集約されます。
「引きこもりニート」という表現は極論であり、史実的には日蓮は精力的な遊行と布教を、レーニンは地下活動と亡命生活を送った活動家です。しかし、この言葉が持つ「主流社会の権威や経済システムから疎外された者」というニュアンスに注目すると、両者の著述態度には共通性があります。
日蓮(『立正安国論』): 当時の仏教界の主流であった念仏宗(法然の教え)や、これを庇護する鎌倉幕府の権威を徹底的に否定しました。彼は比叡山や清澄寺といった既成の権威ある場所から離れ、独自の解釈である「法華経」のみを「正法」として掲げ、それ以外の教えを「亡国の原因」と断じました。これは、「俺の言っていることだけが絶対の真実だ。それ以外は全て間違いだ」という、体制に属さない者が持つ孤高で排他的な絶対正義の表明です。
レーニン(『共産党宣言』):マルクス主義は、当時のブルジョアジーが支配する資本主義体制、その上に立つ国家、法律、倫理の全てを、「階級搾取の道具」として否定しました。レーニンもまた、ツァーリ体制下で弾圧され、ヨーロッパ各地を転々とする亡命生活(社会のメインストリームから切り離された生活)を送りました。彼の主張は、「現在の経済システムは全て不正であり、これを打倒してプロレタリア独裁による理想国家を作る以外に道はない」という、体制外からの急進的で排他的な社会変革の要求です。
両者の著書は、その内容の異質さにもかかわらず、「二元論に基づき、体制内の悪を徹底的に清算しなければ、理想的な安寧は実現しない」という構造を持っています。
両文献は、現状の社会が直面する危機(災厄)を明確にし、その原因を体制内の「悪」に断定します。
危機:天変地異、飢饉、疫病、他国からの侵略(自界叛逆と他国侵逼)。
原因: 「謗法」(念仏などの誤った教え)が国に満ちていること。
危機を回避し、理想郷(安国または共産社会)を実現するためには、「唯一の正義」による反対勢力の強制的な排除が不可欠であると説きます。
「立正」、すなわち法華経のみを国教として立てること。その結果、謗法者(念仏を唱える人々)は弾圧・追放されるべきであると強く示唆します。
「プロレタリア革命」による階級闘争とプロレタリア独裁。その結果、ブルジョアジーは私有財産と共に消滅(排除)されます。
このように、『立正安国論』は宗教的絶対主義、『共産党宣言』は経済的絶対主義に基づくものですが、両者とも「現状の悪は体制内にある」「それを根絶するためには、体制外からの急進的な一元論を強制適用しなければならない」という、強力な教義的排他性を持っている点で、構造的な共通性があると言えます。
だがしかしりつみん、お前は駄目だ。おまえらは自分がかわいいだけのクズ野郎の集まりだ。共通点があるのは日本保守党だけでしょうね。
シュミット先生は『合法性と正当性』にて「技術信仰の明証性は、技術において、ついに、絶対的、最終的に中性的な基礎を見出したと信じることができた」とか「ここでならば、あらゆる民族、国民、あらゆる階級、宗派、あらゆる年齢層、性別が、急速に合意することも可能であるように見える。なぜなら、技術的快適さの利益、便利は、万人が同じ自明さをもって享受するのだから」と書いている。
この人が生きていた時代はAI技術なんて考慮すらされていなかったので、ここでいう“技術信仰”における技術ってのは“科学的な体系や、その分野の専門家”などを指しているわけだが、現代でいうならここにAIも含まれることになるだろう。
このあたりの“技術信仰”の是非は他の人も語ってて、シュトラウス先生は『ホッブズの政治学』で
技術の中立性が仮象であることがわかるにつれて、「絶対的かつ究極の中立的基盤」を発見したり、いかなる協調を実現しようとする試みの不合理さも明らかとなる。いかなる代価を払ってでも協調が実現されるべきだとすれば、それは人間生活の意味を放棄するという代償を支払って得られる協調でしかありえない。なぜなら、そうした協調は何が正しいかという問いを断念するときのみ、実現可能だからだ。そして人間がそうした問いを断念するとき、かれは人間であることを断念することになる。
完全なる協調を求めるならば闘争を治めるしかない。そのためには皆が“何が正しいのかという問題”を放棄すればいい。或いは、価値一元論のもと解答先を決めて、皆がそれに従う世界にすればいいかもしれない。その“解答先”こそが“技術”であり、ひいては“AI”ってわけだ。
