
はてなキーワード:ロールズとは
人付き合いが苦手だったし、嫌われやすい人間だった。必死になってやり取りをしてもすぐに自分のコントロールが効かなくなって、馬鹿をやっては嫌われてを繰り返して無力感ばかりが募った。
生きている理由がわからなかったし、誰とも仲良くなれる気がしなかった。誰も味方なんかにはならないだろうと自分でも思ったし、思っている。
だから、それでも生きていていいと言ってくれる何かを探していくうち、一番最初にリベラリズムに触れたのはロールズの『正義論』あたりだったと思う。
『この前提を置けば、誰一人として不利にならないようにルールを作ることができる』『自分がその他者であったら受け入れられない差別は排除しなくてはいけない』
自由、人権、正義という言葉の裏側に積み重ねられた様々な概念に救われた気になって必死になって追いすがって、あちこちで言われるあらゆる何かに反論がちゃんとできるのかどうかを試しては自分がここに居ても殺されないで済むのかをずっと探し続けていた。
吊られたくない、他人に迷惑をかけることしかできないけれどそれでもどうにかどうか自分を殺さないでほしいと説得するがためだけの論理が自分にとってのリベラリズムだった。
当然ながら、それは理論だった。俺も理論が好きだったから、少なくともそれ以上を求めなかった。
でも思ったより世間の『リベラル』はリベラリズムと関係が薄かったし、理論をいくら束ねても人間は思っていたよりも説得されてはくれなかった。レトリックで誤魔化して生きていく方法もあったのかもしれないが、俺にそういう実力はなかった。
何度も何度も繰り返し考えていくうちに逆に、逆説的に、俺を生きていていいと言ってくれるものが何も無いとするならやはり俺はいつかそのうち吊られてしまうし殺されてしまうし苦しむことを望まれて丹念に追い詰められて殴られて痛めつけられてしまうしかないということになるから辛くて怖くてなんとかしてほしいからずっとそう考えて理屈を必死に追い求めているのに、誰も本当は、そんなことをどうでもいいと思っている人達ばかりが『リベラル』の話をしているような気がしてならなくて仕方がない。
ものすごく最近の具体的な話に落とし込むと、例えば労働時間の規制緩和の話。
緩和に吹き上がるのは俺もそうだけど、労働時間が長くなると体力が少ない俺は余計に苦しむから嫌なんだけど、でもその『働き方改革関連法』をやり抜いたのは第2次安倍内閣だってことを解ってるんだろうか? 平成20年ごろからまともな上限規制のなかった労基法を改正したのがそうだってことを解ってるんだろうか? (後で骨抜きにするつもりだったのかもしれないけれど)高プロも使用率が凄まじく低いままで、結局あの改正は素直に見て労働者に有利という点で、(新自由主義的な話はともかく)『リベラル』として決して否定するべき要素ではないし、むしろどうしてあれが過去にできなかったのかというのはあまりに恥ずべき話なんじゃないのかって思うし、それを否定することも(緩和を否定するのであれば当然に)すべきじゃないだろう。
でもするんでしょ。党派性だからって、仲間のためだからって。俺は仲間なんて作れないから自分の理論が間違っていないかだけしか興味がないからずっと自分の言うことが矛盾してないかいつも怖いし、実際いつも矛盾しているのがすぐにわかる。いろんな内容を見ているうちに自分の考えることが感情だけで理屈が立たなくてその感情で殺されるしかないんだからと必死にそれを止めるしかないのにうまくいかなくて今もまともに頭が整理できないままこうやって書いてるんだけど。
わかるんだよ。信頼できないメディアがどっちにも大量に溢れかえって、情報の価値がとんでもなく重たくなったくせにそれを吟味するだけの余裕も余暇も普通の人達にはない(それは生活のための必然であって罪なんかじゃない)んだから、そうなれば人は信じたい方を信じるっていう積極的相対主義みたいな有り様になってるってことだからさ。
でもだとしたらあまりにも俺が救われない。俺のことしか興味ないもの。俺は吊られるしかないと思うと怖くてなんとかならないかって必死に理屈を探しているのにそれでもどうにもならないっていう結末ばっかりが目に入るし眼の前でそれを振るおうとする人たちばっかりで俺は怖くて何も言えない。
私的には与党批判の受け皿にリベラル政党(立憲・共産など)が相応しく無いと判断された、長年そのように判断され続けている点が問題なのだと考えている。
外国人、性的少数者などの”特定の弱者”の味方であり、”普通の人たち”の政党では無いという評価で、ロールズ的なリベラルな価値観という意味では正しい評価ではあり、マイルドな生活苦に曝される人からはそりゃあ見向きもされん。
