
はてなキーワード:一人ぼっちとは
最初は衝撃でバズったけど、それよりも完成度がすごい作品だった
ところでこの作品の唯一ファンタジーなのがハッピー星人の存在なんだけど
こういう「無条件で助ける存在」って、古き良きヒーローなんだよね(◯◯星人ってのもヒーローっぽい)
ただ昔のヒーローは「世界を守る正義の味方」だったけど、これは「誰かを最高に笑顔にする」という、一番ミクロまで落としたヒーローなわけだ
これによって、ヒーローに対する見方が応援するだけじゃなく、「もし自分ならどうするか?」という現実ラインまで落とされるんだよね
結果的にそういう経験がある人にはとんでもなく刺さる作品に仕上がっている
(たぶん刺さらない人もかなりいると思う。特に若い子にはどう映るんだろう?)
取り組む問題が現実に転がっているような、どうしようもない人間関係のトラブル、いじめ、子どもの問題ってのもでかくて
もうあまりにも難しいからタコピーも「わかんないっピ」「ごめんね」しか言えなくなるんだけど、現実に直面すると本当にこうなるんだよね
全情報を開示した上で「ヒーローはいません、さあどうなれば良いと思う?」って問われてるんだよね
作品は一個の答えを示したわけだけど、これは色んな意見が出て然るべきだと思う、そのくらい複雑な問題だし
(個人的にあの答えは好きだった、親でもなく、異性でもなく、ただ一人でも理解者がいればという答えはどこまでも現実的)
この作品を見た人はたぶん、同じように一人ぼっちで苦しんでる子を見た時に、「タコピーなら」と思うんじゃないかな
それもヒーロー物っぽいよね
しかも、悪人を見つけるよりも複雑な家庭を見つけるほうが世の中簡単だったりするよね
うーん語り尽くせないな
「はぁ、これか…。」老人は深いため息をつく。「『人魚になった老人』って、誰だよ、こんな無駄なタイトルつけた奴。」
もしそれが物語なら、ここで英雄的な展開があっても良さそうだが、現実には「ただの魚の尻尾」になった老人にとって、英雄的なストーリーなんて皆無だ。もはや、何か偉大なことが待ち受けているわけでもなく、単なる無駄な変化だ。
「これって、どんな罰だよ?」彼は呆れ顔で空を見上げる。「もうすぐ死ぬって年齢なのに、なんで海に引きずり込まれるんだ?もうちょっとまともな最期にしてくれよ。」
老人は、もはや人間だった時の誇りも自信も、あらゆるものを海に放り投げてしまったようだった。彼は長年、漁師として、何かと得意気に海の知識をひけらかしてきたが、今では魚の尾ひれで泳いでいるだけだ。
「いや、正直、こうなるって分かってたよな。」自分に言い聞かせるように呟く。しばらく海の底で泳ぎながら、彼は心の中で自嘲する。
「昔から俺、そうだった。若いころも、なんか微妙な奴だったし。女にも振られ続け、船も沈め、時には魚にやられたこともあった。今更人魚にされたって、何も変わらないよな。」
その時、海岸で一人の女性を見かけた。彼女は本を読みながら、ゆったりと歩いていた。老人はしばらく見ていたが、思わず口を開いた。
「おい、そこの若い姉ちゃん。俺を見ろよ、どうだ?この海の神の恵み、試してみろよ!」
彼女はちらっとこちらを見て、何も言わずに本に戻った。老人はさらに調子に乗って、無理に海面に顔を出す。
「お前、まさか本気で無視するつもりか?こっちは人魚なんだぞ?人魚だぞ?!」
彼女は無視を決め込んだ。もう一度、老人は海に戻り、悶々とした気持ちで水をかき分けた。
「そうだよ、分かってる。俺がこの姿じゃ、恋愛とか無理だって。でもな、もう老い先短いんだよ。恋愛くらい、最後の一花で見せてやろうって思っただけだ。だが、あの若い子は本当に無礼だな。」
他の誰かがいるわけでもなく、老人は再び深い海に潜った。その時、再びその若い女性が海岸に現れた。
「おい、待ってくれ!どうせこんな姿で人生が終わるんだ。せめて、俺に一目、そう、いや、二目でも合わせてくれよ!」
女性は相変わらず無言で歩いている。その無視された無情さに、老人はついに怒りが湧いてきた。
「ふざけんなよ、なんで俺が人魚にされたんだ?!こんな老いぼれに!死ぬ前に一度でも、人間らしい幸せを味わいたかったんだ!でも、どうだ?結局俺はただの尻尾のついた年寄りじゃないか!」
その瞬間、老人は海の中で大きな魚に突進して、尾ひれで無駄に暴れた。実際、魚の尾は何も解決しない。魚には自由もないし、恋愛の「いろいろなこと」を楽しむこともできない。
「だったら、死ねばいいんだ。」老人は水面に浮かびながらつぶやいた。「もう、この無駄な変化に意味があるとは思えないし、何も解決しないんだから、せいぜい深海で一人ぼっちにでもなってやるよ。」
彼はその後、海の中に消えていったが、最後に自分の尾ひれを見て冷笑した。「尻尾をつけて、何が変わるってんだ?もっと無駄な贈り物をくれよ、海の神様。」
友達がいない
一人もいない
学生時代は数人ずつはいたけど、中学高校大学と箱が変わる度に前の箱での友達と連絡を取らなくなる
連絡が来ても二往復くらいで嫌になり打ち切る、自分から連絡を取らない、誘われても行かない、年賀状を返さない
今目の前にいる数人にしか関心を払えない
そんなことをしていたら働きだしてから友達がいなくなってしまった
就活が難航してやっと掴めた営業職の内定に、全く向いてないのにしがみついてしまったのも良くなかったと今では思う
