
はてなキーワード:ロールモデルとは
https://anond.hatelabo.jp/20251204184916
生まれた家、性別、地域といった、本人の努力ではどうにもならない要素が人生を決めていた
そこから近代に入って、啓蒙思想・資本主義・市民革命などを通じて「生まれではなく、機会を平等にしよう」という考えが広まった。
読み書きができる層が拡大し、義務教育が全国に整備されることで、かつての“身分由来の格差”は大きく解消された
さらに、税制や社会保障による富の再分配も制度化され、最低限の生活や学習機会を守る仕組みも整った
戦後の政策(教育改革・農地改革・労働改革など)によって、性差や地域差は大きく縮まり、昭和後期〜平成初期にかけては「機会の平等がほぼ実現した時代」に見えていた
とはいえ、スタートラインをそろえるだけですべての格差がゼロになるわけではない
・育った家庭環境
・情報格差
こうした“目に見えない差”は、機会の平等が整っても残り続けた
特に昭和〜平成は、こうした差の多くが「自己責任」とされてしまい、構造的な不利が見過ごされがちだった。
日本では、文化的背景もあって「努力すればどうにかなる」という価値観が強かったぶん、この“構造が生んでいる不平等”が見えにくく、放置されたままになってしまった側面がある
という批判も多い
つまり、女子枠は「過渡期の対症療法」であって、本質的なフェアネス確保の方法ではない、という認識が広まりつつある
※なんか途中まで書いて疲れちゃったから、半分ちゃっぴーが書いた
別に俺はアンフェじゃない。むしろ、日本のジェンダーギャップ指数が低いことには危機感を持っている。
でも、その解決策として大学入試に「女子枠」を作るのは最悪手だ。
あれはアファーマティブ・アクションなんて高尚なもんじゃない。
この国が18年間、女の子に「理系なんて似合わない」という呪いをかけ続けてきた責任を、たまたまその年に受験する18歳の男子学生と将来18歳になるいまの未成年男子たちに全部押し付ける行為だからだ。
左派やリベラルを自認する人たちにこそ、この制度のグロテスクさに気づいてほしい。
本来、理工系に女子が少ないのは、大学入試のせいじゃない。もっと手前だ。
幼少期からの女の子は愛嬌、理系はオタクっぽいという刷り込み、ロールモデルの欠如、長時間労働が前提で女性が働きにくい研究職の現場。これら社会全体の構造的欠陥が原因だろ?
本来なら、政府や大人が数十年かけて労働環境を変え、教育を変え、女子が自然と理系を目指せる土壌を作るべきだった。
だから彼らは手抜きをしたんだよ。
根本的な社会改革をサボり、入試の定員という一番いじりやすい数字だけを操作して、「ほら、多様性達成しました」とドヤ顔をする。
これはやってる感を出すための行政のアリバイ作りであり、企業のSDGsアピールと同じだ。
その手抜きのツケを払わされているのは誰だ?
政治家でも大学教授でもない。これから社会に出ようとしている、罪のない未成年男子たちだ。
さらにタチが悪いのが、この制度が「経済格差」を無視している点だ。
想像してみてほしい。
都内の裕福な家庭に生まれ、中高一貫の女子校で手厚い教育を受け、塾にも通えた女子学生。
地方の貧困家庭に生まれ、バイトしながら国公立を目指す男子学生。
女子枠という制度下では、前者が「弱者」として優遇され、後者が「強者」として割を食う可能性がある。
これはリベラルが最も嫌うべき「生まれによる固定化」の助長じゃないのか?