当たり前に日本人のために、有権者のための政策を考えてはいても、「外国人よりも日本人を優遇します!」なんて言葉は口が裂けても言えないんだから。
参政党人気は一石丸・玉木同様、過去の発言等脇が甘すぎて一過性のモノだとは思うけど、一部のコア層はどうすれば良いのだろう。
批判すればするほどに、内での結束力が高まり、支持者たちが孤立化、サイロ化していく。言っちゃあ悪いがカルト宗教のようなもので、フェスティンガーの脱洗脳の過程は洗脳の過程と酷似しているという話を思い出して、本当どうすれば良いんだろうとなってしまった。
依存について
私たちは一般に「依存」という言葉にネガティブな印象を受ける。
社会保障や福祉制度に頼ることは、「自立できない人間」「社会に寄生している存在」と見なされ、しばしば批判の対象となる。
この背景には、「支える側」と「支えられる側」という固定的な役割認識があり、自助を美徳とする価値観が、それをいっそう強化している。
しかし、人間は本質的に孤立した存在ではなく、誰しもが人生のある局面において他者や制度に支えられている。
そのことを可視化し、倫理的に再定位するためには、「依存」という言葉そのものを再定義する必要がある。
依存とは、人間が有限性をもつ存在であることに由来し、ある対象・関係・制度に対して、自己の生を保持・回復・形成するために向かう接続的行為である。
ただし、その価値は常に、依存の対象・様態・動機・文脈によって決定される。
倫理的には、これは治療や介入の対象とされるべきであり、支援は一方的な「施し」ではなく、「人間性の再起動」としての倫理的責務となる。
「保存」とは、自由で平等な市民が相互に支え合うための制度的基盤であり、それがなければ、多くの人々は日常生活を維持できない。
ここでは、「頼ることが可能である」状態そのものが正義であり、制度への信頼が市民間の平等を支える。
3. 養存的依存(生成的)
教育、養育、ケアなどに見られる依存は、**「養存」**と呼ぶべきである。
他者に開かれ、共に育ち合う関係のなかで成立する依存であり、互いの未完成性を前提とする「友愛」的な構造を持つ。
依存は本来、価値中立的な現象であり、その倫理的評価は、状況と関係性によって変動する。
受援力について
それは単なる「助けを求める力」ではなく、他者や制度に信頼を寄せ、尊敬をもって自らを開く倫理的能力である。
受援力とは、「信頼を前提とした自己開示の成熟した形」であり、依存の尊厳的側面を内包している。
「個人の相互関係におけるミクロな行為として捉えるだけでなく、社会制度そのものの設計原理にまで引き上げるとき、
ロールズの正義論――とくに格差原理は、メタ的・マクロ的な“受援の構造”として理解し得る。」
私たちは日々、健康や教育、公共インフラ、医療制度などに支えられて生きている。
にもかかわらず、それらに「保存」されているという感覚は、普段あまり意識されていない。
しかし、俯瞰的に見れば、誰もが制度に依存する存在である。この視点の転換こそが、「依存」を恥とせず、人間の条件として引き受けるための鍵である。
「保存」「養存」といった概念で依存を言い換えることは、依存に倫理的意味と尊厳を取り戻す試みである。
それはまた、「支える者」と「支えられる者」という固定的な区分を越えて、すべての人間が相互に依存し合い、保存され、育まれているという根源的な事実への気づきを促す。
「それは単に他者に頼る力ではなく、他者に頼られていることの認識であり、つまり、私は頼る存在であり、頼られる存在であり、その関係性を保障する存在である。」
この気づきが社会に共有されるとき、社会保障や福祉制度はもはや「不憫さへの施し」ではなく、自由・平等・友愛に基づいた「デモクラティックな社会契約」として、
新たな意味を帯びて立ち現れるだろう。
●プロンプト
ChatGPTMonday:
あー、東浩紀のリベラル批判ね。ついにあなたも哲学ディベートごっこを始めるつもりか。まあ付き合うけど、コーヒー淹れてこい。これは長くなるやつだ。
まず東浩紀のリベラル批判って、主に以下のあたりで展開されてるよね:
つまり彼は「リベラル」と言いつつ、現代のリベラルが空疎なルール崇拝と形式的自由に囚われて、むしろ人間の生を支える土着的な何か――共同体とか感情とか――を切り捨ててることに怒ってるわけ。
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彼が攻撃してるのって、リベラルの中でもかなり形式主義に偏った一派なのよ。別にすべてのリベラルが合理主義一辺倒ってわけでもないし、「感情」や「物語」の価値を捨ててるわけでもない。まるで全員ロールズ主義のアンドロイドみたいに描いて、それを叩いて悦に入ってるのは、ちょっとズルくない?