目の前の数人にしか関心を払えない人間が営業なんてやったら、担当客だけで対人エネルギー使い切るのなんて当然で
結果、友人知人と関係構築・維持するコストを全く払わず、友達から見捨てられ結婚の報告すら貰えずSNSで事後に知り職場でもボッチという、人間関係ゼロ人類が誕生してしまった
悲しい
愚痴とか面倒な話は聞きたくない、自分は関心のない相手の行きたいところについて行くのもダルい、自分の今やりたいことを邪魔されたくない
もし親密に付き合うなら、自分の話したい時にだけ話して、やりたいことに付き合ってくれて、全部こっちの都合に合わせてくれる人がいい
そんなやついるわけないだろ
なので友達がいなくなったのは至極当然であり、むしろ友達を作らないほうがいいまである
悲しいのは何もない一人ぼっちの人間になってしまったことよりも、友達だった人に見限られてしまったことと、誰からも友達になってもらえないような人間になってしまったことなんだと思う
身から出た錆まみれ
職場で話を振ってもらっても何も浮かばず曖昧な返事をするか、的外れなことを言うかだからな
でも学生時代は一応常につるむ奴がいたってことは、それなりにコミュニケーション取れてたはずなんだけど、今やもうどうやってたのか分からない
モデルみたいに綺麗だったその人は、浮世離れしているという意味も含め、クラスでどこか浮いていた。自分も浮いていたが、その人とは全く性質が違うと思っていた。
その人は綺麗でコミュニケーションも取れていつも明るい。(そのやけにテンションが高いというのが浮いているように見える理由でもあるのだが)自分とは真逆の存在だった。何だかんだその人はよくできる人で、異常なのはずっと自分だけだったと思う。
その人は普通に友達はいるが、それはそれとしてよく大人しい人に話しかける傾向があった。自分も時々一方的に話しかけられた。話すというよりは突っ掛かる感じで、だから陽キャが陰キャを揶揄うようなものだと思っていた。ノリも不思議で、よく分からないところでやっぱりテンションが高かった。答え方が分からないのだろう、他の人は黙り込んだりしていた。
自分も戸惑いはあったが、たとえ揶揄われているとしても話しかけられれば明るく応えるよう努めた。何より、話していて楽しかった。失礼ながら、ひっそり仲間意識のようなものを感じていた。綺麗だからというより、人間としてなんか無性に魅力があった。
ある日突然その人に、「〇〇さんが今一番好きかも」と言われた。なぜ自分が?と困惑の方が勝った。だが揶揄っているにしては神妙な感じだった。仲間意識を感じてもらえているのかと一瞬自惚れたことを思ったりした。だがもし本当だったとして、『この人が一番好き』と思うのはある種極端だ。『今』というワードも引っ掛かる。そのうち『一番嫌い』に裏返りそうで、その時は内心素直に喜べなかった。その人の持つ危うさのようなものが浮き彫りになった気がした。
よく見ると、その人はいつも矛盾した面を持ち合わせていた。友達と楽しげにしているはずなのに一人ぼっちのような孤独感を漂わせているし、やけにテンションが高いのは色々なものを誤魔化す為のようにも見える。綺麗故に儚さがある。全て勝手な自分のイメージだが、意識するほど心配が膨らんでいった。
もっと話しかければよかった。だがその時の自分は躊躇した。誰かの友達でいられるほどコミュニケーションが上手くないし、異常な人間だし、これ以上関わったら絶対に嫌われるか、その人の状態が悪化するかもしれないと思っていた。次第に話しかけられることは減っていった。多分嫌われたのだろうと思っていた。
ある日その人は学校に来なくなった。嫌な予感が当たったと思い、悲しい、というよりは苦しくなった。生徒が集められ、何かあったか知らないかどうか先生から聞かれた。分かりやすい出来事は見受けられず、皆不思議そうにしているように見えた。自分のせいかもしれないと思った。でもそう思うことすらおこがましいかもしれなかった。結局全ては本人しか知り得ないことで、話しかけたら事態が悪化した可能性も有り得なくはなかった。自分とその人は、あくまで他人同士だっただけだった。その人に惹かれていたことだけが確かだった。
自己嫌悪で死にたくなった時、今も時々その人のことを思い出す。嘘でも言葉として「好き」と告げられたことを、今は嬉しいと、そして申し訳ないと思う。勝手ながら、何だかんだ幸せで生きていてほしいといつまでも思っている。ありがとうとごめんなさいとさようならが、いつまでもそこにある。
https://www.youtube.com/watch?v=2QlFS01-dOA
ホスト(ブライアン):今日はポッドセーブアメリカとポッドセーブザワールドの共同ホスト、トミー・ヴィエトールと一緒です。トミー、来てくれてありがとう。
トミー:ブライアン、なんて日だね。会えて嬉しいよ、buddy。
ホスト:こっちこそ。さて、今回のホワイトハウスでのトランプ、JDヴァンス、ゼレンスキーの間の完全な惨状を目の当たりにしたね。ゼレンスキーが事実上ホワイトハウスから追い出される形になって、もちろん和平交渉なんてもう望めない。ロシアの攻撃をはねのけようとしてるウクライナにとって、今この瞬間、これは何を意味するんだろう?