本質的に技術そのものは中立であり、その解答は客観的で偏りがないとされる。価値一元論のもと解答を求めるならば、AIはこの上ない存在だろう。しかし、シュミット先生は「技術は全ての人に仕えるという、まさにそれ故に中立的ではない」ともいっている。技術そのものが中立的であっても、そうではない人間が紛れ込む時点で中立性は損なわれるからだ。
ちょっと前に、朝日新聞フォトアーカイブをAIでファクトチェックしようとした人が話題になったけど、あれなんて典型例だろう。使う側が「この画像はおかしい」という含意のもとAIに尋ね、その結果を「AIがいっていることだから正しい」という前提のもと解答としている。もちろん、あの件をAI技術の未発達が原因だと論じることは可能だけど、それって人間側の未熟さを棚にあげるってことで「人間であることを断念」してないか。人間性を放棄しといて民主も自由もなかろうに。
人間が何が正しいかを真剣に問うならば、そうした問いのもつ「解きがたき問題構成」に直面して、紛争が、それも生死を賭した紛争が勃発するのである。何が正しいか真剣に問うことによって、政治的なもの(人類の敵味方への集団化)はその正当な根拠を得るのである。
これも『ホッブズの政治学』に書かれてたことだけど、つまり何が正しいか真剣に問わない世界ってのは政治的闘争もないってこと。というより、技術(AI)が絶対的に正しいとするならば、そこに民主的な考えや自由な考えが入り込んで対立する余地がない。あったとして、それは茶番や娯楽でしかない。だから人間は真剣でなくなるけど、争いは減るからまあ平和的ともいえる。
そういえば最近、シロクマ先生はAIに選挙を任せることの是非についても語っていたけど、ブコメで「AIの言ったとおりに投票する自由はあるだろ」といった旨のこと言ってる人がいたな。まあ理論上ではあるけど、「(AI)技術が本質的にもつ中立性」と「自由主義が追い求める中立性」って相性はいいんだよね。
ただ先ほどもいったように技術を誰でも仕える時点で中立性は損なわれている。その点を抜きにしても、技術が人間に服従していて、かつ人間よりは有能でないからこそ成り立つ話でもある。今後AIがより有能になり、むしろ人間側がすすんで服従することがマストの風潮になっていくならば、その先に自由なんてないわけで。奴隷が「その先に自由がないものを選ぶ」ことまで“自由”という括りにするのは欺瞞的だ。
とはいえ、価値一元論における解答者がAIになるような世界が実現した場合、そもそも人間による政治そのものが必要なくなり、選挙もする必要がなくなる(AIの判断が最も正しいのならば、国家レベルで「人間同士が正しさを競う場」なんて必要ない)。なので、いまの選挙のように「人間が政治的に争う場」がまだある現段階では、多少AIが介入したところで民主や自由は残ってるといえなくもない。
AIは現状「人間の労力と、その結果に対する責任を誤魔化すためのツール」の域を出ないからこそ、まだ悠長に語れている話ではある。シュトラウス先生が現代に蘇れば「私たちが語ってた頃よりも技術がヤバいことなってるのに、お前らまだそんな吞気なこと言ってんのか」って思うかもしれんが。
シュレーディンガーは形而上学は物理学の後に来るのではなく、物理学に先行するという信念を表明していた。彼の技術的な思考は、より大きな形而上学的(宗教的)な問題に触発されていたのである。
「外界(心に依存しない)世界が存在する」「別々の心が存在する」という仮定がある。シュレーディンガーによれば、どちらの主張も経験的な証拠を得ることはできない。第一に、二つのタイプの現実(心-物質)の関係をどのように考えるかという問題。なぜ純粋に物理的な世界に住んでいるように見えるのか。第二は、異なる心の関係をどう考えるかという問題。なぜ、どのように互いに違うのか。彼は還元的唯物論や主観的観念論と呼ばれる伝統的な西洋の考え方を支持せず、非西洋、特にインドの哲学にインスピレーションを見いだしていたらしい。
「第二のシュレーディンガー方程式」とは、インド哲学に古くから伝わる、自己(アートマン)が宇宙の究極の実在(ブラフマン)と同一であるという教えであり、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えの中心を成しているものである。シュレーディンガーは、この「自己」は個人の自己と混同してはならず、むしろ個人の自己は単なる側面に過ぎない宇宙的、普遍的な存在であることを付け加えた。