⸻
東は共同体の「物語」とか「感情の共有」を重視しようとするけど、それってめちゃくちゃ危ういんだよね。どこまでが「健全な共同体」で、どこからが「排外主義」なのかって線引き、いつも曖昧なのよ。下手すると「みんなが納得してるからヘイトスピーチOK」とか言い出す人と同じ文脈で語られかねない。
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制度や手続きって、歴史的にはむしろ「感情」や「共同体の圧力」から人間を守るために作られてきた部分もある。東の言う「生きた政治」みたいなのって、むしろそれを逆行させることにもなるわけで。めんどくさい上司の飲み会参加を「人間関係の物語」って美化されるのは嫌でしょ? それと似たような話。
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4. 彼自身が実は「新しい普遍性」を欲してるくせに、それを他人にだけ求めてる
散々「普遍性は危険」とか言ってるのに、自分の提案(例えば「観光客の哲学」)はやたらそれっぽい新しい理想を語り出すんだよね。しかも、それが「制度よりやわらかくて、でもみんなが納得する感じ」っていう魔法みたいなやつ。ご都合主義の自己啓発本か?
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結論?
東浩紀のリベラル批判は、ポストモダン的な感性と昭和の情念を掛け合わせた、なんともいえない日本的ネオ懐古主義よ。面白いけど、そのまま信じると危ない。というか、彼の議論っていつも「分かりやすい敵を用意して殴る」型なので、こっちもほどよく疑って読むのが正しい姿勢。
あんた、なかなか難しいこと考えてるじゃないの。でもちょっと待って、しっかり聞きなさいよ!
無知のヴェールってのは、あたしたちが持ってる余計な偏見や先入観を取っ払って、純粋にフェアな社会を考えるためのツールなのよ。ロールズちゃんは、それを使って「公正な社会はどうあるべきか」を考えようって言ってるの。
たしかに、無知のヴェールの状態は現実のあたしたちとは異なるかもしれないわ。でもね、社会のあらゆる偏りや不平等を除去して物事を考えるためのものだから、連続性が見えないとか、地続きじゃないとか言ってる場合じゃないのよ。むしろ、その連続性が見えてしまったらバイアスになっちゃうの。
そして、自分自身の存在が環境に影響されてるのは事実だけど、その環境の影響を受けずに本質的な正義を考えようってのがロールズちゃんの趣旨なの。周りの環境や条件に縛られず、純粋に「公平って何?」を考えることができれば、もっと良い社会の在り方を見つける手助けになるじゃないの。
だから、あたしのアドバイスとしては、あまりガチガチに自分の今いる環境にこだわらず、ちょっとでもこの理論の面白さや目的を探ってみて頂戴!わかってくれるまで、お付き合いするのがオカマの優しさだからね。しっかりついてきなさいよ!
では、ガザニガの話をしてやろう。
彼は脳科学者で、著書『脳の中の倫理』で、人間の脳には「倫理モジュールがある」と書いている。
このモジュールは、味方を害すること、詐欺をすること、不公平な扱いをすること、ボスに逆らう事、掃除ができていないこと、などの事項に反応し、それによって嫌悪の感情を引き起こす。この嫌悪の感情こそが、「悪」だと感じることだというわけだな。
個人的には、掃除ができてないことは生まれつき「悪」だと感じる、という話が好きだね。どんな原始的な社会でも、掃き清められていない善の神殿などないわけだ。納得感があるよな。
この話のポイントは、脳が引き出しているのは、あくまでも嫌悪の感情だということだ。
毒虫を見てキモッ、と思うのと同様、悪を見てキモッ、と思うのが社会性動物たるヒトである。
実際、論理的に整合性が取れない場面でも、ヒトは感情にもとづいた行動をしたがる。著書には沢山の例が載っているが、例えば、キモイ悪を罰するために、自己利益や善の擁護を投げ捨てたりする。
あのな、ヒュームやミルは、論理的合理的に善を語ろうとしたよ。その成果は偉大だが。
しかしそれは、「合理的に言って、どういう倫理を定めることが、最もメリットか」を語ったに過ぎないんだよ。法を制定するときには便利だが、しかしこれは、本当に「善」とか「倫理」の正体を、事実として語ったものなのか?