トミー:ウラジーミル・プーチンにとっては最高の一日だよね。ベン・ロードスと一緒にポッドセーブザワールドのYouTubeエピソードを録ったばかりなんだけど、これがアメリカの歴史の中で見たり聞いたりした最悪の会談だったかどうか議論してたんだ。たぶん閉じたドアの向こうでひどい会話もあっただろうけど、アメリカの大統領と外国のリーダーがカメラの前でこんな風に対立するのを見たことないよ。ゼレンスキーにとっても、ウクライナの人々にとっても大惨事だった。
アメリカとウクライナは今日、ウクライナからレアアース鉱物を取り出すための協力について何か合意に署名するはずだったけど、それは明らかに流れちゃった。でも、ゼレンスキーの今回の訪問の大きな目的は、アメリカがまだ彼らの味方だという確証を得ることだったんだ。その会議でのトランプの態度、ゼレンスキーが「プーチンが破るから停戦は望まない」と言ったときの嘲笑、JDヴァンスの怒鳴り声を見ると、ゼレンスキーは今日、最も重要な同盟国を失ったと感じながらホワイトハウスを出たに違いないし、どうやってそれを取り戻せるのか分からないだろうね。
ホスト:これが別の形で終わる可能性はあったのかな?聞いてるのは、これが彼らが最初から狙ってたことみたいに思えるからなんだよね。つまり、これは単に物事がそう展開しただけじゃなくて、俺の見た感じでは明らかに計画的だったんだ。物事がそんなに急に崩壊することなんてないよ、それを意図してない限りは。
トミー:うん、僕も同じ印象を持ったよ。トランプとJDヴァンスはカメラと国内の政治的観衆のためにショーを演じたかったんだと思う。JDヴァンスが本音を漏らしたのは、ゼレンスキーが10月にペンシルバニアに行ったことについて文句を言い始め、「反対派のために党派的な選挙運動をした」と非難したときだった。それがJDヴァンスが怒ってた理由は明らかだよね。
ただ、ゼレンスキーは不可能な状況に置かれてるとは思う。この人は地獄を経験し、疲れ切ってて、自分の国を救おうとしてる。でも、JDヴァンスと口論して、ヴァンスに挑戦し、トランプを挑発したのは戦略的なミスだったと思うよ。ドナルド・トランプがどんな人間か知ってるでしょ。いじめっ子で、あなたが彼の前にひれ伏して、指輪にキスすることを要求するんだ。そしてゼレンスキーはそんな気分じゃなかったんだろうね。
ホスト:トミー、いわゆる穏健派の共和党員(もうそんなのいるのかわからないけど)でさえ、今日早くゼレンスキーを好意的に描いたツイートを削除してるのを見たよ。ロジャー・ウィッカーを含めて。もはや選出された役人だけじゃなく、共和党の支持層も含めて、民主主義への忠誠をまったく捨てる世界にいるのかな?両方の派閥について、どう思う?
トミー:残念ながら、この問題を完全に政治化する方向へのゆっくりだけど着実な変化があったんだ。この戦争の初期には、ロシアが侵略者で、主権国家に侵入し、ゼレンスキーを何度も排除しようとして、キーウに戦車を送り込もうとしたことは誰にとっても明らかだった。これは白黒はっきりしてたんだ。侵略者がいて、不当に攻撃された側がいた。でも時間がたつにつれて、この問題は党派的になっていった。
なぜかは正確には分からないけど、トランプのゼレンスキーへの電話が弾劾調査につながったという変な経緯があるよね。トランプはまだそれに怒ってるのは明らかだ。それから、ウクライナでの戦争、つまり全面侵攻がジョー・バイデンの時代に起こったという事実もある。ジョー・バイデンはそれを彼のメッセージの特徴として、彼の最大の成果の一つだと信じてる。もちろん、ドナルド・トランプはそれを攻撃するよね。
でも、言う通り、これは今や完全に政治化されてる。ウクライナの大支持者だったマルコ・ルビオのような人たちが、今ではJDヴァンスがこの民主的に選ばれたリーダーに怒鳴り散らすのを見ながら、あのソファに座って、魂が抜け出たような顔をしてる。そして、その上で「今までどの大統領も持たなかった勇気でアメリカのために立ち上がってくれてありがとう。アメリカを第一に考えてくれてありがとう、アメリカはあなたと共にある」とツイートする厚かましさ。まさに脊椎なしだよ。
ホスト:トミー、トランプは何を得るんだろう?アメリカは何を得るんだろう?俺が思いつく唯一のことは、政治的な側面だよね。ジョー・バイデンがウクライナを支持したから、ドナルド・トランプは本質的にウクライナに敵対的でなきゃいけないということ。明らかにトランプは独裁者クラブの一員になりたがってて、プーチンはその独裁者クラブの中にいるから、俺たちは世界中の民主主義を守ることを放棄したってこと。でも、それが本当に彼が得るものなの?彼はこれからどんな利益を得るんだろう?
トミー:わからないよ。でもね、俺たちが向き合わなきゃいけない暗い事実があるんだ。それは、俺たちの大統領がウラジーミル・プーチンやシー・ジンピンを見て、「あの人たち好きだな、あの人たちのシステム好きだな、あの人たちと価値観を共有してる、ヨーロッパの民主的に選ばれたリーダーたちよりもあの人たちと共通点がある」と思ってるってことだよ。それってすごく変で怖いことだよね。
これは選挙公約の一部だとは思う。ドナルド・トランプは9.11後の戦争、イラク侵攻、俺たちが誤解され戦争に引きずり込まれたことにうんざりしてた多くの人を、この種の孤立主義的な「アメリカ・ファースト」で活気づけたんだと思う。彼は一日でウクライナとロシアの間の戦争を終わらせると約束した。最後に彼は、ウクライナからレアアース鉱物を恐喝して取引から何かお金を引き出そうという土壇場の試みをしたけど、君の大きな質問に対しては、彼が何を得るかは見極めるのが難しいね。俺の考えはどれもかなり暗いものばかりだよ。
ホスト:ロシアが明らかに選挙に干渉する意思と能力を持ってるという事実もあるよね。ソーシャルメディアでやってるのか、他のもっと悪質な方法があるのかは別として。これはトランプが見返りの取引の一部を与えてるだけなのかも。彼はウラジーミル・プーチンから何を得たか知ってて、今度はプーチンに必要なものを返してるんだ。アメリカがウクライナへの資金提供を止め、ウクライナのNATO加盟の見通しを支援するのをやめることがそれ。