女性であるという属性一つで、個々の経済的背景や努力のプロセスを無視して下駄を履かせるのは、平等の実現どころか、新たな特権階級の創出にすぎない。
女子比率を上げれば偏差値の見栄えがいい、補助金が取りやすい、ダイバーシティランキングが上がる。
そこに学生への教育的配慮はない。あるのは大学経営と、世間体のための数字合わせだけだ。
本当に女子学生を増やしたいなら、女子枠なんて安易な劇薬じゃなく、大学卒業後のキャリアパスを保証するとか、研究職の給与を上げるとか、そういう出口改革をするのが筋だろ。
出口が泥沼のまま入り口だけ広げても、不幸な人を増やすだけだ。
最後に、これから受験を迎える男子、そして将来受験する男の子たちへ。
君たちが枠を奪われるのは、君たちの能力が不足しているからでも、君たちが「男性という加害者」だからでもない。
単に、この国の大人が社会構造を変える努力を放棄して、そのコストを君たちに転嫁したからだ。
この理不尽を差別是正という美辞麗句でラッピングして正当化する大人たちを、俺は軽蔑する。
真の左派なら、真のリベラルなら、子供に責任を押し付けるこの「偽りの平等」にこそ、NOを突きつけるべきじゃないのか。
Permalink |記事への反応(34) | 18:49
本屋大賞をとった本だしと、読んでみたのだが、モヤっとした点を言語化したいので増田に書いてみた。
まず読んでみて、初めに思ったのは、登場人物たちがいい人たちばかりで、膳所という場所は平和な世界だなと。ジュブナイル向けの作品で、中学生や高校生たちの生活が楽しそうに描かれていて、成瀬の行動が常識外れだけど人々を幸せにしていくようなストーリー展開が受けているんだろうなと、初手で思った。
けれど、しばらくして、何か黒いモヤモヤという読後感が残り、これは何だろうという思いがふつふつと湧いてきた。
「掘り下げてみると、あまりにも良い話すぎるからだと気がついた。」
記憶力が良く、学校の成績も良い。視点が人と変わっていて、拘りが強いことで、人知れず、絵画や音楽などで賞をとったりする。けれど、人とのコミュニケーションはあまりとらず、笑顔を見せることなく、一見淡々と過ごしている。クラスの中では、成績の良さで褒められることはあれ、普段の生活は人とあまり会話することなく、端からみると我関せずみたいに思われている。無害なので、クラスの中では問題児としてみられず、特に注意されることはない。学校の規範を守り、外れることなく生活しているので、一見、順応しているように見えるが、本人は人知れず、苦しんでいると言ったケースを見てきた。
物語の成瀬は、人を呼び捨てにしながらも、自分の思ったように伝えることができているが、物語中で、思い込みとコミュニケーション不足からの齟齬が何度か生まれている。けれども、実は、周囲の人々の配慮やサポートがあって、それが表面化しない。一見、成瀬の意志の強さが、物語の推進力になっているように見えるが、実は彼女の常識から外れた行動を受け止め、サポートする人々がいて、初めて成り立つ話だとわかる。
これが、現実世界だとなかなか上手く行かない。特性を理解し、サポートするような人々には、こういった特性を持つ子供たちはなかなか出会わない。なので、本人は人知れず、周囲との齟齬を克服しようとするが、一人であがくだけで、余計に辛さが募るばかりとなり、ついには自己嫌悪とストレスから、学校を休んでしまったりする。上手く、教室内で教師やカウンセラーのサポートを得られるケースもあるが、成績が優秀であるがゆえに、また自分から言いださないゆえに、気がつかれずに時が過ぎていき、本人の体調が悪くなって、初めて気がつくといったことが起きる。
成瀬のような話は、一見、いい話だが、このような特性を持った子供の光の面を殊更に良く描き、困難さに対して蓋をしてしまっている。笑顔を見せず、侍のような口調でも周囲の人が彼女の天才的な特性を認め、好意的にみてくれている環境があるのが成瀬だが、彼女をロールモデルにしようとしたら、そんな環境は普通はないので、マネをしようとする同じ特性の子供はすぐ周囲との齟齬に苦しみ、破綻するだろう。