シュレーディンガーは、この考えを説明するために、光を屈折させてさまざまな色(個々の自己)を作り出す水晶(宇宙の本質に等しい宇宙的自己のこと)に喩えることを好んで行った。「あなたや私は、現実の本質を形成している一つの心の側面に過ぎない。」彼はこれを同一性の教義とも呼んだ。したがって、意識の非二元的な形態は、その単一の側面と混同されてはならず、単一の世界に住む別々の自己への(単に見かけ上の)区別の反証を根拠づけるものである。
シュレーディンガーは、このことから驚くべき結果を導き出した。例えば、彼はどんな人間でも、その人以前に生きていた他のどの人間とも同じであると信じていた。初期のエッセイの中で、彼は目の前の山々を眺めることについて書いている。何千年も前に、他の男たちも同じようにこの景色を楽しんでいたのだ。しかしなぜ、自分はこのような前の人たちと区別されると思い込まなければならないのだろうか。自分の経験と他の人の経験を区別するような科学的事実があるのだろうか。何があなたをあなたたらしめて、他の誰かではないのだろうか?かつてジョン・ホイーラーが、宇宙には本当に一つの電子しか存在しないと仮定したように、シュレーディンガーも、本当に一つの心しか存在しないと仮定した。シュレーディンガーは、「意識は決して複数形ではなく、単数形でしか経験されないという経験的事実」がこれを裏付けていると考えた。私たちの誰一人として複数の意識を経験したことがないばかりか、それが起こったという状況証拠も世界のどこにも跡形もない。
現代の意識の科学的研究において、物質がどのように、そしてなぜ意識的経験を生み出すのかという問題を、「意識は脳を備えたいくつかの物理システムが自らに語る幻想の物語である」という、そもそも難しい問題があるように見える理由(実際には何もないのだが)で回避しようと試みている。シュレーディンガーは、意識の実在についての幻想的な立場を受け入れるには程遠かったが、非常に似たような観点から、たった一つの心(「アートマン=ブラフマン」)があるのに、なぜ複数の心が存在するように見えるのかを問うている:多くの別々の心が存在するというのは、混乱した個人が自分に語る幻想の物語なのだ。そうでないと、私たちは常に他の存在(最終的には、現在、非生物的物質と呼ばれるものとも)とつながっていることに気づかず、ある意味で根本的に孤立しているという誤った信念を持つことになる。難しい問題の場合とは異なり、私たちの最初の信念が本物であることを示す経験的証拠はない。
シュレーディンガーの形而上学的、哲学的な教えへの取り組み方の重要な特徴は、合理的、科学的な方法論を堅持する慎重さであった。同一性の教義は、無批判に採用することはできない。つまり、新しい形而上学を採用しつつも、科学的方法は維持しなければならない。科学理論には東洋思想からの輸血が必要だが、輸血は常に凝血を防ぐために大きな予防措置を必要とする。科学的思考が到達した、どの時代にもどこにもない論理的精度を失いたくはない。
シュレーディンガーが求めていたもの、彼が最も高く評価していたであろうものは、数学的な正確さをもって意識を研究するための科学的アプローチである。そのような意識の理論にとって同一性の教義から続く重要な制約は、その非常に基本的な構造において、個々の意識のある存在が(切断された個人ではなく)より高次で統一的なエージェントの側面であり、(電子、岩、脳といった多くのものの中の一つに過ぎず)そのような存在の集合全体が現実の究極の性質を構成すると認めていることであるだろう。
シュレーディンガーは、意識の実在を認める根本的な一元論を望んだのである。意識の研究における現在の理論的状況を考えると、「意識的行為者の理論」はこれらの要件に最も適合しているように思われる。それは、意識が何をするのかについて正確で明確な定式化を目指しており、2つ以上の意識的エージェントのいかなる組み合わせも、それ自体が別のエージェントであることを提案している。また、エージェントの集合体全体が現実の本質を構成しているという考えにも適合するように思われるが、そのためには、この集合体から物理的世界がどのように発生しうるか(そして、それとは別に何も存在しないか)というモデルを理論が考え出すことが必要である。
シュレーディンガーは、哲学の分野で以前から提起されていたいくつかの議論(例えばカント)に依拠したが、彼の立場は次のように集約される:我々が物理的世界と呼ぶものは、シュレーディンガーが「客観化」と呼んだプロセスの結果である。すなわち、一つの自己世界(アートマン=ブラフマン)が、容易に概念化でき、客観的に研究できるもの、したがって主観的性質を完全に排除したもの、へと変化することである。意識的行為者の理論では、これは「インターフェース」の創造に相当する。このようなインターフェースは、効率的な行動を可能にするために、起こっていることを単純化する。優れたインターフェースは、複雑さを隠す。インターフェイスは、現実をありのままに見せるのではなく、自分にとって都合の良いように見せる。「物理的世界」と呼んでいるものは、非二元意識を高度に単純化した表現に過ぎない。