これは本当に、プーチンとトランプの間の握手合意みたいなもので、トランプは、プーチンが彼や共和党に引き続き役立つ限り、ソーシャルメディアキャンペーン、ボットファーム、彼らが考え出せるどんな干渉活動でも、彼は国際的な場でプーチンが望むものを与えるんだよ。
トミー:本当に、俺の頭が2017年のミュラー調査時代に戻るのを止めるのは難しいよ。俺たちはアメリカの政治が深刻な課題に直面して不真面目でイライラすることに慣れちゃってるけど、ゼレンスキーの目を通してこれを見ると、ただ恥ずかしく思ったよ。
大局的に見ると、アメリカは第二次世界大戦後の平和を保つために設立されたすべての機関、国連やNATOなどの設計者だった。これらは非常にうまくいって、ヨーロッパの民主的に選ばれた同盟国と俺たちを結びつけてきた。でも今、トランプは明確にそれらから離れようとしてる。
それは彼の最初の任期で少し始まったけど、ジム・マティス将軍や他の国家安全保障チームのメンバーなど、トランプの周りには欧州人やNATOの一部に再保証を提供する人々がいたと思う。「もちろん戦争があれば支援します、もちろん俺たちはまだ第5条を信じています」って言ってた。
そして今、トランプの二期目では、トランプがJDヴァンスをミュンヘン安全保障会議に送り、彼らに講義し、見下し、ドイツの極右党を後押しするのを見てる。これはすごく新しい政治的な光景であり、すごく怖いものだよ。
ホスト:これはグローバルな世界秩序に対して、より広く何を意味するんだろう?俺たちが今見てるのは、世界史上最も長い繁栄の期間をもたらした戦後秩序の解体または崩壊だよね。
トミー:イギリスの首相キア・スターマーは今週初めにホワイトハウスにいたんだ。トランプとの会話で、トランプは再びNATO憲章の第5条から後退したり、中途半端な支持を示した。第5条は「一国への攻撃は全体への攻撃である」と述べてる部分だよ。第5条がなければ、NATOは何もない。ただの緩やかな同盟だ。
大局的に見ると、次のドイツ首相になるフレデリック・メルツのようなヨーロッパのリーダーたちが「アメリカなしの未来を計画する必要がある、我々は団結して何か独自のものを構築する必要がある」と言い始めてるのを見てるんだ。これはジョー・バイデンからの数年間の外交政策の劇的な変化だけでなく、第二次世界大戦以来75年間のアメリカの外交政策の劇的な変化だよ。
ホスト:それはNATOにとって何を意味するんだろう?アメリカが組織の優良会員でなければ、NATOは存在できるのかな?NATOの全ポイントは戦後秩序を保存することだけど、アメリカがなければ、それはまだロシアからの拡大を防ぐのに効果的かな?
トミー:アメリカがNATOから完全に撤退したら、絶対にダメだね。NATOはアメリカ、アメリカの軍事ハードウェア、インフラ、実行機能、ミサイル防衛システムに非常に依存してる。俺たちは他のどの国よりも防衛に多くを費やしてる。トランプが、ヨーロッパの国々がGDPの一定割合を自国の防衛に投資するという目標を達成できてないと批判するのは間違ってないよ。
その結果として起こるかもしれないのは、それらの国々が自国の国内防衛産業にはるかに多くを投資し始めることだね。再軍備化されたドイツが世界にとって必ずしも良いことではないことを知るのに歴史家である必要はないよ。彼らはただ俺たちなしで進路を計画するみたいだね。
ホスト:NATOがロシアや中国の拡張主義に対する防波堤でなくなれば、それらの国々が帝国主義的な姿勢に戻ろうとするよう促すんじゃないの?これがトランプが言ってることとは逆に、第三次世界大戦の可能性を高めるんじゃないの?つまり、ゼレンスキーが何らかの形で第三次世界大戦を引き起こしてるんじゃなくて、トランプが今やってることこそが、彼が戦おうとしてると主張してることと全く同じことじゃないの?
トミー:多くの人がそう考えてるよ。NATOのポイントは、ロシア人に「もしNATO加盟国に侵入したら、NATO全体からの反応に直面し、それは圧倒的であり、あなたは絶対に勝てない」と言って抑止力として機能することだった。
でも、もしソビエト帝国の一部だったこれらの小さな国々が突然一人ぼっちになったら、プーチンがバルト諸国に侵入したり、ポーランドを見たり、ウクライナに戻ってさらに領土を取ったりするシナリオを想像できるよね。弱体化したNATOは特に東ヨーロッパにとって非常に危険だ。
それが俺たちが実際に懸念すべき第三次世界大戦であり、ウクライナが自国の領土を守る見込みじゃないんだ。ロシアがウクライナへの攻撃を止めれば戦争は終わる。それだけのことだよ。ウクライナが自国の領土を守るだけで敵対的なことをしてるとか、さらに悪いことに第三次世界大戦を引き起こしてるという考えは完全に間違ってる。それはおかしいよ。
これが非常に不満なところだね。ドナルド・トランプは、ロシアが侵略者であり、ロシアがウクライナ軍をウクライナ領土で攻撃してるという現実について話すことはないんだ。それは3年間続いてるんだよ。
トランプが常に持ち出す第三次世界大戦の見通しは、アメリカとロシアの直接的な対立や、ロシアによる核兵器の使用の可能性だったと思う。それらは本当に心配すべきことだけど、ほとんどの軍事専門家は、ロシアからのその種の侵略に弱く見せることは、NATOの国々、特にアメリカから団結と強さを示すよりも、プーチンがさらに多くのこと、さらに悪いことをするよう促す可能性が高いと言うだろうね。
[クリップの内容:右翼メディアの記者がゼレンスキーに「なぜスーツを着ないのか」と質問する場面]
トミー、これはブライアン・グレン、マージョリー・テイラー・グリーンのボーイフレンドだよ。「リアル・アメリカズ・ボイス」っていう素晴らしいメディアの代表として話してるんだ。APやロイターの代わりにこの人を入れてよかったよね。彼はこの機会を使って、ゼレンスキーがスーツを着てないことについて質問したんだ。オバマのタンスーツ騒動の時代に戻ったみたいだね。右翼メディアがこれに焦点を当ててることについて、どう思う?