また、特別な才能がある子供であれば、常識外れでも大丈夫といった見方を世間的にするようになったら、それはそれで、当事者の子供は、自分の能力でマイナス面を打ち消そうとし、よりプレッシャーが増大するかもしれない。
コミュニケーション上の摩擦や孤立、困難さを軽視し、それを個性としてエンターテインメントとして消化する。何か、こういった特性を持つ子供を見世物にしている感じも受けてしまった。
「少し異なるかもしれないが、似たような物語は、実は以前にもある。フォレストガンプだ。」
知的障害の男性が主人公の波乱万丈の人生を描いた話で映画にもなったが、ある種、社会にとって「理想化された障害者像」が描かれている。正直で有能であれば、知的障害であっても社会的に有用だというようなステレオタイプ的な見方と国に従順であれば成功するといった保守的なイメージを負わせ、「突出した異能のマイノリティ」を見世物にして、現実のマイノリティの困難さに対して蓋をしてしまっている。
フォレストガンプにしても、成瀬にしても、世間的には評価が高い作品だからこそ、影響力があり、多くの人々に波及する。一方で、困難さを抱えるマイノリティに対して、ある種の歪んだステレオタイプを与えることにもなる。
表現の可能性を狭めるつもりではないし、こういった作品によるカタルシスを否定する意図ではなかったが、モヤモヤを言語化したかったことと、こういったエンターテインメントに負の側面も同時にあることを伝えたかった。好きな作品を貶されたと感じたのであれば、申し訳ない。
Permalink |記事への反応(16) | 02:34
ってのは言っちゃいけないっていうなー(公的な場面で)
例えば女性のアスペルガーが少ない理由として、女性はコミュニケーション力が高いから障害をカバーできてしまうので発見されにくい
女性が数学や理科に弱いのはロールモデルがいないからであって本当は同じ能力なんだって謎理論まで登場し始める始末
ワイは20年数学の塾講師やってるけど明らかに性差あるぞ、数学とか理科の思考力
ロールモデルが、って言うけど難関の学校目指して理系の勉強のやる気に満ちまくってる子達だよ
コミュニケーション力も、理系的思考力もどっちも現代社会で重要なスキルだから、そこに優劣とかはないわけやん?役に立たないハズレスキルとかじゃないんだよ
なんでなのよ
アレクサで家電を操作できるというのは10年前はとても革新的だったけど、現在はもうそんなに盛んじゃない
家電をmatterなどでつないで連携することはできても、言ってしまえばそこまでどまり
企業からすれば月額サブスク加入させたいのだが、そんなことに課金する人は滅多にいない
体力のない企業はどんどん潰れている
amazonすらこの分野は収縮したがってる
唯一の突破口はホームセキュリティで、ネットワークカメラのTAPOとか人気
カメラは一つ設置すれば複数設置したいものだし、映像保存としてサブスク課金もはかどるし
基本的に同じ機種で揃えるのがベターだから、連鎖的に機器を購入してくれるというメリットがある
けど、それ以外は別にどうしようもない感じ
安価なデバイスを大量にそろえてなんちゃってホームネットワークにして課金させるロールモデルはこの10年でじり貧
「カウンセリングに行けばいい」より「ロールモデルを探して観察しろ」の方がはるかにプラクティカルなアドバイスだが、それだって簡単なわけではまったくないんだよな。
そんな社交性や観察眼がある人間なら元々ほっといてもうまくいってる。
下方婚の増田さんへ。つらいお気持ちをここに書いてくれてありがとう。あなたの年齢くらいには結婚生活を続けている人間から、多少のアドバイスをさせてください。
あなたはたぶん、自分が夫に対して主に金銭面での勾配を理由につらく当たりそうになることを
それは違います。
その二つはあくまで十分条件です。つらく当たる理由は「あなたの元からの価値観」です。
あなたはまず間違いなく、自身の収入が元から低くても、夫よりも年収が低かったとしても、夫に対してつらくあたりそうになります。
そして、それは元手がない状況では、すぐに沸点を通り越して、直接言葉に出すことでしょう。