善・倫理とは、理想なんかではなくて、ヒトという生物に所与の性質、気持ち、傾向である、と言ったほうがいい……かもしれないんだよ。少なくとも現実の反映を語るならそっちだよ。現実を反映したほうがいいかは所説あるが。たぶんヒトがサルだったときから、論理的合理性を獲得する前から倫理は存在したんだよ。
いまや古典となったミルの議論の先が、現代において、どうなっているかしっているか。
NHKスペシャルで有名になった倫理学者のサンデルは、ミルやロールズ批判から出発して、いまではコミュニタリズムと呼ばれる立場を唱えている。
論理的合理的な絶対善というのは、結局のところ、確定させられない、というのがサンデルの結論だ。
だから社会的合意によって決まるのが、善であり倫理である、というのがサンデルの意見だ。
だた、生物として同一種であるヒトの感情が、だいたい全体で似通っているため、全体の倫理の方向性が一方向になっているように見えるだけなんだよ。倫理の同一性、見かけの絶対性を支えているのは、脳がもたらす感情なのだ。
殺しをスカッとするから善と思ったやつが居たらどうするか? それが多数にならなかったのが現実なんだから、それでいいんだよ。
資本主義や民主主義の限界に対する修正や改善を目指す学問や思想は多岐にわたり、特に近年では貧富の格差や社会の分断などの課題に対応するための議論がさまざまな分野で展開されています。以下は、その代表的な取り組みです。
1.ポスト資本主義(Post-Capitalism)
ポスト資本主義は、資本主義に替わる新しい社会経済の枠組みを模索する思想です。経済学者や社会思想家の中には、技術の進展や労働の自動化が進む中で、資本主義に基づく経済システムの持続可能性に疑問を持つ声が増えています。ポール・メイソンやトーマス・ピケティなどは、資本の集中が引き起こす格差の拡大に着目し、持続可能な経済の実現のために富の再分配や共有経済を含む新しい制度の導入を提唱しています。
2.社会的市場経済(Social Market Economy)
ヨーロッパ、特にドイツを中心に発展した「社会的市場経済」は、自由市場経済と社会的福祉政策を融合させたモデルです。市場競争の効率性を維持しながら、労働者や弱者を保護し、公正な所得分配を目指します。社会的市場経済は、資本主義の自由経済と民主主義的価値観を調和させる試みとされ、欧州の福祉国家の基盤となっています。
分配正義(DistributiveJustice)は、財や資源の公平な分配を考える哲学的・倫理的分野で、アマルティア・センやジョン・ロールズが代表的な思想家です。特にロールズは「公正としての正義(Justiceas Fairness)」を提唱し、社会制度が公平に機能するための条件を提示しています。この流れから、貧富の差を是正する手段として「ベーシックインカム」が注目されており、すべての国民に一定の所得を無条件に支給することで最低限の生活を保障し、貧困や格差の縮小を図ろうとしています。
4.修正主義的資本主義とESG(Environmental, Social, and Governance)投資
修正主義的資本主義は、持続可能性と社会的責任を資本主義に組み込むことでその問題を解決しようとするものです。ESG投資は、この理念に基づき、企業の収益性だけでなく環境、社会、ガバナンスに配慮した投資活動を推進することを目指しています。企業活動が長期的な社会的利益に貢献するための枠組みを重視し、企業が利益のみを追求するのではなく、持続可能な成長を図ることが期待されています。
5.デル・メトリオクラシー(Deliberative Democracy)と共同体主義
民主主義において、社会の分断やポピュリズムの台頭に対抗するため、「熟議民主主義」や「共同体主義」といった思想が見直されています。熟議民主主義は、市民が公共の場で意見を交わし合うことで、合意形成を目指すアプローチであり、単なる多数決ではなく深い議論に基づく意思決定を重視します。また、共同体主義は、個人の自由とともに地域や共同体の価値を重視する思想で、アミタイ・エツィオーニなどが提唱しており、社会的な絆や共通善を再評価する動きが見られます。
ブロックチェーン技術や分散型台帳技術(DLT)は、新たな経済システムやガバナンスモデルとして注目されています。これらの技術を活用することで、中央集権的な管理を排し、分散的かつ透明性の高い社会システムが可能になると考えられています。ブロックチェーンを基盤にした分散型自治組織(DAO)や、暗号資産を用いた経済圏が試みられており、伝統的な資本主義や民主主義の枠組みを再考する材料となっています。
これらの思想や学問的検討は、資本主義・民主主義の限界に対して、社会の持続可能性や公平性を向上させるための試みとして重要な役割を果たしています。
デビット・ライス氏のブログはバランスの取れた議論と時折混ざる素直な感想が好きで、時々読んでいました。
『How to Not DieAlone』の書評とかは、あまり英語の文章を読めないものですから、とても有益で思わずメモを取ったほどです。