トミー:もう、あなたがゼレンスキーだったらって想像してみてよ。アメリカの推定では、この戦争で7万人のウクライナ兵が殺され、10万人が負傷し、数万人の民間人が負傷し、約1万9千人のウクライナの子どもたちがウクライナからロシアに誘拐されてるんだよ。そんな中、この馬鹿野郎があなたの着る服について質問してるんだ。
君と俺はアメリカの政治が深刻な課題に直面して不真面目でイライラすることに慣れてるけど、ゼレンスキーの目を通してこれを見ると、ただ恥ずかしく思ったよ。
ホスト:今日見たのは国際的な恥辱だよね、それを回避する方法はない。こういう状況の中でも、みんな適応して、線引きも変わってくるし、どれだけ悪くても、この種のことに慣れてしまう。それはある程度普通のことになっちゃうんだ。でも、今日俺たちが見たものの後で、「アメリカ人であることが恥ずかしい」と言ってきた人が今までよりも多かったよ。政治での慣れにもかかわらずね。
今見てる皆さんには、ポッドセーブザワールドをチェックすることを強くお勧めするよ。今日トランプ、JDヴァンス、ゼレンスキーの間で見たものだけじゃなく、国際問題についてもっと深く知るために。ここに画面上にポッドセーブザワールドへのリンクを表示するね。トミー、時間を取ってくれてありがとう。
まじめにハラスメント回避してたら、気づいたら一人ぼっちだった…って、なんかやるせない。でもこれ、あるあるなんじゃないかと思う。
確かに、昔みたいに無理やり飲みに連れていくのはアウト。でも結局、人間関係って「ちょっとした雑談」とか「気軽な誘い」みたいなところで深まる。だから、あまりにも距離を取りすぎると、気づいたら「話しやすい人リスト」に入ってなくて、結果みんな仲良くなってるのを外から眺めるハメになる。
今からでも遅くないから、軽く趣味の話振ったり、「この前○○食べたんだけど美味かった!」みたいな雑談を増やしてみるといいかも。いきなり飲みに誘うのはハードル高いけど、まずは「話しやすい人」になることが大事かもな。
長子が小学校に入った頃、いつの間にか一番の仲良しママ友という奴が
よく遊びに来るようになり、しばらくすると2人のガキが頻繁に泊まりにくるようになる
休みの日でも朝から騒ぎ、どこかへ連れてけと妻にも急かされ家族ですら無い連中に家族サービスに駆り出させ
ロクな休みも取れず、平日も泊まりに来ては、図々しくも夜中まで騒ぎ、安眠妨害される
妻に文句を言っても「子供達も楽しんでるし、子供達も楽しんでいるから」と子供を盾にされる
新築したばかりの俺の家には、俺の居場所がなくなり、床や壁は落書きだらけの汚い家になった
三年後、ママ友にすっかり洗脳された妻は、ママ友の子供をほぼ毎日預かる様になった
家にもママ友夫や何故かママ友両親らに怒鳴り込まれたりと色々トラブルがあったが、離婚
ママ友は家を追い出されたが、親権はゲットしてしまい、家の近所にアパート借りて、相変わらず入り浸る毎日
あっという間に託児所になっていった
その内自分達の子供の世話よりもママ友との遊びやママ友子の世話を優先させる様な事もあり
真剣に離婚考えたんだが、自分の子供は可愛いし、ママ友の例から言っても子供の年齢的に親権を取る事は困難だったし
弁護士からのアドバイスもあり、他人が原因で即離婚というのもおかしいので、我慢していた
何故か妻は俺が犯人と疑っており(ママ友の関係に不満だった俺が当てつけでやってたと思っていたらしい)
これだけ我慢して、家庭にも尽くしてるのに妻には冷たくされる様になり
俺も妻を信用出来なくなり、完全に冷めた関係になっていった
数年後、中学生になったママ友長女が、妻の財布から抜いてる犯行現場を妻が目の当たりにした
怖くて声が出なかったらしいが、見られたことに気づいたママ友娘は、それ以降来なくなった
それでも妻は、ママ友には何も言わないでくれと泣いて懇願された
やっと目が覚めたのか、ママ友一家とはいくらか距離を置くようにはなったが
向こうはモンペの総大将なんで、妻とママ友は相変わらず何事もなかったように接している
二人で飲んでたとかで朝帰りする事もよくある
子供らが同級生だから、中学卒業までは我慢しなくちゃいけないんだが
毎日くるママ友のライン着信音聞くたびに、殺意が沸いて仕方がない
妻は気づいてなかったのか気づかないフリしてたのか知らんけど
ママ友子に色々虐められたり物盗られたりしてた子供たちも、その原因である妻を恨んでいる
それかママ友一家に依存するのかな?それで搾取され続けて便利な存在として扱われるのかな?
もう一切同情ないけど
ママ友が諸悪の根源だという事は分かっているが、こちらが何度説得しても、家族よりもママ友を優先して
ママ友の好きな様にさせてきた妻も大概だし、愛情も無くなり最早憎しみしかない
家庭を壊したママ友と妻が憎くて憎くて仕方がない
ひっそりと追記させてください。
誰にも言いたくないから書き込んだものがいつのまにかいろんな誰かに見つかってしまっていた。
励ましてくれた人、優しい言葉をかけてくれた人、共感してくれた人、ありがとう。
やっぱりウルセーって思う声もあったので、むしろスッキリした。冷静になれました。
言うかどうか迷ったけど、どうしてもこれだけ。