こんなセリフは、世の中の夫婦、特に90年代以前の専業主婦家庭では山ほど聞けるものでした。
2000年代以降の不景気や日本の衰退から目を背けようとするけど、自分は資本をたんまり持ってる金持ちで頭の良いバカどもの価値観「お金にとらわれない幸せ」が庶民にも浸透したため、こういうセリフは非常にみっともないものと思われるようになりましたが、あなたもおそらく気付いている通り「お金がなくても幸せ」はそのあとに「お金があればもっと幸せ」というセリフが隠れているのです。
あなたはそれを人生の中で自分で稼ぐことで満たしてきた。だから、お金がない夫を心の底では見下してしまうのです。
なんせ、実際にお金があればできることは指数関数的に増えていく現代社会です。増田さんの年収から察するにおそらくは都会住まいでしょう、これから子供ができたら、都会では金の使い方が地方と比べて一桁違ってきます。
増田さんが年収を維持するためには、保育園に入れたり、お受験をさせたり、塾や習い事に通わせることも必要になるでしょう。
年収を維持しようとすると、なおのこと金がかかり続ける時代なのです。それはどうしょうもありません。
では、どのように解決するべきでしょうか。
多くのブクマカは逃げの親切心で「カウンセリングに通ったらどうか」と言っています。
確かにカウンセリングによって増田さんの過去のご両親との関係のトラウマは解消できるかもしれません。でも、おそらく、ほぼ間違いなく、増田さんご自身の価値観は変わりません。つまり、意味ないです。
ましてや、仕事を楽なものに下方転職するのはもってのほかです。確実にもっとひどいことになります。
たぶん、遅かれ早かれ一度、ならず何度か、増田さんは夫さんに爆発します。
増田さんは
たとえ私がライン超えの発言を夫にしてしまっても夫は「ごめんね、そんな風に思わせて、できるだけ頑張るから」と心の底から思って言ってくれていつも通りお茶を淹れてコップまで洗ってくれることだろう。
人間はみな「愛情のコップ」を持っています。コップのサイズは人によって違います。おそらく夫さんはすごく大きいのでしょう。
しかし、愛情のコップは相手に注ぐことで減っていきます。その代わり、減ったコップには相手が愛情を注いで補充してくれます。
なので、お互いのコップの量は注ぎあう愛情によってキープされるのです。
子どもができると夫婦関係が改善するとよく言うのは、子供という第三者が無償の愛情を父母に注ぐからなのです。
片方が片方に愛情を注ぎ続けると、もう片方の愛情は減っていきます。
また、愛情ではない負の感情を相手にぶつけても、相手のコップは減っていきます。ちょうどコップを揺らして水をこぼすのと同じですね。
彼氏彼女に試し行動を続けた末に急に切れられるってのはまさにこの行動なわけです。試し行動なんかやるもんではないですね。
増田さんの現状も、夫の愛情を注いでもらいながら、自分は夫のコップを揺らして中身を減らそうとしているのです。
そんなの、あっという間に尽きるにきまってますよね。
なので、増田さんは自覚的に夫のコップを減らさないように努力する必要があります。
それは夫に対して愛情表現をすることであり、夫に憎しみをぶつけないように努力することです。
愛情表現も憎しみの抑制もある種の技術なので、それをカウンセリングに聞きに行くのは否定しません。
増田さんはおそらく普通の愛情を持ちあった夫婦というものがわからないのではないでしょうか。
会社の同僚でも学生時代の友人でもかまいません。もちろん、増田さんの友人ではなく、夫の友人夫婦でもかまいません。夫婦でもしくは家族ぐるみの付き合いができる友人を作ってみてください。
そしてその二人の関係性から、お互いが愛情をもちあうことはどういうことなのかを研究するのです。
昨今はなかなか家族ぐるみの友人というのは難しい時代になっていますが、そこにあえてチャレンジしてみてください。
メディアは「初の女性」「高支持率」と騒いでいるが、私が震えたポイントはそこじゃない。
先日の外交における振る舞いだ。あれは、女の生存戦略の「極致」を象徴している。
正直、私は安堵している。