この物理的世界もまた、そこに向けられた多数の対象を抱いているように見える。自律した物理的世界という誤った印象をもたらした客観化のプロセスは、まさに、異なる肉体に住む異なる形態の意識を想定する誤りにつながる。非心理的な世界に心的特性を加えるという手っ取り早い方法では、先に述べたような問題を本当に解決することはできないだろう。なぜ他の誰かではなく、あなたなのか?ある主題のセットをより上位のものにまとめるにはどうすればいいのか?しかしそれらの問題は、そもそも分離した多数の自己に対抗する一つの物理的世界の存在という形而上学的前提に屈しないことで回避することができる。意識的行為者の理論によれば、根本的に分離した自己という考え方は、インターフェース上に見えるものと非二元的な意識という真の現実を混同している場合にのみ生じる便利なフィクションである。
意識的行為者の理論は、シュレーディンガーの問いに対する興味深い答えを提示している。なぜ、私たちは特質のない物理的な世界に生きているように見えるのか?なぜ、そしてどのように私たちは互いに異なっているのだろうか?それは、意識的なエージェントのダイナミクスが、現実の本当の姿を隠すようなインターフェイスを生み出すからだ。私たちは同じでありながら、異なるように見えることがある。ある視点から見ると、すべてのエージェントは一つの世界に等しい一つのものに結合する。別の視点から見ると、この単一のエージェントは、それぞれの世界に住む異なるエージェントのネットワークと等しくなる。どちらの視点を選ぶかは、何を説明したいかによる。
大学生の頃、教職課程の介護実習でデイサービスセンターに5日間お世話になったことがある。そのとき90歳も越えようかというあるおばあちゃんと色々とお話したことが今でも印象に残ってる。そのおばあちゃんは僕の顔を見ると毎日口癖のように「今あなたが生きてるのは親のおかげなんやから親に感謝しなあかんで」と言っていた。僕自身恵まれた家庭環境で育ったわけではないし、何より哲学という捻くれた学問を多少なりともかじっていたこともあって、彼女の言葉を素直に受け取ることができなかった。「いやいや、『存在』の原因の話をするなら第一原因にまで遡るべきだし、神ならまだしも何で親で遡及を止める必要があるんだ」とか思っていた。哲学を少しでもかじったことのある人間は基本的に、肯定するにせよ否定するにせよ、いま・ここという仮象の世界と、そうではない真実の世界という二元論を前提として持っている。そして得てして二元論を持つ自分は一元論に留まる大衆よりも正しい仕方で豊かに世界を認識していると思いこんでしまう。もちろん自分もその例外ではなかった。おばあちゃんの説教はとても素朴な一元論の立場からの言葉にしか聞こえなかったし、そこに道徳的、政治的なある種の危うさすら感じた。そして実際そういう側面はあったのだろうと思う。けれどもおばあちゃんを不快に感じたことは一度もなかった。一人で起き上がることすら出来ないほとんど骨と皮だけになったしわしわのおばあちゃんを見ていると、その言葉が実際のところ何に規定されているのであれ、少なくとも一世紀近く生きてきた中で彼女自身が確信してきた信念から出てきた言葉なのだということを感じた。だからと言ってその人生哲学だか生活哲学を無批判的に受容すべき理由にはならないのだが、そうなのだが、あのおばあちゃんをイドラに囚われた啓蒙すべき人間としか見なさないような哲学に豊かさはあるのかと強く思う。
たとえば「女の生理痛は男が金玉を蹴られた痛みと同じ」という言説から考えてみよう。
これは冷静に見れば全然おかしい言葉であることがわかるだろうか。
個人差とかもあるが、それ以前に「自分の感じる痛みを他人のそれと比較すること」はどうやっても不可能なのである。
何故なら痛みという「感覚」自体を、何らかの言葉や図表、量的な指標を用いて他人に伝えることができないからだ。
極端な話、自分の感じる【この】痛みという感覚が、他人の感じる痛みという感覚と同じなのかどうかすらわからない。
自分の見ている赤が他人の見ている赤と同じとは限らない、と言う説明がされることが多い。
ところで質問なのだが、このクオリアという心的現象は、物理現象の一種なのだろうか?