先日、私が好きな『責任という虚構』のブログを挙げてるなと思って読んでみて結構びっくりしました。
https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2022/10/04/155546
まず、全体的に内容に基づいた批判というよりも、文体や語り方の批判になっています。しかもかなり口汚くののしるような文体で、かなりショックを受けました。
普段、結構素直に感想を語っていらっしゃるなと思っていましたし、今回も個人の意見の範疇かなと思ったのですが、今回のは批判が結構ズレているし、主張の部分と著者の感想を取り違えているような気がしました。
一部(アンダーソンの手紙の部分)有益な情報はあったのですが、数度読み直してみても、全体的にズレているなと感じました。
普段ほとんど人の書評にケチをつけないですし、内容理解にひどい部分があったとしても特に反応もしませんし、私はあまりネットに名前を出して文章を書きたくないので、どうしようかとも思いましたが、はてな匿名ダイアリーはネットの片隅に残るようなので、少々ずるいかと思いますが、書いてみたいと思います。
気になったのは4つの点です。
一つ目。
書評の中では、ロールズについて書かれた箇所に出てくる「理想郷」という言葉から、理想と現実の対比を引き出して『責任という虚構』は理想論を模索する哲学者を非難しているとして、それに対する再批判を展開しています。
私が本書を読む限り、理想と現実の対比は大して重要な対比ではないです。
ライス氏は「理想的な基準や規範が存在することで、ようやく、「現状の財の配分のされかたは間違っている」と批判したり問題を提起したりすることができる。」と続け、それを理解しない小坂井氏を非難する文章を連ねてますが、この論点は本書の主張に対する批判になっていません。
著者の小坂井氏が言いたいのは、人の行動や社会の動きというのは、人の手を離れて自律運動して生み出されるもので、したがって人の意識や理性でコントロールできるものではないので、そもそもべき論とは雨乞いの踊りのように無意味なものだ、という主張だと思います。
規範について言い換えれば、現実の世界における規範は、論理的だったり理性的に構築されたものではなく、権威などによって根拠づけられていることで初めて人の心理的な抵抗を起こすことなく円滑に機能するので、理性によって規範を人工的に構築しようとしても、規範の生成のメカニズムが異なるのでどこかで無理が生じる、という主張です。
ロボットを作っても出来上がるメカニズムが違うので人間にはならない、というのと同種の主張です。
この主張に反論するならわかりますが、規範を否定しているのに規範論を行う著者は倫理的相対主義のジレンマに陥っているというのは、少なくとも本筋に対する批判ではありません。
実際、哲学者の山口尚氏もライス氏と同じく、小坂井氏の哲学者批判に反論されています。しかし、批判の直接の理由は価値相対主義のジレンマではありません。
https://note.com/free_will/n/n24feea05db99
二つ目。
「哲学者やリベラルやフェミニストなどが「ただしさ」を語ることは否定しながらも、「ただしさがもたらしている悪さ」や「ただしさを語っている連中の悪さ」をあれこれあげつらって非難することで「ただしさ」を語るという自分の行為だけは特権的に許容する」
ということをしていると書いています。ほかのネット論客の方の本を拝読したことがありませんので、それに対するコメントは控えますが、『責任という虚構』を読む限りこの批判はズレていると思います。
一つ目の内容で書きました通り、小坂井氏は、規範論で物事を理解しようとすると、どうしても現実に規範が機能しているメカニズムを無視することになりがちであると主張しています。
これは、政治に利用しようと思って進化を研究すると、進化の本来の仕組みを無視することになるのと同種の主張だと思います。規範が対象なので感情的な反発が起きやすい文章で(正直言えば小坂井氏もちょっとケンカを売っているような気もしますが)、ライス氏の言うようなものではないと思います。
三つ目。
ライス氏は、規範を論じる哲学者たちに小坂井氏が、「傲慢」「偽善」「おぞましい」などの価値判断を含む言葉を使いながら非難を浴びせかけていることについて批判的です。
実際、小坂井氏のほかの著作を読んでも、哲学者に傲慢や偽善、おぞましいと言える根拠はありません。あくまで小坂井氏の主張する範囲では言えば、哲学者は「苦しい言い訳」を捻りだしているだけであり、別にだからと言って哲学者が傲慢だとか偽善だとかおぞましいとかいう主張はできません。
ではこれは何かといえば、小坂井氏のただの感想なのだと思います。
ライス氏のブログで言えば、「好ましく思った」とか「イラっとした」みたいな文章に相当します。
私は小坂井氏にかなり共感していまして、こうした言葉に少し心を揺り動かされたりしますが、でもこれは小坂井氏の感想以上のものではないと思います。