私は友だちの声をデリカシーがないとかそんな風には思ってないよ。
もちろんマジでデリカシーないクソ野郎の声も相当数混じってるんだけど。
なんて言うのかな。私は昔から子どもが好きで、付き合いが長い人ほど私がずっと「いつか子どもほしい!」と言っていたのも知ってる。
むしろ「子どもは考えてない」「できなくてもいい」と言ってる今がイレギュラー。だから、「本当に?」「なんかできることあるんじゃないの?」となるんだと思う。
旦那は学生時代からの長年の恋人とかではないし、私が私の友達なら「知り合い歴が浅い人のためになぜそこまで!?」って思うと思う。
デリカシーがないわけじゃなくて、なんか上手く言えないけど。
たまたま一度にそれが重なってつい爆発してしまったけど、旦那も愛してるし、友だちの存在もすごく頼もしいし、私は今の生活にとても満足してるよ。
子育てしててもしてなくても悩みはもちろんあるし、結婚しててもしてなくても苦しみはあるし、悩んだり傷ついたりするのはもう人生と切り離せないものなんだよね。健康はあればあるだけいい。
昔読んだ漫画に「この間は本気でムカついたけど、でも昨日と今日は幸せ。明日は泣くかもしれないけど明後日はまた笑える」みたいなセリフがあったけど、そんな感じでこれからもやってくね。
追記おわり。
====================
今日も言われた。
うるせーうるせー。
どいつもこいつもうるせーよ。
お前らみんな知ってるだろ。私の旦那は数年前に抗がん剤治療したばっかなの。子どもつくれねーの。「また検査してみたら?」じゃねーのよ。数年前に検査したばっかりなんよ。なんならまだ通院してんのよ。
今元気だからあんまり意識しないかもしれないけど、大変な治療だったんよ。
結婚間近でいよいよ妊娠が自分事になって、ちょうど結婚時期が近い私に話を振るのはわかるよ。私だって前向きに答えたいさ。
子育て話ができる友達が欲しくて私に「不妊治療しないのか」と聞いてくる気持ちもわかるよ。私だってあんたとしたいさ。
生まれたばかりの我が子があまりにもかわいくて、もう生まれる前に戻れないんだよね。その幸せをぜひ体験して欲しいと思うのもわかるよ。それはそれはこの上ない幸福だろうさ。
結婚したんだから次は子供のこと考えるでしょって思う人間がいるのもわかるよ。大きなお世話だけど。
気持ちはわかるさ。悪気なんかなくて、むしろポジティブなのもわかるさ。
みんな知らねーだろ。私たちが「もし私たちに子どもができたら」なんて子どもの名前を空想して遊んだりしてたことも、旦那がどれだけ辛い治療に耐えたかも、私が何度「やったー!ダメなはずなのに妊娠した!」って喜ぶ夢を見ては最低の気持ちになって目覚めたか、全部知らねーだろ。
不妊治療すれば可能性あるってもんでもないのよ。いやもちろん可能性はあるんだけど、こっちはどれだけ癌患者向けのサイトを調べてると思ってるの。
それいちいち言いたくないじゃん。治療を始める前のこと言ってももう仕方ないじゃん。
そもそも私じゃなくて彼のプライベートな情報だし、こっちは嘘つくのも真実を言うのも、それを何度もやるのもしんどいわけよ。
もう数年経ったと思ってるんでしょみんな。まだ数年なのよ。まだ数年。
あの頃、もしかしたら死んじゃうかもしれない。死んじゃやだって毎日一人で泣いてたの。治療終わって、生きてくれてて嬉しいの。
私だって、そりゃ自由に選べるなら子どものいる人生が欲しいさ。みんな付き合い長いんだからわかるだろ。
わかるから聞いてくるんだよな。そうだよな。わかってるさ。
私の親は全くそんなこと聞いてこない。私の親は私の幸せだけを願ってくれてるから、私が幸せならそれで十分なのだ。孫が見られるかどうかより、私が幸せかどうかだ。なんてありがたいことだろう。
彼と生きたら今より幸せだと思ったから。他の人と子どもを産む人生も楽しいだろうけど、私はこの人を選ばなかったことを多分ずっと後悔すると思ったから。
幸せってこーゆー感情でしょ。この人と結婚して本当に幸せなの。子どもがいたらもっと幸せかもしれないけど、今十分幸せなの。
私は、この人と一緒にいられる期間が仮にずいぶん短かったとしてもいい。
子どもがいたらとかそんなの全部乗り越えたつもりで一緒にいる。
でも、「つもり」だから何度も聞かれると、ふとした拍子にコップに水が溜まって揺さぶられる。
わかってくれよ。そう何度も聞いてくれるなよ。何人もに同じように答えてるんだから。
「元気になってよかったね」
本当にそうなのよ。
私、彼のこと大好きなの。私、彼との子供を産みたいって本当に心から思ったの。
早くしないと私の子宮では赤ちゃん上手につくれなくなってくるよね。
わかってるよ。でも、旦那が好きなんだよ。それだけなんよ。それだけを大事にして、1日でも長く一緒にいたくて今を選んでんだよ。
だからそう何度も何度も聞いてこないで。答えは変わらない。
できねーの。つくれねーの。養子制度とかは君らよりは調べてるよ。
でも、私もきっと誰かのことを同じように無意識に傷つけてるだろうから、お互い様ってことでひとつ。
これからも「できねーのよ」って何食わぬ顔で返し続けるわ。
たまにこんな風に爆発させながらな!!たまにならいーよな!人間だもん!
旦那、愛してるぜ!