彼女が、男を敵視して過度な女性優遇を叫ぶお気持ち勢力の代表ではなく、かといって男社会に過剰適応して「名誉男性」化した鉄の女でもなかったことに。
高市総理というロールモデルの誕生は、男と女が本当の意味で対等に歩める社会への、「最短ルート」を示したと感じたからだ。
本当によかったと思う。
職場は男が9割。そんな環境で人生の大半を過ごしてきた。幼少期から科学が好きで、数学や物理が得意で、自ら好んでこの分野に飛び込んだ。
能力として男に負けず劣らずでも、仕事をする上で「同性」という共通点を持たない少数派は、情報戦や信頼獲得のコストがどうしても高くつく。
自分の不遇を嘆き、「男社会はクソだ」と叫ぶのは簡単だ。でも私は、その社会に生きる人間たちの力学を、分析し、適応し、ハックし、生きてきた。
その「最適解」として、職場で意図的に「愛嬌」というパラメータを振っているが、別に自分を捻じ曲げたとも思っていない。だって、この場においてこれは私だけに配られた「切り札」なのだから。
これについて「男に媚びている」と批判するフェミニストもいるだろう。だが、それは戦略の浅さを露呈しているに過ぎない。
物理的な腕力や、マジョリティである男性同士の阿吽の呼吸という「基礎ステータス」で劣るなら、使えるバフは全部使うのがゲーマーとして当然の戦術だ。
愛嬌でコミュニケーションコストを下げ、相手のガードを下げ、その隙に技術力と論理という「実弾」をぶち込んで認めさせる。
私のこの生き方は、どこか世間に認められていない気がして、後ろめたかった。「媚びている」と言われれば否定できない自分もいたからだ。
彼女は、笑顔を振りまき、柔らかい物腰で、ある種「女らしさ」を全開にしていた。
だが、結果として各国の首脳に舐められたか?
否だ。
愛嬌で懐に入り込みつつ、国益に関わるラインでは一歩も引かず、強烈なプレッシャーをかけていた。
「愛嬌」と「威厳」。相反するはずの属性を両立させ、外交という化け物揃いのテーブルで主導権を握っていた。
あれを見た瞬間、鳥肌が立った。
「女」という属性を含めた、自身が持つ全ての手札(リソース)を計算高く使いこなし、結果を出したんだ。
きっと彼女は、私なんかより何千倍も理不尽な目に遭い、何万倍も努力してきたはずだ。
その彼女が勝った。
それはつまり、私が選んできた「不条理なルールを嘆くより、配られた手札をフル活用して盤面を制する」という生き方が、間違いじゃなかったという証明だ。
一人でもガチでやり遂げる「かっこいい外れ値(アウトライヤー)」がいると、母集団の評価関数は書き換わる。
彼女という「特異点」が現れたことで、もはやこの生存戦略はバグでも媚びでもなく、正規の仕様となった。
笑顔と実力で、ガラスを綺麗に磨き上げて、そのまま透過して通り抜けたんだと思う。
私もそうありたい。
アバター課金だけでやっていけるのは、見栄を気にするイキリマイルドヤンキーキッズがメインターゲットである対戦シューターやMOBA系くらいだけだろう
あれらは競技性という縛りがあるからキャラや性能的な優位性を売ることができず、競技性を収益に転換するためにロールモデルとしてプロプレイヤーを系列企業ぐるみで祭り上げ、ショービズ込みで成り立っている
アイドルの稼ぎはライブの物販にかかっているのと同じだが、そういうゲームジャンルは治安が悪くなる
落ち着いたオタクの多いサブカルチャー系のRPGではリアルタイムの物語体験を売っていくためにやはり基本無料だとキャラクターや育成リソースを売っていかないといけない
最近はRPG系でもアバター課金だけでやると息巻くタイトルもいくつか見かけるが、このジャンルにおいて持続性のあるアバター課金主軸モデルが成立した前例はないんで疑問が残る
俺はこの手合いがRPG系運営型ゲームに必須の充実したアップデートを提供できると思わないので、ある種の売り逃げ焼畑商法の一種だと思っている
一応MMORPGの時代にはアバターに性能をつけランダムボックスから排出されるレアアバターを公式RMTのように取引させることで盛り上げるゲームはあったが、キャラガチャモデルより倫理的な問題が多く社会問題にもなった