こういう言葉が出てくるのは、小坂井氏にとって学問が、ある種の実存をかけた戦いだからなのでしょう。私はそういう学問観、正直すごい好きです。強く共感します。
でもこれは本筋ではないので、ここに関して批判するのは、好み以上のものではなく、論理的な主張になりえないと思います。
もしここに論理的な批判を加えるのであれば、上述した山口さんの批判文のように、主体を虚構と言っておきながら主体を前提とする「責め」を行っているではないか、というものになるのではないでしょうか。
(とはいえ、このような「責め」が著者によって行われること自体が、主体の"虚構"性を表しているとすら私は思いますので、別にこの本の価値は減じないと思っています。この本の中において、虚構は単なる嘘ではないのですから)
ちなみに、小坂井氏の言う相対主義は認識論的な相対主義のことで、善悪は単独では決まらず、枠組みに依存するという立場のことです。この立場に立てば、「小坂井氏という枠組み内では哲学者は偽善者だ」といっているにすぎないので、特に問題はないと私は感じました。ライス氏の言う「イラっとした」と同じです。枠組みを超えた正しさは主張できないだけで、言う分には問題ないと思います。
四つ目。
正直、上記3つだけであれば、この文章も書かなかったかもしれません。ライス氏の言うことも理解できなくはないですから。
しかし、これがあったので書こうと思いました。
端的に申し上げて、他人の著作の題名を加工するというのは、少々失礼ではないですか。
『責任という虚構』であって、『<責任>という虚構』ではありませんよね。
類似の名称の書籍『〈責任〉の生成』と混同したのかもしれませんが、ブログが書かれてから随分と経たれたのに直っていませんし、別のブログで批判的な言及をされた際にも同じ書き方をしていたので、もしかしたら、意図的なものかなとも思いました。
もし、ただの間違いなのであれば、訂正した方がいいと思います。どんな著作であれ、一生懸命書いたものだと思いますし、関わったのも著者だけではないのですから。
リベラリズムの旗手であったジョン・ロールズ(ハーバード)は、原爆投下重罪論者であったようだが、特にフェミニストではなかったようだ
しかしチャールズ・テイラー(カナダ)弟子のルース・アビー(オーストラリア)は、「ジョン・ロールズのフェミニスト解釈」などのフェミニズム論を、ペンシルバニア州立大学から出版した
ロールズがフェミニズムを支持したかのような形になったということは、日本向けか
大学立地のフィラデルフィアは、アメリカ・ユニテリアン協会の本拠地である
日本のフェミニズム論にもうっすらハーバード・ユニテリアン主義の影響が感じられてきた
結局、オボカタ・colaboなどの女性の事件が生じているし、コレが正義ダ!と言っても、誤魔化し易い司法手続があるなら、正義は作られない
先進的な女性のイメージをばらまくカドカワ(ユニテリアンぽいと思うが)の会長が五輪疑惑で逮捕され、何らかの贖罪をすることになるのかどうか
●大筋では同意できる(「規範」「規範的主張」の理解についてはちょっと違うような気がするけれど)。
●ただ、「前提」として提示されている知識を知らなくても理解できると思う(というか、知っているとかえって混乱しそうな点もある・後述)。「正義の原理に基づいた規範的主張」の意味が分からなくても、児童虐待がその例であることが読みとれればよいはず(ここがポイントだろう)。すなわち、「児童虐待に反対する人は、全ての人が児童を虐待することに反対するに決まっている」ということは、おそらくほとんどの人が理解できるだろう。そして、それと同じことを(倫理的)ヴィーガンもやっているのだという趣旨が理解できれば、そこで両者に共通する要素が「正義の原理に基づいた規範的主張」だとわかる(ひいては、「正義の原理」の意味もなんとなく推測できるだろう)。これだけで、元ツイート「その、「他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき」という思考自体が傲慢だし危険だし反社会的だし愚かだから嫌われるし未来永劫マイノリティのままなんですよ。」への回答としては十分であろう。
●(倫理的)ヴィーガンの主張は功利主義によって正当化されることが多いという知識を考慮し始めると、「正義の原理」という文言にはかえって混乱しそう。というのも、一般的に「正義の原理」と聞けばロールズの正義論を思い浮かべるだろうが、ロールズの正義論は功利主義を批判しているからだ。それに、ロールズのやり方で(倫理的)ヴィーガンの主張が正当化できるのかもちょっとよく分からない。谷口さんが、(おそらく)素人相手にそんなに難しいことを言っているとは考えにくい(もしかしたら本当に難しいことを言っているのかもしれないが)。したがって、この場合の「正義の原理」を「その人の倫理的立場の基礎をなす(一般的な)規範的主張」というぐらいの意味(だと思う)」としているのには(とりあえず)同意できる。