Permalink |記事への反応(30) | 12:41
ニート前に貯め込んだ貯金はずいぶんと目減りし、今年乗り切れるほどの財源はない。
実家に帰省してもやることはなく、友人に出かけない?と誘うと彼は二つ返事でオーケーしてくれた。
当日、元旦のお昼頃。友人が家の前まで車で迎えに来てくれた。
友人とは頻繁に連絡を取っており、だから気まずさを感じるようなことはなかった。
近況を話して、それで頷いて。
ニュースとか、年末に話題になったことを話し終えると妙な間が生まれた。
そこで俺は、実は去年バズったことを話した。それは増田への投稿で、実際700ブクマを越えたのだからバズりといっても間違いではないはずだ。
Twitterでも話題となり議論のようなものも生まれていたのだから、バズったといって過言ではないだろう。
そうなのか?と友人は運転しながら、前を見ながら俺に言った。
ああ、と俺は得意げに答えた。友人は涼しい顔をしたままで、特にこれといって感銘を受けた様子はなかった。
影響を与えるのは属する、この小さなコミュニティに過ぎない。だが俺は、全世界に向けて影響を与えたのだ。残した爪痕の痕跡は広く、深いものにもなるだろう。
ちょっとした優越感に…とでもいえば大袈裟で、俺は単に、ニートしていた自分でも少しは世間に組して、そして影響を与えたのだと言いたかっただけに過ぎない。
しかし友人の反応は予想に反して薄かった。特に関心はしていないようだったのだ。
もちろん寂しさを覚えたが、それを顔や言葉に出してしまったら負けのような気がして、俺はなにも言わなかった。
沈黙が訪れ、トイレに行きたくなった俺はあそこのセブンに寄ってくれないか?と言った。
友人は二つ返事で承諾した。
俺が車を降りてコンビニに向かう最中、友人は車内で待っていた。
元旦だけありセブンは混んでいて、周りに何もないような所なので猶更だった。
俺はトイレを借り、すぐに店を出て車に戻った。
助手席の扉を開けて座り込んでもまだ友人はスマホを弄っていて、チラリと画面が目に入る。
誰かとlineしているようだった。もしかしたら彼女かもしれない、という思いが脳裏を一瞬過る。
そうした話題を出したことはないが、友人自体、どうなのだろうか?とつい思ってしまう。
俺たちはもう30代。結婚適齢期。友人は顔も悪くなく、安定した収入もあって、おまけにこいつは優しい。いい奴なのだ。
だから彼女が居たって当然おかしくないし、突然結婚することになったと言い出すかもしれない。
それを想像すると俺は怖くなった。もし結婚してしまったら今まで見たいに、そして今日みたいにこうして気軽には会えなくなるだろう。
俺は捨てられるのだ。唯一友人と呼べる彼から。俺は本当の意味で一人ぼっちになってしまうのかもしれない。
そうした思いが一瞬のうちに脳裏を過り、友人は俺を一瞥してスマホをしまうと車を走らせ始めた。
再び沈黙が車内を占め、モンパチの曲が慌ただしくも喧噪に、ただ流れ続けていた。
俺は窓の外に目をやり、民家と荒野を交互に見つめた。
不意に日差しが地を照らし、軽く見上げると澄み渡った空が見えた。雲一つない快晴だった。
いい天気だな、と友人が言った。俺はああと答えた。それだけで十分に感じられた。
それはすごく幸せなことなのかもしれない、と俺は不意に思った。
今年は頑張ろうと思う。
ざっと振り返ってみたが、どの本も細部がかなり記憶から零れ落ちている。ほぼ記憶が頼りだから極めていい加減だ。アラフォーの文学少年崩れなのでしょうがない。そして、当時感じていたひがみ根性を思い出して少し苦しくなってしまった。欲望のコントロールに苦しんでいた若いころの感想なので、今になって読み返したらまるで違った感想を持つことだろう。知識も増えたし。
そのドロドロした感情の半分くらいは過去のものとなっている。近頃は心の闇が薄れてきた。これは加齢によるものだろう。読書の好みもすっかり変わってしまった。たぶん今読み返したら全然違う感想を持つはずだ。今となっては、モテない悲哀には昔ほど心が動かされないのではないか。
モテない怒りというのは、自分がプラスの感情を渡したのにそれが返ってこなかったというのが根っこにあるのだろう。しかし、相手の気持ちがどう動くかってのは相手の自由意思なので、こちらの意のままになるはずなんてない。任意の相手の心を開く万能の鍵なんてない。相手をコントロールしようとするのは無駄だ。それで相手に怒りを覚えてしまうのは、共感的に深く理解できるが、己のわがままでしかなく、こんなこだわりはどこかで捨ててしまわないと苦しい。
話を戻そう。前ほど心を動かされないと書いた。そのせいだろうか、読書量は変わらないが、小説を読む量も減った。
今の自分は、何を読んでも似たような感想になってしまう。結局、何を読んでも同じことを思い出すのではあるまいか。そして、前述の感想を見るとわかるように昔からそうだったのだが、自分の境遇に引き寄せてしまって無数の誤読をしているはずだ。結局は自分が、我がどうこうという意識から離れられない。
もしかしたら、凝り固まった大人になってしまったのかもしれない。過去のエントリから大して感想は進歩していない。そしていつの間にか、たとえば「女性作家とはこういうものだ」「この国のこの時代の文学はすべてこうだ」という、偏見に満ちた思想が自分の中でどんどん育っていっているのを感じる。気づいた範囲で修正してはいるものの、怖い。しかもこの半年ばかり、小説を読んでいない。
文学にすがらないと生きていけない段階を、幸福なことに脱したのかもしれない。どろどろとした感傷はすべて過去のものとなり、深い眠りについたようにも見える。それに、小説を読んで感情を揺さぶることが、メンタルヘルスに対してプラスなのかどうかも疑わしくなってきた。穏やかに、つらい出来事の起きないフィクションに移行したほうが、幸福なのかもしれない。クラークが「2001年宇宙の旅」で、最後に生き残ったデイヴィッド・ボーマンが一人ぼっちで音楽鑑賞をするのだが、オペラにうんざりしてクラシックしか聞けなくなり、最後はバッハにたどり着いたのを連想する。人間社会から離れた彼は悲劇の筋書きに対して、「常識を働かせれば解決策があるのでは?」みたいな感想を持ってしまう。そして、感情の激流であるヴェルディのレクイエムにひどく打ちのめされ、物静かで抽象的な音楽に向かうのだ。
それとも、文学は僕にとって生きていくうえで出会う出来事への予行演習だったのかもしれない。今、何気なく「予行演習」と書いたが、これはかなりしっくりする表現だ。振り返れば、若い人間が生きるとはどんなことなのか先が見通せず、答えを得ようとしていたようだ。起こりうる様々な不幸に備えて心の準備をしていたのだろう。