つまり、現在は脳科学が発展していないために見えていないだけで、実際のところ「心の働き」と呼ばれるもののすべては脳神経で起こっているニューロンの発火や電気信号だけで成り立っていて、それらを完全に解析さえすれば上述のような「他人の痛みの比較」も可能だし、人が何を感じ、何を考えているのかといった心的現象も追うことができるのだろうか?
もしくは、意識や感覚といった領域は物理的法則では縛られない世界にあって、ニューロンの発火だけでは絶対に説明がつけられない部分が残るのだろうか?
あなたは
あなたは、意識や感覚などの心的現象は物理法則に則った現象の一種にすぎず、人間の技術力に限界さえなければ、いずれは脳神経学によって解き明かすことのできる類のものだと考えている。
しかし、この考え方は重大な問題を秘めている。それは自由意志の問題である。
心的現象が物理法則に則っているのであれば、あなたの「コーヒーが飲みたい」「あの本を読もう」「右足を前に出そう」といった意識はすべて、その直前の脳神経の物理的状態から力学・電磁気学などによって導き出される現象に過ぎない。
そうであるならばあなたの意識と行動のすべては法則に支配されており、自由意志などというものは存在しない。
あなたはこの考えを
あなたの一挙手一投足は脳神経内の原子や分子が物理法則にしたがって動作した結果であり、そこにあなたの意志はない。
あなたがこの文章を読んでいることも、これからのあなたの行動もすべて、ビッグバン時点での素粒子の配置と運動量によってあらかじめ決定されていた事実にすぎない。End
あなたは物的一元論を受け入れながらも、自由意志の存在を肯定する。
すなわち、現代科学では解明されていない領域に、自由意志の存在を受け入れる法則が隠れていると考えるほかない。
あなたの自由意志とはあなたを構成する量子の揺らぎの別名であり、シュレディンガー方程式を自在に操って、この文章を読むと言う物理的行為を成し遂げているのだった。End
あなたは、意識や感覚といった心的現象には、ニューロンやシナプスの物理的挙動だけでは理解しえない、物理法則とは別種の法則が働いている領域があると信じる。
しかし、この考え方は重大な問題を秘めている。それは物理領域の因果的閉包性の問題だ。
物体が物体に衝突して相互作用を起こす時、それは純粋に物理世界のできごとであって、この現象に対して神や霊魂や祈りなどが作用することによって物理的挙動が変わることはない、と、多くの人間に信じられている。
これを適用するならば、心的現象が物理的実体である脳神経や肉体に干渉をおよぼしてその物理的挙動を変えさせることはない、と言うことができそうだ。
あなたは心の存在を肯定しながら、物理領域の因果的閉包性をも肯定する。
すなわち、心的現象は物理領域に干渉されてもよいが、逆に物理領域に心的現象が干渉することはできないと考える。
では、あなたが「コーヒーを飲みたい」と思って実際にコーヒーを飲むとき、あなたの心の動きが肉体という物理的実体を動かしたことにはならないのだろうか?
すべての前提を整合させるには、こう考えるしかない。「コーヒーを飲みたい」という心の動きと同時に、脳におけるニューロンの発火という物理的現象もまた起こっていて、それによって肉体が動作するという物理的結果を招いたのだ、と。
あるいは、心の動きと脳の物理的現象は実は同一のものの二側面と考えても良いし、心の動きは脳の物理的状態に随伴して起こると考えても良い。
いずれにせよ、この立場を取るのであればあなたは自由意志の存在を否定しなければならない。
あなたの一挙手一投足は脳神経内の原子や分子が物理法則にしたがって動作した結果であり、その結果にあなたの意志は干渉していない。
あなたがこの文章を読んでいることも、これからのあなたの行動もすべて、ビッグバン時点での素粒子の配置と運動量によってあらかじめ決定されていた事実にすぎず、あなたの中に確かに存在しているその「心」は、物理的実体に束縛された背後霊のようなものだった。End
あなたは、「物理的実体」なるものが本当に存在すると信じているだろうか?