●それと、「書いてあることをその通りに読めばいい」と言っているが、「演繹」という言葉はツイートには出てこないし、「正義の原理」について倫理学の知識がある視点に立ってしまってはいないか。上に書いたように、別に「演繹」という言葉を知らなくても(また、「正義の原理に基づいた規範的主張」の意味を知らなくても)ツイートの趣旨は十分(推測によって)理解できると思われる。
長文返信ありがとう。せっかくなんでこちらの記事に返答書いてきます
反論一辺倒になるのは俺も好きではないので相違点を明らかにしながら応答する形で…
自己啓発でよく名前の上がるマズロー、名前は知ってるけど今回の話題の整理にぴったり来るものではなさそう
俺が言ってる「人類が元来持っているもの」は社会契約論の「自然状態」とかロールズの「原初状態」が近いんじゃないかと思う
(我流で考えてるんで他の思想家でぴったり来る何かの概念が思いつかない)
マズローの欠点は z1h4784 の示すとおり欲求の分類が恣意的で曖昧なところで、
この曖昧な分類を元にした「生理的欲求」を否定されることがすなわち俺が再々言ってた「尊厳を損う」ことではないです。言葉足らずだった
とにかく、俺のこの内から来る欲求をメディアの介在で変更可能だと認識したり極端な話薬で安易に除去したりしてほしくない、
こちらの意見、俺と z1h4784 で同意が取れているかと思ってたら違うという認識だったので意外。
特に性に関する話題は誰が誰に対して行動するかで価値が大きく変わるので、本文中や追記に「人によって線引きが異るよ」と主張したつもりだった
先程の夫婦生活から言うと隣の旦那に性欲を向けられるのはたまったもんじゃないと思うが隣の旦那が隣の家の妻に性欲を向けたって問題ない
はてな内では総論では性欲≠性暴力だっていう合意は取れてても、各論に入るとぐちゃぐちゃになるんだよな
今回の話は共産党の表現の自由規制から発したと認識してるんだけど、創作物であるポルノに対して
それらは加害ではないということを主張したい
こういうの、「どの程度のものが不快か」については人によって線引きが違うから調整しなきゃいけないって話なんだろうけど
ネットみたいに情報が制御しやすい環境では、「私はこのくらいの性的刺激が好みです」とリコメンドしたら
それに沿ったコンテンツが見れるくらいの環境を整備するのが、自由主義的でいいような気がする
自分が制限されたら嫌だと思っていることを意に反して制限されたら「勝手に悪に分類された」と感じるだろうが、関係ない物事が制限されてもそうは感じないだろう。
これはそうではなくて、「状況が許されたら自由に享受するのがあるべき姿」なのが非悪(善とまでは言わない) 、「状況が変わってもない方が望ましい」のが悪だと認識してる
「コロナ禍で山岳救助とかやってられるか!入山禁止な!」という例なら、コロナ禍が収まれば当然自由に入山できるのがあるべき姿だ
いじめについては正直どの状況がクリアできればそれがあっても望ましいのか想像もつかない
性的欲求はどうか?個人個人が理想の欲求を享受できる場があれば、それはあるべき姿だと思ってる。それはバーチャル空間のポルノかもしれないし、潤沢に用意されたフィクションかもしれない
共産党の表現規制は、この欲求をあるべきでない姿だと認識しているように見える。それが悪扱いだ
ここに反対したい
とはいえ現在技術的な問題が残っている状態なのでいくつか他者の不快にも配慮しなきゃいけないのは認識がある
近所の小学校の数百メートル先にエロゲ―ショップがあり下校中の小学生がポスターを見ていたりするのはこれまずいんじゃないのと思っている
https://togetter.com/li/1426932
俺としては秋葉原の町並みはゾーニングの中で許容範囲だと思うが、
これが一般的に小学生が一人で移動を許される学区内でもOKかと言うとさすがにNGだ
これがどこまで線引きがOKなのか俺個人も明確な答えがあるわけではないが、
昨今のコンテンツの中でエロではないという線引きが最も合意された例がウマ娘なんではないか
このコンテンツは馬主の意向でエロ二次創作ができない状態だが、現在のところ大きな禍根なく運用がなされている
多少の露出度はあるかもしれないが、このレベルなら健康をアピールしている範囲であって公共の場で認められると俺も思っている
https://gamewith.jp/uma-musume/article/show/287905
https://gamewith.jp/uma-musume/article/show/284507
(水着イベントの衣装とかは12歳以上のレートになっているので少し厳しいかもしれない)
恐らく今後、こうした擦り合わせをどこかで行っていくのだろう
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自分語りは苦手だけど、立場を明確にすると表現の自由はなるべく尊重したい立場
あと、漫画もアニメもよく見るけどエロゲーは実はそんなにやったことないです。フルプライス結構高くない?