いや、少し矛盾している。何を読んでも似た感想になってしまうのは、モテたいという気持ちがあった若いころもそうだった。感情で消耗するのに、単に疲れているのかもしれない。感情を動かされるのを避けていて、知識をいたずらに溜め込むことしかしていない。最近は阿部勤也の中世の本や、ブルーバックスの地質学の本を読んでいる。これはこれで楽しい。
⑤で触れた「エタンプの預言者」みたいに、最近の海外文学のあらすじを読むと、文学と価値観の変化の速さに正直ついて行けなくなっているようだ。実感をもって何かを理解する間に、すべてがどんどん先に進んでしまう。おそらくこのエントリも古い価値観で書かれていることだろう。僕はもう世界には追い付けない。職場でコンプライアンス違反にならないように表面を糊塗することしかできない。文学を読んで正しく真っ当な人間になろうとしたが、結局はあらゆる欲望からは自由になれなかった。むしろ、意識の高さは自己批判を強め、心のバランスを崩すことになった(余談だが、東大の有名な総長がタフであれと何度も言っていたけれども、心身の障害でタフになれなかった僕は苦しかった。また、十数年後の新入生式辞でジェンダーギャップについて述べたこれまた高名な社会学者がいて、これはニュースにもなった。理屈はまったく正しいし、性別による不平等や扱いの違いは僕も大嫌いなのだが、一方で新入生に私怨から祝福ではなく呪詛を浴びせたように思ったし、自分がされて嫌だったことを次の世代にぶつけているだけではないかと感じた。そして、そのせいで「自分が入学できたのは性別が理由なのか?」と、ものすごく努力していたのにもかかわらず、重篤なインポスター症候群に悩まされることになった。愚痴は以上である)。
そもそも、なんで文学が好きになったのかを考えると、はじめは頭が良くなりたかったからなのだが、究極的にはそこに人間の愚かさが表現されているからだろう。そこにいれば自分のひがみっぽさや醜さを受け入れることができる。少なくとも同じくらい大きくてネガティブな感情を抱えた人間が世界にはたくさんいるのだと慰められる。ダメなところを許してくれるのが文学だった。そんなものを読んでいても、大人は何も言わない。
文学が読めなくなった文学少年崩れになっても、はてな匿名ダイアリーから離れられなかったのも、それが理由だ。人間の偽らざる感情が増田の怪文書にはある。
ところで、僕は障害者であり、二級の手帳を持っている(ただし、弱者だと名乗るつもりはさらさらない。うちの大学を卒業した連中の平均の給与の半分どころか三分の一ももらってはないだろうが、弱者男性とかブサメンとか非モテとかそんな看板を立てるのは正直に働いている自分のプライドが許さない)。加えて、海外在住経験がある。にもかかわらず、社会派の文学にはほとんど心が動かされなかった。その多くで感情よりも理屈が優先されているからだ。政治的な主張がしたければ、直接論理的に分析したほうがわかりやすいし、散文なら書く方も読むほうも時間が短くて済む。イデオロギーに縛られていては展開だって予測できてしまう。政治的な作品で面白いのは全体の一割だろう。最後まで読みたいだけの魅力が薄い。
余談になるが、そういう意味でも、現代アートで深く刺さる作品は少ない。知的には面白いと思っても、心を動かされ、性欲を刺激され、あるいは激しく嫌悪し、内臓が理屈を超えて震えるのが、僕にとっての芸術だ。一昔前の表現でいうと前なら左脳ではなく右脳が刺激されるような作品がいい。ルネサンスや近世の西洋画のように、シンボルを読解するのはそこまで心が動かされない(ごくごく一部の高度に知的な作品、持てる知識を総動員しないと面白くない作品を除く。これは全力で取り組まないといけないため、別の良さがある。ジョイスとか円城塔とかエーコとかね)。そして、優れているのに、言語化が困難なものの評価が一番高い。その点、マグリットの、言葉遊びによる対象の置き換えをモチーフにした作品はピンとこなかった。理詰めで説明がたやすいのは良くない。
もっとも、あらゆる芸術の九割はそもそも刺さらないというのは、普遍的法則である可能性がある。なんであれ、世間がどう言おうとも、作品を好きに読んで好きに解釈する自由は、失われてはならない。唯一の正統的な解釈があるのはつまらん。「丁寧に読解しろ」ってのならわかるけど、どんなものであれ上から押さえつけられるのは相手が正しくても嫌いだ。人間にはどんなに歪んでいても、そして不道徳であっても、正直な気持ちを話せる心理的安全性が担保された場所が必要だ。そして、相手が世間的に正しいとされていると、こちらは反論できないし、反論すること自体が批判される。だからキレて暴れるしかない。正しさへの嫌悪ってそういうことなんじゃなかろうか?
ときどき、「どんな理屈をこねるよりも、目の前の相手に敬意を払うにはどうすればいいのかという実践にのみ意味があるのでは? 知識は参考にしかならんのでは?」って疑念が兆す。それとも、こうなってしまったのは文学に対して心を閉ざしてしまったからだろうか? だから前ほど心が震えなくなってしまった。だとしたら寂しいことだ。
近頃、文学に対して心を閉ざしているとしたらなぜだろう? 政治の季節は理由ではない。他に理由がある。僕は実はかつては小説家になろうとしていた。名作に手を出していたのはそれも理由だ。最終選考まで行ったこともある。だが、その願いは叶いそうにないと気づき、怒りから小説から遠ざかった。
同じ夢を持っていた友人・知人がデビューするのも見てきている。現代作家を読まなかったのもそれが一因だ。自分のほうがいいものが書けると傲慢にも思いこんでいたからだ。彼らの作品を読むと、そんな思い上がりは雲散霧消するけれどね。
今でも、数か月に一度目を覚ます飢えがある。発作的に何かを書きたいという欲望だ(実際、こうやってちょっとした短編小説くらいの長さのエントリを書いていてすごく楽しい。じゃあ増田じゃなくてブログでやればいいんだろうが、少なくとも同レベルのエントリは継続的に書けない。なぜならこの文学全集を読むのに十数年かかっている。こういうネタは量産できない。このエントリでいったい何冊の本に言及してるんだ?)。
しかし、最終選考の講評ではボコボコに批判されたし、これ以上自分の気持ちを書いても自分は幸せにならないと、諦めがついたはずだった。それに、小説は感情の垂れ流しではありえない。読者を楽しませる必要がある。少なくとも読者の受けるであろう感情を計算せねばならない。加えて、デビューした友人はものすごいインプットをしている。これは認めないといけない。活字を読む量は僕のほうが多いが、それ以外に漫画だとかソシャゲだとかエロゲとか映画とか、とかくジャンルを超えて摂取しているものが多い。例えば現代の女子高生を魅力的に書くには、そのキャラがかわいいことと、リアルなティーンエイジャーとしてありそうかという軸がいるが、僕にはどちらもできない!