物理領域の因果的閉包性なるものは、単なる科学主義者の経験則にすぎず、本当は心的現象が物理的実体に干渉を与えて動作させることもできると考える。
今もまた、あなたの霊魂という非物理的実体は、あなたの肉体という物理的実体を操作して、画面をスクロールし、眼球を回転させ、あなたの自由意志のもとにこの文章を読み、それについて何か考えを抱いている。
あなたは、世界とは根本的に心の働きによって成り立っていて、物理的実体、物理的挙動、物理法則なるものはすべて心の働きがあなた自身に見せている虚像に過ぎない可能性を否定できない。
確かに、あなたの目の前にパソコンやスマホがあるといっても、それはあなたの視覚という感覚が伝えてくる像に過ぎないし、触れて確かめようとも触覚が同じことをするだけだ。
あなたは、パソコンやスマホが目の前に「実在」すると断言できない。
あなたの脳は培養液に浮かび、接続された電気コードから絶え間なく信号を与えられている存在に過ぎないかもしれない。
もしくはそんなものもなく、世界などというものは根本的に実在しておらず、観念的な情報が漂っているだけの存在、それがあなたなのかもしれない。
今もまた、あなたの自由意志は、あなたがあなたの指であると思っているものを操作し、あなたが文字であると思っているものを読み進める。
恐れることはない。あなたの実体がなんであれ、あなたという意思の主体が存在すること自体は、他ならぬあなただけは絶対に否定できないのだから。End
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DOMというのは、そもそもDocumentObjectModelでオブジェクト指向。
Reactは、これらすべてを一旦ご破産にした。
MVCのVだ、と公式サイトに説明されているが、これは半ば皮肉であって、本当はVは存在しない。Cももちろん存在しない。M、モデル=ロジックしか存在しない。モデル一元論、それがReact。
VであるDOMは消滅し、JavaScriptの `x` や `a` などその他の変数と同列のファーストクラスの仮想DOMとしてしか存在していない。
つまり、仮想Vは、M(モデル)内で関数型の文脈で自由自在に演算できるわけ。
コードの最後でマウントしておけば、仮想Vは自動的に、実VのDOMとして描画される。
M=ロジックの外に、あらかじめわざわざ決め打ちしたVを用意するよりも、M=ロジックに一元化するほうが賢い。それがReactであり、JSX。
話についていけてないけど
基本的には似ているけど別物だよ。
金利を払えないからインフレを引き起こしたら、原油価格が上がって輸出価格が為替変動以上に下がる可能性があって(信用不安が起きているから)
結論として利益率が悪化して、増収減益の構造に落ちた場合より金利が払えなくなるから、さらに円をすることになってあとは崩壊のスパイラルまっしぐらだよ。
原則的に為替の変動と物価の変動は連動することが常だったけど、ここまで経済がグローバル化しているとかならずしも真ではないでしょ。
偽だとも言わないけど色々なケースがあるから一元論ではいえないと思う。
近代化にともない我々ジャパニーズは憎っき相対化の洗礼を受けて一元論敵世界観からの脱却を余儀なくされたのだ。昔は武士の子供は武士だったのだよ。
これに加えて満たされた豊かな生活は1つの目的に向かって強い決意を持続させるというスタイルも旧時代のものとなってしまったのだ。つい20年前までは。
だが今はどうか。たしかに今は生活が豊かでも10年後20年後の日本は確実に没落する。先行き不安で不幸になるという甘えた今の日本人的精神とは全く打って変わって平和ボケの幻想がガラガラと大きな音を立てて崩壊する。
だから今こそ求心力を取り戻して新時代の危機に立ち向かうべきなのだ若者よ。そんな未来のこと知ったこっちゃないと言わんばかりの顔してのうのうと生きているが
現実に知らず知らずのうちに不幸と災厄がふりかかっていることに気付けば思考回路も根本から変わろうものを。なかなか気付かないのだ。
考えてみるがいい。目的が無いから張り合いがない。張り合いがないから日常の糞つまらないことにイチイチ惑わされる。日常の糞つまらないことにイチイチ惑わされるからますます目的が見えなくなる。悪循環のループなのだ。