まずは、「VirtualGorilla+(バゴプラ)」という名のWebメディアです。
そしてもう一つが、SF小説に関する事業「Kaguya」。Kaguyaの取り組みは、いくつかあります。①ショートショートのコンテストの開催。②KaguyaPlanetというWebマガジンの刊行。ここでは毎月短編小説を配信しています。③Kaguya BooksというSFの出版レーベルとしての活動。
二つの活動以外にも、企業のSFプロトタイピングのコーディネーターなど、SF関係のさまざまな仕事も手掛けています。
Kaguyaで開催している短編小説のコンテストは、最大4千字です。気軽に書いて、読者や審査員からフィードバックをもらうなかで、自分の強みが何かを発見してステップアップしていく。そういう場所を目指しています。
ライフステージや、家庭における役割、精神状態などに大きく左右される。「連載が約束されていない長いもの」の執筆に時間を割けるということ自体、特権的なのかもしれない。
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20251022002010.html
【井上】 日本のSFだけではなく文学全体がそうかもしれませんが、商業デビューの王道として、新人賞をとって、そこで作品を出して商業デビューし、その出版社から2作目3作目を出し、他の出版社からも声が掛かる……というルートがあると思います。もちろん日本のSF作家で、そのルートに乗らず商業デビューして活躍している方もいるのですが、わりとイメージしやすいロールモデルとして、それがある。
主催によってカラーが決まっていることが悪いわけではないですし、一つのコンテストに「全ての多様性を担保しろ」と求めるのは無理だと思います。なので、窓口を増やすことで、デビューへの道筋を多様にすることが大事だと考えています。
【井上】 23年10月に文芸翻訳の経験を持つ編集者が新しく参加してくれたこともあり、海外から日本への輸入や、日本から海外への発信に力を入れることができるようになりました。
写真・図版
第3回かぐやSFコンテスト大賞作品「マジック・ボール」は、中国のSFマガジン『科幻世界』とイギリスのウェブジン『Schlock!』にも収録された=井上彼方さん提供
【井上】 「自分の表現で誰かを傷つけてやろう」と思っている人って、そんなにいないと思うんです。ごく一部の悪意のある人をのぞけば。でも実際に、自分が書いた文章に批判がくると、身構えるじゃないですか。そういうときに自分を見つめ直して反省して次に生かすって、非常に難しいことだと思うんです。特にSNSで炎上してしまうと、冷静ではいられないですよね。
自分の書いた文章について言われるのではなく、あらかじめ「こういうことって気をつけた方がいいね」とわかっていたら、過剰な自己防衛に陥らず、話を素直に受け止められる場合があるはずです。
ヒューゴー賞は世界SF大会によって設立されたSF・ファンタジー作品の文学賞で、受賞作品は世界SF大会に参加登録した人による投票で選ばれます。そして、このSad Puppiesというのは、ヒューゴー賞の選考に影響を与えるための組織的な投票運動でした。女性や有色人種の受賞が増えていることに抗議を示すため、白人でヘテロセクシュアルの男性作家たちが自らを、権利を侵害されているSad Puppies(悲しい子犬たち)と称したのです。
ヒューゴー賞は投票制なので、人々に開かれたものではあったはずです。ところが、Sad Puppiesたちは、「ヒューゴー賞はポリティカルコレクトネスに配慮するあまり、本当に面白い作品を受賞させなくなっている」といった主張を始めた。「もっと面白い白人男性の作家を受賞させろ」という風に呼びかけた。そういう事件ですね。
【井上】 ヒューゴー賞は2010年代、女性作家や非白人の作家の受賞が増加しました。女性だけではなく、クィアであることをオープンにしている作家の受賞も増え、それに対して「自分たちの土俵が荒らされた」というような被害感情を持たれる方がいた。それで起きた事件です。