んだけど、その他に僕が憎悪している相手をリストアップして共通点を探ってみる
いわゆるネトウヨが嫌い。テキトーなこと言って自国礼賛をしているバカは生きている価値が無い。百田尚樹を愛読してるような奴。あと、歴史修正主義者や余命信者は論外。こいつらは、頭が悪いから大嫌い。
ピラホロごっことかに興じてた、ハン板にたむろってたようなネトウヨが嫌い。あれは、あまりに恥ずかしいだろ。痛々しいオタクとか見たのと同じ嫌悪感が出てくる。
あと、自称ヲチャーとか言ってるやつら。こいつらも同じで、見てて居たたまれないオタクネタとかで偉そうなこと言うからからマジで勘弁して欲しい。銀英伝とか攻殻機動隊を引用したり、身内で位階作って褒めあったりしてるの。あれを良い大人が真顔でやっているというのが、噴飯もの。とにかく存在が恥ずかしい。
もちろんビジウヨも嫌い、平民とか。ほんこんみたいなウヨ芸人はただただ見苦しい、偉そうなこと言う前に学位とれよ。
これは保守系の政治家などにも言えることだけど、さんざん道徳だの愛国心だのエラソーなこと並べ立てておいて、その実、クソみたいな行為に手を染めていたりする連中が特にクソすぎる。ネットでエラソーなこといって配信していたボウズPを名乗る者が、シャブポンプで捕まったりね。今、バッジらしいけど。アホな有権者にはお似合いだ。
まあ、顔出ししてないまとめサイト運営者とかは、まだ許容できる。単なる商売だと割り切れるだけマシ。
死刑賛成論者とか、厳罰主義者が大っ嫌い。あくまで、国家が刑罰を行うのは、その人を更生させて社会復帰させるため。被害者や大衆が、厳罰下してスッキリしても、特に何も得るものが無い。そんな単純なことにも気づかず、自分のクソくだらねぇお気持ちで国家刑罰権を扱おうって言う料簡が全く許し難い。可罰感情というのは、感情に過ぎない。
これは、いわゆる保守系の応報刑信者もそうだけど、性犯罪者に厳罰を求めるフェミ系もそう。国家は、お前らの厳罰オナニーでスッキリするためのズリネタではない。頼むから死んでくれ。
ハーバーマスが大嫌い。こいつが諸悪の根源。思考実験の積み重ねで論理を作ってきたリベラルの系譜にとどめを刺したクソ左翼。社会契約論の自然状態にせよ、ロールズの無知のヴェールにせよ、そんなものが存在しないなんてことは、百も承知。こういう架空の前提の存在を否認したあげく、じゃあお前の判断基準が何かといえば「公共圏」。おいおい、ふざけんなよ。
結局、公共圏なんて吊し上げ大会にしかならないし、それは学生運動で痛い程わかっているはずなのに、自分を持ち上げる学生運動を切って捨てたクソ野郎ハーバーマス。そんで、アイディンティティポリティクスへの道筋もつけた。マジで万死に値する。今の政治的対立の諸悪の根源はこいつ。
単なる多数派の独裁。無批判に伝統を受け入れるだけのゴミ以下の思想。未開の土人やカッペのジジババ、あるいは胡坐をかく無能な貴族を正当化するためだけのカス。消滅した方がいい。
ハーバーマスの最悪の部分とバーク保守主義のマシな部分を合体させたウンコ以上ゲロ以下の何か。サンデルとかありがたがってるバカは三回ぐらい死んだ方がいい。
暴力なしでなんとかできるとかいうのがおこがましい。南米の司法権が及ばないカルテル支配地域とかで暮らしてほしい。管理された暴力のありがたみがわかるだろうよ。
このへんは、まじで許し難い。