【岡田】 この事件については、SF評論家の橋本輝幸さんが、ウェブ連載「いつでもSF入門」のなかで詳しく語られています。SF界において女性が優遇された時代はなかった、と指摘されています。
【対談を終えて】
対談から2年。2024年に慶応義塾大学にサイエンスフィクション研究開発・実装センターが開設されるなど、社会の中でSFをどうツールとして使っていくのかという取り組みは広がりを見せ続けているように思う。その中で、SFを取り巻く世界やSFが描く世界の中から、誰が取りこぼされてきた/いるのかということは今も問われ続けている。
この間、VGプラスで行った取り組みの一つに、刊行しているマガジン『KaguyaPlanet』でのパレスチナ特集がある。1948年のイスラエルの建国以前から続く、入植型の植民地主義と人種差別的な支配、ジェノサイドは、「世界では誰の声が優遇されているのか」ということと無関係ではない。そのことにSF企業としてどう応答できるのかを考えて行った特集で、パレスチナ人/パレスチナにルーツのある作家による、パレスチナを舞台にしたSF・ファンタジーを翻訳した。
写真・図版
だが同時に、システムや場づくりについて問題提起をしているVGプラス自身、たくさんの方から至らぬ点についてご指摘をいただき、ときに引き立てていただき、ときに知恵を授けていただきながら活動をしている。マイノリティーの方々に「指摘する」というコストを支払わせてしまった局面もたくさんある。それらを抽象的な次元にとどめることなく、現実の制度や権利回復へとつなげるためになにができるのか、常に考えていきたい。
そしてそれは、SFという私の愛するジャンルそのものを豊かにすることにも、当然つながっているのだと思う。
排除はしばしば、「質」の名において実行される。
なにが「優れた」作品なのか。その指標そのものが、特定の経験や価値観にもとづいて構築されてきた。そうした規範に照らせば、大きく異なる経験を持つ他者の書いた作品は必然的に「劣った」ものと評価されよう。排除は意図的に行われるのではない。それは常に「客観的な評価」の結果として生じる。
Sad Puppies事件は「ポリティカルであること」への反感が運動のきっかけだったが、むしろ、従来の選考こそが政治的だったと考えることもできる。価値判断の場では多くの場合、既存の権力関係が反映される。正統性を維持するためのシステムは個人の意図を超えて作動する。
だからこそ、井上さんたちの取り組む解決策はシステムそのものに切り込むものだ。短編コンテストの開催、発表の場を多様化すること、経済的に持続可能な仕組みをつくること。これらはすべて、異なる価値観が共存できる環境を目指している。
誰が未来を語るのか。どのようにその語りを開いていくのか。今回の対談で示されたのは実践だった。完璧な一つのシステムを目指すのではなく、複数のシステムを並走させることで、今は「評価」できない作品や価値観にも光が当たる可能性を残している。SFの想像力が現実を形成する力を持ちつつある世界において、その想像力を担う主体の多様性こそが、私たちの未来の豊かさを決定づけるだろう。
「そうめんを茹でるのは大変だ」という意見がバズり、「そうめんを茹でるのは簡単」という反論がつくと「お里が知れる」という侮辱で返すムーブメントが起きたとき、
ツイフェミにとってのフェミニズムは要するに、能力的に劣った女性の動物的なお気持ちなのだと実感した。
これはそうめんすら茹でるのがだるいような弱者の憂さ晴らしのために存在する依存・他責が教義の宗教のようなものなのだ。
劣った男性が好むインセルアンフェ思想と性別を変えただけの全く同じもの。コア教義が依存・他責で、モチーフを差し替えただけだ。無能にとってのシャブのような思想である。
フェミニズムの隆盛のあとを追うようにしてメンズリブの動きもあったが、女性は「チー牛はNO」と拒否した。要するに能力的に劣った女性のお気持ちフェミニズムにおいては、
男性はその性別を理由として努力して能力を高めなければならず、その能力でもってそうめんすら茹でるのに苦労するような弱者女性を養わなければならない。
男女同権とはどういう状態かに、実際のところ全く興味がない。だからダブルスタンダードを連発することになる。
言うまでもなく「チー牛」という言葉は、男性が生み男性が流行らせた概念である。しかし男が男を嗤っているときに嗤われている側ではなく嗤っている側の男性、
社会的に強い立場の加害男性のほうに乗っかるところに、女性の本能を感じさせる。敵対する女性が強者男性と友好的な関係でいると「現地妻」「パンパン」「雌犬」と侮辱し始めるところも、非常に剥き出しの雌性である。
弱い男性への性犯罪者予備軍、チー牛、弱男、うんこしか産めない、という罵倒に加えて、彼女たちは高市内閣の三人の女性閣僚のような強者女性も嫌う。
まず、医大入試差別のようなド直球の女性差別について、ちょっと騒いだあとすぐ忘れている。あれも被害に遭ったのが医大受験するような強者女性だから、自分には関係がないことだからすぐ忘れているのだ。
前から彼女たちはDeNA南場智子やコーエー襟川恵子、井村屋中島伸子のような人物を存在無視するか嫌うかのどちらかだった。
彼女たちは男性に生まれようが女性に生まれようが成功したタイプだと思うが、こういう女性に存在されることが邪魔なのである。
能力の高い女性を決してロールモデルにせず「名誉男性」「資本主義の犬」扱いして憎むことを徹底しており、瑕疵を探し出しては難癖をつけていた。
「劣った女性のフェミニズム」に未来はない。高市早苗のようなたたき上げの強者女性を性的な侮辱語で口汚く罵ったことにより、彼女たちに理など何もないことが判明した。
やったーーーーーーー!!!
しかも総理大臣にもなっちゃうんだって!?うわーー!日本初女性総理!?!?!?すっげーーーー!
女性でもなれるって証明したのすごすぎ!!!なれないんじゃなかったんだ!これは後の人たちにとってとても大きなロールモデルじゃん!
みんなも喜ぼうよ!!!!
ついに高市早苗が自民党総裁に選ばれたな。初の女性総理の誕生だってことで、テレビもネットもお祭り騒ぎだけど、ちょっと待てよ、と。俺はどうしても手放しで喜べない。
たしかに、女性が総理大臣になるってのは画期的なことなんだろう。でも、その初の女性総理が、高市早苗であり、その前に都知事として名を馳せたのが小池百合子であるという現実に、俺はむしろ構造的な闇を感じる。
彼女たちに共通するのは何か? 優秀で、努力家で、そして「子供を産んでいない」ことだ。
結局、今の日本で女性がキャリアの頂点を目指そうと思ったら、出産や子育てという人生の選択肢を捨てないと無理、っていう何よりの証明じゃないか、これ。高市総理の誕生は、「女性もトップになれる!」という希望のメッセージなんかじゃない。「子供さえ産まなければ、女でも総理になれるぞ」という、あまりにも歪で残酷なメッセージなんだよ。
これのどこがロールモデルなんだ。多くの女性にとっては「やっぱり無理じゃん」っていう絶望的なモデルケースにしかならないだろ。
こういう社会構造の問題を無視して、「日本の伝統的な家族観が大事」とかフワフワしたことを言ってるのが、参政党みたいな連中だ。あいつらの言う「伝統」ってのは、結局、女性に「家庭か、仕事か」の二者択一を迫る古い価値観そのものじゃないか。高市みたいなキャリアを選べば子供は諦めろ、子供を産むならキャリアは諦めろ、と。そのどちらにも当てはまらず、仕事も子育ても両方必死でやってる大多数の女性たちの苦しみなんて、あいつらの頭には微塵もない。口当たりのいい言葉で現実から目をそらさせてるだけ。本当にタチが悪い。
俺が本当に「時代が変わった」と思えるのは、小渕優子みたいに、子育てしながら政治家としてキャリアを積み上げてきた人が、当たり前に総理大臣になる社会だよ。仕事と家庭の両立という、この国で最も過酷なタスクをこなしながらでもトップに立てる、という前例ができて、初めてスタートラインだ。
高市総理の誕生は、女性活躍のゴールじゃない。むしろ、いかにこの国が「子供を産む女性」に対して冷たく、不寛容であるかを象徴する、皮肉な記念碑みたいなもんだよ。
高市がロールモデルとして他と違うところはワークライフバランス崩れるくらい働いてるのに家庭ちゃんと持ってるところだからそこは抜いちゃいけないだろ